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title: "請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀 · 2 明正意"
description: "北宋天台宗高僧遵式大师集录的《請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀》，是一部重要的观音忏法仪轨。该仪轨以《请观音经》为核心，结合密咒与天台观想法，详细规定了礼拜、供养、持咒、忏悔等修行次第，旨在通过观世音菩萨的慈悲愿力消除业障、祛除病厄与灾祸。此仪轨体现了宋代天台宗显密圆融的特色，是汉传佛教观音信仰的重要实践指南，至今仍在佛教修持中具有深远影响。"
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### 明正意第二

> 正しい意味を明らかにする 第二

請觀音疏。依舊人約十意明方法。一嚴淨道場二作禮。三燒香散華四繫念數息。五具楊枝淨水六請三寶。七誦呪八披陳。九禮拜十坐禪。疏但釋經不暇細出方法。故且依舊列而已。百錄既正明事儀。其意少別舊家。五具楊枝六始請聖。百錄依經請後楊枝。舊家十坐禪。百錄移為誦經。便將第四數息為禪。舊坐則重而闕唱誦。故今數雖十專依百錄為準。然此十意。各具事理皆通感應。俱遍三業。悉淨三障咸會三德。解脫要道一何坦然。故約事即今十科事行。約理惟二。一順陀羅尼中道正觀。二歷事修觀。此之事理必藉三業。三業成機理無不應。應即業淨業淨即障除。障除即會德。會德即無事理亦無感應。一切寂然誰論十意。問嚴淨道場始能置辦。通具事理可爾。云何便論感應乃至會德。答十意約別。不無方便正修之異。今約通論。既許具事理。何疑感應等耶。況復凡云請聖。皆約三義。一標心二行三證。且置辦道場觸類標心擬求何事。三業行淨非時尚感況道場乎。歷事觀理義同於證。三請意足豈無應耶。道場尚爾餘九可知。更為引經通證十意。感應等者。經云汝今應當五體投地。燒香散華繫念數息。為眾生故當請彼佛及二菩薩。說是語時。佛及菩薩俱到此國。此乃牟尼纔示設請之法。都未修行。但云說此語時佛等早降。自非三請之力安致於斯。投地證二番作禮。餘證請等三意。又國人面授楊枝淨水。此證道場及第六意。三呪皆云現前見佛。證誦呪意。處處破障見佛文。證披陳意。得聞此經受持讀誦等。即超越無量無數阿僧祇劫生死之罪。證唱誦意。十意整足感應炳然。行者思之。首尾十意既勞三業。勿使唐喪。常悲灑血韋提扣頭。此亦今初二意感應之明證。餘可例知。云何凡置道場猥同俗務。反招罪累滅障良難。此如輔行記所訶。至於正修。須心通廣遠事理明白。自或未達當詢解者。書云自用者小弗詢勿庸。十意今當說。

> \*\*請觀音疏\*\*に基づき、古来の師たちは十の項目をもって修法の方法を示している。すなわち、一に道場を清め整えること、二に礼拝すること、三に香を焚き花を散じること、四に心を集中し呼吸を数えること、五に楊枝と浄水を備えること、六に三宝を請じること、七に呪を誦すること、八に罪過を陳べること、九に礼拝すること、十に坐禅すること、である。疏は経典の解釈に専念しており、細かく方法を述べる余裕がないため、ひとまず古来の序列を示すにとどまる。『百録』は事儀を明確に説くもので、その意図は古来のものと幾分異なる。五つ目に楊枝を備え、六つ目に聖を請じるのが古来の順であるが、『百録』は経に従い、請じた後に楊枝を置く。古来は十番目に坐禅を置くが、『百録』はこれを誦経に改め、四番目の数息を禅としている。古来の坐禅は重複しており、誦唱が欠けていたのである。それゆえ、今は数は十としながらも、特に『百録』を基準とする。 しかし、この十の項目は、それぞれ事と理を具え、すべて感応に通じ、三業に亘り、三障を浄め、三徳に会する。解脱への要道として、何と明白であろうか。事に約せば、今まさに十の行事であり、理に約せば二つにすぎない。一つは陀羅尼の中道正観に順じ、二つは事に歴て観を修することである。この事と理は、必ず三業を借りる。三業が機を成せば、理として応じないものはない。応じればすなわち業が浄まり、業が浄まればすなわち障りが除かれ、障りが除かれればすなわち徳に会する。徳に会すれば、事も理もなく、感応もない。一切が寂然として、誰が十の項目を論じえようか。 問う。道場を清め整えることは、最初に行い得ることである。すべて事と理を具えるとは言えても、どうしてすぐに感応や、さらには徳に会することを論じるのか。 答える。十の項目は別に約せば、方便と正修との違いがないわけではない。今は通じて論じれば、事と理を具えることを許す以上、感応などを疑う必要があろうか。ましてや、およそ聖を請じることを言うのは、皆三つの意味に約する。一に標心、二に行、三に証である。道場を設える際、その類に触れて心に標すのは、何事を求めてのことか。三業の行が浄まれば、時ならずしてすら感ずるものを、まして道場においておや。事に歴て理を観ることは、義として証と同じである。三請の意が満たされれば、どうして応じることがないことがあろうか。道場がすでにそうであるなら、残りの九つもまた知るべきである。 さらに経を引き、十の項目に感応などを通じて証する。経に曰く「汝は今まさに五体投地し、香を焼き華を散じ、心を繫け息を数え、衆生の為に故に、彼の仏及び二菩薩を請じ奉るべし。この語を説く時、仏及び菩薩、倶に此の国に到る」。これは牟尼がまだ設請の法を示したばかりで、未だ修行していない時に、「ただこの語を説く時に、仏などが早くも降りたもう」ということを言うのである。もとより三請の力に依らなくて、どうしてこのように至り得ようか。「投地」は二番目の礼拝を証し、残りは請などの三つの意味を証する。また、国の人が楊枝と浄水を面授する。これは道場と第六の意味を証する。三つの呪は、いずれも「現前して仏を見る」と説き、誦呪の意味を証する。所々に「障を破り仏を見る」とある文は、披陳の意味を証する。「此の経を聞き、受持読誦するなどを得る」ことは、すなわち無量無数の阿僧祇劫の生死の罪を超越する。これは唱誦の意味を証する。十の項目が整い、感応は明らかである。修行者はよく思うべきである。 十の項目は、初めから終わりまで、三業を労するものである。それを徒に費やしてはならない。常に悲しみ血を灑ぎ、韋提が頭を叩く。これもまた、今の初めの二つの項目の感応の明らかな証である。残りは例によって知るべきである。どうして、ただ道場を設けることを俗務と同じように軽んじ、かえって罪を招き、障りを滅することが難しいのであろうか。これは『輔行記』に呵責されるとおりである。正修に至っては、心は広く遠くに通り、事と理が明白でなければならない。自ら達していなければ、解者に問うべきである。書に「自ら用いる者は小さく、詢ねずして庸（もち）いることなかれ」とある。十の項目について、今まさに説くべきである。