佛說陀羅尼集經翻譯序
仏説陀羅尼集経翻訳序
若夫陀羅尼印壇法門者,斯迺眾經之心髓、引萬行之導首。宗深祕密,非淺識之所知;義趣冲玄,匪思慮之能測。密中更密,無得稱焉。
陀羅尼の印と壇の法門については、これは諸経典の心髄であり、すべての修行を導く先駆けである。その宗旨は深遠で秘密であり、浅い理解では知り得ない。その義趣は幽玄で、思考では測り知れない。密の中のさらに密なるものであり、称えることもできないのである。
有高德沙門厥號阿地瞿多(唐言無極高也),是中天竺人也。法師聰慧超群、德邁過人,弱冠慕道,歷五竺而尋友,低心躍步而諮法要,故能精練五明、妙通諸部。意欲運西域之法水、潤東夏之渴仰,判身許于險難,務存弘道之心,跋山巖而不疲、涉沙流而無倦,頂戴尊經向斯漢地。永徽二年正月,屈于長安,奉勅住慈門寺。但法師含珠未吐,人莫別于懷珍,雅辯既宣,方知有寶(云云),故能決眾疑,言皆當理。然則經律論業傳者非一,唯此法門未興斯土,所以丁寧三請,方許壇法。
ある高徳の沙門があり、その名を阿地瞿多と号す。唐の言葉で「無極高」という意味である。この方は中天竺の人である。法師は聡明で知恵が群を抜き、徳もまた人に勝れていた。二十歳の頃に道を慕い、五天竺を歴遊して友を求め、心を低くし歩みを進めて法の要を訪ねた。それゆえ五明を精練し、諸部に妙通していた。西方の法水を運んで東方の国の渇仰を潤そうと思い、身を険難に投じることを決意し、弘道の心を務め、山や岩を越えても疲れず、河や砂漠を渡っても倦むことがなかった。尊い経典を頂いてこの漢の地へと向かったのである。
永徽二年の正月、長安に到着し、勅命により慈門寺に住した。しかし法師は宝を持ちながらまだそれを示さず、人々はその中に珍しいものを蔵していることに気づかなかった。やがて雅やかな弁舌が示されるようになると、ようやく宝があることを知った。それゆえ人々の疑いを解き、言葉はすべて理にかなっていた。経・律・論の教えを伝える者は一人ではなかったが、ただこの法門だけはこの国にまだ興っていなかった。それで丁寧に三度請願して、ようやく壇法を許したのである。
三月上旬赴慧日寺浮圖院內,法師自作普集會壇,大乘琮等一十六人,爰及英公、鄂公等一十二人,助成壇供,同願皇基永固,常臨萬國,庶類同沾,皆成大益,其中靈瑞恐繁不述(別在傳記)。
三月上旬、慧日寺の仏塔院に赴いた。法師みずから普集会壇を設け、大乗琮ら十六人、さらに英公・鄂公ら十二人がともに壇供を助け成した。同じく願うところは、皇基が永遠に固く、常に万国に臨み、あらゆる者が恩恵をこうむり、みな大きな利益を得ることである。その間の霊妙な瑞相は数多く、ここでは述べない(別に伝記に記されている)。
余慶逢此法,不勝忻躍,躬詣翻經,所悕翻廣本屢值事鬧,不及陳請,恐幻質遷謝失于大利,便請法師于慧日寺宣譯梵本,且翻要抄一十二卷,竪興國之洪基、存隆民之祕寶歟。
この法に出会えたことは、この上ない喜びであり、私は自ら翻経の場に参じ、広本の翻訳を願い出た。しかし、何度も公務に忙殺されて、その願いを果たすことができなかった。この儚い身が滅びてしまえば、せっかくの大きな利益を失ってしまうことを恐れ、慧日寺の法師に梵本の宣訳をお願いし、まず要点を抄出した十二巻を訳出していただいた。これは国の繁栄という大きな基盤を築き、民の安寧を保つための尊い宝である。
從四年三月十四日起首,至永徽五年歲次甲寅四月十五日畢。以後頻頻勅追法師入內,邂逅之間無暇復校。
永徽四年(西暦653年)3月14日に翻訳を開始し、永徽五年(西暦654年)4月15日に完了しました。その後、皇帝はしばしば法師を宮中に招き入れましたが、その合間には原本を見直す暇がありませんでした。
此經出《金剛大道場經》,大明呪藏分之少分也;今此略抄擬勘詳定,奏請流通天下普聞焉。
この経典は『金剛大道場経』から出たもので、大明呪蔵の一部にすぎません。今、この略抄を詳しく調べ定め、奏上して天下に広く流布させ、人々が広く聞くことができるように願い出るものです。
陀羅尼集經卷第一(此卷印呪有二十九)
陀羅尼集経 巻第一
大唐天竺三藏阿地瞿多譯
大唐インド三蔵アディグタ訳