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大威徳陀羅尼経 (大威德陀羅尼經)


大威德陀羅尼經卷第八

大威德陀羅尼經 巻第八

隋北印度三藏闍那崛多譯

隋北インド三蔵闍那崛多訳

「阿難。何者一猛健?從凡夫地來一切眾生中,若能迴向發菩提心,彼名為猛健,為一切眾生所歸依處,為一切眾生於中當觀、菩薩之行於中應觀、菩薩之智於中應觀。以何事故言菩薩行?云何名菩薩行?若有菩薩作菩薩行相,彼人不得名為菩薩,是亦不發彼如是行。凡所有行一切世間不可信者,謂菩薩行耶?云何名為菩薩行?如一切行中當不生實相。何以故?如來曾說以菩提故名為菩薩。言菩提者,非婦女非丈夫、非眾生非養育、非命非福伽羅。阿難!如是若非婦女、非丈夫、非眾生、非命、非養育、非福伽羅、非菩薩,以是義故,彼非眾生不名菩薩也。彼等所行不可得說。何以故?然彼等善丈夫,於施戒中、於調伏中、禪定中行。彼等眾生住於彼中,若有施因、若有調伏因、有持戒因、所有禪定因,彼名菩薩耶?如是因者,彼不從東方來,亦不從南方來,亦不從西方來,亦不從北方來。如是菩薩行不可思議。以何等諸法名不可思議?所謂以布施不可思議、以調伏不可思議、以發誓不可思議、以戒定智不可思議。彼人長夜行於持戒,以是義故,名戒眾生也。以何事故名不可思議?以調伏故。彼於長夜行調伏故,是故彼言調伏眾生不可思議。彼何故名不可思議?以彼人長夜行誓願故,是故彼名發誓眾生不可思議。彼復以何事名不可思議?以智慧故名不可思議。何以故?彼人次第行般若、次第學般若。彼何者次第學般若?名比鉢舍那,般若中彼人次第曾學故。名毘鉢奢迦,彼已學。復名成就印業入學般若,是故彼名成就業也。已學普明所作智中故,彼名彼世間光明也。彼人已學不共他智故,名不共智法也。彼人已學不破戒智故,名拔毒箭也。彼人已學斷諸疑智,是故彼名能斷一切疑也。彼人已學海等業智故,名彼等為多聞海。彼人已學一切成就作業巧智,是故彼名大有眷屬也。彼人已學無畏之句不破壞智,是故彼名摧他論師。不為他論所摧伏也,故名能破他論耶。阿難!菩薩已學如是般若中,當向成就於阿耨多羅三藐三菩提。而彼如是般若智慧,當斷渴愛、當得深心、當得如帝釋幢不動不轉、當得無畏。成就業故,名彼無畏者。彼等已學故,名無畏勇健也。

「阿難、何が一つの猛健か。凡夫の境地から、すべての衆生の中で、もし回向して菩提心を発することができるならば、それを猛健と名づける。それはすべての衆生の帰依処となり、すべての衆生はそこで観察すべきであり、菩薩の行をそこで観察すべきであり、菩薩の智慧をそこで観察すべきである。どのような理由で菩薩行と言うのか。どのように菩薩行と名づけるのか。もし菩薩が菩薩行の相を作るならば、その人は菩薩と名づけられることはない。また、そのような行を発することもない。およそすべての行の中で、すべての世間が信じることができないもの、それが菩薩行である。どのように菩薩行と名づけるのか。すべての行の中において実相を生じないようにすべきである。なぜならば、如来はかつて説かれた。菩提をもって名づけて菩薩とする、と。菩提というものは、婦女でもなく、丈夫でもなく、衆生でもなく、養育でもなく、命でもなく、福伽羅(プドガラ)でもない。阿難よ、このように、婦女でもなく、丈夫でもなく、衆生でもなく、命でもなく、養育でもなく、福伽羅でもなく、菩薩でもない。この義をもって、その者は衆生ではなく、菩薩とも名づけられない。彼らの行うところは、説くことができない。なぜならば、それらの善丈夫たちは、布施と戒の中において、調伏の中において、禅定の中において行じているからである。それらの衆生は、その中に住している。もし布施の因があり、調伏の因があり、持戒の因があり、禅定の因があるならば、それを菩薩と名づけるのか。そのような因は、東方から来ることもなく、南方から来ることもなく、西方から来ることもなく、北方から来ることもない。このように、菩薩行は不可思議である。どのような諸法をもって不可思議と名づけるのか。すなわち、布施をもって不可思議とし、調伏をもって不可思議とし、誓いを発することをもって不可思議とし、戒・定・智をもって不可思議とする。その人は長夜にわたって持戒を行じている。この義をもって、戒衆生と名づける。どのような理由で不可思議と名づけるのか。調伏をもってである。彼は長夜にわたって調伏を行じているから、その故に、彼を調伏衆生・不可思議と言う。彼は何を以て不可思議と名づけるのか。その人が長夜にわたって誓願を行じているから、その故に、それを誓いを発する衆生・不可思議と名づける。さらに彼は何を以て不可思議と名づけるのか。智慧をもって名づけて不可思議とする。なぜならば、その人は次第に般若を行じ、次第に般若を学ぶからである。彼がどのように次第に般若を学ぶのか。それを毘鉢舍那(ヴィパシュヤナー)と名づける。般若の中において、その人は次第に学んだからである。毘鉢奢迦(ヴィパシュヤカ)と名づける。彼はすでに学んだ。さらに成満の印の業を成就し、般若に入って学ぶと名づける。その故に、彼を業を成就した者と名づける。すでに普明の作すところの智の中に学んだから、彼を世間の光明と名づける。その人はすでに他と共有しない智を学んだから、不共智の法と名づける。その人はすでに戒を破らない智を学んだから、毒の矢を抜く者と名づける。その人はすでにすべての疑いを断つ智を学んだから、その故に、すべての疑いを断つ者と名づける。その人はすでに海のような業の智を学んだから、彼らを多聞の海と名づける。その人はすでにすべての成就・作業の巧みな智を学んだから、その故に、大いなる眷属を持つ者と名づける。その人はすでに畏れのない句、壊れない智を学んだから、その故に、他者の論師を摧き、他者の論に摧かれることがない者と名づける。故に他論を破る者と名づける。阿難よ、菩薩がすでにこのような般若の中に学んだならば、阿耨多羅三藐三菩提に向かって成就すべきである。そして、そのような般若の智慧は、愛渴を断ち、深心を得て、帝釈の幢(とう)のように動かず転じないものとなり、畏れのないことを得る。業を成就するが故に、彼を畏れのない者と名づける。彼らがすでに学んだが故に、無畏の勇健と名づけるのである。」

「阿難!我念過去無量世時,在曠野中闇夜獨行無有伴侶。時有六十許夜叉奪他威者,隨我後行,彼住我前作如是說:『謂咄丈夫!我等今者欲奪汝威故隨汝行。』彼夜叉等說此言已,我於爾時入諸法性而作是念:『誰名為夜叉?誰奪威力?何法名威者?彼向誰語?復有何言隨其所有?如是方便、如是諸法唯有音聲,唯有一相所謂無相。』爾時我念彼地方中住三日三夜,以其三昧住彼地方時,六十夜叉即於我邊心得清淨。我念彼等夜叉,以彼善根因緣力故,迦葉如來阿羅呵三藐三佛陀入教法中而作比丘,無餘涅槃而般涅槃。阿難!如是菩薩初發菩提心,以決定故即名為勇健。阿難!菩薩得初發心者有如是處。阿難!假使三千大千世界有諸眾生,彼等皆作夜叉奪威力者,可畏可怖,無有是處、無有容處。阿難!若有菩薩初住乘者、正心發行者,彼等一切奪威夜叉,乃至令彼毛竪,無有是處。況復無生諸法中彼得忍者。何以故?阿難!彼如是等善丈夫輩,不著色聲香味觸,於諸法中亦復不著。何以故?彼善丈夫得成就最勝上故。阿難!如是菩薩是等諸法成就最勝,於厄難中已得解脫。何等諸法當得具足最勝?智慧開示故、令歡喜故,不詐作威儀。為利益他事故、捨愛著故、忍辱柔和勤精進故、不等怨故、不嫉妬故、不慳惜故、言語依實故、禪定行故、以般若觀察故、所作地中空無相願行故、不捨重擔故、凡有欲行能勤進故、請問法故、敬重法故、有所聞法受持故、遠離詐誑威儀心故、柔軟純直故、行布施故、大悲故、成就閑業故、以慈遍滿一切眾生故,如是等行方可證成阿耨多羅三藐三菩提。若能於此法中學者,彼等名為猛健、彼名勇猛、彼名師子、彼名帝釋、彼名為梵。應當於此陀羅尼法本中應先作願。言先願者,若無有願,彼等諸法無有願處。當得道者,此最為希有,當無著處,彼亦不當而作願也。如是彼等眾生成就最勝第一勇猛。若能入此作業處者,如是等諸菩薩輩,於凡夫地中為一切眾生故名最勇健也,故名最勇猛也、名最無上也。證阿耨多羅三藐三菩提已,可言為一切眾生師,以無畏故,為一切眾生作師也。以是故,彼等可言健者、可言勇猛者。於中何者是一道?言一道者,是八聖道,是名一道。復名一道者,若更無作處,如來所說正見乃至正三昧,於中正見者無有顛倒,所有正見處彼如來說無有見故,是名正見。若正分別,彼如來說非分別故,名為正分別。乃至略說乃至正三昧,如來所說非三昧故,名正三昧。何以故?如來說法皆離諸見,如來不說執著諸見故說法。為離染著如來說法,如來不為所染著故說法。於中道者,若無分別。何以故?若分別道,則於五欲處渴愛分別。以五欲功德是言道也,是故無不有道者。如來說以分別故生欲,如來恒說諸法根本,猶如栰喻,應如是知。若證知者,法尚應捨,何況非法。」

「阿難よ、私は過去の無数の世を思い起こすに、荒野の中で闇夜に独り歩き、伴侶もいなかった。その時、およそ六十人の威を奪う夜叉たちが私の後ろに従って歩き、私の前に立ち止まってこう言った。『おい、丈夫よ!我等は今、お前の威力を奪おうとしてお前に従っているのだ。』彼ら夜叉がこの言葉を言い終えた時、私はその場で諸法の性質に入ってこう思った。『何を夜叉と名付けるのか?誰が威力を奪うのか?何の法を威力と名付けるのか?彼らは誰に向かって語っているのか?また何の言葉があり、その言葉に従って何が存在するのか?このように方便し、このように諸法はただ音声のみであり、ただ一つの相のみを持つ、いわゆる無相である。』その時、私はその場所に三昼夜留まることを念じ、その三昧でもってその場所に留まった時、六十人の夜叉はすぐに私に対して心に清らかさを得た。私は思うに、彼ら夜叉はその善根の因縁の力によって、迦葉如来・阿羅漢・三藐三仏陀の教えの中に入り比丘となり、無余涅槃において涅槃に入ったのである。阿難よ、このように菩薩が初めて菩提心を発する時、決意によってすぐに勇健と名付けられるのだ。阿難よ、菩薩が初めて発心を得る者にはこのような処がある。阿難よ、たとえ三千大千世界に多くの衆生がいて、彼ら全てが威力を奪う夜叉となり、畏れ怖れるべきものであっても、無理なこと、許されないことである。阿難よ、もし菩薩で初めて乗に住し、正しく心を発して修行する者があれば、彼ら全ての威力を奪う夜叉でさえ、彼の毛を逆立たせることすらできない。ましてや無生の諸法において忍びを得た者はなおさらである。なぜならば、阿難よ、そのような善丈夫たちは色・声・香・味・触に執着せず、諸法においてもまた執着しないからである。なぜならば、その善丈夫は最も勝れた成就を得ているからである。阿難よ、このように菩薩はこれらの法において最も勝れた成就を得て、厄難の中にあってすでに解脱しているのである。どのような法が具足して最も勝れたものとなるのか?智慧を開示する故、衆生を喜ばせる故、威儀を偽らない故、他の利益のため事を行う故、愛着を捨てる故、忍辱・柔和・勤精進する故、怨みを等しくしない故、嫉妬しない故、慳吝しない故、言葉が実に依る故、禅定を行う故、般若をもって観察する故、行う所の地において空・無相・無願を行う故、重荷を捨てない故、およそ行きたいと思えば精進できる故、法を問う故、法を敬う故、聞いた法を受持する故、偽りの威儀の心を遠離する故、柔軟・純直なる故、布施を行う故、大悲ある故、閑静な業を成就する故、慈をもって一切衆生を遍満する故、このような行によって初めて阿耨多羅三藐三菩提を証し成すことができるのである。もしこれらの法において学ぶ者があれば、彼らを猛健と名付け、彼らを勇猛と名付け、彼らを師子と名付け、彼らを帝釈と名付け、彼らを梵と名付けるのである。まさにこの陀羅尼法本において先に願を立てるべきである。先の願と言うのは、もし願がなければ、それらの諸法には願う所がないからである。道を得るべき者には、これが最も希有であり、執着する所がなく、彼もまた願を立てるべきではないのである。このように彼ら衆生は最も勝れた第一の勇猛を成就するのである。もしこの作業の処に入ることができる者ならば、そのような菩薩たちは凡夫の地にあって一切衆生のためゆえに最も勇健と名付けられ、最も勇猛と名付けられ、最も無上と名付けられるのである。阿耨多羅三藐三菩提を証して後は、一切衆生の師と言えるのであり、畏れることなく、一切衆生の師となるのである。それゆえに、彼らを健者と言え、勇猛者と言えるのである。その中で何が一つの道か?一つの道と言うのは、八聖道であり、これを一つの道と名付ける。また一つの道と名付けるのは、もしさらに作る所がなければ、如来の説かれた正見から正三昧までであり、その中で正見とは顛倒がないことであり、全ての正見の処において如来は見無しと説かれたので、これを正見と名付ける。もし正しく分別するならば、如来は分別に非ずと説かれたので、正分別と名付ける。乃至、略説して正三昧に至るまで、如来の説かれた所は三昧に非ず、故に正三昧と名付ける。なぜならば、如来の説法は全て諸見を離れており、如来は諸見への執着を説かないからである。染着を離れるために如来は説法し、如来は染着のために説法しないのである。その中で道とは、もし分別がなければ、なぜならば、もし道を分別するならば、五欲の処において渇愛の分別が生じるからである。五欲の功徳をもって道と言うのであり、それゆえ道ならざる者はないのである。如来は分別によって欲望が生じると説き、如来は常に諸法の根本を説く。譬えば筏の喩えのごとく、このように知るべきである。もし証知する者があれば、法さえも捨てるべきであり、ましてや非法はなおさらである。」

於彼時間,於大眾中有一比丘,名曰阿波羅(隋云至),來在會坐。即從座起,乃至白佛言:「世尊!莫作是說,言正見非見也。」然彼比丘作是說已,應時舌根墮落在地,現身即入阿鼻大地獄中。

その時、大勢の集まりの中に、阿波羅という名の一人の比丘がいた。(隋では「至」という意味である。)その比丘は会座に来ていた。彼は直ちに座から立ち上がり、仏にこう申し上げた。「世尊よ、『正見は見ることにあらず』などとおっしゃらないでください。」しかし、その比丘がこの言葉を発すると、たちまち舌が根元から地に落ち、その身は即座に阿鼻大地獄の中に入ってしまった。

爾時世尊告長老阿難言:「阿難!於未來世有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷,是等彼時當有如是厭離分智,彼等當得道相、當得戒相、當有多聞放逸之相。彼時所有諸比丘等住阿蘭若者,彼等以唯得四禪故,當作得想。彼等誹謗如是修多羅經典,各自恃見不共評論。彼等身壞命終,即墮地獄。阿難!於汝意云何?如來為何利說法?」阿難答言:「世尊乃能為一切眾生安樂故、為涅槃故說。」佛復告阿難言:「阿難!汝觀如來境界。阿難!此涅槃名如來所說,為世間故。如來所說,為上智故。若能知者,則於如來生尊敬心。阿難!於未來世有如是不隨順、不調伏諸惡比丘等,於我阿僧祇俱致劫中所成就阿耨多羅三藐三菩提,當令隱沒。是故如來為斷彼等說如是法,如來不念涅槃、不思涅槃,於涅槃處亦復不念。不生念言此是涅槃,亦不念言此涅槃處,亦不憶念我欲涅槃。阿難!如來如是拔斷一切思想故說法,為向涅槃第一道故。若於如是行中有修學者,彼等當得般涅槃耶。若於是中不修學者,彼等於賣買中而作勤求,於呪術中為他所使,處處遊已行方便活命,或種田業、或作俗業造屋營舍當作活命,當起鬪諍,各相破壞更相言訟,各各背面更相指麾,惡口罵詈各不相敬,不生慚愧共作朋黨,規奪他物輪轉生死,雖手持鉢如栴陀羅。阿難!是故此法本應以智根善思善念、應當觀察。是故如來以種種語言說此八聖道分,若有能知此種種語言,彼等人輩厭離他道,謂相言說此是道此非道。阿難!言道者,於中無所生者,是名為道。

爾時、世尊は長老アーナンダに告げた。「アーナンダよ、未来の世において、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷たちがいるであろう。その者たちは、その時、このような厭離の智(俗世を離れる智慧)を有することになるであろう。彼らは道の相を得たと思い、戒の相を得たと思い、多くの教えを聞きながらも放逸な相を持つであろう。その時、すべての比丘たちが林間に住し、ただ四禅を得ただけで、すでに悟りを得たと思うであろう。彼らはこのような経典を誹謗し、各自が自分の見解に執着して、互いに相容れず議論するであろう。彼らは命を終えるとき、地獄に堕ちるであろう。

アーナンダよ、あなたはどう思うか。如来は何のために説法するのか。」

アーナンダは答えた。「世尊は一切の衆生の安楽のため、涅槃のために説法されるのです。」

仏は再びアーナンダに告げた。「アーナンダよ、あなたは如来の境地を観なさい。アーナンダよ、この涅槃という名は、如来が世間のために説かれたものである。如来は優れた智慧のために説かれた。もしこれを知ることができるならば、その者は如来に対して尊敬の心を生じるであろう。

アーナンダよ、未来の世において、このように従わず、調伏されない悪い比丘たちが、私が無数劫の長い間かけて成就した無上正等覚(あの世にもこの世にも優れた悟り)を、隠没させてしまうであろう。そのために如来は、彼らを断つためにこのような法を説くのである。如来は涅槃を思いに留めず、涅槃を思惟せず、涅槃の境地においてもまた思いを致さない。『これは涅槃である』という思いも起こさず、『これは涅槃の境地である』とも言わず、『私は涅槃に入ろう』とも憶念しないのである。

アーナンダよ、如来はこのように一切の思考を断ち切るために説法し、涅槃へ向かう第一の道を示すのである。もしこのような行いの中に修学する者があれば、彼らは涅槃を得るであろう。もしこの中に修学しない者があれば、彼らは売買の中で勤め求め、呪術によって他人の使役を受け、あちこちを巡り歩いて方便で生活を立て、あるいは田畑を耕し、あるいは俗世の業に従い、家屋を建てて生活を営み、闘諍を起こし、互いに破壊し合い、互いに訴え合い、互いに背を向けて指図し合い、悪口で罵り合って互いに尊敬せず、慚愧の心もなく朋党を組んで、他人の物を奪い取り、生死を輪廻しながら、手に鉢を持っていてもチャンダーラ(賤民)のような者となるであろう。

アーナンダよ、ゆえにこの法は、もともと智慧の根によってよく思惟し、よく念じ、よく観察されるべきものである。ゆえに如来は様々な言葉でこの八聖道の分を説かれたのである。もしこの様々な言葉を理解できる者があれば、それらの人々は他の道を厭い離れ、『これが道である、これは道ではない』と言い合うことを超えるであろう。

アーナンダよ、『道』と言うのは、その中に生ずるものがないことをもって道と名付けるのである。」

「阿難!何等為七處,沙門諸釋子住於彼處當趣涅槃?何者七處?戒處、三昧處、般若處、實處、捨處、寂滅處、一切縛脫處。阿難!是名七處。復有別七處。何等為七?往昔所作福德、得閑處、值佛出世寂靜、所得利養不生貪著、得出家故、親近善知識、於彼中發勤精進。是為七處。復有別七處,有諸比丘應當安住。何等為七?應當決定捨離世間語言、破壞語言應不染著、於修多羅中應巧勤求、亦不得說我、應當尊重阿蘭若處、不應信一切三界、亦應當求出離之處,是為七處。若有受此七處之者,即當受持一切善法,如依此處即得受持向一千偈。

「阿難よ、七つの住処とは何か。沙門である修行者たちがその場所に住んで涅槃に至るべき七つのものとは何か。その七つとは何か。戒の住処、定の住処、智慧の住処、真実の住処、捨て離れる住処、静かに滅する住処、すべての束縛から解脱する住処である。阿難よ、これらを七つの住処と名付ける。さらに別の七つの住処がある。何を七つとするか。過去に行った善い行いの功徳、閑静な場所を得ること、悟った仏が世に現れる静かな時節に遇うこと、得た供養に執着しないこと、出家することができたこと、善き師匠に親しく近づくこと、その中で努め励むことである。これらが七つの住処である。さらに別の七つの住処があり、修行者たちはそこに安らかに住むべきである。何を七つとするか。世間の空しい言葉をきっぱりと捨てるべきこと、争いを招く言葉に染まらないこと、経典の中に巧みに努めて求めること、自己について語らないこと、静かな林での修行の場を尊重すること、三界のすべてを信じ切らないこと、また解脱の道を求めるべきことである。これらが七つの住処である。もしこれらの七つの住処を受け持つ者があれば、すなわちすべての善い教えを受け持つことになり、この住処に依れば、千の偈に向かって受け持つことを得るであろう。」

「於彼中何者是五種破也?於生死流轉中有五種破。何等為五?眼破、耳破、鼻破、舌破、身破、意破、色破、聲破、香破、味破、觸破、法破。如是五道生死流轉中,凡有生處趣,破五陰故名為五破。三十三天墮落時,有五衰相法,故言五破。閻浮提人輩命終之時,有五種衰相法,若有如是相如是形類,當知不久畢當命終:其脚足冷、為他奪心、身作黃色、鼻當曲戾、眼黑深入或作青色,此等名閻浮提人五衰破相。復有五種破,婦人命終之時,糞道胎道破。婦人命終之時,咽及兩喉脈轉動。或丈夫或婦女命終之時,依身所有八萬戶虫,彼等住者亦如是破。若丈夫婦人命終之時,彼之所有守護神天,隨後行者、作威力者、令彼勝者,命終之時將彼威力背之而去。彼背去已,語言音聲即皆滅盡。如是一破,當有二破。然彼世間本來破壞共行,不離數數破行,破已復破,是名別壞五破。復有五破,破朋友、破和合、破戒聚、破佛塔、破僧,此等名為別五破壞。復有別五破壞,破器、破水漂、破和合父母、破作無間大黑闇等、破呪術,破此等名為五破。於中諸比丘復有五破。何等為五?背戒為破、背正見為破、背行為破、住處破及戒破,此等名為五破。於中如來有五破。何等為五?以無量智聚決破一切眾生疑網,以無量智聚破一切生死流轉生老病死;以無量福事故、於一切眾生中勝故、知一切眾生種種信行,以解脫智說法故、以最妙金剛三昧破一切漏;至一切眾生最勝妙智故、知已斷一切眾生疑故、破無明險惡相根本;如此說法故有是五破。如所有事,當如是持。

そこで、五種の破とは何か。生死の流転の中に五種の破がある。何を五種とするか。眼の破、耳の破、鼻の破、舌の破、身の破、意の破、色の破、聲の破、香の破、味の破、觸の破、法の破である。このように五道の生死の流転の中に、生まれる所・趣く所があるごとに、五陰を破ることをもって五破と名づける。三十三天が堕ちるときに五衰相の法があるので、五破と言う。閻浮提の人々が命終わるときに五種の衰相の法がある。もしこのような相・このような形類があれば、まもなく命終わるであろうと知るべきである。その足が冷えること、他に心を奪われること、身体が黄色になること、鼻が曲がること、眼が黒く窪み青くなること、これらを閻浮提人の五衰破相と名づける。また五種の破がある。婦人が命終わるときに、糞道と胎道が破れる。婦人が命終わるときに、喉と両方の喉脈が動く。あるいは男・あるいは女が命終わるときに、身に依る八万戸の虫、そこに住む者たちもまたこのように破れる。もし男・女が命終わるときに、その守護する神天、後に従う者・威力を作す者・彼らを勝たせる者も、命終わるときにその威力を背にして去っていく。彼らが背いて去ったならば、言葉の音声はすべて消え尽きる。このように一つの破があり、やがて二つの破がある。しかしその世間は本来、破れ共に行き、繰り返し破れ行くことを離れず、破れてはまた破れる。これを別の破れる五破と名づける。また五種の破がある。朋友を破り、和合を破り、戒の集まりを破り、仏塔を破り、僧を破る。これらを別の五破壊と名づける。また別の五破壊がある。器を破り、水に流され破り、父母の和合を破り、無間大黒闇などを作り破り、呪術を破る。これらを五破と名づける。その中で比丘たちにはまた五破がある。何を五とするか。戒に背くことを破とし、正見に背くことを破とし、行いに背くことを破とし、住処の破および戒の破、これらを五破と名づける。その中で如来には五破がある。何を五とするか。無量の智の集まりによって一切衆生の疑いの網を破り、無量の智の集まりによって一切の生死の流転・生老病死を破る。無量の福の事によって、一切衆生の中で勝れることにより、一切衆生の種々の信行を知り、解脱の智によって説法するから、最も妙なる金剛三昧によって一切の漏を破る。一切衆生の最も勝れたる妙智に至るから、衆生の一切の疑いを断つことを知り、無明の險悪なる相の根本を破る。このように説法するから、この五破がある。すべての事を、このように持つべきである。

「何者是五力?信前行力、戒無悔力、般若於一切諸法邊為最勝妙最初調伏力、於此世他世無慳惜力、菩薩初發心勝信生故於一切眾生為最勝力。此發誓心生為首,為微妙為殊特不可降伏,為最為最大為首。此名為五力。於中所有信力者,彼如來說為種子。為誰種子?為諸善法。何等善法?若一切有為,信為非善,不染著故。於中何者是世間戒力?若知凡夫家戒不正邪見。何以故?如來不說一切凡夫有戒具足。於中有別戒者,唯除垂發阿耨多羅三藐三菩提心者,以此因緣,如來不讚歎生。雖復凡夫,戒具足故,彼以善行則生天中。以彼生故,雖得善身,後退下生。譬如墮阿鼻地獄中眾生受苦時一向苦惱,彼等肉血散已還生,生已還有樂想。如是如來不說以為勝生。如是此戒聚應欲清淨。何者戒聚當欲清淨?若不取戒而生想心,此是如來說戒清淨。

何が五力(いつりき)か。信(しん)が先に進む力、戒(かい)によって後悔しない力、般若(はんにゃ)の智慧があらゆる法(すべてのものごと)に対して最も優れ、最も妙なる最初の調伏力(心を整える力)、この世とあの世において惜しみなく与える力、そして菩薩が最初に心を起こすときの清らかな信が生まれることで、すべての生きとし生けるものに対して最も優れた力となることです。この誓いの心が生まれることは、すべての始まりであり、微妙で、特別で、決して打ち負かされず、最も大きく、最も優れた第一のものです。これを五力と呼びます。

これらのうち、信の力について、如来(にょらい)はそれを種子(たね)であると説かれました。誰の種子か。すべての善い法(善い行い)の種子です。どのような善い法か。すべての因縁によって生じるもの(有為法)について、信は善ではないと知るなら、それに執着しないからです。

そのうち、世間の戒の力とは何か。凡夫(普通人)の家の戒は正しくなく、誤った見解に基づくものであると知ることです。なぜなら、如来はすべての凡夫が戒を具足しているとは説かれないからです。その中に特別な戒があるとすれば、それはただ無上なる悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を求める心を起こし始めた者だけです。この因縁によって、如来はそのような生まれを称賛されません。

たとえ凡夫であっても、戒を具足しているなら、その善い行いによって天界に生まれることができます。しかしその生まれによって、たとえ善い身を得ても、後に堕ちて下の世界に生まれます。例えば阿鼻地獄に堕ちた衆生が苦しみを受けるとき、ひたすら苦悩し、その肉や血が砕け散ってまた生まれ変わると、また楽しみという想いが生じるようなものです。このように、如来はそれを勝れた生まれであるとは説かれません。

それゆえに、この戒の集まりは清らかにすることを求めるべきです。どのような戒の集まりが清らかになることを求めるべきか。もし戒を受けることなく心に想いを生じないならば、これが如来の説かれた戒の清らかさです。

「何者是彼多聞力也?聞人聲聞非人聲、聞婦人聲聞丈夫聲、聞童子聲聞童女聲、鷹聲鷲聲烏聲、舞弄聲歌聲、法聲非法聲、福德聲非福德聲,聞是聲已,如所聞義觀察了知。何者為聞?無有聞者是故名聞。及彼說者亦不可得,是故言聞。復次何者是彼實聞?若無有實,是故言實。何以故?此是梵言,故名為實。若釋種子等言實者,名色名字,彼不可得而不執著。如是名字法,於中何者是名字?作者名名字。又復何者是名字作者?作者不可得。若所作者不可得故,於彼亦不可得,若有名字無有是處。」

「その多聞の力とは何か。人の声、人ではない声を聞き、女の声、男の声を聞き、童子の声、童女の声を聞き、鷲や鳶や烏の声、舞い戯れる声、歌の声、法の声、法ならざる声、福徳の声、福徳ならざる声を聞く。これらの声を聞いたならば、その聞いた意味を観察して明らかに知るのである。では、聞くとは何か。聞く者というものが実は存在しないから、これを聞くというのである。また、語る者もまた実に得ることはできない。それゆえに聞くと言うのである。さらに、実に聞くとは何か。実というものが存在しないから、これを実と言うのである。なぜなら、これは梵の言葉であり、それゆえに実と呼ばれるからである。もし釈迦の子らが実と言うならば、名と色との名前であり、それらは得ることができず、執着することもない。このような名前という法について、その中で何が名前であろうか。作り手が名前なのである。さらに、名前の作り手とは何か。作り手は得ることができない。もし作られるものが得られないならば、それについてもまた得ることができない。もし名前があるというならば、それはあり得ないことである。」

爾時長老阿難白佛言:「世尊!若復有人作如是言:『若一切諸法不得名字,語言亦不可得,於中不可名及與語言,此豈非名字語言耶?謂一切諸法不可得名者。』」作是語已,佛告長老阿難言:「善哉善哉!阿難!若有智慧比丘,彼比丘當作是言:『汝若難我名義,汝當自說。何以故?我作是說言,一切法不可得也。我還問汝,隨汝所解為我解說。頗有一微細法,若色耶受耶想耶行耶識耶,所有常耶、不動耶、自在耶、不變易法耶?當和合不破壞及有命者。』其沙門釋子得是難已,有自體性應作是答:無有是色,若色常者、不動者、不自在者、不變易法者,亦無彼受想行識,若常者、不動者、自在者、無變易法者。復問言:『頗有是色若色聲得名者?』彼答言:『無如彼色,若色聲可得名者。無彼受想行識,如彼識若識聲可得名者。』應語彼言如是:『汝長老!無彼色可得者,若常、若不動、若自在、若不變易法,彼亦無耶?誰是彼色若受想行識,乃至略說,以是義故色空。誰有是色?色者亦空,色之音聲名字亦空,受想行識亦空。誰有彼識?彼識亦空,隨彼所有受之名字亦復空耶。如是義故,諸法畢竟空。』『汝應為我當如是解,一切諸法不可得耶?更於諸見中無有諍論。』『長老!汝取得邊際,所謂無也。何以故?如來已說有無見處。長老!我意欲令一切諸法無成就者。一切諸法既不成就,於彼之中無有有無。是故我等當有正見,汝是邪見。』阿難!於彼說中若更起諍,無有是處。唯除瞋恚故,當誹謗如是等修多羅經典。譬如現在外道論師不解如來所問答事,而作瞋心從坐起去。阿難!如是如是,不受我法起瞋恚故,從坐而起當背面去。以是義故,若有多聞眷屬、有決了眷屬,以多聞故則有智慧,是故於此閻浮提人輩言般若者。復次阿難!復此閻浮提東方邊際,有一城名天生,彼處般若名曰薩婆多羅婆帝(隋云至一切主)。阿難!復此北方有一城,名曰不慢,彼處般若名曰比羅婆檀底。於彼北方復有一城,名曰比羅魔,彼中般若名曰比利羊迦利。阿難!於此南方復有一城,名曰伏怨,彼中般若名曰比伽多磨帝。覆鉢足夜叉,般若名曰怖邏掣馱。持縵夜叉,般若名曰薩馱邏多那常。醉夜叉,般若名曰波邏舍婆多拔帝。四大天王所生諸天,般若名曰波利都瑟吒夜。三十三天,般若名曰蘇遮利多。阿難!如是等諸法,如來已證。種種言辭、種種名字、種種音聲、種種語言名字,閻浮提人輩所有語言喚呼名字,如來於此中悉已說訖。於彼之中,何者捨耶?若有捨施。言捨者,天所乏少。復言捨者,所謂共知難捨能捨。復言捨者,捨陰聚、捨煩惱、捨生。復言捨者,一切捨中最為勝上,所謂捨法,此最為勝,具一切捨,若能發阿耨多羅三藐三菩提心。何以故?阿難!住菩薩乘者,彼處諸生死中,已捨妻子及以男女、金銀珍寶、國土王位、城邑聚落、頭目眼耳,乃至捨自身命。世間所有衣服飲食、種種戲具皆悉已捨,世間所有一切樂具亦悉捨已,此最為勝。請一切聲,所謂若菩薩發菩提心,於三千大千世界中請諸眾生,欲施法故。若有於此世間利養行布施者,是有限分。此中菩薩不作第一義想,所謂世間利養也。何以故?是菩薩了知於自身中無所利益,乃至不能證得阿耨多羅三藐三菩提,此是菩薩諸愚癡中盡邊際也。乃至未轉無上法輪,彼當滿足一切力也。乃至當來轉無上法輪,如是住於如來十力,為一切眾生滅貪欲故當為說法,滅瞋恚故當為說法,滅愚癡故當為說法。如是如來所說之力,當知聲聞無有是力。所有東南西北方恒河沙等世界中所有眾生,彼等一切眾生所有善根,隨彼善根,有諸聲聞辟支佛善根具足勝出於彼。若復彼一切眾生所有善根,及辟支佛所有善根,其初發菩提心菩薩所有善根,於前百分不及一分,千分若百千分不及一,迦羅分、伽拏那分、譬喻分、憂波尼沙陀分不及一,如是大勇健力勤大精進得度彼岸菩薩。

時に、長老阿難が仏に申し上げました。「世尊よ、もしも人がこう言う者があったならば、『すべての諸法は名づけることができず、言葉もまた得ることができない。その中において、名づけることもできず、言葉もないというならば、これはすなわち名前や言葉ではないか。いわゆるすべての諸法は名づけることができないと言うことは』」と。このように言い終えると、仏は長老阿難に告げられました。「善きかな、善きかな。阿難よ、もし智慧ある比丘がいたならば、その比丘はこう言うべきである。『あなたがもし私の言葉の意味を難じるならば、あなた自身が説くがよい。なぜなら、私はこう説いている、すべての法は得ることができないと。私はあなたに問い返そう、あなたの理解するところに従って、私のために説きなさい。一体、微細な法が一つでもあるだろうか。色であれ、受であれ、想であれ、行であれ、識であれ、すべて常住なるもの、動かないもの、自在なるもの、変化しない法があるだろうか。また、和合して壊れず、命あるものがあっただろうか。』その修行者(沙門)である仏弟子は、この問いを受けて、自らの体性によってこう答えるべきである。『そのような色はありません。もし色が常住であり、動かず、自在で、変化しない法であるならば、またその受・想・行・識もなく、もし常住であり、動かず、自在で、変化しない法であるならば。』さらに問う。『その色という音声で名づけられるものがあるだろうか。』彼は答える。『そのような色はありません。もし色という音声で名づけられるものがあるならば。その受・想・行・識もなく、もし識という音声で名づけられるものがあるならば。』そのように彼に言うべきである。『あなた、長老よ、その色は得ることができません。もし常住、不動、自在、不変の法であるならば、それもないではないか。誰がその色、あるいは受・想・行・識なのか。かいつまんで言えば、この意味によって色は空である。誰がこの色を持つのか。色もまた空であり、色という音声・名前も空であり、受・想・行・識もまた空である。誰がその識を持つのか。その識もまた空であり、それに付随する受の名前もまた空である。このような意味によって、すべての法は究極的に空である。』『あなたは私のためにこのように解釈すべきである。すべての法は得ることができないのである。さらにさまざまな見解において論争はない。』『長老よ、あなたは極端な見解(辺際)を取っています。いわゆる「無」ということです。なぜなら、如来はすでに「有」と「無」という見解の処を説かれたからです。長老よ、私はすべての法が成就しないことを望みます。すべての法がすでに成就しないならば、その中に「有」も「無」もありません。それゆえ、私たちは正しい見解(正見)を持つべきです。あなたは邪見です。』阿難よ、その説において、もしさらに論争が起こるならば、それはありえません。ただ、怒り(瞋恚)のために、このような経典を誹謗することはあるでしょう。ちょうど、外道の論師たちが、如来の問答を理解できずに、怒りの心を起こして座を立って去っていくように。阿難よ、このように、このように、私の教えを受け入れず、怒りを起こす者は、座を立って背を向けて去っていくでしょう。この意味によって、もし多くの学問(多聞)を持つ眷属、決断力のある眷属があるならば、多聞によって智慧があり、それゆえにこの閻浮提の人々は「般若」と言うのです。さらに阿難よ、この閻浮提の東の果てに、天生という城があり、そこでの般若は「薩婆多羅婆帝」と呼ばれます(隋の言葉で「至一切主」)。阿難よ、またこの北方に、不慢という城があり、そこでの般若は「比羅婆檀底」と呼ばれます。その北方にさらに、比羅魔という城があり、そこでの般若は「比利羊迦利」と呼ばれます。阿難よ、この南方に、伏怨という城があり、そこでの般若は「比伽多磨帝」と呼ばれます。覆鉢足夜叉の般若は「怖邏掣馱」と呼ばれます。持縵夜叉の般若は「薩馱邏多那常」と呼ばれます。醉夜叉の般若は「波邏舍婆多拔帝」と呼ばれます。四大天王の所生の諸天の般若は「波利都瑟吒夜」と呼ばれます。三十三天の般若は「蘇遮利多」と呼ばれます。阿難よ、このようなすべての法を、如来はすでに悟られました。さまざまな言辞、さまざまな名前、さまざまな音声、さまざまな言語の名前、閻浮提の人々が持つすべての言語や呼び名を、如来はこの中でことごとく説き終えられました。その中で、何が「捨」でしょうか。もし施し(布施)があるならば。「捨」と言うのは、天に乏しいものがないことです。また「捨」と言うのは、いわゆる共に知られる、捨て難いものを捨てることができることです。また「捨」と言うのは、陰の集まり(五蘊)を捨て、煩悩を捨て、生を捨てることです。また「捨」と言うのは、すべての捨てる行為の中で最も優れているもの、いわゆる法を捨てることです。これは最も勝れており、すべての捨てることを備えています。もし無上正等菩提(阿耨多羅三藐三菩提)の心を発することができるならば。なぜなら、阿難よ、菩薩の乗り物に住する者は、その生死の中において、すでに妻や子、男女、金銀の宝、国土や王位、城邑や村々、頭・目・耳に至るまで、さらには自分の身命までも捨てています。世間にあるすべての衣服・飲食・さまざまな遊びの道具もことごとく捨て、世間にあるすべての楽しい道具もすべて捨てた後、このことが最も勝れています。すべての声を請うとは、菩薩が菩提心を発し、三千大千世界においてすべての衆生を請い、法を施そうとすることです。もしこの世間の利益のために布施を行うならば、それは限られたものです。この菩薩は第一義の想いを持ちません。いわゆる世間の利益です。なぜなら、この菩薩は自らの身において利益するところがないと了知し、さらには無上正等菩提を証得することができないからです。これは菩薩のすべての愚かさの中の究極の極みです。まだ無上の法輪を転じない間は、彼はすべての力を満たすでしょう。やがて無上の法輪を転ずる時、このように如来の十力に住し、すべての衆生の貪欲を滅ぼすために説法し、瞋恚を滅ぼすために説法し、愚痴を滅ぼすために説法するでしょう。このように如来の説かれた力を、声聞にはこの力がないと知るべきです。東南西北の方角にある恒河沙ほどの世界のすべての衆生のすべての善根、その善根に従って、声聞・辟支仏の善根が完全であり、それらを超えています。もしまた、それらのすべての衆生のすべての善根、そして辟支仏のすべての善根があっても、最初に菩提心を発した菩薩のすべての善根は、その前の百の一分にも及ばず、千の一分、百千の一分にも及ばず、迦羅分、伽拏那分、譬喻分、憂波尼沙陀分にも及びません。このような大いなる勇猛な力、大いなる精進によって、彼岸に渡る菩薩です。

「阿難!於彼之中,何者是五種語言事?過去語言事、未來語言事、現在語言音聲事、證知語言事、一切眾生與無畏語言事,是為五種語言事。阿難!所有過去語言事者,彼於二處隨眠。何者為二?有見處隨眠、未來隨眠。於中有未來語言事者,彼二處不可作名說,不在現前故亦不得物故。於彼處中有現在語言事,於一切語言事中當作第一。於中此等總結已、和合已、作已、觀見知已、真觀見已、迴觀見已、算數印已,於算印中、真實印中、入算數中作已,言一耶言二耶?言三耶言四耶言五耶?言此是閻浮洲人一二三四五數業事,見十數事及非事因緣,次第中至百數至二百數乃至千數。此等一切處,以語言事中入己,而說如是百乃至百千。當知此等一切處語言事說已,如是入矜迦羅數中。從矜迦羅數至頻婆羅,從頻婆羅數至阿逾多,從阿逾多數至那由多。於彼中復有一數,名曰烏壃梁多比步迷,此是欝單越人輩數名。若有閻浮提人輩,從一起數乃至千數百千數,從百千數至俱致數,從俱致數至阿由多數,從阿由多數至那由多數,從那由他數至壃迦邏數,從壃迦羅數至頻婆羅數,從頻婆羅數至黝羅破數,唯上座舍利弗能知此數,閻浮提中無有一眾生知此數者。從黝羅破數至帝持婆藍婆數,如是唯上座舍利弗能知於帝持婆藍婆住處名字至醯都醯羅。從醯都醯羅至迦羅波,從迦羅波至醯都因陀羅,從醯都因陀羅至娑磨多羅婆,此娑磨多羅婆數行至尼羅婆遮,從尼羅婆遮至牟陀羅波羅,從牟陀羅波羅至阿伽羅牟陀羅,從阿伽羅牟陀羅至薩婆婆羅,從薩婆婆羅至比薩闍婆帝,從比薩闍婆帝至薩婆僧若,從薩婆僧若至比步登伽磨,從比步登伽磨至婆羅叉,如是以此婆羅叉數中須彌山王可得入數,然上座舍利弗以一雄迦持皆能悉知。如是於此之上復有數,名幢頭安置。從幢頭安置復至數名滅,從滅復至數名伊吒,從伊吒復至數名迦留拏吒畢多,從迦留吒畢多。復至數名一切總入。彼數中總入恒伽河沙數,而上座舍利弗還知此數,及上座目揵連亦知此數。於彼數上復有數名最堅實,於彼數中作百俱致羅叉恒伽河沙皆總入彼數中。於彼已上,上座舍利弗不知。如是上座舍利弗希有大智。若如是最小蔓菁子,能令入此俱致百千數,復入彼數,如來了知,而一切眾生不能了知。上座舍利弗等無有知者,謂彼一切語道事總入者。復有語道事總入,眾生名數滿足,父母所置名,所謂跋陀囉(賢)、跋陀囉婆羅(賢力)、跋陀囉婆睺(賢履)、跋陀囉婆帝(賢主)、施囉(首)、施囉優都施囉婆都(大首)、難陀(喜)、修難陀(善喜)、阿難陀(歡喜)、婆難陀。如是等如是色如是相,似眾生名言語道事業境界。然復有言語道事,出世依住處。依彼已,住梵行,知眼耳鼻舌身意。於彼中何者名眼?言眼者,眼根奚羅那避奚羅那波施羅避波施羅阿婆施羅阿器奚妬都陀寐帝摩訶陀摩阿目睺阿帝優授富囉帝奚羅那地舍目佉瞿拓囉因地麗夜逋利婆波施迦鉢施末波陀低梨膩泥低囉拏叔婆優波叔婆柘妬利陀妬鉢囉婆陀那豆留波陀那豆留波陀豆囉奴泥夜。阿難!此等為眼名,如世名所喚,於彼之中此眼一名。然此眼又說名為眼,以眼應捨眼。何者以眼捨眼?以智眼應捨肉眼。云何應捨也?如棄捨。云何棄捨?如不應取。以取故為眼,以見得故為眼;若無有取則無有得。既自無有,當何可得。何者?無有眼、無有耳鼻舌身意,無有為捨,故說名眼。如是事業觀察發動,當有智慧、當有憶念、當有辯才。何以故?彼眼不作限量,所謂慧眼。阿難!若有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷,於此語言品如是說已,如是字相名味句等,如是所說當受當持。及三輪品初作業者,淨菩薩地福德聚行、智慧聚行、勝念聚行、禁戒聚行。如是辯才三輪清淨,一心之力、諸菩薩力。具菩薩力者,當取爾許智聚,然彼不能而作限量。然阿難,我今為汝更作譬喻。以譬喻故,有智之人知所說義。阿難!所有三千大千世界中,所有眾生眾生攝者,乃至細微塵等,彼輩皆得人身,一一眾生有如是等力勢具足。以此三千大千世界,取置肩上隨心所去。阿難!若有初作業菩薩,以三輪清淨勢力具足,以一發心所得福聚,彼福德聚若有形色,彼諸眾生滿足負重取已而去。彼一發品取福德聚不可限量。阿難!汝意云何?於初發心菩薩,以一發心取福德聚有幾所耶?阿難!乃至彼等諸眾生輩皆悉如是勢力具足,以如是等福聚將去,一一眾生如恒河中沙數,重擔荷負將行。如是次第,我今顯示說如是義。如恒伽河中所有沙數,於彼沙中取一沙而去,而彼等恒沙可作限量,有若干去,若干猶在。阿難!而彼福聚不可作限量,言有若干福聚也。阿難!我少譬喻顯示此義。為入此義故,阿難!我今更欲辯說此義。阿難!此三千大千世界中百俱致諸恒河百俱致五大河。阿難!然彼所有百俱致諸河中沙,假使東方有若干世界,如是南西北方四維上下亦各有若干世界。阿難!彼之世界所有河沙於中取一沙,阿難,彼餘殘沙猶可作限量,而彼福聚所餘之者不可限量。謂所有三輪清淨菩薩一發心者,所取福聚。阿難!且置菩薩摩訶薩、大商主者、著大鎧者、大導師者、具足不可思議智者。阿難!若有女人若丈夫,於如是等三輪清淨具足菩薩之所,以一慈心觀察憶者,我少說喻亦不具足。而彼善男子善女人,於彼三輪清淨菩薩之所,起一慈心觀察念已,攝取若干善根?阿難!是故我今告汝、我今語汝,彼等眾生善得利益。若復能發阿耨多羅三藐三菩提心,彼等眾生大得善利。若能發阿耨多羅三藐三菩提心已,能發三輪清淨心故,彼等眾生善得利益。若有眾生於如是諸菩薩邊,能起慈心觀察念已,將來當行也,及現行已。如是阿難!彼等丈夫以有無量功德法具足。阿難!若能發此三輪淨清者,及此五種語言事,當能如是正觀察已,應當受持一切行處、當得勝出、當得不思議辯才、當得無量無邊辯才、當得無等辯才。於此品中若一聞時,彼應當受滿足百偈。」

「阿難よ、その中で、五つの言葉による事柄とは何か。それは、過去の言葉による事柄、未来の言葉による事柄、現在の言葉による音声の事柄、認識を知らせる言葉による事柄、そしてすべての生きとし生けるものに畏れのない言葉を与える事柄である。これらが五つの言葉による事柄である。阿難よ、すべての過去の言葉による事柄は、二つの場所に潜在している。その二つとは何か。存在という見解の場所に潜在し、未来の場所に潜在する。その中で、未来の言葉による事柄は、その二つの場所については名称を立てて語ることはできない。現前していないがゆえに、また対象を得られないがゆえにである。その中で、現在の言葉による事柄は、すべての言葉による事柄の中で第一とされるべきである。その中で、これらを総括し、和合させ、作り、観察して知り、真に観察して知り、反対に観察して知り、数を数えて印した後、その数の印、真実の印において、数の計算に入れて作った後、『一つであるか、二つであるか。三つであるか、四つであるか、五つであるか。これは閻浮洲の人々の一、二、三、四、五という数の業の事柄である』と言い、十の数の事柄と、事柄でないものの因縁を見て、順序において百の数に至り、二百の数に至り、さらには千の数に至る。これらすべての場所において、言葉による事柄の中に入れた後、このように百、さらには百千と説く。これらすべての場所における言葉による事柄の説き方が、このように矜迦羅の数の中に入ることを知るべきである。矜迦羅の数から頻婆羅へ、頻婆羅の数から阿逾多へ、阿逾多の数から那由多へと進む。その中にまた一つの数があり、名を烏壃梁多比步迷という。これは欝単越の人々の数の名称である。もし閻浮提の人々が、一から数を起こして千の数、百千の数に至り、百千の数から倶致の数へ、倶致の数から阿由多の数へ、阿由多の数から那由多の数へ、那由他の数から壃迦邏の数へ、壃迦羅の数から頻婆羅の数へ、頻婆羅の数から黝羅破の数へと至るとしても、ただ上座の舎利弗だけがこの数を知ることができ、閻浮提の中には、この数を知る衆生は一人もいない。黝羅破の数から帝持婆藍婆の数へ、このようにただ上座の舎利弗だけが、帝持婆藍婆の住処の名称から醯都醯羅に至るまでを知ることができる。醯都醯羅から迦羅波へ、迦羅波から醯都因陀羅へ、醯都因陀羅から娑磨多羅婆へ、この娑磨多羅婆の数の行き方は尼羅婆遮に至り、尼羅婆遮から牟陀羅波羅へ、牟陀羅波羅から阿伽羅牟陀羅へ、阿伽羅牟陀羅から薩婆婆羅へ、薩婆婆羅から比薩闍婆帝へ、比薩闍婆帝から薩婆僧若へ、薩婆僧若から比步登伽磨へ、比步登伽磨から婆羅叉へと進む。このようにして、この婆羅叉の数の中に須弥山王を入れて数えることができるが、上座の舎利弗は一つの雄迦を持ってすべてを知ることができる。このようにして、この上にさらに数があり、名を幢頭安置という。幢頭安置からさらに滅という数に至り、滅からさらに伊吒という数に至り、伊吒からさらに迦留拏吒畢多という数に至り、迦留吒畢多からさらに一切総入という数に至る。その数の中には、恒伽河の砂の数ほどのものがすべて入り、上座の舎利弗もまたこの数を知り、上座の目犍連もまたこの数を知る。その数の上にさらに最も堅実という数があり、その数の中には百倶致の羅叉の恒伽河の砂がすべて入る。それより上は、上座の舎利弗も知らない。このように上座の舎利弗は希有の大いなる智慧を持つ。もしこの最も小さな蔓菁の種子のようなものでも、この倶致の百千の数に入れることができ、さらにその数に入れるならば、如来は知っているが、すべての衆生は知ることができない。上座の舎利弗たちにも知る者はない。それは、あのすべての言葉による道の事柄が総入するものだからである。さらに、言葉による道の事柄が総入するものがあり、衆生の名前の数が満ち足り、父母が置いた名前がある。いわゆる跋陀囉(賢)、跋陀囉婆羅(賢力)、跋陀囉婆睺(賢履)、跋陀囉婆帝(賢主)、施囉(首)、施囉優都施囉婆都(大首)、難陀(喜)、修難陀(善喜)、阿難陀(歓喜)、婆難陀である。このように、このような色、このような相において、衆生の名前の言葉による道の事柄の境界がある。さらにまた、言葉による道の事柄があり、出世の依り所となる住処である。それに依って梵行に住し、眼・耳・鼻・舌・身・意を知る。その中で何を眼というのか。眼というのは、眼根、奚羅那、避奚羅那、波施羅、避波施羅、阿婆施羅、阿器奚妒都陀寐帝、摩訶陀摩、阿目睺、阿帝優授富囉帝、奚羅那地舍、目佉、瞿拓囉、因地麗夜、逋利婆波施迦、鉢施末波陀低梨、膩泥低囉拏、叔婆、優波叔婆、柘妬利、陀妬鉢囉婆陀那、豆留波陀那、豆留波陀豆囉奴泥夜である。阿難よ、これらが眼の名称であり、世間の名称として呼ばれるように、その中でこの眼は一つの名称である。しかしこの眼はまた、眼と呼ばれ、眼をもって眼を捨てるべきである。何をもって眼を捨てるのか。智慧の眼をもって肉眼を捨てるべきである。どのように捨てるのか。捨て去るように。どのように捨て去るのか。取るべきではないからである。取るがゆえに眼であり、見ることを得るがゆえに眼である。もし取ることがなければ、得ることもない。すでに自己に無ければ、何を得ることができようか。何か。眼がなく、耳・鼻・舌・身・意がなく、捨てるためのものがない、ゆえに眼と名づける。このように事柄を観察し、働きを起こせば、智慧があり、憶念があり、弁才があるであろう。なぜか。あの眼は限りを作ることがない、いわゆる慧眼である。阿難よ、もし比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷が、この言葉の品においてこのように説かれたもの、このような文字の相、名称、味、句などを、このように説かれたものを受けて持ち、および三輪の品の最初に業をなす者、清らかな菩薩の地の福徳の聚まりの行、智慧の聚まりの行、すぐれた念の聚まりの行、禁戒の聚まりの行を修めるならば、このように弁才の三輪が清らかであり、一心の力、もろもろの菩薩の力を持つ。菩薩の力を具えた者は、これほどの智慧の聚まりを取るであろうが、しかし彼は限りを作ることはできない。しかしながら阿難よ、わたしは今あなたのためにさらに譬えを説こう。譬えによって、智慧ある人は説かれた意味を知るのである。阿難よ、すべての三千大千世界の中に、すべての衆生として摂められるもの、微細な塵のようなものに至るまで、それらがすべて人身を得て、一人ひとりの衆生がこのような力と勢いを具えているとする。この三千大千世界を肩に載せて、心のままにどこへでも行くことができるとする。阿難よ、もし最初に業をなす菩薩が、三輪の清らかな勢力を具え、一つの発心によって得る福徳の聚まりがあるならば、その福徳の聚まりに形色があるならば、それらの衆生は満ち足りて重荷を負い、取って去るであろう。その一つの発心の品が取る福徳の聚まりは、限りがたいのである。阿難よ、あなたの意はどうか。最初に発心した菩薩にとって、一つの発心によって取る福徳の聚まりはどれほどあるであろうか。阿難よ、それらの衆生たちが皆このように勢力を具え、このような福徳の聚まりを持って行き、一人ひとりの衆生が恒河の砂の数ほどの重荷を担いで行くとしても、このように順に、わたしは今この意味を示して説く。恒伽河の中にあるすべての砂の数、その砂の中から一つの砂を取って去るとしても、それらの恒河の砂は限りを作ることができ、いくらか去り、いくらか残る、と言うことができる。阿難よ、しかしあの福徳の聚まりは限りを作ることができず、いくらかの福徳の聚まりがある、と言うことはできない。阿難よ、わたしは少ない譬えをもってこの意味を示す。この意味に入るために、阿難よ、わたしは今さらにこの意味を弁説したい。阿難よ、この三千大千世界の中には、百倶致の諸々の恒河、百倶致の五大河がある。阿難よ、しかしそれらの百倶致の諸々の河のすべての砂があるとしても、仮に東方にこれほどの世界があるとし、このように南・西・北・四維・上下にもそれぞれこれほどの世界があるとする。阿難よ、それらの世界のすべての河の砂の中から一つの砂を取るとしても、阿難よ、それらの残りの砂はなお限りを作ることができるが、あの福徳の聚まりの残るものは限りがたいのである。すなわち、すべての三輪の清らかな菩薩が一つの発心によって取る福徳の聚まりである。阿難よ、さらに菩薩摩訶薩、大いなる商主、大いなる鎧を着ける者、大いなる導師、不可思議の智慧を具えた者は置いておこう。阿難よ、もし女人か丈夫が、このような三輪の清らかな菩薩のもとで、一つの慈しみの心をもって観察し憶念するならば、わたしが少なく説く譬えもまた十分ではない。しかしながらその善男子・善女人は、その三輪の清らかな菩薩のもとで、一つの慈しみの心を起こして観察し念じた後、どれほどの善根を取るであろうか。阿難よ、ゆえにわたしは今あなたに告げ、今あなたに語る。それらの衆生は善く利益を得るであろう。もしさらに阿耨多羅三藐三菩提心を発することができるならば、それらの衆生は大いに善い利益を得るであろう。もし阿耨多羅三藐三菩提心を発した後、三輪の清らかな心を発することができるならば、それらの衆生は善く利益を得るであろう。もし衆生がこのような菩薩のもとで、慈しみの心を起こして観察し念じた後、将来行うであろうし、また現在すでに行っている。このように阿難よ、それらの丈夫たちは無量の功徳の法を具えているのである。阿難よ、もしこの三輪の清浄を発することができ、およびこの五つの言葉による事柄を、このように正しく観察したならば、すべての行くところの処を受持し、すぐれた出離を得、不可思議の弁才を得、無量無辺の弁才を得、等しいもののない弁才を得るであろう。この品において一度聞くならば、彼は満足する百の偈を受けるべきである。」

大威德陀羅尼經卷第八

大威德陀羅尼經 巻第八


第七
第九

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