弘贊法華傳卷第二
弘賛法華伝 巻第二
藍谷沙門惠詳撰
藍谷沙門恵詳撰
翻譯第二
第二
譯經真偽合十四人(真十偽四)譯論二人。
訳経(経典の翻訳)の真偽を確かめた者は十四人(真実十人、偽り四人)。また、翻訳に関する議論を行った者は二人でした。
- 魏外國釋正無畏
- 晉燉煌釋竺法護
- 東晉西域釋訶支
- 東晉釋支道根
- 偽秦天竺釋童壽
- 宋澋州釋智嚴
- 宋北涼河西王弟京聲
- 齊上林寺釋法獻
- 隋西域釋德志
- 唐西域釋法密
- 齊竟陵王蕭子良
- 梁大學博士江泌女
右二條非正經。
以下の二つの教えは、正しい経典として認められたものではありません。
- 古舊二錄失譯經
- 隋費長房注偽經
右二條疑偽。
右の二条は、疑わしく偽りである。
- 後魏西域沙門道希
- 後魏中天竺沙門寶意
法花三昧經六卷(一本加正字)
法華三昧経 六巻(一本は正字を加える)
右。外國沙門支疆梁接。魏言正無畏。以魏高貴卿公世甘露元年七月。於交州譯。沙門道馨筆受。無別廣傳經目云然。
ええ。外国の僧、支疆梁接(「正無畏」と漢訳する)は、魏の高貴卿公の時代、甘露元年七月に、交州でこの経典を翻訳しました。僧の道馨が筆記を担当しました。他の広く伝わる経典の目録にも、そのように記されています。
正法華經十卷
『正法華経』(全十巻)
右。沙門竺曇摩羅剎。此云法護。其先月氏人。本姓支氏。世居燉煌郡。年八歲出家。事外國沙門竺高座為師。誦經日萬言。過目即能。天性純懿。操行精苦。篤志好學。萬里尋師。是以。博覽六經。遊心七籍。雖世務毀譽。未甞介抱。是時晉武之世。寺廟圖像。雖崇京邑而方等深蘊在葱外。護乃慨然發憤。志弘大道。遂隨師至西域。遊歷諸國。外國異言。三十六種。書亦如之。護皆遍學。貫綜詁訓。音義字體。無不備識。遂大齎梵經。還歸中夏。自燉煌至長安。㳂路傳譯。寫為晉文。所譯賢劫正法花等。一百六十五部。孜孜所務。唯以弘道為業。終身寫譯。勞不告倦。經法所以廣流中夏者。護之力也。以西晉大康七年八月十日。護手執梵本。口宣出前經二十七品。優婆塞聶承遠。張仕明。張仲改。共筆受。九月二日訖。天竺沙門竺力。龜茲居士帛元信。共參校。元嘉元年二月六日重覆。又元康元年。長安孫伯虎虞世雅等。以四月十五日寫素訖。護後立寺於長安青門外。精勤行道。於是。德化遐布。聲蓋四遠。僧徒數千。咸所宗事。春秋七十有八。與門徒避地。東下至澠池。遘疾而卒。
沙門竺曇摩羅刹、漢名は法護といいます。その先祖は月氏の人で、本来の姓は支氏。代々敦煌郡に住んでいました。八歳で出家し、外国の沙門・竺高座を師としました。経典を一日に万言も誦し、一度見ただけで覚えることができました。天性は純粋で美しく、行いは真剣で苦行をいとわず、志を立てて学問を好み、万里の道を経て師を求めました。そのため六経を広く学び、七籍に心を遊ばせました。世間の毀誉褒貶にも、心を煩わされることはありませんでした。
当時は晋の武帝の時代で、寺や仏像は都では盛んでしたが、方等の深い教えは葱嶺の外にありました。そこで法護は慨然として心を奮い起こし、大きな志を持って大道を弘めようとしました。師に従って西域に行き、諸国を歴遊しました。外国の異なる言語(三十六種)、またその文字も同様に、法護はすべて学び、その訓詁、音義、字体に至るまで、ことごとく習得しました。そうして多くの梵語の経典を携えて、中華の地に帰ってきました。
敦煌から長安に至るまで、道すがら翻訳に努め、漢文に書き改めました。訳した経典は『賢劫経』『正法華経』など百六十五部に及びました。彼が努めたこと、それはただひたすらに道を弘めることであり、生涯をかけて翻訳と筆写に励み、労をいとわずに休むことを知りませんでした。経典の教えが中華に広く流布したのは、法護の力によるものです。
西晋の太康七年八月十日、法護は自ら梵本を手に取り、口述によって上記の経典二十七品を宣説しました。優婆塞の聶承遠、張仕明、張仲改が共に筆記し、九月二日に完成しました。天竺の沙門・竺力、亀茲の居士・帛元信が共に校合しました。元嘉元年二月六日に重ねて校合しました。また、元康元年には、長安の孫伯虎、虞世雅らが四月十五日に書き写し終えました。
その後、法護は長安の青門の外に寺を建立し、精進して修行に励みました。その徳化は遠くまで広がり、名声は四方に響き渡りました。僧徒は数千人に及び、皆が彼を敬い師と仰ぎました。七十八歳のとき、門弟と共に難を避けて東へ下り、澠池に至って病にかかり、そのまま生涯を終えました。
普門品經 光世音經
観音経(観世音菩薩普門品)
右二經。亦沙門法護別出。
右の二経も、沙門法護が別に出したものです。
普門品經
観音さまの智慧と慈悲についてのお経
右。東晉西域沙門祇多蜜。晉言訶支譯。與法護譯者。大同小異。
右。 東晋の頃、西域の僧ギータミトラ(晋の言葉でカジという)が訳したもので、法護(=竺法護)の訳と大きな違いはなく、細かい部分だけが異なっています。
方等法花經五卷
方等法華経 五巻
右。沙門支道根。東晉成帝咸康元年譯出。
承ります。沙門支道根が、東晋の成帝・咸康元年(335年)に翻訳し、世に出しました。
妙法蓮花經一部七卷
『妙法蓮華経』 全七巻
右。沙門鳩摩羅什。此云童壽。天竺人也。家世國相。什祖父達多。名重於國。父鳩摩炎。有懿節。避相位出家東度葱嶺。龜茲王聞其棄榮。甚敬慕之。自出郊迎。請為國師。王妹年始二十。才悟明敏。且體有赤黶。法生智子。諸國娉之。並不行。及見炎。心欲當之。乃逼以妻焉。既而懷什。什在胎。其母慧解倍常。聞雀梨大寺名德既多。又有得道之僧。即與王族貴女德行諸尼。彌日設供。請齊聽法。什母。忽自通天竺語。難問之辭。必窮淵致。眾咸歎之。有羅漢達麼瞿沙曰。此必懷智子。為說舍利弗在胎之證。及什生之後。復還忘前言。頃之。什母。樂欲出家。專精匪懈。學得初果。什年七歲。亦俱出家。從師受經。日誦千偈。偈有三十二字。凡三萬二千言。誦毘曇既過。師授其義。即自通達。於是。遍歷諸師。廣學經教。一聞能受。盡其隅奧。又外道經書。亦悉披覽。後什母謂什曰。方等深教。應大闡真丹。傳之東出。唯爾之力。尋與母別。苻堅建元十三年正月。太史奏云。有星見外圀分野。當有大德智人。入朝中國。堅曰。朕聞西域有鳩摩羅什。即遣使求之。未致而卒。及後秦姚興弘始三年九月。來儀至此。以其年十二月。與興相見。興待以國師之禮。甚見優寵。悟言相對。即淹留終日。斫微造盡。即窮年忘倦。自大法東被。始於漢明。涉歷魏晉。經論漸多。而支竺所出。多滯文格義。興少崇三寶。銳志講集。什既至止。仍請入西明閣。及逍遙園。譯出眾經。什。既率多諳誦。無不究盡。轉能漢言。音譯流便。既覽舊經。義多紕僻。皆由先度失旨。不與梵本相應。於是。興。使沙門僧䂮。僧遷。法欽。道流。道恒。道標。僧叡。僧肇等八百餘人。𧫎受什旨。弘始八年夏。於長安大寺。更集四方義學沙門二千餘人。譯出此經。又惠叡法師喻疑論曰。法花正本。於于填大國。揮光重壤。涌出空中。而得流此。司隷校尉左將軍安城侯姚崇。疑韻玄門。宅心世表。注誠斯典。為之傳寫。至今流布。又杯度比丘尼。不測人也。在彭城。聞什在長安。乃歎曰。吾與此子戲別。三百餘年。香然未期。遲有遇於來生耳。什未終少日。覺四大不愈。乃口出三番神呪。令外國弟子誦之。以自救。未及致力。轉覺危殆。於是。力疾與眾僧告別曰。因法相遇。殊未盡伊心。方復後世。惻愴可言。自以暗昧。謬充傳譯。若所傳無謬者。當使焚身之後。舌不燋爛。以偽秦弘始十一年八月二十日。卒於長安。是歲。晉義熙五年也。即於逍遙園。依外國法。以火焚尸。薪滅形碎。唯舌不灰。
舎利弗よ。沙門鳩摩羅什(くもうらじゅう)とは、この地で「童寿」と称される方で、天竺(インド)の出身である。その家系は代々国の宰相を務めており、祖父の達多(だった)は国中に名高い人物であった。父の鳩摩炎(くもうえん)は、美しい節操を持ち、宰相の地位を避けて出家し、葱嶺(パミール高原)を東へ越えた。亀茲(クチャ)の王は、彼が栄誉を捨てたことを聞き、深く敬慕し、自ら郊外まで出迎えて、国師に招いた。王の妹は二十歳で、才能と明晰さに優れ、さらに身体に赤いほくろがあり、これは「智者の子を生む」相とされていた。各国から求婚があったが、誰も受け入れなかった。しかし、鳩摩炎を見て心を惹かれ、無理やり妻にした。やがて鳩摩羅什を身ごもった。胎内にいるときから、母の智慧と理解力は常人をはるかに超えていた。雀梨大寺(じゃくりだいじ)に多くの名高い僧や悟りを得た僧がいることを聞き、王族の貴女や修行を積んだ尼僧たちと共に、一日中供養を設け、斎戒をして法を聴いた。すると、鳩摩羅什の母は突然天竺語を理解するようになり、難しい問答でも必ず深い真理に到達した。人々は皆これを讃えた。阿羅漢の達麼瞿沙(だつまくじゃ)が言った。「これは必ず智慧ある子を宿している証拠です。舎利弗が胎内にいたときの例と同じです」。そして鳩摩羅什が生まれると、彼女は以前の能力を再び失ってしまった。しばらくして、鳩摩羅什の母は出家を望み、専心精進して怠ることがなく、ついに初果(第一の悟りの段階)を得た。
鳩摩羅什は七歳で、母と共に出家した。師について経典を学び、一日に千偈(せんげ)を誦した。偈は三十二字からなり、合計三万二千字に及んだ。毘曇(阿毘達磨)を読み終えると、師がその意味を教えたが、鳩摩羅什はすぐに自ら悟りを得て理解した。こうして多くの師を巡り、広く経典や教えを学び、一度聞けばすべてを記憶し、その奥義を極めた。さらに外道の経典も残らず読破した。後に母が鳩摩羅什に言った。「方等(大乗)の深遠な教えは、真丹(中国)で大いに広めるべきです。東方に伝えるのは、あなたの力に頼るしかありません」。間もなく彼は母と別れた。
苻堅(ふけん)の建元十三年(西暦377年)正月、太史(天文官)が奏上した。「西域の星宿(せいしゅく)の分野に、一人の星が現れました。これは大徳の智ある人が、中国に入朝する前兆です」。苻堅は言った。「朕は西域に鳩摩羅什という者がいると聞いている」。すぐに使者を遣わして迎えようとしたが、到着する前に苻堅は亡くなってしまった。後秦(ごしん)の姚興(ようこう)の弘始三年(西暦401年)九月、鳩摩羅什はついに長安に到着した。その年十二月、姚興と対面した。姚興は彼を国師の礼で迎え、深く優遇した。彼らの対話は、一日中続くこともあった。微細な真理を論じ尽くし、年を経ても倦むことがなかった。
大法(仏教)が東方に伝わったのは、漢の明帝(めいてい)の時代からである。魏・晋の時代を経て、経典や論書は次第に増えたが、支謙(しけん)や竺法護(じくほうご)らの翻訳は、多くが難解な文や概念に留まっていた。姚興は若いころから三宝を敬い、熱心に講義や集まりを催していた。鳩摩羅什が到着すると、すぐに西明閣(せいめいかく)や逍遙園(しょうようえん)に招き入れ、多くの経典を翻訳させた。鳩摩羅什は多くの経典を暗誦しており、その意味を究め尽くしていた。さらに中国語にも通じ、翻訳は流暢であった。彼が古い翻訳を見ると、意味が歪んでいるものが多かった。これは以前の翻訳者が本来の意図を理解せず、サンスクリット原典と合っていなかったためである。そこで姚興は、僧璈(そうごう)、僧遷(そうせん)、法欽(ほうきん)、道流(どうる)、道恒(どうこう)、道標(どうひょう)、僧叡(そうえい)、僧肇(そうじょう)ら八百人以上の僧侶に、鳩摩羅什の指導のもとで翻訳に当たらせた。弘始八年(西暦406年)夏、長安の大寺において、さらに四方から義学(教学に秀でた)の僧二千人余りを集め、この経典(『法華経』)を翻訳した。
慧叡(えいえい)法師の『喻疑論』にはこうある。「『法華経(法花)』の正本は、于闐(ウテン)の大国で再び光を放ち、土の中から空中に湧き出て、ここに流布するに至った。司隷校尉(しれいこうい)左将軍安城侯姚崇(ようすう)は、玄妙な教えに心を寄せ、世俗を超えた境地に心を留め、この経典に深く帰依し、写経して後世に伝えた。今に至るまで流布している」。また杯度(はいど)比丘尼という、正体不明の人物が彭城(ほうじょう)にいた。鳩摩羅什が長安にいることを聞き、嘆いて言った。「私はこの方と戯れに別れてから、すでに三百余年が過ぎた。しかし、その香りは今も絶えず、来世に再会するのを待ち望むばかりだ」。
鳩摩羅什が亡くなる数日前、身体の四大(地・水・火・風)が調わず、不調を感じた。彼は三度、神呪(しんじゅ)を口に出し、外国人の弟子に唱えさせ、自らを救おうとした。しかし、効果が及ばないうちに、ますます危篤状態となった。そこで、病身をおして僧侶たちに告別して言った。「法の縁によって出会ったが、心の奥を話し尽くせなかった。来世を待つのは、まことに悲しいことだ。私は暗愚でありながら、誤って翻訳の任を務めてきた。もし私の伝えた教えに誤りがなければ、火葬の後に舌だけは焼けずに残るだろう」。偽秦(後秦)の弘始十一年(西暦409年)八月二十日、長安で亡くなった。この年は晋の義熙五年にあたる。逍遙園で、外国の方式に従い、火で遺体を焼いた。薪が燃え尽き、遺体は砕け散ったが、舌だけは灰にならなかった。
法花三昧經一卷
法華三昧経 一巻
右。涉法沙門智嚴。西涼州人。弱冠出家。便以精勤著名。衲衣宴坐。蔬食永歲。每欲博事名師。廣求經誥。遂周流西國。進到罽賓。入摩天陀羅精舍。從佛馱先比丘。諮受禪法。漸染三年。功踰十載。佛馱先。見其禪思有緒。特深器異。彼諸道俗。聞而歎曰。秦地乃有求道沙門矣。始不輕秦類。敬接遠人。時有佛馱跋陀比丘。亦是彼國禪匠。嚴乃要請東歸。欲傳法中土。跋陀嘉其懇至。遂共東行。於是。踰越沙險。達于關中。常依隨跋陀。止長安大寺。頃之。跋陀橫為秦僧所擯。嚴亦分散。憩于山東精舍。坐禪誦經。力精修學。義熙十三年。宋武帝。西伐長安。剋楗旋旆。途出山東。時。始興公王恢。從駕遊觀山川。至嚴精舍。見其同止三僧。各坐繩床。禪思湛然。恢至。良久不覺。於是彈指。三人開眼。俄而還閉。不與交言。恢心驚其奇。訪諸耆老。皆云。此三僧。隱居求志。高潔法師也。恢即啟宋武。延請還都。莫肯行者。既屢請慊至。二人推嚴隨行。恢道懷素篤。禮事甚殷。還都。即住始興寺。嚴。性虛靖。志避諠塵。恢。乃為於東郊之際。更起精舍。即枳園寺也。嚴前還於西域所得眾經。未及譯寫。到元嘉四年。乃共沙門寶雲。譯出前經。嚴。清素寡欲。隨受隨施。少而遊方。無所滯著。稟性冲退。不自陳敘。故雖多美行。世無得而盡傳。嚴昔未出家時。甞受五戒。有所虧犯。後入道受具足。常疑不得戒。每以為懼。積年禪觀。而不能自了。遂更汎海。重到天竺。諮諸明達。遇羅漢比丘。具以事問。羅漢不決。乃為嚴入定。往兜率宮。諮啟彌勒。彌勒答云。得戒。嚴大喜躍。於是步歸。行至罽賓。無疾而化。時年七十八。彼國法。凡聖燒身各處。嚴。雖戒操高明。而實行未辯。始移尸。向凡僧墓地。而尸重不起。改向聖墓。即飄然自輕。嚴弟子智羽智遠。故從西來。報此徵瑞。俱還外國。以比推。嚴。信是得道人也。
智厳という、修行に励む沙門がいた。西涼州の出身で、若くして出家し、精進と勤勉で名を馳せた。彼はぼろ布の衣をまとい、静かに座禅を組み、粗食で生涯を過ごした。いつも名高い師のもとで学び、多くの経典を求めて諸国を巡り、西域を経て罽賓(カシミール)に至った。摩天陀羅精舎に入り、仏馱先(ブッダセーナ)比丘から禅の教えを授かり、三年間その指導を受けて、十年分にも勝る成果を得た。
仏馱先は、彼の禅の修行が確かな道筋を辿っているのを見て、非常に特別に評価した。土地の僧侶や在家の人々もこれを聞いて、「秦の地(中国)にも、悟りを求める沙門がいたのだな」と感嘆し、もはや秦の人々を軽んじることはなく、遠くから来た人々を敬って迎え入れるようになった。
当時、仏馱跋陀(ブッダバドラ)という比丘もこの国の禅の達人であり、智厳は彼を招いて東へ帰り、仏法を中国に広めようと願った。跋陀はその誠実な願いを喜び、共に東へ向かった。こうして砂漠の危険を越え、関中に到着した。智厳は常に跋陀に従い、長安の大寺に留まった。
しばらくして、跋陀が不当にも秦の僧侶たちに追放されるという事件が起き、智厳も離れ離れになり、山東の精舎に落ち着いた。そこで座禅と読経に励み、修行に専念した。
義熙十三年、宋の武帝が長安を西征し、勝利して帰途についた際、山東を通りかかった。その時、始興公の王恢が武帝に従い、山や川を遊覧していた。智厳の精舎に立ち寄ると、三人の僧がそれぞれの座禅用の椅子に座り、深い禅定に没入していた。恢が近づいてもしばらく気づかず、恢が指を弾くと三人は目を開けたが、すぐに再び閉じて一言も交わそうとしなかった。
恢はその不思議な様子に心を打たれ、地元の長老たちに尋ねると、皆が口を揃えて「この三人の僧は、世を避けて志を貫く高潔な法師です」と答えた。恢はすぐに武帝に報告し、彼らを都に招こうとしたが、誰も行こうとしなかった。何度も誠心誠意の依頼を重ねた結果、ようやく二人が智厳を推して同行させた。恢は仏道への志が篤く、智厳を非常に丁重に扱った。
都に戻ると、智厳は始興寺に住んだ。彼の性質は穏やかで静かであり、喧噪を避けることを志としていた。そこで恢は東郊に新しい精舎を建てた。これが枳園寺である。智厳が以前に西域から持ち帰った多くの経典は、まだ翻訳されていなかった。元嘉四年になって、ようやく沙門の宝雲と共にそれらの経典を翻訳した。
智厳は清らかで質素な生活を送り、欲が少なく、布施を受けるとすぐにまた施しを行った。若い頃から旅を続け、何事にも執着しなかった。その性格は穏やかで控えめであり、自分の業績を語ることはなかった。そのため、多くの優れた行いがありながらも、世に完全に伝わることはなかった。
智厳がまだ出家する前、五戒を受けていたが、それを破ってしまったことがあった。後に出家して具足戒を受けた後も、本当に戒を得られたのかどうか疑問に思い、常にそれを恐れていた。長年にわたって禅観を続けたが、自分では解決できなかった。そこで再び海を渡って天竺(インド)に行き、明らかな悟りを持つ人々に尋ねることにした。そこで羅漢(阿羅漢)の比丘に出会い、この疑問を詳しく尋ねた。羅漢も判断できず、智厳のために禅定に入り、兜率天の弥勒菩薩のもとへ向かい、質問を取り次いだ。弥勒菩薩は「戒は得られている」と答えた。智厳は大喜びし、歩いて帰国することにした。罽賓に着いた時、病気もなく亡くなった。その時、七十八歳であった。
その国の習慣では、凡夫と聖者では火葬の場所が異なっていた。智厳は戒律の修行は優れていたが、その実践がまだ完全かどうかは明らかではなかった。遺体を凡僧の墓地に移そうとしたが、重くて動かなかった。聖者の墓地に向けると、まるで風に舞うように軽くなった。智厳の弟子である智羽と智遠は、西域から来てこの不思議な現象を報告し、共に外国へ戻った。このことから、智厳は確かに悟りを得た人であったと信じられている。
觀世音經
観世音経
右。宋孝武世。北涼河西王涅沮渠蒙遜從弟。安陽侯京聲。屬涼運告終。為元魏所滅。京聲。竄[穴/偶]南奔建康。晦志畢身。不交人事。常遊止塔寺。以居士自畢。絕妻拏。淡榮利。縱容法侶。宣布正教。是以。白黑咸加敬焉。譯出前經。
宋の孝武帝の時代、北涼の河西王・沮渠蒙遜の従弟である安陽侯・京声という僧がいた。涼の運命が尽きて元魏に滅ぼされるにあたり、京声は南方の建康に逃げ延びた。彼は志を隠して生涯を終え、俗世との交わりを持たなかった。いつも塔や寺に滞在し、居士として生涯を送り、妻や子供を絶ち、名利に淡白で、仏法の仲間と共にゆったりと過ごし、正しい教えを説き広めた。そのため、僧侶も在家も皆、彼を敬った。彼が先の経典を翻訳したのである。
妙法蓮花經提婆達多品
法華経 提婆達多品
右。沙門法獻。姓徐。西海延水人。先隨舅至梁州。仍出家。至元嘉十六年。方下京師。止定林上寺。傳通經律。志業強捍。善能住極。眾計修葺寺宇。先聞猛公西遊。備矚靈異。乃誓欲忘身往觀聖迹。以宋元微三年。發踵金陵。西遊巴蜀。路出河南。道經苪苪。既到于闐。欲度葱嶺。棧道斷絕。遂於于闐而返。獲此前品。於是而還。其經途危阻。具諸別記。獻以齊武帝永明年中。遇外國三藏法師達摩摩提。齊云法意。於楊州瓦官寺。譯出獻時為僧主。以建武末年卒。春秋七十有五。
右は、沙門法献。姓は徐、西海延水の人。初めに叔父に従って梁州に至り、そのまま出家した。元嘉十六年に至って、ようやく都に下り、定林上寺に住んだ。経典と律に通じ、意志は強く、非常によく極めることができた。人々は寺の修繕や建立を計画した。先に猛公が西方へ遊学し、霊妙な奇跡をたくさん目にしたと聞き、自らの身を忘れて聖なる足跡を訪れようと誓った。宋の元微三年、金陵を出発し、西方の巴蜀へ遊学した。道は河南を通り、国境を越え、やがて于闐に至った。葱嶺を越えようとしたが、桟道が断絶していたため、于闐で引き返した。そしてこの前の品を得て、ここに帰還した。その旅路の険しさや困難は、別の記録に詳しい。献は、斉の武帝の永明年間、外国の三蔵法師・達摩摩提(斉で法意と訳す)に出会った。揚州の瓦官寺で翻訳が行われ、献はその時、僧主であった。建武の末年、亡くなった。年は七十五であった。
妙法蓮花經普門品重誦偈
妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 重誦の偈
右。沙門闍那崛多。隨云德志。北賢豆楗陀羅國人也。隨云香行國焉。崛多。昆季五人。身居最小。宿植德本。早發道心。適在齠齔。便願出家。二親深識其度。不違所請。本國有寺。名曰大林。遂往歸投。因蒙度脫。崛多。自出家後。孝敬專誠。承誨積年。指歸通觀。二十有七。隨師弘法。以周明帝武成年初。屆長安。止草堂寺。師徒遊化。已果來心。更登淨壇。再受具足。會譙王字文險鎮蜀。復請同行。於彼三年。任盆州僧主。在龍淵寺。譯出前偈。沙門圓明筆受。建德隳運。像教不弘。五眾一朝同斯俗眼。武帝禮之。下勅追入京輦。重加爵祿。逼從儒服。崛多。秉操鏗然。守死無懼。帝愍其貞高。哀而放歸。路出甘州。北由突厥。乃為突厥所留。至開皇五年。大興善寺沙門曇延等三十餘人。以躬當翻譯。音義乖越。承崛多在北。乃奏勅請還。帝依然順許。遣使延訪崛多。西歸已絕。流滯十年。深思明世重遇三寶。忽蒙遠訪。欣願交并。即與使乎。同來入國。于時。文帝巡幸洛陽。於彼奉謁。天子大悅。賜問頻仍。未還京闕。尋勅敷譯。與沙門僧休法粲等。更出眾經。隋滕王。遵仰戒範。奉以為師。因事塵染。流擯東越。又在甌閩。道聲載露。身心兩救。為益極多。至開皇二十年。便從物故。春秋七十有八。
(訳注:沙門闍那崛多は、意訳すれば「徳の志」という。北インドのガンダーラ国の出身で、またの名を香行国という。闍那崛多は五兄弟の末っ子で、生まれつき善根を積み、早くから道心が芽生えた。幼い頃から出家を願い出て、両親もその志を深く理解し、願いを妨げなかった。母国には大林寺という寺があり、そこに参じて帰依し、ついに出家の志を遂げた。出家後は孝養に励み、誠実で専一に師の教えを長年受け、その奥義を習得した。二十七歳の時、師と共に弘法のため、北周の明帝・武成年の初めに長安に到着し、草堂寺に住んだ。師弟ともに遊行して教化し、来たるべき心願を果たし、さらに清らかな戒壇に登り、再び具足戒を受けた。ちょうど譙王の宇文険が蜀を鎮撫する際に、またも同行を請われ、そこで三年間、益州の僧主を務め、龍淵寺において、前の偈を翻訳した。沙門の円明が筆受した。建徳の年、法難が起こり、像教(仏教)は衰えた。五衆(出家者)は一時に世俗の目にさらされた。武帝は彼を礼し、勅命を下して都に召し出し、重ねて爵位や俸禄を与え、儒服の着用を強いた。しかし、闍那崛多は節操を堅く守り、死をも恐れなかった。帝はその高潔な貞節を哀れみ、慈悲をもって放免した。彼は甘州を経て、北へ突厥に向かったが、突厥に留められた。開皇五年、大興善寺の沙門曇延ら三十余人は、自ら翻訳に携わったが、音律や意味に齟齬が生じていた。闍那崛多が北にいることを聞き、奏上して勅命を請い、彼を呼び戻した。文帝はその願いを聞き入れ、使者を遣わして訪ね求めた。闍那崛多は西へ帰る道が絶え、十年もの間、流謫の身だったが、明世に三宝に再び巡り合えることを深く願っていた。突然、遠方から訪ねて来る者が現れ、喜びと願いが一つになり、すぐに使者と共に中国に戻った。その時、文帝は洛陽に行幸しており、そこで拝謁した。天子は大いに喜び、度々恩賜の問いかけがあった。都に戻る前に、すぐに翻訳の勅命が下り、沙門の僧休・法粲らと共に、さらに多くの経典を翻訳した。隋の滕王は、その戒律と模範を敬い、師と仰いだ。しかし、ある事件に連座して東越に流され、さらに甌閩に流されたが、その地で名声と徳が広く知られ、心身の救済に尽力し、多くの利益をもたらした。開皇二十年、ついに世を去った。春秋七十八歳であった。)
妙法蓮華經藥草喻品。加五紙諸呪並異
妙法蓮華経 薬草喩品。五紙追加。諸咒は別。
右。沙門達摩笈多。隋云法密。南賢豆羅囉國人也。剎帝利種。姓弊邪伽囉。此云虎氏。有弟四人。身居長子。父母留戀。不聽出家。然以篤愛法門。深願離俗。年二十三。往中賢豆。方得落髮。笈多受具足後。仍經三年。就師學問。師之所得。略窺戶牖。於是。歷諸大小乘國。及以僧寺。聞見倍多。後聞支那大國。三寶興盛。同侶一心。屬意來此。既至伊吾。便停一載。值難。避地西南。路純砂磧。水草俱乏。同侶相顧。性命莫投。乃以所齎經論。權置道旁。越山求水。冀以存濟。求既不遂。勞弊轉增。專誦觀世音呪。夜雨忽降。身心充悅。尋還本途四顧茫然。方道迷失。踟蹰進退。乃任前行。遂達于爪州。方知曲取北路之道也。笈多。遠慕大國。跋涉積年。初契同徒。或留或歿。獨顧單影屆斯地。勝靜意思之。悲喜交集。尋蒙帝旨。延入京城。處之名寺。供給豐渥。即開皇十年冬十月也。至止未久。華言略悉。又奉別勅。令就翻經。住興善寺。執本對譯。允正寔繁。所誦大小乘論。並是深要。至於宣解。大弘微旨。此方舊學。頻遣積疑。煬帝定鼎東都。敬重隆厚。至於佛法。彌增崇樹。乃下勅。於洛水南濱上林園內。置翻經館。搜舉翹秀。永鎮傳法。登即下勅。徵笈多并諸學士。並預集焉。與沙門彥琮。增翻前品。至武德二年。終于洛汭。
沙門達摩笈多(隋の時代に「法密」と呼ばれました)は、南インドの羅囉国出身の人です。クシャトリヤ(武士・王族)の種族で、姓は弊邪伽羅(虎氏)といいました。四人の弟がおり、彼は長男でした。両親は彼に愛情を抱き、出家を許しませんでした。しかし、彼は仏法への深い敬愛と世俗を離れたいという強い願いを持っていました。二十三歳の時、中央インドへ赴き、ようやく剃髪して僧となりました。笈多は具足戒を受けた後、さらに三年間、師について学問を修めました。師の得た教えを、少しではありますが学び取りました。そこで大小乗の様々な国や僧寺を巡り、見聞はさらに広がりました。その後、中国が大国であり、三宝(仏・法・僧)が盛んであると聞き、志を同じくする者たちと心を一つにして、この地へ来ることを決意しました。伊吾(現在の新疆ウイグル自治区哈密)に到着して一年ほど滞在しましたが、困難な状況に遭い、避難のため西南へ向かいました。道は砂漠ばかりで、水も草も乏しく、仲間たちは互いに見つめ合い、命の危機を感じました。そこで持参していた経論を道端に仮に置き、山を越えて水を求め、何とか生き延びようとしました。しかし水は得られず、疲労と困難はさらに増すばかりでした。一心に観世音の呪文を唱えると、夜になって突然雨が降り、心身ともに喜びに満たされました。やがて元の道に戻りましたが、四方を見渡しても何も見えず、道を見失ってしまいました。進むに進めず、立ち止まりましたが、そのまま前へ進むことにしました。そして瓜州にたどり着き、はじめて北への道を誤っていたことに気づきました。笈多は遠く中国を慕い、長年旅を続けてきました。当初志を共にした仲間たちは、留まる者もいれば、亡くなる者もいました。ただ一人、影を伴うようにしてこの地にたどり着きました。勝静(僧の名)がその思いを推し量ると、喜びと悲しみが入り混じったようでした。やがて皇帝の命により、都に招かれました。名高い寺に住まわせ、供養は豊かで手厚いものでした。それは開皇十年(西暦590年)の冬十月のことです。到着して間もなく、中国語もおおむね理解するようになりました。さらに別の勅命により、翻訳事業に参加することとなりました。興善寺に住み、原典を手に翻訳にあたり、その正確さと適切さは群を抜いていました。彼が誦持していた大小乗の論は、いずれも深遠で重要なものであり、それを解説する際には、その微細な奥義を大いに広めました。この国の古くからの学僧たちも、長年の疑問を次々と解消することができました。煬帝が東都(洛陽)に都を定めると、彼への敬意は一層厚くなりました。仏法に対しては、さらに高め、崇拝するようになりました。そこで勅命を下し、洛水の南岸、上林園の内に翻経館を設け、優れた人材を集め、永遠に法を伝えることとしました。すぐに勅命が下り、笈多と多くの学者たちがこの事業に集められました。沙門彦琮と共に、以前の翻訳の一部を増補しました。武徳二年(西暦619年)、洛陽で亡くなりました。
抄妙法蓮花經 抄法花藥王經
『妙法蓮華経』を写経する 『法華経 薬王品』を写す
右。南齊司徒竟陵王文宣公蕭子良者。崇仰釋宗。深達至教。注釋經論。抄略詞理。掩邪道而闢正津。弘一乘而揚七眾。世稱筆海。時號智山。或通夢於獨尊。諡天王之嘉稱。或宣授於經唄。傳神度之英規。其德難詳。輒從蓋闕。抄略前經。以備在左右。
はい。南斉の司徒・竟陵文宣公、蕭子良は、仏教を深く信仰し、その最高の教えを徹底的に理解していました。経典や論書に注釈を加え、その内容を簡潔にまとめ、邪な道を閉ざして正しい道へ導き、一乗の教えを広め、七衆の修行を推進しました。世の人々は彼を「筆海」と称し、当時は「智山」と呼ばれました。ある時には独尊(釈迦牟尼仏)から夢の中でお告げを受け、「天王」という尊称を賜りました。また、経典の読誦法を広く伝え、神聖な救済の優れた規範を後世に残しました。彼の功績の素晴らしさは、書き尽くせないほどであり、ここではその一部を述べるに留めます。先人の経典を要約し、常に身近に置いて活用できるようにしたものです。
法花經一卷
『法華経』(全一巻)
右。梁太學博士江泌女。小而出家。名僧法。年八九歲。有時靜坐閉目。誦出前經。楊州道俗。咸稱神授。費長房云。驗於經論。斯理皎然。是宿習來。非關神授。且據外典。天子有云。生而知者聖。學而知者次。此局談今生。昧於過往耳。若不爾者。何以得辯內外賢聖。淺深過現乎。故。高僧傳云。釋曇諦者。俗姓康氏。其先康居人。漢靈帝時。移附中國。獻帝末亂。移止吳興。諦父𭛓。甞為冀州別駕。母黃氏。晝眠。夢見一僧呼黃為母。寄一麈尾并鐵鏤書鎮。黃既眠覺。見二物具存。私密異之。因而懷孕生諦。諦年五歲。母以麈尾等弄示之。諦曰。秦王所餉。母曰。汝置何處。答曰。不憶。至年十歲出家。學不從師。悟自天發。此即其事矣。後隨父。之燓鄧。遇見關中僧䂮道人。忽然喚䂮。䂮曰。童子何以呼宿士名。諦曰。阿上本是諦沙彌。會為眾僧採菜。被野猪所傷。不覺失聲耳。今何忘耶。然。僧䂮經為弘覺法師弟子。為僧採菜。被野猪所傷。䂮初不憶此。乃詣諦父。諦父具說諦生本末。并示䂮書鎮麈尾等。䂮乃悟而泣曰。即䂮先師弘覺法師也。而經為姚萇講法華。貧道為都講。姚萇餉師二物。今遂在此。追計弘覺捨命。正是寄物之日。復憶採菜之事。彌增悲悼。諦後遊學內外。過目斯記。晚入吳虎丘山寺。講禮易春秋。各七遍。法花大品維摩。各十五遍。又善屬文翰。有集六卷。盛行於世。年六十餘終。宋元嘉末年也。費長房曰。弘覺法師弟子僧䂮。師徒匠導。名重二秦。什物三衣。亦復何限。唯書鎮麈尾。保惜在懷。及移識託生。此之二物。遂得同往。神外質礙之像。尚得相隨。況心內慮知之法。而不憶念。所以鏡瑩轉明。刃砥彌利。渧聚為海。塵積成山。世世習而踰增。生生學而益廣。近𰺰初始之月。終至十五團圓。捨人還受人。即是次生事。憶而不忘。其神功乎。閉目靜思。自是女人情弱。讀誦相續。豈非前身時諷。而論神授。何乃愚瞽。昧智慧之道乎。
右は、梁の太学博士・江泌の娘である。幼くして出家し、僧法と名乗った。年は八九歳で、時に静かに坐り目を閉じて、前に読んだ経を誦出した。揚州の僧俗はみな神授と称えた。費長房が言うには、「経論に照らせば、この道理は明らかである。これは過去世からの習慣であって、神の授けによるものではない。また外典によれば、天子が『生まれながらにして知る者は聖人、学んで知る者はその次である』と言ったが、これは今生に限った話であり、過去世のことには暗いのである。そうでなければ、どうして内外の賢聖や、浅深・過現を弁別できようか。ゆえに『高僧伝』に、『釋曇諦は、俗姓は康氏。その祖先は康居の人である。漢の霊帝の時に中国に移り住み、献帝の末年に乱を避けて呉興に移った。諦の父は𭛓といい、かつて冀州の別駕を務めた。母の黄氏は昼寝をしていて、一人の僧が黄を呼んで母とし、一つの麈尾と鉄でできた文鎮を預けた夢を見た。黄が目覚めると二つの品が確かにあり、密かに不思議に思って妊娠し、諦を産んだ。諦が五歳の時、母が麈尾などを遊びに差し出すと、諦は「これは秦王から贈られたものです」と言った。母が「どこに置いたのか」と尋ねると、「覚えていません」と答えた。十歳で出家し、師につかず学び、悟りは天から自然に発した。これがその事実である。後に父について燉煌に行き、関中の僧𮗙道人に出会った。突然𮗙と呼ぶので、𮗙が「童子よ、なぜ宿老の名を呼ぶのか」と言うと、諦は「阿上はもと諦の沙弥であり、かつて衆僧のために菜を採っていて野猪に傷つけられ、思わず声を上げたのです。今どうして忘れたのですか」と言った。ところが、僧𮗙はかつて弘覚法師の弟子であり、僧のために菜を採っていて野猪に傷つけられたことを、初めは覚えていなかった。そこで諦の父のもとに行き、父が詳しく諦の出生の経緯を話し、文鎮や麈尾などを見せた。𮗙は悟って泣きながら、「これは私の先師・弘覚法師です」と言った。かつて姚萇のために法華経を講じ、私が都講を務めたとき、姚萇が師に二品を贈ったのです。今ここにあります。今、弘覚の命の終わりを数えると、品物を預けた日と重なります。菜を採ったことも思い出し、悲しみはさらに増しました」と言った。諦は後に内外の学問を遊学し、一度見れば覚えた。晩年は呉の虎丘山寺に入り、礼・易・春秋をそれぞれ七回、法華・大品・維摩をそれぞれ十五回講じた。また文章をよくし、六巻の文集があり、世に行われた。六十歳余りで亡くなった。宋の元嘉の末年である。費長房が言うには、「弘覚法師の弟子・僧𮗙は、師弟ともに導きを巧みにし、二秦で名を馳せた。什物や三衣も数限りないが、特に文鎮と麈尾を大切に懐にしまっていた。そして意識が生まれ変わるとき、この二品も共に来たのである。外の質に礙われた像でさえもなお共に従うのだから、ましてや心内の思慮分別の法が、記憶しないわけがあろうか。それは鏡を磨けばますます明らかになり、刃を砥げば一層鋭くなるように、滴が集まって海となり、塵が積もって山となるようなものである。世々習いを重ねてますます増し、生生学んで益々広がる。月の初めの一筋から始まり十五夜の満月に到り、人を捨てて人を受ける、すなわち次の生の事柄を思い出して忘れないのは、その神通の力によるものである。目を閉じて静かに思うのは、ただ女人の情が弱いからに過ぎない。読誦が絶えないのは、どうして前世の時に諷誦したからではないのか。神授だと論ずるのは、何と愚鈍で目の見えぬことか。智慧の道に暗いのだ」と。
法花光瑞菩薩現壽經
法華経の光り輝く瑞相によって、菩薩の寿命が現れる経典
右。出古舊二錄。云失譯。
右。古訳と旧訳の二つの目録に出ており、原作者不明とされています。
妙法蓮花度量天地經
妙法蓮華、天地をはかる経
妙法蓮花天地變異經
『妙法蓮華経 天地変異の経』
右二經。隋費長房三寶錄注偽。
この二つの経典は、隋の費長房が編集した『三宝録』において、偽経と注記されています。
妙法蓮花經論二卷
法華経の教えをまとめた二巻の書
右。西域沙門菩提流支。魏云道希。北天竺人也。遍通三藏。妙入總持。志在弘法。廣流視聽。遂狹道宵征。遠莅葱左。以魏永平之初。來遊東夏。宣武皇帝。下勅引勞。供擬殷贍。處之永寧大寺。四事供給。七百梵僧。勅以流支。為譯經之元匠也。譯出前論。沙門曇林筆受。其流支房內。經論梵本。可有萬甲。所翻新文。筆受蒿本。滿一間屋。然其慧解。與勒那相亞。而神悟聰敏。洞善方言。兼工呪術。即無抗衡矣。甞坐井口。澡灌內空弟子未來。無人汲水。流支乃操柳枝。聊撝井中。密密加誦呪。纔始數遍。泉水上涌。及乎井欄。即以鉢酌。用之盥洗。傍僧具見。莫測其神。流支曰。斯乃術法。外國共行。此方不習。謂為聖也。
西のかた、西域の沙門・菩提流支は、魏の国で「道希」と呼ばれた。北天竺の出身である。三蔵に広く通じ、陀羅尼を深く体得していた。その志は法を弘め、多くの人々の耳目に広く届けることにあった。そこで彼は狭い道を夜通し旅し、遠くパミール高原の西に至った。 魏の永平年間の初め、東の夏の国に遊学しに来た。宣武皇帝は勅命を下して招き、労いをもてなし、供養の品々は豊かに備えられた。彼を永寧大寺に住まわせ、四つの物資を給与し、七百人の梵僧を置いた。そして勅命により、流支を訳経の最高の匠としたのである。 彼は前述の論を翻訳し、沙門の曇林が筆記した。流支の部屋の中には、経や論の梵本が約一万巻もあったという。翻訳した新しい文や、筆受の下書きは、部屋一室を満たすほどであった。 その智慧と見解は勒那に並ぶものであった。しかし、神がかり的な悟りと聡明さ、方言への深い理解、そして呪術に巧みであることは、比べる者がいなかった。 かつて彼が井戸のそばに座っていたとき、洗面器の中は空で、弟子たちはまだ来ず、水を汲む者もいなかった。そこで流支は柳の枝を手に取り、井戸の中を軽くかき回し、密かに呪を唱えた。わずか数回繰り返すと、清水が湧き上がり、井戸の縁にまで達した。すぐに鉢で水をくみ、手を洗った。そばにいた僧たちは皆これを見て、その神通のほどを測り知ることができなかった。流支は言った。「これはただの術法である。外国では普通に行われている。この国では慣れないため、聖なるものだと思っているのだ」と。
妙法蓮花經論一卷
妙法蓮華経論 一巻
右。中天竺僧勒那摩提。魏云寶意。博贍之富。理事兼通。誦一億偈。偈有三十二字。尤明禪法。意存遊化。以正始五年。初屆洛邑。與菩提流支。同於洛陽內殿翻譯。其後。二德各傳師習。不相詢訪。帝以弘法之盛。略敘曲煩。勅令別處各翻。翻訖。乃參校。其間隱沒。互有不同。勒那所翻。侍中崔光筆受。勒那。後為天帝請講花嚴。於法座奄然而卒。都講僧等。亦同時殞。魏境聞見。無不嗟美。
右。中天竺の僧、勒那摩提(魏にて寶意と云う)は、博識で富み、理と事の両方に通じていた。一億偈を誦し、一偈は三十二字から成る。特に禅法に明るく、遊化(人々を教え導くために旅すること)を志していた。 正始五年、初めて洛邑に到り、菩提流支と共に洛陽の内殿で翻訳を行った。その後、この二人の徳者は各々自らの師の教えを伝え、互いに相談することはなかった。 帝は弘法の盛んさをもって、細かい事情を簡略に述べ、別々の場所で翻訳するよう命じた。翻訳が終わった後、比較照合したところ、その間で隠れ落ちた箇所があり、互いに異なるところがあった。 勒那が翻訳したものは、侍中崔光が筆受(書き取ること)を担当した。勒那は後に天帝に請われて『華嚴経』を講じ、法座にて突然に亡くなった。都講の僧たちも同時に命を落とした。魏の国中で見聞きした者は、皆これを嘆き称えない者はなかった。
弘贊法花傳卷第二
弘贊法華伝 巻第二