No. 764-A大乘起信論續疏自序
大乗起信論続疏自序
大雄氏現相人中。雖說無量法門。若統其歸趣。唯是一心。若滙其流派。則有三宗。曰法相。曰破相。曰法性而已。言法相者。謂依生滅八識。建五位。開百法。立三性。分二我。行必資於漸滿。惑必期乎漸斷。果必立乎三祇。故有六度可修。有無明可克。有菩提可證。其于教也為漸。此法相之大旨也。
大雄氏が人の中に現れて、無量の法門を説かれたが、その帰趨を統べてみれば、ただ一心に尽きる。その流派を集めてみれば、三つの宗がある。すなわち法相・破相・法性である。法相とは、生滅の八識に依って五位を建て、百法を開き、三性を立て、二我を分かち、行は漸く満つるを資とし、惑は漸く断つを期し、果は三祇に立つ。ゆえに修すべき六度あり、克つべき無明あり、証すべき菩提あり。その教えは漸に属する。これが法相の大要である。
言破相者。謂依寂滅一心。直顯真性。不說法相。一切所有。唯是妄想。一切法界。唯是絕言。五法三自性俱空。八識二無我悉遣。訶教勸離。毀相泯心。生心即妄。不生即佛。無六度可修。無無明可克。無菩提可證。其于教也無頓。此破相之大旨也。
「相を破る」とは、静寂な一心に基づいて、真の本性を直接示すことであり、法の形相については語らないことです。すべての存在は、ただ妄想に過ぎません。すべての法界は、言葉を超えています。五法や三自性はすべて空であり、八識や二無我もすべて断ち払われます。教えを責め、離れることを勧め、形相を打ち壊し、心を消し去ります。心が生じればそれは妄想であり、生じなければそれが仏です。六波羅蜜を修行すべきものもなく、無明を克服すべきものもなく、菩提を証すべきものもありません。教えの上では、頓悟もありません。これが相を破る大まかな趣旨です。
若夫法性者。統依寂滅一心。而有六粗三細。故開真如門以顯空諸所有。立生滅門以明實諸所無。雖真如廓爾。而果報不失。雖惑業紛綸。而法性不動。即性即相。即空即有。即妄即真。其于教也為頓悟漸修。此法性之大旨也。
法性とは、ただ静まり尽くした一つの心を根本としながら、そこから六つの粗い迷いと三つの細かい迷いが生じるものです。そこで、真如の門を開いて「すべてのものは空である」ことを示し、生滅の門を立てて「本来無いものが実在するかのように現れる」ことを明らかにします。真如は広大無辺でありながらも、因果の報いは失われることがありません。迷いや煩悩が入り乱れていても、法性は決して動じません。本質と現象は一つのものであり、空と存在も一つのもの、迷いと悟りも一つのものです。教えとしては、頓悟と漸修の両方が説かれています。これが法性の大きな要旨なのです。
故宗法相者。謂真如不變。不許隨緣。但說萬法皆從識變。而事事俱有。其獘也流而為常。為執著宗。
故に法相宗は、「真如は不変であり、縁に従って変化することはない」と説く。そして、すべての現象は識によって生じるものであり、一つひとつの事象には確かな実体があるとする。しかし、この考え方の誤りは、常に固定された見解にとらわれ(常見)、こだわりや執着を生み出してしまうことにある。
破相者。謂緣生之法。不入法性。故說三界唯是一心。而法法皆空。其獘也流而為斷。為莽蕩宗。
法相を破るとは、縁起によって生じる諸法は法性(真実の本質)に入らない、と言うのです。それゆえ、三界はただ一心に過ぎず、あらゆる法は空であると説かれます。しかし、その弊害は「断滅」の見解に流れ、無分別な空にのめり込む「莽蕩宗」となることです。
法性者。謂真如不變。隨緣而能成一切法。故無法法俱空之獘。由真如隨緣不變。而能泯一切法。故無事事俱有之偏。此則空有迭彰。執蕩雙遣。故知即萬法以顯有者為妙有。離萬法以顯空者為真空。不即不離以顯中者。即真空以顯妙有。故雖空而不空。即妙有以顯真空。故雖有而不有。然前之二宗。雖建立不同。各有妙旨。而馬鳴總以一心九識統之。若鼎之三足。伊之三點。不縱不橫。不離不即。實與楞嚴一心三觀之旨。並行不悖。此馬鳴一論。尤為圓通無礙。獨出無對者也。
法性とは、真如が不変でありながら、縁に従って一切の法を成すことをいいます。そのため、すべての法が空であるという偏った見方は生じません。また、真如が縁に従いつつも不変であることにより、一切の法を消滅させる作用もあるため、すべての事物が実在するという偏った見方もありません。これにより、空と有が互いに現れ、執着と偏見の両方が取り除かれます。
したがって、あらゆる現象を通して示される有は「妙有」であり、現象を離れて示される空は「真空」です。「即」でも「離」でもない中道は、真空によって妙有を明らかにするものなので、空でありながら空でなく、妙有によって真空を明らかにするものなので、有でありながら有ではないのです。
さて、先ほどの二つの宗派(空宗・有宗)は、その立て方に違いはあっても、それぞれに深い教えがあります。しかし、馬鳴菩薩は、それらを一心と九識によって総合的にまとめました。これは、鼎の三本足や、伊の字の三つの点のように、縦でも横でもなく、離れてもおらず、一つでもない関係にあります。この教えは、『楞伽経』における一心三観の教えと並行して、互いに矛盾しません。この馬鳴菩薩の一論は、特に円満で通達し、障りがなく、他に並ぶものがないほど優れているのです。
是論之作。菩薩有釋。賢首有疏。永明主此論而作宗鏡。故集宗鏡中互相發明者作續疏。言續疏者。是續賢首之疏。以顯不外賢首。亦不盡賢首也。其中以有法立總別三量為一論提綱。智者即量以通論。則不唯了法性一宗。併可了法相破相二宗也已。
この論書が作られた経緯について。菩薩による解釈があり、賢首による注釈書もある。永明大師はこの論をもとに『宗鏡録』を編纂した。そこで、『宗鏡録』の中で互いに論を明らかにしている部分を集めて、続く注釈書とした。これを「続疏」と呼ぶのは、賢首の注釈を継承し、賢首の教えの範囲を超えないこと、しかしそれに完全に留まらないことを示している。その中で、法の有無に関して三つの認識の基準(三量:現量・比量・聖教量)を立て、これが一篇の論の骨子となっている。智慧ある者はこの基準によって論を理解すれば、法性の一つの宗派を明らかにするだけでなく、(性相融会して)法相宗や破相宗の二宗をも明らかにすることができるのである。