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title: "大般涅槃經疏 · 1"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
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### 序品上

> 序品　上

上代直唱消文釋意，分章段起小山瑤、關內憑等，因茲成則。此經文句盈縮非一，有二三四五七八。梁武但制中前中後；開善唯序正，光宅足流通；靈味問有緣起，答有餘勢；河西五門，婆藪七分，興皇八門。雖蘭菊各美，而經遮論開。牧女添水，遮也；派深析重，開也。今分為五，又為七：一列章、二示處、三釋名、四生起、五通別、六引證、七異解。

> 上代は直ちに唱えて文を消し意を釈し、章段を分けたのは小山瑶、関内憑らが始めで、これによって規則となった。この経の文句は増減が一様でなく、二、三、四、五、七、八とある。梁の武帝はただ中前・中後と制したのみ。開善はただ序と正とのみ。光宅は流通を加えた。霊味は問いに縁起ありとし、答に余勢ありとした。河西は五門、婆薮は七分、興皇は八門。蘭も菊もそれぞれ美しいが、経は遮し論は開く。牧女が水を添えるのは遮であり、深く分け重ねて析くのは開である。今、五に分け、また七とする。一に列章、二に示処、三に釈名、四に生起、五に通別、六に引証、七に異解。

初、列章者，一召請涅槃眾、二開演涅槃施、三示現涅槃行、四問答涅槃義、五折攝涅槃用云云。

> まず章を列挙すると、第一に涅槃の衆を召請し、第二に涅槃の施しを開演し、第三に涅槃の行を示現し、第四に涅槃の義を問答し、第五に涅槃の用を折摂する<note>云云</note>。

二、示文處者，初從如是訖流血灑地是請，從純陀訖大眾問是施，從現病訖德王是行，從師子吼訖品是義，從迦葉訖經是用。

> 二、経文の構成を示すならば、初めの「如是」から「流血灑地」までは請（求め）であり、「純陀」から「大衆問」までは施（与え）であり、「現病」から「徳王」までは行（実践）であり、「師子吼」から「品」までは義（教え）であり、「迦葉」から経の終わりまでは用（はたらき）である。

三、釋名者。道不孤運，待時處伴。今涅槃時到而面門啟照，隨類發聲，駭悟感動會此拘尸。緣牽曰召，招致曰請。眾有權實，實者可召，權者宜請。五十二眾十方奔集，咸為顯發大般涅槃，故名召請涅槃眾也。佛於無量阿僧祇劫，修習難得大涅槃藏，本無祕吝，但不盡能受，所以初用毒塗後以水洗，前同末異，伺機時待。因純陀獻供，施常色力。因比丘請住，斥偽談真。慇懃勸問，迦葉承旨。隨問施與使無遺滯，法雨充溢滿拘尸城，故名開演涅槃施也。然祕藏淵凝非行不到，善巧方便示現令前，所之右脇而臥，默無所說示現病行。迦葉推請，乃加趺融懌說三指一。菩薩奉行五行十德，是故名為示涅槃行。然涅槃以義浩然無盡，欲舉一蔽諸，若指醎淡海，故專問佛性聯翩六重，佛一一酬名涅槃義。然佛性之體非善非惡，善惡雙用彌滿無涯，且囊括梗概以略該廣，用善則羅云被攝，用惡則善星堪收，二子既然，餘皆可例。又體非邪正，邪正雙用，用正則始攝陳如五人，用邪則終收邪徒十外。初後既爾，中亦例然。名涅槃用。

> 三、名を釈するとは。道はひとりでに運ぶものではなく、時を待ち、処を恃み、伴を待つ。今、涅槃の時が到り、面門を開いて照らし、類に随って声を発し、驚き悟り感動してこの拘尸に会する。縁に引かれるを召といい、招き致すを請という。衆には権と実とあり、実は召すべく、権は請すべきである。五十二衆が十方より奔り集まるのは、みな大般涅槃を顕発するためである。ゆえに召請涅槃衆と名づける。仏は無量阿僧祇劫において、得難き大涅槃蔵を修習された。もとより秘吝はないが、ただすべてが能く受けるわけではない。それゆえ初めに毒を塗り後に水で洗い、前は同じでも末は異なり、機を伺い時を待つ。純陀の献供により、常の色力を施された。比丘の請住により、偽を斥け真を談じられた。懇ろに勧め問い、迦葉が旨を承けた。問いに随って施し与え、遺滞あることなく、法雨が充ち溢れて拘尸城に満ちる。ゆえに開演涅槃施と名づける。しかし秘蔵は深く凝り、行いによらなければ到れない。善巧方便をもって示現し前に令す。右脇に臥して黙して説くところなく、病行を示現された。迦葉が推し請うて、乃ち趺を加えて融懌し、三を指して一を説かれた。菩薩は五行十徳を奉行する。ゆえに示涅槃行と名づける。しかし涅槃は義として浩然として尽きることがない。一つを挙げて諸を蔽おおうと欲すれば、ちょうど醎淡の海を指すようなものである。ゆえに専ら仏性を問うて六重に聯翩し、仏は一つ一つ酬いて涅槃義と名づけられた。しかし仏性の体は善でも悪でもない。善悪の双用は涯りなく満ちている。かつ梗概を囊括して略して広を該う。善を用いれば羅云が摂せられ、悪を用いれば善星が収められる。二子が既にそうであるから、余も皆例せられる。また体は邪でも正でもない。邪正の双用、正を用いれば始めに陳如ら五人を摂し、邪を用いれば終わりに邪徒十外を収める。初後が既にそうであるから、中もまた例然である。名を涅槃用という。

四、生起者，由眾有施，由施行立，由行見義，證義有用；亦是用由於義，義由於行，行由於施，施由眾集。逆順相由，故成次第。無始而始故有召請，不終而終故有大用。惡盡邪亡、善窮正息，折攝既休，畢竟寂滅入於涅槃。

> 四、生起について。多くの人々が集まることによって施しが生まれ、施しによって修行が成り立ち、修行によって意義が見出され、意義によって価値が証明され、また価値が意義に基づき、意義が修行に基づき、修行が施しに基づき、施しが人々の集まりに基づく。このように逆順に互いに支え合うことから、順序が成立する。始まりがないのに始まるので召請があり、終わりがないのに終わるので大きな働きがある。悪が尽き邪が滅び、善が極まり正が息み、折伏と摂受がともに休まり、ついに寂滅に入り涅槃に至る。

五、通別者。初中後說莫不對眾。若無眾者，唐說授誰？故通是眾。別說眾集最在於初，宣名召請。通論一言一事皆施眾生；別對問緣因求而與。其文既廣其事亦明，是故名為開演涅槃施。通論訓物莫非規矩，悉通是行；別論五行十德。文多事顯，故名涅槃行也。此經始終悉明佛性，佛性則通無處不辨，別以一番問答純論佛性。文明事顯，名涅槃義。通論一部導利群萌，如大地藥草為眾生用，我法亦爾，是故名通。別論攝惡攝邪，文多意顯，故別明用。

> 五、通別について。初め・中・後を通じて説かれるのは、すべて大衆に対してである。もし大衆がいなければ、誰に説き授けるというのか。だから「通」は衆生のための教えである。特に大衆が集まるのは最初においてであり、名を宣べて招き請う。通じて論じれば、一言一事もすべて衆生に施される。別して問いの縁に対し、求めに応じて与える。その文は広く、その事もまた明らかである。だから「開演涅槃施」と名づける。通じて論じれば、衆生を教え導くものはすべて規則であり、ことごとく「行」である。別して論じれば五行十徳である。文が多く事が明らかなので、「涅槃行」と名づける。この経は初めから終わりまで、ことごとく仏性を明かす。仏性は遍くすべてのところで説かれないことはない。別して一番の問答をもって、もっぱら仏性を論じる。文が明らかで事が顕著なので、「涅槃義」と名づける。通じて一部を論じれば、群の民を導き利する。大地の薬草が衆生のために用いられるようなものである。わが法もまた同じである。だから「通」と名づける。別して論じれば、悪を摂し邪を摂す。文が多く意が顕著なので、別して「用」を明かす。

六、引證者，先引多文，次引一處。初多文者，如聲光普告令疾至佛所，為最後問。豈非召耶？又〈師子吼〉云「召請十方諸大菩薩，集娑羅林大師子吼。」〈純陀品〉云「我今施汝常命色力。」〈德王品〉云「汝今欲盡大涅槃海，值我多有能相慧施。」〈聖行品〉云「菩薩應當於大涅槃專心修習五種之行。」又云「修大涅槃得十功德。」〈師子吼〉中則以六句問於佛性，以何義故名為佛性？如來具答：佛性只是大涅槃義。〈迦葉品〉云「慈心游世間」，世間不出善惡邪正，翻十仙之邪、攝一子之惡，即涅槃用。次引一處文者，〈師子吼〉云「佛性者，亦名首楞嚴三昧，亦名般若波羅蜜，亦名金剛三昧，亦名師子吼三昧，亦名佛性。」然佛性非一，云何有五？以五名之令解非五。召請之眾悉是如來同行知識，若從德本乃皆住楞嚴，若從示現即五十二眾，故以首楞嚴名證召請眾。私謂：五十二眾者，比丘等三眾，菩薩眾為一。從二恒至千億恒，增數眾有二十一，同數眾有八，無數眾一，中間眾有四，六天為六，梵眾一，修羅一，魔天一，大自在天一，四方四，合五十二。無上調御一切種智，周照機理纖芥無差，開常顯性發掘覺藏以施時會。若從佛智應名般若，若從設教名涅槃施，當知般若之名可以證涅槃施。是五一行真正調直不可傾動，復能碎散煩惱結惑，若從修習名之為行，若從譬喻喻於金剛，當知金剛三昧可以證涅槃之行。義者名之所以，故涅槃名下有佛性所以，佛性即是涅槃之義。此義自在決定無畏，若從能譬喻師子吼，若從所譬即佛性義，當知師子吼名可證涅槃之義。體用相即，一切諸法中悉有安樂性無非佛性，即體而用游化世間，攝惡攝邪皆歸正善，當知佛性之名可證涅槃之用。今依經分章，文義有據，非徒穿鑿。

> 六、引用証拠について述べる。まず多くの文を引き、次に一つの箇所を引く。初めに多くの文とは、例えば『声光』が普く告げて、速やかに仏のもとへ来たれと命じ、最後の問いをなしたまうたのは、召請ではないか。また〈師子吼品〉に「十方の諸大菩薩を召請して、娑羅林に集めて大師子吼をなさしむ」とある。〈純陀品〉に「我は今、汝に常命と色力を施す」とある。〈徳王品〉に「汝は今、大涅槃の海を尽くさんと欲す。我に値いたてまつることは多分に能く相慧を施すべし」とある。〈聖行品〉に「菩薩はまさに大涅槃において専心に五種の行を修習すべし」とある。また「大涅槃を修して十の功徳を得」とある。〈師子吼品〉においては六句をもって仏性を問い、何の義をもってか仏性と名づけるかと問う。如来は具さに答えたまわく、仏性とはすなわちこれ大涅槃の義であると。〈迦葉品〉に「慈心をもって世間を遊行す」とある。世間は善悪邪正を出でず。十仙の邪を翻し、一子の悪を摂するは、すなわち涅槃の用である。次に一つの箇所の文を引くとは、〈師子吼品〉に「仏性とは、また首楞厳三昧と名づけ、また般若波羅蜜と名づけ、また金剛三昧と名づけ、また師子吼三昧と名づけ、また仏性と名づく」とある。しかし仏性は一つではない。どうして五つあるのか。五つの名をもってこれを名づけて、五つに非ざることを解せしめるのである。召請の衆はことごとく如来の同行知識である。徳本からいえばみな楞厳に住し、示現からいえばすなわち五十二の衆である。ゆえに首楞厳の名をもって召請の衆を証する。私に思うに、五十二の衆とは、比丘などの三衆、菩薩衆を一つとする。二恒から千億恒に至るまで、増数の衆は二十一あり、同数の衆は八あり、無数の衆は一つ、中間の衆は四あり、六天は六、梵衆は一、修羅は一、魔天は一、大自在天は一、四方は四、合わせて五十二である。無上の調御・一切種智は、機と理を周く照らして纖芥も差うことなし。常を開き性を顕し、覚蔵を発掘して、もって時会に施す。もし仏智からいえばまさに般若と名づくべく、もし設教からいえば涅槃施と名づくべし。まさに知るべし、般若の名はもって涅槃施を証するに足ることを。この五つの一行は真正にして調直、傾動すべからず。またよく煩悩の結惑を碎散す。もし修習からいえばこれを行と名づけ、もし譬喩からいえば金剛に喩う。まさに知るべし、金剛三昧はもって涅槃の行を証するに足ることを。義とは名の所以である。ゆえに涅槃の名の下に仏性の所以あり。仏性はすなわち涅槃の義である。この義は自在にして決定し、畏れなし。もし能譬からいえば師子吼と喩え、もし所譬からいえばすなわち仏性の義である。まさに知るべし、師子吼の名はもって涅槃の義を証するに足ることを。体と用は相即し、一切の諸法の中に悉く安楽の性あり、仏性に非ざるはなし。すなわち体にしてしかも用い、遊化して世間を化し、悪を摂し邪を摂してみな正善に帰す。まさに知るべし、仏性の名はもって涅槃の用を証するに足ることを。今、経に依って章を分かち、文と義に拠りどころあり。いたずらに穿鑿するにあらず。

七、出異解者。梁武中前中後，約時分經，若以平旦中後可然，黃昏夜半復齊何文？《居士請僧經》云「說此歷一周」，為是何年中前中後？今隨法分章則無此難。開善為序、正，序即召請，正即四章。光宅足流通，只是用章少分。靈味取問有緣起、答有餘勢。既處處有問答，應處處有餘勢。若河西，以初兩卷為引接今昔有緣門，此得實失權；今言召請，具包權實。以第三卷至大眾問為略廣門，此但約文言多少；今開為演涅槃施，則兼於廣略。以五行為涅槃行門，十功德為菩薩功德門。行與功德俱是因中，今合為行章則不煩文。以師子吼盡經為不可思議中道佛性門，混和難解；今分義用，文則易明。地師以第一卷為神通反示分，此得權失實；今言召請即無所偏。彼以第二卷為種性破疑除執分，第三卷至大眾問為正法實義分；今為一涅槃施，則兼其二分。彼以五行十功德為方便修成分，彼以師子吼為不放逸入證分，前之修成已是入證，證又入證可非煩重？今為義章。彼以迦葉為慈悲住持分，陳如為顯相分；持惡向善顯邪還正，合為用章。興皇初為引接今昔有緣門，此用朗意；二破疑除執門，此用地人意；三略廣門、四行門、五位門、六行中道門，皆用朗意；方便用門、邪正不二門，與河西開合之殊名味不異。

> 七、異なった解釈を出す者たちについて。梁の武帝は前・中・後を、時間によって経を分けた。もし平旦（朝）を中・後とするならば、黄昏（夕方）や夜半はまた何の文と斉しいのか。《居士請僧経》に「この一週を説く」とあるのは、いつの年の前・中・後であるのか。今は法に随って章を分けるので、このような難はない。開善は序と正とに分け、序はすなわち召請であり、正はすなわち四章である。光宅は流通を加えたが、ただ章の少分を用いたにすぎない。霊味は問いに縁起があり、答えに余勢があると取る。すでに処々に問答があるならば、処々に余勢があるはずである。河西のように、初めの二巻を引接今昔有縁門とすれば、これは実を得て権を失う。今、召請と言えば、権と実とを具に包む。第三巻から大衆問までを略広門とすれば、これはただ文言の多少によるだけである。今これを開いて涅槃施を演ずるとすれば、広略を兼ねる。五行を涅槃行門とし、十功徳を菩薩功徳門とする。行と功徳とはともに因の中にあり、今これを合わせて行章とすれば文は煩わしくない。師子吼から経の終わりまでを不可思議中道仏性門とすれば、混和して解し難い。今、義用を分ければ、文は則ち明らかになりやすい。地師は第一巻を神通反示分とし、これは権を得て実を失う。今、召請と言えば則ち偏りがない。彼は第二巻を種性破疑除執分とし、第三巻から大衆問までを正法実義分とする。今これを一つの涅槃施とすれば、則ちその二分を兼ねる。彼は五行十功徳を方便修成分とし、彼は師子吼を不放逸入証分とする。前の修成はすでに入証であり、証また証に入るとは、煩重ではないか。今は義章とする。彼は迦葉を慈悲住持分とし、陳如を顕相分とする。悪を持して善に向かわせ、邪を顕して正に還らしめ、合わせて用章とする。興皇は初めに引接今昔有縁門とし、これは朗の意を用いる。二に破疑除執門とし、これは地の人（地師）の意を用いる。三に略広門、四に行門、五に位門、六に行中道門は、皆な朗の意を用いる。方便用門と邪正不二門とは、河西の開合の違いとはいえ、名と味とは異ならない。

第二別釋者，召請章是經家所置，舊呼為通序、別序，三世道同故言通序，教門機別故言別序。又今佛一期小大別圓悉安如是，故名為通；經經由藉悉皆有異，故名為別。又諸經初皆安如是，同是勸信之詞。於通序中或五或六，由主處離合。如是者，所傳之理。我聞者，能傳之人。一時者，能傳傳所傳，會機會理之時。佛者，稟承之主。住者，所聞之地。眾者，親承之伴。展轉相證勸信非虛，欲使將來順而不惑。又小大諸經初皆勸信，信大信小大小應異。若不異者則無小大共別圓殊，如其有異如何分別？今略說之。若言能傳所傳二事相似為如，能傳所傳無非曰是，此信三藏意也。若言解與真合為如，身灰智寂為是，此信通教意也。若言稱機為如，事逆理順為是，此信別教意也。若言魔界即佛界為如，一色一香無非中道為是，此信圓教意也。如是既爾，我聞等類之可解。故龍樹云：「其信者言是事如是，不信者言是事不如是。」若信初三，是信方便諸權如是；若信後一，是信圓融一實如是。此通別序諸師皆用，世所常聞，不俟多說，具如《法華疏》中。今此唯存約教一義，他皆準彼。今明通序五句，亦可序於五章：如是序請、我聞序施、一時序行、住處序義、同聞序用。如是序涅槃眾者，夫不異曰如、無非曰是。若不得如是，異則定異、非則定非。達斯意者，異則不異、非則不非。始從列眾蛣𧏙已還，詭類殊形果報紛雜，幢摩梵世蓋覆大千，巨細相傾精麁映奪。若以牛羊眼看，則無非舛互，豈得如是？得如是者，知法身大士作首楞嚴種種示現，悟異不異，是故稱如；知非不非，所以言是，當知如是為召請眾作序明矣。我聞序涅槃施者，我昔不聞而今得聞，見八斛粳糧周遍大眾，聞二施果報等無差別，新伊四德祕密佛性，種種法味不聞而聞，故知我聞序涅槃施。一時序涅槃行者，一時之行非次第行，一時之證非前後證。文云「復有一行是如來行，非次第行，於一念中即能具足現五趣身。」即一時證，當知一時序涅槃行。住處序涅槃義者，處是歸身止息之所，表佛性是宗極究竟之地。驅邪引惡向彼拘尸，非枯非榮中間寂滅，若他若自到極而止，當知住處序涅槃義。同聞序涅槃用者，山林河海之神、牛羊螽螫之類為同聞眾，即知等教三子併作三田，善惡俱收邪正悉度，故同聞眾是序涅槃用。

> 第二に別して解釈するとは、召請の章は経家が置いたもので、古くは通序・別序と呼んだ。三世の道が同じであるゆえに通序と言い、教門と機根が異なるゆえに別序と言う。また今の仏の一期の教えにおいて、小・大・別・円のすべてに「如是」が置かれているので通と名づけ、経々によって由縁がすべて異なるので別と名づける。また諸経の初めには皆「如是」が置かれ、同じくこれらは信を勧める言葉である。通序の中に五句あるいは六句あるのは、主と処の離合による。「如是」とは、伝えられた理である。「我聞」とは、伝えることができる人である。「一時」とは、伝える人と伝えられるもの、機と会し理と会する時である。「仏」とは、教えを禀け承ける主である。「住」とは、聞いた場所である。「衆」とは、親しく承ける伴である。展転して互いに証し、信を勧めることは虚ろでない。将来の人々をして順に従い迷わないようにさせるためである。また小・大の諸経の初めには皆信を勧めるが、大を信じ小を信じるのは、大と小とで応じて異なるべきである。もし異ならないならば、小・大・共・別・円の違いはないことになる。もし異なるならば、どう分別するのか。今、略して説こう。もし「能伝と所伝の二つの事が似ているのを如とし、能伝と所伝に非なるはないのを是とする」と言うなら、これは三蔵教の信の意である。もし「解と真が合するのを如とし、身は灰となり智は寂まるのを是とする」と言うなら、これは通教の信の意である。もし「機に称うのを如とし、事は逆らうが理は順うのを是とする」と言うなら、これは別教の信の意である。もし「魔界即ち仏界なるを如とし、一色一香に中道に非ざるはないのを是とする」と言うなら、これは円教の信の意である。「如是」がすでにこのようであるなら、「我聞」などもこれに準じて解することができる。ゆえに龍樹は言う。「その信じる者は、この事は是の如しと言い、信じない者は、この事は是の如くならずと言う。」もし初三を信じるなら、これは方便の諸権が是の如しと信じるのである。もし後に一を信じるなら、これは円融一実が是の如しと信じるのである。この通序・別序は諸師が皆用い、世に常に聞くところであり、多く説くを待たない。詳しくは『法華疏』の中の如し。今ここではただ教に約する一義のみを存し、他は皆それに準ずる。今、通序の五句を明かすが、また五章を序することができる。「如是」は請を序し、「我聞」は施を序し、「一時」は行を序し、「住処」は義を序し、「同聞」は用を序する。如是が涅槃の衆を序するとは、そもそも異ならないのを如と言い、非なるはないのを是と言う。もし如是を得なければ、異なるものは定めて異なり、非なるものは定めて非なる。この意に達した者は、異なるも異ならず、非なるも非ならず。初めに列衆の蛣𧏙已還から、詭類殊形で果報は紛雑し、幢は梵世を摩し蓋は大千を覆い、巨細は相傾き精麁は映奪す。もし牛羊の眼で見るならば、すべて舛互ならざるはなく、どうして如是を得られようか。如是を得る者は、法身の大士が首楞厳の種々の示現を作し、異なるも異ならざるを悟る。ゆえに如と称し、非なるも非ならざるを知る。ゆえに是と言う。まさに知るべし、如是は召請の衆のために序を作すこと明らかである。我聞が涅槃の施を序するとは、我は昔聞かずして今聞く。八斛の粳糧が周遍く大衆に至り、二施の果報が等しく差別無きを聞き、新伊の四徳・秘密の仏性、種々の法味を聞かずして聞く。ゆえに我聞は涅槃の施を序すると知る。一時が涅槃の行を序するとは、一時の行は次第の行に非ず、一時の証は前後の証に非ず。文に云く「また一行あり、これ如来の行なり。次第の行に非ず、一念の中に即ちよく五趣の身を具足現ず。」と。すなわち一時の証である。まさに知るべし、一時は涅槃の行を序する。住処が涅槃の義を序するとは、処は帰身止息の所であり、仏性は宗極究竟の地なることを表す。邪を駆り悪を引きて彼の拘尸に向かわしめ、枯にも非ず栄にも非ず中間に寂滅す。他も自も極に到りて止まる。まさに知るべし、住処は涅槃の義を序する。同聞が涅槃の用を序するとは、山林河海の神、牛羊螽螫の類が同聞の衆となる。すなわち等教の三子が併せて三田を作し、善悪俱に収め邪正悉く度すことを知る。ゆえに同聞の衆は涅槃の用を序するのである。

已將五序別屬當竟，更說一序各序五章。夫眾不出八佛，八佛與現佛不異名如，無非佛者故名為是。二施無差故言如，同入祕藏故言是。如來之行故言如，一行遍攝故言是。同一佛性故言如，義體不二故言是。邪惡不二故言如，更無過者故言是。當知如是通序五章。

> 五つの序のそれぞれの所属についてすでに述べ終えたので、さらに一つの序にそれぞれ五つの章があることを説こう。 すべての生きとし生けるものは八仏を出ない。八仏と現在の仏とは異ならないから「如」という。仏でないものはないから「是」という。 二つの施しに差別がないから「如」といい、同じく秘密の蔵に入るから「是」という。 如来の行であるから「如」といい、一つの行がすべてを包み込むから「是」という。 同じ一つの仏性であるから「如」といい、義と体が二つでないから「是」という。 邪と悪が二つでないから「如」といい、これ以上に勝れたものがないから「是」という。 このように知るべきである。これが「如是我聞」の通序における五つの章である。

我聞亦然。昔聞四眾非八佛，今聞八佛即四眾。我昔聞初後優劣五果遷移，我今聞二施無差等皆常樂。我昔聞江河迴曲不徑到海，今聞拘耶尼洲猶如直繩。我昔聞肉眼尚不見空況能見性，今聞學大乘者雖有肉眼名為佛眼，佛眼見性了了分明。我昔聞善惡涇渭邪正異轍，今聞低彌神龜同皆在水。是為我聞通序五章。

> 私が聞いたこともまた同じです。かつては、四衆は八つの仏ではないと聞いていましたが、今は、八つの仏こそ四衆であると聞きます。かつては、初めと後とで優劣があり五つの果が移り変わる、と聞いていましたが、今は、二つの施しに差はなく、等しくみな常楽であると聞きます。かつては、川や河は曲がりくねって海へまっすぐには至らない、と聞いていましたが、今は、拘耶尼洲はまるでまっすぐな縄のようであると聞きます。かつては、肉眼ではまだ空を見ることができない、ましてや性を見ることなどできるはずがない、と聞いていましたが、今は、大乗を学ぶ者には肉眼があっても仏眼と名づけられ、仏眼は性を見てはっきりと明らかである、と聞きます。かつては、善と悪は泾と渭のように分かれ、邪と正は別の轍をゆく、と聞いていましたが、今は、低弥神亀もともにみな水の中にいる、と聞きます。これが私が聞いた通序の五章です。

一時者，一時奉聲光召請，一時集娑羅林，一時顯如來密藏，一時聞涅槃常施，一時聞頂戴奉行，一時安祕密藏中入涅槃義。一時已聞常住二字，啟悟父母七世宗親及諸眾生冤親善惡，是為一時通序五章。

> 一時、声光の召請に応じ、一時、娑羅林に集い、一時、如来の密蔵を顕し、一時、涅槃の常施を聞き、一時、頂戴奉行を聞き、一時、秘密蔵の中に安んじて涅槃の義に入る。一時、すでに常住の二字を聞き、父母七世の宗親およびもろもろの衆生の冤親善悪を啓悟する。これが一時の通序五章である。

住處者，聲光召請同向佛住處也，佛以佛所住處施與時眾，從佛住處起涅槃行，見佛住處乃是見義。以佛住處引攝邪惡，是為住處通序五章。

> 住処とは、仏の呼びかけに応じて共に仏の住処へ向かうことをいう。仏が自らの住処をその時の人々に与えられたので、人々は仏の住処から涅槃への道を歩み始める。仏の住処を見ることは、すなわち真理を見ることである。仏の住処によって邪悪な者を導き受け入れる――これが住処が五章に通じる所以である。

同皆見聞常住聲光為如，非餘方便之聞，故是同聞最後問答常命色力安無礙辯，同聞拘耶直繩之行，同聞西海祕藏之義，同聞邪惡有佛性用，是為同聞眾通序五章。

> ともに見聞し、常住の声と光を如と為す。他の方便の聞にあらず、ゆえに是同聞なり。最後の問答に、常命・色力・安・無礙弁を同じく聞く。拘耶直繩の行を同じく聞き、西海秘蔵の義を同じく聞き、邪悪にも仏性の用ありと聞く。これすなわち同聞の衆の通序の五章なり。

復次五序序於三點，如是總序三點不縱不橫不並不別乃稱如是，我聞序般若，一時序解脫，住處序法身，同聞序三點不虛。

> 次に、五つの序は三つの点（三徳）を序する。このように、三つの点を全体として序するとは、縦でもなく横でもなく、並でもなく別でもなく、まさにこれが「如是」である。「我聞」は般若を序し、「一時」は解脱を序し、「住処」は法身を序し、「同聞」は三つの点が虚ろでないことを序する。

復次五序序四德者，如是總序四德，我聞序樂，一時序淨，住處序常，同聞序我云云。例以五序序經要義，皆悉準此不復廣說，餘例思之。

> 次に、五つの順序で四つの徳を説くとは、このように四つの徳を全体的に述べたものである。すなわち「我聞」は楽を述べ、「一時」は浄を述べ、「住処」は常を述べ、「同聞」は我を述べる<note>云云</note>。例として五つの順序で経の要点を述べる場合、すべてこれに準じて、あらためて詳しく説くことはしない。その他の例も同様に考えるべきである。

我聞者，我我、我無我、無我我、非我非無我。聞聞、聞不聞、不聞聞、不聞不聞。三種我聞是昔所聞方便之義；非我非無我、不聞不聞圓論我聞者，今經正意。

> 私が聞いたというのは、「我」とも「我無我」とも「無我我」とも「非我非無我」とも言えるものです。また「聞く」「聞かない」「聞かないで聞く」「聞かず聞かず」とも言えます。これら三種の「私が聞いた」というのは、かつて説かれた方便としての意味です。「非我非無我」「聞かず聞かず」と円満に論じる「私が聞いた」こそ、この経の真の意味なのです。

一時者，一是數方，世間義耳；空為一者，即二乘義；真俗合一，菩薩義也。一一切、一切一、非一非一切、而一而一切，後一者今經正意。一時佛者，三身四義。後義在今，準前可知。

> 「一時」の「一」とは、数の始まりを表す言葉であり、世間で用いられる意味にすぎません。空を一とするのは、声聞・縁覚の二乗の教えです。真理と俗世が一体であるとするのが、菩薩の教えです。一が一切であり、一切が一であり、一でも一切でもなく、しかも一であり一切である――この最後の一こそが、今この経典の真の趣旨です。「一時、仏」とは、三身と四つの意味を表します。その最後の意味が今ここに示されており、先の説明に照らせばおのずと理解できるでしょう。

住處者，具存應言拘尸那竭，此無翻，或翻為角城，有三角。《華嚴》云「角城南」者，即其城也。或云蓑草城，或言茅城，此城草覆因以名之。或云仙人城，昔仙人壽長崇其人，以人名名於住處。亦以名名國，故言拘尸國。

> 住処とは、詳しくは「拘尸那竭（くしなぎゃら）」と言うべきであるが、これは漢訳されない。あるいは「角城（かくじょう）」と訳され、三角の形をしていることによる。『華厳経』に「角城の南」とあるのが、まさにこの城のことである。また「蓑草城（さそうじょう）」とか「茅城（ぼうじょう）」とも言い、この城が草で覆われていたことからその名がついた。また「仙人城」とも言い、昔、寿命の長い仙人がいて人々がその人を尊び、人の名をもって住処の名とした。またその名をもって国の名ともしたので、拘尸国と言うのである。

力士生地者，人中力士力敵千人，凡三十萬，共為群黨無所臣屬，以法自持亦不暴亂，即士人也，故言生地。

> 力士が生まれた地とは、人間の中で力士は千人の力に敵うほど強く、およそ三十万人が集まって群れをなし、誰にも従わず、法によって自らを保ち、暴れることも乱れることもない。すなわち士人である。それゆえ「生地」と言うのである。

阿夷羅跋提，此翻金沙，在城南，闊二十丈，或言闊四十丈。

> 阿夷羅跋提とは、金沙と訳される川で、城の南にあります。幅は二十丈、あるいは四十丈とも言われています。

娑羅雙樹者，此翻堅固。一方二株，四方八株，悉高五丈，四枯四榮。下根相連上枝相合，相合似連理，榮枯似交讓。其葉豐蔚，華如車輪，果大如缾，其甘如蜜，色香味具。因茲八樹通名一林，以為堅固。只此一城有種種見。若見土石者，人所住處，世間之義。若見是無常苦空興廢者，二乘住處。若見是發菩提心處、是值先世佛處、願處、修定等處者，是菩薩住處。若見是四德圓滿究竟具足慈憫示人，茅城表常，力士表我，吉河表淨，樹間表樂。又一一事表四德者，城不可壞表常、豐有表樂、御敵表我、無難表淨。力士無屬表常、心安表樂、力壯表我、色悅表淨。河者，恒流表常、金沙表淨、清涼表樂、吉福表我。樹者，下文云「東雙表常、南雙表樂、西雙表我、北雙表淨。又雙茂表常、陰涼表我、華以表淨、果以表樂。」若能總別識四德者，即諸佛住處。若謂同聞是生死人凡夫所見、謂是聖人二乘所見、謂登地去菩薩所見、謂是九佛中之八佛即諸佛所見。若得此意，下去句句作此消之。

> 沙羅双樹とは、ここでは「堅固」と訳されます。一辺に二株、四方に八株あり、すべて高さ五丈で、四本は枯れ、四本は栄えています。根は下で互いに連なり、枝は上で合わさっています。合わさっているさまは連理のようであり、栄えと枯れは互いに譲り合うかのようです。その葉は豊かに茂り、花は車輪のようで、果実は瓶ほどに大きく、その甘さは蜜のようです。色・香・味が備わっています。これによって八本の樹を総じて一つの林と呼び、堅固と名づけるのです。 ただこの一つの城にも、さまざまな見方があります。土や石と見るならば、それは人が住む場所であり、世間の意味です。無常・苦・空であり、栄えたり衰えたりすると見るならば、それは声聞・縁覚の二乗の住む場所です。菩提心を起こす場所であり、過去の仏に出会った場所であり、願いの場所であり、定を修める場所などであると見るならば、それは菩薩の住む場所です。四つの徳が円満に究極し、慈しみをもって人に示されていると見るならば、茅の城は常を表し、力士は我を表し、吉河は浄を表し、樹の間は楽を表します。 また、一つ一つの事が四徳を表すとは、城は壊れないことが常を表し、豊かであることが楽を表し、敵を防ぐことが我を表し、災いがないことが浄を表します。力士は属するものがないことが常を表し、心が安らかなことが楽を表し、力が強いことが我を表し、顔色が喜ばしいことが浄を表します。河は、絶えず流れることが常を表し、金沙が浄を表し、清涼が楽を表し、吉福が我を表します。樹は、下文に「東の双樹は常を表し、南の双樹は楽を表し、西の双樹は我を表し、北の双樹は浄を表す。また、二本とも茂ることは常を表し、陰涼は我を表し、花は浄を表し、果実は楽を表す」とあります。 もし総じて、また個別に、四徳を理解することができるならば、それはすなわち諸仏の住む場所です。同じく聞いているのが生死の人であり凡夫の見るところであると言うならば、それは聖人である二乗の見るところであり、登地の菩薩の見るところであり、九仏の中の八仏、すなわち諸仏の見るところであると言うのです。この意味を得たならば、以下の句も句ごとにこのように解釈していきなさい。

就同聞眾又二：初眾集、次威儀。初文者，私謂：準一家意，須以五十二眾以為同聞，是故同聞冠五十二。今比丘當初，故云同聞。同聞為五，謂與、歎、類、眾、數，今文少眾，義合有之。

> また、同じく法を聞いた人々について、二つに分けて説明します。まず人々が集まったこと、次にその威儀についてです。最初の文について、私見では、この宗派の立場に従えば、五十二の集団をもって「同じく法を聞いた人々」とすべきです。それゆえ「同じく聞いた」という言葉が五十二の集団全体にかかります。今、比丘が最初に挙げられているので、「同じく聞いた」と述べているのです。「同じく聞いた」には五つの要素があります。すなわち「与（ともに）」「歎（たたえる）」「類（たぐい）」「衆（むれ）」「数（かず）」です。今の文には「衆」が欠けていますが、意味の上では備わっているはずです。

與者，共也，《釋論》以七一釋共，謂一處、一時、一戒、一心、一見、一道、一解脫。諸比丘與佛同此七一，故言佛與。若三藏明義，丈六佛與諸比丘同是拘尸處、同在涅槃時、同律儀戒、同禪定心、同無漏見、同涅槃道、同有餘脫，七皆同佛，是故言共。若通教明義，五同二別。何者？體法智慧即色見空，非色滅空；此見不同摩訶衍道，不同隘路，道不同也，當知二別。若別教明義，尊特身佛時處等七，前兩比丘之所不見，如為盲人設燭，何益無目者乎。戒、心、見、道、解脫於前兩比丘，如為聾人奏樂，何益無耳者乎。此佛不與前兩比丘共。此中比丘尚不與前佛共，況比丘耶？若圓明義，佛之七一皆佛境界，唯與圓菩薩共、住首楞嚴示比丘像者共，尚不與前三佛共，況比丘耶？今言共者，皆是大權及開顯竟故也。

> ここでいう「与（ともに）」とは、共にするという意味である。『大智度論』では七つの「一」をもって「共」を説明している。すなわち、一つの場所、一つの時、一つの戒、一つの心、一つの見、一つの道、一つの解脱である。すべての比丘たちは仏とこの七つの「一」を同じくする。だから「仏とともに」と言うのである。 もし三蔵教の立場で意味を明かすならば、丈六の仏とすべての比丘たちは、同じ拘尸那の場所にあり、同じ涅槃の時にあり、同じ律儀の戒を守り、同じ禅定の心を持ち、同じ無漏の見を持ち、同じ涅槃の道を歩み、同じ有余の解脱を得ている。七つのすべてが仏と同じである。だから「共」と言うのである。 もし通教の立場で意味を明かすならば、五つは同じで二つは異なる。なぜか。体法の智慧は、すなわち色そのものが空であると見るのであって、色が滅して空になるのではない。この見は大乗の道と同じではなく、狭い道とも同じではない。道が異なるのである。だから二つは異なると知るべきである。 もし別教の立場で意味を明かすならば、尊特の身の仏の時・処など七つは、前の二つの比丘たちには見ることができない。それは盲人のために蝋燭を灯すようなもので、目のない者にとって何の益があろうか。戒・心・見・道・解脱は、前の二つの比丘たちにとって、耳の聞こえない者のために音楽を奏でるようなもので、耳のない者にとって何の益があろうか。この仏は前の二つの比丘たちとは共にしないのである。ここでの比丘たちすら前の仏とは共にしないのだから、ましてや比丘たちにおいてをや、である。 もし円教の立場で意味を明かすならば、仏の七つの「一」はすべて仏の境界であり、ただ円教の菩薩と共にし、首楞厳の定に住みながら比丘の姿を示す者と共にするだけである。前の三つの仏とはすら共にしないのだから、ましてや比丘たちにおいてをや、である。今「共」と言うのは、みな大権の者であり、また開顕がすでに成就したからである。

大者，歎德也。《釋論》云「摩訶者，翻大、多、勝。天王大人之所恭敬故言大，通四韋陀三藏故言多，勝九十五種故言勝。」此依三藏釋也。賢聖之所恭敬故言大，通達析體法門故言多，勝析法心慧兩種解脫故言勝，此依通教釋也。學無學人之所恭敬故言大，通達大小法門故言多，出過聲聞辟支佛上故言勝，此依別教釋也。七種方便之所恭敬故言大，通達權實法門故言多，於畢定眾而作上首故言勝，此依圓教釋也。大權開顯如前。

> 「大」とは、その功徳を称えたものです。 『釈論』にはこう説かれています——「摩訶」とは、大・多・勝と訳される。天王や大人たちが敬うので「大」といい、四韋陀や三蔵に通じているので「多」といい、九十五種の外道に勝っているので「勝」という。 これは三蔵教に基づく解釈です。 賢者や聖者が敬うので「大」といい、析法と体法の法門に通じているので「多」といい、析法の心と慧の二種の解脱に勝っているので「勝」という。これは通教に基づく解釈です。 学人も無学の人も敬うので「大」といい、大乗も小乗も法門に通じているので「多」といい、声聞や辟支仏を超えているので「勝」という。これは別教に基づく解釈です。 七種の方便の人々が敬うので「大」といい、権と実の法門に通じているので「多」といい、必ず成仏する者たちの中で上首となるので「勝」という。これは円教に基づく解釈です。 大いなる方便をもって真理を開き示すことについては、すでに前述のとおりです。

比丘者，氣類也。以三義故名為比丘。不仰不下、不方不維，次第行乞清淨活命，故名乞士。戒禁七支、禪鎖心猨，怖無常狼、伏煩惱脂，是名破惡。修此三法，天魔煩毒慮其出境，復恐度人，是故愁怖。此三藏義。體達諸法，非仰非下非方非維以資慧命，知惡非惡亦無知者，是名破惡。不得怖喜，無怖喜者是名怖魔。此釋通比丘義。從淺至深歷次第三，諦求中道法喜，是名乞食。次第破五住，是名破惡。以煩惱怖故業怖，業怖故陰怖，陰怖故天魔怖，是為怖魔。此釋別比丘義。一切諸法中悉有安樂性名真乳糜，以此自資安樂性中純是佛法，無惡可破，名為破惡。魔如佛如，名為怖魔。此釋圓比丘義。準諸經皆有眾字，四人已上和合名眾。《釋論》有破戒、瘂羊、有羞、真實四僧，後之二僧應百一羯磨、前二不堪，煖等是有羞，四果是真實，即三藏眾。乾慧性地是有羞，八人已上是真實，即通教眾。三十心是有羞，十地是真實，此別教眾。十信是有羞，四十一地是真實，圓教眾。餘二比丘，教教有之，惡無差別，故不別說。有羞、真實復有四義：一發起、二影響、三當機、四結緣，合而明之故言眾云云。

> 比丘とは、気質・性質を表す言葉です。三つの意味があるので比丘と呼ばれます。仰がず下がらず、方角にもとらわれず、次々に托鉢して清らかに命をつなぐので、乞士（こつじ）と呼ばれます。七つの戒を守り、心の猿を禅でつなぎとめ、無常の狼を恐れ、煩悩の脂を伏せる、これを破悪（はあく）と呼びます。この三つの法を修めるなら、天魔はその者が自分の領域を出ていくことを煩わしく思い、また人々を救うことを恐れるので、憂いて恐れます。これが三蔵の教えの意味です。諸法の本体を悟り、仰ぐことなく下がることなく方角にもとらわれずに智慧の命を養い、悪は悪ではないと知り、知る者もない、これを破悪と呼びます。恐れも喜びも得ず、恐れも喜びもない者を怖魔（ふま）と呼びます。これは比丘の意味を一般的に説明したものです。浅いところから深いところへと段階を追って進み、中道の法喜を求める、これを乞食（こつじき）と呼びます。次々に五住の煩悩を破る、これを破悪と呼びます。煩悩が怖いから業が怖く、業が怖いから五陰が怖く、五陰が怖いから天魔が怖い、これを怖魔と呼びます。これは比丘の意味を個別に説明したものです。一切の諸法のなかにすべて安楽の性質があるのを真の乳糜（にゅうび）と呼び、これによって自らを養う安楽の性質のなかは純粋に佛法であり、破るべき悪はない、これを破悪と呼びます。魔も佛も同じである、これを怖魔と呼びます。これは比丘の意味を円満に説明したものです。諸経典にはいずれも「衆」の字があるのは、四人以上が和合するのを衆と呼ぶからです。『釈論』には破戒・瘂羊・有羞・真実の四種の僧があり、後の二種の僧は百一羯磨に値し、前の二種は堪えません。煖などの位は有羞であり、四果は真実であり、これが三蔵教の衆です。乾慧地・性地は有羞であり、八人以上は真実であり、これが通教の衆です。三十心は有羞であり、十地は真実であり、これが別教の衆です。十信は有羞であり、四十一地は真実であり、これが円教の衆です。残りの二種の比丘は、各々の教えにあり、悪に差別はないので、別に説きません。有羞と真実にはまた四つの意味があります。一に発起、二に影響、三に当機、四に結縁、これらを合わせて明かすので衆と言います<note>云々</note>。

八十億百千者，數也。或但人，或數人法空，或數法門，或數實相云云。

> 八十億百千というのは、数のことです。あるいはただ人を数えることもあり、あるいは人と法の空を数えることもあり、あるいは法門を数えることもあり、あるいは実相を数えることもあります。

次前後圍繞者，威儀也。或以三業恭敬機動，或以四門入空機動，或以四門入假機動，或以四門入中機動。

> 次に、前後で囲み従うのは、威儀である。あるいは三業の恭敬によって機が動き、あるいは四門より空に入る機が動き、あるいは四門より仮に入る機が動き、あるいは四門より中に入る機が動く。

從「二月十五日」下，第二別序，正是召請。文為三：初明能召、次明所召、三結召。能召又為三：一聲召、二光召、三動召。聲召有六：一聲時表法、二聲時臨機、三聲之本末、四聲之橫竪、五聲有感應、六聲中歎告。

> 「二月十五日」の後ろからが、第二の別序であり、まさに召請の部分です。内容は三つに分かれます。初めに召す側を明かし、次に召される側を明かし、三つ目に召請を結びます。召す側もまた三つに分かれます。一つ目は声による召請、二つ目は光による召請、三つ目は動きによる召請です。声による召請には六つあります。一つ目は声の時に法を表し、二つ目は声の時に機に臨み、三つ目は声の本末、四つ目は声の横と竪、五つ目は声の感応、六つ目は声の中で嘆き告げることです。

初、「二月」下，聲時表法者，二月是仲春之時。仲，中也，即表中道。十五日是月滿之時，滿表圓常。故以仲時滿月之日，表於中道圓明之法。

> まず、「二月」というところは、時を示して法を表しています。二月は春の真ん中の時期です。「仲」とは「中」という意味で、これは中道を表します。十五日は月が満ちる時であり、満月は円満で永遠なることを表します。ですから、春の真ん中の満月の日をもって、中道の円かで明らかな法を表しているのです。

次、「臨涅槃時」下，聲時臨機道機時熟，不待不過臨赴之時。下文云「香山諸仙、拘尸力士、純陀、須跋善根成熟」，故唱涅槃，令其得入祕密之藏。《法華》云「應以滅度而得度者，示現滅度而度脫之。」即此義也。

> 次に、「臨涅槃時」の下は、声の時と機の道機の時が熟し、待つことなく過ぎることなく、臨んで赴く時であることを示す。下文に「香山の諸仙、拘尸の力士、純陀、須跋の善根が成熟した」とあるので、涅槃を唱えて、彼らをして秘密の蔵に入らしめたのである。『法華経』に「滅度をもって度を得べき者には、滅度を現じてこれを度脱せしむ」とある。まさにこの意味である。

三、「以佛」下，聲本末者，神力為本，大聲為末。從本垂迹，皆悉令悟非本非末。又空慧為本，種智為本，寶相為本云云。四、「其聲」下，聲之橫竪，遍滿是橫、有頂是竪。他解：有頂但是梵世即尼吒天，無色無身不應聞聲，故非有頂。有人引《仁王》云：無色定力能變化作香華雲等以供養佛，何以不能變化作身？此亦堪難。今作三番橫竪：一橫被六道、竪徹三界；二橫被四生、竪徹三乘；三橫被十界、竪徹等覺。故知不唯尼吒為有頂也，若以三有之頂即非想是，又三有頂即無學是，復有一頂即妙覺是，兩頂被召、一頂被請。此意既寬，豈比梵世。五、「隨其」下，聲之感應，隨類則感不一，普告則應無二。以無二之聲應不一之感，蓋不可思議。六、「今日」下，聲之歎告又為二：先歎、後告。歎令崇仰，告令悲戀。初歎又二：初雙歎兩德、次雙結兩德。初先歎內德、次歎外德。

> 三、「仏によりて」の下は、声の本と末について述べる。神力が本であり、大きな声が末である。本から迹を垂れ、みな本でも末でもないと悟らせる。また空慧が本であり、種智が本であり、宝相が本である<note>云云</note>。四、「その声」の下は、声の横と竪について述べる。遍満が横であり、有頂が竪である。他説では、有頂とはただ梵世すなわち尼吒天のみを指し、無色には身がないので声を聞くはずがなく、それゆえ有頂ではないとする。ある人は『仁王経』を引いて言う。無色定の力で香華雲などに変化作して仏を供養できるのに、なぜ身を変化作することができないのか、と。これもまた難問となりうる。今ここで三つの横と竪を立てる。第一に横は六道に及び、竪は三界を貫く。第二に横は四生に及び、竪は三乗を貫く。第三に横は十界に及び、竪は等覚を貫く。ゆえに知る、ただ尼吒だけが有頂ではないと。もし三有の頂とすればすなわち非想であり、また三有の頂はすなわち無学であり、さらに一つの頂はすなわち妙覚である。二つの頂は召され、一つの頂は請われる。この意はすでに広い、どうして梵世と比べられようか。五、「その随に」の下は、声の感応について述べる。類に随えば感は一つではない、普告すれば応は二つではない。二つでない声をもって一つでない感に応ずるのは、まさに不可思議である。六、「今日」の下は、声の嘆き告げであり、また二つに分ける。まず嘆き、後に告げる。嘆きは崇拝仰慕させ、告げは悲しみ恋い慕わせる。初めの嘆きはまた二つに分ける。初めに両方の徳を双べて嘆き、次に両方の徳を双べて結ぶ。初めにまず内の徳を嘆き、次に外の徳を嘆く。

初文者，內德無量，但歎三號者，欲明三事。初歎如來，允同諸佛，生其尊仰，是為世父。應供者，是上福田，能生善業，是為世主。正遍知者，能破疑滯生其智解，是為世師。故下文云「我等從今無主無親無所宗仰云云。」次外德者，外德無量，但舉四等者，欲明本父君師本時誓願皆具四等，今當利益拔苦與樂斯為要也。憐是大慈，憫是大悲，覆護是大喜，等視是大捨。次、「為作」下，結歎。為二：初為作歸依結三號、次為世間舍結四等。

> まず内なる功徳は無量であるが、ただ三つの称号を讃えるのは、三つのことを明らかにしようとするためである。まず「如来」を讃えるのは、もろもろの仏と等しく同じであり、尊崇の心を生じさせるので、これが世の父である。「応供」とは、最上の福田であり、善き業を生み出すことができるので、これが世の主である。「正遍知」とは、疑いの滞りを破って智慧の理解を生じさせることができるので、これが世の師である。それゆえ後の文に「私たちは今から、主もなく親もなく、よりどころとして仰ぐものもない<note>云云</note>」とある。次に外なる功徳は無量であるが、ただ四つの平等を挙げるのは、もともと父・君・師としての本来の誓願がすべて四つの平等を備えており、今まさに利益を与え、苦を除き楽を与えることが肝要であることを明らかにしようとするためである。憐れみは大慈であり、哀れみは大悲であり、覆い護ることは大喜であり、等しく見ることは大捨である。次に「為作」の下は、讃えを結ぶ。二つに分かれる。初めに帰依となすことは三つの称号を結び、次に世間の舎となすことは四つの平等を結ぶ。

次、從「大覺」下，告也。告之言報，初報令斷疑、次報令興問。大覺遍知能斷前疑，四等慈悲必聽後問。後問則教道演暢，獲涅槃施；斷疑則棄偽獲真，新伊方顯。大聲普告為設教之序，此義明矣。前具歎三號，今但報大覺。大覺正是遍知。明師即主即父，故不煩文。復次如來是初號，大覺是後號。歎初告後互舉一邊，其意則遍。若依前分別，應節節明四義，得意自顯故不復云。

> 次に、「大覚」の下は、告げである。告げとは報いのことで、初めに疑いを断たせることを報せ、次に問いを起こさせることを報せる。大覚は遍く知るゆえに前の疑いを断つことができ、四等の慈悲は必ず後の問いを聴く。後の問いとはすなわち教えの道が広く開け、涅槃の施しを得ることである。疑いを断てば偽りを捨てて真を得、新たな伊がここに顕れる。大いなる声で普く告げるのは教えを設ける序であり、この意味は明らかである。前にすでに三つの号を讃嘆したが、今はただ大覚のみを報せる。大覚こそまさに遍知である。明師はすなわち主でありすなわち父であるから、煩わしい文は要らない。また次に、如来は初めの号であり、大覚は後の号である。初めを讃嘆し後を告げるのは一方を互いに挙げたのであり、その意味は遍く通じる。もし前の区別に従うなら、節ごとに四つの意味を明かすべきであるが、意を得れば自ずと顕れるから、重ねて言わないのである。

次、「爾時」下，光召。文為四：一光時、次所出處、三光所照、四光利益。初文者，夫昏明交際旭旦之時，表智明生、惑闇消滅，涅槃力也。為此緣宜故晨朝放。次、明光處者，面門口也。口非六色而六色在口，表佛性非六不離六法。又青黃赤白是定色，表隨自意。玻瓈瑪瑙是不定色，隨物而變，表隨他意。又大涅槃海大身眾生所居之處，種種龜魚種種珍寶其明雜色，正應表此。又濟六道淨六根，故放六色。三、「光遍照此」下，明所照。三千乃至十方，即是橫照。若例聲中應有竪照，而不照者高廣互現。四、「其中」下，光益。他人至此判為新眾。既有其中之言，何須云新？又云三業等，可知。今文為二：初、蠲三障。六趣眾生是報障，罪垢是業障，煩惱障如文。次、「是諸」下，三業戀慕生善，在文易見。障除善生速得見佛，指於光召，序涅槃行意在此也。

> そこで「その時」以下は、光が呼びかける部分です。文章は四つに分かれます。第一に光の時、次に光の出る場所、第三に光の照らす範囲、第四に光の利益です。 最初の文について。そもそも薄明と明るさが入れ替わる早朝の時は、智慧の明かりが生まれ、迷いの闇が消えていくことを表しています。これは涅槃の力によるものです。このようなご縁にふさわしいため、朝に光を放たれたのです。 次に光の場所を明かせば、顔の口の門です。口は六つの色ではありませんが、六つの色が口にあります。これは仏性が六つの法ではなく、しかも六つの法を離れないことを表しています。また青・黄・赤・白は定まった色で、自分の意のままであることを表します。玻璃や瑪瑙は定まらない色で、物に応じて変わることから、他人の意に従うことを表します。また大涅槃の海は大きな身体の衆生が住むところで、さまざまな亀や魚、さまざまな珍宝の輝きが入り混じった色をしています。まさにこれを表しているのです。また六道を済い、六根を清めるために、六つの色を放つのです。 第三に「光は遍くこの」以下は、照らす範囲を明かしています。三千から十方に至るまで、すなわち横に照らすということです。もし声の例に倣えば、縦に照らすこともあるはずですが、照らさないのは、高さと広さが互いに現れるためです。 第四に「その中に」以下は、光の利益です。他の人はここを新しい聞衆と判定しています。すでに「その中に」という言葉があるのに、どうして新と言う必要があるでしょう。また三業などと言うことも、理解できるでしょう。今の文章は二つに分かれます。初めに三障を除きます。六趣の衆生は報障であり、罪垢は業障であり、煩悩障は文のとおりです。次に「これらは」以下は、三業で恋い慕い善を生じることです。文を見れば明らかです。障りが除かれ善が生じれば、速やかに仏を見ることができます。これは光の呼びかけを指しており、涅槃の行を序する意図はここにあるのです。

三、「爾時大地」下，地動召中有陸動、水動，水地相依是故俱動，表無明、愛見二互相依，將翻有緣癡愛，故地動以表之。復言震者，起、涌、動是其形，震、吼、覺是其聲，廣則六動十八動也云云。然聲光動等，或前或後或復一時，感見不同豈可定執？

> 三、「そのとき大地は」という箇所について。地が動くという知らせの中には、陸が動くことと水が動くことがある。水と地は互いに依存し合っているので、ともに動くのである。これは無明と愛と見という二つのものが互いに依存し合っていることを示している。まさに有縁の痴と愛をひっくり返そうとするので、地が動くことによってそれを示すのである。また「震」というのは、起・涌・動がその形であり、震・吼・覚がその声である。広くいえば六種の動き、十八種の動きである〈云云〉。しかし声や光や動きなどは、あるいは前にあるいは後にと、あるいはまた同時に起こるもので、感じ取る人によって見え方が異なるのだから、どうして決めつけることができようか。

從「時諸眾生」下，次明所召。文為二：初總明所召，謂時諸眾生是也。二、「時有」下，別明所召，謂隨類別出。總召為四：初抑苦、二興請、三釋請、四釋苦。初文者，聞師父滅，何得不苦？苦沒憂海自他無益，故言裁抑。次、「當共」下，興請。若抑苦而住亦復無益，故須興請，故言當往佛所。一劫減劫者，若請大劫則妨後佛，只是請於小劫。從人壽八萬四千漸短至十歲，是一小劫。三、「互相執手」下，是釋請。文為三：初發起請、次正釋請、三結請。言執手者，只是更互悲悼起發之端。次、復作是言，正釋請意。夫如來者，乘如故來，世則有佛。如來若去，世則無佛。故言世間虛空，欲請如來父也。佛是應供，供福不窮。若無應供，善業則竭，故言眾生福盡，欲請應供主也。遍知之智遮惡示善，遍知若去無人示道，故言不善增長，欲請正遍知師也。請意既爾，宜急詣佛不可停留。三、結請者。速往速往。四、「又作是言」下，釋苦。夫慈悲覆世，苦者拔之、貧者樂之；今慈悲雙去，俱嬰貧苦。雙唱虛空無救無護無所宗仰，此釋無主苦。貧窮孤露一旦遠離無上世尊，釋無親苦。設有疑惑當復問誰，釋無師苦。如是展轉釋成愁苦之意。

> 「時に諸々の衆生あり」から次は、呼び寄せられる者について明かす。文は二つに分かれる。初めは呼び寄せられる者を総じて明かす。すなわち「時に諸々の衆生」これである。二つ目は「時に有り」から下、呼び寄せられる者を個別に明かす。すなわち種類に従って個別に示すのである。総じての呼び寄せは四つ。初めは苦しみを抑えること、二つ目は請いを起こすこと、三つ目は請いを説き明かすこと、四つ目は苦しみを説き明かすことである。初めの文とは、師が滅したと聞いて、どうして苦しまないでいられようか。しかし苦しみに沈み憂いに溺れては自他ともに益がない。だから「裁ち抑える」と言う。次に「共に」から下は、請いを起こすことである。もし苦しみを抑えてとどまっていても、また益はない。だから請いを起こさねばならない。ゆえに「仏の所へ往くべし」と言う。一劫を減ずる劫とは、もし大劫を請えば後の仏の妨げとなる。ただ小劫を請うのみである。人の寿命八万四千歳から次第に短くなり十歳に至るまで、これが一小劫である。三つ目に「互いに手を執り」から下は、請いを説き明かすことである。文は三つに分かれる。初めは請いを発起し、次に請いの意を正しく説き、三つ目に請いを結ぶ。手を執るとは、ただ互いに悲しみ悼み、発起の端とするのである。次にまたこのように言うとは、請いの意を正しく説き明かす。それ如来とは、如に乗るがゆえに来る。世に仏がおられるということである。如来がもし去られれば、世に仏はない。だから「世間は虚空なり」と言い、如来たる父を請おうとするのである。仏は応供であり、供養の福は尽きない。もし応供がなければ、善業は竭きる。だから「衆生の福は尽きる」と言い、応供の主を請おうとするのである。遍知の智は悪を遮り善を示す。遍知がもし去られれば、道を示す人がいない。だから「不善は増長す」と言い、正遍知の師を請おうとするのである。請いの意がこのようであるから、急ぎ仏のもとへ詣でるべきであり、とどまることはできない。三つ目に請いを結ぶとは、「速やかに往け、速やかに往け」である。四つ目に「またこのように言う」から下は、苦しみを説き明かす。それ慈悲は世を覆い、苦しむ者を抜き、貧しき者を楽しませる。今、慈悲がともに去れば、ともどもに貧苦に罹る。ともに「虚空なり、救いなし、護りなし、宗仰する所なし」と唱える。これは主のない苦しみを説き明かす。貧窮にして孤露、ひとたび無上の世尊から遠く離れる。これは親のない苦しみを説き明かす。もし疑惑があっても、誰に問うべきか。これは師のない苦しみを説き明かす。このように展転して愁苦の意を説き明かし成すのである。

次從「時有無量」去，是別召請。文為二：初召此土、次召他土。此土為三：先召閻浮眾、次召中間眾、三召上界眾。閻浮有三，謂聲聞、菩薩、雜眾。《釋論》明菩薩行中道故居季孟間，具足應如《法華疏》文，有事有表云云。他人先分二意：一增數列、二減數列。於初分道俗眾等，今意如前。初聲聞又二：一僧、二尼。僧又二：初佛邊眾、次外來眾。問：佛邊何用召？答：雖不召來，駭令後問。又從多故亦得言召。佛邊眾為三：一所召、二奉召、三順召。初云時有無量者，上已定數。言無量者，上列端首。此通徒屬，故言無量。大弟子者，如弟如子，尊讓兩楹而目一事云云。尊者者，諸梵行人互相敬重稱為尊者。如《阿含》中「諸比丘！從今稱長者為大德，少者稱長老。」美其德業故言長老云云。迦旃延，此翻扇繩。薄拘羅，此云善容。優波羅陀，此翻大喜，或云重喜。其形端正，父母字之為大喜。在家為輪王，捨身為魔王。魔王知將來事，現十八變化，汝能出家當得如是。父母聽之，得三明六通，故字為重喜。次遇佛光者，是奉召。應言遇聲光地動，略舉一兼二。三、「其身戰掉」去，是順召。上文遇光，蠲三障、生三善；今略障存善，如文。問：羅漢憂悲都盡，何頓至此？答：此是殘習，非正使也。又示楷模，令物攀慕。又別惑未除，非通惑也。憂悲者，是佛法界，攝一切法。下文「有憂無憂悉是如來境界」。約四教分別，不復委言。次、「爾時復有八十百千」去，召外來眾。為二：所召、奉召。所召有四，數、類、歎、結。初、數，可解。次、比丘者，類也。釋如前。皆阿羅漢去，先歎自行德。羅漢是無學之位。心自在是俱解脫人，即歎不生德。所作已辦，是歎無學智應供德。離惱調根，根亦是賊，《遺教》云「此五根賊」，此歎殺賊德。次、「如大龍王」去，歎化他德。既云有大威德，無容自威，知是利物為他所仰。夫象是陸中力大譬慧，龍是水中力大譬定。或只呼象為龍象，如帝釋婆羅寶象步虛而行，眴息之間超忽萬里。化其身為三十二牙，牙有七池，池七蓮華，華七玉女，女奏樂音適悅三十三天。若取龍象為喻者，彌順化他。旃檀譬以戒益物，師子譬以慧益物。能以二法匠成於他，還為淨眾之所圍繞。四、「如是無量功德」下，結也。既言無量，知結自他。佛真子者，迹為小乘。真子本是大乘真子，以大乘真子結上自他功德云云。次、奉召。中三：初光、次聲、後動。初、光召。二、「各於晨朝」去，是奉光召。朝是明初。用楊枝者，即表行。初可表機動顯勝行。初、遇佛光明。次、「更相謂言」下，順光召。望前亦無蠲三障之文，而有三業善文。更相謂言是口業善，舉身毛竪是身業善，生大苦惱是意業善。波羅奢是樹名，葉青，華有三色，日未照則黑；日照則赤，赤脈皆現；日沒則黃。表未奉召，三善不生如黑；奉召悲哀如赤；無佛如黃云云。「為欲利益」去，簡順召之意。利益眾生簡非自行，成就大乘簡非小道，第一空行簡非淺近。此與佛之真子文會。次從「顯發如來」去，是奉聲召。亦二：初、大聲普告令最後問。今奉此召，顯發如來方便密教，開常問極最後教興。次、「為不斷絕」下，順聲召。若順佛聲教，則不斷說法。三、「為諸眾生」去，奉地動召。亦二：初、上山海震動翻邪見性，今奉此召。次、調伏因緣疾至佛所，即順動召。能召所召互相領悟，智能知智此之謂矣云云。

> 次に「時に無量の」という箇所からは、別の召請の文である。内容は二つに分かれる。初めにこの国土の衆を召し、次に他の国土の衆を召す。この国土については三つに分かれる。まず閻浮提の衆を召し、次に中間の衆を召し、三に上界の衆を召す。閻浮提には三種あり、声聞と菩薩と雑衆である。『釈論』には、菩薩は中道を行ずるゆえに季孟の間にあると説かれている。詳しくは『法華疏』の文のとおりで、事もあれば表もある<note>云云</note>。他人はまず二つの意に分ける。一つは増数して列ね、二つは減数して列ねる。初めに道俗の衆などを分かつが、今の意は前述のとおりである。初めの声聞はまた二つに分かれる。一つは僧、二つは尼である。僧もまた二つに分かれる。初めは仏の辺りの衆、次は外から来たる衆である。問う、仏の辺りに何ゆえ召す必要があるのか。答う、召して来なくとも、驚かせて後に問いを起こさせるためである。また多きに従うゆえに召すとも言える。仏の辺りの衆は三つに分かれる。一つは召されるもの、二つは召しに奉ずるもの、三つは召しに順ずるもの。初めに「時に無量の」というのは、すでに上で数を定めた。無量と言うのは、上に端首を列ねた。これは徒属に通ずるゆえに無量と言う。大弟子とは、弟のごとく子のごとく、両楹を尊び譲りて一事を目するがごとくである<note>云云</note>。尊者とは、諸の梵行の人が互いに敬重し合って尊者と称する。『阿含』の中に「諸比丘よ、今より長者を大徳と称し、少者を長老と称せよ」とあるがごとくである。その徳業を美するゆえに長老と言う<note>云云</note>。迦旃延は、ここには扇縄と翻す。薄拘羅は、ここには善容という。優波羅陀は、ここには大喜と翻し、あるいは重喜ともいう。その形端正なるゆえに、父母がこれに大喜と字した。在家では輪王となり、身を捨てて魔王となった。魔王は将来の事を知り、十八の変化を現じて、汝よく出家すればまさにこのようになると告げた。父母がこれを許し、三明六通を得たゆえに重喜と字した。次に仏の光に遇うとは、これ召しに奉ずることである。まさに声と光と地動に遇うと言うべきだが、一つを挙げて二つを兼ねた。三に「その身戦掉」という箇所からは、これ召しに順ずることである。上文に光に遇いて三障を蠲除し三善を生ずとあるが、今は障を略して善を存す、文のとおりである。問う、羅漢は憂悲ことごとく尽きているのに、何ゆえに頓にこのようになるのか。答う、これは残習であり、正使ではない。また楷模を示して、物に攀慕せしめるためである。また別惑未だ除かず、通惑ではない。憂悲とは、これ仏法界にして一切法を摂する。下文に「憂あるも憂なきも悉く是れ如来の境界なり」とある。四教に約して分別すれば、あらためて委しく言わない。次に「爾の時に復八十百千」という箇所からは、外から来たる衆を召す。二つに分かれる。召されるものと召しに奉ずるもの。召されるものに四つあり、数と類と歎と結である。初めの数は、解し易い。次に比丘とは、類である。釈は前述のとおり。皆阿羅漢なりという箇所からは、まず自行の徳を歎ずる。羅漢は無学の位である。心自在とは俱解脱の人にして、すなわち不生の徳を歎ずる。所作已辦とは、無学の智応供の徳を歎ずる。離惱調根とは、根もまた賊である。『遺教』に「この五根の賊」とあるが、これ殺賊の徳を歎ずる。次に「大龍王のごとく」という箇所からは、化他の徳を歎ずる。すでに大威徳ありと言うからには、自ら威あるはずがなく、これ利物にして他に仰がれることを知る。それ象は陸中の力大なるをもって慧に譬え、龍は水中の力大なるをもって定に譬える。あるいはただ象を呼んで龍象とする。帝釈の婆羅宝象のごとく、虚空を歩みて行き、瞬き息する間に忽ち万里を超える。その身を化じて三十二牙とし、牙に七池あり、池に七蓮華あり、華に七玉女あり、女は楽音を奏でて三十三天を適悦させる。もし龍象を喻に取るならば、いよいよ化他に順ずる。旃檀は戒をもって物を益するに譬え、師子は慧をもって物を益するに譬える。よく二つの法をもって他を匠成し、還って浄衆の囲繞するところとなる。四に「是のごとき無量の功徳」の下は、結である。すでに無量と言うからには、自他を結ぶことを知る。仏の真子とは、迹は小乗である。真子は本は大乗の真子であり、大乗の真子をもって上の自他の功徳を結ぶ<note>云云</note>。次に召しに奉ずる。中に三つあり。初めは光、次は声、後は動である。初めの光の召し。二に「各々晨朝に於いて」という箇所からは、これ光の召しに奉ずる。朝は明の初めである。楊枝を用いるのは、すなわち行を表す。初めに機動と勝行を顕すことを表すべし。初めに仏の光明に遇う。次に「更相に謂言す」の下は、光の召しに順ずる。前に対してまた三障を蠲除する文はないが、三業の善の文がある。更相に謂言するは口業の善、挙身毛竪するは身業の善、大苦悩を生ずるは意業の善である。波羅奢は樹の名にして、葉は青く、華に三色あり、日未だ照らさざれば則ち黒し。日照らせば則ち赤く、赤脈皆現ず。日没すれば則ち黄なり。未だ召しに奉ぜざれば三善生ぜずして黒きがごとく、召しに奉じて悲哀なるは赤きがごとく、仏なきは黄なるがごとし<note>云云</note>。「為に利益せんと欲するがゆえに」という箇所からは、召しに順ずる意を簡ぶ。利益衆生は自行にあらざることを簡び、成就大乗は小道にあらざることを簡び、第一空行は浅近にあらざることを簡ぶ。これ仏の真子の文と会す。次に「如来を顕発」という箇所からは、これ声の召しに奉ずる。また二つに分かれる。初めに大声普く告げて最後の問いをせしむ。今この召しに奉じて、如来の方便密教を顕発し、常を開き極を問う最後の教の興るを開く。次に「断絶せざらんがために」の下は、声の召しに順ずる。もし仏の声教に順ずれば、則ち説法を断絶せず。三に「諸衆生のために」という箇所からは、地動の召しに奉ずる。また二つに分かれる。初めに上山海震動して邪見の性を翻す。今この召しに奉ずる。次に調伏の因縁疾く仏所に至る。すなわち動の召しに順ずる。能召と所召と互いに領悟し、智よく智を知るとはこのことである<note>云云</note>。

二、列尼眾。為兩：初列眾、次發迹。列眾為二，謂所奉。所召有四，名、數、位、歎。等列中列上首三人。拘陀羅，未見翻。尼、姨、女，通是二方女人之稱。別論者，在俗為女，受五戒等者為姨，出家者為尼。但律中亦呼阿姨阿姊，以法為親作此稱之。位，可知。歎中，先歎自行如上。次、「如大龍」去，歎化他德，亦如上。次、「亦於晨朝時」去，是奉順三召，如上說。次、「比丘尼眾中」去，發迹。為二：初、明初比丘尼迹也，皆是菩薩本也。先指通位，次別指高位。菩薩語通，未知高下，所以更釋本高迹廣。初云人中龍者，若只於世人中如龍，此不多奇，乃是賢聖人中之龍。次位階十地者，釋其本高。現受女身者，明其迹廣。迹何故廣？四無量心故。本何故高？得自在定故。尚能作佛，何以不能為九界像云云。他分此文為兩雙：初本迹一雙、後因果一雙。因果難見云云。

> 二、尼僧たちの列挙。これは二つに分かれる。初めに列挙し、次に本地を明かす。列挙は二つに分かれ、誰に仕えるかと、誰に召されたかである。召された者には四つがあり、名・数・位・嘆である。等列の中では上首三人を列ねる。拘陀羅は、まだ翻訳が見られない。尼・姨・女は、いずれも両方の地域で女性を指す称である。別に論じれば、在俗で女であり、五戒などを受けた者が姨であり、出家した者が尼である。ただし律の中でも阿姨・阿姊と呼び、法を親としてこの称を作ったのである。位については、知られる通りである。嘆の中では、まず自行を嘆じること前の通りである。次に「如大龍」からは、化他の徳を嘆じ、これも前の通りである。次に「亦於晨朝時」からは、三つの召しに奉順したことであり、前の説の通りである。次に「比丘尼衆中」からは、本地を明かす。これは二つに分かれる。初めに、最初の比丘尼の迹を明かす。みな菩薩としての本である。まず通位を指し、次に別して高位を指す。菩薩という語は通じるので、高下が分からない。それゆえさらに本が高く迹が広いことを釈する。初めに「人中龍」と言うのは、もしただ世間の人の中で龍のようであるというだけなら、それほど珍しいことではない。これはすなわち賢聖の人の中の龍である。次の位階十地とは、その本の高さを釈する。現に女身を受けるとは、その迹の広さを明かす。迹はなぜ広いのか。四無量心のゆえである。本はなぜ高いのか。自在定を得たゆえである。なお仏となることができるのに、なぜ九界の像となることができないのか<note>云云</note>。他はこの文を二つの対に分ける。初めに本迹の一対、後に因果の一対である。因果は見がたい<note>云云</note>。

次列菩薩眾，亦為二云云。所召六，謂數、類、位、名、歎、結。初、一恒河沙者，數也。諸經多以恒河為量者，有四義故：一人多識之；二入者得福；三於八河中大；四是佛生處，大聖同鄉故多用之。此乃四悉檀意。次菩薩摩訶薩者，類也。此翻道心、大道心。《釋論》解菩薩十義：一盡教化一切眾生、二盡供養一切諸佛、三盡淨一切佛土、四盡持一切佛法、五盡令一切佛種不斷、六盡分別一切佛土、七盡知一切佛弟子眾、八盡分別一切眾生心、九盡知斷一切眾生煩惱、十盡知一切眾生根。如是十門為首，復有無量阿僧祇門，是故名為菩薩。《大品》佛自明摩訶薩義，亦有十門：一當於無量生死中大莊嚴；二當捨一切所有；三當等心於一切眾生；四當以三乘度脫一切；五當度一切，度一切已忘其度功；六當解一切諸法不生法相；七純以薩婆若心行於六度；八當學智慧了達一切法；九當了達諸法一相；十當了無量相。是十門為首，名摩訶薩。龍樹釋此十義。一大莊嚴者，不計日月歲數百千萬億劫，於生死中利益度脫一切眾生。二捨一切所有者，一切貴賤若內若外無所遺惜。三一切眾生等心者，憎愛厚薄冤親悉均。四三乘度脫者，隨其堪任皆使同到涅槃。五忘其功者，不得彼我亦不見能度所度。六知不生者，一切法皆不生。七行六度者，以清淨無雜心，行六度迴向薩婆若。八了達一切法者，世間所作之事皆悉了達。九一相門者，謂畢竟空也，涅槃相離憶想分別。十無量門者，一二三四諸增數法門。此十門為首，復有無量法門，是名摩訶薩義。此中應明四種菩薩，如別記文中多歎圓菩薩德。

> 次に列なる菩薩衆も、また二つの意味がある。召し集められたものに六つあり、すなわち数・類・位・名・歎・結である。初めに「一恒河沙」とは数のことである。諸経が多く恒河を量とするのには四つの意味がある。一つには人が多くこれを知っていること、二つには入る者が福を得ること、三つには八つの河の中で最も大きいこと、四つには仏の生まれた場所であり、大聖と同じ郷であるため、多くこれを用いるのである。これはすなわち四悉檀の意である。次に「菩薩摩訶薩」とは類のことである。これは道心、大道心と訳す。『釈論』には菩薩の十の意味を解いている。一にはすべての衆生を教化し尽くすこと、二にはすべての仏を供養し尽くすこと、三にはすべての仏土を清め尽くすこと、四にはすべての仏法を持ち続け尽くすこと、五にはすべての仏種を断たせないようにし尽くすこと、六にはすべての仏土を分別し尽くすこと、七にはすべての仏弟子衆を知り尽くすこと、八にはすべての衆生の心を分別し尽くすこと、九にはすべての衆生の煩悩を断ずることを知り尽くすこと、十にはすべての衆生の根を知り尽くすこと。このような十の門をはじめとして、さらに無量阿僧祇の門がある。それゆえ菩薩と名づけるのである。『大品』では仏みずから摩訶薩の意味を明かしており、これにも十の門がある。一には無量の生死の中で大いに荘厳すべきこと、二にはすべての所有を捨てるべきこと、三にはすべての衆生に対して平等の心を持つべきこと、四には三乗をもってすべてを度脱すべきこと、五にはすべてを度し、度し終えてその度した功を忘れるべきこと、六にはすべての法が不生の法相であると解すべきこと、七には純粋に薩婆若の心をもって六度を行ずべきこと、八には智慧を学びすべての法を了達すべきこと、九には諸法の一相を了達すべきこと、十には無量相を了達すべきこと。この十の門をはじめとして、摩訶薩と名づける。龍樹はこの十の意味を解釈している。一の大荘厳とは、日月歳数の百千万億劫を数えず、生死の中で一切の衆生を利益し度脱することである。二のすべての所有を捨てるとは、一切の貴賤、内なるものも外なるものも遺惜するところがないことである。三の一切衆生に等心とは、憎しみや愛、厚薄、冤や親をすべて平等にすることである。四の三乗度脱とは、その堪任に随って皆等しく涅槃に到らせることである。五のその功を忘れるとは、彼我を得ず、また能度・所度を見ないことである。六の不生を知るとは、一切の法が皆不生であることである。七の六度を行ずるとは、清浄で雑わない心をもって六度を行じ、薩婆若に迴向することである。八の一切法を了達するとは、世間のなす事をすべて了達することである。九の一相門とは、いわゆる畢竟空であり、涅槃の相は憶想分別を離れていることである。十の無量門とは、一二三四などの諸の増数法門である。この十の門をはじめとして、さらに無量の法門があり、これを摩訶薩の意味と名づける。ここでは四種の菩薩を明かすべきであり、別記の文にあるように、多く円の菩薩の徳を歎じている。

## 大般涅槃經疏卷第一上

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