弘贊法華傳卷第三
弘法華経伝 第三巻
藍谷沙門慧詳撰
藍谷沙門慧詳撰
講解第三
解説第三
- 唐京師日嚴寺釋吉藏
- 唐天台山國清寺釋灌頂
- 唐牛頭山幽棲寺釋法融
- 唐武丘山寺釋智琰
- 唐襄陽耆闍寺釋智技
- 唐藍田山悟真寺釋慧遠
- 唐牛頭山釋智通
- 唐左㒒射宋國公蕭瑀
- 唐海虞山釋慧旻
- 唐新羅國釋緣光
- 唐蘇州流水寺釋玄璧
- 唐同州戒業寺釋智儼
更有三十三人。錄名居後。亦有造疏。
さらに三十三人がおり、名を記録して後に置く。また注釈を著した者もいる。
釋吉藏。俗姓安本。安本安息人也。祖世避仇。移居南海。因遂家于交廣之間。後遷金陵。而生藏焉。年在孩童。父引之。見於真諦。仍乞詺之。因名吉藏。其父將藏聽皇寺道朗法師講。隨聞領解。悟若天真。年至七歲。投朗出家。採涉玄猷。日新幽致。凡所諮稟。妙達指歸。論難所標。獨高倫次。詞吐贍逸。弘裕多奇。至年十九。處眾覆述。精辯鋒遊。酬接時彥。綽有餘美。進譽楊邑。有光學眾。具戒之後。聲聞轉高。開皇末歲。煬帝晉蕃置四道場。國司供給。以藏名解著功。召入慧日。禮事豐厚。優賞異倫。王又於京師。置日嚴寺。別教延藏往彼居之。然。京師欣尚。妙重法華。乃因其利即而開剖。晚以大業初歲。寫二千部法華。隋曆告終。造二十五尊像。捨房安置。自處卑室。昏曉相仍。竭誠禮懺。又別置普賢菩薩像。帳設如前。躬對坐禪。觀實相理。鎮累年紀。不替於終。藏年氣漸衰。屢增疾苦。勅賜良藥。中使相尋。遺表慇懃。累以大法。至于清旦。索湯沐浴。著新淨衣。侍者燒香。令稱佛號。藏加坐儼思。如有喜色。齋時將及。奄然而化。春秋七十有五。即武德六年五月也。遺命露骸。而色逾鮮白。有勅慰賻。令於南山。覓石龕安置。凡講法花。三百餘遍。亦著玄疏。盛流於世。及將終日。製死不怖論。落筆而卒。
吉蔵は、俗姓は安本。安本は安息国の人である。祖父の代に仇を避けて南海に移り住み、交州と広州の間に家を定めた。後に金陵に移り、そこで吉蔵が生まれた。幼い頃、父に連れられて真諦に会い、名付けを乞うた。そこで吉蔵と名付けられた。
父は吉蔵を連れて皇寺の道朗法師の講義を聴きに行った。吉蔵は聞いたことをすぐに理解し、天真爛漫な悟りを得た。七歳の時、道朗のもとで出家した。玄妙な教えを探求し、日々新たな深遠な境地に至った。師に尋ねるたびに、その真意を的確に理解し、論難では常に群を抜いていた。言葉は豊かで優雅、広く深く、多くの奇抜な見解を示した。
十九歳の時、大衆の前で講義を再説し、鋭い弁舌で縦横無尽に論じ、当代の俊英たちと応対しても余裕を見せた。その評判は揚州に広まり、学僧たちの光となった。具足戒を受けた後、その名声はさらに高まった。
開皇の末年、煬帝が晋王として四道場を設け、国司が供給した時、吉蔵の名声と功績が認められ、慧日寺に召し出された。礼遇は厚く、特別な賞を与えられた。王はまた京師に日嚴寺を建立し、特に吉蔵を招いて住まわせた。
当時、京師では『法華経』が尊ばれていたため、吉蔵はその利点を生かして経典を解説した。晩年、大業の初年に『法華経』二千部を写経し、隋が滅びる時には二十五尊の像を造り、自らの房を供えて安置し、自分は粗末な部屋に移った。朝夕、誠を尽くして礼拝懺悔した。また別に普賢菩薩像を設け、同じように帳を垂らし、自ら向かい合って坐禅し、実相の理を観じた。長年にわたり、終始変わることなく続けた。
吉蔵は年を重ねるにつれ、次第に病に苦しむようになった。勅命によって良薬が賜られ、使いの者が絶えず訪れた。遺表には大法への思いが切々と記されていた。ある朝、湯を求めて沐浴し、新しい清浄な衣を着た。侍者が香を焚き、仏号を唱える中、吉蔵は端坐して深く思惟し、喜びの色を浮かべていた。午前の食事時が近づく頃、静かに息を引き取った。享年七十五。武徳六年五月のことである。
遺言により遺骸は野外にさらされたが、その顔色はますます白く鮮やかであった。勅命によって弔いの品が賜られ、南山に石龕を求めて安置された。『法華経』の講義は三百回以上に及び、『玄疏』を著して世に広く流布した。臨終の日、『死不怖論』を書き上げ、筆を置くと同時に逝去した。
釋灌頂。字法雲。俗姓吳氏。常州義興人也。祖世避地東甌。因而不返。今為臨海之章安焉。父天早去。母親鞠養。生甫三月。孩而欲名。思審物類未知所目。母夜稱佛法僧名。頂仍口斆。音句清辯。同共驚異。因告攝靜寺慧極法師。聞而歎曰。此子非凡。即以非凡為字。及年七歲。還為極公弟子。日進文詞。玄儒並驚。清藻才綺。即譽當時。年登二十。進具奉儀。德瓶油鉢。彌所留思。泊極師厭世。沐道天台。承習定綱。因有虧緒。俄隨智者東旋。止于台岳。晚出稱心精舍。開講法花。跨郎籠基。躡超雲印。方集奔赴。負篋成群。有吉藏法師。興皇入室。嘉祥結肆。獨擅浙東。聞稱心道騰。意未之許。求借義記。尋閱淺深。乃知體解心醉有所從矣。因廢講散眾。投足天台。餐稟法花。發誓弘演。至十七年。智者現疾。瞻侍曉夕。艱劬盡心。爰及滅度。親承遺旨。乃奉留書并諸信物。哀泣跪授晉王。晉王五體投地。悲淚頂受。仁壽二年。下令曰。禪師既是大師高足。法門委寄。今遣延屈。必希霈然。并法花經疏。隨使入京也。佇遲來儀。書不盡意。頂持衣負錫。高步入宮。三夏闡弘。副君欣戴。每至深契。無不申請。並隨問接對。周統玄籍。後遣信送還。嚫遺隆倍。甞有村人於法龍。去山三十餘里。染患將絕。眾治不愈。其子奔馳入山祈救。頂為轉法花經。焚栴檀香。病者雖遠。乃聞檀香入鼻。應時痊復。又樂安南嶺地曰安州。碧樹青溪。泉流伏溺。人徑不通。頂留連愛翫。顧而誓曰。若使斯地夷坦。當來此講經。曾未浹旬。白沙遍涌。平如玉鏡。頂以感通相顯。不違前願。仍講法花。用酬靈意。自頂受業天台。又稟道衡岳。思顗三世。宗歸莫二。若觀若講。常依法花。及說圓頓止觀四念等法門。其遍不少。且智者辯才。雲行雨施。或同天網。乍擬瓔珞。隨聞能領。唯頂一人。其私記智者詞旨。及自製義記。并雜文等題目。並勒千碑陰。以貞觀六年八月七日。終於國清寺房。春秋七十有二。初薄示輕疾。無論藥療。而室有異香。臨終命弟子曰。彌勒經說。佛入滅日。香煙若雲。汝多燒香。吾將去矣。因申遺誡。詞理妙切。門人眾侶。瞻仰涕零。忽自起合掌。如有所敬。三稱阿彌陀佛。低身𬽵就。色貌歡愉。奄然而逝。舉體柔軟。頂暖經日。甞有同學智晞。清高亮之士。先以貞觀元年卒。臨終云。吾生兜率矣。見先師智者。寶座行列。座皆有人。唯一座獨空。云却後六年。灌頂法師。外此說法。焚香驗旨。即慈尊降迎。計歲論期。審晞不謬矣。以其月九日。定于寺之南山也。
灌頂法師。字は法雲。俗姓は呉氏。常州義興の人である。祖先はかつて東甌に避難し、そのまま戻らなかったため、今では臨海の章安の人となっている。父は早くに亡くなり、母が育てた。生まれて三ヶ月、幼子に名をつけようとしたが、両親は物の種類をよく考えても、どのように名づけてよいかわからなかった。ある夜、母が仏・法・僧の名を唱えると、灌頂は口真似をした。その声と語調は明瞭で美しく、皆が驚き怪しんだ。そこで、摂静寺の慧極法師に告げると、聞いて嘆じて言った。「この子は並々ならぬ子だ。」そこで「非凡」を字とした。七歳になると、慧極法師の弟子となった。日に日に文章や言葉が進み、玄学や儒学にも驚くべき才能を示した。その清らかで美しい文才は、当時すぐれた評判となった。二十歳で具足戒を受け、儀式に奉仕した。徳の器、油の鉢など、修行に用いるものに深く心を留めた。
やがて慧極法師が亡くなると、天台で仏道を学び、定められた教えを受け継いだ。その後、智者大師に従って東へ戻り、天台山に住んだ。後に称心精舎に出て、法華経の講義を始めた。その教えは優れ、多くの人々が集まり、書物を背負った群れができた。吉蔵法師という者がいた。興皇寺で学び、嘉祥寺で講席を開き、浙東で最もすぐれていた。称心精舎での評判が高いのを聞き、当初は認めようとしなかった。義記を借りて、その深浅を調べたところ、その理解の深さに心から酔い、従うべきところがあると知った。そこで講義をやめ、聴衆を解散し、天台に足を向けた。法華経を学び、広く弘めようと誓った。智者大師が病になった十七年には、朝夕に付き添い、苦労を尽くして看病した。大師が亡くなると、遺言を承け、書状や品々を涙しながら跪いて晋王に授けた。晋王は五体投地し、涙を流して頂いて受け取った。仁寿二年に、晋王は次のように命じた。「禅師は大師の高弟であり、法門を委ねられた。今、招いて迎える。必ずや来て欲しい。法華経疏も共に使いに託して都に入れ。来るのを待つ。思いは尽きない。」灌頂は衣と錫杖を持ち、高らかに宮中に入った。三夏の間、教えを弘め、太子も喜んで帰依した。深い境地に至るたびに、必ず請うて問答した。問われるままに答え、玄微な教えを明らかにした。後に使いが送り帰し、多くの贈り物を賜った。
かつて、法龍という村人が、山より三十里のところで病に倒れ、死にかけていた。多くの治療も効かなかった。その子が走って山に駆け込み、救いを求めた。灌頂は法華経を転読し、栴檀の香を焚いた。病人は遠くにいたが、栴檀の香りを鼻に感じ、たちまち治った。また、楽安の南嶺にある安州という地は、青い木々と清らかな流れがあり、泉が湧き出ていたが、道が通じていなかった。灌頂はこの地を愛で、留まって誓った。「もしこの地が平らかになったなら、ここで講経しよう。」十日も経たないうちに、白い砂が一面に湧き出て、鏡のように平らかになった。灌頂は感応が現れたことを悟り、前の誓いを違えず、法華経を講じてその霊験に報いた。
灌頂は天台で学び、また衡岳でも教えを受けた。慧思・智者・灌頂の三世代、宗旨は一つである。観行も講説も、常に法華経に基づいた。また、円頓止観や四念処などの法門を説くことも少なくなかった。智者大師の弁才は雲の如く雨の如くであった。時に天の網のようであり、時に瓔珞のようでもあった。その教えを聞いて理解できたのは、灌頂一人だけであった。灌頂が智者大師の言葉を私的に記録したもの、自ら撰した義記、その他の雑文などの題目は、すべて千の碑の裏に刻まれた。貞観六年八月七日、国清寺の房で亡くなった。年は七十二であった。初めに軽い病を示したが、薬を用いなかった。部屋には異香が漂った。臨終に弟子たちに言った。「弥勒経にある。仏が滅度に入る日、香煙は雲のようである。お前たちは多くの香を焚け。私は行こう。」そこで遺戒を述べた。言葉は妙で切実であった。門人たちは涙を流した。すると突然、自ら起き上がって合掌し、何かを敬うかのようであった。三度、阿弥陀仏と唱え、身を低くして横たわった。顔色は愉しげで、静かに亡くなった。体は柔らかく、頭は何日も暖かかった。
かつて同門の智晞という僧がいた。清らかで気高い人であった。彼は先に貞観元年に亡くなった。臨終に言った。「私は兜率天に生まれた。先師の智者大師にお会いした。宝座が並び、すべてに人が座っていたが、ただ一つだけ空いた座があった。六年後、灌頂法師が来て、ここで説法するだろう。」香を焚いてその言葉を確かめれば、慈尊が迎えに降りてくる。年月を数えてみれば、智晞の言葉が誤りでないことがわかる。その月の九日、寺の南山に葬られた。
釋法融。俗姓韋氏。丹陽延陵新亭人也。少小聰哲。不修矜操。真率自居。博覽經史。弱冠。遂被經去俗。晦影山林。負笈尋師。不遠千里。乃依茅山豐樂寺大明法師。聽三論。及華嚴大品。大集。維摩。法花等諸經。伏膺累年。妙探機奧。雖久為門侶。人未之識也。大明既滅。又聽鹽官邃法師講諸經論。于時。座下學侶如林。各騁詞鋒。爭馳辯箭。而融謙光藏用。默契於心。時候清閑。發疑起問。言理精妙。人所不聞。講主驚嗟。深相崇禮。乃私謂人曰。此師。後日必為佛法八無。然率性無恒。不為時輩所許。後有永嘉永安寺曠法師。會稽一音寺敏法師。鍾山定林寺旻法師。並當時義海。融遍遊座下。忻然獨得。後歸丹陽牛頭山幽棲寺。別為小屋。精修故業。遠近學侶。翕爾歸之。乃於巖谷之前。講法花經一部。于時正在盛冬。凝霜被木。乃於講所。忽生三莖金色蓮花。眾甚驚異。歎未曾有。經文既畢。花亦不見。又有一大鹿。常依時聽講。停法之後。絕迹不來。門人發心。皆以法花為正業矣。後不測所終。
法融(釈法融)という僧がいた。俗姓は韋氏。丹陽延陵の新亭の出身である。幼少の頃から聡明で、飾り気がなく、率直で自然なままに生きていた。経典や史書を広く読み、二十歳で経典を携えて出家し、山林に身を隠した。書物を背負って師を求め、千里の道も厭わず、茅山の豊楽寺の大明法師のもとへ向かった。そこで『三論』、『華厳経』、『大品般若経』、『大集経』、『維摩経』、『法華経』などの諸経を聴聞し、長年にわたって師事し、その奥義を巧みに探求した。長く門弟として過ごしたが、人々は彼の真価を知らなかった。
大明法師が亡くなると、今度は塩官の邃法師の講経を聴きに行った。その時、講堂には多くの学侶が集い、それぞれが言葉の華を咲かせ、議論の矢を交わしていた。しかし法融は自らの輝きを隠し、心の中で静かに理解を深めていた。ある時、閑静な折を見計らって疑問を発し、問答を始めると、その言葉は精妙で、人々がかつて聞いたことのないものだった。講師は驚き敬服し、深く礼を尽くした。そして密かに人に語った。「この老師は、いずれ必ず仏法の八無となるであろう。」しかし、彼は天性として一定せず、当時の人々には必ずしも認められなかった。
その後、永嘉の永安寺の曠法師、会稽の一音寺の敏法師、鍾山の定林寺の旻法師といった、当時の義学(教学)の大家たちのもとを遍歴した。法融は彼らのもとを巡り、心から喜びを得た。後に丹陽の牛頭山、幽棲寺に帰り、別に小屋を建て、修行に励んだ。遠近から学侶が集まり、こぞって彼のもとに帰依した。ある時、岩谷の前で『法華経』一部を講じた。その時は真冬で、霜が木々を覆っていた。すると講じていた場所に、突然、三茎の金色の蓮の花が現れた。人々は非常に驚き、かつてないことだと嘆賞した。経典の講義が終わると、花もまた見えなくなった。また、一頭の大きな鹿が、いつも決まった時間に来て講義を聴いていたが、講義が終わると、姿を消して二度と現れなかった。門人たちは心を発し、皆『法華経』を正しい学びの業と定めた。その後、彼がどうなったかはわからない。
釋智琰。俗姓朱。吳郡人。祖獻。梁員外散騎侍郎。父珉。陳奉朝請。母張氏。初懷孕日。夢升高塔。登相輪而坐。誕育之後。有異儕童。八歲出家。事通玄寺璩法師。為弟子。其後。博採群經。跨轢先輩。陳至德三年。建仁王齊。百師百座。競流天口之辯。琰時年二十有二。以英少之質。簉弘通之寄。機辯縱橫。眾所嗟服。隋煬帝在蕃。亦深加禮異。至大唐統宇。還歸武丘山寺。講念之餘。常行法花普賢等懺。又誦法花。三千餘遍。感應冥符。神瑞非一。宵爐未爇。自起煙芬。夕灌纔空。潛加溢水。以貞觀八年十月。遷神山寺。春秋七十一。凡講法花三十餘遍。
釈智琰は、俗姓を朱といい、呉郡の人です。祖父は献といい、梁の員外散騎侍郎でした。父は珉といい、陳の奉朝請でした。母は張氏で、初めて妊娠した日、高い塔に昇り、相輪に登って座る夢を見ました。誕生後は、他の子供たちとは異なっていました。八歳で出家し、通玄寺の璩法師に仕えて弟子となりました。その後、多くの経典を広く学び、先輩たちを凌駕しました。陳の至徳三年、仁王斎が建てられ、百師百座が設けられ、天口の弁を競って流しました。智琰は当時二十二歳で、英少の質をもって弘通の任に連なり、機弁は縦横にして、人々の嘆服するところとなりました。隋の煬帝が藩にいたときも、深く礼遇し珍重しました。大唐が天下を統一するに及び、武丘山寺に帰りました。講念の余暇には、常に法華・普賢等の懺法を行いました。また法華を三千余遍誦しました。感応が冥符し、神瑞は一つではありませんでした。夜の炉がまだ焚かれていないのに、自ら煙と香りが起こりました。夕方の灌がちょうど空になったばかりなのに、密かに水が溢れ加わりました。貞観八年十月に、山寺で遷化しました。春秋は七十一でした。法華を講ずること凡そ三十余遍に及びました。
釋智拔。姓張。襄陽人。幼年清悟。雅好佛法。六歲出家。初為閏師弟子。閏顧有濟器。乃携付哲法師。哲亦襄川僧望。具之別傳。初誦法花。日通五紙。經中妙理。略有規度。惟日期經諸佛出世之大意也。一人一道非弘不通。擔畢依持。開悟蒙俗。承帝京上德吉藏法師。四海標領。三乘明匠。尋詣奉旨。欣擊素心。首尾兩遍。命令覆述。英俊鼓言。無非亂轍。藏親臨坐。拔問眾言。一乘為雲。遂分為三。亦可一乘為雨。分為三雨。眾無敢答。藏曰。拔公此問。深得旨矣。乃屬累大法。使必當遺寄。於是。振錫還襄。住耆闍寺。恒在常濟。講法花經。年別五遍。貞觀十四年九月十七日。於清信士張公英家。宿集竪義。開法花題訖。云今與鄉里大德檀越等別。時不測其言也。遂斂容端默。眾疑入定。迫而察之。已遷化矣。合境緇素。嗟惋特深。顏狀如生。卓然加坐。蔣王。躬臨禮拜。燒香供養。贈物百餘段。墓所設五千人齋。春秋六十八矣。
智拔という僧侺は、姓は張氏、襄陽の出身でした。幼い頃から聡明で、仏法を深く好みました。六歳で出家し、はじめは閏師の弟子となりました。閏師は彼の資質を見抜き、哲法師に預けました。哲法師もまた襄陽の仏教界で重んじられる存在で、その事績は別伝に詳しく記されています。
初めに法華経を学び、毎日五枚の経文を暗誦しました。経典の深遠な教えは、おおまかには理解していましたが、「ただ仏の出世の根本的な意味を知りたい」と願っていました。その教えはただ一つの道であり、広く伝えなければならないと考えていました。学び終えた後は、自らの信じる道を守り、未熟な人々を悟りへと導きました。
都には高名な吉蔵法師がおり、四海にその名を知られ、三乗の教えを明らかにする優れた師として知られていました。智拔は彼のもとを訪れ、教えを請いました。心から歓喜し、二度にわたって法義を聴聞し、その内容を復唱するよう命じられました。優れた者たちが様々に意見を述べましたが、皆、正しい道筋から外れていました。吉蔵法師が自らその場に臨み、智拔は皆に問いかけました。
「一乗を雲とたとえるなら、それは三つに分けられる。あるいは、一乗を雨とたとえるなら、それは三つの雨に分けられる。それについてどう思うか。」
誰も答えることができませんでした。吉蔵法師は言いました。「智拔よ、この問いは、まことに教えの核心を突いている。」そして、彼に仏法の大任を託し、必ずやその教えを後世に伝えるようにと命じました。
その後、錫杖を振りながら襄陽に戻り、耆闍寺に住みました。常に法華経を講じ、毎年五度の説法を行いました。
貞観十四年九月十七日、清信士の張公英の家で集まり、法華経の題目を開陳した後、こう言いました。「今、郷里の高徳の僧侶や在家の方々とお別れします。」人々はその意味がわかりませんでした。やがて、彼は厳かに座り、沈黙しました。人々は禅定に入ったのかと思いましたが、近づいて確認すると、すでに遷化していました。
国中、僧侶も在家も、深く嘆き悲しみました。その姿は生きているかのようで、端然と座っていました。蔣王は自ら参って礼拝し、焼香して供養し、百段以上の供物を送りました。墓所では五千人の斎が行われました。春秋六十八歳でした。
釋慧遠。俗姓杜氏。京兆人也。弱不好弄。便慕內法。年甫十歲。投吉藏法師而出家焉。具戒已後。博文多識。講法花經。皆自作章疏。晚辭人境。卜居藍谷。乘閑樂道十有餘載。貞觀十九年。在寺夏坐。時屬亢旱。乃講法華。以祈甘液。遠近聽之。雲集霧委。每有二老。應時而坐。既非舊識。遠默記之。潛思詰問。未之發也。既講至藥草喻品。大雨霑洽。向之二老。三日不來。後策杖俱臻。遠怪呼而問。乃逡巡對曰。弟子龍也。比蒙法師弘譬喻之品。開方便之門。思酬德惠。忽然降雨。但時未應下。敢擅灑之。故為龍王所笞耳。因忽不見。遠所服三衣。特加護淨。或時飄然自被其體。而雅性謙挹。雖遇沙彌。必下騎而在問也。或問其故。答曰。髣髴染衣。仙聖幢相。師子致敬。今成正學。在余一介。敢不遵乎。遠常誦法華。頻有靈感。或不加油炷燈。數日自明。後染患浹辰。斂念而卒。年五十有一。貞觀二十一年七月也。
慧遠は、俗姓は杜氏、京兆の人である。幼い頃から遊び好きではなく、すでに仏法を慕っていた。わずか十歳で吉蔵法師のもとに赴き、出家した。具足戒を受けた後は、広く学問に通じ、『法華経』を講じる際には、みずから注釈書を作成した。後年、人里を離れ、藍谷に住まいを定め、暇にまかせて仏道を楽しむこと十有余年。貞観十九年、寺で夏の修行中、干ばつに見舞われた。そこで『法華経』を講じて雨を祈ったところ、遠方からも多くの人々が雲霞のごとく集まり聴聞した。毎回、見知らぬ二人の老人が必ず座に加わっていた。慧遠はそれを心にとどめ、問いただそうと思いながらも、機会がなかった。講が「薬草喩品」に至ったとき、大雨が降り注いだ。すると、あの二人の老人は三日間姿を見せず、その後、杖をついて共に現れた。慧遠は怪しんで呼び止めて尋ねると、老人たちはためらいながら答えて言った。「弟子どもは龍でございます。かねてより法師が譬喩の品を広く説き、方便の門を開かれるのを拝見し、その御恩に報いようと、雨を降らせました。しかし、本来は雨を降らせる時期ではなかったため、あえて勝手に雨を降らせたことにより、龍王の叱責を受けたのです。」そう言うと、たちまち姿を消した。
慧遠が身に着ける三衣は、特に清浄を守り、時には風にひらりとその身を包むことがあった。また、その人柄は謙虚で、沙弥に出会っても必ず馬から下りて挨拶をした。ある人がその理由を尋ねると、答えて言った。「袈裟は僧侶の衣であり、仙人や聖者の象徴です。獅子でさえ敬意を表します。今や正しい学びを成就しているのは、私一人の身であっても、どうしてこれに従わずにいられましょうか。」
慧遠は常に『法華経』を誦し、しばしば霊験があった。時には油を注さずとも灯明が数日間、自ら燃え続けることもあった。後に十余日の病にかかり、心をひとつにして念じながら亡くなった。享年五十一。貞観二十一年七月のことである。
釋智通。姓陳。住梓州。八歲出家。為正道法師弟子。後誦法華并講。在牛頭山。善持威儀。奉戒貞苦。降伏黃老。士女奏章。必杖之五十。遠近皆憚。寺宇成就。惟其經始。合眾畏懾。無蓄私財者。常有雙鵝。依時聽講。講百餘遍。兩度放光。至貞觀二十三年十月十三日。告眾。吾造山寺。可用十萬貫錢。恨未周備。今便永別。言訖而卒。春秋七十七矣。于時合寺房堂。並皆振動。樹林草木。悉作白色。經一食頃。仍方還舊。
智通という僧侺がいた。姓は陳、梓州に住んでいた。八歳で出家し、正道法師の弟子となった。後に『法華経』を誦経し、併せてその講義を行い、牛頭山にいた。威儀をよく保ち、戒律を守り、苦行に励んだ。黄老の教えを降伏し、男女が祈祷の文を捧げると、必ず五〇回の杖打ちを行った。遠近の人々は皆、彼を恐れ敬った。寺の建設が成就したのは、全て彼の手によるものであった。僧侺たちは皆、彼を畏れ、私財を蓄える者はいなかった。常に一対の鵞鳥がいて、定刻に彼の説法を聞いていた。彼は法華経の講義を百余回行い、その講義の際には二度、光明が放たれた。
貞観二十三年十月十三日、彼は僧侺たちに告げた。「私はこの山寺を建てるのに、十万貫の銭をかけたが、惜しむらくは準備が整わなかった。今、永遠の別れを告げる。」そう言い終えると、彼は息を引き取った。享年七十七であった。その時、寺全体の堂舎が揺れ動き、樹林や草木は全て白色に変わった。食事の一くぎりの時間が過ぎて、ようやく元の姿に戻った。
左僕射宋國公蕭瑀。字時父。蘭陵人。高祖梁武帝。父明帝。公深信釋典。捐棄外學。時處會讌。勅每別賜素食。又賜王褒手書大品經一部。山納袈裟一領。公雖參國務。而誦念無虧。手著法花義記凡十卷。時於第內為子姪講之。疏成之日。夢多寶佛塔炳耀空中。因召名工造茲妙塔。貞觀二十二年六月。卒於玉花宮。未終之前。遺囑云。吾之衣服道具。並送津梁寺。同僧羯磨。其上賜山衲。及高祖樹皮衲。鐵如意。曲几。麈尾。香爐。澡灌。玉唾壺。瑪瑙珠。朝冠。器服。並入常住。永為供養。
左僕射の宋国公、蕭瑀(しょうう)は、字を時父(じふ)といい、蘭陵の人である。高祖は梁の武帝、父は明帝であった。公は深く仏教の教えを信じ、外部の学問を捨てた。宴会の席に臨むたびに、勅命により特別に菜食が与えられ、さらに王褒(おうほう)が自ら書写した『大品経』一部と、山で織られた袈裟一領が下賜された。公は国務に参与しながらも、読誦を怠ることはなく、自ら『法華義記』全十巻を著した。時に邸内で子や甥のためにこの書を講じた。疏(解説書)が完成した日、夢に多宝仏塔が輝きながら空にそびえるのを見た。そのため名工を招いてこの見事な塔を造らせた。貞観二十二年(648年)六月、玉華宮にて亡くなる。臨終の前に遺言して言った。「私の衣服や道具はすべて津梁寺に送り、僧侶たちの共有とせよ。天皇から賜った山で織った袈裟と、高祖から賜った木の皮の袈裟、鉄如意、曲机、麈尾(しゅび)、香炉、澡灌(そうかん)、玉の痰壺(たんつぼ)、瑪瑙の数珠、朝廷の冠、器や衣服は、すべて常住物とし、永遠に供養に用いよ。」
釋慧旻。河東人。志用方直。操行不群。九歲出家。精勤潔業。誦法華經。朞月便度。俄歷眾師。具探玄妙。年十七。赴請還鄉。於光興寺。講法華經。聽眾雲翔。咸陳嘉瑞。異香彈指屢經結空中。受具足後。更增榮問。一十七年不出寺門。無始要終。布衣蔬食。慶弟既絕談謔。斯云。遂使獸群不亂。鳥集無擾。大唐之始。便入海虞山隱居。二十餘載。遠方請業。常百餘人也。地宜梓樹。勸勵栽植。數十萬株。通給將來三寶功德。中年別於南㵎。止一草菴。兩兔一虎來共同。內外盤遊。無相陵惱。至於禽獸神祇請受歸戒。敘其事績。未可具言。蘇州都督武陽公李世嘉。及刺史江王。前後頻請。並固讓不受。以貞觀末年八月十一日旦。終於所遁。春秋七十有七。未終三日。異香滿寺。舉眾怪問。曰吾後日當去矣。生死人之常也。寄世本若行雲。慎無哭泣。各念無常。早求自度。喪事殯葬。律有恒儀。碑誌飾詞。一不須作。能依此訣。吾何言哉。斯固臨終不橈。可謂堅貞者矣。
釈慧旻(しゃくえみん)は、河東(かとう)の出身。その志はまっすぐで、行動は人と異なり、非凡なものであった。九歳で出家し、精進努力して清らかな修行に励み、『法華経』を誦んでは、一ヶ月という短い期間でその意味を悟った。やがて多くの師の下を訪ね、深遠な教えをことごとく探求した。十七歳の時、故郷からの招きに応じて光興寺(こうこうじ)で『法華経』を講じた。聴衆は雲のように集まり、皆、めでたい瑞相が現れたと語った。それは異香が漂い、指を鳴らす音が幾度となく空に響き渡るというものであった。
具足戒を受けた後は、名声はますます高まったが、十七年間、寺の門を一歩も出ず、徹底して質素な生活を貫き、粗食に身を包んだ。世間の交わりや楽しい語らいを一切断った結果、野獣も畏れて群れを乱さず、鳥たちも集いながらも騒ぐことがなかったという。
唐の時代が始まると、海虞山(かいくざん)に隠棲し、二十余年もの間、遠方から弟子たちが教えを請うために集まり、常に百人以上がいた。土地は梓(あずさ)の木に適していたため、彼は人々に植樹を勧め、数十万本を植えさせた。これらはすべて、将来の仏法僧の三宝の功徳のために惜しみなく施されたのである。
中年になってからは、南の谷川のほとりに草庵を結び、そこに一匹の兎と一頭の虎がやって来て共に住み、内外を自由に遊び回ったが、互いに害することは決してなかった。鳥獣や神々までもが彼のもとで戒を受けようとしたという、これらの数々の行いは、語り尽くせないほどである。
蘇州都督の武陽公・李世嘉(りせいか)や刺史(しし)の江王(こうおう)が、頻繁に招請したが、彼は固辞して受けなかった。
貞観(じょうがん)の末年、八月十一日の朝、隠遁先で入滅した。享年七十七。入滅の三日も前から、寺中には異香が満ち、皆が不思議に思って尋ねると、「私は後日、去るであろう。生死は人間誰もの常である。この世に身を寄せることは、もとより流れる雲のようなものだ。慎んで泣くことなかれ。皆、諸行無常を心に刻み、速やかに自らの救いを求めなさい。葬儀の作法は律に定めがある。碑に刻む飾り立てた言葉は、一切作ってはならない。この教えに従えるならば、私は何も言うことはない」と答えたという。
かくも臨終に際して動じることがなかったのは、まさに堅固で純真な人であったと言えるであろう。
釋曇寶。不知何人。斷穀鍊形。戒行無點。常講觀世音經導引士俗。而聲調超挺。特異人倫。登高誦經。響聞三十里內。
曇寶という僧がいた。素性は知られていない。穀物を断ち、修行を積み、戒律の行いには一点の曇りもなかった。常に『観世音経』を講じて、僧俗を導いた。その声は澄み渡って抜きん出ており、とりわけ人の常を超えていた。高きに登って経を誦せば、その声は三十里(約十二キロ)の内に響き渡ったという。
釋緣光。新羅人也。其先。三韓之後也。桉梁員職圖云。其新羅國。魏曰斯盧。宋曰新羅。本東夷辰韓之國矣。光世家名族。宿敦清信。早遇良緣。幻歸緇服。精修念慧。識量過人。經目必記。遊心必悟。但以生居邊壤。正教未融。以隋仁壽年間。來至吳。會正達智者。敷弘妙典。先伏膺朝夕。行解雙密。數年之中。欻然大悟。智者即令就講妙法華經。俊郎之徒。莫不神伏。後於天台別院。增修妙觀。忽見數人。云天帝請講。光默而許之。於是。奄然氣絕。經于旬日。顏色如常。還歸本識。既而器業成就。將歸舊國。與數十人同乘大舶。至海中。船忽不行。見一人乘馬凌波來。至船首云。海神請師暫到宮中講說。光曰。貧道此身。誓當利物。船及餘伴。未委如何。彼云。人並同行。船亦勿慮。於是。舉眾同下。行數步。但見通衢平直。香花遍道。海神將百侍從。迎入宮中。珠璧焜煌。映奪心目。因為講法花經一遍。大施珍寶。還送上船。光達至本鄉。每弘茲典。法門大啟。實有功焉。加以自少誦持。日餘一遍。迄於報盡。此業無虧。年垂八十。終於所住。闍維既畢。髏舌獨存。一國見聞。咸歎希有。光有妹二人。早懷清信。收之供養。數聞體舌自誦法花。妹有不識法花字處。問之皆道。有新羅僧連義。年方八十。弊衣一食。精苦超倫。與余同止。因說此事。錄之云爾。
釋縁光は新羅の人である。その先祖は三韓の後裔である。梁の『職員図』によれば、新羅国は魏の時代には斯盧、宋の時代には新羅と呼ばれた。もとは東夷の辰韓の国である。縁光は名家の名族に生まれ、幼い頃から清らかな信心を培い、早くに良き縁に恵まれた。心を仏門に向け、僧侶となった。修行に精進し、智慧を磨き、その識見と度量は人並みはずれていた。経典を一目見れば必ず記憶し、心に思いを巡らせれば必ず悟りを得た。ただ、辺境の地に生まれたため、正しい教えがまだ十分に広まっていなかった。隋の仁寿年間(601~604年)に、呉の地に来て、智慧第一の智者大師に出会い、その妙なる経典の説法を受けた。昼夜にわたり師事し、行と解を共に密に修めた。数年を経て、忽ちに大悟した。智者大師はすぐに彼に『妙法蓮華経』の講義を命じた。優秀な弟子たちも皆、彼の説法に敬服した。その後、天台の別院でさらに修行を積み、深い観法を修めていた時、突然、数人の者が現れて言った。「天帝があなたに講義をお願いしたいと申しております。」縁光は黙ってこれを承諾した。すると、たちまち意識を失い、十日もの間、息が絶えた。しかし、顔色は平常と変わらず、その後、意識を取り戻した。やがて、その器と業が成就し、故国へ帰ることとなった。数十人と共に大きな船に乗り、海に出たところ、突然、船が動かなくなった。一人の者が馬に乗り、波を蹴って船の先端に現れ、言った。「海の神が、師を海中の宮殿に招き、説法を願っております。」縁光は言った。「貧道この身は、誓って一切の衆生を利益せんとするものである。船と仲間たちは、どうなるのであろうか。」その者は答えた。「皆、ご一緒にお連れいたします。船のこともご心配には及びません。」そこで、一同が海に入り、数歩歩くと、大通りが平らにまっすぐに続き、香りの花が道一面に敷き詰められていた。海の神は百人の従者を引き連れ、縁光を宮殿に迎え入れた。宮中は宝玉が燦然と輝き、目もくらむばかりだった。縁光はそこで『法華経』の経典を一巻、説き終えた。海の神は多大な珍宝を施し、彼らを船に送り届けた。縁光は故郷に帰ってから、常にこの経典を弘め、仏法の門を大きく開くのに大きな功績があった。さらに、幼い頃から経典を読み、一日に一度は必ず誦え、命終わるまでその修行を欠かさなかった。八十歳に近づき、住んでいた所で亡くなった。荼毘に付した後、頭蓋骨と舌だけが焼け残った。国中の人々がこれを聞き見て、稀有なことだと嘆いた。縁光には二人の妹がおり、幼い頃から清らかな信心を持ち、それらを大切に保管し、自分の体や舌が自ら『法華経』を誦えるのを何度も聞いたという。妹が『法華経』の字が読めないところがあれば、尋ねるとすべて答えてくれた。新羅の僧、連義という者がいた。八十歳になっても粗末な衣をまとい、一食だけをとり、苦行は人に勝っていた。私と共に住んだことがあり、この話をしてくれたので、筆録した次第である。
釋玄璧。未詳其氏。蘇州吳縣人也。幼小出家。住流水寺。好學不倦。多遊巖壑。棲神妙觀。不以世務嬰心。猛獸毒蟲。妖精惡賊。頻繁遭遇。未始忤其情守。常坐一床方四尺。傍無塵雜。未曾倚臥。每講中百十二門。攝大乘等論。花嚴涅槃法花等經。二十餘州。咸來聽受。甞講法花經。忽有一鶴。從外飛來。於殿下池中。三度含水。噴灑於地。徑詣佛邊聖僧座上。一立不動。直至講了。然始飛去。如此經年。後乃恒住。上堂即鼓翼引前。下講即傾身隨從。法師或令其舞。即搙翮𩒮足。顧影迴頭。乍起乍仰。或來或去。變態殊絕。難以具名。凡歷二年。周旋不去。數州文翰之士。莫不偉而同詠。後刺史江王來向寺。長史司馬。遣人來報法師。法師云。好。準常安坐。王至寺門。長史自報。師云。已知。如常安坐。王怪不來迎。遂即却去。至其夜一更。王總喚合郭眾僧。為國行道。諸僧並馳集王所。王忿形於色。遣長史千行自喚法師。法師報云。王為國轉經。心須殷重。未潔淨輒即迎僧。大夫輕慢。不敬三寶。如此轉經。亦非得力。王令宅內所有酒肉五辛。並皆除却。香湯灑掃。貧道。又須洗浴潔淨。然可轉經。公且去。後日來。王大瞋。更遣人喚法師。依常安坐。一無懼色。至後日。乃去至彼。王問諸僧曰。玄璧何如人。皆曰。禪行高僧也。王意少解。令人喚入。安一高座。遣三五美姬。側近看侍。璧聊敘暄寒。即禮佛上座。結加趺坐。凝神寂定。乃經七日。身衣塵積。初無搖動。王大發善心。問眾僧曰。若為得令其出定。僧云。以音樂供養。王命侍妓奏之。經半日。璧乃從禪定起。王及大夫人。請法師懺悔。受戒。所有獵拘鷹鷂。並皆解放。璧勸王誦般若心經。王依言敬受。每旦恒誦。於是傾捨名玲。奉酬師德。一無所受。皆令散施。王自爾之後。每齋日。常來就寺。參問幽玄。道化之聲。於斯更遠。即貞觀中年之事也。後不知所終。
玄璧という僧侭がいた。詳しい姓は分かっていない。蘇州呉県の出身である。幼い頃に出家し、流水寺に住んだ。学問を好み、決して怠ることがなかった。よく山や谷を訪れ、心を妙なる観想に留め、世俗の務めに心を煩わせることはなかった。猛獣や毒虫、妖怪や悪賊にしばしば出遭ったが、一度もその心を乱されることはなかった。いつも一つの床(長さ四尺)に座り、周囲には塵一つなく、寄り掛かったり横になったりすることもなかった。毎回、『中論』『百論』『十二門論』『摂大乗論』などの論や、『華厳経』『涅槃経』『法華経』などの経典を講じた。二十数州から人々が集まり、その教えを聴き受けた。
ある時、法華経を講じていると、突然一羽の鶴が外から飛んできた。堂の前の池で三度水をくわえ、地面にまいた。そしてそのまま仏のそばにある聖僧の座に進み、一羽で立ち、全く動かず、講義が終わるまでそのままでいた。その後、飛び去った。このようなことが一年ほど続き、その後はいつも寺に住みつくようになった。講堂に上がる時には翼を広げて先導し、講義が終わると体を傾けて後に従った。法師が時に舞えと言えば、羽を整え足を揺すり、影を顧みて頭を向け、時には立ち上がり、時には仰ぎ、時には来たり去ったり、その変化は並外れており、言葉で表し尽くせないほどであった。まる二年もの間、その場を離れずにいた。近隣の州の文人たちは、みなその見事さに感嘆し、共に詩を詠んだ。
その後、刺史の江王が寺に来るということで、長史や司馬が人をやって法師に知らせた。法師は「よろしい」と言い、普段通りに座っていた。王が寺の門に着くと、長史が自ら報せた。法師は「もう分かっている」と言い、普段通りに座っていた。王は出迎えがないのを怪しみ、そのまま帰ってしまった。その夜の一更、王は城中の僧侭全員を呼び集め、国のために経を転読するよう命じた。僧侭たちは皆、王のもとに急いで集まった。王は怒りを顔に表し、長史と千行に法師を呼びに行かせた。法師は答えた。「王が国のために経を転読されるには、心を殷重にしなければなりません。まだ清めてもいないのに、すぐに僧侭を招くとは、大夫は軽慢で、三宝を敬っていません。そのような経の転読では、功徳も得られないでしょう。王の館内にある酒や肉、五辛(にんにくなどの臭い野菜)はすべて取り除き、香湯で清め清めなさい。貧道もまた沐浴して清めなければ、経を転読できません。あなたは一旦お帰りなさい。後日改めて参ります。」王は大いに怒り、さらに人を遣わして法師を呼ばせた。法師は普段通りに座り、少しも恐れる様子はなかった。後日になり、法師は王のもとへ行った。王は僧侭たちに尋ねた。「玄璧とはどのような人物か。」僧侭たちは皆、「禅行に優れた高僧でございます」と答えた。王の怒りは少し和らぎ、人を遣わして法師を招き入れた。高い座を設け、三、五人の美しい侍女をそばに付けて世話させた。玄璧はひとまず挨拶を述べると、すぐに仏に礼拝し座に上り、結跏趺坐して心を静め、深い禅定に入った。七日もの間、そのままでいた。衣服には埃が積もったが、初めから少しも動かなかった。王は大きな善心を起こし、僧侭たちに尋ねた。「どうすれば彼を禅定から出させられるか。」僧侭は「音楽を供養すればよろしいでしょう」と答えた。王は侍女たちに演奏させた。半日が過ぎて、玄璧は禅定から起き上がった。王と大夫人は法師に懺悔し、戒を受けたいと願った。所有していた猟のための鷹や鳶はすべて放してやった。玄璧は王に『般若心経』を誦するよう勧めた。王はその言葉に従い、敬って受け入れ、毎朝必ず誦した。そこで王は名高い宝物を惜しみなく施し、師の徳に報いようとした。しかし玄璧は一つも受け取らず、すべてを人々に施すよう命じた。王はそれ以降、斎日ごとに必ず寺に来て、奥深い教えを尋ねた。教化の名声は、これによってますます遠くに及んだ。これは貞観年間(627~649年)のことである。その後、玄璧がどこで最期を迎えたかは分かっていない。
釋智儼。俗姓嚴。同州人也。弱而好道。清真蓋俗。率行方堅。動成軌則。年至十二三。忽遇梵僧。令其剃落。儼即鞠躬受誨。因此出家。住朝邑縣戒業寺。於是。遍近眾師。廣祈玄教。至於攝論唯識般若維摩。及法花經等。並貫其幽旨。窮其了義。加之傍習世典。善談老易。雅論玄情。出自天骨。未盈數載。遂當法將。每以講說之餘。棲心妙觀。常坐不臥。用此為恒。房內唯有一床。更無什物。實所謂高潔法師。言行兼至者也。顯慶三年。太州仙掌縣道俗。請儼於靈仙寺。講法花經。儼於寺僧還香房內。居止閤舍。初夜取法花經。舒披案上。方欲尋讀。于時。還香并侍者三人。並在其處。儼焚香未訖。忽見經上佛字中。出三舍利。五色光明。散滿經上。行流不住。還香等。遍告寺僧。俱來禮拜。欲共收取舍利。舍利還流入於佛字。僧等禮拜悲泣。燃香發願更覩真容。舍利還從佛字中出。流行不住。少選之間。別於他佛字中。相從隱沒。儼所講法華數十餘遍。感靈獲瑞。難以具言。然妙行高蹤。超駕倫輩。甞與諸僧。行於池側。諸僧取水洗瀨。儼止之曰。若物屬他。不與不取。他池水。寧得非盜。又夏中正食。蠅來器上。儼一一以指徐引到致壁。人或問之。答曰。學修無畏施耳。自儼往來講導。涉履數州。每拱默徒行。執持衣鉢。雖有香花幡蓋。鼓樂絃歌。車馬振天地。人物隘城郭。儼但疑然不顧。邈爾居後。其所感惠利。動盈億萬。一無希取。並隨處施之。受具三衣。至終不替。不汁不破。但唯少故耳。斯乃穢累將除。業行堅固之先候也。將終數日。處處巡行。法朋舊識。人人共別。忽一日。灑掃庭院。端坐入禪。所有門徒。皆令念佛。遂因在定。於是而終。時年六十餘矣。道俗悲慟。若喪所天。素服而從弟子禮者。萬餘人矣。於是。忽有異香。氛氳滿院。經餘七日。送畢方消。亡後數年。其舌不懷。鬢髮加長二寸。容色如舊。識者。以為得道之流也。
釈智儼という僧がいた。俗姓は厳といい、同州の出身である。幼い頃から道を好み、その清らかで真実な人柄は世の凡人の上を行っていた。行いは常に堅固で、何をするにも規則正しかった。十二、三歳の時、突然インドの僧に出会い、剃髪するよう命じられた。智儼はすぐにうやうやしくその教えを受け、これにより出家した。朝邑県の戒業寺に住んだ。
それから多くの師僧のもとに通い、広く深遠な教えを求めていった。『摂大乗論』、『唯識論』、『般若経』、『維摩経』、そして『法華経』などの経典については、その奥深い趣旨をすべて貫き、その明確な意味を極め尽くした。さらに世俗の学問にも広く通じ、「老子」や「易経」についても巧みに語り、その雅やかな論と玄妙な心情は天性のものであった。
こうして幾年も経たないうちに、智儼は「法の将」と称されるようになった。いつも講説の合間には、心を静めて深い瞑想に没頭し、常に坐ったままで横になることはなく、それを習慣としていた。部屋の中にはただ一つの寝台があるだけで、他の調度品は何もなかった。まことに「高潔な法師」、言葉と行いがともに完全であった人である。
顕慶三年、太州仙掌県の僧侶や在家の信者たちが、智儼を霊仙寺に招いて『法華経』を講じてもらった。智儼は寺の還香という僧侶の部屋に滞在し、小さな家に住んだ。夜半、『法華経』を取り出して机の上に広げ、これから読もうとした時、ちょうど、還香とその侍者三人がその場にいた。智儼が香を焚き終わらないうちに、突然、経典の「仏」という文字の中から、三つの舎利が現れた。五色の光を放ち、経典全体に散り広がり、流れるようにとどまることがなかった。
還香たちは急いで寺中の僧に知らせ、皆で集まって礼拝し、一緒に舎利を取ろうとした。すると舎利は再び「仏」の文字の中へと流れ込んでいった。僧たちは礼拝し、悲しみの涙を流し、香を焚いて、もう一度その真の姿を見たいと願った。すると舎利は再び「仏」の文字の中から現れ、流れるようにとどまらなかった。しばらくすると、他の「仏」の文字の中から次々に現れては、姿を消していった。
智儼が『法華経』を講じたのは数十回にも及んだ。このように神妙な瑞兆を感得することは、あげつらって語ることなどできない。まことにその素晴らしい行いと崇高な振る舞いは、同輩たちをはるかに超えていた。
かつて、他の僧たちと池のほとりを歩いていた時、僧たちが水を汲んで手や顔を洗おうとした。智儼はそれを止めて言った。「もしそのものが他者のものであるならば、与えられない限り取ってはならない。この池の水といえども、それを盗むことにならないだろうか。」また、夏の食事の時、蝿が器の上に止まった。智儼は指で一つ一つゆっくりと蝿を導いて壁に移動させた。ある人がその理由を尋ねると、智儼は答えた。「『無畏施』(あらゆる生き物に恐れの心を取り除く施し)を学び実践しているのです。」
智儼が教えを説くために諸国を巡歴した際、いくつもの州をまたいで歩いた。いつも、ただ黙って一人で歩き、衣と鉢を持っていた。香華や幡蓋、鼓楽や弦歌、天地を震わせる車馬、都を埋め尽くす人々の大歓迎があっても、智儼は決してそれらに目を向けず、悠然と皆より後ろを歩いていた。人々が布施として捧げるものは常に億万にも及んだが、智儼は一つとして自分のものとせず、すべてその場で施し与えた。受戒した三衣は、最期まで決して替えることなく、汚さず、破ることもなかった。ただ、古くなったというだけのことである。これは煩悩の汚れが除かれようとしており、業と行いが堅固であることの先触れであった。
臨終の数日前、智儼はあちこちを巡り歩いた。法友や旧知の人々と一人ひとり別れを告げた。ある日、突然、庭や部屋を掃き清め、端座して禅定に入った。すべての弟子たちには仏の名を念じるよう命じ、そのまま禅定のままで生涯を終えた。享年六十余歳であった。僧侶も在家の信者も、まるで天を失ったかのように悲しみ、涙した。弟子の礼として白衣を着て従った者は、一万人を超えた。すると突然、異なる香りが庭中に満ちあふれ、七日余りも続き、葬儀が終わってようやく消え去った。
亡くなって数年後、その舌は朽ちることなく、髪と髭は二寸も伸び、顔色は生前のままであった。識者は、これをもって智儼が悟りを得た者の仲間であると語った。
- 晉剡東仰山竺法深
- 晉剡葛峴山竺法崇
- 晉於潛青山竺法曠
- 晉匡山東林寺釋慧遠
- 晉蜀龍𣾺寺釋慧持
- 晉彭城郡釋道融
- 晉長安釋曇影
- 宋吳虎丘山釋曇諦
- 宋京師何園寺釋慧亮
- 宋下定林寺釋僧鏡
- 宋會稽嘉祥寺釋曇機
- 宋豫州釋道慈
- 齊偽魏濟州釋道登
- 齊京師湘宮寺釋弘充
- 齊荊州竹林寺釋僧慧
- 齊廬山釋法龍
- 梁京師靈味寺釋寶亮
- 梁上定林寺釋法通
- 梁鐘山開善寺釋智藏
- 陳楊都大禪眾寺釋法勇
- 陳楊都大彭城寺釋寶瓊
- 周潼州光興寺釋寶彖
- 隋東都內慧日道場釋道莊
- 隋常州安國寺釋慧弼
- 隋吳郡虎丘山釋智聚
- 隋丹陽仁孝道場釋智珠
- 隋九江廬山大林寺釋智錯
- 隋京師大興善寺釋弘遵
- 隋京師大興善寺釋靈藏
- 隋江都安樂寺釋慧海
- 唐京師紀國寺釋慧淨
- 唐京師定水寺釋僧鳳
- 唐京師通玄寺釋慧頵
右竝非專業。兼弘異部。略題徽目。知蘭蓀不絕耳。
以上は専門的なものではなく、異なる部派の教えも兼ねて広めています。その大まかな要点を記すことで、仏教の良い香り(蘭や蘓のような)が絶えることなく伝わることを願っています。
弘贊法花傳卷第三
弘賛法華伝 巻第三