入大乘論卷上(本無闕第一品名目)
『大乗入門論』 上巻
堅意菩薩造
堅意菩薩造
北涼三藏法師道泰等譯
北涼三蔵法師道泰等訳
今欲解入大乘義。問曰:何故說入大乘義?答曰:我為眾生欲遮苦因故,汝今當知。或復有人近惡知識,為惡所誤,偏執己法、專著邪見、顛倒思惟,不解實義、不順佛智,誹謗聖說、誹謗聖說者,則壞正法。壞正法者,得大罪報,如世尊說:謗法之罪,重於五逆,惡道長遠久受苦報。如偈說曰:
さて、これより大乗の教えの真髄を説き明かそう。
問う:「なぜ大乗の教えを説くのか?」
答えよう:私は人々を苦しみの原因から救いたいからだ。よく聞きなさい。
ある者は悪しき友に近づき、悪に惑わされる。自らの考えだけに固執し、誤った見解に執着し、道理に反した考え方をする。真実の意味を理解せず、仏の智慧に従わず、聖なる教えを誹謗する。
聖なる教えを誹謗する者は、正しい教えを壊す。正しい教えを壊す者は、大きな罪の報いを受ける。
世尊が説かれているように、「教えを誹謗する罪は、五逆の罪よりも重い。悪道は遠く長く、苦しみの報いを受けることになる」と。
次の偈にもある通りである。
「誹謗大乘法, 決定趣惡道,
此人受業報, 實智之所說。
生墮地獄中, 大火熾然身,
焚燒甚苦痛, 業報罪信爾。
熾然大鐵犁, 具滿五百數,
而耕其舌上, 遍碎身苦惱。
若從地獄出, 復受餘惡報,
諸根常缺漏, 永不聞法音;
設使得聞者, 復生於謗法,
以謗法因緣, 還墮於地獄。」
大乗の法を誹謗すれば、 必ず悪道に趣く。 この人の受ける業報は、 真実の智慧による説き示しである。
地獄に堕ちて生まれれば、 大火がその身を焼き、 燃え盛る苦しみは甚だしく、 業報の罪はまさにそのとおり。
熱く燃える大鉄の犁(すき)が、 五百の数も満ちており、 その舌の上を耕し、 全身は砕かれて苦しみに満ちる。
もし地獄から出ても、 さらに他の悪報を受ける。 諸々の感覚器官は常に欠け損じ、 永遠に法の音を聞くことがない。
たとえ聞く機会を得ても、 再び法を誹謗する心を生じ、 その誹謗の因縁によって、 再び地獄に堕ちてしまう。
謗法眾生聞如是說,於大乘中便生疑心,如尊者提婆所說偈:
謗法の衆生は、このように説かれたことを聞くと、大乗の教えに対してただちに疑いの心を起こします。それは尊者提婆が説かれた偈に示されているとおりです。
「薄福之人, 不生於疑; 能生疑者,
必破諸有。」
「福の薄い人は、疑いを抱くことすらない。疑いを抱くことができる者は、必ずあらゆる執着を打ち破る。」
若有疑者皆應聽法,聞已意解便得開悟,得開悟已即生信心,生信心已便生喜樂,生喜樂已如是次第生聞思修,乃至具足得一切種智。因謗大乘而墮惡道,亦由大乘起諸善業,如人因地故倒,還依地而起。又因於智趣菩提道,亦與眾生共和合有,若離眾生則無有得菩提道者。從眾生界出生一切諸佛菩提,如尊者龍樹所說偈:
疑う者があるならば、皆よく法を聞くべきである。聞いて心が解ければ悟りを得る。悟りを得れば信心が生じる。信心が生じれば喜び楽しみが生じる。喜び楽しみが生じれば、こうして次第に聞・思・修が生じ、ついには一切種智を具足するに至る。
大乗を誹謗したために悪道に堕ちるとしても、また大乗によって諸々の善業を起こすのである。人が地によって倒れるがゆえに、また地によって起き上がるように。また智慧によって菩提の道に向かい、また衆生と和合して共に存在するのである。もし衆生を離れれば、菩提の道を得る者はいない。衆生の世界から、一切の諸仏の菩提が生まれるのである。
尊者龍樹の偈に曰く、
「不從虛空有, 亦非地種生,
但從煩惱中, 而證成菩提。」
虚空から得られるものではなく、 地の種から生まれるのでもない。 ただ煩悩の中からこそ、 悟りは証されるのである。
問曰:汝說善入摩訶衍論。如是功德云何名為摩訶衍耶?答曰:菩薩藏處名摩訶衍。
問う:あなたが説く善入摩訶衍論、その功徳はどのようなもので、なぜ摩訶衍というのでしょうか?
答える:菩薩の教えが収められている場所、それを摩訶衍と呼びます。
問曰:佛不說三乘亦摩訶衍乎?答曰:如是。此大乘中亦說三乘即名三藏。如《菩薩藏經》中說,佛告阿闍世王:族姓子!藏有三種。何等為三?謂聲聞藏、辟支佛藏、菩薩藏。族姓子!非以聲聞乘故名為三藏,亦非以辟支佛乘故名為三藏,唯諸菩薩所學大乘得名三藏。何以故?夫說法者具足三乘乃名三藏。以菩薩說法能具三乘故,是故我說名三藏耶。族姓子!有三種學人:聲聞學、辟支佛學、菩薩學。聲聞乘者不學辟支佛乘。何以故?非所解故。辟支佛乘者不學菩薩乘。何以故?亦非所解故。族姓子!唯諸菩薩雖學聲聞、辟支佛乘,而不證於聲聞、辟支佛道。學菩薩乘,深知菩薩所行之法,常樂隨順。以是義故,菩薩乘者名為三藏,非謂聲聞、辟支佛乘。於餘經中以具分別,是故我今但略說耳。如汝意謂非三藏者,汝今但以《增一阿含》、《中阿含》、《長阿含》、《雜阿含》百千等偈以為一藏,毘尼、阿毘曇二百千偈名為二藏,盡具修習,名為三藏。若如是說,不名三藏。所以者何?諸餘經等則非佛說,有如是過。阿含、毘尼、阿毘曇等亦是三藏。雜藏、舍頭羅經、胎經、諫王本生、辟支佛因緣,如是八萬四千法藏,尊者阿難從佛受持者,如是一切皆有非佛語過。若無過者,當知一切盡是佛說。如是所說若皆是藏,此則便有百千等藏。汝言三藏,是語自壞。復有阿難所不受者,佛成道二十年後方於僧中自言:我年老大,須供給人。若能為我作給侍者,當自言能。爾時大眾和合,即差阿難為佛侍者。阿難便語同梵行人:如來有八萬四千法聚,我今悉能受持。唯先二十年中,有二比丘所受持者,皆悉不了。以是義故,當知阿難所受持者,不名多聞。佛所說法中,阿難實有不任器者,如《中阿含》說,釋提桓因語欝多羅言:尊者!我得他心智,觀閻浮提一切眾生,無有盡能受持佛法;唯除尊者,餘不能了。以是因緣,當知阿難非悉能持一切佛法。聲聞弟子及以阿難不任法器,諸大乘經已具廣說。如《首楞嚴經》中,佛為淨月藏天子說:阿難所持少不足言,不受持者乃有無量。我所知法百千億分不說其一,阿難於我所說法中百千億分不持其一。善男子!我於一日一夜,十方世界梵、釋、四天王、天、龍、夜叉、乾闥婆及諸菩薩一切來集,為說智慧修多羅偈頌章句,眾生所行諸波羅蜜,及說聲聞辟支佛乘厭惡生死、讚歎涅槃、滿足諸波羅蜜,乃至為諸天子廣演說法一日一夜,假使滿閻浮提如微塵數多聞智慧皆如阿難,於一日一夜百千億分亦不能持具足一分。乃至復滿十方微塵世界皆如阿難,不能盡持亦復如是。處處經中亦說,阿難不任法器。以是義故,當知阿難不能盡持一切佛法。
問う:仏は三乗や摩訶衍(大乗)を説かれなかったのでしょうか? 答え:そうではない。この大乗の中にも三乗が説かれており、それこそが三蔵と呼ばれる。例えば『菩薩蔵経』の中で、仏がアジャータシャトル王にこう告げている:「善き家の子よ!蔵には三種類ある。どの三種類か?すなわち、声聞蔵、独覚蔵、菩薩蔵である。善き家の子よ!声聞乗だからといって三蔵と呼ばれるのではなく、また独覚乗だからといって三蔵と呼ばれるのでもない。ただ諸々の菩薩が学ぶ大乗のみが三蔵と名づけられるのである。なぜか?法を説く者は、三乗を具足して初めて三蔵と名づけられるからだ。菩薩の説法は三乗を具足するがゆえに、私はそれを三蔵と名づけるのである。善き家の子よ!三種類の学び人がいる。声聞の学び、独覚の学び、菩薩の学びである。声聞乗の者は独覚乗を学ばない。なぜか?それは了解の及ばないところだからである。独覚乗の者は菩薩乗を学ばない。なぜか?それもまた了解の及ばないところだからである。善き家の子よ!ただ諸々の菩薩だけは、声聞乗や独覚乗を学びながらも、声聞や独覚の道に証入することはない。菩薩乗を学び、菩薩の行う法を深く知り、常にそれを喜んで従うのである。このような理由から、菩薩乗こそが三蔵と呼ばれるのであり、声聞乗や独覚乗が三蔵と呼ばれるのではない。他の経典ですでに詳しく説かれているので、私は今は簡略に述べるだけである。あなたが「三蔵ではない」と考えるなら、あなたはただ『増一阿含』『中阿含』『長阿含』『雑阿含』の百千の偈をもって一蔵とし、毘尼(律蔵)や阿毘曇(論蔵)の二百千の偈をもって二蔵とし、これらをすべて修行することを三蔵と呼んでいるにすぎない。もしそのように説くなら、それは三蔵とは呼べない。なぜか?それ以外の経典は仏の説法でないという誤りが生じるからである。阿含や毘尼、阿毘曇などもまた三蔵である。雑蔵、舎頭羅経、胎経、諫王本生、独覚因縁、これらの八万四千の法蔵は、尊者アーナンダが仏から受持したものであるが、これらすべてに「仏の言葉でない」という過失が生じることになる。もしその過失がないなら、一切が仏の説法であると知るべきである。このように説くなら、もしすべてが蔵であるとすれば、百千もの蔵があることになる。あなたの言う「三蔵」という言葉は、それ自体が自ら破綻している。さらに、アーナンダが受け継がなかったものもある。仏が成道して二十年後、僧の中で自ら言われた:「私は年老いたので、給仕する者が必要だ。もし私の給仕をしてくれる者がいるなら、自ら名乗り出なさい。」その時、大衆は和合し、アーナンダを仏の侍者に選んだ。アーナンダは仲間の修行者たちに言った:「如来には八万四千の法の集まりがある。私は今、それらすべてを受持することができる。ただ、最初の二十年間に、二人の比丘が受持したものについては、すべてを完全には理解していない。」このような理由から、アーナンダが受持したものを「多聞」とは呼べないことが分かる。仏の説法の中には、アーナンダでさえ完全に受け止められなかったものがある。例えば『中阿含』に、帝釈天がウッタラに言ったとある:「尊者よ!私は他心智を得て、閻浮提の一切の衆生を観察したが、仏法を完全に受持できる者はいなかった。尊者を除いては、他の者は理解できなかった。」この因縁から、アーナンダは一切の仏法を完全に受持したわけではないと知るべきである。声聞の弟子やアーナンダが法器として適さないことは、諸々の大乗経典ですでに詳細に説かれている。例えば『首楞厳経』の中で、仏が浄月蔵天子に告げている:「アーナンダが受持したものは少なく、言うに足りない。受持しなかったものは無量である。私の知る法の百千億分の一も説かれていない。アーナンダは私の説いた法の百千億分の一も受持していない。善き男子よ!私は一昼夜の間に、十方世界の梵天、帝釈天、四天王、天、龍、夜叉、乾闥婆、そして諸々の菩薩が全て集まり、智慧の経典、偈頌、章句を説き、衆生の行う諸々の波羅蜜、さらに声聞や独覚乗の生死を厭い涅槃を讃嘆し、諸波羅蜜を満たすことを説いた。そして、諸々の天子のために一昼夜にわたって広く法を説いた。仮に閻浮提中を微塵の数ほどの多聞で智慧ある者で満たし、彼ら一人一人が皆アーナンダのような者であっても、一昼夜の間に説かれた法の百千億分の一すらも受持することはできない。さらに、十方の微塵の世界すべてがアーナンダのような者で満たされても、同じように完全に受持することはできない。」経典の随所で、アーナンダが法器として適さないことが説かれている。このような理由から、アーナンダは一切の仏法を完全に受持したわけではないと知るべきである。
問曰:如來世尊不說阿難於多聞中為第一耶?答曰:佛於聲聞眾中假說阿難以為第一,非謂菩薩。又復汝等於阿難所持尚不盡聞,況於大乘具足深義!汝意若謂是聲聞乘即大乘者,此事不然。何以故?因果異故。若聲聞乘因與大乘因而不異者,果亦應不異。現見果異故,當知因亦異。何以故?聲聞學者但斷結障、觀無常行、從他聞法。菩薩所斷微細諸習,乃至究竟觀一切法,不從他聞得自然智、無師智。以是義故,非以聲聞乘同大乘也。
問うていわく、如来世尊は阿難を多聞において第一と説きたまうことなきや。 答えていわく、仏は声聞の衆の中において仮に阿難を第一と説きたもう。菩薩を指して言うにあらず。また、あなたがたは阿難の持つところすらも尽く聞くことあたわず。ましてや大乗に具わる深い義においておや。もしあなたの意に、声聞乗すなわち大乗なりと謂わば、この事はしかにあらず。いかなる故に。因果は異なるがゆえに。もし声聞乗の因と大乗の因と異ならずんば、果もまた異なるべからず。現に見るに果は異なれば、まさに因もまた異なることを知るべし。いかなる故に。声聞の学ぶ者は、ただ結障を断じ、無常の行を観じ、他より法を聞く。菩薩の断ずるところは微細なるもろもろの習にして、究尽して一切の法を観じ、他より聞かずして自然智・無師智を得る。この義をもってのゆえに、声聞乗をもって大乗と同じくせざるなり。
問曰:佛不說解脫無異也。答曰:聲聞解脫時,頗能令使須彌山等盡向道場、悉皆曲躬,光明遍照十方世界,八十由旬一切魔眾悉來降不。菩薩解脫,如上所說悉能為之。以是義故,佛於餘經雖說解脫相等無異,大小實殊。猶如虫嚙芥子中空,雖有空名,當與十方世界中空得為一不?空雖不異,大小有別。又如熒火欲等日月,亦如蚊子比金翅鳥。如娑留枝比丘說佛本行偈:
問うて曰く、仏は解脱に異なることなしと説きたまうや。
答えて曰く、声聞が解脱する時、いまだに須弥山などをしてことごとく道場に向かわせ、すべてをくまなく礼拝せしめ、光明を十方世界にあまねく照らし、八十由旬のあらゆる魔衆をことごとく降伏させたことがあろうか。菩薩の解脱は、先に述べた通り、すべてこれを為すことができる。この理由により、仏は他の経典において解脱の相は等しく異なることなしと説きたもうとも、その大小は実に異なるのである。
たとえば、虫が芥子の粒をかじってできた空洞は、空虚という名はあっても、十方世界の虚空と一つになることができるだろうか。空という性質に違いはなくても、その大小には差がある。また、蛍火が太陽や月と等しくなろうと欲し、蚊が金翅鳥と比べられるようなものである。サンスクリットの偈にいう、仏の本行の偈の如し。
「一切諸光明, 燈焰與掣電,
星月照差別, 日光最第一。
飛行諸禽獸, 蚊蟻及與蜂,
眾鳥飛各異, 金翅最不同。」
あらゆる光の中で、 ともしびの炎や稲妻、 星や月には明るさの違いがあれど、 太陽の光が最も優れている。
空を飛ぶ鳥や獣、 蚊や蟻、そして蜂、 様々な鳥たちは飛び方が異なるが、 金翅鳥(こんじちょう)は、その中でも格別である。
以是故,雖少相似,大小有殊。當知因既有異,果豈同耶?汝言解脫無異,如是觀察解脫不同。聲聞解脫名愛盡解脫,非一切解脫,但為鈍根少智眾生假分別說;大乘解脫,斷煩惱習一切都盡,為利根菩薩廣分別說。如汝今說聲聞解脫即大乘解脫者,如來則非一切種智。有如是過。如佛小疾,遣目連詣耆毱所,當須何藥。是時耆毱已亡七日,生忉利天,目連即便詣彼天所。爾時耆毱將入後園,即便問言:如來有疾,當須何藥?答曰:用酥。如來身者猶如金剛,諸惡已滅豈有疾乎而問耆毱?如婆拘羅比丘,於九十劫前以一藥果施同梵行者,於九十劫中身常無病。於最後身,年至八十初無微病。正以此一訶梨勒果微施因緣尚得無病,況復如來億百千萬阿僧祇劫具足檀波羅蜜、備諸功德,乃至截身手足髓腦血肉而施病者,以是因緣豈得疾耶?如經所說則現如來非一切智。如來又時入城乞食,空鉢還歸。為度於提婆達多令使出家,如《枯樹經》說,見大火聚,爾時諸比丘中便有生退心者。為度馬師、滿宿故,數數罵婆羅門、奪賴闍。薩遮、尼乾。孫陀利等。於九十日中受食馬麥,目連、舍利弗入於陶室,乃有如是等事。汝意若謂有餘業者。此則不然。何以故?如來已盡一切諸惡、具滿一切無量功德。有餘惡業則有大過,汝曾不聞諸經中說如來永斷一切煩惱業結習耶?如摩陀遮離所說偈讚:
それゆえ、たとえ似たところがあっても、大小に違いがある。因(原因)がすでに異なるなら、果(結果)が同じであるはずがない。あなたが「解脱に違いはない」と言うが、このように観察すれば解脱は異なる。声聞の解脱は「愛尽解脱」と呼ばれ、一切の解脱ではなく、鈍根で智慧の少ない衆生のために仮に分別して説かれたものである。大乗の解脱は、煩悩の習気を断じてすべて尽くすものであり、利根の菩薩のために広く分別して説かれる。あなたが今、声聞の解脱はすなわち大乗の解脱であると言うなら、如来は一切種智ではないことになる。そのような過りがある。
例えば、仏が小さな病にかかられた時、目連を遣わして耆毱のもとへ行かせ、「どのような薬が必要か」と尋ねた。この時、耆毱はすでに亡くなって七日が経ち、忉利天に生まれていた。目連はすぐに彼のいる天に赴いた。その時、耆毱が後園に入ろうとしていたので、目連は尋ねた。「如来に病がおありだ。どのような薬が必要か?」耆毱は答えた。「酥(バター)を用いなさい。」如来の身体は金剛のようであり、すべての悪はすでに滅している。どうして病があろうか、耆毱に尋ねるとは?
また、婆拘羅比丘は九十劫の前に、一つの薬果を同じく梵行を修行する者に施した。その功徳により、九十劫の間、身体に病はなかった。最後の身においても、八十歳に至るまで微かな病もなかった。まして、この一つの訶梨勒果(アーモンドの実)の微かな布施の因縁によってさえ無病を得られるのだ。ましてや、如来が億百千万阿僧祇劫の間、檀波羅蜜を満たし、諸々の功徳を備え、さらには手足や髄、脳、血肉を断って病者に施された因縁によって、どうして病があろうか?経典の説くところによれば、これは如来が一切智ではないことを示している。
また、如来は時に城に入り托鉢されたが、空鉢で帰還されたことがある。また、提婆達多を度して出家させるため、また『枯樹経』に説かれるように、大いなる火の塊を見て、その時、比丘たちの中に退屈の心を生じる者があり、彼らを度するためであった。馬師や満宿を度するため、何度も婆羅門を罵り、賴闍を奪い、薩遮や尼乾、孫陀利などが現れた。九十日の間、馬の麦を食され、目連や舎利弗が陶室に入ったこともある。このような様々な出来事があった。
あなたがもし「残余の業がある」と考えるなら、それは正しくない。なぜなら、如来はすでに一切の悪を尽くし、一切の無量の功徳を満たしておられるからだ。残余の悪業があれば、大いなる過りがある。あなたは諸々の経典で、如来が一切の煩悩と業の結びつきの習気を永く断じたと説かれているのを聞いたことがないのか?例えば、摩陀遮離が偈頌で讃えたように。
「一切結習盡, 唯有救世者,
一切智所有, 功德悉成滿。」
全ての煩悩の束縛を消し尽くし、 ただ世を救う方のみが、 あらゆる知恵を持つ者のもつ功徳を、 完全に成就しておられる。
有三種習,所謂業習、煩惱習、威儀習,此三種習如來永盡。以是因緣,若有餘業此則大過。汝今若謂是方便者,此亦不然。何以故?汝意先謂佛身是實,不言方便及與應化。汝常自言佛身是一,何得復有方便應化?汝於何經聞說方便及應化耶?汝經中說唯有後邊身,不言別有法身與應化方便身異。而我《十住經》中所說別有法身,不與方便應化身同。是故大乘經中說佛是一切智,則無有過;汝小乘中說一切智,則有大失。若謂聲聞乘即是大乘,此事不然。大乘者與聲聞乘則有差別,以廣大故。汝意若謂聲聞乘中顯示大乘,是亦不然。何以故?理相違故。聲聞乘者從他聞法,大仙之乘紹三寶種不斷絕故。如毘琉璃寶終不出於水精之中,體差別故。是故大乘微妙甚深,其心廣大。菩薩摩訶薩次第修學,始從初地乃至十地,具足一切功德智業,是故佛說名為摩訶衍乘。若聲聞乘從摩訶衍出,則有是理。是故菩薩修學十地,具滿一切諸波羅蜜故,能出生三乘善法。如《十地經》說,金剛藏菩薩語解脫月菩薩言:佛子!譬如字章,字本為初,一切文字皆出字本。如是佛子!一切佛法亦復如是,以地為初,亦從於地而得究竟成自然智。是故大乘名曰甚深,出生一切聲聞功德,非謂小乘能出大也。佛說十地,猶如金聚具足無失,云何不受?如來以慈悲力,為鈍根故說聲聞乘。而汝信受,便自偏執受行小法,不信大乘平等正教。是故當知佛說大乘名最吉勝。
三つの習気(習慣的な傾向)があります。すなわち、業の習気、煩悩の習気、威儀の習気です。この三つの習気を如来は完全に断ち尽くしています。そのため、もし残された業があるならば、それは大きな過失となります。あなたが今、これを方便であると言うならば、それもまた誤りです。なぜなら、あなたは本来「仏身は実在する」と言い、方便や応化については言及しなかったからです。あなたは常に「仏身は一つである」と主張しながら、どうして方便や応化があると言えるのでしょうか。あなたはどの経典で方便や応化について聞いたのですか。あなたの経典には「最後の身」だけがあると説かれ、法身と方便応化身とが別にあるとは書かれていません。しかし、私の『十住経』では別に法身があり、方便応化身と同じではないと説かれています。それゆえ、大乗経典で「仏は一切智者である」と言っても過ちはありません。あなたの小乗で「一切智者」と言うのは大きな誤りです。もし「声聞乗がすなわち大乗である」と言うならば、それは誤りです。大乗は声聞乗とは異なり、その教えが広大だからです。あなたが「声聞乗の中に大乗が示されている」と言うならば、それも誤りです。なぜなら、道理に反するからです。声聞乗は他人の教えを聞いて悟るものであり、大仙(仏)の乗り物は仏・法・僧の三宝の種を絶やさないものだからです。例えば、毘瑠璃宝(瑠璃)は水晶の中からは決して生まれません。性質が異なるからです。それゆえ、大乗は微妙で非常に深遠であり、その心は広大です。菩薩摩訶薩は順を追って学び、初地から十地に至るまで、一切の功徳と智慧の業を具足します。それゆえ仏はこれを摩訶衍乗(大乗)と名付けました。もし声聞乗が摩訶衍から出たのであれば、それは道理に適います。それゆえ、菩薩は十地を修行し、全ての波羅蜜(完全な修行)を満たすことによって、三乗の善法を生み出すことができるのです。『十地経』にこうあります。金剛蔵菩薩が解脱月菩薩に告げて言いました。「仏子よ。例えば文字の教えは、字母(アルファベットの基本)を初めとし、全ての文字は字母から出ます。そのように、仏子よ。全ての仏法もまた同じく、初めに十地があり、十地から究極の自然智(仏の智慧)を成就するのです。」それゆえ、大乗は「甚深」(非常に深い)と名付けられ、一切の声聞の功徳を生み出します。小乗が大乗を生み出すというのではありません。仏が説かれた十地は、金の塊のように完全で欠けるところがありません。どうして受け入れないのですか。如来は慈悲の力によって、鈍根の者のために声聞乗を説きました。あなたはそれを受け入れ、偏って小法を受持し、大乗の平等な正しい教えを信じません。それゆえ、知るべきです。仏の説かれた大乗は、最も吉祥で優れたものであると。
問曰:世尊昔說:於我滅後當來世中,多有眾生起諸諍論,此是佛說、此非佛說。是故如來以法印印之,若義入修多羅、隨順毘尼、不違法相,是名佛說。答曰:佛亦不言聲聞乘者非是我說,乃至菩薩大乘亦復如是。佛說不異,等一相故,以法印印。汝言入者,為是義入修多羅、為文字入耶?若以文字入者,無有是處。何以故?十二部經一切文偈章句各異,是故當知非文字入。若以義入,理不相違。義者,若順修多羅義,與法相相應其義顯現,是故名為順修多羅耶。若顯示聲聞法,名聲聞乘,隨順入修多羅。若顯示辟支佛法,名辟支佛乘,隨順入修多羅。若顯示菩薩法,名菩薩乘,隨順入修多羅。若我顯示十地功德、明菩薩行,是名真說,隨順入於大乘。但汝意偏黨,獨謂入小乘三藏。大乘三藏中我已說入,是故三藏即是大乘。何以故?十二部中說毘佛略即是大乘。如《中阿含》說,云何名比丘?所謂知法,以能善解十二部經,修多羅乃至憂婆提舍。毘佛略者是摩訶衍。何以故?毘佛略經為諸眾生說修對治法故名毘佛略,亦有眾多乘故名毘佛略,亦以多莊嚴具故名毘佛略,亦能出生無量大果報故名毘佛略,非是稱量所能知故名毘佛略,除斷一切諸邪見故名毘佛略。若汝意謂,我聲聞法中廣說修多羅偈頌章句亦名毘佛略者,無有是處。何以故?汝依阿含說為毘佛略,但有言語。若但言語,此非可信。若《阿含經》中必有斯義,何處章句為聲聞說是毘佛略?若無定文,是故當知毘佛略者顯發大乘,非謂聲聞小乘說也。汝聲聞經一部所說,終無百千偈讚文句,況復當有億萬廣說。如來世尊教諸聲聞,唯示無常令厭生死,使知苦本速求涅槃。從初如是乃至奉行,句味尠少,則無甚深廣大之義。大乘經說菩薩所為,其事深廣。如《大喻經》、《賢劫三昧經》、《解脫經》、《華首經》如是等,悉是摩訶衍,皆名毘佛略。如《結解脫經》中,善財童子詣善知識海幢比丘所,十二年中入大海三昧,白海幢言:此三昧中深廣無邊,更有法門大此三昧不?說是語已,於大海三昧中見大蓮華,佛從中出,即以右手摩海幢頂,讚言:善哉善哉!善男子!更有普眼法門,汝當受持。海幢即受普眼法門章句,次第為他廣說,告善財言:善男子!我於一剎那頃所可受持普眼法門,用大海水盡以磨墨,積大紙聚猶如須彌山,天下草木持以為筆,三千世界水陸眾生悉為書師,於一剎那頃所受法門百千分中猶不能書盡其一分,況復一日一夜乃至十二年中所受甚深無量無邊大分要義。善財童子於一善知識所,從聞法已能如是無量無邊過億千數,況復諮問微塵世界諸佛等邊,及善知識所受教法。以是因緣,具足大乘名毘佛略,無量無邊非聲聞耶。此義甚深,是故一切聲聞所修行法悉入摩訶衍道,最為大吉,是名隨順修多羅義。今當復說隨順比尼。三乘聖道皆同斷貪欲、瞋恚、愚癡,名為比尼。修多羅者,分別因果。阿毘曇者,分別法相亦斷煩惱。摩訶衍者,亦說斷除貪欲瞋恚愚癡煩惱一切惡法。佛教聲聞淨己三業名為比尼。為菩薩說淨己三業,乃至成佛,兼及眾生滿足一切尸波羅蜜。菩薩所持是自性戒,發菩提心得真實果。是故當知摩訶衍者隨順比尼。不違法相者,三乘經說不違十二因緣,大乘亦不違十二因緣。善觀察者能知大乘即三法印,若不善觀察則無大乘亦不具三乘。若誹謗摩訶衍者是大過罪,汝今若言此是魔說,佛所不說。然諸經中實無此語,若但口言為大乘者,是魔所說終不可信。汝意若謂是佛說者,猶如師子身中生虫則還食師子。三乘皆爾,不獨大乘。是故當知摩訶衍者非魔所及,唯佛能說。
問う:世尊はかつて「我が滅後、未来の世には多くの衆生が様々な論争を起こし、『これは仏の説かれたものだ』『これは仏の説かれたものではない』と言うだろう」と説かれました。それゆえ如来は法印をもってこれを印し、もしその義が修多羅にかなり、毘尼に随順し、法相に違わなければ、これを仏説と名づけるのです。
答える:仏は声聞乗を「我が説にあらず」とも言われず、菩薩大乗もまた同じです。仏の説は異ならず、等しく一つの相であるから、法印をもって印されるのです。あなたが言う「かなう」とは、その義が修多羅にかなうことであり、文字がかなうことでしょうか?もし文字がかなうとするなら、それは正しくありません。なぜなら、十二部経のすべての文や偈頌の章句はそれぞれ異なるからであり、ゆえに文字によるのではないと知るべきです。もし義がかなうのであれば、理に違わないのです。義とは、修多羅の義に順い、法相に相応してその義が顕われること、これを「修多羅に順う」と名づけるのでしょうか。
もし声聞の法を顕すなら、それを声聞乗と名づけ、修多羅に随順して入ります。もし辟支仏の法を顕すなら、それを辟支仏乗と名づけ、修多羅に随順して入ります。もし菩薩の法を顕すなら、それを菩薩乗と名づけ、修多羅に随順して入ります。もし私が十地の功徳を顕し、菩薩の行いを明らかにするなら、これを真の説き方と名づけ、大乗に随順して入るのです。
ただあなたの心は偏っていて、ただ小乗の三蔵に入るものと思っています。大乗の三蔵の中にも私はすでに「入る」と説いています。ゆえに三蔵はすなわち大乗なのです。なぜなら、十二部経の中で毘仏略を説くのは、すなわち大乗だからです。例えば『中阿含経』に「何をもって比丘と名づけるか。すなわち法を知る者である。よく十二部経を善く解し、修多羅から憂婆提舍に至るまでを解するからである」とあります。毘仏略者は摩訶衍(大乗)です。なぜなら、毘仏略経は諸々の衆生のために修対治法を説くから毘仏略と名づけられ、また多くの乗があるから毘仏略と名づけられ、また多くの荘厳具があるから毘仏略と名づけられ、また無量の大果報を生み出すから毘仏略と名づけられ、はかり知ることができないから毘仏略と名づけられ、あらゆる邪見を断ち除くから毘仏略と名づけられるのです。
もしあなたが「我が声聞法の中でも、修多羅や偈頌の章句を広く説くものを毘仏略と名づける」と思うなら、それは正しくありません。なぜなら、あなたは阿含経に基づいて毘仏略と言うが、それは言葉に過ぎません。もし言葉だけなら、これは信頼できないのです。もし阿含経に必ずこの義があるとしても、どの章句が声聞のために毘仏略を説いているというのでしょうか。もし定まった文がなければ、ゆえに毘仏略は大乗を顕すものであり、声聞の小乗を説くものではないと知るべきです。あなたの声聞経の一つの部が説くところは、終に百千の偈の賛文句はないでしょう。ましてや億万の広説があろうはずもありません。如来世尊が諸々の声聞を教えるのは、ただ無常を示して生死を厭わせ、苦の根本を知らせて速やかに涅槃を求めさせるためです。最初の「如是」から最後の「奉行」に至るまで、句や味わいは少なく、深く広大な義はありません。大乗経は菩薩のなすところを説き、その事は深く広大です。例えば『大喻経』『賢劫三昧経』『解脱経』『華首経』などのようなものは、すべて摩訶衍であり、皆毘仏略と名づけられます。例えば『結解脱経』の中で、善財童子が善知識である海幢比丘のところに至り、十二年の間大海三昧に入り、海幢に「この三昧は深く広く限りがありませんが、この三昧よりもさらに大きな法門があるのでしょうか」と尋ねました。これを言い終えると、大海三昧の中に大蓮華が見え、仏がその中から出て、すぐに右手で海幢の頂を摩でて「善きかな善きかな。善男子よ、さらに普眼法門がある。あなたはこれを受け持つがよい」と讃えました。海幢はすぐに普眼法門の章句を受け、順を追って他の人のために広く説き、善財に告げました「善男子よ、私は一刹那の間に受け持った普眼法門を、大海の水を尽くして墨とし、積み重ねた紙を須弥山のようにし、天下の草木を筆とし、三千世界の水陸の衆生をすべて書師としても、一刹那の間に受け持った法門の百千分の一も書き尽くせない。ましてや一日一夜、あるいは十二年において受けた深く広大な無量無辺の大分の要義はなおさらである」と。善財童子は一つの善知識のもとで、教えを聞いてからこのような無量無辺で億千を超えることができました。ましてや微塵世界の諸仏のもとや、善知識に受けられた教えを尋ね問うことはなおさらです。この因縁によって、大乗を具足するものを毘仏略と名づけ、無量無辺であって声聞ではないのです。この義は非常に深いため、すべての声聞が修行する法は摩訶衍の道に入り、最も大吉です。これを修多羅の義に随順すると名づけます。
次に、毘尼に随順することについて説きましょう。三乗の聖道は皆、貪欲・瞋恚・愚癡を断ずることが同じであり、これを毘尼と名づけます。修多羅とは、因果を分別するものです。阿毘曇とは、法相を分別し、また煩悩を断ずるものです。摩訶衍もまた、貪欲・瞋恚・愚癡の煩悩やあらゆる悪法を断除すると説きます。仏は声聞に、自己の三業を清らかにすることを教え、これを毘尼と名づけました。菩薩には、自己の三業を清らかにすることから成仏に至るまで、衆生をも利益してすべての尸波羅蜜(戒度)を満たすことを説かれます。菩薩の持つ戒は自性戒であり、菩提心を発して真実の果報を得ます。ゆえに摩訶衍は毘尼に随順すると知るべきです。
法相に違わないとは、三乗の経が説くところが十二因縁に違わず、大乗もまた十二因縁に違わないということです。よく観察する者は、大乗がすなわち三法印であることを知ります。もしよく観察しなければ、大乗はなく、三乗も具わりません。もし摩訶衍を誹謗するなら、これは大いなる罪過です。あなたが今「これは魔の説であり、仏の説かれたものではない」と言うとしても、諸々の経の中には実際にその言葉はありません。もしただ口で大乗だと言うなら、それは魔の説くところであり、終に信じることはできません。もしあなたの意が「これは仏説である」と言うなら、それは獅子の身の中に虫が生じて獅子を食うようなものです。三乗は皆そうであり、大乗だけではありません。ゆえに摩訶衍は魔の及ぶところではなく、ただ仏のみが説くことができると知るべきです。
問曰:汝非魔說,我是魔乎?答曰。我與汝等俱非魔耶。
問う:あなたは魔の説を語っているのでは? 私は魔なのでしょうか? 答え:私もあなたも、ともに魔なのではありません。
問曰:若謂我與汝等俱非魔,說言魔說者此則應遮。答曰:我大乘法利及與眾生、順於法相,故多魔事,是故如來於大乘中說言遮魔。汝小乘法唯能自度,魔不擾惱,何須遮乎?是以如來昔於《法華》及《般若經》中說,於當來世,多有眾生喜起嫉妬故遮誹謗,墮於惡趣。汝所誦習,於何部經中言摩訶衍是魔所說?若汝經中不言摩訶衍魔所說者,自言魔說此亦叵信。汝意若謂聲聞法中亦有遮斷,但事已久滅難可證據。此亦不然。何以故?非處所故。若假令遮,佛以神力則能守護此法,經劫亦不墜沒。是故當知汝言久者,但有言語。假令魔說,能除惑障、不違正法,雖曰魔說即是正法,與佛語不異。何以故?如佛所說依法不依於人,是以我今但從正理、不取名字。又我等所求能滅智障、煩惱障者,即是世尊,若實魔者終不能說菩薩之法。何以故?魔不能知菩薩從禪定生聞思修慧。厭離欲惡不善之法是大乘義,唯佛能說。從於初地乃至十地,如是次第,四禪、四無量心、四無色定、滅受想定、菩提心、諸波羅蜜,隨宜方便成熟攝眾生法。十善道、戒、聞、智慧、不放逸、離世八法、八聖道、轉法輪、堅持頭陀具足功德、苦空無常無我寂滅、十二因緣、出入諸禪、三解脫門、諸陀羅尼、三十七品助道之法、諸神通門、實諦四辯、禪智二輪以自莊嚴皆悉和合,遊戲諸法而於生死涅槃等中不背生死亦不向涅槃,心常厭惡,正觀諸地出離諸地,不墮聲聞、辟支佛地,淨佛國土,隨順法忍、無生法忍,不退轉地、受正位地,力、無畏、不共法、相好法身,為眾生故住於生死,順轉決定轉,隨順不轉決定不轉。如是等因果次第法、不共法、非覺法,魔不能說,非魔境界故。魔有四種,若言陰魔作是說者,我終不說佛有陰身。又復若言實是魔說,如斯語者,彌勒菩薩亦應遮止。又尊者賓頭盧、尊者羅睺羅如是等十六人諸大聲聞,散在諸渚,於餘經中亦說有九十九億大阿羅漢,皆於佛前取籌護法住壽於世界。東方弗婆提渚、麥渚、粟渚、師子渚、閻浮渚、大閻浮渚、跋提梨伽處、罽賓乃至阿耨大池,諸賢聖等皆住,守護佛法。若言摩訶衍是魔所說者,則為佛法之大患也,諸賢聖等悉應遮斷。是故當知言魔說者,皆是妄語,空作斯說。又大菩薩諸賢聖等皆護大乘,是摩訶衍紹三寶種不令斷絕。
問う: 「もし『私とあなたはどちらも魔ではない。魔の説法だと言うのは、これはむしろ否定されるべきだ』と言うなら、その通りです。答えよう: 我ら大乗の法は、衆生を利益し、法の相に従うがゆえに、数多くの魔の妨害がある。それゆえ如来は大乗の経典の中で、魔を遮るための教えを説かれたのです。あなたの小乗の法は、ただ自分自身を救うのみで、魔に悩まされることがない。ならば、なぜ遮る必要がありましょうか?
それゆえ、かつて如来は『法華経』や『般若経』の中で、未来の世には多くの衆生が嫉妬を起こしやすいので、誹謗を遮(ふせ)ぎ、悪趣に堕ちるのを防ぐと説かれました。 あなたが読誦している経典の、どの部に『摩訶衍(大乗)は魔の説いたものだ』と書いてありますか? もしあなたの経典に『摩訶衍は魔の説いたもの』と書かれていないのなら、自分勝手に『魔の説だ』と言うのは、信用できません。
あなたが『声聞の教えにも遮断の教えがあるが、それはすでに古いことで証拠を示すのが難しい』と言うのも、それも正しくありません。なぜなら、それは妥当な場所(根拠)ではないからです。たとえ遮断の教えがあったとしても、仏の神通力によってその法は守られ、劫を経ても滅びることはありません。ですから、あなたの言う『古い』というのは、ただの言葉に過ぎないと知るべきです。
たとえ魔が説いたとしても、それが惑いの障りを取り除き、正法に反しないなら、『魔の説』と呼ばれても、それは正法であり、仏の言葉と異なりません。なぜなら、仏が『法に依り、人に依るな』と説かれたように、私どもはただ正しい道理に従い、名前に惑わされないからです。
また、私たちの求めるものは、智障と煩悩障を滅するもの、すなわち世尊そのものです。もし本当に魔であれば、菩薩の法を説くことは決してできません。なぜなら、魔は菩薩が禅定から生じる聞・思・修の智慧を知ることができず、欲や不善の法を厭い離れること(大乗の義)は、ただ仏のみが説けるからです。
初地から十地に至るまで、その順序に従い、四禅、四無量心、四無色定、滅受想定、菩提心、諸波羅蜜、機に応じた方便、衆生を成熟させ摂取する法、十善道、戒、聞、智慧、不放逸、世間の八法を離れること、八聖道、法輪を転ずること、頭陀の功徳を堅持すること、苦・空・無常・無我・寂滅、十二因縁、出入の諸禅、三解脱門、諸陀羅尼、三十七品の助道法、諸神通門、真実の諦と四弁才、禅と智の二つの輪をもって自らを荘厳し、すべてを和合させ、諸法を遊戯し、生死と涅槃において、生死に背かず、涅槃にも向かわず、心は常に厭離し、正しく諸地を観察し、諸地を出離し、声聞・辟支仏の境地に堕ちず、仏国土を清浄にし、法忍に随順し、無生法忍を得、不退転地、受正位地、十力、四無畏、十八不共法、相好を備えた法身を得て、衆生のため生死に安住し、順転・決定転に従い、随順不転・決定不転に従う――こうした因果の次第の法、不共法、非覚法を、魔は説くことができません。魔の境地ではないからです。
魔には四種ありますが、もし『陰魔がこれを説いた』と言うなら、私はついに仏に陰身があるとは認めません。また、もし『実際に魔の説である』と言うような言葉があれば、弥勒菩薩もそれを遮るべきでしょう。 また、尊者賓頭盧、尊者羅睺羅など、十六人の大声聞は、各地の島々に散在し、他の経典には九十九億の大阿羅漢がおり、皆仏の前で籌(参)を取って法を護り、寿命を保って世界に住むと説かれています。東方の弗婆提渚、麦渚、粟渚、師子渚、閻浮渚、大閻浮渚、跋提梨伽処、罽賓から阿耨大池に至るまで、諸々の賢聖が住み、仏法を守護しています。もし『摩訶衍は魔の説いたものだ』と言うなら、それは仏法の大きな禍いであり、諸賢聖はすべてこれを遮るべきでしょう。ですから、『魔の説』と言うのは、すべて虚妄の語り、根拠のない言説であると知るべきです。
また、大菩薩や諸賢聖は皆、大乗を護り、この摩訶衍によって三宝の種を絶やさずに継承しているのです。」
問曰:如汝所說,若摩訶衍是三寶種,皆悉擁護菩薩聲聞。如今云何於誹謗大乘者何不遮止,使斯人輩不墮地獄、不趣惡道、不壞佛法。答曰:業報決定,不可除斷。業有二種,一者決定增長、二者決定受報,非諸菩薩聲聞賢聖所能除滅。造作惡業決定受報,不可救止。如瞿迦離比丘誹謗摩訶衍經是魔所說,當知是人必墮地獄,無能拔者。
問う:あなたの言う通り、大乗は三宝の種であり、菩薩や声聞をすべて護るというなら、なぜ大乗を誹謗する者たちを止めないのか。彼らが地獄に落ちず、悪道に趣かず、仏法を壊さないようにできないのか。
答え:業報は決まっており、取り除いたり断ち切ったりすることはできない。業には二種類ある。一つは「決定して増長する業」、もう一つは「決定して報いを受ける業」である。これらは菩薩や声聞、聖賢であっても除き滅ぼすことはできない。悪業を造れば、必ず報いを受け、救い止めることはできない。例えば、瞿迦離比丘が「大乗経典は魔の説いたものだ」と誹謗したように、そのような人は必ず地獄に堕ち、誰も救い出せないのである。
問曰:汝言謗摩訶衍能入惡道。亦是麁語,我未信耶。答曰:汝言佛說摩訶衍是魔語者,即是誹謗三世諸佛,亦是一切眾生大怨。所言甚麁獷,當受惡口不善重報,如佛偈說:
問うて言わく、「汝は『摩訶衍を謗れば悪道に入る』と言う。これもまた粗暴な言葉であり、私はまだ信じない」と。 答えて言わく、「汝が『仏の説く摩訶衍は魔の言葉である』と言うこと、それこそが三世諸仏を誹謗し、また一切衆生の大いなる怨みである。その言葉は極めて粗暴であり、悪口の不善なる重い報いを受けることになろう。仏の偈に説くが如し——
「人生於世間, 如斧在口中,
自斬害其身, 斯皆由惡業。」
人が世の中に生きているのは、まるで斧を口にくわえているようなものだ。 自ら己れを傷つけてしまうのは、全て悪しき行いによるのである。
汝謗摩訶衍,如是麁語非我所說。我今但欲令汝不起誹謗,為利益故便作是說。猶如病人食不應食,良醫瞻病,禁斷不聽,為憐愍汝妄作綺語,言摩訶衍是魔所說。過去諸佛已說摩訶衍、未來諸佛當說摩訶衍、現在諸佛今說摩訶衍,是名遮斷誹謗摩訶衍論。菩薩為斷誹謗大乘,是故演說初入摩訶衍論品。
あなたは摩訶衍を誹謗しています。このような粗い言葉は、私が説いたものではありません。私が今願っているのは、ただあなたが誹謗の心を起こさないようにすることだけで、その利益のために、あえてこう説いているのです。ちょうど、病人が食べてはいけないものを食べようとするとき、良医がその病人を診て、それを禁じて許さないようなものです。私は、あなたがでたらめに飾り立てた言葉を口にして、摩訶衍は魔が説いたものだと言うことを哀れんで、こう申しているのです。過去の諸仏はすでに摩訶衍を説かれ、未来の諸仏はまさに摩訶衍を説かれるでしょう。現在の諸仏は今、摩訶衍を説いておられます。これが、摩訶衍を誹謗することを遮り断つ論と呼ばれるものです。菩薩は大乗への誹謗を断つために、この初入摩訶衍論品を説くのです。
問曰:汝已遮他不令誹謗,今當云何入摩訶衍行?答曰:菩薩當先具種性,隨順善行,所解廣大、內心廣大、界分廣大、種性廣大。性既具足,其心調柔,漸損煩惱、少貪瞋癡,好修諸善、精勤誦習。如是眾生六根廣大,能發大願欲求佛道。種性相貌,如佛所說:下根、下性、下發道意,所願亦下;中根、中性、中發道意,所願亦中;上根、上性、上發道意,所願亦上。是故諸佛隨其根性,則以慈心分別教授。
問う:あなたはすでに他者を非難することを禁じられました。では、どのようにして大乗の行に入るべきでしょうか。
答える:菩薩はまず、その種性(資質)を具え、善行に従い、理解が広大で、心が広大で、境涯が広大で、種性が広大でなければなりません。種性がすでに具われば、その心は柔らかく調えられ、少しずつ煩悩を減らし、貪りや怒りや迷いが少なくなります。善を修めることを好み、精進して学びを重ねます。このような衆生は六根が広大で、大いなる願いを起こして仏道を求めることができます。
種性の姿は、仏がおっしゃった通りです: - 下根・下性・下発道意の者は、その願いもまた下です。 - 中根・中性・中発道意の者は、その願いもまた中です。 - 上根・上性・上発道意の者は、その願いもまた上です。
それゆえ、諸仏はその根性に従い、慈しみの心をもって、それぞれに合わせて教えを説かれます。
問曰:若諸眾生各有根性,云何應為隨根說法?答曰:上根眾生為說菩薩深妙法藏,以知根性堪菩薩行故說菩薩藏。
問う:もしすべての衆生にそれぞれ異なる性質(根性)があるのなら、どのようにしてその性質に合わせて教えを説くべきなのでしょうか? 答える:上の根性を持つ衆生には、菩薩の深く妙なる法の宝庫を説きます。なぜなら、その性質が菩薩の行いに堪え得ると知っているからです。
問曰:為菩薩藏者當住何地?答曰:有十種行到解脫地。能聽菩薩藏時得十種法行,離解脫行便得入於菩薩之行。何等為十?一者修菩薩解脫行,若多若少皆悉修習。二者菩薩所有之法,若多若少皆悉書寫。三者菩薩藏法,若多若少皆悉供養。四者菩薩之法,若多若少皆悉轉讀。五者菩薩之法,若多若少皆悉聽受。六者菩薩之法,若多若少,皆悉受持。七者菩薩之法,若多若少皆悉習誦漸漸通利。八者菩薩之法,若多若少皆悉為他分別演說。九者菩薩之法,若多若少皆悉思惟善解義趣。十者菩薩之法,若多若少獨處思惟修集增明。是名菩薩十行。第八者是菩薩聞慧,第九者是菩薩思慧,第十者是菩薩修慧。
問う:菩薩蔵を修行する者は、どのような境地に留まるべきでしょうか?
答え:解脱の境地に至る十種の行があります。菩薩蔵を聴聞する時、十種の法行を得て、もしこれらの行を離れなければ、菩薩の行に入ることができます。
その十種とは何か。第一に、菩薩の解脱行を修し、多い少ないに関わらず全てを習修すること。 第二に、菩薩の全ての教えを、多い少ないに関わらず全て書き写すこと。 第三に、菩薩蔵の教えを、多い少ないに関わらず全て供養すること。 第四に、菩薩の教えを、多い少ないに関わらず全て読誦すること。 第五に、菩薩の教えを、多い少ないに関わらず全て聴聞すること。 第六に、菩薩の教えを、多い少ないに関わらず全て受持すること。 第七に、菩薩の教えを、多い少ないに関わらず全て習誦し、徐々に通達すること。 第八に、菩薩の教えを、多い少ないに関わらず全て他人のために説き明かすこと。 第九に、菩薩の教えを、多い少ないに関わらず全て思惟し、その意味を正しく理解すること。 第十に、菩薩の教えを、多い少ないに関わらず独り静かに思惟し、修行を積んで智慧を増し明らかにすること。
これらを菩薩の十行と言います。 第八は菩薩の聞慧、第九は菩薩の思慧、第十は菩薩の修慧です。
問曰:菩薩得是聞思修已,當入何行?答曰:為得己地入解脫門,如是次第聞思修生。為見法界、得於己地,修三解脫門。
問う:菩薩はこの聞・思・修を得た後、どのような行に入るべきでしょうか。
答う:自らの境地を得て解脱の門に入るためです。このように順を追って、聞・思・修が生じます。法界を見て、自らの境地を得るために、三解脱門を修めます。
問曰:何等名為三解脫門?答曰:行空、無相、無願。
問う:何を三解脱門というのか。答え:空、無相、無願を行うことである。
問曰:云何為空?答曰:觀我人眾生無有自體、性相常寂。
問う:空とは何か? 答える:我・人・衆生に実体はなく、その本質と相は常に静かであると観じることである。
問曰:云何解了?答曰:當入十二因緣。
問う:どのように理解すればよいのですか? 答える:十二因緣に入るべきです。
問曰:是空解脫異十二因緣法耶?答曰:空與十二因緣等無異相,空即十二因緣、十二因緣即是空。何以故?因緣假起無有自體。如尊者龍樹所說偈:
問う:この空解脱は、十二因縁の法とは別のものなのでしょうか? 答う:空と十二因縁は等しく、異なる相はありません。空がすなわち十二因縁であり、十二因縁がすなわち空なのです。なぜなら、因縁によって仮に生じたものであり、それ自体の実体はないからです。尊師龍樹(ナーガールジュナ)の偈に曰く、
「十二因緣空, 我今欲解說,
假名因緣法, 此即是中道。」
「十二の因縁は空なりと、 我れ今まさに解き説かん。 仮名の因縁の法、 これすなわち中道なり。」
一切諸法悉皆空寂。何以故?皆屬因緣,無自性故。
すべての現象は、本来すべて空であり静寂です。 なぜなら、あらゆるものは原因と条件(因縁)によって成り立ち、それ自体に固有の本質(自性)がないからです。
問曰:若一切法因緣生者,何故說言無體性耶?答曰:所言因緣,世諦故說。第一義諦則無體性亦無有生,既無有生亦無有滅,無生無滅即真寂滅,真寂滅者即是一切諸法寂滅,是故我說一切諸法無有體性。如《老母經》中世尊所說:姊!譬如因人因桴因鼓,眾緣和合便有聲出。如此之聲,不在三世,亦非內外及在中間。其性空寂,無生無滅。姊今當知一切諸法體性亦然。《老母經》中佛自說空,是故菩薩於無量劫,修集福德、禪定、智慧,悉入三解脫法門。善觀生滅皆悉空寂,猶如幻、炎、乾闥婆城,皆同夢化。如佛說言:
問う:もし一切の法が因縁によって生じるのなら、なぜ「体性はない」と言うのですか?
答える:私が言う「因縁」とは、世俗の真理(世諦)に基づいて説いたものだ。第一義の真理(第一義諦)においては、体性もなく、生じることもない。生じることがなければ滅することもなく、無生無滅こそが真の寂滅である。真の寂滅こそが、すべての諸法の寂滅である。だから私は、一切の諸法には体性がないと説くのだ。
例えば『老母経』の中で、世尊がこう説かれている。「姉よ、例えば人と撥と太鼓の因によって、多くの縁が和合して初めて音が出る。この音は、過去・現在・未来の三世にも存在せず、内にも外にも、またその中間にも存在しない。その性質は空しく寂滅しており、生じることも滅することもない。姉よ、今まさに知るべきだ。一切の諸法の体性もまた、このように同じである」と。
『老母経』の中で、仏ご自身が空を説かれている。それゆえ菩薩は、無量の劫の間、福徳・禅定・智慧を修め集めても、すべて三つの解脱法門(三解脱門)に入る。生滅をよく観察すれば、すべてが空しく寂滅であり、幻影や陽炎や乾闥婆の城のようであり、すべて夢や変化と同じである。仏が説かれたように。
「初覺十二緣, 眾生皆悉空,
剎那頃所得, 幻炎乾闥城。」
初めて十二縁起を観ると、 あらゆる衆生はすべて空である。 一瞬のうちに得られるものは、 幻や陽炎、蜃気楼のようなものである。
如是次第入空解脫門,其心快樂,逮得義利。
そのようにして次第に空解脱門に入り、心は楽しく、真の利益を得る。
問曰:外道各著我見,云何遮斷?答曰:如是外道,於內外色皆生染著,取我我所、順生死流。彼著我者,我能施與飲食財利。如是種種依止我見、眾生等見。彼我我所者,我之造作是我,瓶物如是等名依止我所。彼所作業,若一、若異、若一異、若不一不異,取著偏執,但以言語誑惑於世及以己身。以是義故流轉生死,不解因緣諸法性空。
問う:外道はそれぞれ「我」という見解に執着しているが、どのようにしてそれを断ち切るのか。 答える:このような外道は、内外のあらゆる対象に染まり執着し、「我」と「我がもの」とを捉え、生死の流れに身を任せている。彼らが我に執着するとは、すなわち「私は飲食や財物を与えることができる」と考えることである。このように様々な形で我見や衆生見に依り頼んでいる。彼らの言う「我」と「我がもの」とは、私の行いが私であり、壺や物などは我がものと呼ばれる。彼らが行う行為についても、「一つ」と見るか、「別々」と見るか、「一つであり別々」と見るか、「一つでもなく別々でもない」と見るか、いずれかに偏って執着し、ただ言葉で世間と自分自身を惑わしている。このような理由から生死を流転し、因縁によって全てのものの本質が空であることを理解できないのである。
問曰:是諸外道不解因緣而起四執,何者為過?答曰:僧佉所說,有計一過。作與作者一、相與相者一、分與有分一,如是等皆名為一。優樓佉計異,尼健陀計一異,若提子計非一非異,一切外道及摩他羅等異計,皆悉不離如是四種。
問う:これらの外道は因縁を理解せずに四つの執着を起こすが、その過ちとは何か。 答える:サーンキヤ派の説くところには、一と見なす過ちがある。行為と行為者は一、特徴と特徴づけるものは一、部分と全体は一、このように全てを一と名づける。ウルーカ派は異と見なし、ニガンタ派は一であり異であると見なし、アージーヴィカ派は一でも異でもないと見なす。あらゆる外道やマータラなどの異なる見解は、皆この四つの種類から離れていない。
問曰:僧佉人言作與作者一,有何過?答曰:語有二故,不名為一。作是因、作者名果,是事不同,云何說一?若實異言一,此則顛倒。何以故?以作者即是作故。作與作者前後時異,云何為一?
問い:サーンキヤ学派の人は「行為と行為者は同一である」と言いますが、何が問題なのでしょうか?
答え:言葉には二つの異なる意味があるため、同一とは言えません。行為は原因であり、行為者は結果と呼ばれます。これらの事柄は異なるのです。どうして同一だと言えるでしょうか?もし実際には異なるものを「同一」と言うなら、それは誤った認識です。なぜなら、行為者がそのまま行為であるならば、行為と行為者の間には時間的な前後の違いがあるからです。どのようにして同一であり得るのでしょうか?
問曰:前後一用,如種生芽。時雖前後,但相似相續故名為一。答曰:此亦有過。若作在先、作者在後,生、未生異,云何為一?譬如有瓶終不得並,如牛角不相因生,作以作者亦復如是。復次所以作與作者不得為一,聲別義別、因緣別時別、字別體別。若如是者,則有多過。若但一者,不應二名;聲義體相先後異故,不得為一。若作與作者一,如取泥團,陶師、輪繩、酥酪等物皆悉應得。以不得故,當知非一。如我心不得為一,若是一者,心無常故我亦應無常。以是故作與作者、相與相者、量與量者、分與分者悉同是破,有一瓶等亦應破遮。如色與瓶一,及白㲲青葉、長短方圓,如是等物亦悉應遮。
問う:前と後で一つの作用が用いられることは、種から芽が生じるようなものか。時間的には前後があっても、相似のものが相続するから「一」と言えるのか。 答う:これにも過失がある。もし「作る」という行為が先にあり、「作る者」が後にあるならば、生じたものと未だ生じていないものとの違いがある。どうして「一」と言えようか。例えば、瓶が二つ同時に存在することはなく、牛の角が互いに原因となって生じるわけではないように、「作る」行為と「作る者」もまたそうである。 さらに、「作る」行為と「作る者」が「一」であるとは言えない。呼び名が異なり、意味が異なり、因縁が異なり、時間が異なり、文字が異なり、本体が異なるからである。もしこのような違いがあるならば、多くの過失が生じる。もし仮に「一」であるならば、二つの名称があるべきではない。名称、意味、本体の様相が前後して異なるから、「一」とは言えない。 もし「作る」行為と「作る者」が「一」ならば、例えば土の塊を取った時に、陶工やろくろや縄や酪や酥などの物もすべて得られるべきである。しかし得られないから、「一」ではないと知るべきである。例えば我(自我)と心が「一」であるとは言えない。もし「一」ならば、心が無常であるから我もまた無常であるべきである。 それゆえ、「作る」行為と「作る者」、「相」と「相のあるもの」、「量」と「量るもの」、「部分」と「部分を持つもの」はすべて同様に破られる。「有る」ことと瓶が「一」であるという考えも同様に破られ否定される。例えば、色と瓶が「一」であること、白い布や青い葉、長さや短さ、方や円など、これらのものもすべて否定されるべきである。
問曰:比舍師計異,有何過耶?答曰:若作與作者異,亦有大過。
問い:作者と行為が別々だとする考えには、どんな誤りがあるのですか? 答え:もし行為と作者を別のものとすれば、それにも大きな過ちがあります。
問曰:云何為過?唯願說之。答曰:若瓶與泥異,作瓶時應取縷、作㲲時應取泥。以作瓶不取縷故,當知不異。復次泥團因微塵成,瓶因泥團成。若瓶異泥團者,瓶則無體。泥團成瓶故,不得為異。泥團於微塵為作者、於瓶為作,若作與作者異,泥於微塵瓶但名異,不應有二。以是故作與作者不得為異。因縷成㲲、因蒲成席,皆亦同是說。復次若有一瓶異,則一切法壞。何以故?若有一非瓶,離應有瓶。若有一是瓶,則為多瓶。有一非故,異亦應非,是則無瓶。以是義故,汝計異者即壞一切法。
問うて曰く、「何が過ちか。どうか説いてほしい」と。 答えて曰く、「もし瓶と泥が異なるなら、瓶を作る時に糸を用いるべきであり、布を作る時に泥を用いるべきである。瓶を作るのに糸を用いないので、異ならないと知るべきである。また、泥団は微塵によって成り、瓶は泥団によって成る。もし瓶が泥団と異なるなら、瓶には本体がない。泥団が瓶を成すから、別のものとはできない。泥団は微塵に対しては作者であり、瓶に対しては作(作られたもの)である。もし作と作者が異なるなら、泥は微塵や瓶に対して単に名前が異なるだけで、二つあるべきではない。ゆえに作と作者とは異なるものとできない。糸によって布ができ、蒲(がま)によって蓆ができる場合も、すべて同じである。また、もし一つの瓶が異なるなら、一切の法が壊れる。なぜか。もし一が瓶でないなら、離れて瓶があるべきである。もし一が瓶であるなら、多くの瓶があることになる。一が瓶でないゆえ、異もまた瓶でないなら、瓶は存在しない。この義により、あなたが異を主張すれば、一切の法を壊すことになる」と。
問曰:如此說者非壞一切法。何以故?有一依瓶立,是故有一瓶等皆成。答曰:若有一與瓶合,有一應是瓶。若瓶與有一合,瓶亦應名有一,以有一合故不得為異。復次有一異者,猶如白㲲,此亦有過。何以故?白則非㲲、㲲亦非白,白與㲲異,餘物亦然。如燒㲲時白不應燒,若㲲燒時白亦燒者,不得為異。汝今以言物異相異,此事不然。汝先言六事各異,此則應遮。
問う:このように説くならば、一切の法を否定することにはならない。なぜなら、「有る」ということが瓶に基づいて成立するからであり、それゆえに「瓶」などもすべて成立するからである。
答える:もし「有る」ということが瓶と結合するならば、「有る」は瓶であるべきである。また、もし瓶が「有る」と結合するならば、瓶もまた「有る」と呼ばれるべきである。「有る」と結合するからであって、異なるとは言えない。さらに、「有る」と瓶が異なる場合、例えば白い布のようなものにも、この過失がある。なぜなら、白は布ではなく、布も白ではなく、白と布は異なるからであり、他の物も同様である。布を焼く時、白は焼けるべきではない。もし布を焼く時に白も焼けるならば、異なるとは言えない。今、あなたが物は異なり、特徴も異なると言うのは、道理に合わない。あなたが先に六つの事柄はそれぞれ異なると言ったのも、この論によって否定されるべきである。
問曰:尼健陀先言一異,有何過耶?答曰:汝所謂一異者,或說作以作者一,或說作以作者異,此亦多過。
問い:ニガンタ(ジャイナ教徒)が「一」と「異」を説くことに、いったいどんな誤りがあるのでしょうか? 答え:あなた方が言う「一」と「異」という考え方には、「行為と行為者は一つである」と説くこともあれば、「行為と行為者は別である」と説くこともあります。これらには多くの誤りが含まれているのです。
問曰:有何過耶?答曰:若作即是作者,事則不成。若作與作者異,事亦不成。何以故?因果各異,云何為一?以眾緣成果故,不得為異。作相作者相亦皆如是。
問う:その過ちとは何か? 答える:もし「作ること」と「作る者」が同じであれば、成立しない。もし「作ること」と「作る者」が異なっていても、やはり成立しない。なぜか?原因と結果は別々のものであるのに、どうして一つと言えようか?様々な縁が集まって結果が生じるからこそ、異なるとは言えない。「作るという性質」と「作る者という性質」についても、すべて同じである。
問曰:如瓶相破而體不破,以體不破故,亦得為異,以見體在而相破故。若破瓶時,本成體無,不得為異。答曰:若言一,同僧佉破。若言異,同比舍師破。如葉青㲲白,亦皆俱破。
問う:瓶の形(相)は壊れても、その本体(体)は壊れない。本体が壊れないからこそ、形と本体は別物と言える。形が壊れても本体は存在しているからだ。しかし、もし瓶を壊す時に、最初から本体というものが存在しなければ、形と本体は別物とは言えない。
答える:もし形と本体が同じだと言えば、サーンキヤ学派の説と同じく誤りである。もし別物だと言えば、ヴァイシェーシカ学派の説と同じく誤りである。例えば、青い葉と白い布のように、いずれもその区別は破綻するのだ。
問曰:若提子計不一不異,有何過耶?答曰:前三計者各有所執。汝說不一,應當是異;若說不異,即應是一。何所執故而言不一不異?若無所執妄有所說則壞法相。
問う:もし提子が「一ならず、異ならず」と説くならば、どのような誤りがあるのか。 答える:先の三つの考え方は、それぞれに執着する点がある。あなたが「一ならず」と言うならば、それは「異なる」ということであるべきだ。また「異ならず」と言うならば、それは「一つ」であるということになる。何に基づいて「一ならず、異ならず」と言うのか。もし基づくところがなく、誤ってそのように説くならば、法のあり方を損なうことになる。
問曰:汝說大乘亦無所執,汝亦應壞一切法相。答曰:我之所執,世間現見是因緣法。汝之所說,但是顛倒不順法相故。
問います。あなたは「大乗もまた執着しない」と言いますが、それならあなたもすべての法の相を否定することになるのではありませんか?
答えます。私の主張するものは、この世で現に見られる因縁の法です。あなたの言うところは、ただ倒錯しており、法の相に従っていないのですから。
問曰:何者是法相,而說我壞法相耶?答曰:無體相者即是體相。
問い:では、法の姿とは何なのか。なぜ私は、法の姿を壊すと言うのか。 答え:形なきものが、まさに真実の形なのである。
問曰:云何無體相為體相耶?答曰:空名無體相。
問う:どのようにして「無体相」を体相とするのか? 答える:「空」を無体相と名づけるのだ。
問曰:云何名空?以有為空、以無為空耶?答曰:我不以有義故名空,亦不以無義故名空,以離於有無故名為空。如尊者龍樹所說偈:
問うて曰く、何をか空と名づけるや。有るがゆえに空とするか、無いがゆえに空とするか。答えていわく、我は有の意味をもって空と名づけるにあらず、また無の意味をもって空と名づけるにあらず。有と無を離れるがゆえに、空と名づけるのである。尊者龍樹の説ける偈のごとし。
「執有名為常, 計無則為斷,
若離於有無, 是名真實空。」
「有」があると主張すれば「常」と呼ばれ、 「無」だと思いこめばそれは「断」となる。 もし「有」と「無」の両方を離れるならば、 それをこそ真実の「空」と呼ぶのである。
復次如龍樹《中論》中說偈:
さらに、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』に次の偈(うた)があります。
「執有取體相, 執無著無體,
不存於有無, 是名真實觀。」
「ある」と執着してその形や本体を捉え、 「ない」と執着して本体がないと捉える。 こうした「ある」「ない」の見解に留まらずにいること、 これをこそ真実の観察というのです。
以是故,以離有無名空,離斷常故名為中道。若能覺悟如是法相,故名為佛。是故十二因緣義,名之為空。
ゆえに、「有」と「無」を離れるゆえに「空」と名づけ、「断」と「常」を離れるゆえに「中道」という。 このような法の相を覚り悟ることができるゆえに、「仏」と名づける。 それゆえ、十二因縁の義は、これを「空」と名づけるのである。
問曰:十二因緣以何為證而知為空?答曰:譬如瓶,泥團輪繩及以陶師眾緣和合,然後成瓶。非即泥團是瓶,亦非離泥團有瓶。但假名說瓶,屬眾因緣,無有體相。無體相故無生,無生故體相寂滅。因緣所成,是故無體。若諸法定有自體、不假因緣,則無是處,以無自相故無瓶,瓶無故一切法亦無。如尊者提婆所說偈:
問う:十二因縁は、何を証拠として空であると知るのですか?
答える:例えば瓶のようなものだ。粘土、ろくろ、縄、そして陶工といった多くの縁が和合して、初めて瓶ができる。粘土そのものが瓶であるわけではなく、また粘土を離れて瓶があるわけでもない。ただ仮に名付けて瓶と言うのであり、それは多くの因縁に属するもので、実体の形相はない。実体の形相がないから生じることがなく、生じないから形相は静かに滅している。因縁によって成るものであるから、実体はない。もしあらゆる法に決定した自らの実体があって、因縁を借りる必要がないなら、そのようなことはあり得ない。自己の形相がないから瓶はなく、瓶がないから一切の法もまたない。
尊者テーバが説いた偈の通りである:
「一法若有體, 諸法亦復然,
一切法本無, 因緣皆悉空。
真實觀一法, 諸法不二相,
諦了是空已, 則見一切空。」
一つの法にもし「実体」があるならば、 他のすべての法もまたそうであるはずだ。 しかしあらゆる法は元々「実体」がなく、 あらゆる因縁もすべて「空」である。 一つの法を真実に見るとき、 すべての法は「不二」(一つであり、対立しない)の姿である。 この「空」をはっきりと悟れば、 あらゆるものが「空」であると見えてくる。
問曰:因緣生法即是體相。答曰:是事不然。何以故?若有體相、若無體相,非汝所及。如汝所說,以因緣為體相者,因緣從他生故,云何有體?言體相者,自性而起,不屬因緣。若屬因緣則無自性,譬如假借非自有也。是故因緣假他而成,無有自體。如尊者龍樹所說偈:
問われて曰く、因縁によって生じる法が、そのまま本体や相であるというのか。
答えていわく、それはそうではない。なぜか。本体や相があるにせよ、ないにせよ、それはあなたが理解し得るものではない。あなたが言うように、因縁を本体や相とするならば、因縁は他から生じるものであるから、どうして本体があり得ようか。本体や相というものは、自らの本性によって成り立ち、因縁に属するものではない。もし因縁に属するならば、自らの本性はない。例えば、借り物は自分自身のものではないのと同じである。ゆえに、因縁は他に頼って成り立つものであり、自らの実体はない。
尊き龍樹(ナーガールジュナ)が説いた偈の通りである。
「因緣所生法, 是即無自性,
若無自性者, 云何有體相?」
「縁起によって生じるすべてのものは、それ自体に永遠の実体(自性)はありません。 もし永遠の実体がないのなら、どうして固定した形や本質があると言えるでしょうか。」
問曰:諸法體相,世間現見。云何無耶?答曰:是事不然。凡愚妄見,此非可信。生滅之法皆悉是空,生滅流速無暫停時,相似相續故妄見為實,猶如燈炎念念生滅,凡夫愚人謂為一炎,亦如駛流、影、響、幻、炎。如佛所說,幻及幻者都無所有,而妄見者謂之為實。若是實者,餓鬼不應見水為火、沙石膿血。而諸眾生以善惡故,隨業所見,若有淨心利根眾生則能見空,夜叉餓鬼遠見其水近則見火。便生疑惑:若物有實,不應二見。以二見故,則知非實,但妄見故。當知一切諸法皆無體相,以無體相故都無生滅。
問う:あらゆる現象の本質や形は、この世で実際に見ることができる。どうして存在しないと言うのか?
答える:それは正しくない。凡夫や愚かな者たちの誤った見方であり、信頼できるものではない。生じたり滅したりするものはすべて空であり、その生滅は速やかで一瞬も止まることがない。互いに似通って連続するために、誤って実在すると見なされるのである。例えば、燈火の炎が一刹那ごとに生じ滅するのに、凡夫はそれを一つの炎と誤認するようなものである。また、激しい流れ、影、響き、幻、陽炎のようなものだ。
仏が説かれたように、幻も幻を見る者もすべて実体はない。しかし、誤った見方をする者はそれを実在だと考える。もしそれが実在であるなら、餓鬼が水を火や砂利、血や膿に見るはずがない。ところが、あらゆる衆生は善悪の行為によって、それぞれの業のままに見え方が異なる。もし清らかな心を持つ利根の者であれば、空を見ることができる。また、夜叉や餓鬼は遠くから見れば水に見えても、近づけば火に見える。ここで疑問が生じる:もし物に実体があるなら、異なる二つの見え方はありえない。二つの見え方があることから、それが実体ではないと知るべきである。ただ誤った見方によるものにすぎない。
よって、あらゆる現象には本質的な形はなく、本質的な形がないからこそ、生も滅も存在しないのである。
問曰:若一切法無生無滅,云何得有來去計、斷常過?答曰:以見種子故便計來去,若得法空則離斷常。如因種子有芽莖枝葉花果,次第而見芽生故種子滅,是以不斷。乃至果生故花滅,亦無常過。如尊者提婆所說偈:
問うて曰く、「もし一切の法が生も滅もないのなら、どうして来る・去るという考えや、断見・常見の誤りが生じるのでしょうか?」 答えて曰く、「種子を見るがゆえに来・去を計るのです。もし法の空(くう)を得れば、断常を離れます。例えば、種子から芽・茎・枝・葉・花・果が順に現れる時、芽が生じるゆえに種子は滅する――これによって断見には陥りません。さらに果が生じるゆえに花は滅する――これによって常見の誤りもありません。尊者・提婆(だいば)が説いた偈(げ)の通りです――」
「諸法相續有, 則非是斷滅;
因滅故果生, 不得名為常。」
あらゆる現象は次々と生じ続けるため、断滅ではありません。 原因が滅して結果が生まれるため、決して常住とは言えません。
以是故,見因緣空即離斷常。
このようにして、縁起が空であると見るならば、それは「断滅」や「常住」という二つの極端な見解を離れることになるのです。
問曰:癡因緣行,云何而得離於斷常?答曰:因無明故有善惡行,乃至因生故有老死。凡夫不解因緣相續,妄計為實。無明體空故行亦體空,乃至生體空故老死體空,以世間假名有相續故無斷滅過,念念不住無有常過,以凡夫眾生死此生彼相似相續故。如佛所說,第一義中無有眾生死此生彼,但以世諦假名說故。識為種子,行業為田,以慢土覆,無明為糞,愛水為潤,父母精氣,眾緣和合生名色芽,是故名色無有自體,猶如床脚相假而用。初名歌羅羅,二名安浮陀,三名肉段,四名堅實,五名諸炮開張,六名為觸,生法次第相假而有,不名為斷。菩薩善解因緣法故即知其空,以因緣空故一切法空,解法空故無斷常過。如《出胎經》中佛所說偈:
問うて曰く、「無明を縁として行が生じるとは、どのようにして断見と常見を離れるのでしょうか?」
答えて曰く、「無明があるから善悪の行が生じ、乃至、生があるから老死が生じます。凡夫は因縁の相続を理解できず、誤って実在だと思い込んでいます。しかし、無明の本体が空であるから行もまた空であり、乃至、生の本体が空であるから老死の本体も空です。世間では仮の名前として相続があると説くから、断滅の過ちはなく、一念一念もとどまらないから常見の過ちもありません。凡夫の衆生が此の世で死に、彼の世に生まれるのは、似たようなものが相続するからです。仏が説かれたように、第一義には衆生が此の世で死に彼の世に生まれるということはなく、ただ世諦の仮名として説くのです。
識が種子となり、行業が田となり、慢という土で覆い、無明という肥料を施し、愛という水で潤し、父母の精気など、多くの縁が和合して名色の芽が生じます。ですから名色には自ら体というものはなく、ちょうど寝台の脚が互いに支え合って用をなすようなものです。初めを歌羅羅(羯羅藍)といい、二番目を安浮陀(頞部曇)といい、三番目を肉段(閉尸)といい、四番目を堅実(健南)といい、五番目を諸炮開張(鉢羅奢佉)といい、六番目を触と名づけます。生じる法は次第に縁って仮に存在するのであって、断滅とは呼びません。
菩薩は因縁の法をよく理解するから、その空を悟ります。因縁が空であるから、一切の法が空であり、法の空を理解するから、断見や常見の過ちがありません。『出胎経』の中で、仏が説かれた偈の通りです。
「隨假名字, 而得諸法; 名中無法,
是則真實。」
「仮の名前にしたがって、諸々の現象(法)は認識される。しかし、名そのものの中には実体はない。これこそが真実である。」
以是故,非言說故有法。若隨名字有諸法者,法則多體。猶如空法,無一、無多。
したがって、言葉で語られるから物事が存在するわけではありません。もし名前に従ってあらゆる物事が存在するなら、物事は多くの性質を持つことになります。しかし、空の法のように、一つの性質も多くの性質もありません。
問曰:若一切法無體,汝言有過,現見有故。答曰:若法是有,言無則過。法既非有,云何言過?以是故,諸法如初,後亦復然。若諸法定有體相,後涅槃時應是斷滅。若先非是空,後言空者,則是邪見,壞於正法亦無解脫。如尊者提婆所說偈:
問うて言わく、「もし一切の法に体が無いならば、あなたの言葉には過ちがある。現に見て存在するからである」。答えて言わく、「もし法が『有る』ならば、無いと言うのは過ちである。法がすでに『有る』のではないのなら、どうして過ちと言えるだろうか。それゆえに、諸法は初めのようであり、後もまた同じである。もし諸法に定まった体の相が有るならば、後に涅槃する時には、それは断滅となるべきである。もし初めに空ではなく、後に空と言うならば、それは邪見であり、正法を壊し、また解脱も無い。尊者提婆の説く偈の如し」。
「不空而見空, 我應得涅槃;
邪見非涅槃, 如來之所說。」
「空(くう)であると知りながら、それに固執せずに、私は涅槃(ねはん)を得るべきだ」 という考えは、実は誤った見解であり、真の涅槃ではありません。 これこそが如来の教えです。
諸法本空故恒見是空,如過去佛所見空相,今亦復然。是故我說因緣法空,是則無過。如是先立第一義諦,後分別世諦,我及眾生、作與作者,乃至一異,則無過失。如尊者龍樹所說偈:
すべての存在は本来空であるから、常にその空を観る。過去の仏が観た空の姿も、今もまた同じである。それゆえに私は、縁起の法は空であると説く。これには過ちがない。このようにして、まず第一義諦(絶対の真理)を確立し、後に世俗諦(世間の真理)を分別して、私や衆生、行為と行為者、さらには一と異などの概念を論じても、過ちは生じない。尊者龍樹が説いた偈の通りである。
「不說分別諦, 不得於實諦,
若不得實諦, 則無得涅槃。」
分別して真理を語るならば、 真実の真理を得ることはできない。 真実の真理を得ることができなければ、 悟りに至ることもない。
復次說偈:
さらに、偈(うた)で説きます。
「諸佛演說法, 常依於二諦,
分別於世諦, 及與第一義。
若不能分別, 真俗二聖諦,
如是則不知, 佛法甚深義。」
諸仏が説法するときは、 常に二つの真理に基づいています。 それは、世間の真理(世俗諦)と 究極の真理(第一義諦)とを分別することです。
もしこの真実と俗世の二つの聖なる真理を 正しく区別できなければ、 仏法の深遠な意味を 理解することはできません。
是故因緣法空,名為真如、法性、實際,是名修習第一義禪。見因緣空,即是空解脫門。若見空者,則不見諸法相,是名無相解脫門。見無相故,無所願求,是名無願解脫門。安住如是三解脫門,識種子於三界內則更不生名色等芽。識無取著,滅三有苦。三有滅故,得寂滅涅槃。如尊者提婆所說偈:
そこで、縁起の法が空であることを、真如、法性、実際と名づけ、これを第一義禅の修習という。縁起の空を見ることが、すなわち空解脱門である。空を見る者は、諸法の相を見ることがない。これを無相解脱門という。無相を見るゆえに、願い求めることがない。これを無願解脱門という。この三つの解脱門に安住すれば、識の種子は三界の内において、名や色などの芽を生じることがなくなる。識に執着がなければ、三有の苦は滅する。三有が滅するゆえに、寂滅の涅槃を得る。尊者提婆の偈に言う通りである。
「識是種子義, 遊行於六處;
若見諸塵空, 有芽則斷滅。」
「認識作用は種のようなもので、六つの感覚の場をめぐり歩く。 しかし、あらゆる対象が空であると見るならば、そこから生じる芽は断ち切られる。」
問曰:菩薩度空出於生死,云何能得勝於聲聞?答曰:菩薩得世間利、出世間利,度爾炎地故,雖出世間,能住世間教化眾生。聲聞不然,怖畏生死,求速滅度,以出世間道見於法界,見法界已到涅槃岸。菩薩不爾。何以故?菩薩見眾生苦,起大悲心,為欲度彼堅住莊嚴,於阿僧祇劫修行出世間道,於一念頃觀一切法界。觀法界已,眾生緣故,不取果證,乃能度脫。如佛《阿耨大池經》中說,譬如二人欲墮山頂,一人有力、善巧方便,以巧便故,雖墮還起,得昇山頂。一人力少復無方便,即住退墮,不能復起。菩薩於無為法中不證不著,如善巧人得昇山頂。聲聞之人以證著無為故,如少方便者墮而不起。譬如長者唯有一子,以飢儉故遠至他國,經數十年。長者後時住一大城,其家巨富多積珠珍,漸得傭力故還來本國。菩薩有無量無邊阿僧祇功德,到爾炎地,向於涅槃,以愍眾生故還入生死,於阿僧祇劫久受勤苦。菩薩摩訶薩乘大苦乘,求無上果不可思議,出過一切聲聞、辟支佛上,具足一切功德智慧,是故超度爾炎之地。云何菩薩乘大苦乘?譬如有人乘船入海,遇大惡風濤波如山,有如是等無量眾難。諸伴心急,生大恐怖。是時船師巧持帆故,能度眾難。有福德人得度難已,獲大珍寶。菩薩摩訶薩處生死海亦復如是,為惡知識不信所難,趣向惡道。第一阿僧祇劫修治淨地行,求淨解脫;第二阿僧祇劫修淨禪定行;第三阿僧祇劫修淨智慧行,除爾炎地障。是故菩薩名乘苦乘。滿足十地,得無礙無障一切行具足故,得阿耨多羅三藐三菩提,是故以爾炎智得成大果。
問う:菩薩は空を度り生死を超えるが、どうして声聞に勝ることができるのか。
答える:菩薩は世間の利益と出世間の利益を得て、爾炎地を度るゆえに、出世間でありながらも世間に留まって衆生を教化する。声聞はそうではない。生死を恐れ、速やかな滅度を求めて、出世間の道により法界を見る。法界を見た後、涅槃の岸に至る。菩薩はそうではない。なぜか。菩薩は衆生の苦しみを見て大悲心を起こし、彼らを救おうとして堅く荘厳に留まり、阿僧祇劫の間、出世間の道を修行し、一念の間に一切の法界を観る。法界を観た後、衆生の縁故に果報の証を得ず、はじめて救い度すことができる。仏の『阿耨大池経』に説かれるように、例えば山頂に登ろうとする二人の者がいる。一人は力があり、巧みな方便があるため、巧みな方便によって、落ちてもまた上がり、山頂に達することができる。もう一人は力が少なく、方便もないため、そのまま退いて落ち、再び上がることができない。菩薩は無為の法において証も執着もなく、巧みな方便を持つ者が山頂に登るようなものである。声聞の人は証と無為への執着があるため、方便が少ない者が落ちて上がれないようなものである。例えば、長者に一人だけ子がいた。飢饉のため遠く他国に行き、数十年が経った。長者は後にある大きな都に住み、その家は大いに裕福で多くの珍宝を蓄え、徐々に労力を得て故国に帰ってきた。菩薩は無量無辺阿僧祇の功徳を持ち、爾炎地に達し、涅槃に向かうが、衆生を哀れむゆえに生死に還り、阿僧祇劫の間、長く苦しみを受ける。菩薩摩訶薩は大いなる苦の乗り物に乗り、無上の果報を求めることは不可思議であり、一切の声聞・辟支仏を超え出て、一切の功徳と智慧を具足する。それゆえに爾炎の地を超え度るのである。どうして菩薩は大いなる苦の乗り物に乗るのか。例えば、ある人が船に乗って海に入り、大きな悪風に遭い、波が山のようになり、このような無量の難に遭う。仲間たちは心が急ぎ、大きな恐怖を生じる。その時、船師が巧みに帆を操るゆえに、多くの難を度ることができる。福徳のある人は難を度った後、大きな珍宝を得る。菩薩摩訶薩が生死の海にいるのもまた同じである。悪知識と不信という難によって、悪道に向かう。第一阿僧祇劫においては清らかな地の行いを修め、清らかな解脱を求め、第二阿僧祇劫においては清らかな禅定の行いを修め、第三阿僧祇劫においては清らかな智慧の行いを修め、爾炎地の障りを除く。それゆえに菩薩は苦の乗り物に乗ると名づける。十地を満たし、無礙無障の一切行を具足するゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を得る。それゆえに爾炎の智慧により大きな果報を成し遂げるのである。
入大乘論卷上
『大乗に入る論』巻上