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title: "大般涅槃經疏 · 1"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55vum0005ljo045gsd7rlt"
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### 純陀品上

> 純陀品 上

釋品為三：一辨疏密、二辨德行、三釋名。初意者，依天竺文猶屬〈壽命品〉開破今昔常無常義，於義則密、於文則疏；謝氏從人從事題純陀品，於文則密、於義則疏。今明涅槃施章，於梵漢兩文俱無所失，隨前人則施常命、隨後事則施常修云云。

> この品の解釈を三つに分けます。第一に構成の密と疎を明らかにし、第二に德行を明らかにし、第三に名前を解釈します。 まず第一の意味について。天竺の文によれば、これはなお〈寿命品〉に属し、今と昔の常・無常の意義を開いて破るものです。意義の上では密ですが、文の上では疎であります。謝氏は人と事とに従って、純陀品と題しました。文の上では密ですが、意義の上では疎であります。今、涅槃施の章を明らかにするならば、梵と漢の両文においてともに失うところがありません。前の人に随えば常の命を施し、後の事に随えば常の修を施します<note>云云</note>。

次德行者，純陀是二恒之數，何故別立一品？略明十異：一時眾先供而後請，純陀先請而後供；二時眾三請佛皆默然，純陀一請如來即受；三因受大會；四因食開常；五自請住；六騰眾請；七金口歎；八大眾歎；九當徒問答；十往昔誓願。眾無其一，寧不立品？問：純陀十異逈超眾表，何不前供而後獻耶？答：後供者讓他德也。舊明五讓，謂賤讓貴、凡讓聖、麁讓妙、少讓多、近讓遠。今依文宜為十讓：初以俗讓道，謂僧尼眾；次以凡讓聖，謂學無學；三以淺讓深，謂諸菩薩；四以賤讓貴，即國王大臣；五以顯讓冥，謂天龍鬼神；六以少麁讓多妙，謂人天等；七以財讓法，即是魔眾；八以同類讓異類，即師子鳥蠭等；九以近讓遠，謂十方菩薩；十以城旁讓隱遯，忍辱仙眾。五讓收文不盡，十意粗周。問：何故昔默今默而有受不受異？答：佛意難知，今通別兩解。今昔二默俱是四悉，世人所默有受不受，佛隨世界故有二默受不受異，或宜默受、宜默不受，二俱生善。欲生彼善故有二默，破惡得道亦復如是，聖無唐捐非凡所測。別釋者，時眾無奇緣弱不感，令追責往緣，是名世界默然不受。初若發言不受則後供息心，眾供都集普皆等受，是名為人默然不受。默不受者，貶其不能因食以明不食，開無常顯常無勝治力，是名對治默然不受。若是食身可默受食，法身常諸無食無受，是名第一義默然不受。默然不受是佛境界，義不可盡，略言四耳。

> 次に徳行についてですが、純陀は二恒の数の人々と同じです。なぜ別に一品を立てるのでしょうか。簡単に十の違いを明かします。一つには、時の衆は先に供養して後に請い、純陀は先に請いて後に供養しました。二つには、時の衆は三度請いましたが仏は皆黙然とされ、純陀は一度請うと如来はすぐに受け入れられました。三つには、大会を受ける因となったこと。四つには、食によって常を開く因となったこと。五つには、自ら住を請うたこと。六つには、衆の請を伝えたこと。七つには、金口の歎。八つには、大衆の歎。九つには、当の徒との問答。十つには、往昔の誓願です。衆にはその一つもありません。どうして品を立てないことがありましょうか。問い：純陀の十の違いは衆をはるかに超えているのに、なぜ先に供養して後に献じないのでしょうか。答え：後に供養するのは、他の徳に譲るためです。古くは五譲を明かしました。賤が貴に譲り、凡が聖に譲り、麁が妙に譲り、少が多に譲り、近が遠に譲るというものです。今は文に依れば十譲とすべきです。初めに俗をもって道に譲るとは、僧尼の衆のこと。次に凡をもって聖に譲るとは、学と無学のこと。三つに浅をもって深に譲るとは、諸菩薩のこと。四つに賤をもって貴に譲るとは、すなわち国王大臣のこと。五つに顕をもって冥に譲るとは、天龍鬼神のこと。六つに少麁をもって多妙に譲るとは、人天などのこと。七つに財をもって法に譲るとは、すなわち魔衆のこと。八つに同類をもって異類に譲るとは、すなわち師子鳥蜂などのこと。九つに近をもって遠に譲るとは、十方の菩薩のこと。十に城旁をもって隠遯に譲るとは、忍辱仙の衆のことです。五譲では文を尽くすことができませんが、十の意でおおよそ周ります。問い：なぜ昔も黙し今も黙しながら、受と不受の違いがあるのでしょうか。答え：仏の意は知り難く、今ここに通と別の二つの解釈をします。今も昔も二つの黙はともに四悉です。世の人が黙するのに受と不受があるように、仏は世界に随うので二つの黙の受不受の違いがあります。あるいは黙受が宜しく、黙不受が宜しく、二つともに善を生じます。かの善を生じたいがために二つの黙があり、悪を破り道を得ることもまた同じです。聖に唐捐はなく、凡の測るところではありません。別の解釈では、時の衆は奇縁がなく縁が弱く感ぜず、往縁を追って責めさせる、これを世界の黙然不受と名づけます。初めに発言して不受ならば後の供は心を息めるでしょうが、衆の供がすべて集まれば普く等しく受ける、これを為人の黙然不受と名づけます。黙不受とは、その食によって食せざるを明かすことができないのを貶し、無常を開いて常を顕すに勝れた治力がない、これを対治の黙然不受と名づけます。もし食身なら黙して食を受けることができますが、法身は常に諸が食なく受なく、これを第一義の黙然不受と名づけます。黙然不受はこれ仏の境界であり、義は尽くすべからず、略して四つを言うだけです。

三釋名者，純陀名也。六卷云「姓華名子純，子之與陀二文互出。」舊云：本名純陀，後大眾稱德號為妙義。今則不然。純陀是彼音，妙義是此語。先立嘉名為最後作瑞，所以大眾稱美，不應名德兩分，例如善吉空生即其儔也。然妙義淵博不可言盡，略示其十，謂義妙、解妙、檀妙、位妙、德妙、感妙、通妙、說妙、田妙、益妙。義妙者，三點四德不縱不橫不並不別，佛及眾生皆悉安住祕密藏中。文云「諸佛境界不可思議，一切法中有安樂性。」解妙者，解大涅槃微妙智慧，照窮理性動合機宜，發心畢竟等無差別。文云「言純陀者，名解妙義，雖受人身心如佛心。」檀妙者，八斛四斗充足一切鍼鋒大眾。文云「令汝具足檀波羅蜜。」位妙者，雖在居家蓋諸無學，工巧之賤、釋梵歸仰，如盛滿月映蔽星辰，是優婆塞等法王子。文云「如幼出家墮大僧數。」德妙者，如前十異十讓，為佛為眾之所稱歎。文云「南無純陀！南無純陀！而為我等之所瞻仰。」感妙者，東方佛使作大神通，人天枯燥，齎持香飯獻而不受。九方亦爾況復人天，純陀一請即為哀納，故知物妙非妙、食麁不麁，非麁非妙。文云「普為大會哀受純陀最後供養。」神通妙者，始辦供具地六種動，正獻食時說十三偈，如經，即神通妙。說妙者，巧興五難善覆有為，如經。田妙者，最後入滅是良福田。文云「汝為眾生作良福田。」益妙者，因受其供普受大會則財益，一切因食開常即法益一切，如經。純陀大士具此十妙及餘無量一切諸妙，故名純陀品。若依經名應言十大，若依人名故言十妙，妙之與大左右之異。

> 三、名前の解釈について。 「純陀」とは名前です。六巻本には「姓は華、名は子純、子と陀は二つの文字が互いに出ている」とあります。古い解釈では、「本来の名は純陀であり、後に大衆が徳を讃えて妙義という称号とした」と言います。しかし今はそうではありません。純陀はあちらの音であり、妙義はこちらの言葉です。まず立派な名を立てて最後の瑞相としたので、大衆が美称したのです。名と徳を二つに分けるべきではありません。例えば善吉と空生がまさにその例です。 しかし妙義は深く広く、言葉で尽くすことはできません。略して十を挙げれば、義妙・解妙・檀妙・位妙・徳妙・感妙・通妙・説妙・田妙・益妙です。 義妙とは、三つの点と四つの徳が縦でも横でもなく、並びでも別々でもなく、仏も衆生もみな秘密の蔵の中に安住していることです。経文に「諸仏の境界は不可思議であり、一切の法の中に安楽の性がある」とあります。 解妙とは、大涅槃の微妙な智慧を理解し、理性を照らし尽くし、機に応じて動き、発心は究竟して等しく差別がないことです。経文に「純陀と言う者は、名を解妙義と言い、人の身心を受けながら心は仏の心のようである」とあります。 檀妙とは、八斛四斗で一切の鍼鋒のような大衆を満たすことです。経文に「汝をして檀波羅蜜を具足せしめる」とあります。 位妙とは、在家にありながら諸々の無学を覆い、工巧の賤しき者も帝釈梵天が帰依仰慕することです。満月が星辰を映し蔽うように、この優婆塞は法王子です。経文に「幼くして出家し大僧の数に堕ちるが如し」とあります。 徳妙とは、前に述べた十の異と十の譲のように、仏と衆生に称讃されることです。経文に「南無純陀、南無純陀、而も我等の瞻仰するところとなる」とあります。 感妙とは、東方の仏使が大神通を現じ、人天は枯渇していたのに、香飯を持ち来て献じても受け取られませんでした。九方も同様です。まして人天においてはなおさらです。純陀が一度請えばすぐに哀れみ受け入れられました。ゆえに物の妙は妙ではなく、食の麁は麁ではなく、麁でも妙でもないと知るのです。経文に「普く大会のために哀れみ純陀の最後の供養を受け入れた」とあります。 神通妙とは、供具を整え始めたときに大地が六種に動き、まさに食を献じる時に十三の偈を説いたことです。経に説く通り、これが神通妙です。 説妙とは、巧みに五つの難を起こし善く有為を覆ったことです。経に説く通りです。 田妙とは、最後に滅に入ることが良き福田であることです。経文に「汝は衆生のために良き福田となれ」とあります。 益妙とは、その供養を受けることで普く大会が財の益を受け、一切が食によって常を開くことで法の益を一切に及ぼすことです。経に説く通りです。 純陀大士はこの十の妙およびその他の無量の一切の妙を具えているので、純陀品と名づけます。経の名に依れば十大と言うべきであり、人の名に依れば十妙と言います。妙と大は左右の違いにすぎません。

從此訖眾問是涅槃施。分文為三：此品施常住五果，擬對此土雜類眾；〈哀歎品〉施勝三修，擬對此土聲聞眾；〈長壽品〉去隨問而施，擬對此土諸菩薩眾云云。問：有他方眾，何文擬之？答：從〈現病品〉去更明五行十德，〈師子吼〉問性及〈迦葉〉、〈陳如〉，擬對他方諸菩薩眾。然佛平等說，普雨一切，豈容分隔？一往分文以示起盡，於無分別中作差別說。問：若爾，始終只是一涅槃施，則無餘章。答：前明通意，得作此說云云。此品為四：初因獻食以明不食。不食是常，破於無常，開非常非無常。二因其請住，以不住破住，開非住非不住。三因於論義，有為無為且共置之，開非有為非無為。四因催供，明為滅須食、為不滅不食，開非滅非不滅。四段在文可尋。生起者，眾被召來意在開密，故因食明常。常則應住，故因常請住。住非圓極，是故遮住以無住破住。住與無住互成得失，故有為無為且共置之。若置非求是，是亦無是，故即非是。是故文言「方便涅槃即是而非」，故催其施今正是時。第二第三亦復如是，是非俱非、寂滅為樂，事窮理盡，故低頭飲淚而辦供也。通別者，雖分四段，不可一向。何者？圓滿妙說義不可盡，隨其類音各各得解，不可各解局於圓法。今三意望之：一、別舉常破無常。文云「我今施汝常命色力安無閡辯。」別明於我，以有我故所以論於我住我觀，若無我者誰住誰觀？文云「汝今當觀。」別明於淨，有為不淨、無為即淨。文云「善覆如來有為之相。」別明於樂，樂即涅槃，一切諸佛皆至是處。文云「生已不住，寂滅為樂。」若一向從別則成對治，失於圓旨，此義可知云云。二、明通者，今所明常，不言常異於我，常即是我亦即淨樂，我即是常亦即淨樂，淨樂亦爾。文云「是常法印即是諸佛之法界也。」若但是常，常即缺減不具四德，寧當得是法界印耶？三、明非通非別畢竟清淨。何者？若但是常破於無常，是待對法，經論所害。《釋論》云「無常者是對治法，非第一義。」常治無常亦復如是。《中論》云「若法為待成，是法還成待。」今言常者，非常無常，故非通別。若是通者，通即對別，別既被非，通寧得是？當知常者非通非別。文云「二施果報等無差別」，無通無別乃名為等。我亦如是，非我無我。文云「汝今當觀諸佛境界。」佛境界者，無我無無我，淨亦如是，非淨非不淨。文云「有為無為且共置之。」捨有捨無即非淨非不淨，樂亦如是非樂非不樂，名寂滅樂。文云「不應思惟長壽短壽。」無長無短即非樂非不樂。如是三意不可定三，不縱不橫不並不別，即通而別即非通別，不一二三而一二三，須識圓妙乃解於常。又此四文成前起後。言成前者，上大聲普告令最後問，為欲顯發方便密教；今果為開雙非之教。上面門放光却障生善，咸欲成就第一空行；今果勸觀諸佛境界。上地動翻倒咸歸佛所；今果示有為無為且共置之，欲求正法應如是學，如是學已寂滅為樂，同於如來所至到處。故涅槃施成前召請等義。言起後者，教觀諸佛境界，即般若德。欲求正法應如是學，且共置之，即解脫德。寂滅之樂佛所到處，即法身德。如此分文即顯佛語上中下善，不徒開章。

> ここから後は、すべて「涅槃の施し」についての問答である。分けて三つとする。この品では常住の五果を施し、この国土の雑類の衆生に対応させる。〈哀歎品〉では勝れた三修を施し、この国土の声聞の衆生に対応させる。〈長寿品〉以降では問いに随って施し、この国土の諸菩薩に対応させる。 問う。他方の衆生があるなら、どの文がそれに対応するのか。答える。〈現病品〉以降にさらに五行十徳を明かし、〈師子吼〉が性を問い、〈迦葉〉〈陳如〉があり、これが他方の諸菩薩に対応する。しかし仏は平等に説き、すべてに雨を降らせる。どうして区別できようか。ひとまず分けて始まりと終わりを示し、無分別の中で差別を説くのである。 問う。もしそうなら、初めから終わりまでただ一つの涅槃の施しだけで、他の章はないのか。答える。前に通の意を明かしたので、このように説くことができる。 この品は四つに分かれる。初めに食を献じることで食さないことを明かす。食さないことは常であり、無常を破り、非常非無常を開く。二に住を請うことで、住まないことをもって住を破り、非住非不住を開く。三に論義によって、有為と無為はしばらくともに置き、非有為非無為を開く。四に供を催すことで、滅のために食を要し、不滅のために食さないことを明かし、非滅非不滅を開く。四段は文中に求めれば分かる。 生起について。衆が呼ばれて来たのは密を開くためである。ゆえに食によって常を明かす。常ならば住むはずである。ゆえに常によって住を請う。住は円極ではない。それゆえ住を遮り、無住をもって住を破る。住と無住は互いに得失を成す。ゆえに有為と無為はしばらくともに置く。もし置くのが非を求めるのなら、是もまた是ではない。ゆえに即ち非是である。それゆえ文に「方便涅槃は即ち是にして非なり」と言い、ゆえにその施しを催して「今まさに是れ時なり」と言う。第二第三もまた同じである。是も非もともに非なり、寂滅を楽とす。事は窮まり理は尽きる。ゆえに頭を垂れ涙を飲んで供を办ずるのである。 通と別について。四段に分けるといっても、一方向に定めることはできない。なぜか。円満な妙説の義は尽くすことができない。その類の音に随ってそれぞれが解を得る。それぞれの解が円法に局限されることはない。今、三つの意から見る。 一には、別に常を挙げて無常を破る。文に「我れ今汝に常の命・色・力・安・無閡の辯を施す」と言う。別に我について明かす。我があるゆえに我・我住・我観を論ずる。もし我がなければ、誰が住み誰が観じようか。文に「汝今まさに観ずべし」と言う。別に浄を明かす。有為は不浄、無為は即ち浄である。文に「善く如来の有為の相を覆う」と言う。別に楽を明かす。楽は即ち涅槃であり、一切の諸仏は皆この処に至る。文に「生已って住まらず、寂滅を楽とす」と言う。もし一向に別に従えば、対治となって円の旨を失う。この義は分かるであろう。 二には、通を明かす。今明かす常は、常が我と異なると言わない。常は即ち我であり、また即ち浄楽である。我は即ち常であり、また即ち浄楽である。浄楽もまた同じ。文に「是の常法印は即ち諸仏の法界なり」と言う。もしただ常だけであれば、常は即ち欠減して四徳を具えない。どうして法界の印を得られようか。 三には、非通非別にして畢竟清浄であることを明かす。なぜか。もしただ常だけで無常を破るなら、これは待対の法であり、経論に害される。『釈論』に「無常は是れ対治の法にして、第一義にはあらず」と言う。常をもって無常を治するもまた同じ。『中論』に「もし法が待によって成るなら、この法は還って待を成す」と言う。今言う常は、常にあらず無常にあらず。ゆえに非通非別である。もし通であれば、通は即ち別に対す。別はすでに非とされる。通がどうして是でありえようか。まさに知るべきである、常は非通非別であると。文に「二施の果報は等しく差別なし」と言う。通なく別なきを等と名づける。我もまた同じく、我にあらず無我である。文に「汝今まさに諸仏の境界を観ずべし」と言う。仏の境界とは、我なく無我もない。浄もまた同じく、浄にあらず不浄にあらず。文に「有為と無為はしばらくともに置く」と言う。有を捨て無を捨てるは、即ち非浄非不浄である。楽もまた同じく非楽非不楽であり、これを寂滅の楽と名づける。文に「長寿・短寿を思惟すべからず」と言う。長なく短なきは、即ち非楽非不楽である。このように三つの意は定めて三とすることはできない。縦にせず横にせず並べず別にせず、即通にして別、即ち非通別である。一にも二にも三にもあらずして一にも二にも三にもなる。円妙を識ってこそ常を解することができる。 またこの四つの文は前を成し後を起こす。前を成すとは、上の大声で普く告げて最後の問いをさせたのは、方便の密教を顕発しようとしたためである。今、果として双非の教えを開く。上の面門の放光で障を却け善を生じたのは、皆、第一の空行を成就しようとしたためである。今、果として諸仏の境界を観じるよう勧める。上の地動が翻倒して皆仏の所に帰したのは、今、果として有為と無為はしばらくともに置き、正法を求めんと欲すればまさにこのように学ぶべきことを示す。このように学び已れば寂滅を楽とし、如来の至り到る処と同じである。ゆえに涅槃の施しは前の召請などの義を成す。 後を起こすとは、諸仏の境界を観じるよう教えるのは、即ち般若の徳である。正法を求めんと欲すればまさにこのように学ぶべし、しばらくともに置くとは、即ち解脱の徳である。寂滅の楽は仏の至り到る処であり、即ち法身の徳である。このように分文すれば、即ち仏語の上中下の善を顕す。いたずらに章を開くのではない。

初、獻供，文為四：一請、二受、三難、四答。請又二：初經家敘德、二發言陳請。敘德為二：一敘德、二敬儀。先敘其讓德、次敘所為德。敘讓德中兼具十意。優婆塞，如前釋，此即三讓，謂俗讓道、凡讓聖、淺讓深。拘尸城，如前釋，此是以近讓遠，城旁讓隱遯。工巧之子有二義，將作大匠子則貴，執斧子則賤，未知是何？且指以賤讓貴、以麁讓妙。同類十五人者，一本云五十，雙卷云五百。十五據端首，五十據親近，五百據徒屬。或當如此，此之一句是同類讓異類、以顯讓冥、以少讓多。今敘意者，此人正為請佛受供，即是以財讓法，依文證義義自滿足。次為令世間得善果者，敘所為德。善果多塗，謂可意果、無漏果、隨分果、究竟果。可意果者，賢聖所訶。文云「我今於此處，不求人天身。」無漏果者，二乘灰滅，經家所歎，必非自調自淨之果。隨分果者，三賢十聖住果報，分而非極。下文云「我今所獻食，願得無上報。」故非分果為令眾生得佛菩提究竟之果。次「捨身威儀」下，敘敬儀。威儀不同，謂俗威儀、道威儀、法門威儀、佛威儀。如波斯匿王見諸佛時捨五威儀，冠劍𤧑履車；餘雖無五，亦有脫巾解帶徒行等，皆俗威儀。道威儀者，謂偏袒單縫、天冠天衣、法式規矩等。法門威儀者，謂生忍法忍等諸法門也。佛威儀者，謂相、好、力、無畏、不共等法。或可捨俗服服道服，或捨事服入法門服，或即俗服是力無畏。偏袒右肩者，有俗袒、道袒、權袒、實袒。俗袒者，如書中肉袒謝罪。道袒者，弟子事師供役便易，故袒右覆左。權袒者，權化易行，故袒權覆實。此釋他經，非今教意。今言袒實覆權，覆無常之權、袒雙非之實，正當機利物便易得宜，故言偏袒右肩。右膝著地者，日既右轉，隨順世間以右著地，即世界也。日是陽精，表智導行，此即為人。《文殊經》云「右是正道，左是邪道。」用正去邪，此是對治。膝表於行，地表於理，以行契理，故以膝著地，即第一義。此意通用，可解他經。若依今經，膝即常行，地即常理，以行到理，故膝著地，此是第一義也。不釋合掌，私云事釋可知，如世歛手則表敬也。若所表者，二表權實二理，諸教諸味各有此二。今經合已，理無外也。悲感者，悲則悲他，感則感佛。他行不同悲亦不一，諸供不受則福德不生，是故悲也。供既不受，不得因供開常，是故悲也。常既不開，雙非不顯，是故悲也。佛若受供，最後檀成，我與同類眾願悉滿，故以悲助他、以感祈佛。不釋禮足，私云以我之頂歸佛足下，故諸教之果咸歸圓因。次「白佛」去，陳請，謂標請、正請、結請。標為二：初標三寶舟杭、次標自他求度。初世尊及比丘僧，即二寶也。佛及比丘智斷具足，即是法寶。哀者慈悲法門，指此一宇又是法寶。如是三寶即無供之眾，為有供眾而作福田。若無無供，供無所供；供若無受，供無由供，是故須請。受我等者，即是同類群輩。言最後者，由初致後。如來出世初益眾生，今入涅槃後益眾生。佛無再受之期，我無再供之日，故言最後。為度無量者，標他也。如此自他欲憑舟航，請求度脫。「世尊」去，正請，有三：法、譬、合。法說為二：一所失故請、二所求故請。所失為兩：初明所失、次釋所失。初所失者，失於三寶。無主是失佛，無親是失法，無救是失僧。「無護」去，釋所失。若無主，忠無所護；若無親，孝無所歸；若無師，學無所趣。既不為主護，又無主可護，則無榮無祿，是故言貧。既無親可歸，又親去不歸，則無生無蔭，是故言窮。無師可趣，又師不示趣，則無訓無成，是故言困。釋所失意顯。次從「欲從如來」下，是所求故請。又二：初明所求、次釋所求。初文者，求佛一體即滿三益：佛是良田，即是從上求祿，故言求將來食；佛能長養法身慧命，即是從親求生；佛能訓導令得正轍，即是從師求成。若從如來，即兼諸義。次「唯願」去，即釋所求。次從「世尊譬如剎利」去，是譬請。開為兩：一、貧窮譬，譬上所失無主無親等請，無主故貧、無親故窮。二、役力譬，譬上所求，求將來食請。貧窮譬中舉四姓者，舊云是四族姓。是義不然。現見四族一方俱貴，不相忝謝。今文四姓高下不同，於義不便。今明是四種姓：剎利翻田主，愛民治國王者之類；婆羅門翻淨行，博學明文之類；毘舍未見翻，應是平民耕農販賣之類。首陀未見翻，應是底下客糞擔尸之類。舊以四姓譬四生，又譬六道。是義不然。若四生六道，譬太近收義不盡；今譬九法界根性，束九以為四種。方便菩薩根性既有化他統物之能，譬於剎利；聲聞緣覺同是無漏清淨涅槃，譬婆羅門；天人兩界善道受報，譬於毘舍；地獄等四同是惡趣，譬於首陀。所以然者，一切眾生同一佛性其味真正，一體三寶等無差別，而為煩惱之所覆蔽，輪迴六道受種種身。界隔差別，其味混雜，或酢或鹹或甜或苦。無主無親亡家亡國，一體三寶隱而不顯。外則遠離三寶喪失善法，故言貧窮。善惡隔絕，故言遠至。非己本源，故言他國。下〈性品〉云「一切眾生雖有佛性皆不能見，而為三毒所覆，故墮地獄畜生餓鬼，生剎利等種種家中。」即其義也。若觀開譬，以剎利等譬四種人根性則便；若觀合譬，云貧四姓者即我身是，可譬一人有四根性，其義則便。而文又云拯及無量苦惱眾生者，復似就於多人作譬。既有二文，不可一向。若得此意，一人既然，多人亦爾，故於一人兩用無妨。然此經宗明常辨性，尋初法說通失三性，三性不顯義說為無，正性不顯故言無親，緣性不顯故言無主，了性不顯故言無救，通舉三失以為請端。法說所求中云但從如來求將來食者，專從主求祿是求緣因，緣能資了、了能顯正，此略舉一而為請也。就譬失中別請三性，意言眾生本有正因之性，一體三寶等無差別，而為惑覆，受種種身四姓等異。此舉異以請不異，別請如來顯於正性。以貧窮故遠至他國者，無主曰貧、無親曰窮、無師曰困，此舉貧請富，別請如來顯緣因性。役力農作乃至草薉，此明始從人天乃至菩薩，偏除煩惱唯是少分，無上善根不能開發。唯希天雨，天雨一灑即能發生，別請如來顯了因性。然三佛性非通非別，隨順根緣通別兩請。餘文如經。下如來受中亦有兩意：我今為汝除斷貧窮，是許其作主，顯緣因性；無上法雨，許為作師，顯於了性；雨汝身田令生法芽，許為作親，顯於正性。此是別許三因佛性。從「何以故？純陀！施食有二果報無差。」云何無差？若許作主即是親師，若許親師即是許主，是三如一等無差別。若顯緣因即顯了正，了正若顯即顯緣因，是三性顯等無差別。此是通許三因性也。惑者云：此未明佛性，云何此解？答：經明佛性是其正宗，初若不開，後何所躡？良以初請一體之佛作主親師，一體之親施其常命色力，一體之主施其常安，一體之師施其常辯，令其身內一體三寶三佛性顯，自他內外等無差別。上根利智已同純陀，為未解者至〈哀歎〉中開祕密藏，安置諸子悉入其中。〈長壽〉、〈金剛〉次第相躡，乃至〈迦葉〉、〈師子吼〉等廣顯佛性。若初開宗不明佛性者，為開何義？何義為宗？恐帖文流散，故懸示此義。次從「役力農作」去，譬上所求。此譬略從人天二乘、方便菩薩所有善法悉是緣因少分，故舉此為求。役力者，正明厭斃惡趣貧窮，尚人天善，故言役力農作。得好調牛，文有兩意：若以牛譬於身，身是善果猶屬人天；若以調牛，譬身口七。此譬於戒，良田譬定，平正譬慧。耘除草薉譬斷煩惱，此亦兩意：若除四住，譬二乘善；若除塵沙，譬三菩薩。「唯希法雨」去，正求了因。唯希如來，是求主求親。法雨是求師，三求若允，如貧得主、如窮得親、如蒙得師，則佛性顯，所求之要正在於此。佛隨其求，應請而施，施常命色力是許為親顯其正性，施其常安是許為主顯其緣性，施其常辯是許為師顯其了性。前後無違，方知文旨。三從「言調牛」下，合譬，先合役力、後合貧窮。文不次者，貧之與役不定前後，只貧故役、只役故貧。始從人天至三菩薩悉皆是貧，雖少不同，皆貧如來無上財寶。不次第合，意或在此。合役力譬，又兩：先歷法合，後一體合。初歷法合中不合人天者，特是文略。身口七支用戒防護，合上調牛。定能資慧，合上良田。慧忘差別，合上平正。除四住惑，合上除薉。除塵沙惑，合除沙鹵。次「世尊我今身有」下，就一體合。體有於戒以合調牛，定合良田，慧合除薉。雖少善緣不能顯正，「唯希如來」去，正是合求了因言教。從「貧四姓者」去，合上貧窮。上歷四姓，今就一體，已如前釋。從「拯及」下，合上歷別四姓意也。

> まず、供養を捧げる場面は、四つの部分に分かれます。一に請い、二に受け、三に問い、四に答えです。請いにもまた二つあります。初めに経典の作者が徳を述べ、次に言葉を発して請いを述べます。徳を述べるにも二つ、一に徳を述べ、二に敬う作法です。まずその譲りの徳を述べ、次にその目的とする徳を述べます。譲りの徳を述べる中に十の意味が備わっています。優婆塞については、前に説明した通りで、これすなわち三つの譲り、つまり俗が道に譲り、凡が聖に譲り、浅が深に譲るということです。拘尸城については、前に説明した通りで、これは近きをもって遠きに譲り、城のそばが隠遁に譲るということです。工巧の子には二つの意味があります。大将作の子とすれば貴く、斧を執る子とすれば賤しく、どちらかは分かりません。ひとまず賤をもって貴に譲り、粗をもって妙に譲ることを指します。同類の十五人とは、ある本には五十とあり、双巻には五百とあります。十五は代表を挙げ、五十は親しい者を挙げ、五百は従属する者を挙げたものです。あるいはそういうことで、この一句は同類が異類に譲り、明が冥に譲り、少が多に譲ることを示します。今その意を述べれば、この人はまさに仏に請うて供養を受けていただくためであり、すなわち財をもって法に譲ることであり、文に依って義を証すれば義は自ずから満ち足ります。次に世間が善果を得るようにとあるのは、目的とする徳を述べたものです。善果には多くの種類があり、意にかなう果、無漏の果、随分の果、究竟の果です。意にかなう果とは、賢聖が呵責するものです。文に「我今於此處，不求人天身」とあります。無漏の果とは、二乗の灰滅であり、経家が嘆じたもので、必ずしも自調自浄の果ではありません。随分の果とは、三賢十聖が果報に住むもので、分であって極ではありません。下文に「我今所獻食，願得無上報」とあります。ゆえに分果ではなく、衆生に仏菩提の究竟の果を得させるためのものです。次に「捨身威儀」以下は、敬う作法を述べたものです。威儀には違いがあり、俗の威儀、道の威儀、法門の威儀、仏の威儀です。波斯匿王が諸仏に会った時、五つの威儀を捨てたように、冠、剣、履、車などです。その他は五つはなくても、巾を脱ぎ帯を解き徒行するなど、みな俗の威儀です。道の威儀とは、偏袒、単縫、天冠天衣、法式規矩などです。法門の威儀とは、生忍法忍などの諸法門です。仏の威儀とは、相、好、力、無畏、不共などの法です。あるいは俗服を捨てて道服を着け、あるいは事服を捨てて法門服に入り、あるいはそのまま俗服が力無畏であることもあります。偏袒右肩には、俗の袒、道の袒、権の袒、実の袒があります。俗の袒とは、書物に肉袒して謝罪するようなものです。道の袒とは、弟子が師に仕え供役するのに便利なため、右を袒にし左を覆うものです。権の袒とは、権化が行いやすいため、権を袒にし実を覆うものです。これは他の経の解釈で、今の教えの意ではありません。今は実を袒にし権を覆い、無常の権を覆い、双非の実を袒にし、まさに機に当たり物を利するのに便利で適切なため、偏袒右肩と言います。右膝著地とは、日が右に転ずるので、世間に随順して右を地に着ける、すなわち世界です。日は陽の精であり、智が行を導くことを表し、これがすなわち為人です。文殊経に「右は正道、左は邪道」とあります。正を用いて邪を去る、これが対治です。膝は行を表し、地は理を表し、行をもって理に契るため、膝を地に着ける、すなわち第一義です。この意は通用し、他の経も解せます。今の経に依れば、膝は常行、地は常理、行が理に到るため膝を地に着ける、これが第一義です。合掌を釈しませんが、私には事の釈は明らかで、世間で手を合わせるのは敬を表すのと同じです。表すところを言えば、二つは権実の二理を表し、諸教諸味にそれぞれこの二つがあります。今の経は合わさって、理は外にないのです。悲感とは、悲は他を悲しみ、感は仏を感じることです。他の行が異なれば悲も一ならず、諸の供養が受けられなければ福德が生じず、それゆえ悲しみます。供養が受けられなければ、供養によって常を開くことができず、それゆえ悲しみます。常が開かれなければ、双非が顕れず、それゆえ悲しみます。仏がもし供養を受ければ、最後の檀が成り、私と同類の衆の願がことごとく満ちるので、悲をもって他を助け、感をもって仏に祈ります。礼足を釈しませんが、私には我が頂を仏の足下に帰す、ゆえに諸教の果がことごとく円因に帰すのです。次に「白佛」以下は、請いを述べることで、標請、正請、結請です。標は二つ、初めに三宝の舟航を標し、次に自他の求度を標します。初めの世尊及び比丘僧は、すなわち二宝です。仏及び比丘は智断が具足し、すなわち法宝です。哀は慈悲の法門で、この一宇を指すのもまた法宝です。このように三宝はすなわち供養のない衆であり、供養のある衆のために福田となります。もし供養のないものがなければ、供養は供養する所がなく、供養に受けるものがなければ、供養は供養によることができず、それゆえ請う必要があります。我等を受けよとは、すなわち同類の群輩です。最後と言うのは、初めによって後を致すからです。如来が世に出て初めに衆生を益し、今涅槃に入って後に衆生を益します。仏には再び受ける期がなく、我には再び供養する日がなく、ゆえに最後と言います。無量を度するためとは、他を標します。このように自他が舟航に憑らんと欲し、度脱を請い求めるのです。「世尊」以下は、正請で、三つあります。法、譬、合です。法説は二つ、一に失うところのゆえに請い、二に求むるところのゆえに請います。失うところは二つ、初めに失うところを明かし、次に失うところを釈します。初めの失うところとは、三宝を失うことです。主なしは仏を失い、親なしは法を失い、救いなしは僧を失います。「無護」以下は、失うところを釈します。もし主がなければ、忠は護る所がなく、もし親がなければ、孝は帰る所がなく、もし師がなければ、学は趣く所がありません。すでに主として護られず、また主として護るべきもなく、すなわち栄も禄もなく、ゆえに貧と言います。すでに親として帰るべきもなく、また親が去って帰らず、すなわち生も蔭もなく、ゆえに窮と言います。師として趣くべきもなく、また師が趣を示さず、すなわち訓も成もなく、ゆえに困と言います。失うところを釈する意は明らかです。次に「欲從如來」以下は、求むるところのゆえに請います。また二つ、初めに求むるところを明かし、次に求むるところを釈します。初めの文は、仏の一体を求めてすなわち三益を満たすことを明かします。仏は良田であり、すなわち上から禄を求めることで、ゆえに将来の食を求めと言います。仏は法身慧命を長養でき、すなわち親から生を求めることです。仏は訓導して正轍を得させることができ、すなわち師から成を求めることです。もし如来から求めれば、すなわち諸の義を兼ねます。次に「唯願」以下は、求むるところを釈します。次に「世尊譬如剎利」以下は、譬の請いです。二つに開きます。一に貧窮の譬は、上に失うところの主なし親なしなどの請いを譬え、主なしゆえに貧、親なしゆえに窮です。二に役力の譬は、上に求むるところを譬え、将来の食を求めの請いです。貧窮の譬の中で四姓を挙げるのは、旧には四族姓と言います。この義はそうではありません。現に四族が一方にともに貴く、相忝謝しないのを見ます。今の文は四姓の高下が同じでなく、義に不便です。今はこれが四種姓であると明かします。剎利は田主と訳し、民を愛し国を治める王者の類です。婆羅門は浄行と訳し、博学明文の類です。毘舎は訳が見えませんが、まさに平民で耕農販売の類でしょう。首陀は訳が見えませんが、まさに底下で糞を客し尸を担う類でしょう。旧には四姓をもって四生を譬え、また六道を譬えると言います。この義はそうではありません。もし四生六道なら、譬えが近すぎて義を収め尽くしません。今は九法界の根性を譬え、九を束ねて四種とします。方便菩薩の根性はすでに他を化し物を統ぶる能があるので、剎利に譬えます。声聞縁覚は同じく無漏清浄涅槃なので、婆羅門に譬えます。天人両界は善道で報を受けるので、毘舎に譬えます。地獄など四は同じく悪趣なので、首陀に譬えます。そうであるのは、一切衆生は同一仏性でその味は真正、一体三宝は等しく差別なく、しかるに煩悩に覆われ、六道を輪廻し種々の身を受けます。界隔差別があり、その味は混雑し、あるいは酢、あるいは鹹、あるいは甜、あるいは苦です。主なく親なく家を亡い国を亡い、一体三宝は隠れて顕れません。外には三宝を遠離し善法を喪失するので、貧窮と言います。善悪が隔絶するので、遠至と言います。己の本源でないので、他国と言います。下の性品に「一切衆生は仏性あれども皆見ること能わず、三毒に覆われるがゆえに地獄畜生餓鬼に堕ち、剎利などの種々の家に生ず」とあります。すなわちその義です。もし開譬を観れば、剎利などをもって四種の人根性を譬えるのが便です。もし合譬を観れば、貧の四姓とはすなわち我が身これなりと言い、一人に四根性があることに譬えられ、その義は便です。しかるに文にまた拯及無量苦悩衆生と言うのは、再び多くの人について譬えを作すようです。二文がある以上、一向にはできません。もしこの意を得れば、一人がそうであれば、多人もまたそうで、ゆえに一人に両用して妨げありません。しかるにこの経の宗は常を明かし性を弁じ、初めの法説を通じて三性を失い、三性が顕れない義を説いて無とし、正性が顕れないゆえに親なしと言い、縁性が顕れないゆえに主なしと言い、了性が顕れないゆえに救いなしと言い、通じて三失を挙げて請いの端とします。法説の所求中に「但從如來求將來食」と言うのは、専ら主から禄を求めるのは縁因を求めることで、縁は了を資し、了は正を顕す、ここでは略して一を挙げて請いとします。譬の失中では別に三性を請い、意に言うには衆生は本に正因の性あり、一体三宝は等しく差別なく、しかるに惑いに覆われ、種々の身を受け四姓などの異あり。これは異を挙げて不異を請い、別に如来を請うて正性を顕すのです。貧窮ゆえに遠く他国に至るとは、主なしを貧、親なしを窮、師なしを困と言い、これは貧を挙げて富を請い、別に如来を請うて縁因性を顕すのです。役力農作ないし草薉とは、初め人天から菩薩に至るまで、偏に煩悩を除くのはただ少分であり、無上善根は開発できないことを明かします。ただ天雨を希い、天雨が一洒すればすなわち発生できます。別に如来を請うて了因性を顕すのです。しかるに三仏性は通でも別でもなく、根縁に随順して通別の両請があります。余文は経の通りです。下の如来が受ける中にも二つの意があります。我今為汝除断貧窮とは、その主となることを許し、縁因性を顕します。無上法雨とは、師となることを許し、了性を顕します。雨汝身田令生法芽とは、親となることを許し、正性を顕します。これは別に三因仏性を許すものです。「何以故？純陀！施食有二果報無差」から、いかに無差か。もし主となることを許せばすなわち親師となり、もし親師を許せばすなわち主を許し、この三は如として一等で差別ありません。もし縁因を顕せばすなわち了正を顕し、了正が顕れればすなわち縁因を顕し、この三性の顕は等しく差別ありません。これは通じて三因性を許すものです。惑う者は言います。これはまだ仏性を明かしていないのに、どうしてこのように解するのか。答えます。経は仏性を明かすのがその正宗であり、初めに開かなければ、後になぜ踏襲するのか。まさに初めに一体の仏を請うて主親師とし、一体の親はその常命色力を施し、一体の主はその常安を施し、一体の師はその常辯を施し、その身内の一体三宝三仏性を顕し、自他内外等しく差別なくします。上根利智はすでに純陀と同じく、いまだ解さない者のために哀歎の中に至り祕密蔵を開き、諸子を安置してことごとくその中に入れます。長寿、金剛は次第に相踏み、ないし迦葉、師子吼などは広く仏性を顕します。もし初めに開宗して仏性を明かさなければ、何の義を開くのか。何の義を宗とするのか。恐らく文に帖じて流散するので、ゆえに懸けてこの義を示します。次に「役力農作」以下は、上の所求を譬えます。この譬は略して人天二乗、方便菩薩の所有の善法はことごとく縁因の少分であるため、これを挙げて求めとします。役力とは、まさに悪趣貧窮を厭斃し、なお人天の善を尚ぶことを明かし、ゆえに役力農作と言います。好調牛を得とは、文に二つの意があります。もし牛をもって身に譬えれば、身は善果でなお人天に属します。もし調牛をもって身口七に譬えれば、これは戒に譬え、良田は定に譬え、平正は慧に譬えます。耘除草薉は煩悩を断つことに譬え、これも二つの意があります。もし四住を除けば二乗の善に譬え、もし塵沙を除けば三菩薩に譬えます。「唯希法雨」以下は、まさに了因を求めます。ただ如来を希うのは、主を求め親を求めることです。法雨は師を求めることで、三求がもし允されれば、貧が主を得、窮が親を得、蒙が師を得るように、仏性が顕れ、求むるところの要はまさにここにあります。仏はその求めに随い、請いに応じて施し、常命色力を施すのは親となることを許してその正性を顕し、その常安を施すのは主となることを許してその縁性を顕し、その常辯を施すのは師となることを許してその了性を顕します。前後違わず、まさに文旨を知るべきです。三に「言調牛」以下は、合譬で、先に役力を合し、後に貧窮を合します。文が次第でないのは、貧と役は前後が定まらず、ただ貧ゆえに役し、ただ役ゆえに貧だからです。初め人天から三菩薩に至るまでことごとく貧であり、少の不同はあっても、皆如来の無上財宝に貧します。次第に合さない意はあるいはここにあります。役力の譬を合するに、また二つ、先に歴法の合、後に一体の合です。初め歴法の合中に人天を合さないのは、特に文の略です。身口七支を戒で防護するのは、上の調牛に合します。定は慧を資する、上の良田に合します。慧は差別を忘れる、上の平正に合します。四住の惑を除く、上の除薉に合します。塵沙の惑を除く、除沙鹵に合します。次に「世尊我今身有」以下は、一体に就いて合します。体に戒あるをもって調牛に合し、定は良田に合し、慧は除薉に合します。少善縁は正を顕すことができないため、「唯希如來」以下は、まさに了因の言教を求めることに合します。「貧四姓者」以下は、上の貧窮に合します。上は四姓を歴し、今は一体に就き、すでに前のように釈しました。「拯及」以下は、上の歴別四姓の意に合します。

三從「我今所供」去，雙結。又三：初、結上法譬中所求之請。法說中云受我微供然後涅槃，似獨請佛。今結譬云冀得充足如來大眾者，結其不獨在佛，善能充足五十二眾。又是顯其能以一食普施大眾，眾多而供足、供少而周多，不思議供供難思眾云云。次、「我今無主無親」去，雙結上法譬中所失之請。三、如羅睺羅者，雙結法譬中求失之請。佛是金輪即羅睺主，又是親師，我及一切亦復如是，事三如一同羅睺羅。

> 「我今所供」から以下は、二つの結びである。また三つに分ける。初めは、前の法説と譬えで求めた請いを結ぶ。法説の中に「私のわずかな供養を受けてから涅槃に入られよ」とあり、これはただ仏だけにお願いしているように見える。今、譬えの結びで「如来と大衆を満足させたい」とあるのは、仏だけにとどまらず、よく五十二の衆を充足できることを結んだものである。またこれは、一つの食べ物で広く大衆に施し、多くても供養が足り、少なくてもよく多くを満たすことを示している。思議しがたい供養で、思議しがたい大衆を供養するのである。次に「我今無主無親」から以下は、前の法説と譬えで失った請いを二つながら結ぶ。三つ目に「羅睺羅のごとく」とは、法説と譬えで失った請いを求めることを二つながら結ぶ。仏は金輪王であり、すなわち羅睺羅の主であり、また親であり師である。私も一切もまた同じである。三つの事が一つのごとく、羅睺羅と同じである。

從「爾時世尊」去，第二、受供。文為三：一許受施、二正受、三釋施。許受又二：一敘許、二佛唱許。初經家舉三號。佛然其所請，故以三號而對許之。舉世尊許為主，舉種智許為師，舉調御許為親。既許為主即斷其貧，既許為親即袪其窮，既許為師即除其困，三失還得，三求遂克。世尊者，一切之所瞻仰，如世孝子之事親，如婆羅門之事火，如諸天之奉帝釋。事親即親義，事火即師義，奉釋即主義云云。又世尊者，如學無學等眾星之瞻佛月，如四種菩薩海水繞佛須彌寶山。檀林師子等喻，喻戒定慧。世所崇仰，故言世尊。一切種智者，或以相好色身遍對一切，一切各解，故名一切種智。何者？世有眾生事八十神，一神一好隨其所覩見其所事；如來一身遍令其解，故名一切種智。又不以色身為佛，以一切種智為佛，一切種智依此色身見相莊嚴，當知智慧具足故名一切種智。調御者，稱適機緣應生應滅應受不受，皆為調御一切眾生。他經以調御、丈夫為兩號，今經合為一號。文云「自既丈夫復調丈夫。」善哉善哉者，印其法譬兩請。次「我今為汝除斷貧窮」去，是佛唱許，斷貧是許主，法雨是許師，生法芽是許親。從「汝今於我」去，是正受。汝今於我欲求常命色力者，述其請父；安者，述其請主；無閡辯者，述其請師。我當施汝者，即是許三云云。舊明涅槃正體是常，治於無常，故序五時云：《般若》雖明尊特之佛為成無生，《楞嚴》雖云七百僧祇，豈及《法華》無量壽？《法華》無量壽猶是無常，至涅槃教始明常樂。遠斥鹿苑、近破法華，同歸涅槃圓常，窮源盡性之說。如此說者，偏摘諸經對緣一句作無常義，偏取涅槃破病之常以為正體，二塗俱失。何者？般若佛母、涅槃佛師，楞嚴三佛、涅槃三點，法華一乘、涅槃佛性。一乘即佛性，一切眾生悉一乘故。云何一乘還破一乘？法身云何破於法佛？佛師云何破於佛母？故知惑其方便迷於部教，互相是非失其正旨。今所不用。地人雖無五時之執，以當現常破無常義，義勢相似已同舊壞。興皇解云：常無常者，藥病相治，無常治常。若識無常是治常方便，病去藥盡；若不識者，執藥為病。病即斷見，故云王今病重。常治無常，亦是方便，病去藥盡；若不識者，即成常見。識兩方便，能斷斷常則非斷常。故智者見法生即滅斷見，見法滅即滅常見；若不識者，還是二見。今明此釋與舊不同，若得意者無所間然；逐語生想，俱同前病。何者？彈常無常是互論方便，指非常非無常而為正體，如避空求空，去空逾遠。何者？佛言二施果報等無差別。若其昔說五果無常、今說是常，可是差別；若常無常俱是非常非無常者，方是等無差別，亦是顯發方便密教。若得此意，《般若》、《楞嚴》莫非祕密。然此常義，斯教之喉衿、眾經之心首、群聖之窟宅、諸佛之法界，不可思議，如來智慧說不可盡。若嶷然常、若當現常、若破病常，豈會圓理？今試言之。夫佛出世本為大事因緣，大事因緣即是常住，常法包容故名為大，常立諸法故名為事，常機常感故曰因緣。常無差別，差別說常。下文云「諸佛所師，所謂法也。以法常故諸佛亦常，三世諸佛悉師此常。常無師弟，師弟俱常。如是分別，名世界常。我今為汝除斷貧窮，無上法雨雨汝身田令生法芽，汝今於我欲求壽命色力安樂無閡辯才，我當施汝常命色力安無閡辯。」又云「我今哀憫汝及一切，是故今日欲入涅槃。若諸天人於此最後供養我者，悉皆當得不動果報。」如此等文皆明常法發生常善，是名為人常也。若欲遠離四顛倒者，應知是常樂我淨，我是佛義、常是法身、樂是涅槃、淨是正法，以此四種破四顛倒。又云「先所修習四法相貌悉是顛倒，欲得真實修諸想者，如彼智人巧修我想常樂淨想。譬如明醫，先以鹹苦治其本病，本病雖去復患鹹苦，後以淨乳治於鹹苦。佛亦如是，先以無常治其常病，常病既去更病無常，今以真常破昔無常。故云我為醫王欲伏外道，是故唱言無我無人，為此因緣而說有我。常破無常亦復如是。又東方雙者，即是於常為破無常。又二鳥雙游，譬於如來無二二用。如是等文皆明常法對破無常。」《釋論》亦云「常與無常是對治法，非第一義。」是名對治常也。第一義者則非常無常。今經亦云「二施果報等無差別。」若常破無常、無常異常，是則差別，非第一義。第一義者非常無常，故無差別。若二鳥雙游明其二用，二鳥俱息明其雙寂，即用而寂寂滅為樂，是大涅槃。如是等文皆第一義常也。當知是常四悉無閡。常亦間隔因緣大事，常亦寂絕畢竟妙理，常亦出生建立諸法，常亦對治破於倒惑，自在若此。云何偏據，是於對治藥病互論，埋沒圓能、害諸經論。又大涅槃本自有之，非適今也。又二十五有悉皆有我，我即佛性，佛性即常。佛性雄猛難可毀壞。此多文義即是現常。又云「夫有心者皆當作佛，未來當得常樂我淨。」如是等文即是當常。又三世有法無有是處，既無三世，何得復有現常當常？《淨名》云「但以世俗文字說有三世，非謂菩提有去來今。」若固執當現、各據三世，不解我意，寧會偈旨？又此常者，顯發如來方便密教。昔覆於常，今開辯常無別；今常異昔無常，開昔無常即是今常。次我今為汝斷貧窮者，若除四趣貧窮，即開諸惡無常而顯於常。下文云「懺四重禁，除謗法心，盡五逆罪，滅一闡提。」即其義也。若斷人天貧窮，即開諸善無常而顯於常。文云「我今於此處，不求天人身，設使得之者，心亦不甘樂。」又云「因滅是色，獲常色等。」即其義也。若斷二乘貧窮，即開無漏無常而顯於常。文云「為諸聲聞開發慧眼云云。」若斷方便菩薩貧窮，即開六度通別無常而顯於常。文云「令諸菩薩了見佛性。」又云「自此之前，我等皆名邪見人也。」總而言之，開諸有餘悉是無餘，開諸不了悉是了義，是名顯發如來方便密教，悉皆安置三點四德祕密藏中。又此常者即是佛性，佛性即常。既開於常，即開佛性。既為此等作親開正、作主開緣、作師開了，除斷貧窮開境界性，悉皆當得不動果報即開果性。若例此義，何人何法何教何行何位何用而不是常？何法不是非常非無常？豈復更有善惡三乘差別等性？畢竟悉是大般涅槃，言語道斷心行處滅不可思議，竪深橫廣無邊無底，能建大義充滿法界不可窮盡。何得判是嶷然破病當現常耶？如此常義猶若虛空，略對四家示其梗概。次正受中五果之名，文中不釋。私云：五既並果，具攝因果一切萬德。先消名、次對法。五法並常，故初云常。連持曰命。常命則以無始無終而無斷絕，以非色為色。吾今此身即是法身，作用為力遍一切處，用無窮盡。不動名安。雖具力用，安固不動。被機有辯，無緣慈悲普施法藥。次對法者，此即三密：命即意密，色力及安即身密，無閡即口密。亦名四德，意是常德、身是樂我、口即淨德。若得此意，遍一切法無非此五。佛具此五故以施人，以五常故施亦無盡，言無盡者即五果也。

> 世尊が教えを説かれたその時から、第二に施しを受ける段に入ります。内容は三つに分かれます。第一に施しを受けることを許すこと、第二に実際に受けること、第三に施しの意味を説くことです。許す部分はさらに二つに分かれ、第一に経典を記した者が許しを述べ、第二に仏が自ら許しを宣言されます。初めに経典家が三つの称号を挙げられます。仏はその求めに応じられたので、三つの称号をもって許しとされたのです。世尊を挙げて主として許し、種智を挙げて師として許し、調御を挙げて親として許されます。主として許された以上、その貧しさは断たれ、親として許された以上、その窮しさは除かれ、師として許された以上、その困しさは取り除かれます。三つの失いは還り、三つの求めは遂げられるのです。世尊とは、一切の人々が仰ぎ見るお方であり、世の孝行な子が親に仕えるがごとく、バラモンが火に仕えるがごとく、諸天が帝釈天に奉仕するがごとくです。親に仕えることは親としての意義、火に仕えることは師としての意義、帝釈に奉仕することは主としての意義です<note>云々</note>。また世尊とは、学び終えた者も学ぶ途上の者も、あたかも多くの星が仏という月を仰ぐように、四種の菩薩が海水となって仏という須弥宝山を囲むように仰がれる方です。檀林や獅子などの譬えは、戒・定・慧を譬えたものです。世に崇め仰がれるので世尊と言うのです。一切種智とは、あるいは相好の色身をもって遍く一切に向き合い、それぞれが理解するので一切種智と言います。なぜなら、世の衆生には八十の神を祀る者があり、一つの神に一つの好相が対応し、その見るままに応じて祀る対象を見るのです。如来は一つの身で遍くすべてに理解させるので、一切種智と言うのです。また、色身をもって仏とするのではなく、一切種智をもって仏とします。一切種智はこの色身に依って相の荘厳を見るのであり、智慧が具わっているので一切種智と言うべきです。調御とは、機根に応じて生ずべき時に生じ、滅すべき時に滅し、受くべき時には受け、受けぬべき時には受けぬというように、すべての衆生を調御されることです。他の経典では調御と丈夫を二つの称号としますが、この経典では一つに合わせています。文には「自らすでに丈夫であり、また丈夫を調える」とあります。善哉善哉とは、法と譬えの二つの求めを承認されたものです。次に「我今為汝除断貧窮」以下は、仏が許しを宣言される部分です。貧窮を断つとは主として許すことであり、法の雨とは師として許すことであり、法の芽を生じさせるとは親として許すことです。「汝今於我」以下は、実際に施しを受ける部分です。汝が今、私に常の命・色・力を求めようとするのは、父としての請いを述べたものです。安とは、主としての請いを述べたものです。無閡弁とは、師としての請いを述べたものです。我当に汝に施さんとは、この三つを許すことです<note>云々</note>。古い解釈では、涅槃の正体は常であり、無常を治すとし、それゆえ五時の順序を述べます。『般若』は尊特の仏を明かすとはいえ無生を成ずるためであり、『楞厳』は七百僧祇を説くとはいえ、どうして『法華』の無量寿に及ぶでしょうか。『法華』の無量寿もなお無常であり、涅槃の教えに至って初めて常楽を明かすとします。遠くは鹿苑を斥け、近くは法華を破り、同じく涅槃の円常に帰し、源を窮め性を尽くす説とします。このような説は、偏りをもって諸経の縁に対する一句を摘み取って無常の義とし、偏りをもって涅槃の病を破る常を取り上げて正体とするもので、二つの道はともに失われています。なぜなら、般若は仏の母、涅槃は仏の師であり、楞厳の三仏、涅槃の三点、法華の一乗、涅槃の仏性です。一乗とはすなわち仏性であり、一切の衆生はみな一乗であるからです。どうして一乗がかえって一乗を破ることがありましょうか。法身がどうして法仏を破ることがありましょうか。仏の師がどうして仏の母を破ることがありましょうか。したがって、方便に惑い部教に迷い、互いに是非を争って正しい趣旨を失っていることがわかります。今はこの説を用いません。地の人は五時の執着はありませんが、当常・現常をもって無常の義を破るのは、その義の勢いが似ており、すでに古い解釈と同じ過ちとなっています。興皇の解釈では、常と無常は薬と病が互いに治すものであり、無常は常を治すとします。もし無常が常を治す方便であると知れば、病が去れば薬も尽きます。もし知らなければ、薬に執着して病となします。病とはすなわち断見であり、それゆえ「王今病重し」と言うのです。常が無常を治すのもまた方便であり、病が去れば薬も尽きます。もし知らなければ、すなわち常見となります。二つの方便を知れば、断も常も断ずることができ、すなわち断でも常でもありません。それゆえ智者は法の生ずるを見てすなわち断見を滅し、法の滅するを見てすなわち常見を滅します。もし知らなければ、やはり二つの見となります。今、この解釈が古いものと異なることを明かします。もし意を得たならば何も間違いはありませんが、言葉に逐われて想いを生ずれば、ともに前述の病と同じです。なぜなら、常と無常を弾ずるのは互いに方便を論ずることであり、非常非無常を指して正体とするのは、空を避けて空を求めるようなもので、空からますます遠ざかるのです。なぜなら、仏は二つの施しの果報は等しく差別なしと言われます。もし昔は五果を無常と説き、今は常と説くというなら差別がありましょうが、常も無常もともに非常非無常であるならば、まさに等しく差別がないのであり、また方便の密教を顕発することにもなります。もしこの意を得れば、『般若』も『楞厳』も秘密でないものはありません。しかしこの常の義は、この教えの喉元であり、諸経の心髄であり、群聖の住処であり、諸仏の法界であり、不可思議であって、如来の智慧をもってしても説き尽くせません。もし嶷然の常、もし当現の常、もし破病の常というなら、どうして円理に会いましょうか。今、試みにこれを述べます。それ仏が世に出られるのは本来大事の因縁のためであり、大事の因縁とはすなわち常住です。常の法は包容するので大と名づけ、常に諸法を立てるので事と名づけ、常に機があり常に感ずるので因縁と言います。常には差別がなく、差別をもって常を説くのです。下文に「諸仏の師とする所は、いわゆる法である。法が常であるがゆえに諸仏もまた常であり、三世の諸仏はみなこの常を師とする。常には師弟がなく、師弟ともに常である。かくのごとく分別するを世界の常と名づく。我今、汝のために貧窮を断たん。無上の法の雨を汝の身田に雨らして法の芽を生ぜしめん。汝今、我において寿命・色・力・安楽・無閡の弁才を求めんと欲す。我まさに汝に常の命・色・力・安・無閡の弁を施さん。」また「我今、汝および一切を哀れむがゆえに、今日、涅槃に入らんと欲す。もし諸天・人にしてこの最後の供養を我にせん者は、みなことごとく不動の果報を得べし。」とあります。このような文はみな常の法が常の善を発生することを明かしており、これを人常と名づけます。もし四顛倒を遠離せんと欲するならば、まさにこれが常・楽・我・浄であると知るべきです。我は仏の義、常は法身、楽は涅槃、浄は正法であり、この四種をもって四顛倒を破ります。また「先に修習した四法の相貌はことごとく顛倒である。真実に諸想を修せんと欲する者は、かの智ある人の巧みに我想・常想・楽想・浄想を修するがごとくせよ。たとえば明医が、まず鹹苦をもってその本病を治し、本病は去ったがまた鹹苦の患いあり、後に浄乳をもって鹹苦を治すがごとし。仏もまたかくのごとし。まず無常をもってその常の病を治し、常の病が去ったがさらに無常に病み、今、真常をもって昔の無常を破る。ゆえに我は医王となりて外道を伏せんと欲し、それゆえ我も人もなしと唱え、この因縁のために我ありと説くと云う。常が無常を破るもまたかくのごとし。また東方の双なるものは、すなわち常において無常を破る。また二鳥の双遊は、如来の無二にして二の用あることに譬える。このような文はみな常の法が無常を対破することを明かす。」とあります。『釈論』にも「常と無常は対治の法にして、第一義にはあらず。」とあります。これを対治の常と名づけます。第一義とはすなわち常でも無常でもありません。今の経にも「二施の果報は等しく差別なし。」とあります。もし常が無常を破り、無常が常と異なるなら、これはすなわち差別であり、第一義ではありません。第一義は常でも無常でもないので、差別がないのです。もし二鳥の双遊がその二用を明かし、二鳥の俱息がその双寂を明かすなら、すなわち用にして寂、寂滅を楽と為す、これが大涅槃です。このような文はみな第一義の常です。まさに知るべきです、この常は四悉檀に碍がないと。常はまた間隔の因縁大事でもあり、常はまた寂絶の畢竟妙理でもあり、常はまた出生して諸法を建立するものでもあり、常はまた対治して倒惑を破るものでもあり、自在なることこのようです。どうして偏りに拠って、これが対治の薬病互論であるとして、円能を埋没し諸経論を害することがありましょうか。また大涅槃は本より自ずからあるのであって、今に始まったのではありません。また二十五有はことごとく我あり、我すなわち仏性、仏性すなわち常です。仏性は雄猛にして毀壊し難し。この多くの文義はすなわち現常です。また「それ心ある者はみなまさに作仏すべし、未来にまさに常楽我浄を得べし。」とあります。このような文はすなわち当常です。また三世に法ありということはありえません。すでに三世がなければ、どうしてさらに現常・当常がありましょうか。『浄名』に「ただ世俗の文字をもって三世ありと説くのみ、菩提に去来今ありとは謂わず。」とあります。もし固く当現に執着し、それぞれ三世に拠るなら、我が意を解せず、どうして偈の趣旨に会いましょうか。またこの常は、如来の方便密教を顕発するものです。昔は常を覆い、今は常を開いて弁じ、別はなく、今の常は昔の無常と異なり、昔の無常を開けばすなわち今の常です。次に「我今為汝断貧窮」とは、もし四趣の貧窮を除けば、すなわち諸悪の無常を開いて常を顕すのです。下文に「四重禁を懺悔し、謗法の心を除き、五逆罪を尽くし、一闡提を滅す。」とあるのはすなわちその義です。もし人天の貧窮を断てば、すなわち諸善の無常を開いて常を顕すのです。文に「我今この処において、天人の身を求めず、設いこれを得たりとも、心また甘んじて楽しまじ。」とあり、また「この色を滅するがゆえに、常の色等を得る。」とあるのはすなわちその義です。もし二乗の貧窮を断てば、すなわち無漏の無常を開いて常を顕すのです。文に「諸の声聞のために慧眼を開発す<note>云々</note>。」とあります。もし方便の菩薩の貧窮を断てば、すなわち六度の通別の無常を開いて常を顕すのです。文に「諸の菩薩をして仏性を明了に見せしむ。」とあり、また「これより前は、我らはみな邪見の人と名づく。」とあります。総じて言えば、諸の有余を開けばことごとくこれ無余であり、諸の不了を開けばことごとくこれ了義であり、これを如来の方便密教を顕発すると名づけ、みなことごとく三点四徳の秘密蔵の中に安置するのです。またこの常はすなわち仏性であり、仏性はすなわち常です。すでに常を開けば、すなわち仏性を開くのです。すでにこの人々のために親となりて正を開き、主となりて縁を開き、師となりて了を開き、貧窮を除断して境界性を開き、みなことごとくまさに不動の果報を得べしとはすなわち果性を開くのです。もしこの義を例とすれば、何の人、何の法、何の教、何の行、何の位、何の用にして常ならざるものがありましょうか。何の法か非常非無常でないものがありましょうか。どうしてさらに善悪・三乗の差別等の性がありましょうか。畢竟じつにこれ大般涅槃であり、言語道断、心行処滅にして不可思議、竪には深く横には広く、辺なく底なく、よく大義を建て法界に充満して窮め尽くすべからず。どうしてこれを嶷然・破病・当現の常と判じることがありましょうか。このような常の義はなお虚空のごとく、おおよそ四家に対してその概略を示したのです。次に正受の中の五果の名は、文中に解釈されていません。私が言うには、五つはともに果であり、因果の一切万徳を具摂しています。まず名を消し、次に法に対します。五法はともに常であるゆえ、初めに常と言います。連持を命と名づけます。常の命とはすなわち無始無終にして断絶することなく、非色をもって色とするのです。我が今この身はすなわち法身であり、作用を力と為し一切処に遍く、用は窮まり尽くすことなし。動かざるを安と名づく。力用を具えていても、安固として動かないのです。機に被われて弁あり、無縁の慈悲は普く法薬を施すのです。次に法に対するとは、これすなわち三密です。命はすなわち意密、色力と安はすなわち身密、無閡はすなわち口密です。また四徳と名づけます。意は常徳、身は楽我、口はすなわち浄徳です。もしこの意を得れば、一切の法を遍くしてこの五つでないものはありません。仏はこの五つを具えておられるので人に施し、五つが常であるゆえ施しもまた尽きることがありません。尽きることがないと言うのは、すなわち五果です。

## 大般涅槃經疏卷第三

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