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維摩経略疏 (維摩經略疏)


維摩經略疏卷第二

維摩経略疏 巻第二

天台沙門湛然略

天台の沙門・湛然が略す

佛國品之二

仏国土品 第二

「復有萬梵」下,三辨雜眾證成不謬。此中具有大小凡聖故名為雜。此有權實,實隨業生;若法身住二十五三昧、應迹受生,此謂權也。故上歎菩薩云「而生五道以現其身」,又下文云「眾生病則菩薩病」。此諸天等預座聞經者,今傍《大經》開為四句。彼云「於戒緩者不名為緩,於乘緩者乃名為緩。」解此多途,今取義便用通經文,但作四句:一戒乘俱急、二戒緩乘急、三戒急乘緩、四乘戒俱緩。若通論戒乘,一切善法一切觀行皆通乘戒。今別判者,三歸五戒、十善八齋、出家律儀,乃至定共,能防身口遮惡道果、得人天報,名之為戒。若聞經生解、若觀智推尋四諦十二緣生無生理,智能破惑運出三界,名之為乘。故《大品》云「有相之善不動不出,無相之善能動能出。」但戒有麁細、乘有大小,今為二別:一玄釋、二帖文。玄釋為七:一值佛不同、二信法根性、三大小根性、四頓漸根性、五應迹同凡、六觀心、七化他。一、戒乘緩急值佛不同者,正釋前四句:一、戒乘俱急。戒急受人天報,乘急見佛得道,即此經天人來會是也。二、戒緩乘急。戒緩生三惡趣,乘急值佛得道,今龍神等皆來聽法者是也。乃至說方等陀羅尼時,婆藪從地獄出,將諸罪人共來聽法,又諸餓鬼亦來聽法;說大經時,諸鬼神等悉皆來集;又說大品時,佛放光照地獄,捨報生六欲天,來下聽法,皆是往昔戒緩乘急。

「復有萬梵」という部分からは、第三に、様々な衆生が集まって教えが誤りでないことを証明することを述べる。ここには大小・凡聖が共に含まれるため「雑」という。これには権(仮の姿)と実(真実の姿)があり、実の方は業に従って生まれる。一方、法身が二十五三昧に住み、応じて姿を現して生を受けるのは権である。よって、前の菩薩の賛嘆に「五道に生まれてその身を現す」とあり、また後の文に「衆生が病めば菩薩も病む」とある。これらの天部などが法会に列席して経を聴いたことについて、今、『大経』(大般涅槃経)を参考に四つの句に分けて解釈する。そこには「戒を緩くする者は緩しと言わず、乗を緩くする者こそを緩しという」とある。これには多くの解釈があるが、今は意味を取りやすくするために経文に通じる形で、四句にまとめる。その四句とは、第一に戒・乗ともに急であること、第二に戒は緩いが乗は急であること、第三に戒は急だが乗は緩いこと、第四に戒・乗ともに緩いことである。

広く戒・乗を論じれば、あらゆる善行やあらゆる観行はすべて戒・乗に通じる。しかし、ここで特別に区別すれば、三帰・五戒・十善・八斎戒・出家の律儀、さらには禅定によって得られる戒(定共戒)などは、身口を防ぎ悪道の果報を遮り、人天の報いを得させるものであり、これを戒と名づける。一方、経を聞いて理解を得ること、あるいは観智によって四諦・十二因縁・無生の理を推し究め、智慧が迷いを破って三界を超え出ることを、乗と名づける。よって『大品般若経』に「相のある善は動かず出ず、相のない善は動き出づ」とある。ただし、戒には粗いものと細かいものがあり、乗には大小がある。そこで、今は二つに分けて説明する。第一に玄義による解釈、第二に経文に即した解釈である。玄義による解釈は七つの項目からなる。第一に仏に出会う違い、第二に信と法の根性、第三に大小の根性、第四に頓と漸の根性、第五に応迹が凡夫と同じであること、第六に観心、第七に他を教化することである。

第一に、戒と乗の緩急によって仏に出会うことに違いがあること。これは先の四句を正しく説明するものである。第一に、戒・乗ともに急である場合。戒が急であれば人天の報いを受け、乗が急であれば仏に出会って悟りを得る。この経の天人が法会に集まるのがこれにあたる。第二に、戒は緩いが乗は急である場合。戒が緩いため三悪趣に生まれるが、乗が急であるため仏に出会って悟りを得る。今の竜神などが来て法を聴くのはこれにあたる。さらには、方等陀羅尼を説く時に、婆藪(バス)が地獄から出て、罪人たちを連れて共に法を聴きに来たこと、また餓鬼たちも来て法を聴いたこと。『大経』(大般涅槃経)を説く時には、諸々の鬼神などが皆集まったこと。また『大品般若経』を説く時には、仏が光を放って地獄を照らし、その地獄の者たちが命を終えて六欲天に生まれ変わり、下りて来て法を聴いたことなどは、すべて過去世において戒は緩かったが乗は急であった者たちである。

問:三惡道處云何得道?答:少謂不得,非都不得。《大論》云「如身有黑黶,雖非黑人,非不有黑。」三、戒急乘緩。戒急得人天身,乘緩不得值佛,設得值佛亦不聞經入道。如舍衛國,三億不見佛、三億見而不聞;又上界諸天著樂不來聽法,皆是其事。周時佛興,星隕如雨,而此土不見不聞,亦其義也。四、戒乘俱緩。戒緩墮三途,乘緩不見佛,流轉生死未有邊際。二、兩行不同者,即信、法也。一、信行者,聞慧薰習所成,悉是過去多聞受持讀誦聽法之人。二、法行者,修慧薰習所成,即是過去禪觀之人。二行各具戒乘四句,類前思之。但此中二行利鈍有別,利者少聞便能觀達。二種行人必請善之。三、大小不同者,還約信法各有大小。初信行大乘者,昔聞大乘戒乘俱急,戒急生人天乘,急還聞於大;餘三句類前。次小乘信行者,昔聞小乘戒乘俱急,戒急生人天,乘急還聞於小。三句可知。二法行大小戒乘四句准前可知,但利鈍為異。四、頓漸根性,有二:一頓大、二漸大。頓大有二:一信二、法。初大乘信行頓根性者,久遠聞大受持讀誦解說書寫,若乘戒俱急即生人天,以釋梵身值舍那七處九會,譬如日出先照高山;若戒緩乘急墮三惡道,以龍鬼修羅風雨等神見於舍那聞法入道;若戒急乘緩,雖在善道不聞頓說;若乘戒俱緩,墮三惡道不見不聞。次明大乘法行頓根性人,過去學大乘修一心三觀,戒乘緩急四句類信行可知,但利鈍少異。二明漸大信法根性人。一信行漸根性者,既無頓機,不預華嚴處會之說;猶有漸機,得聞藏等四味。戒乘四句,類前可知。此如《大經》聞毒鼓聲近遠皆死,近者如聞《華嚴》即便信受入如來慧,遠者即如漸悟根緣,初作二乘遠離佛道,次聞方等、般若,至法華、涅槃皆以如來滅度而滅度之,五味相生即其意也。今此法座而有八部為同聞者,即是戒乘俱急、戒緩乘急、信法大小漸頓根緣。

問:三悪道の者でも、どうすれば悟りを得られるのか。

答:普通は得られないというが、絶対に得られないわけではない。 『大智度論』にこうある。「身体に黒いあざがあっても、その人が黒人でないのと同じ。黒くないわけではないのである。」

三つ目は、「戒律は厳しく、智慧は緩い」場合である。 戒律を厳守すれば人天の身を得るが、智慧が緩いと仏に出会えず、たとえ出会っても教えを聞いて悟りに入れない。 例えば、舎衛国では三億の人が仏を見ず、三億の人が見ても聞かなかった。 また、上界の天人は楽に執着して教えを聞きに来ない。これらは皆その事例である。 周の時代に仏が現れたとき、星が雨のように降ったが、この地では見も聞きもしなかった。これも同じ道理である。

四つ目は、「戒律も智慧も緩い」場合である。 戒律が緩いと三途に堕ち、智慧が緩いと仏に出会えず、生死に流転して際限がない。

二つ目の「二つの行(修行の種類)が異なる」とは、すなわち「信行」と「法行」である。

一、信行とは、聞いた智慧(聞慧)の薫習によって成ったもので、過去に多くの教えを聞き、受持・読誦・聴法した人々である。

二、法行とは、修行した智慧(修慧)の薫習によって成ったもので、過去に禅観を修行した人々である。

この二つの行には、それぞれ戒律と智慧の四つの組み合わせがある。先ほど述べたように考えればよい。 ただし、これらの行には鋭い者と鈍い者がいる。鋭い者は少し聞いただけで観察して悟る。 この二種の修行者は、必ず善知識を求めるべきである。

三つ目の「大小の違い」とは、信行と法行にそれぞれ大乗・小乗があることをいう。

まず、信行の大乗者:過去に大乗を聞き、戒律・智慧ともに厳しかった者。戒律が厳しいので人天に生まれ、智慧も厳しいので再び大乗を聞く。 残りの三つの組み合わせも同様に考えよ。

次に、信行の小乗者:過去に小乗を聞き、戒律・智慧ともに厳しかった者。戒律が厳しいので人天に生まれ、智慧も厳しいので再び小乗を聞く。 残りの三つも同様である。

二つ目の法行の大小・戒律と智慧の四つの組み合わせも、先に準じてわかる。ただ、鋭い者と鈍い者の違いがある。

四つ目の「頓漸の根性」には二つある。一に「頓大(突然の大乗)」、二に「漸大(段階的な大乗)」である。

一、頓大には二つある。信行と法行である。

【大乗信行の頓根性】久遠の過去に大乗を聞き、受持・読誦・解説・書写した者。 戒律・智慧ともに厳しければ人天に生まれ、帝釈天や梵天の身として毘盧遮那仏の七処九会の説法に値う。ちょうど太陽が昇り、まず高山を照らすようである。 戒律が緩く智慧が厳しければ三悪道に堕ちるが、竜・鬼・阿修羅・風雨の神などとして毘盧遮那仏を見て、教えを聞いて悟りに入る。 戒律が厳しく智慧が緩ければ、善道にいても頓説を聞けない。 戒律・智慧ともに緩ければ、三悪道に堕ちて見も聞きもしない。

【大乗法行の頓根性】過去に大乗を学び、一心三観を修した者。 戒律と智慧の緩急の四つの組み合わせは、信行と同じように知られる。ただ鋭い者と鈍い者の違いが少しある。

二、漸大の信行・法行の根性について。

【信行の漸根性】頓機がないため、華厳の会座に預かれない。しかし漸機があるため、蔵教など四つの味の教えを聞くことができる。 戒律と智慧の四つの組み合わせは、先に準じて知られる。 これは『大涅槃経』にいう「毒鼓の音を聞けば、近い者も遠い者も皆死ぬ」のたとえのようである。 近い者は、『華厳』を聞いてすぐに信受し如来の智慧に入る。 遠い者は、漸悟の根機の縁であり、初めは二乗として仏道から遠ざかり、次に方等・般若を聞き、法華・涅槃に至って皆如来の滅度によって滅度される。五味相生とはこの意味である。

今、この法座に八部衆が同聞しているのは、すなわち戒律・智慧ともに厳しい者、戒律が緩く智慧が厳しい者、信行・法行の大小、漸頓の根機の縁によるのである。

問:戒急乘緩、戒乘俱緩何當得道?答:值佛為作俱急因緣;若不值佛者,正像法中作俱急緣,故如來遺囑令依木叉、念處修道。又付囑流通皆作信行乘戒俱急因緣。

問:戒律を急に守り、教えを軽んじること、あるいは戒律も教えも共に軽んじること、これらの場合、いずれにおいても道を得ることができるのでしょうか。

答:仏に出会えば、戒律と教えの両方を急ぐ因縁を具えることができます。もし仏に出会わなければ、正法・像法の時代において、両方を急ぐ因縁を具えます。故に如来は遺嘱して、木叉(戒律)と念処(観念)に依って修道するよう命じられました。また、付嘱されて流通する者は皆、信行の乗(教え)と戒律の両方を急ぐ因縁を具えるのです。

問:若但作俱急因緣,何得復有戒緩乘急根緣?答:諸佛如來用安穩道為作因緣,但眾生罪垢深重而修禪觀行,不能淨持禁戒,致成戒緩乘急之緣。雖復戒緩墮三惡道,若值彌勒千佛得聞漸頓便得入道。《大經》云「於戒緩者不名為緩,於乘緩者乃名為緩。」乘緩戒急雖生人天,不值佛聞法,果報若盡流轉生死,故云寧為調達死入地獄,不作藍弗生天受樂。調達本得煖法,惡業因緣退墮地獄,出得人身成辟支佛,聰明利智過舍利弗。欝頭藍弗雖得生天,天福報盡即墮三途,生死流轉未有邊際。

問:もしも戒律と教え(乗)の両方が共に緩いことが原因となるのであれば、どうして戒律は緩くても教えが急であるという因縁(根機)が存在するのでしょうか。

答:諸仏如来は安らかな道(安穏道)をもって因縁としてくださいます。しかし衆生の罪の穢れは深く重いため、禅観の行を修行しても、禁戒を清らかに保つことができず、その結果、戒は緩くとも教えが急であるという縁(戒緩乗急の縁)が生じるのです。たとえ戒が緩んで三悪道に堕ちても、弥勒仏や千仏に出会うことができれば、頓教(とんきょう)や漸教(ぜんきょう)を聞いて、悟りの道に入ることができます。

『大般涅槃経』には次のように説かれています。「戒において緩き者は、これを緩しと名付けず、教え(乗)において緩き者を、まさに緩しと名付ける。」教えが緩んで戒律が急な者は、人や天に生まれても、仏に出会って法を聞くことができません。果報が尽きれば生死の流れをさまようことになります。それゆえに、調達(提婆達多)のように死んで地獄に入るほうが、鬱頭藍弗(ウドゥクシャーラマンプトラ)のように天に生まれて楽しみを受けるよりもましだと言われるのです。

調達もかつては煖法(寝位)を得ていましたが、悪業の因縁によって地獄に堕ちました。しかし地獄から出て人身を得れば、辟支仏(縁覚)となり、その聡明で鋭い智慧は舎利弗を上回るものでした。一方、鬱頭藍弗は天に

五、菩薩應迹者,為接有緣見佛聞法,住二十五三昧,應二十五有受四惡趣身。是無垢、不退、心樂、歡喜四種三昧慈善根力,為引戒緩乘急信法大小頓漸根性,來聽頓漸之教令得入道,若俱緩者作俱急緣。次住如幻等二十五三昧,慈善根力受人天身,為引俱急信法大小漸頓眾生,聽漸頓之教令得入道,亦為戒急乘緩作俱急緣。今此法座八部四眾,有法身菩薩現受其身,即此義也。六、約觀心,若觀行人大小兩乘,乘戒四句受何等身、得見彌勒聞何等法。若不見不聞不得入道,得失可知。若無禪觀,讀誦說法即成信行,戒急乘緩得失可知。七、化他者,若觀行講說當自省心行,用此四意分別得失,即見所化之者行業不同,未來昇沈宛然可識,當以此意而化導之。

五、菩薩の応迹について。有縁の衆生を導き、仏を見て法を聞くために、二十五三昧に住し、二十五有に応じて四悪趣の身を受けられる。これは無垢・不退・心楽・歓喜の四種三昧の慈悲善根の力である。戒律を疎かにしながらも教えを重んじる者や、大小・頓漸の教えを信じる種々の根機の者を導き、頓漸の教えを聞かせて入道させるためである。もし戒も教えも共に疎かな者には、共に重んじる縁を与える。さらに、如幻などの二十五三昧に住し、慈悲善根の力によって人天の身を受けられる。これは教えを共に重んじながらも、大小・頓漸の教えを信じる様々な衆生を導き、頓漸の教えを聞かせて入道させるためである。また、戒律を重んじながら教えを疎かにする者には、共に重んじる縁を与える。今この法座に集う八部・四衆の中には、法身の菩薩がその身を受けて現れている者もいる。これがその意味である。

六、観心について。観行を修める者が、大小二乗の教えと戒律における四種の組み合わせによって、どのような身を受け、弥勒仏を見て、どのような法を聞くか。もし見聞きできず、入道できないならば、その得失は明らかである。もし禅観がなく、ただ読誦や説法のみを行うならば、信心の行となる。戒律を重んじて教えを疎かにする場合の得失もまた知るべきである。

七、化他について。もし観行や講説を行うならば、自らの心行を省みて、これら四つの意味を用いて得失を分別すべきである。そうすれば、教化する相手の行業の違い、未来の昇沈の様子が明らかに分かる。この意味をもって教化し導くべきである。

二、釋經文。就雜眾為四:一梵天眾、二釋天眾、三八部眾、四四部眾。初「萬梵天王」者,梵是西音,此云離欲,或云淨行。梵王是娑婆主,住初禪中間。《毘曇》云「二禪已上無言語法故,不立王法。」《瓔珞》禪禪皆有梵王。今謂但加修無量心報勝為王,無統御也。初禪有覺觀言語則有主領,故作世主。此由往昔戒乘俱急,領初禪眾來聽法也。若應迹者,住白色三昧,種種三昧力薰故生初禪,引實梵眾來聽法也。尸棄者,此云火,或云火首,又言䗍髻,肉髻似䗍故也。望《法華.序》恐是二禪王也。所言「等」者,等三四禪也。實行可知。若應迹者,是住雙雷音霔雨三種三昧,引諸梵眾來也。

二、経典の文を解説する。雑多な聴衆を四種に分ける。一は梵天の衆、二は釋天の衆、三は八部の衆、四は四部の衆である。

初めの「万の梵天王」について。梵は西洋の言葉で、ここでは「欲を離れた者」、あるいは「清らかな行い」と訳される。梵王は娑婆世界の主であり、初禅の天の中間に住む。『毘曇』には「二禅以上には言葉を用いることがないので、王の法は立てられない」とある。『瓔珞経』では、禅の階位ごとに梵王がいるとされる。しかし、ここでは無量心を修行した功徳の報いとして勝れた者を王とするのであって、統治する力を持つわけではないと考える。初禅には分別や言葉があるので、統率する主体が存在し、そのため世の主となる。これは、過去世に戒と智慧を共に大切に修行した人が、初禅の衆を率いて説法を聞きに来たことによる。もし仮に化現した姿であるならば、白色三昧やさまざまな三昧の力によって熏修され、初禅に生まれ、実際の梵天の衆を導いて説法を聞きに来るのである。

尸棄(シキ)とは、ここでは「火」、あるいは「火頭」と訳され、また「螺髻(らけい)」とも言われ、肉髻が螺のように見えるからである。『法華経.序品』を見ると、二禅の王ではないかと思われる。ここで「等」と言うのは、三禅や四禅をも含んでいるのである。実際の修行の姿については、容易に理解できるであろう。もし化現した姿であるならば、双雷音三昧や霔雨三昧という三つの三昧に住し、諸々の梵天の衆を導いて来るのである。

問:何故從餘四天下來?答:上界處空,來處難知。以下擬上,故言從餘四天下來也。

問:なぜ他の四天下から来たのか? 答:上界は虚空にあり、来た場所を知るのが難しいからです。下界の例えをもって上界を推測するため、他の四天下から来たと言うのです。

「復有至會座」,次、明釋天眾。地居天主釋提桓因,翻為能作。若此間帝釋,是昔迦葉佛滅後有一女人發心修塔,復有三十二人發心助修。修塔功德為忉利天主,其助修者而作輔臣,君臣合之名三十三天,以乘急故同來聽法。若作應迹,君臣皆是難伏三昧之力薰生彼天,為引諸著樂者共來聽法。言「從餘」者,一四天下但一天帝。既有萬二千,故云從餘四天下來也。

また「法会の座に至る」に続いて、天の衆を釈明する。地居の天主である釋提桓因は、「よく作す」と翻訳される。この世間の帝釈天とは、昔、迦葉仏が涅槃に入られた後、一人の女人が心を起こして塔を修繕し、更に三十二人が心を起こして修繕を助けたことに由来する。この塔を修繕した功徳によって彼女は忉利天の主となり、助けた者たちはその補佐となった。君臣が合わさって三十三天と呼ばれ、戒を急ぐ故に共に来て法を聞くのである。もし応迹として現れたとすれば、君臣ともに「難伏三昧」の力によって彼の天に生まれ、楽しみに執着する者たちを導いて共に法を聞かせるためである。「他のところから(從餘)」というのは、一つの四天下にはただ一人の天帝しかいない。しかしここに一万二千もの天帝がいるので、「他の四天下から来た」と言うのである。

問:勝天甚多,何故別出梵王帝釋?答:梵王是世界主天,帝是地居天主,皆是請佛轉法輪主。又並是佛檀越,故先別列,證經親故。

質問:勝れた天は非常に多いのに、なぜ特に梵王と帝釋を別に挙げるのですか?

答え:梵王は世界の主たる天であり、帝釋は地に住む天の主です。両者ともに仏に法輪を転ずるよう請うた中心的な存在です。また、どちらも仏の檀越(支援者)であるため、最初に別に列挙し、経典を証するのに親しい存在だからです。

「并餘至會座」,三、列八部眾。八部義多有所關,今略案文釋也。「大威力」者,通貫八部。上文但出梵釋,今更總舉欲界五天及四禪中五那含天,各有王及眷屬俱來聽法。實行可知。若是權迹生此等天者,住不動三昧,生四天王天,悅意生炎魔、青色生兜率、黃色生化樂、赤色生他化、照鏡生那含,皆為引諸天來聽法也。

「ならびにその他の者たちも法会の席に到った」というのは、第三に八部の衆を列挙している部分です。八部の義は多く関わるところがありますが、今はひとまず文に依って簡略に解釈します。「大威力」という語は、八部すべてに通じるものです。上文には梵天や帝釈天のみが出ていましたが、ここでさらに広く、欲界の五天および四禅中の五那含天を説き、それぞれに王とその眷属が共に来て法を聴いていることを示しています。実際の修行者の姿はそのまま理解できます。もし権化としてこれらの天に生まれた者であれば、不動三昧に安住して、四天王天に生まれ、悦意は焔魔天に、青色は兜率天に、黄色は化楽天に、赤色は他化自在天に、照鏡は那含天に生じます。これらはすべて、諸天を導いて法を聴かせるためなのです。

問:無想無色何故不來?答:無想是外道天,菩薩住如空三昧亦生於彼,從多為論,戒急乘緩多不來也。四無色天,菩薩住無礙三昧生空處、常生識處、樂生不用處、我生非有想非無想處。但彼天無色不來聽法,設來不見,不可為證。此等未辨,故重云諸天。「龍」者,是畜生道,正報似蛇,依報七寶宮殿與天相似,亦能變形為端正人,戒緩乘急故也。亦如僧護比丘為四龍說法,聞即得悟。「神夜叉」者,皆是鬼道。夜叉此云輕疾,有三種:一在地、二在空、三為諸天給使。毀戒故墮鬼神,以惡毒故受夜叉身,往修乘故見佛聞法。少行布施微有果報,車馬施故故能飛空。「乾闥婆」,此云香陰,此亦凌空之神。不噉酒肉,唯香資陰。又云是天主幢倒樂神,居十寶山,身異相現,即上天奏樂。往世好觀聽妓樂,戒緩故墮神,行施故果報似天。「阿修羅」,舊云無酒或云身大,採四天下華於海釀酒不成,故言無酒。又云非天,此神果報最勝,隣次諸天而非天也。又云不端正,唯生女舍脂端正絕倫,眷屬皆醜,故云不端正也。又云男醜女端正,往昔嫉妬惱他,故恒多怖畏。「迦樓羅」,此云金翅鳥,畜生道攝,多慢故墮;以行施故,頸有如意珠,以龍為食。權者,《華嚴》云「法身金翅鳥,四如意為足,慈悲明淨眼,住一切智樹。菩薩金翅王,生死大海中,搏撮天人龍,安置涅槃岸。」此是住不退三昧金翅法門,當知法身住諸三昧。龍神修羅等皆有法門,類金翅可知。「緊那羅」,此云疑神,頭上有角,是諸天糸竹之神,果報少劣乾闥婆也。好樂音樂,生鬼神道還作樂神,少修功德微有果報。菩薩住心樂三昧,力能摧生也。「摩睺羅伽」,此是蟒神亦云地龍,無足腹行神,即世間廟神,受人酒肉悉入蟒腹。毀戒邪諂、多嗔少施、貪嗜酒肉,戒緩墮鬼神。多嗔虫入其身而唼食之。昔少施,謙敬得人供養,乘急值佛聞法。上來皆乘戒俱急、戒緩乘急,故來聽法。所以經初皆有八部。八部一一皆約信法大小頓漸根緣,類前可知。

問:無想天と無色天の者たちは、なぜ説法を聞きに来ないのですか?

答:無想天は外道の天人の世界です。しかし菩薩は、空のような三昧(定)に安住して、そこに生まれることもあります。多くの場合で見れば、「戒(道徳的規範)が厳しく、乗(教えに対する実践)が緩い」者は、説法を聞きに来ないことがほとんどです。

四無色天については、菩薩は「無礙三昧」に安住して空無辺処に生まれ、「常に識処に生まれ」「楽んで無所有処に生まれ」「私は非有想非無想処に生まれる」と捉えます。しかし、これらの天は色ある身体がなく、説法を聞きに来ることはありません。たとえ来たとしても姿が見えず、証明の対象とはなりません。以上のような理解がまだ十分でないため、改めて「諸天」と総称されているのです。

「龍」とは畜生道の生き物です。その正体(根本の姿)は蛇のようでありながら、その環境(依報)は七宝の宮殿で天人のものと似ています。また、姿を変えて端正な人の形になることもできます。これは「戒が緩く、乗が急(修行が精進している)」ことによります。例えば、僧護比丘が四匹の龍のために説法し、彼らはそれを聞いてすぐに悟りを得た話があります。

「神夜叉」はすべて鬼道の者です。夜叉とは「軽快で速い」という意味で、三種類あります。一つは地に住むもの、二つ目は空中に住むもの、三つ目は諸天の使いをするものです。戒を破ったために鬼神に堕ち、悪毒ゆえに夜叉の身を受けます。しかし過去に修行(乗)を積んだため、仏を見て法を聞くことができます。また、わずかな布施を行った果報があり、車や馬を施したために空中を飛ぶことができるのです。

「乾闥婆」は「香陰」と訳され、これも空中を飛ぶ神です。酒や肉を食らわず、香りだけで身体を養います。また、天の主である「幢倒楽神」とも言われ、十宝山に住んでいて、異なる姿を現しては天に上って音楽を奏でます。過去世に妓楽を見聞きすることを好んだため、戒が緩んで神に堕ちましたが、布施を行った結果、天人のような果報を得ています。

「阿修羅」は、古くは「無酒」や「身大」と訳されます。四天下の花を集めて海で酒を醸そうとしたができなかったため、「無酒」と言います。また、「非天」とも言います。この神々の果報は最も優れており、天人の次に位置しますが、天そのものではありません。また「不端正(姿が醜い)」とも言われます。ただ、生まれた娘の舎脂だけは絶世の美しさで、その眷属はみな醜いため、「不端正」と言われます。あるいは、「男は醜く、女は端正」とも言われます。過去世に嫉妬心で他者を悩ませたため、常に多くの恐怖を抱えています。

「迦楼羅」は金翅鳥と訳され、畜生道に属します。慢心が多いためにそこに堕ちましたが、布施を行ったため首に如意宝珠があり、龍を食べ物とします。権化(仮の姿)として、『華厳経』にはこうあります。「法身の金翅鳥は、四つの如意足を足とし、慈悲と明らかな智慧の目を持ち、一切智の樹に住む。菩薩という金翅王は、生死の大海の中で、天・人・龍を捕らえ、涅槃の岸に置く。」これは不退転の三昧に住む金翅鳥の法門です。法身が諸々の三昧に住んでいることを知るべきです。龍神や修羅たちにもすべて法門があり、金翅鳥の例から類推できます。

「緊那羅」は「疑神」と訳され、頭に角があります。これは諸天の管弦楽の神で、果報は乾闥婆よりやや劣ります。音楽を楽しむことを好み、鬼神道に生まれてもやはり楽神となります。わずかに功徳を修めたことで、わずかな果報があります。菩薩は「心楽三昧」に住み、その力によって輪廻の生を超えるのです。

「摩睺羅伽」は蟒神、または地龍とも言われます。足がなく腹で這う神で、世間の祠の神です。人々が捧げる酒や肉は、すべて蟒蛇の腹に入ります。戒を破り、邪悪でへつらい、怒りが多く、布施は少なく、酒や肉に貪るため、戒が緩んで鬼神に堕ちました。多くの怒りが虫となってその身に入り、噛み食います。過去にわずかに布施をし、謙虚で敬う心があったために人の供養を得ました。また、修行(乗)に励んだために仏に遇って法を聞くことができたのです。

以上のように、彼らは「戒と乗がともに急」であるか、「戒が緩く乗が急」であるため、説法を聞きに来るのです。そのため、経典の冒頭には必ず八部衆が登場します。八部衆の一つ一つについても、信心と法、大小乗、頓悟と漸悟などの根機・因縁に応じており、先の説明と同様に類推できます。

「諸比丘至會坐」,四、列四眾。「比丘」名含三義,如前釋。尼者女也。古經云除饉男、除饉女。「優婆塞優婆夷」,此云清信士、清信女,亦云善宿男、善宿女。雖在居家,持五戒,男女不同宿,故云善宿。此解未可定用。此皆戒乘俱急,戒急生人道,乘急值佛聞法為弟子。

「諸比丘は会坐に至る」とは、第四に四衆を列挙したものです。「比丘」という名には三つの意味が含まれており、それは前の解説のとおりです。「尼」とは女という意味です。古い経典には除饉男・除饉女と言われています。「優婆塞・優婆夷」とは、ここでは清信士・清信女と言い、また善宿男・善宿女とも言います。在家にありながら五戒を保ち、男女が同じ宿に泊まらないので、善宿と言うのです。ただし、この解釈は必ずしも定説とはできません。これらはみな戒と乗の両方が切実な者であり、戒が切実な者は人道に生まれ、乗が切実な者は仏に値遇して法を聞き、弟子となるのです。

問四眾既皆有戒乘俱急,何以有在家出家?答:樂厭不同。雖俱好佛法,有樂披剪入道、有樂素服形不厭離,故不等也。

問うに、四衆(出家・在家の仏教徒)は皆、戒律と教えの修行に全力を注いでいるのに、なぜ在家と出家の区別があるのでしょうか。

答えるに、楽しみと厭い方に違いがあるからです。たとえ皆が仏法を好んでいても、剃髪して出家の道を楽しむ者もいれば、在家のままで俗の姿を厭わない者もいます。そのため、同じではないのです。

菩薩住日光、月光、如幻、熱炎四種三昧,生四天下為四眾弟子,引諸凡夫聽法入道。

菩薩が日光三昧、月光三昧、如幻三昧、熱炎三昧という四つの三昧に安住すると、四つの世界に生まれ変わり、在家・出家の四つの弟子たちのために、凡夫の者が法を聞いて道に入るように導くのです。

「彼時佛與」下訖七言偈是別序。所以現瑞敘述,皆表欲說此經,故現相不同餘經。此為二:一從「彼時佛與」至長行盡,名發起序。二從長者子說偈竟,名敘述序。一發起者,即是現相,別表欲說此經。但相以表發為義,故現三瑞表於欲說三德法身、三種淨土。一、現巍巍尊特之身,表欲說真性解脫法身之體,亦表欲說性淨真境常寂光國。二、長者子獻五百蓋,佛之威神合為一蓋,表欲說眾因圓聚合成一實慧解脫圓報法身,亦表欲說圓淨實報之國。三、現三千國土諸佛說法悉現蓋中,此是無方大用,表欲說方便解脫應身,亦表欲說方便應土。

「その時、仏が…」から七言偈の終わりまでが別序です。ここで瑞相を現し述べられるのは、いずれもこの経典を説こうとなさっていることを示すためであり、それゆえに現れる相も他の経典とは異なっています。この部分は二つに分けられます。第一に、「その時、仏が…」から長行(散文)の終わりまでを「発起序」と名づけます。第二に、長者子が偈を説き終えるまでを「叙述序」と名づけます。

まず「発起」とは、すなわち瑞相を現し、この経典を説こうとしていることを特に示すものです。もとより相は、表し発起することをその義としています。ゆえに三つの瑞相を現すことで、三徳の法身と三種の浄土を説こうとなさることを示しています。

第一に、巍々たる尊特の身を現すのは、真性解脱の法身の体を説こうとなさることを示し、また性浄の真境である常寂光の国を説こうとなさることを示します。

第二に、長者子が五百の蓋を供養し、仏の威神力によってそれらが一つとなって一つの蓋となったのは、多くの因が円かに集まって一つの実慧解脱の円報の法身となることを説こうとなさることを示し、また円浄の実報の国を説こうとなさることを示します。

第三に、三千世界の諸仏が説法している様子が皆、その蓋の中に現れたのは、これは自在無方の大用であり、方便解脱の応身を説こうとなさることを示し、また方便応土を説こうとなさることを示します。

問:何以得知現尊特身表欲說不思議真性解脫法身耶?答:《大品》明尊特之身以須彌映海為喻,眾山無能及者,此經亦爾。復次《法華》明長者所止一城威德特尊,窮子驚避,此是如來示尊特身說華嚴教,小機不堪。是故遠避;即脫瓔珞著弊垢衣,此是作老比丘身擬說三藏教。過是已後心相體信入出無難,出現弊衣入現威德,即是現尊特身說方等教。長者宅內現威德身,命於窮子領知家業,是現尊特身命善吉等為諸菩薩轉教說般若也。又在宅內集國王大臣定父子天性,汝實我子我實汝父,即是法華現尊特身為諸聲聞授記時也。初見遠避,次入出無難,次則領知眾物,後則定父子天性,凡四度現尊貴長者瓔珞嚴身,皆譬釋迦勝應尊特之身光明色像無量無邊,悉表欲說實相法身。此方等教入出無難,雖復出處草菴見弊衣,長者入宅猶見現瓔珞身,瓔珞長者即是今佛,與無量大眾恭敬圍遶現尊特身。

問う:どのような理由で、現に尊特の身を現すことが、思議すべからざる真性の解脱・法身を説こうとすることを表すと知るのか。

答う:『大品経』には尊特の身を明かし、須弥山が海を映すことを譬えとし、多くの山々で及ぶものがない。この経もまた同じである。さらに、『法華経』には、長者の住む一城の威徳が特に尊く、貧しい子が驚いて逃げるという話がある。これは、如来が尊特の身を現して華厳の教えを説くが、小乗の機根の者には叶わず、そのために遠く避けることを示す。すなわち瓔珞を脱ぎ、垢にまみれた衣を着るのは、これは老比丘の身を作って三蔵教を説こうとすることを表す。その後、心が相い信じ、出入りに困難がなくなり、弊衣を離れて威徳を現すのは、すなわち尊特の身を現して方等教を説くことを示す。長者の邸内で威徳の身を現し、貧しい子に家業を統べ知らせるのは、これは尊特の身を現して、善吉らに諸菩薩のために般若を転教することを命じることを表す。また邸内で国王や大臣を集めて父子の天性を定め、「汝は実に我が子、我は実に汝の父なり」と言うのは、すなわち法華経において尊特の身を現して、諸々の声聞に授記する時である。初めは遠く避け、次に出入りに困難がなく、次に多くの財物を統べ知り、最後に父子の天性を定める。合わせて四度、尊い長者の瓔珞が身を厳かせることを現すが、すべて釈迦の勝れた応身・尊特の身の光明や色相が無量無辺であり、すべてが実相・法身を説こうとすることを表す。この方等教における出入りに困難がないということは、たとえ草庵に出入りして弊衣を見ようとも、長者は邸内に入ってなお瓔珞の身を現すのを見る。瓔珞の長者こそ、すなわち今の仏であり、無量大衆の恭敬・囲繞と共に尊特の身を現すのである。

問:那知現尊特身表說法身?答:《法華》云「我以相嚴身,光明照世間,無量眾所尊,為說實相印。」《大品》云「諸法實相即是佛。」

問:「現れた尊い特勝の身が、法身を表していると知るのはなぜですか?」 答:「『法華経』には『私は相好によって身を飾り、光明は世間を照らす。無量の衆生に尊ばれ、実相の印を説くために』とあります。『大品般若経』には『諸法の実相、それがすなわち仏である』と説かれています。」

問:何得復表寂光淨土?答此:經既以佛國為宗,豈不即表淨境之國?法身即土,離身無土;土即法身,離土無身。但真如實相,非智非境說智說境、非身非土說身說土,既表於身即是表土。故《金剛論》云「智習唯識通,如是取淨土,非形第一體,非莊嚴莊嚴。」此經言「隨其心淨則佛土淨。」表說實相真心豈非表說常寂光土?但表身義通,通前普集,表土義別,別表佛國。

問う:何(いず)くにか復(また)寂光浄土を表すことを得んや。

答え:この経典は仏の国土(佛國)を宗としている以上、どうして浄らかな境(くに)を表さないことがあろうか。法身(ほっしん)すなわち土であり、身を離れて土はなく、土すなわち法身であり、土を離れて身はない。しかし真如実相(しんにょじっそう)は、智と境を越えたものでありながら、智や境と説き、身や土を越えたものでありながら、身や土と説く。身を表すことがすなわち土を表すことである。

ゆえに『金剛論』には「智習(ちじゅう)は唯識(ゆいしき)に通じ、かくのごとくして浄土を取る。形(けい)にあらざるが第一体(たい)であり、荘厳にあらざるが荘厳なり」とある。この経典には「その心の清らかに従って、仏土もまた清らかなり」と説かれている。実相の真心を表すことが、どうして常寂光土を表すことにならないだろうか。

ただし身を表す義は広く、『普集』(ふじゅう)においても通ずるが、土を表

問:合蓋現土何得知表報應身土?答:五百小蓋合成其一,豈非表眾因合成一果?一果者即是圓報法身,身即有土,故文中菩薩修檀等行成佛之時,如是眾生來生其國。

問う:蓋を合わせて土が現れるのは、なぜ報身とその仏国土を表すと知るのか。 答え:五百の小蓋が合わさって一つとなる。これは、多くの因が集まって一つの果となることを示しているのではないか。一つの果とは、すなわち円満な報身である。身があれば、そこには土がある。ゆえに経文には、菩薩が布施などの修行を積んで仏陀となる時、そのような衆生がその国に生まれると説かれているのである。

問:此明應身成道,豈得證於報土?答:由報身成則有應身應土成也。

問:ここに述べる「応身が仏道を成就する」ということですが、それでも報身の浄土に証入できるのでしょうか?

答:報身が成就すれば、それに応じて応身と応土も同時に現れるのです。

就發起序為二:一如來現身、二長者獻蓋。初為三:一佛說法、二譬顯、三合譬。初明「彼時佛與無量大眾」者,眾有四種:一、發起眾,如寶積、文殊、彌勒等更相發起者是也。二、影響眾,此土他方法身菩薩,迹為八部四眾等是也。三、當機眾,聞說得益,如五百八部四眾等,是皆戒乘俱急、戒緩乘急也。四、結緣眾,為作未來解悟由漸,即是戒急乘緩、戒乘俱緩八部四眾者是也。此四通攝一切眾也。「恭敬」者,明內善機發。「圍繞」者,如城四門通入見主,表四門機動隨佛教轉,得見真性解脫法身。「而為說法」者,昔光統師問長耳三藏云:「佛時與無量大眾說何等法?」答:「說《普集經》,即方等教攝。所以得為今經作序者,彼說正報因果,今說依報因果,由正有依故得為序。例如先說《無量義》,次說《法華》。」

まず序分の発起について述べれば、二つに分けられる。一は如来がその姿を現すこと、二は長者が蓋を捧げることである。初めの部分はさらに三つに分かれる。一は仏が説法されること、二は譬えを用いて示すこと、三はその譬えを合わせて明らかにすることである。

「その時、仏は無量大衆と共におられた」とある。ここでいう大衆には四つの種類がある。 一、発起衆。これは宝積、文殊、弥勒などの菩薩たちが互いに問答し、説法のきっかけを作る者たちである。 二、影響衆。これはこの娑婆世界や他方の仏国土から来た法身の菩薩たちが、仮に八部や四衆などの姿をとって現れる者たちである。 三、当機衆。これは説法を聞いてその場で利益を得る者たちであり、五百人の比丘や八部・四衆などがこれに当たる。彼らは戒も修行も共に大切にしているか、戒は緩やかでも修行を急ぐ者たちである。 四、結縁衆。これは未来に悟りの縁を得るための種をまく者たちであり、戒は大切にするが修行は緩やかな者、あるいは戒も修行も緩やかな八部・四衆などがこれに当たる。この四つの種類によって、すべての大衆を包括することができるのである。

「恭敬して」とは、内なる善の機が発せられたことを示す。「囲繞して」とは、城に四つの門があって、そこを通って門番に会いに行くように、四つの門の機が動いて仏の教えに従い、真性の解脱・法身を見ることができることを象徴している。「ために説法す」について、昔、光統の師が長耳三蔵に尋ねた。「あの時、仏は無量大衆と共に、どのような法を説かれたのですか?」答えて曰く、「『普集経』を説かれた。これは方等の教えに含まれる。この経が今の経の序分となり得るのは、あの経では正報の因果を説き、今の経では依報の因果を説いているからであり、正報があって依報があることによって、序分となり得るのである。例えば、先に『無量義経』を説き、次に『法華経』を説くようなものである。」

「譬如至大海」,二、譬顯。「須彌山」者,此云安明亦云妙高,何但妙高亦是妙大。譬佛實報尊特之身窮實相頂,故言妙高。功德智慧遍滿法界,故言妙大。「顯于大海」者,即顯此座有緣四眾四門善根,亦顯一切眾生生死海也。如山盤峙滄溟而秀出海外,佛不住生死、不捨生死,不住如山高出、不捨如影現大海。如海水非其四色,而因山現故有四種色。此明眾生心非四門,佛以悉檀方便而說四門,令失惡心。本相同四門之解,更無異解。

「例えば大海に至る」とは、第二の譬えを示すものです。「須弥山」とは、ここでは「安明」とも「妙高」とも言いますが、単に高く妙なるだけでなく、広大にして妙なる意味もあります。これは仏の実報身・尊特身が実相の頂点を窮めていることを譬え、ゆえに「妙高」と言います。功徳と智慧が法界に満ち満ちていることから、「妙大」と言うのです。 「大海に顕れる」とは、すなわちこの座に縁ある四衆や、四門の善根を示すとともに、一切の衆生の生死の海をも顕します。

ちょうど山が大海にそびえ立ち、海外に秀でているように、仏は生死に住せず、また生死を捨てず、山が高くそびえるように「住せず」、影が大海に現れるように「捨てず」の心です。 大海の水はもともと四色ではありませんが、山が現れることによって四種の色を示すように、これは衆生の心はもともと四門ではないが、仏が悉檀の方便によって四門を説き、悪心を失わせることを明かしています。その本質は同じく四門の理解であり、異なる解釈はありえません。

「安處至大眾」,三、合譬。寶是法性萬善之理,無畏之座是諸法空,是為萬善無畏空座。身相巍巍與座相稱,譬實慧微妙與萬善無畏空理相應。此合須彌山譬。「蔽大眾」者,明說大教蔽眾妄解,同其真解弊諸邪小,四門同成大乘四門之解。此合顯大海譬。

「安處至大眾」とは、第三の比喩を合わせたものです。宝とは、あらゆる善の基となる真理(法性)の教えを指し、畏れのない座とは、すべての現象が空であるという教えを意味します。すなわち、これはあらゆる善と畏れのない空の理法に基づく座なのです。仏の姿が荘厳で、その座にふさわしいのは、智慧の妙用が、あらゆる善と畏れのない空の理法にかなっていることを譬えています。これは、須弥山の比喩に合わせたものです。

また、「蔽大衆」とは、大乗の教えを説くことで、人々の誤った理解を覆い隠し、真実の理解へと導き、邪見や小さな考え方を抑えることを意味します。そして、四つの教えの門(四門)がすべて、大乗の教えにおける理解へと

「爾時」下,二、明長者子獻蓋,為三:一先明表發之由、二如來合蓋現瑞、三大眾覩瑞歡喜。獻五百蓋合為一者,表因中慈迴向佛果成於無緣,即表圓報法身亦表依報淨國,正表此經以佛國因果為宗。而於蓋中現一切土,即表果地淨土現一切應土,即表此經力用也。又現十方諸佛說法者,表於應土必有應佛為化主也。大眾歡喜者,即聞不思議解脫。佛國機發必沾大利,預生喜也。故知現相密表發起此經由籍,故為別序。一、長者子為表發之由故獻蓋者,為三:一與同類俱往、二虔敬、三奉蓋。初文者「毘耶離」,具如前釋。城表涅槃。故《華嚴》云「白淨法為城,觀慧為牆壁,無上智樓閣,慚愧為深塹。三空解脫門,正念為防守,四道為正路,遊之出三界,建無上法幢,摧滅一切魔。」今明性淨涅槃如城,非長者亦非如來而共住此城。因故稱子、果故稱佛。性非因果而因果依性,義同城也。釋寶積如前。「與五百長者子」,事義可知。若表法門,或表五種種性善根,一種性有百,即是五百善根悉皆是因,故稱為子。「七寶蓋」者,表七覺調停生實相真解,名為七寶。歷法起慈名之為蓋。蓋以蓋覆為義,慈心覆陰一切眾生。「來詣佛所」者,因修歷別法緣之慈,今發無緣因慈、迴向無緣之果,圓覆一切也。二、虔敬者,「頭面禮足」,是申其敬儀。表於因智之上,接果智之下。三、奉蓋者,因有資果之義,故言供養。

「爾時」の次に、長者の子が蓋を捧げる話が三つに分かれています。一つ目は、表れの理由を示し、二つ目は、如来が蓋を合わせて瑞相を現し、三つ目は、大衆が瑞相を見て喜ぶ、という内容です。五百の蓋を捧げて一つに合わせるのは、因の位における慈悲を、仏の果に向けて回向し、無縁の慈悲となることを表します。これは、円満な報身を表すと共に、依報としての清らかな国土も表し、正にこの経典が仏の国土という因果を宗旨とすることを示しています。そして、蓋の中にすべての国土が現れるのは、果の位における浄土が、すべての応現の土を現すことを表し、すなわちこの経典の力用を示しています。また、十方の諸仏が説法する様子が現れるのは、応現の土には必ず応現の仏が教化の主として存在することを表しています。大衆が喜ぶのは、不可思議な解脱を聞くからです。仏の国土という機縁が発動すれば、必ず大きな利益を得られるという予兆の喜びです。したがって、これらの瑞相は、この経典が説かれる由縁を密かに示しており、別序とされています。

一、長者の子が表れの理由となって蓋を捧げるのは、三つに分かれます。一つは、同じ仲間と共に赴くこと、二つは、敬いの心、三つは、蓋を捧げることです。初めの文の「毘耶離」は、既に説明した通りです。城は涅槃を表します。例えば『華厳経』に「白浄法を城とし、観慧を牆壁とし、無上智を楼閣とし、慚愧を深き堀とす。三空解脱門、正念を防守とし、四道を正路とし、これによりて三界を出て、無上の法幢を建て、一切の魔を摧滅す」とあります。ここでは、性浄涅槃を城に例えています。長者でも如来でもなく、共にこの城に住むのです。因の位にあるので「子」と呼び、果の位にあるので「仏」と呼びます。本性は因果を超えていますが、因果は本性に依って成り立つので、城に例えられるのです。宝積の説明は前の通りです。「五百の長者の子と共に」というのは、事実としての意味は明らかです。もし法門に表すなら、五種の種性の善根を表します。一種性に百の善根があり、合わせて五百の善根はすべて因となるので、「子」と呼ばれます。「七宝の蓋」は、七覚支が調和して実相の真の解を生じることを表し、これを七宝と呼びます。あらゆる法に慈悲を起こすことを蓋とします。蓋は覆い隠すという意味で、慈悲の心がすべての衆生を覆い守ることを表します。「仏のもとに来る」というのは、因の位において様々な法や縁による慈悲を修行し、今、無縁の因による慈悲を発して、無縁の果に回向し、すべてを円満に覆うことを表します。

二、敬いの心とは、「頭面礼足」であり、敬意を表す儀礼です。因の智慧の上に、果の智慧の下に接することを表します。

三、蓋を捧げるのは、因が果を助けるという意味があるので、「供養」と言います。

「佛之威神」下,二、明如來合蓋現瑞。此為二:一明合蓋、二正明現相。初文者五百各獻,表各修因。合為一者,表一圓果。既有正因能感正果,則成依因感得依果。言「遍覆三千」者,表一果體無緣大慈普覆法界。若論正報,普集已說。今所現相,正表依報普覆一切。

「仏の威神」の下は、第二段、如来が蓋を合わせて瑞相を現す部分です。ここは二つに分かれます。第一に蓋を合わせることを明かし、第二に瑞相を現すことを正しく明かします。初めの文では、五百人がそれぞれ献じたことは、各自が修行の因を積むことを表します。それらが一つに合わさることは、一つの円満な果報を表します。正因があることで正果を感得できるなら、依因によって依果を得られるのです。「遍く三千を覆う」と言うのは、一つの果報の体が、無縁の大慈によって法界を普く覆うことを表します。もし正報について言えば、すでに普く集まることが説かれています。今現れる相は、正に依報が一切を普く覆うことを表しているのです。

「而此世界」下,二、正現相,又為二:一、現國土、二現佛說法。國土有四:一現國土廣長之相、二現十山、三現大海江河、四現日月天宮。初文者正表依報世間。橫極百億稱廣,竪至有頂名長。又解橫極十方稱廣,竪際四土名長。

「而此世界」の下、第二に、まさに相を現ずることを示す。ここもまた二つに分かれる。一つは国土を現じ、二つは仏が説法することを現ずる。国土には四つの相がある。第一に国土の広長の相を現じ、第二に十山を現じ、第三に大海や河川を現じ、第四に日月や天宮を現ずる。

第一の文は、まさに依報の世間を表している。横には百億の世界にまで及ぶので「広」といい、縦には有頂天にまで至るので「長」という。また別の解釈では、横には十方の果てまで及ぶので「広」といい、縦には四つの国土にまで至るので「長」という。

「又此三千至鐵圍山」,二、現十山,恐表眾生世間。「大海至泉源」,三、現大海江河,恐表五陰世間。「及日月至寶蓋中」,四、現日月天宮,或表器世間也。此四世間現蓋中者,依報世間眾生五陰之所依也。

さらに、この三千世界から鉄囲山に至るまでが、二番目の十山の出現です。これはおそらく、衆生が生きる世界(衆生世間)を表しています。「大海から泉源まで」は、三番目の大海と河川の出現であり、これは五蘊の世界(五陰世間)を表していると考えられます。「そして日月から宝蓋の中に至るまで」は、四番目の日月天宮の出現であり、あるいは器の世界(器世間)を表しているのでしょう。これら四つの世界が宝蓋の中に現れるのは、依報の世界が、衆生や五蘊の世界がよりどころとするものだからです。

問:現無情相何得表情?答:夫說大乘,現相皆爾。

問い:無情の相が現れているのに、どうして意味を表すことができるのでしょうか? 答え:大乗を説くとき、現れる相はすべてそのようなものです。

「又十方至寶蓋中」,二、明現諸佛說法。若說依報必有能依,既有可化眾生必有應佛化導,故蓋中現佛及佛說法。以有四佛住於四土,皆名佛國。

また、十方世界の宝蓋の中には、二番目に、諸佛が説法する姿が現れると明かされている。依報(環境)があれば、必ずそれに依る主体が存在する。教化すべき衆生がいるならば、必ずそれに応じて佛が現れ導くのである。ゆえに、宝蓋の中には佛とその説法が現れる。四佛が四つの淨土に住しているからであり、それらはすべて佛の國と名づけられる。

「爾時一切」下,三大眾覩瑞歡喜。文為三:一、歎未曾有,是口業供養。自昔已來未曾現合蓋之瑞,表當說佛國故也。二、合掌禮佛,是身業供養。三、瞻仰尊顏,是意業供養。以現瑞故,必聞不思議佛國,當得三業清淨三輪不思議化,當得是益故喜心預發。所以皆申三業供養,但現瑞表發正為發起物情,物情敬仰既發,大聖即須赴緣說法。喜敬為序,義轉親也。

「爾時一切」のくだりでは、三つの大きな聴衆が瑞相を目にして歓喜した。本文は三つに分かれる。第一に、「未曾有なりと歎ず」は、口業による供養である。昔からこれまで、蓋が合わせられた瑞相は現れたことがなく、これはまさに、まもなく仏の国について説かれることを示しているからである。第二に、「合掌して仏を礼す」は、身業による供養である。第三に、「尊顔を瞻仰す」は、意業による供養である。瑞相が現れたことにより、必ずや思いもよらない仏の国について聞くことができ、三業の清浄と三輪の不可思議な教化を得ることができ、そのような利益を得られるがゆえに、喜びの心が前もって起こるのである。ゆえに皆が三業の供養をささげるのだが、瑞相が現れて示すことは、正に人々の心を奮い立たせるためである。人々の敬い慕う心がすでに起こったなら、大聖はすぐに機縁に応じて説法されなければならない。喜びと敬いが〔説法の〕序章となるのは、その意味がさらに親しみやすいからである。


4 維摩經略疏卷第四
6 維摩經略疏卷第六

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