竺佛念,涼州人,弱年出家,志業清堅,外和內朗,有通敏之鑒。諷習眾經,粗涉外典,其《蒼》、《雅》詁訓,尤所明達。少好遊方,備觀風俗,家世西河,洞曉方語,華戎音義,莫不兼解,故義學之譽雖闕,洽聞之聲甚著。
竺佛念は涼州の出身である。若くして出家し、その志は清らかで固く、外は穏やかで内は明るく、物事を飲み込み理解する才があった。多くの経典を誦習し、世俗の書物にも広く親しんだ。特に『蒼頡篇』や『爾雅』といった字書の解釈に精通していた。若い頃から旅を好み、各地の風俗を見聞した。家は代々西河にあり、現地の言葉を深く理解し、中国語と異民族の言葉、その発音と意味を自在に解した。そのため、義学(教理研究)の評判はさほどでなかったが、博識な人としての名声は非常に高かった。
符氏建元中,有僧伽跋澄、曇摩難提等入長安,趙正請出諸經,當時名德莫能傳譯,眾咸推念,於是澄執梵文,念譯為晉。質斷疑義,音字方明。至建元二十年正月,復請曇摩難提出《增一阿含》及《中阿含》。於長安城內,集義學沙門,請念為譯,敷析研覈,二載乃竟。二《含》之顯,念宣譯之功也。自世高、支謙以後,莫踰於念,在符姚二代,為譯人之宗,故關中僧眾,咸共嘉焉。後續出《菩薩瓔珞》、《十住斷結》及《出曜》、《胎經》、《中陰經》等,始就治定,意多未盡,遂爾遘疾,卒于長安,遠近白黑,莫不歎惜。
符氏の建元年中に、僧伽跋澄(そうぎゃばつじょう)や曇摩難提(どんまなんだい)らが長安に入った。趙正が諸経の翻訳を請うたが、当時の名高い僧侶たちは誰も翻訳の任に堪えられなかった。そこで皆が竺仏念を推挙した。こうして僧伽跋澄が梵文(原文)を唱え、仏念がそれを晋の言葉に訳した。疑問の箇所を断じ、音や字の意味を明らかにした。
建元二十年正月、再び曇摩難提に『増一阿含経』と『中阿含経』の翻訳を依頼した。長安城内で義学の僧侶たちを集め、仏念に翻訳を請い、詳しく説き明かし、考察し検証して、二年かけてようやく完成した。この二つの『阿含経』が世に現れたのは、仏念が翻訳に力を尽くした成果である。
世高(安世高)や支謙(支婁迦谶)の後、仏念を超える者はいなかった。符氏・姚氏の二代にわたり、翻訳者の宗匠とされた。そのため関中の僧侶たちは皆、彼を讃えたのである。
その後も『菩薩瓔珞経』『十住断結経』『出曜経』『胎経』『中陰経』などを次々に翻訳したが、ようやく校訂を終えたばかりで、その意図を十分に発揮しきれないうちに、病に倒れ、長安で亡くなった。遠近の僧侶や在家の人々は、皆その死を惜しみ嘆いた。