弘贊法華傳卷第一
弘贊法華伝 巻第一
藍谷沙門惠詳撰
藍谷沙門恵詳撰
- 圖像第一 第一卷
- 翻譯第二 第二卷
- 講解第三 第三卷
- 修觀第四 第四卷
- 遺身第五 第五卷
- 誦持第六
- 轉讀第七 第九卷
- 書寫第八 第十卷
圖像第一
画像第一
- 西域祇洹寺寶珠寶塔內說此經像
- 西域擬前說法金像
- 西域鷲峯山說此經像
- 宋釋惠豪造靈鷲山圖
- 後魏太祖造耆闍崛山圖
- 晉殷夫人造法華臺
- 宋謝婕妤造法華寺
- 後魏太常卿鄭瓊造法華堂
- 晉釋惠力造多寶塔
- 宋劉佛愛造多寶寺多寶塔
- 齊舍人徐儼造石多寶塔
- 唐悟真寺釋法誠造多寶塔法華塔法華
- 臺唐國子祭酒蕭璟造多寶塔
- 宋路昭太后造普賢像
- 宋釋道冏作普賢齋
- 宋釋僧苞作普賢齋
案祇洹圖云。前佛殿東樓上層。有白銀像。像內有七寶樓觀。樓觀內有寶池寶花。花上有白玉像。池中蓮花內。有白銀塔。於塔心中。有真珠塔。塔內有釋迦多寶二像。說法花經第七會者。又云。妙法華經。事同花嚴。波若多會說之。今之所翻。當第三會。又云。複殿四臺五重。上層有吠摩尼珠。此珠。過去諸佛。曾於中說法花。三變淨土。隨經所有。於中具現。
案内によれば、祇洹図にはこう記されている。「前佛殿の東の楼閣の上層に、白銀の像がある。その像の中には七宝で作られた楼閣と観音がある。その楼閣の中には宝の池と宝の花があり、花の上には白玉の像がある。池の中の蓮華の中には白銀の塔がある。その塔の中心には真珠の塔があり、塔の中には釈迦と多宝の二体の像が安置されている。彼らは法華経の第七会を説いていた。」また、こうも記されている。「妙法華経の事は、華厳経と同様である。般若経は多くの会で説かれた。現在翻訳されているものは、第三会にあたる。」さらに、「複殿には四つの台座と五つの重なりがある。上層には吠摩尼珠(宝珠)がある。この珠の中では、過去の諸仏が法華経を説き、三度浄土に変えた。経典に記されていることは、すべてこの中に具現されている。」
案西域書傳。中天竺摩揭陀國恒河南有故城。周七十餘里。荒蕪歲久。基趾尚存。昔人壽無量歲時。號拘蘇摩補修羅城。唐言香花宮城。逮人壽數千歲時。更名波吒釐子城。是巴連弗邑也。去此城西南四百餘里。渡尼連禪河。至伽耶城。城西南二十餘里。至菩提樹。金剛座等。菩提樹東。渡大河入大林野。行百餘里。至鷄足山。鷄足山東北百餘里。至大山。入山東行六十餘里。至上茅宮城。此城即摩揭陀國之正中也。故先君王之所都。多出香茅。故以名之。崇山四圍。以為外郭。西通狹徑。北闢山門。周一百五十餘里。樹木春榮。皆作金色。初頻婆娑羅王。都此。城中編戶之民。頻遭火害。眾庶嗟怨。不安其居。因令國中。若有不謹。遷之寒林。寒林者。棄尸之所。俗謂不祥之地。須臾王宮先自失火。王謂臣曰。成其遷矣。遂令太子監國。躬出茅城西北四五里。因而舍之。時吠舍釐王。聞頻婆娑羅王野處寒林。整集戎旅。欲襲整不虞。邊候以聞。乃建城邑。以王先舍於此故。稱王舍城。官屬士庶。咸徒家焉。或云。是阿闍世王所立。至無憂王。遷都波吒釐城。以王舍城。施婆羅門。今此城中。無復凡庶。唯婆羅門減千家耳。
西にある古い記録によると、中央インドのマガダ国、ガンジス川の南岸に古い城があった。周囲は約七十余里で、長年荒れ果てていたが、その城壁の跡は今も残っている。昔、人の寿命が無限だった時代には、クスマプラ(香花宮城)と呼ばれていた。後に人の寿命が数千年になると、パータリプトラ(波吒釐子城)と名を変えた。これはパータリプトラの町である。この城の西南四百余里、尼連禅河を渡るとガヤー城に至る。城の西南二十余里に菩提樹、金剛座などがある。菩提樹の東で大河を渡り、広い林の中を百余里進むと、鶏足山に着く。鶏足山の東北百余里進むと大山があり、その山に入って東に六十余里行くと、上茅宮城がある。この城こそマガダ国の中心地であり、昔の王が都を置いた場所である。香りのよい茅が多く採れるため、この名がついた。高い山々が四方を囲んで外郭の役割を果たし、西には狭い道があり、北に山門が開かれている。周囲は百五十余里で、木々は春には黄金色に輝いていた。昔、ビンビサーラ王がここに都を置いた。城の住民はしばしば火災に見舞われ、人々は嘆き悲しみ、安心して住むことができなかった。そこで王は国中に命じ、もし火の不始末をした者は寒林に移すこととした。寒林とは遺体を捨てる場所で、俗に不吉な地とされている。ところが、ほどなくして王宮が自ら火災に見舞われた。王は臣下に言った。「いよいよ移住を実行しよう」と。そこで太子に国政を任せ、王は自ら茅城の西北四五里に出て、そこに住まわれた。その時、ヴェーサーリーの王が、ビンビサーラ王が寒林に住んでいるのを聞きつけ、軍隊を整えて不意を突こうとした。国境の守備がこれを報告したため、城が築かれた。王が最初にここに住まわれたために、王舎城と呼ばれるようになった。官吏や庶民も皆、そこに移り住んだ。あるいは、この城はアジャータシャトル王が建てたとも言われている。アショーカ王の時代になり、都をパータリプトラに遷し、王舎城をバラモンに寄進した。今ではこの城内には一般の人がおらず、バラモンが千家ほど住んでいるだけである。
茅城東北十四五里。至耆闍崛山。唐言鷲頭。亦云鷲峯。接北之陽。孤標特起。既棲鷲鳥。又類高臺。空翠相映。濃淡分色。如來御世。垂五十年。多居此山。廣說妙法。即說此經之處也。故經云。常在靈鷲山。及餘諸住處。佛在世時。頻婆娑羅王。為聞法故。興發人徒。自山麓至峯岑。跨谷淩巖。編石為階廣十餘步。長五六里。中路有二小塔。一名下乘。即王此徒行以進。一名退凡。即簡凡人。不令同往。其山頂。東西長南北狹。臨崖西垂。現有甎舍。高廣奇製。東闢其戶。如來在昔居中說法。今作說法之像。量等佛身。唐沙門玄奘。俗姓陳。洛陽人也。早歲出家。夙資慧解。遍師名匠。洞曉真詮。以為攀條者見微。挹流者識淺。乃殉軀命於絕域。馳丹素於幽極。以貞觀之初。發迹西邁。周旋往返一十七年。所獲經論。具如別記。於彼中天竺國。請得擬摩揭陀國鷲峯山說法花經金像一軀。通光座高三尺。色相超挺。妙絕人功。頂戴瞻仰。實萬恒倍。至止之後。摸寫無窮矣。
茅城の東北、十四、五里のところに耆闍崛山がある。唐の言葉で鷲頭といい、また鷲峯とも呼ぶ。北側の麓に接して、ひときわ高くそびえ立っている。鷲鳥が巣を作り、また高楼のような形をしている。空の青さと山の緑が映え合い、濃淡の色を分けている。如来が世におわしてから五十年近く、この山に多く滞在し、広く妙法を説かれた。すなわち、この経が説かれた場所である。よって経典に「常に霊鷲山に在り、またその他の住処に在り」とある。仏が在世の時、頻婆娑羅王は法を聞くために、多くの人夫を動員し、山麓から山頂まで、谷を越え岩をよじり、石を敷き詰めて階段を作った。幅は十余歩、長さは五、六里である。途中に二つの小さな塔がある。一つは「下乗」といい、王がこの場所で徒歩で進んだことを示す。もう一つは「退凡」といい、凡人はここで退き、同じように登ることを許されなかった。その山頂は東西に長く、南北に狭い。崖に臨んだ西側に、れんが造りの建物がある。高さと広さは変わった造りで、東側に戸口がある。如来がかつてここに住んで説法された。今は説法の像が造られ、その大きさは仏の身に等しい。唐の沙門玄奘は、俗姓は陳、洛陽の人である。若くして出家し、早くから智慧と理解力に恵まれ、名高い師匠に次々と学び、真実の教えを深く悟った。枝葉をたどる者は見識が狭く、流れをすくう者は理解が浅いと考え、命を危険にさらして遠く異国へ赴き、真心を尽くして秘境を探求した。貞観の初めに、西方へ旅立ち、行き来に十七年を費やした。得た経典や論書は別に記録されている。その中天竺国で、摩掲陀国霊鷲山で説法された法華経の金の像一体を請うた。光背を含め高さは三尺、姿形は優れ、人の技を超えて美しい。頂きながら仰ぎ見ると、まことに万倍もの尊さを感じる。到着してからは、この像を模写することは尽きることがなかった。
宋景平元年。瓦官寺沙門帛惠高。造靈鷲寺。有沙門釋惠豪。智見通敏。巧思絕倫。於中製靈鷲山圖。奇變無方。欝似覩真。其山林禽獸之形。天龍八部之狀。歷代未有。自茲始出。龕成之後。傾國來觀。後世造龕。皆以豪為式。其龕東西深三十八丈。南北四十四丈四尺。
宋の景平元年(423年)、瓦官寺の僧・帛恵高が霊鷲寺を建立しました。そこに僧の釋恵豪という人がいました。彼は知識と洞察力に優れ、その独創的な発想は比類なく、見事に霊鷲山の図を制作しました。その技法は変化に富み、まるで本物を目の当たりにしているかのようでした。山や林、鳥や獣の姿、天竜八部の様相は、これまでのどの時代にもなく、ここに初めて現れたのです。仏龕(仏像を安置する厨子)が完成すると、国中から人々が集まって見物しました。後世に仏龕を作る者は、みな彼の作品を手本としました。この仏龕は東西に38丈(約126メートル)、南北に44丈4尺(約147メートル)の大きさでした。
後魏太祖道正皇帝拓跋珪。天興元年。造耆闍崛山圖一所。加以績飾。莫不嚴具焉。
北魏の太祖道正皇帝である拓跋珪は、天興元年(西暦398年)に、霊鷲山(耆闍崛山)の図像を一幅製作させ、それを美しく彩り飾りました。その装飾は、まことにおごそかで、欠けるところはありませんでした。
晉義熙七年。王荊州殷夫人。創造東青園寺。
晋の義熙7年(西暦411年)、荊州(現在の湖北省)の殷夫人が東青園寺(東の青い園の寺院)を建立しました。
寺中造法花臺一所。
寺院の中に法華経のための台を一つ作りました。
宋元嘉十五年。謝婕妤。在秣陵縣。造法花寺。
宋の元嘉15年、謝婕妤(しゃしょうよ)が秣陵県に法花寺を建立しました。
後魏太常卿恭侯鄭瓊。起淨域寺。建法花堂。
後魏の太常卿・恭侯鄭瓊は、浄域寺を建立し、法華堂を建てました。
晉興寧二年。沙門慧力。於瓦官寺。造石多寶塔一所。
晋の興寧二年(364年)、沙門の慧力が瓦官寺に石造りの多宝塔を一基建立しました。
宋元嘉五年。彭城人劉佛愛。於建康。造多寶寺。又造多寶塔一所。
宋の元嘉五年、彭城の劉仏愛という人物が、建康に多宝寺を建立しました。また、併せて多宝塔も一基建立いたしました。
齊建元元年。豫州刺史胡諧之。於鍾山。造法音寺。舍人徐儼助。造石多寶塔一所。
建元元年(西暦479年)、豫州(よしゅう)刺史の胡諧之(こ・かいし)が、鍾山(しょうざん)に法音寺(ほうおんじ)を建立いたしました。また、舎人(とねり)の徐儼(じょ・げん)が協力し、石造りの多宝塔(たほうとう)を一基、造営いたしました。
唐藍田玉山悟真寺沙門法誠。少小出家。山居絕俗。持誦此經。過於萬遍。依經造多寶塔一所。法花堂一所。法花堂一所。法花臺一所。臺上致經。周旋禮懺。又造禪室。於中習定。甚多靈迹。具之後傳。
唐の時代、藍田玉山の悟真寺に住む沙門・法誠は、幼い頃から出家し、山里に隠れて俗世と縁を断ちました。この経典を受持し読誦すること、なんと一万回を超えました。経典に従って多宝塔を一基、法花堂を一棟、そして法花臺を一つ建立しました。その臺の上に経典を安置し、周りを巡りながら礼拝と懺悔を行いました。さらに禅室を建て、その中で坐禅に専念しました。数多くの霊験が現れましたが、詳しくは後の伝記に記されています。
唐國子祭酒蕭璟。蘭陵人。梁帝之玄孫。梁王巋之第五子也。梁滅入隋。姊為煬帝皇后。生長貴盛。而家崇信佛法。大業中。自誦法花經。乃依經文。作多寶塔。以檀香為之。塔高三尺許。并為木多寶像。經數年未就。其兄子銓。在宅。朝起。忽於前院草中。見一檀木浮圖。蓋下有一鍮石佛像。製作殊異。梵容威肅。其眼精。以銀為之。中黑精光淨。如自然者。銓怪。走告璟。璟視驚喜。取蓋還。試置多寶塔上。宛然相稱。如故作者。雖木色小異。而塔形更妙。以佛像安塔中。亦相稱如故造。璟喜歎。自以為精誠所感。其佛像衣內。有舍利百餘枚。璟女尼。等年少。竊疑舍利。鎚打不破。乃試取三十枚。於石上。以斧打之。舍利迸散。了無著者。女就地拾覓。唯得三四枚。餘並不見所在。既而懼。以告璟。璟往塔中視之。即舍利皆如在舊。璟從此。日誦法花經一遍。以至于終。貞觀十二年。病篤。蕭后。及弟姪視之。璟與相見。各令燃香。因即共別。唯留弟宋公瑀。及女為尼者。令燃香誦經。頃之。謂其尼曰。我欲去。普賢菩薩。來迎我在東院。師可迎之。尼如言往迎。未還。璟曰。此院不淨。不肯來。吾當往就。汝等好住。因與瑀等別。仍起。長跪合掌。正向西方。頃之遂絕。遺令。獨載一車。斂以在身之服。婦人不得送葬。勿以肉祭祀。坎纔令沒棺。朝野歎其通𩄭。家人奉而行之。昔遍吉大士。神力無邊。現乘象王證明法花。斯或先佛之權應。或補處之垂化。七地莫測。二乘不思矣。夫上妙色身。既其明道。精微圖像。信亦感俗固有。㳂形以悟神。因迹以觀本。喜見之相。實汲誘之關津也。
唐の国子祭酒・蕭璟は、蘭陵の人で、梁の帝の玄孫にあたる。梁の王・巋の第五子である。梁が滅んで隋に入り、姉は煬帝の后となった。生まれながらに高貴で栄えていたが、家は仏法を篤く信仰していた。大業年間に自ら『法華経』を誦し、経文に従って多宝塔を作った。白檀を用いて作り、高さは三尺ほど。さらに木製の多宝如来像も作ったが、数年経っても完成しなかった。
ある日、甥の銓が邸にいて、朝起きると、前庭の草むらの中に、一基の白檀の塔を見つけた。蓋の下には鍮石の仏像が置かれてあり、その作りの優れたこと、インド風の姿の厳かなことは格別であった。目の部分は銀でできており、瞳が黒く輝いて、自然そのもののようであった。銓は怪しみ、走って璟に知らせた。璟が見て驚き喜び、蓋を持ち帰り、試しに自作の多宝塔にのせてみると、見事にぴったりと合い、元からそうであったかのようであった。木の色は少し違っていたが、塔の形は一層見事になった。さらにその仏像を塔の中に納めても、やはり最初から収まるようにぴったり合った。璟は喜びとともに感嘆し、これは自分の真摯な信仰が感じられたためだと悟った。
その仏像の衣の中から、百余りの舎利が見つかった。璟の娘で尼僧となった者が若かったため、舎利を疑い、槌で叩いても割れないのを確かめ、三十粒を取り出し、石の上で斧で叩いた。すると舎利は飛び散り、何も残らなかった。娘は地面を探しまわり、ようやく三、四粒を得たが、残りはどこにも見当たらなかった。やがて恐れをなして璟に告げると、璟が塔の中を見に行くと、舎利はすべて元のように揃っていた。
璟はこれを機に、毎日『法華経』を一巻誦し続け、一生を終えた。貞観十二年、病が重くなった。蕭后や弟や甥たちが見舞うと、璟は彼らと会い、それぞれに香を焚かせて別れを告げた。ただ弟の宋公・瑀と、尼僧である娘だけを残し、香を焚いて経を誦させた。しばらくして、娘の尼僧に言った。「もう行こうと思う。普賢菩薩が東の院で私を迎えに来ておられる。師よ、迎えに行きなさい。」尼僧がその通りにして迎えに向かい、まだ戻らぬうちに、璟は言った。「この院は清らかではないので、菩薩は来たがらない。私がそちらへ行こう。お前たちはしっかりと住みなさい。」そう言って瑀らと別れ、起き上がって長跪し、合掌して西方を正面に向けた。しばらくして息を引き取った。
遺言で、「車は一台だけで良い。現在の衣服をそのまま着せて納棺せよ。婦人は葬送に加わってはならない。肉を用いた供養をしてはならない。墓穴は棺が隠れる程度に掘れ。」と定めた。朝廷や世間はその悟りの深さを嘆賞し、家族はその指示に従った。
昔、遍吉大士(普賢菩薩)は神力無辺にして、象王に乗って現れ、法華経の教えを証明された。これはあるいは先仏の権化であり、また補処の菩薩の方便の垂れ示しであろう。七地の菩薩も計り知れず、二乗も思い及ばないところである。そもそも、すぐれた色身はすでに道を明らかにし、精妙な図像もまた、世の人を感じさせるものである。形に沿って神を悟り、迹によって本を観るとは、喜見の相はまことに人を導くための関門なのである。
宋崇憲路昭太后。植因曠劫。儷極皇家。而幻夢尊貴。塵垢賝寶。思隆正化。摹寫法身以大明四年。乃命白馬寺比丘曇標。造普賢菩薩像一軀。駕乘白象。六牙𦟛纖。七枝平滿。製度巨壯。鎔式精嚴。鑄比鍊銅。泥茲銑鋈。菩薩炳紫金之相。象王耀白銀之形。耀麗煌爍。狀若飛騰。實佛事之妙迹。塔廟之真規者也。而弘願不窮。修福無倦。到大明八年。又造普賢寺。壯麗之奇。將美莊嚴。
宋の崇憲路昭太后は、はるか遠い昔から善根を積み、皇家の頂点に立たれました。しかし、世の貴さを夢幻と見なし、財宝を塵芥と悟られました。そこで正しい教えを広めたいと願い、法身を写し取って、大明四年に白馬寺の僧曇標に命じて普賢菩薩像一体を造らせました。 この像は、白象に乗り、六牙は伸び縮み、七つの枝は平らかに満ちています。その規模は壮大で、鋳造の技は精妙を極め、銅を錬り、錫と銀を混ぜて作り上げました。菩薩は紫金の相を輝かせ、象王は白銀の姿を耀かせ、その輝きは飛翔するかのようです。まことに仏事の妙跡であり、塔廟の真の模範と言えましょう。 しかし、その大願は尽きることなく、福徳を積むことに倦むことはありませんでした。大明八年になると、さらに普賢寺を建立しました。その壮麗な美しさは、荘厳の極致に比肩するものでした。
釋道冏。扶風好濤人也。本姓馬氏。學業淳粹。弱齡有聲。初出家。為道懿弟子。冏素誦法花。唯憑誠此業。元嘉二年九月。在洛陽。為人作普賢齋。於是。澡雪庭除。表裏清淨。嚴遍吉之像。肅如在之心。道俗四十許人。已經七日。正就中食。忽有一人袴褶乘馬。入至室堂前。下馬禮佛。冏謂。常人不加禮異。此人登馬揮鞭。忽失所在。便見赤光赫然竟天。良久而滅。後三年十二月。在白衣家。復作普賢齋。將竟之夕。有二沙門。容眼如凡。直來禮佛。眾中謂是庸僧。不甚尊仰。聊問何居。答云。住在前村。時眾白衣。有張道。覺其有異。至心禮拜。沙門出門。行可數十步。忽飛空直上衝天。追目此僧。不復知所。後與同學四人南遊陽都。觀矚風化。夜乘氷渡河。中道氷破。三人沒死。冏又歸誠觀音。迺覺脚下如有一物自𢼨。復見赤光在前。乘光至岸。建都。止南㵎寺。常以般舟為業。甞中夜入禪。忽見四人御車至房。呼令上乘冏欻不自覺已見身在郡陵沈橋間。見一人在路座胡床。待者數百人。見冏驚起曰。坐禪人耳。彼人因謂左右曰。止向令知處而已。何忽勞屈法師。於是。禮拜執別。令人送冏還寺。扣門。良久方開。入寺見房猶閉。眾咸莫測其然。宋元嘉二十年。臨川康王義慶。携往廣陵。終於彼也。
釋道冏は、扶風郡の好濤という土地の出身である。もとの姓は馬氏。学問にすぐれ純真で、若い頃から名声があった。初めて出家したときは、道懿の弟子となった。道冏はもとより『法華経』を誦しており、ひたすらこの行いに専心していた。
元嘉二年九月、洛陽にいたとき、ある人のために普賢斎を修行した。その際、庭や門まわりを掃き清め、内外ともに清浄に整え、普賢菩薩の像を厳かに安置し、敬虔な心を込めて供養した。出家・在家あわせて四十人ほどが七日間修行し、いざ食事をとろうとしたそのとき、突然ひとりの人物が乗馬し、袴褶(かんこう:武官の略装)をつけて堂の前に乗り入れてきた。馬を下りて仏に礼拝したが、道冏はただの一般人と思い、特別に敬うことはしなかった。ところがその人物は、ふたたび馬に乗ると鞭をあおり、たちまち姿を消したかと思うと、一条の赤い光が空いっぱいに輝き渡り、しばらくしてから消えていった。
それから三年後の十二月、在家の家で再び普賢斎を修行した。その満行の前夜、二人の沙門が現れた。目つきは普通の人と変わらず、ただ来て仏に礼拝した。人々はただの僧だと思い、あまり敬わなかったが、軽く「どちらにお住まいですか」と尋ねると、「前の村に住んでいます」と答えた。そのとき在家の信者の中に張道という者がいて、その異様さに気づき、心から礼拝した。すると沙門は門を出て、数十歩ほど歩いたかと思うと、急に空へ舞い上がり、天に消えていった。僧はその後を見送ったが、どこへ行ったのかわからなかった。
その後、四人の学友とともに南の方の陽都に遊び、文化や風物を見聞した。夜に川を氷の上で渡ろうとしたが、途中で氷が割れ、三人は溺れ死んだ。道冏はひたすら観音に祈ったところ、足の下に何かが自分を押し上げているのを感じ、また赤い光が前方に現れた。その光に乗って岸にたどり着くことができた。
都に到着してからは南澗寺に住み、常に「般舟三昧(はんじゅざんまい)」を修行の中心とした。ある夜、禅を組んでいると、四人の者が車を引き連れて房の前に現れ、「車に乗れ」と呼んだ。道冏は知らず知らずのうちに、すでに自分の体が郡陵の沈橋という場所にいることに気づいた。そこには一人の人物が路上に胡床(こしょう)に座っており、何百人もの侍者がいた。その人物は道冏を見て驚いて立ち上がり、「ただの坐禅の人だ」と言い、側近に向かって「ただ場所を知らせればよかったのに、わざわざ法師にご足労いただくことはなかった」と言った。そして道冏に礼拝し、別れを告げると、人をやって寺まで送らせた。
寺の門を叩くと、しばらくしてようやく開いた。寺に入ると自分の房はまだ閉じたままであり、人々は誰もその不思議をどう解釈してよいかわからなかった。宋の元嘉二十年、臨川康王・義慶に連れられて広陵に向かったが、その地で命を終えた。
釋僧苞。京兆人。少在關。受業什公。宋永初中。遊北。徐入黃山精舍。於彼建三七日普賢齋。懺至十七日。有白鶴飛來。集普賢座前。至中行香畢乃去。至二十一日。又有黃衣四人。遶塔數匝。忽然不見。
釋僧苞という僧は、京兆(現在の西安あたり)の出身でした。若い頃、関中に滞在し、鳩摩羅什(くまらじゅう)師のもとで教えを受けました。宋の永初年間(420~422年)に北方へ遊学し、徐の国(現在の江蘇省北部)にある黄山精舎に入りました。そこで彼は、三七日(21日間)の普賢菩薩の斎(せい、祈りと修行)を設けました。
懺悔(さんげ、罪を悔い改める修行)を17日目まで続けた時、一羽の白い鶴が飛来し、普賢菩薩の前に着座しました。そして、昼の修行(行香、こうこう)が終わるまでそこに留まり、終わると去っていきました。21日目には、さらに黄色い衣をまとった4人の人物が現れ、塔の周りを数回巡り、突然姿を消したということです。
弘贊法華傳卷第一
弘贊法華伝 巻第一