維摩經略疏卷第六
維摩経略疏 巻第六
「長者子寶積」下,二、敘述序者,大聖現相難測,自非寶積神智高明,孰知所表為欲起發時眾,令知現瑞表說佛國,信解分明,故說偈以歎述也。就三十六行偈為二:初十七行述歎表發之由,次十九行正述歎現相表發。發由為二:初九行述歎勝應法身以為近由,後八行述歎劣應以為遠由。言勝應者,若為菩薩說大,所現相好威德殊勝,尋此勝應即得法身。言劣應者,若為聲聞說小,身相則劣,尋此劣應不見法身。故《法華》云「即脫瓔珞著弊垢衣,塵土坌身狀有所畏。」
「長者子宝積」の後に続く、第二段は序説の説明です。大聖の顕現する相は計り知れず、宝積のような神智高明な方でなければ、その表すところを知ることはできません。これは時衆を奮い立たせ、現れた瑞相が仏の国土を説くことを表していると悟らせ、信解を明らかにするためであり、故に偈を説いて讃嘆し述べているのです。
この36行の偈は二つに分けられます。初めの17行は讃嘆し表し発する所以を述べ、次の19行は正しく現相を述べて表し発することを述べています。発する所以は更に二つに分けられます。初めの9行は勝れた応身と法身を讃嘆して近き因由とし、後の8行は劣った応身を讃嘆して遠き因由としています。
「勝応」とは、もし菩薩のために大乗を説くならば、現れる相好と威徳が殊勝であり、この勝応を尋ね求めることで直ちに法身を得ることを言います。「劣応」とは、もし声聞のために小乗を説くならば、身の相は劣り、この劣応を尋ね求めても法身を見ることができないことを言います。故に『法華経』には「直ちに瓔珞を脱ぎて弊垢の衣を著け、塵土身に塗れて状有所畏る」とあります。
問:何故勝應為近由、劣應為遠由?答:勝應是即座說《普集經》,由此現瑞,故是近由。劣應是昔說小教之身,遠為由籍,故是遠也。
問:どうして勝応が近い因縁となり、劣応が遠い因縁となるのですか? 答:勝応は、その場で『普集経』を説いたことにより、瑞相が現れたので、これが近い因縁です。劣応は、昔に小乗の教えを説いた身であり、遠い因縁としての役割を果たしたので、これが遠い因縁なのです。
問:三藏劣應自是昔事,何得為此作遠由也?答:《法華》云「於二十年中常令除糞,過是已後心相體信入出無難。」是故今時共諸聲聞說大乘經現勝應身,合蓋現瑞表說佛國,當知由昔劣應顯今勝應,故為遠由。
問う。三蔵の劣った応身は、もとより昔のことであろう。どうしてこれが今のための遠い理由となり得るのか。 答える。『法華経』に「二十年の間、常に糞掃をさせ、その後は心が互いに信じ合い、出入りに困難はなかった」とある。それゆえ、今、声聞たちと共に大乗経典を説き、勝れた応身を現し、蓋を合わせ瑞相を現して仏国を説き表すのである。まさに知るべきだ。昔の劣った応身によって、今の勝れた応身が明らかになったのだから、遠い理由となるのである。
就近為二:初兩行略歎形聲兩益,次七行廣歎形聲兩益。此之略廣皆是歎前說《普集經》正報因果。何以得知?下歎「說法不有亦不無,以因緣故諸法生。」就前兩行為二:初一行歎形益,次一行歎聲益。初又二:初上句歎色功德,次下句歎心功德。《大經》云「佛性者亦色非色。云何名色?金剛身故。云何非色?十力、無畏非色法故。」今初歎色約眼歎者,即金剛身三十二相之一也。但身分雖多,所尊者首;首分又多,其要者目,歎勝攝劣故也。力無畏等,智慧雖多歎心皆攝,是故舉要以歎色心。目者眼之異名,眼主肝,肝悲則眼淚,歎眼即是歎大悲也。《大論》云「般若是佛母,大悲是般若。」母故約此相歎色功德。
まず二つに分けます。初めの二行では、姿と声の二つの利益を簡潔に称え、次に七行では、同じく姿と声の二つの利益を詳しく称えています。これら簡潔な称嘆と詳細な称嘆は、いずれも先に説かれた『普集経』における正報と依報の因果を称えたものです。なぜそう分かるのか。後の方で「説法は有にあらず無にあらず、因縁の故に諸法は生ず」と称えているからです。先の二行を二つに分けて、初めの一行は形の利益を称え、次の一行は声の利益を称えます。初めはさらに二つに分け、初めの上の句は色の功徳を称え、次の下の句は心の功徳を称えます。『大経』には「仏性は色でもあり、色でもない。どうして色と言うのか。金剛身であるからだ。どうして色でないと言うのか。十力や無畏は色の法ではないからだ」とあります。今、初めに色について、特に眼をもって称えるのは、すなわち金剛身の三十二相の一つだからです。ただ、身体の部分は多くあれども、最も尊ばれるのは頭です。頭の部分もまた多いですが、その中でも大切なのは目であり、優れたものを称えて劣ったものを含めるのです。力や無畏など、智慧は多くあれども、心を称えればすべて含まれるため、要となるものを挙げて色と心を称えるのです。目は眼の別名であり、眼は肝を主り、肝は悲しみを感じれば涙を流すので、眼を称えることは大悲を称えることでもあります。『大論』には「般若は仏の母であり、大悲は般若の母である」とあります。それゆえ、この相によって色の功徳を称えるのです。
問:法身亦有相耶?答:此是勝應,表於法身。尋此眼相,得法身佛眼,故歎應身即是歎法身佛眼。餘相類此。故《法華》云「微妙淨法身,具相三十二。」但眼是總名,從用分別則有五種:一、肉眼,見麁事色。二、天眼,見因果細色。三、慧眼,見麁細色心偏真之理。四、法眼,見色麁心細因緣假名俗諦諸法。五、佛眼,見中道圓真佛性之理,又能雙照麁細因緣事理。
問う:法身にも相があるのか? 答え:これは勝応身であり、法身を表している。この眼の相を尋ねれば、法身の佛眼を得る。故に応身を讃えることは、すなわち法身の佛眼を讃えることでもある。その他の相もこれに類する。よって『法華経』には「微妙清浄なる法身は、三十二相を具える」とある。ただし眼は総称であり、その働きによって区別すれば五種類がある。 一、肉眼:粗い事象の色を見る。 二、天眼:因果の細かな色を見る。 三、慧眼:粗い色と細かな心の、偏った真実の道理を見る。 四、法眼:色という粗いものと心という細かなものの因縁によって仮に名づけられた世俗の真理、諸法を見る。 五、佛眼:中道の円満な真実である佛性の道理を見る。また、粗いものと細かなもの、因縁の事と理の両方を照らし出す。
約教則有四佛五眼不同,《金剛般若》佛問善吉:「如來有肉眼乃至有佛眼不?」善吉言:「如來有肉眼至乃有佛眼。」今寶積歎者,五眼皆離垢障,故言目淨。「脩廣」者,脩之言長,廣之言闊。五眼見境竪深窮源故名脩,橫遍法界故言廣。「如青蓮」者,西土青蓮華葉形相脩廣,相似佛眼,故用譬也。又復非但形似佛眼,處在淤泥不為所染。五眼亦爾,非但照境竪深橫廣,雖照世境不為所染,故歎目淨如青蓮也。今略以五眼帖釋。肉眼者,功德果薰,無惡業障,故名目淨。竪從地獄上至有頂,諸色悉見故名脩;橫遍百億,無色不見故言廣;雖見諸色,不染不著如青蓮也。天眼者,因禪離蓋,發淨眼根,以眼根淨,故名目淨。竪見界外名脩,橫見十界名廣,雖見不染如青蓮也。慧眼者,無界內外見思名目淨,竪照內外真理究竟名脩,橫見內外真理名廣,見真不染如青蓮也。法眼者,無塵沙惑名目淨,竪見界內外四種四諦之法名脩,橫見十方十界四種四諦之法名廣,不著諸法如青蓮也。佛眼者,無法界無明名目淨,竪見界內外中道法界窮源盡性名脩,橫見十界中道一時圓照名廣,不為法界無明生死所染如青蓮也。此但略出別圓五眼。藏通皆約界內二諦以明五眼,但約隨情色心分別即三藏五眼,約幻化色心分別即通教五眼。
また、教えによって四仏と五眼には違いがあります。『金剛般若経』で仏が善吉に問いました。「如来には肉眼乃至仏眼があるか?」善吉は答えました。「如来には肉眼から仏眼まである」と。今、宝積菩薩が讃嘆しているのは、五眼はすべて汚れや障りから離れているから「目浄」と言うのです。
「脩広」の「脩」は長いという意味、「広」は広いという意味です。五眼が対象を見る時、縦には深く根源にまで達するから「脩」と言い、横には法界全体に遍く及ぶから「広」と言います。「青蓮の如し」とは、インドの青蓮華の葉の形が縦長で横広であり、仏眼に似ているから、たとえに用いたのです。また、形が仏眼に似ているだけでなく、泥の中にあっても染まらないことにも譬えています。五眼もまた同様で、対象を縦深く横広く照らすだけでなく、世間の対象を照らしても染まることがないから、目が清らかで青蓮のようだと讃嘆するのです。
さて、ここで簡単に五眼に沿って説明します。肉眼とは、功徳の果報により善行が成熟し、悪業の障りがないから「目浄」と言います。縦には地獄から有頂天に至るまで、すべての色形を見るから「脩」と言い、横には百億の世界に遍く、色形を見ないものはないから「広」と言います。種々の色形を見ても、染まり執着しないことは青蓮のようです。
天眼とは、禅定により蓋(煩悩の覆い)から離れ、清らかな眼根を発します。眼根が清らかなので「目浄」と言います。縦には三界の外を見るから「脩」と言い、横には十方の世界を見るから「広」と言います。見ても染まらないことは青蓮のようです。
慧眼とは、三界内外の見思の煩悩がないことを「目浄」と言います。縦には内外の真理を究竟まで照らすから「脩」と言い、横には内外の真理を見るから「広」と言います。真理を見て染まらないことは青蓮のようです。
法眼とは、塵沙の惑(無数の分類上の迷い)がないことを「目浄」と言います。縦には三界内外の四種類の四諦の法を見るから「脩」と言い、横には十方十界の四種類の四諦の法を見るから「広」と言います。諸法に執着しないことは青蓮のようです。
仏眼とは、法界の無明がないことを「目浄」と言います。縦には三界内外の中道法界を、根源にまで達し本性を尽くして見るから「脩」と言い、横には十界の中道を一時に円かに照らすから「広」と言います。法界の無明や生死に染まらないことは青蓮のようです。
これはひとまず別教と円教における五眼を略説したものです。蔵教と通教はいずれも三界内の二諦に基づいて五眼を明かします。ただし、蔵教の五眼は、感情や心身のありように応じて色と心を分別することで明かされ、通教の五眼は、幻のように仮のものとして色と心を分別することで明かされます。
問:今長者子定歎何眼?答:經屬方等,具說四教隨四根緣。何所聞知?歎無乖隔,下云一音演說,隨類各解。
問う。この長者の子は、いったいどの眼をたたえているのか。 答え。経典は方等に属し、四教を具に説いて、四つの根機や縁に従っている。何によってそれを知るのか。たたえにそむきやへだてがない。後に「一音で説法し、種類に従ってそれぞれが理解する」とある。
若觀心者,一心三觀照心因緣麁細及即空假中,對修五眼可以意知。
心を観ずる者よ、一つの心に三つの観法をそなえ、心の因縁の粗雑さと細やかさを照らし、空・仮・中の理をそのままに観じる。これを修行して五眼を具えることの意味は、心で知ることができるであろう。
「心淨已度諸禪定」,次句歎心。言心淨者,佛智窮源,無法界惑,故言心淨。已度諸禪定者,通論禪定俱通因果。故《大經》云「大般涅槃名深禪定窟」,豈得歎言心淨已度大涅槃也?今約別義,禪定據因、佛心據果,果出因外,故言已度。
「心清らかにして、諸々の禅定を超えたり」とは、次の句でその心を讃えたものです。「心清らか」とは、仏の智慧がすべての源を極め、法界の惑いが無いことを意味します。そのため「心清らか」と言うのです。「諸々の禅定を超えたり」とは、広く論じれば禅定は因果の両方に通じています。ですから『大般涅槃経』には「大般涅槃は深い禅定の窟と名づく」と説かれています。それならば、心清らかにして大涅槃を超えた、と讃えることはできないでしょうか。ここでは別の意味に従って、禅定は因に基づき、仏の心は果に基づくものとします。果は因を超えているため、「超えたり」と言うのです。
問:何以得知禪是因名?答:《大論》云禪,此言思惟修。佛心智鑒圓明,豈發思惟?究竟無學,豈得言修?又翻棄惡。如來純淨之智,何惡可棄?故《大經》云「有所斷者名有上士,無所斷者名無上士。」故思惟等義皆是因也。
問:なぜ「禅」が修行の原因を示す名だと分かるのか? 答:『大智度論』に「禅とは、これを思惟修という」とある。しかし、仏の心の智慧は円満に照らし明らかである。どうして思惟を起こすことがあろうか。究極の無学の境地に達しているのに、どうして修行と言えようか。また、禅を「悪を棄てる」と翻訳することもある。如来の清らかで純粋な智慧には、どのような悪を棄てる必要があろうか。ゆえに『大般涅槃経』には「断ずるものがある者を有上士といい、断ずるものがない者を無上士という」と説かれている。したがって、思惟や修などの意味はいずれも修行の原因(因位)に関するものなのである。
約教者,三藏佛心無習故,故名心淨。四禪四空觀練薰修,永離法愛,故名已度,但力無畏不能等照。通教佛心照極真諦之源,界內習盡,於諸禪定無礙自在,十力無畏一時照境,故名已度。別教緣修智顯自性清淨之心,十二品無明究竟永滅。《地持》明九種大禪,菩薩依第九清淨禪得大菩提果,出過清淨,故言已度。此約地前修自性禪。登地得一切禪,乃至等覺住清淨禪,斷十一品無明入重玄門,名清淨禪。佛果出過,故言已度。圓教六根清淨即自性禪,初發心住即一切禪,已究竟離虛妄、顯自性清淨之心,如是乃至清淨禪破四十一品無明,住無垢地。如來心淨,度此禪定登妙覺果,故言已度。故《金光明》云「是時如來遊於無量甚深法性,過諸菩薩所行清淨。」《瓔珞》明昔在華嚴明集八禪眾,即前八禪為說《華嚴》,得入清淨禪住無垢地。常徒舊解但取四禪四空,說《華嚴》時聲聞尚如聾啞,八禪外道何足可集?若約觀心,一心三觀,一一眾生心即如來心,本性清淨,故言心淨。能度事禪,故言已度。
教えについて整理すると、三蔵教の仏の心は無学であるがゆえに「心は清浄である」という。四禅・四空の観・練・薫・修の修行により、法に対する愛着を永遠に離れているので「すでに渡り終えた」と言う。しかし、十力・四無畏はすべてのものに等しく照らすことはできない。
通教の仏の心は、真諦の極みを照らし、三界内の煩悩の習気が尽き、あらゆる禅定に自在であり、十力・四無畏が一度にすべての対象を照らすので「すでに渡り終えた」と言う。
別教は、縁修の智慧によって自性清浄の心を顕し、十二品の無明を完全に滅ぼす。『地持経』には九種の大禅が説かれ、菩薩は第九の清浄禅によって大菩提の果を得る。清浄を超え出るので「すでに渡り終えた」と言う。これは、地前において自性禅を修することを指す。登地すれば一切禅を得、等覚に至って清浄禅に住し、十一品の無明を断じて重玄門に入る。これを清浄禅という。仏果はこれを超え出るので「すでに渡り終えた」と言う。
円教では、六根清浄がすなわち自性禅であり、初発心住がすでに一切禅であり、虚妄を離れて自性清浄の心を顕す。さらに、清浄禅によって四十一品の無明を破り、無垢地に住する。如来の心は清浄であり、この禅定を超えて妙覚の果に登るので「すでに渡り終えた」と言う。ゆえに『金光明経』には「その時、如来は無量の甚深なる法性に遊び、あらゆる菩薩の行う清浄を超えた」とある。
『瓔珞経』では、昔、華厳において八種の禅の衆を集めたと明かされている。これは前の八禅をもって『華厳経』を説き、清浄禅に入り無垢地に住することを得たのである。凡そ常人の旧来の解釈は、ただ四禅・四空のみを取る。華厳を説く時、声聞でさえも聾や唖のようであったのに、八禅の外道などどうして集めるに足るだろうか。
もし観心の立場から見れば、一心三観によって、一人ひとりの衆生の心はすなわち如来の心であり、本性清浄であるから「心は清浄である」と言う。事の禅定を超え渡るから「すでに渡り終えた」と言うのである。
「久積」下次一行,歎化他聲益。所以然者,久遠修禪內成相好、外具神通,稱會物情。又無量劫來常修智慧,內能離結稱法相理,故得心淨度諸禪定;外稱無量眾生根緣,能於四不可說用四悉檀而起四教,化導一切證四滅理,故云「導眾已寂」。形聲之益荷利恩深,是可敬重,故須稽首。又解:般若導行,至果便息,故言已寂。上句釋成目淨脩廣,下句釋成心淨已度。
「久しく積み重ねて」の次の一行は、他を教化する声(教え)の功徳を称えたものです。なぜならば、久遠の昔から修行と禅定を積んだことで、内には相好を具え、外には神通力を備え、衆生の心に適ったからです。また、無量の劫の間、常に智慧を磨き、内には煩悩の束縛を離れて真理に適い、そのために心が清らかとなり、諸々の禅定を極めました。外には無量の衆生の機根や因縁に応じて、「四不可説」の理に「四悉檀」を用い、「四教」を起こして、一切の衆生を導き、四つの滅諦の真理を証得させたのです。それゆえ「導衆已に寂す」と説かれています。姿や声による功徳は、その恩恵が深く、敬い尊ぶべきですから、頭を垂れて礼拝しなければなりません。また別の解釈では、般若は行を導き、悟りの果報に至ればその働きを終えるので、「已に寂す」と言うのです。前の句は「目浄くして脩広」を説明し、後の句は「心浄くして已に度す」を説明しています。
「既見」下次七行,廣歎形聲,為二:初五行廣歎形益,次二行廣歎聲益。「既見大聖」者,即是見佛色用神變。是法身清淨無礙之色,如如意珠亦如明鏡,故放光動地十方佛土皆悉現也,是則一切法趣色。色為不思議藏、色為法界海,是以廣大猶如虛空無有涯際,故約色歎功德用也。
「既見」の次の七行は、広く姿と声を讃えるもので、二つに分かれます。初めの五行は功徳の利益を広く讃え、次の二行は声の利益を広く讃えています。「既に大聖を見る」とは、仏の姿を用いた神通変化を見ることを指します。これは法身の清らかで障りのない姿であり、如意宝珠や明鏡のようなものです。そのため、光を放ち大地を震わせ、十方の仏国土がすべて現れます。これは、すべての法が「色」に帰するということです。「色」は不可思議な宝蔵であり、「色」は法界の海であります。ゆえに、それは広大で虚空のごとく果てしなく、そのことから「色」によって功徳の働きを讃えるのです。
「其中諸佛」下一行,釋成色用。若非佛神力加被,此會豈見他方諸佛聞佛說法。如《法華》中以佛神力令眾得見百千萬億國土虛空菩薩。
「その中にある諸仏」の次の行で、色の働きを説明している。もし仏の神通力が加わらなければ、この会で他方の諸仏を見て、その説法を聞くことはできないだろう。例えば『法華経』において、仏の力によって大衆が百千万億の国土の虚空にいる菩薩を見ることができたのと同じである。
問:此即是現相表發,何得是表近由?答:有師謬謂是合蓋現土。今尋文不爾。此歎說普集現相,非合蓋現瑞。合蓋現瑞如下偈云「今奉世尊此微蓋,於中現我三千界。」方是正歎表發也。
問:これはまさに「現相が表れ発せられたもの」です。なぜ「近きより表す理由」と言えるのでしょうか?
答:ある師が誤って、これは「合蓋して土を現ずることを合わせ示す」と解釈しました。しかし、今、文を調べるとそうではありません。これは「普く集まって現相を表し発する」ことを嘆じたものであり、「蓋を合わせて瑞相を現ずること」を合わせ示したものではありません。「蓋を合わせて瑞相を現ずる」ことについては、後に偈で「今、世尊にこの微なる蓋を奉り、その中に我が三千界を現ず」と述べられており、それがまさに「表し発する」ことを正しく嘆じたものです。
「法王法力」下一行,歎佛心用。言「法王」者,得三昧王三昧故名法王。「法力」者,於二諦三諦四四諦一切諸法自在故也。「超群生」者,佛心清淨超過二死之外、逈出十界之表。
「法王法力」の次の行は、仏の心の働きを讃えています。「法王」とは、三昧王三昧を得ているからです。「法力」とは、二諦・三諦・四諦など、あらゆる教えを自在に使いこなすことができるからです。「超群生」とは、仏の心は清らかで、二種の死を超え、十界の表れをはるかに超えているということです。
「常以法財施一切」者,四種道諦、七聖法財,常施十界恣其所用。
「常に法財をもって一切に施す」とは、四種の道諦と七種の聖なる法財を、常に十界のすべての者に施し、それぞれが思いのままに用いることができるようにすることを指します。
問:法財為囑色心用耶?答:財通色心,如無盡意及淨名施者皆名法施。但約能施之心,色聲皆是法財攝也。
問:法財とは、色(物質)と心(精神)の働きに分けられるのでしょうか? 答:法財は色と心の両方に通じています。例えば、無尽意菩薩や維摩居士の施しは、すべて法施と呼ばれます。ただ、施す側の心に注目すれば、色や声もすべて法財に含まれるのです。
「能善分別」下一行,約二智以釋心用成法施之義。權智分別世諦法相,實智於第一義而不動也。
「よく善く分別する」という次の行では、二つの智慧について心の働きを解き明かし、法施の意味を完成させています。 権智(仮の智慧)は、世俗の真理における法の相を分別します。実智(真実の智慧)は、第一義の真理において動くことがありません。
問:上多約三諦,今何得用二諦歎也?答:合真入中、合真入俗,通別二諦,玄文料簡。又解:若隨情辨真即是權智分別法相,若隨智之真即是實智寂而常照,是故歎言於第一義而不動也。
問:これまでは主に三諦について説かれてきたのに、なぜここでは二諦を用いて讃嘆するのでしょうか。 答:真諦を中諦に含めたり、真諦を俗諦に含めたりするのが通教と別教の二諦であり、『玄文』で詳細に説明されています。 また別の解釈としては、情に従って真諦を説く場合は、方便智が法の相を分別することになります。一方、智に従った真諦とは、実智が静かでありながら常に照らし続けることです。だからこそ「第一義において動かず」と讃嘆しているのです。
「已於諸法」下一行,結歎色心用。已於色法得自在故,故能轉變普現佛土。已於心法得自在故,二諦開合隨機利物。色心功用既備,是可歸依,故致敬稽首。
すでにすべての真理(諸法)を体得された方については、次の一節で、物質(色)と心(心)の働きを称賛して結んでいます。 物質の世界(色法)においてすでに自在の境地を得ているからこそ、自在に変化して仏の国土をあまねく現し示すことができます。また、心の法則(心法)においてすでに自在を得ているからこそ、真実の教えと世俗の教え(二諦)を、必要に応じて開いたり閉じたりしながら、人々を導き利益します。 このように、物質と心の働きがともに完全に備わっている方こそ、帰依すべき存在であり、そのため深く敬い、頭を下げて礼拝するのです。
「說法不有」下兩行,二、廣歎聲益。述歎上四眾圍繞而為說法。上現尊勝表說大乘,今猶現說法表當說依土。驗非異席,所以為序,致有此歎。「不有不無」者,中道法也,不有故非俗、不無故非真。然說法本約二諦,既非二邊,說何等法?當知正說大乘中道。何者?凡夫者有,二乘者無,菩薩正觀中道佛性,是故方等為諸菩薩多說中道不二法門,故言不有亦不無也。
「説法は有に非ず」より以下の二行は、第二に、大いに声聞=法を聞く者たちの利益を讃嘆するものです。ここでは、先に述べたように、四衆に囲まれて説法されている様子を讃えています。先には、尊勝なる姿を示して大乗を説くことを表していましたが、今ここでは、説法の姿を示して、当に依るべき仏土を説くことを表しています。その教えの場が別のものではないことが確かめられるからこそ、これが序文となり、このような讃嘆があるのです。
「有に非ず、無に非ず」とは、中道の法(真理)のことです。「有に非ず」ゆえに世俗の真理(俗諦)ではなく、「無に非ず」ゆえに究極の真理(真諦)でもありません。しかしながら、説法は本来、二つの真理(二諦)に基づいて行われます。その両極端(有と無)ではないのなら、いったいどのような法が説かれるのでしょうか。まさに知るべきです。大乗の中道が正しく説かれるのだと。なぜでしょうか。凡夫は「有」に執着し、声聞や縁覚(二乗)は「無」に執着します。菩薩は中道の仏性を正しく観じます。ゆえに方等(大
問:上用二諦以歎佛智,今明說法那約三諦?答:有無為俗、中道是真,即二諦也。
問い:上の文では二諦を用いて仏の智慧を称賛していますが、ここで説法を説明するのに三諦を用いるのはなぜですか。 答え:有と無を俗諦とし、中道を真諦とするのが二諦です。
問:外道亦說神及世間非常非無常,即是非有非無;小乘亦為車匿說離有無。今何得言但是大乘?答:凡夫外道尚不見真諦之無,況見非無。聲聞經中雖說非有非無,只見真諦之無,何曾見中非無之理。約教明雙非不同者,若外人計單複具足雙非之句及不可說,皆是妄情,不見空理、不出生死,尚無非有何況非無,悉為三藏有門所破。三藏破見凡有四門:為車匿說離有無經,但是非有非無門耳。若得方便從門入理,但名非有不名非無,不得方便即墮有無,與外道等。縱令入理,亦非大乘不有不無,通教觀色等皆如幻化不言有無。若從門入理,此即非有非無門也。若向通人聞說見理,若執為戲論,邪見火燒,縱令入理亦非中道不有不無。別觀中道約破二邊明非有非無者,此就藏性四門明非有非無,異前兩教。若得入理則不須破,若未悟者是愚癡論,非真中道不有不無。圓雖四門,一門即四門、四門即一門,不定有無無所依倚,將此虛心豁見中道。於此生著猶尚須破,何況於餘。今簡偽顯真得圓之意,不有不無以歎勝應不有不無也。復次前三雙非是權、圓教是實,權實皆說,故言說法不有亦不無也。
問う:外道もまた「神及び世間は非常でもなく非常でないでもない」すなわち「有でもなく無でもない」と説き、小乗もまた車匿のために「有無を離れる」と説いています。今、どうして「ただ大乗のみ」と言えるのでしょうか?
答える:凡夫や外道は、真諦の「無」さえも見ていないのに、ましてや「無ではない」ことなど見えようがありません。声聞の経典の中で「有ではなく無でもない」と説かれていても、彼らは真諦の「無」だけを見て、中道の「無ではない」理をいまだ見ていないのです。教えに基づいて「双非」の違いを明かすなら、外道が執着する単、複、具足の「双非」の語句や「説くこと能わず」といったものは、すべて虚妄の情であり、空理を見ず、生死を出ることができません。「非有」さえもないのに、ましてや「非無」があるはずもなく、すべて三蔵の「有門」によって破られます。三蔵が邪見を破るには、凡そ四つの門があります。車匿のために「有無を離れる」と説いた経典は、ただ「非有非無門」の一つに過ぎません。もし方便を得て門から理に入れば、「非有」とは言えても「非無」とは言えません。方便を得なければ、有無に堕して外道と同じになります。たとえ理に入ったとしても、それは大乗の「不有不無」ではありません。通教では、色などを観じてすべて幻の如しとし、有無を言いません。もし門から理に入れば、これが「非有非無門」です。もし通教の人が聞いて理を見たとしても、それに執着すれば戯論となり、邪見の火に焼かれます。たとえ理に入っても、それは中道の「不有不無」ではありません。別教では中道を観じて二辺を破ることで「非有非無」を明かします。これは蔵性の四門に基づいて「非有非無」を明かすもので、前の二教とは異なります。もし理に入れば破る必要はありませんが、悟らなければ愚癡の論であり、真の中道の「不有不無」ではありません。円教には四門がありますが、一つの門が即ち四門であり、四門が即ち一つの門です。有無に定まらず、依るところもなく、この虚心をもって中道を豁然と見ます。これに執着してもなお破すべきなのに、ましてや他のものは言うまでもありません。今、偽を簡別し真を顕わして、円教の意を得ることを「不有不無」と言い、勝応身の「不有不無」を讃えるのです。また、前の三つの「双非」は権であり、円教は実です。権も実も共に説くからこそ、「説法は有にもあらず、無にもあらず」と言うのです。
「以因緣故諸法生」者,歎說法緣起之用也。緣起有二已如前說,今之歎意備含此二。然體非有無,豈得有生?有因緣故亦得說者,順界內無明因緣則二苦集生,因滅無明即二道滅生,界外准說。故言有因緣故諸法生也。
「因縁によって諸々の法が生じる」というのは、教えを説く縁起の働きを賛嘆したものです。縁起には以前述べたように二種類あり、この賛嘆の意図はその両方を完全に含んでいます。しかし、本体は有無という概念を超えているのに、どうして「生じる」と言えるのでしょうか。因縁があるからそう言えるのです。すなわち、迷いの世界における無明(無知)の因縁に従えば、苦しみとその原因という二つの集まりが生じます。無明が滅びる因縁によって、悟りの道とその結果という二つの滅びが生じます。迷いを超えた世界についても、これに準じて説明できます。このように、因縁があるからこそ諸々の法が生
「無我無造無受」者,此一句結非有非無。歷四教,明四種無我無受(云云)。
「無我・無造・無受」という一節は、「あるのでもなく、ないのでもない」という結論をまとめたものです。これを四つの教え(四教)にわたり、四種類の「無我」と「無受」について明らかにしています(云云)。
「善惡不亡」一句,結以因緣故諸法生。通別無明為界內外惡,即二處苦集不敗亡。通別無明滅二處道滅不敗亡,因緣生滅比說可知。
善悪は決して消え去ることはない。この一句は、「因縁によって諸々の法は生じる」という教えに結びつく。共通と個別の無明が、三界の内と外における悪であり、すなわち二つの領域における苦と集(苦しみの原因)は決して消え去ることがない。同じく、共通と個別の無明が滅すれば、二つの領域における道と滅(悟りの道とその結果)も消え去ることはない。この因縁による生じと滅びの理は、たとえ話によって理解できるであろう。
「始在佛樹」下次八行,歎劣應為遠由,為二:初兩行歎形益,次六行歎聲益。歎形為二:初歎應色,次歎應心。「佛樹」者,坐此成佛故也。有言元吉,亦云菩提。初成道時詣此樹坐,魔恐成道化我眷屬、空我宮殿,先遣三女,菩薩心安不能惑亂;魔王增忿,遂將欲界八十億鬼神兵眾在菩薩所,魔自敗散。具在《瑞應》。「甘露滅」者,魔王去後,菩薩中夜入於四禪,三十四心見四諦理名得甘露,正習俱盡故名滅也。「覺道成」者,因四諦發真見第一義時,朗然大悟,知常無常、知眾生數非數等,具力無畏等一切諸法,名覺道成也。神力降魔,神通即是色法功德之用。
「始めに仏樹の下に在り」の次、八行は、劣った応身を歎じて遠い因縁とするもので、二つの部分に分かれる。初めの二行は形の利益を歎じ、次の六行は声の利益を歎じる。形の利益を歎じるのはさらに二つに分かれる。初めに応身の色を歎じ、次に応身の心を歎じる。「仏樹」とは、ここに座って仏道を成じたからである。元吉とも呼ばれ、また菩提とも言う。初めて成道した時、この樹の下に坐った。魔は、成道されては自分の眷属を教化され、自分の宮殿を空にされてしまうと恐れ、先に三人の娘を遣わしたが、菩薩の心は安らかで惑わされることはなかった。魔王は怒りを増し、ついに欲界の八十億の鬼神の兵を連れて菩薩の所に来たが、魔は自ら敗れ去った。詳しくは『瑞応経』に記されている。「甘露滅」とは、魔王が去った後、菩薩が夜中に四禅に入り、三十四心で四諦の理を見て甘露を得ると名付け、正使と習気が共に尽きたので滅というのである。「覚道成」とは、四諦によって真の智慧を発して第一義を見る時、はっきりと大悟し、常住と無常を知り、衆生の数あるものと数なきものなどを知り、十力・無所畏などの一切の諸法を具えて、覚道が成就したというのである。神通力で魔を降伏させる、神通とはすなわち色法の功徳の働きである。
「已無心意」下一行,次歎應心。「已。無心意」等者,得甘露故,見愛顛倒四陰皆滅,名無心意。何者?若有心意即有心倒,倒即三受,受即三苦,是苦諦也。行即行陰思數作業,業招生死即集諦也。無心則無受,無受則無行,無行則無業,無業故無集,無集則無苦。苦集若滅即是得甘露、滅覺道成也。《大品》明五受五行,行是集諦,集諦斷故佛無心意,無心意故無五見受行,故能破外道五見受行。雖無受行,為調外道說三藏五門。如佛破長爪云:「汝見受不?汝有不受之見,還成於受。受即是苦,與他何異?而倚不受,憍慢輕他,起身口意行。行成名集,集招生死,何名實相?」長爪信伏,得法眼淨。伏諸外道,例皆如此。
「すでに心も意もない」の次の行で、次に応心を嘆じる。「已無心意」などとは、甘露を得たがゆえに、見・愛・顛倒の四陰がすべて滅したことを「無心意」と名づける。なぜか。もし心意があれば、すなわち心の顛倒がある。顚倒はすなわち三受であり、受はすなわち三苦、これが苦諦である。行はすなわち行陰の思数(思心所)の作業であり、業は生死を招く。これが集諦である。心がなければ受はなく、受がなければ行はなく、行がなければ業はなく、業がないゆえに集はなく、集がなければ苦はない。苦と集がもし滅せば、すなわち甘露を得て、滅覚の道が成就するのである。『大品経』には五受と五行が明かされている。行は集諦であり、集諦が断たれたがゆえに仏に心意はなく、心意がないがゆえに五見の受行もない。よって外道の五見の受行を破ることができる。受行がなくとも、外道を調伏するために三蔵の五門を説く。例えば、仏が長爪を破して言われた。「あなたは受を見るか。あなたには『受けない』という見解があるが、それ自体がまた受となっている。受はすなわち苦であり、何が他人と異なるのか。しかも『受けない』ことに依り頼み、驕り高ぶって他人を軽んじ、身・口・意の行を起こす。行が成就すれば集となり、集は生死を招く。どうして実相と言えようか。」長爪は信伏し、法眼浄を得た。諸々の外道を伏するのも、すべてこの類いである。
問:長爪是後時事。此歎明未轉法輪前已伏外道,是何等外道?答:舊云佛昔為凡夫時,從阿羅邏仙受八禪定。菩薩無心從其學,但為化之。今謂乖偈歎。偈明佛未成道前降魔、成道後伏外道。何得以凡夫時受八禪為伏外道?又恐是如來初成道竟,未轉法輪,乃為提謂長者說於五戒,扶其本習,辨五行六甲、陰陽曆數。其既信伏,令歸依佛法,有當來僧,汝當歸依。長者得初果。佛實無心受行五行六甲,但為摧伏,是故說也。案結集法藏,明從波羅柰至涅槃夜結為修多羅藏,故知伏提謂在轉法輪前。從是已後,皆以不受之法破諸外道,如向所引長爪之類。
問:長爪は後の出来事です。この賛嘆では、法輪を転じる前にすでに外道を伏せたことを明かしていますが、どのような外道でしょうか? 答:古くは「仏がかつて凡夫であった時、阿羅邏仙人から八つの禅定を受けた」と言います。しかし菩薩は彼に学ぶ心はなく、ただ教化のためにそうしたのです。今の解釈では、これは偈の賛嘆にそぐいません。偈は、仏が悟りを開く前に魔王を降伏し、悟りを開いた後に外道を伏せたことを明かしています。どうして凡夫の時に八禅を受けたことを、外道を伏せたことと同一視できるでしょうか? また、恐らくは如来が初めて悟りを開き、まだ法輪を転じていない時、提謂という長者のために五戒を説き、彼の本来の習いを支え、五行六甲や陰陽暦数について説いたのです。長者がすでに信服したなら、仏法に帰依させ、『未来の僧がいる、あなたはその僧に帰依しなさい』と言いました。長者は初果を得ました。仏には実際、五行六甲を行う心はなく、ただ外道を打ち破るために説いたのです。 考えてみれば、結集の法蔵には、波羅奈から涅槃の夜までをまとめて修多羅蔵とするとあります。したがって、提謂を伏せたのは法輪を転じる前であると分かります。それ以降は、すべて「受け取らない」という法によって諸々の外道を破りました。先に引用した長爪のようなものがその例です。
「三轉法輪」下六行,二、歎聲益,為三:初兩行歎轉法輪,次兩行歎法妙天人受益,後兩行結歎。初言「三轉法輪」者,即是趣波羅奈說生滅四諦也。輪者,佛證四諦法有可轉之義,故名為輪。又解:能壞煩惱名之為輪,如輪王寶能壞怨敵。佛法輪寶能壞煩惱,故名法輪。如來成道經三七日方趣波羅㮈,生生雖不可說,以悉檀方便起天人小機而說四諦,轉入彼心壞彼煩惱,故名轉法輪也。三轉者,一示轉,謂是苦、是集、是滅、是道。二勸轉,謂苦應知、集應斷、滅應證、道應修。三證轉,謂苦我已知、集我已斷、滅我已證、道我已修。初轉示見道,勸轉示修道,證轉示無學道。是三轉十二行法輪,初轉則生眼智明覺。曇無德解三轉不同,事如別明。言「大千」者,即娑婆世界釋迦之土,即轉法輪所化之處。
「三轉法輪」という以下の六行は、二番目に説法の声の功徳を讃える部分であり、三つに分けられる。初めの二行は法輪を転ずることを讃え、次の二行は法が素晴らしく天や人が利益を得たことを讃え、最後の二行はまとめて讃える。
初めに「三轉法輪」とは、すなわち波羅奈に向かい、生滅の四諦を説くことである。「輪」とは、仏が証得した四諦の法には転ずるという意味があることから、輪と名づける。また別の解釈では、煩悩を壊すことができるので輪と名づける。例えば転輪聖王の宝は敵を壊すことができるように、仏法の輪宝は煩悩を壊すことができるので、法輪と名づける。如来は成道して三七日を経て、ようやく波羅奈に向かわれた。生生は本来説くことができないが、悉檀の方便によって天や人の小さな機根を起こさせ、四諦を説き、彼らの心に転入して彼らの煩悩を壊す。ゆえに転法輪と名づける。
三転とは、第一に示転であり、「これが苦であり、これが集であり、これが滅であり、これが道である」と示す。第二に勧転であり、「苦は知るべきであり、集は断つべきであり、滅は証すべきであり、道は修めるべきである」と勧める。第三に証転であり、「苦はすでに知った、集はすでに断った、滅はすでに証した、道はすでに修めた」と自ら証明する。初転は見道を示し、勧転は修道を示し、証転は無学道を示す。これが三転十二行の法輪であり、初転によって眼・智・明・覚が生じる。曇無徳は三転について異なる解釈があるが、その詳細は別に明らかにする。
「大千」とは、すなわち娑婆世界、釈迦の国土であり、法輪を転じて教化するところである。
「其輪本來常清淨」者,如三種藥中無三種病,四諦法輪無見思垢,故名本淨。又解:生生不可說而說四諦。不可說即真諦,無其苦集說名本淨。如《大集》云「陳如獲得真實知見。」
「その輪はもともと常に清らかである」とは、三種の薬に三種の病がないように、四諦の法輪には見惑や思惑の汚れがないことから、「もともと清らか」と言うのです。 また別の解釈としては、生々(しょうじょう)の世界は言葉では説明できないものですが、それでも四諦を説くのです。その「言葉にできない」ということが真実の真理(真諦)であり、苦や集(原因)がないことから「もともと清らか」と呼ぶのです。 例えば『大集経』に「陳如(びんじゅ)は真実の知見を得た」とあるのがこれに当たります。
問:陳如見真如《成論》不?答:陳如依有門成、論是空門,教門雖異,見真是一。空門得道是須菩提。
問:陳如は『成実論』によって真如を見たのでしょうか? 答:陳如は「有」の教えによって悟りを開きましたが、『成実論』は「空」の教えです。教えの門は異なりますが、真実を見ることは一つです。「空」の教えによって道を得たのは、須菩提です。
「天人得道」者,天是八萬諸天,人即𤘽隣五人。五人聞法初得見諦,八萬諸天得法眼淨。有人云:𤘽隣初得道,四人至夏初方得。恐是經論異出不同。此經親云「天人得道三寶現世」,若四人不得見道,即非見諦得戒。但𤘽隣一人,不名僧寶。此為證者,佛所說法契理契緣,非如六師妄有所說不能令人得道。
「天人得道」というのは、「天」とは八万の諸天のことであり、「人」とは憍陳如ら五人のことです。この五人も法を聞いて初めて真理を悟り、八万の諸天も法眼浄らかになりました。
ある人は言います。「憍陳如だけが最初に悟りを得て、他の四人は夏の初めになってようやく悟った」と。これはおそらく、経論によって説き方が異なるからでしょう。
しかし、この経文にははっきりと「天人得道にして三宝世に現ず」とあります。もし四人が悟りを得ていなければ、真理を見て戒を得たことにはなりません。憍陳如一人だけでは、僧宝とは言えません。
これは何を証明しているかというと、仏の説かれた法は道理にも縁にもかなっており、六師のようにいい加減なことを説いて人を悟りに導けないのとは全く違うということです。
「三寶於是現世間」者,不約一體三寶。何者?初覺道成始有佛寶,三轉法輪即是法寶,𤘽隣如等見諦得戒即是僧寶。自迦葉佛滅後,三寶隱沒但有舊醫,今佛出興三寶始具。
世の中に「三宝」が現れる、といっても、これは一体三宝のことではありません。なぜかというと、最初に悟りを開いて成仏されたとき、はじめて仏宝が現れ、三転法輪を説かれたのが法宝であり、五比丘などが真理を見極めて戒律を得たのが僧宝だからです。迦葉仏の入滅後は三宝は隠れてしまい、ただ古い医者がいるだけでしたが、今、仏が世に出現されたことによって、三宝が初めて完全に備わったのです。
「以斯妙法」下次二行,歎法妙天人受益。生滅四諦為妙法也,能令眾生畢故不造新謂之妙法。
この素晴らしい法により、次に二つの行で、法の素晴らしさを称え、天や人々がその恩恵を受けることを示しています。生と滅の四つの真理こそが素晴らしい法であり、それが全ての衆生に過去の業を終わらせ、新たな業を造らせないことを可能にするため、素晴らしい法と呼ばれるのです。
「一受不退常寂然」者,即是初見聖諦永不退失。若世智斷結,遇緣便起。今無漏智斷諸戲論畢竟不起,故言常寂。《大經》云「世醫療治,瘥已還生。如來所治,畢竟不發。」故言常寂。案《婆娑》見有得道盡智猶退,退至初果。曇無德見空得道,一向無退。雖教不同,見道不退其義無別。今之偈意,正歎見道不退為凡夫也。
「一受不退常寂然」とは、初めて聖なる真理を観じて、永遠に退失しないことを意味します。
世間の知恵で煩悩を断ち切っても、縁に遇えば再び起こります。しかし、煩悳を離れた無漏の智慧によって、あらゆる虚妄の分別(戯論)を断ち切れば、ついに再び起こることはありません。ゆえに「常寂」と言うのです。
『大般涅槃経』にも、「世間の医者が治療すると、治ってもまた再発する。しかし如来が治療すると、決して再発することはない」と説かれています。これが「常寂」の意味です。
『婆沙論』によれば、説一切有部では、道を得て尽智(煩悳を尽くした智慧)に達してもなお退失することがあり、初果(預流果)まで退くとされています。一方、曇無徳部(法蔵部)は、空を観じて道を得れば、決して退失することはないと説きます。教えに違いはあっても、見道(真理を観じた境地)は退かないという道理は異なりません。
今の偈の主旨は、まさに見道が退かないことを讃え、
「度老病死大醫王」者,此通歎醫王法因佛說故也。佛自度三界,思惟老病死已亦能說法,令諸眾生度三界死。一受不退,名大醫王。言「當禮」者,眾生病無量,佛之法藥亦復無量猶如大海,是可歸敬。
「老いと病と死を超えさせたもう大医王」とは、仏が説かれた法が大医王であることを広く讃えた言葉です。仏ご自身が三界を超え、老病死について深く考えられた上で、人々に法を説き、三界の死を超えさせてくださいます。一度受ければ退くことのない法を説く方、それが「大医王」です。
「敬って礼すべし」とは、衆生の病が限りないように、仏の法の薬もまた限りなく、大海のようなものです。それゆえ、帰依し敬うべきなのです。
「毀譽不動」下,三、兩行總結歎者,生身之佛八風不動,以大悲三念之德,婆羅門女謗而不戚、諸天大梵讚而不忻,八風不動如須彌也。是歎斷德。「於善不善等以慈」者,歎智德也。睺羅三摩、調達三呵,呵令改惡、摩令進善,慈心一也。「心行平等」者,約三念處以明平等:一香塗左、二刀割右、三不塗不割,視之平等無有異想,此據色法為三念處。順我法不喜、違我法不嗔,不違不順常行捨心,此約心法明三念處。佛心於此慈念平等。孰,誰也。人寶者,智人為寶,能別真偽,故聞者敬承。
「毀譽に動ぜず」の下の第三、二、三行の総括して歎ずる者は、生身の仏は八風に動ぜず、大悲三念の徳をもって、婆羅門の女が謗るも戚まず、諸天の大梵が讃めるも欣ばず、八風に動ぜずして須弥山のごとし。これは断徳を歎ずるなり。「善不善に於いて等しく慈を用う」とは、智徳を歎ずるなり。睺羅は三摩し、調達は三呵す。呵して悪を改めしめ、摩して善に進ましむ。慈心は一なり。「心行平等」とは、三念処に約して平等を明かす。一に香を左に塗る、二に刀を右に割く、三に塗らず割かず、これを視ること平等にして異想無し。これは色法に據りて三念処と為す。我が法に順ずれば喜ばず、我が法に違えば瞋らず、違わず順わざれば常に捨心を行ず。これは心法に約して三念処を明かす。仏心は此において慈念平等なり。孰れとは誰ぞ。人宝とは、智人は宝と為す。能く真偽を弁別す。故に聞く者敬い承く。
「今奉世尊」下十九行,二、正述歎表發之事。文為二:初四行總述,歎現三瑞表發;次十五行別述,歎佛三密。初為三:初半行述歎奉蓋,次二行半正述歎合蓋現瑞表發,三一行正述歎大眾歡喜。初「奉微蓋」者,微之言小,因小果大表不思議大果,淨土無方莫測。「現三千界」下二行半,次述上蓋內現土現佛說法,表說應土應身之事。「哀現」者,慈念眾生,欲為說此佛國因果,故先現瑞以作由漸方得開闡,故稱哀現。
「今、世尊を奉ずる」以下の十九行は、第二に、正しく歎じて表発のことを述べる部分です。文は二つに分かれます。初めの四行は総述で、現れた三つの瑞相を歎じ表発します。次の十五行は別述で、仏の三密を歎じます。初めはさらに三つに分かれます。初めの半行は蓋を捧げることを述べて歎じ、次の二行半は正しく蓋を合わせて瑞相を現し表発することを述べて歎じ、三つ目の一行は正しく大衆の歓喜を述べて歎じます。初めの「微蓋を奉ず」とは、「微」は小さいという意味で、因は小さく果は大きいことから、思議を絶した大きな果報を表します。浄土には方角がなく測り知れません。「三千界を現ず」以下の二行半は、次に、上の蓋の中で土と仏が現れて説法する様子を述べ、応土と応身に関することを説くことを表します。「哀しみて現ず」とは、衆生を慈しみ、この仏国の因果を説こうと欲し、まず瑞相を現して縁を作り、ようやく開き明らかにすることができるため、「哀現」と称するのです。
「眾覩」下一行,三、述上大眾歎未曾有。
「大衆の見る所」の次の行、第三に、上に述べた大衆が「未だ曾て有らず」と嘆ずることを説く。
「大聖」下,次十五行,別述歎佛三密。文為三:初兩行歎身密,次六行歎口密,次七行歎意密。三密即是三輪不思議化。三無失,三不護也。「大聖法王眾所歸」者,是歎法身勝應。若法身三昧王三昧,三諦自在,為四十一心菩薩聖眾及餘四部所歸。即是上來所明,佛安處眾寶師子之座,蔽於一切諸來大眾,故為眾所歸也。「淨心」者,即四眾大乘機發,心無疑濁欲聞淨道。亦是諸大菩薩淨心入觀佛三昧,故言淨心。「各見世尊在其前」者,此明應身對十法界各見同已。譬如一月影現眾水,或見如老比丘像,或見光明相好,或見尊特之身,或見現大小相坐寶蓮華,或見身如虛空,此是身密之德。故前釋佛在耶離,各見不同,意在此也。「不共」者,如此身密不與二乘及下地共。
「大聖」の次に続く十五行では、別に仏の三密(身密・口密・意密)を称える内容が述べられています。文章は三つに分かれています。最初の二行は身密、次の六行は口密、最後の七行は意密について述べています。この三密こそが、三輪の不思議な教化であり、三つの過ちがなく、三つの守らない(=自然に清らか)という状態です。
「大聖法王衆所帰」とは、法身の勝れた応身を称えたものです。法身とは三昧王三昧であり、三諦(空・仮・中)を自在に体得し、四十一心の菩薩聖衆やその他の四部の衆生から帰依される存在です。これは先に述べたように、仏が衆宝で飾られた獅子座に安座し、集まったすべての大衆を超越しているため、衆生の帰依するところとなるのです。
「浄心」とは、四部の大乗の機が発起し、心に疑惑や濁りがなく、清らかな道を聞こうとする心です。また、諸大菩薩が清らかな心で仏を観じる三昧に入ることをも指します。ゆえに「浄心」と言うのです。
「各見世尊在其前」とは、応身が十法界の衆生それぞれに対して、自分と同じ姿で現れることを意味します。例えば、月が多くの水にその影を映すように、ある者は老いた比丘の姿として、ある者は光明相好として、ある者は尊特の身として、ある者は大小の相を現して宝蓮華に座る姿として、ある者は虚空のような身として見えます。これが身密の徳です。前に仏が毘耶離にいらした際に、各々が異なる姿を見たという説明がありましたが、その意味もここにあります。
「不共」とは、このような身密が二乗や下位の菩薩たちとは共有されない(=凡夫の理解を超えている)ことを意味します。
「佛以一音」下六行,次歎口密。文為三:初兩行是辭、法二辨。「同其語」即辭辨,「各得解」即法辨。辭者,一切眾生殊方異類言音各異,同其類音,故名辭辨。法者,一切諸法名字差別種種非一,各有所召。得法辨者,皆識語法,即同其音,故名法辨。佛以一音而辭法異趣,二辨應物,是口密也。佛尚非是梵,況同眾生?令異音解即非辭法,而現辭法者,口密力也。
「仏は一つの音声をもって」以下の六行は、次に口の秘密について讃嘆しています。この文は三つに分けられます。最初の二行は「辞弁」と「法弁」の二つの弁別です。「その語を同じくする」が辞弁であり、「各々解を得る」が法弁です。辞弁とは、一切の衆生がそれぞれ異なる国や種類によって言葉や音声が異なる中で、その種類に合わせた音声を同じくすることから、辞弁と名付けます。法弁とは、一切の諸法の名前や区別がさまざまで一様ではなく、それぞれが何かを指し示していることです。法弁を得た者は、すべての言葉の法則を識り、その音声を同じくすることから、法弁と名付けます。仏は一つの音声をもって、辞弁と法弁の趣を異にし、この二つの弁別を衆生に応じて示すことが、口の秘密です。仏は梵ですらもないのに、ましてや衆生と同様であるはずがありません。異なる音声で理解させることは、辞弁や法弁ではないのに、辞弁や法弁を現すのは、口の秘密の力によるものです。
「佛以一音」下二行,次歎義辨。一音說法,受行獲利,即是尋言求旨、得言所以,所以即是義也。如來本無句義,豈有義辨?而能分別一切句義者,即口密也。
仏が一つの声で説法したという下の二行では、次にその意味を称賛し説明しています。一つの声による説法とは、それを聞いて実践し利益を得ることであり、言葉をたどってその真意を求め、言葉の所以(理由)を得ることです。その所以こそが「義」なのです。如来にはもともと文句も意味もなく、ましてや意味を論じることなどあるはずがありません。しかし、あらゆる文句や意味を分別できるのは、すなわち口の秘密(口密)です。
「佛以一音」下二行,三、歎樂說辨。旋轉無窮,眾皆樂聞。四諦逗機,我當為說怖畏之事。三界皆苦,苦故生怖,即苦諦也。求涅槃樂,樂故歡喜,即滅諦也。厭離者,諸苦所因貪欲為本,即集諦也。斷疑,即道也。又約悉檀者,三界苦可畏,即世界也。歡喜即為人令生善根,故歡喜也。厭離是厭離煩惱,即對治,藥病相對也。斷疑即見諦道,是第一義。一音所演,其力如是。如來本非四諦四悉,能以此法善巧利益,即口密也。
「仏は一音をもって」以下の二行は、第三に、説法の楽しさを称賛し説くことを示す。自在に説きめぐらせて尽きることがなく、人々は皆喜んで聞く。
四諦に機を合わせれば、私は彼らのために怖れるべきことを説く。三界はすべて苦であり、苦であるゆえに怖れを生じる。これが苦諦である。涅槃の楽を求め、楽であるゆえに喜びを生じる。これが滅諦である。厭い離れるとは、諸々の苦の原因は貪欲を根本とするものであり、これが集諦である。疑いを断つとは、道諦である。
また、悉檀に約せば、三界の苦は畏れるべきものであり、これが世界悉檀である。喜ぶとは、人のために善根を生じさせることであり、ゆえに喜ぶのである。厭い離れるとは、煩悩を厭い離れることであり、これが対治悉檀であり、薬と病が相対するものである。疑いを断つとは、見諦の道を見ること、これが第一義悉檀である。
一音によって演説される、その力はこのようである。如来は本来、四諦や四悉檀というものではないが、この法をもって巧みに利益する。これが口密である。
「稽首」下七行,三、歎心密。佛心非權非實能現權實即心密也。文為二。初四行約三種權實二智以歎心密。次三行約三種二諦結歎心密。初文為四。初一行約內外歎。自行十力據內智圓滿。無畏據外用不怯。此為一雙。即約自行權實歎心密也。
「稽首」から下七行は、第三に、心の秘密を讃嘆する。 仏の心は、権(仮の智慧)でもなく実(真実の智慧)でもないが、権と実を現すことができる。これが心の秘密である。 文は二つに分かれる。 最初の四行は、三種の権実・二智について、心の秘密を讃嘆する。 次の三行は、三種の二諦について、心の秘密を結び讃嘆する。 最初の文は四つに分かれる。 第一の一行は、内と外について讃嘆する。 自利の十力は、内の智慧が円満であることを拠り所とし、無畏(おそれのないこと)は、外の働きに怯えがないことを拠り所とする。これは一組である。 すなわち、自利の権実について、心の秘密を讃嘆
稽首不共下次一行歎自行化他。不共是自證之法。導師即是化他。
南無仏にまします 如来。このお方は自ら悟り、他者を導く独自の教えをお持ちです。 その独自の教えとは、みずから体得された真理。 そして導き手とは、迷える人々を救うために尽くす姿です。
「稽首能斷」下次一行,此有兩用:若歎自行,即歎佛智斷。能斷是斷德,到彼岸是智德也。若作歎化他,「能斷眾結縛」者即是化他權實,明智斷也。眾是眾人,故屬化他。
「稽首能断」の次の一行には二つの意味がある。もし自らの修行を賛嘆するなら、仏の智慧と煩悩を断じる力を賛嘆することになる。「能断」は断じるという徳であり、「到彼岸」は智慧の徳である。もし他者を教化することを賛嘆するなら、「能断衆結縛(あらゆる束縛を断つ)」とは、他者を教化するための権巧と真実の智慧であり、智慧と断じる力を明らかにするものである。「衆」とは多くの人々を意味するので、他者の教化に属する。
問:何得一偈兩用?答:佛自無縛,能解他縛,故得兩用。
問:なぜ一つの偈が二つの目的に使えるのですか? 答:仏陀ご自身はすでに束縛から解放されており、他の者の束縛を解くことができるからです。よって、一つの偈を二つの目的に用いることができるのです。
「稽首能度」下次一行,總結上三種權實之智斷也。
「師を敬い、その教えを頼りに悟りを超えること能わず」――次の一行は、これまでの三種の権と実の智断をまとめたものです。
「悉知眾生」下次三行,舉三種二諦結歎三密。文為三:初一行是隨情二諦。何者?俗諦無量,心亦無量,或是求真或欲樂俗,情有去取,故言去來。去取無量,佛亦隨起說無量二諦,即是隨情。
「すべての衆生をことごとく知る」という次の三行は、三種の二諦を挙げて三密を讃える結論です。 文中、三つに分かれます。最初の一行は「情に随う二諦」です。 なぜか。俗諦は無量であり、心もまた無量です。あるものは真実を求め、あるものは俗を楽しみたいと望みます。心には取捨があるため、「去来」と言うのです。取捨が無量であるならば、仏もまたそれに従って無量の二諦を説かれます。これが「情に随う」ということです。
「不著世間」下次一行,是約隨情智二諦,隨情無染、隨智空寂。「達諸法相」下次一行,是歎隨智二諦。智心所照皆入一相而無所礙,如空無依,故名隨智也。
世間に執着しない——次の一行は、情と智の二諦に従うことを説いています。情に従えば染まらず、智に従えば空寂です。「諸法の相に達する」次の一行は、智に従う二諦を称えています。智の心が照らすところは、すべて一相に入り、何の障りもありません。それは虚空が何にも依らないようなものであり、ゆえに智に従うと名づけられます。