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title: "六度集經 · 74 〔得禪法〕"
description: "六度集经由三国时期吴国高僧康僧会编译，成书于公元3世纪。该经书主要辑录佛陀本生及修行故事，系统阐述大乘佛教的核心实践体系——布施、持戒、忍辱、精进、禅定、智慧六种度脱生死的方法。作为早期汉传大乘佛教的重要经典，它首次系统地将六度思想完整引入中土，对中国佛教伦理实践和菩萨道精神的形成具有奠基性作用。该经既是研究汉魏佛教传播的关键文献，也是修行菩萨道的重要指南。"
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### （七四）

> 第74章

「禪度無極者云何？端其心，壹其意，合會眾善，內著心中，意諸穢惡，以善消之。凡有四禪：一禪之行，去所貪愛五妖邪事，眼覩華色心為淫狂，去耳聲、鼻香、口味、身好，道行之志必當遠彼。又有五蓋：貪財蓋、恚怒蓋、睡眠蓋、淫樂蓋、悔疑蓋。有道無道，有佛無佛，有經無經，心意識念，清淨無垢，心明覩真得無不知，天龍鬼妖所不能惑。猶人有十怨脫身離之，獨處山間眾所不知、無所復畏，人遠情慾，內淨心寂，斯謂一禪。心獲一禪進向二禪，第二之禪，如人避怨，雖處深山懼怨尋之，逾自深藏，行家雖遠十情慾怨，猶恐慾賊來壞道志，得第二禪，情慾稍遠不能污己。第一之禪，善惡諍已，以善消惡，惡退善進。第二之禪，喜心寂止，不復以善住消彼惡也。喜善二意，悉自消滅，十惡煙絕，外無因緣來入心者。譬如高山其頂有泉，無流入者，亦非龍雨水自內出，水淨泉滿，善內心出，惡不復由耳目鼻口入，御心如是，便向三禪。第三之禪，守意牢固，善惡不入，心安如須彌，諸善不出。外事善惡寂滅不入，心猶蓮華根莖在水，華合未發為水所覆。三禪之行，其淨猶華，去離眾惡身意俱安。御心如是，便向四禪。善惡皆棄，心不念善亦不存惡，心中明淨猶琉璃珠，又如士女淨自沐浴，名香塗身，內外衣新，鮮明上服，表裏香淨，菩薩心端獲彼四禪。群邪眾垢無能蔽其心，猶若淨繒在作何色。又如陶家埏埴為器，泥無沙礫任作何器。又猶鍛師熟煉名金，百奇千巧從心所欲。菩薩心淨得彼四禪，在意所由，輕舉騰飛，履水而行，分身散體，變化萬端，出入無間存亡自由。摸日月，動天地，洞視徹聽靡不聞見，心淨觀明得一切智，未有天地眾生所更，十方現在眾心所念，未萠之事，眾生魂靈為天為人，入太山、餓鬼、畜生道中，福盡受罪，殃訖受福，無遠不知。夫得四禪，欲得溝港、頻來、不還、應儀，各佛如來、至真平等正覺、無上之明，求之即得。猶若萬物皆因地生，自五通智至于世尊，皆四禪成，猶眾生所作非地不立。眾祐又曰：『群生處世，正使天帝仙聖巧黠之智，不覩斯經，不獲四棄之定者，猶為愚矇也。』既有智慧，而復一心即近度世。此為菩薩禪度無極一心如是。」

> 禅定の完成とは何でしょうか？それは心を正しくし、意識を一つに集中し、あらゆる善を集めて心の中に納め、心の中のあらゆる汚れや悪を善によって消し去ることです。これに四つの禅定があります。 第一の禅定は、貪り愛する五つの邪悪なものを捨て去ることです。すなわち、目で美しい色を見て心が淫らに乱れること、耳で音を、鼻で香りを、舌で味を、身で触感を求めることから離れ、道を求める志は必ずそれらを遠ざけなければなりません。また、五つの覆い（五蓋）があります。財産への執着の覆い、怒りの覆い、眠気の覆い、淫楽の覆い、後悔と疑いの覆いです。道があろうとなかろうと、仏がいようといまいと、経典があろうとなかろうと、心と意識と念は清らかで汚れがなく、心が明らかになり真実を見れば、知らないことはなくなり、天・竜・鬼・妖も惑わすことができません。まるで人が十人の怨敵から逃れ去り、一人で山間に住み、誰にも知られず、もはや何も恐れることがないかのようです。人が情欲を遠ざけ、内側が清らかで心が静まること、これを第一の禅定といいます。 心が第一の禅定を得て、さらに第二の禅定へと進みます。第二の禅定は、人が怨敵を避けて深山に住んでも、なお怨敵が追ってくるのを恐れ、さらに深く隠れようとするようなものです。行者は十の情欲という怨敵から遠く離れていても、なお欲という賊が来て道を志す心を壊すのを恐れます。第二の禅定を得れば、情欲は次第に遠ざかり、自分を汚すことができなくなります。第一の禅定では、善と悪が争い、善によって悪を消し、悪は退き善が進みます。第二の禅定では、喜びの心が静かにとどまり、もはや善によって悪を消し去ろうとはしません。喜びと善の二つの心も、すべて自然に消え去り、十の悪は煙のように絶え、心に入ってくる外からの因縁もなくなります。例えて言えば、高い山の頂上に泉があり、流れ込む水もなく、竜の雨でもなく、水が内部から湧き出て、泉は清らかに満ちているようなものです。善が心の内から生じ、悪はもはや耳・目・鼻・口から入ってこないのです。このように心を制御すれば、第三の禅定へと向かいます。 第三の禅定は、意識をしっかりと守り、善悪ともに心に入らず、心は須弥山のように安らかで、諸々の善も外に出ません。外界の善悪の事柄は静かに消え去り心に入らず、心はあたかも蓮の根や茎が水中にあって、花が閉じてまだ開かず、水に覆われているかのようです。第三の禅定の行いは、その清らかさが蓮の花のようであり、さまざまな悪から離れて身も心も安らかになります。このように心を制御すれば、第四の禅定へと向かいます。 善悪ともに捨て去り、心は善を思うこともなく、悪を保つこともありません。心の中は明らかで清らか、あたかも琉璃の玉のようです。また、女性が清らかに沐浴し、名香を身に塗り、内外に新しい衣をまとい、鮮やかな上着を着て、表も裏も清らかで香しいようなものです。菩薩の心が正しく整い、第四の禅定を得れば、あらゆる邪悪なものや汚れもその心を覆い隠すことができません。ちょうど清らかな絹がどんな色にも染まるように、あるいは陶工が土をこねて器を作るのに、土に砂利が混じっていなければどんな器でも作れるように、また鍛冶屋が名高い金を熟練して鍛え、どんな細工も思いのままにできるように、菩薩の心は清らかで第四の禅定を得れば、思いのままに、軽やかに空に舞い上がり、水の上を歩き、身を分け散らし、万端に変化し、出入りは自由自在、生死も自由です。太陽や月を撫で、天地を動かし、透徹して見渡し、聞こえないものはなく、心清らかに観察し明らかになって一切智を得ます。天地がまだなく、衆生がまだ経験していないこと、十方に現在する衆生の心が念じていること、まだ芽生えていないこと、衆生の魂が天や人となり、太山・餓鬼・畜生の道に入り、福が尽きて罪を受け、災いが終わって福を受けることなど、遠くても知らないことはありません。 第四の禅定を得れば、預流果（溝港）、一来果（頻来）、不還果、阿羅漢果（応儀）、独覚仏（各仏）、如来・至真・等正覚・無上の智慧（無上正等正覚）を求めれば、即座に得られます。あたかも万物がすべて大地によって生じるように、五通の智慧から世尊に至るまで、すべて第四の禅定によって成就します。ちょうど衆生のなすことが大地なしには成り立たないようなものです。 衆祐（釈尊）はまたこう言われました。「人々が世に生きていて、たとえ天帝や仙人、聖者たちの巧みな知恵を持っていても、この経典を見ず、四つの捨て去る禅定（四棄の定）を得なければ、やはり愚かで蒙昧な者である。」智慧があり、さらに心を一つにすれば、すなわち解脱に近づくのです。これが菩薩の禅定の完成であり、心を一つにすることです。