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弘賛法華伝 (弘贊法華傳)


弘贊法花傳卷第四

弘賛法華伝 巻第四

藍谷沙門慧詳撰

藍谷沙門慧詳撰

修觀第四

第四:観の修行

  • 陳南岳禪慧思
  • 隋天台山釋智顗
  • 唐天台山釋智璪
釋慧思。俗姓李氏。武津人也。少以慈恕。知名閭里。甞數夢梵僧勸令出俗。駭悟斯瑞。辭親入道。所投之寺。非是鍊居。乃感神僧訓令齋戒。奉持守素。日惟一食。不受別供。周旋迎送。都皆杜絕。年登三十。在一空澤。立志誦法花經。誦之始半。忽有潛流漂漲。處處淹漬。沒所坐床。及至身半。俄有遍體浮腫。不堪動運。乃立誓而言曰。我於此經。必有緣者。水當消滅。疾亦當差。如其無緣。水有重益。即於爾夜。水遂減耗。身疾亦愈。即停此處十年。誦經閉目。便見釋迦彌勒來為說法。時覩遠近山陵。坦無高下。若斂念誦經。其七卷諸品。行句字義。歷然覩見。後移往陶丘山。山前誦經之處。甚多林木。俗人遇有侵伐。即感癩病。祈請還差。又於一夏。行法花懺。唯行及坐。脅不至床。夏竟。歎曰。吾一夏勤苦。空無所獲。方欲放身。倚憑繩床。豁然開朗。心意明徹。證入法門。未敢自信。試讀大智度論初卷。即便心悟。一不遺忘。兼識言下之旨。如是遂讀通一百卷。並能誦記。明解義味。自後誦念之暇。多講釋論及法花經。思知齊曆告終。乃託身陳國。即入衡岳花蓋峯下。立寺行道。初見一捕鳥人。掘地施弶。乃往告云。淺掘淺掘。傷我髑髏。入地未深。遂得白骨一具。捕人怪異。請問慇懃。思乃答云。我已二生。居此峯下。誦法花經。捨身於此。前身骸骨。並已消亡。今生見者。乃是第二身耳。所止菴舍。野人所焚。遂顯癘疾。投誠歸懺。既受草室。持經如故。其人不久。所患平復。又夢梵僧數百形服瓌異。上坐命曰。汝先受戒。律儀非勝。既遇清眾。宜更翻壇祈請。師僧三十二人。加羯磨法。具足成就。後忽驚悟。方知夢受。自斯已後。勤務更深。由此苦行。得見三生所行道事。又夢彌勒彌陀說法開悟。故造二像。竝而供養。又夢隨從彌勒。與諸眷屬。同會龍花。心自惟曰。我於釋迦末法。受持法花。今值慈尊。感傷悲泣。豁然覺悟。轉復精進。又以道俗福施。造金字法花。瑠璃寶函。莊嚴炫曜。功德傑異。大發眾心。又講此經。隨文造書。莫非幽蹟。後命學士智顗。代講金經。至一心具萬行處。顗有疑焉。思為釋曰。汝向所疑。此乃大品次第意爾。未是法花圓頓旨也。吾昔夏中。苦節思此。後夜一念頓發諸法。吾既身證。不勞致疑。顗即諮受法花行法。三七境界。難卒載敘。每年。陳主三信參勞。供填眾積。榮盛莫加。說法倍常。神異難測。或現形小大。或寂爾藏身。或異香奇色。祥瑞亂舉。臨將終時。從山頂下半山道場。大集門學。連日說法。苦切呵責。聞者寒心。告眾人曰。若有十人。不惜身命。常修法花三昧。方等懺悔。常坐常行者。隨有所須。吾自供給。必須利益。如無此人。吾當遠去。苦行事難。竟無答者。因屏眾斂念。俄然命盡。咸聞異香。滿於室內。頂煙身輕。顏色如常。即陳太建九年六月二十二日也。春秋六十有四。然而身相挺特。能自勝持。不倚不斜。牛行象視。頂有肉髻。異相莊嚴。見者迴心。不覺傾伏。又善識人心。鑒照冥伏訥於言過。方便誨引。行大慈悲。奉菩薩戒。至如繒纊皮革。多由損生。故其徒屬服章。率加以布。寒即艾衲。用犯風霜。自佛法東流。幾六百載。惟斯南岳慈行可歸。所著四十二字門兩卷。無諍行門兩卷。釋論玄隨自意安樂行次第禪要三智觀等。五部各一卷。並行於世。

南嶽の慧思大師。俗姓は李氏、武津の人である。幼い頃から慈悲深く穏やかで、村で広く知られていた。幾度か夢にインドの僧が現れ、出家を勧めるのを見た。この不思議な兆しに驚き悟るところがあり、両親に別れを告げて修行の道に入った。しかし、最初に入った寺は修行に適した場所ではなかった。そこで神僧の感応があり、斎戒を守るよう教えられた。大師はこれを守り、清らかな生活を保ち、一日に一度の食事だけを取り、特別な供養は受け入れなかった。人と会うことや見送りなどの交際もすべて断った。

三十歳の時、ある広い沼沢地で、法華経を読誦しようと心に誓った。読み始めて半ばに差し掛かった時、突然地下水が湧き出し、あちこち水浸しになった。水は座っている床にまで達し、やがて体の半分まで浸かったかと思うと、たちまち全身が浮腫み、身動きもできなくなった。そこで大師は誓って言った。「この経典に私が必ず縁があるならば、水は消え、病も癒えるでしょう。もし縁がなければ、水は更に増すでしょう」。するとその夜のうちに、水は減り、病も治った。その後、大師は同じ場所に十年間留まり、経を読み続けた。目を閉じて読経すると、釈迦牟尼仏と弥勒菩薩が来て説法してくださるのを見た。また、遠くの山々や丘陵が平らになり、高低のないのが見えた。心を落ち着けて経を読めば、七巻すべての品、行、句、字の意味が、はっきりと目の前に現れた。

その後、陶丘山に移った。山の前で読経した場所には多くの木々が茂っていた。俗人がこの木を伐ると、すぐにハンセン病に罹った。祈り願ってようやく治ったこともあった。また、ある夏の間に法華懺法を行い、歩くときと座るとき以外は、脇を床に着けることさえしなかった。夏が終わり、大師は嘆いて言った。「私は一夏、苦行に励んだが、何も得るところがなかった。もう身を任せよう」と、縄のbedに寄りかかろうとした瞬間、突然心が開け、智慧が明らかになり、悟りを得た。しかし、すぐに自分を信じることもできず、試しに『大智度論』の初巻を読んでみると、すぐに心で悟り、一字も忘れず、言葉の奥にある意味をも理解した。そのまま百巻すべてを読み通し、暗記し、その意味や味わいをはっきりと理解した。それ以後は、読誦の合間に、この論や法華経を講じることが多くなった。

慧思大師は、斉の時代が終わるのを知り、身を陳の国に託した。そして衡岳の花蓋峯のふもとに入り、寺を建てて弘法した。初め、一人の鳥を捕る人が穴を掘っているのを見て、大師は行って告げた。「浅く掘りなさい、浅く掘りなさい。私の頭蓋骨を傷つけてしまう」。まだ深く掘らないうちに、白骨が一組出てきた。その狩人は不思議に思い、丁寧に尋ねた。大師は答えて言った。「私はすでに二度、この峯のふもとに生まれ、法華経を読誦し、ここで命を終えた。前世の骨はすでに無くなってしまった。今あなたが見つけたのは、第二の身の骨である」。

かつて住んでいた草庵は、村人に焼き払われた。すると大師は重い病を示し、心から懺悔した。新しい草の部屋を与えられ、以前のように経を読み続けると、その村人はすぐに病から癒えた。また、夢に何百人ものインドの僧が、奇妙で立派な衣をつけて現れ、上座の僧が言った。「あなたは以前に戒を受けたが、その戒の作法は完全ではなかった。今、清らかな僧侶たちに出会ったのだから、改めて戒壇を設け、祈りなさい」。そして三十二人の師僧が羯磨の作法を加え、戒を完全に成就させた。すると突然、大師ははっと目覚め、夢の中で戒を受けたことを知った。この後、修行はますます深まった。この苦行によって、三生にわたって修行した事柄を見ることができるようになった。

また、夢の中で弥勒菩薩や阿弥陀仏が説法し、悟りを開かせてくださったので、この二尊の像を造り、並べて供養した。さらに夢で弥勒菩薩に従い、多くの眷属と共に竜華樹の下の集いに参加した。大師は心の中で思った。「私は釈迦牟尼仏の末法の時代に法華経を受持した。今、慈尊(弥勒菩薩)にお会いできたのだ」と、感極まって泣いた。はっと悟り、ますます精進した。また、在家・出家の人々の布施によって、金字の法華経を作り、瑠璃の宝箱に入れ、荘厳にして輝かせた。その功徳は並外れて素晴らしく、多くの人々の心を大いに奮い立たせた。

また、この経を講じるにも、文に従って書を作り、その筆跡はみな深い意味を含んでいた。後に、弟子の智顗に命じて、金字の経を代わりに講じさせた。「一心に万行が具わる」という箇所に来た時、智顗は疑問を抱いた。慧思大師は説明して言った。「あなたが疑問に思ったところは、これは『大品般若経』の段階的な教えの意味であって、法華経の円満で完全な教えではない。私は昔、夏の間に苦心してこのことについて考え、後夜に一念ですべての真理が現れるのを悟った。私は自ら身をもって証得したのだから、疑うには及ばない」。そこで智顗は法華の行法を教え受け、二十一日間の修行をした。その境地は、ここに書き尽くすことは難しい。

毎年、陳の国の君主が三度、使いを送って労い、供物は山のように積まれ、その栄誉は比べるものがなかった。説法は常に勝れ、神変不思議なことは測り知れなかった。時に小さく、時に大きく姿を現し、あるいは静かに身を隠し、あるいは異なる香や珍しい色の光が現れ、吉祥の瑞兆が次々と起こった。

臨終が近づくと、山頂から半山ほどの道場に下り、大勢の門弟や学侶を集め、何日も説法し、厳しく呵責した。聞く者は心を寒くした。大師は人々に告げて言った。「もし十人の者がいて、命を惜しまず、常に法華三昧や方等懺悔を修め、常に坐り、常に行を修めるなら、必要なものは何でも私が与えよう。必ず利益を受けさせよう。もしそのような者がいなければ、私は遠くへ去ろう」。苦行は難しく、ついに誰も答えなかった。そこで人々を退け、心を静めて念じていると、やがて息を引き取った。たちまち室の中に異香が満ちた。頭のてっぺん(頂門)から温かみがあり、身体は軽く、顔色は普段のままであった。時に陳の太建九年(577年)六月二十二日。春秋六十四歳であった。

その身体はひときわ立派で、自らをしっかりと保ち、倚りかかることも傾くこともなく、牛のように歩き、象のように見渡した。頭のてっぺんには肉髻(肉のこぶ)があり、異様な相が整っていた。見る者は心を改め、自然とひれ伏さずにはいられなかった。また、人の心をよく見抜き、暗く隠れた心までも映し出したが、言葉の過ちには無口で、巧みに導き、大きな慈悲の心を行じ、菩薩戒を奉じた。絹や綿、皮革などは、多くが生き物の命を損なうものであるので、その弟子たちの衣服はすべて布を用いた。寒い時にはヨモギを詰めた衲衣で、風霜を凌いだ。

インドから佛法が東に流れて、六百年近くになるが、ただこの南岳大師(慧思)の慈悲の行だけが、帰依すべきものであった。著したものには、『四十二字門』二巻、『無諍行門』二巻、『釈論玄』、『随自意』、『安楽行』、『次第禅要』、『三智観』の五部、各一巻があり、いずれも世に行われている。

釋智顗。字德安。姓陳氏。頴川人也。有晉遷都。寓居荊州之花容焉。即梁散騎益陽公起祖之第二子也。母徐氏。夢香煙五彩。縈迴在懷。欲拂去之。聞人語曰。宿世因緣。寄託弘道。福德自至。何以去之。又夢吞白鼠。如是再三。怪而卜之。師曰。白龍之兆也。及誕育之夜。室內洞明。信宿之間。其光乃止。內外胥悅。盛陳鼎爼。遂火滅湯冷。為事不成。忽有二僧。扣門曰。善哉兒德所熏。必出家也。言訖而隱。賓客異焉。兼以臥便合掌。坐必面西。年大已來。口不忘噉。見像便禮。逢僧必敬。七歲。憙往伽藍。諸僧訝其情志。口授普門品。初契一遍即得。年十有八。投湘州果願寺沙門法緒。而出家焉。因潛大賢山。誦法花經。及無量義普賢觀等。二旬未浹。三部究竟。又詣光州大蘇山慧思禪師。受業止觀。思又從道於就師。就又受法於最師。此三人者。皆不測其位也。思每歎曰。昔在靈山。同聽法花。宿緣所追。今復來矣。即示普賢道場。為說四安樂行。顗乃於此山。行法花三昧。始經三夕。誦至藥王品。心緣苦行。至是真精進句。解悟便發。見共思師處靈鷲山七寶淨土。聽佛說法。故思云。非爾不感。非我莫識。此法花三昧前方便也。又入𭰝州白沙山。如前入觀。於經有疑。輒見思來冥為披釋。爾後常令代講。聞者伏之。即往天台。於寺北花頂峯。獨靜頭陀。忽大風拔木。雷霆震吼。魅千群。一形百杖。吐大聲叫。駭畏難陳。乃抑心安忍。湛然自失。又患身心煩痛。如被火燒。又見亡歿二親。枕顗膝上。陳苦求哀。顗又依止法忍。不動如山。故使強輕兩緣所感便滅。忽致西域神僧告曰。制敵勝怨。乃可為勇。文多不載。自後廣流禪慧。學者如林。當時名匠。伏膺相繁。陳隋二代帝主后妃。咸受歸戒。供施殷積。後往石城寺。於佛前。將就來報。施床東壁。面向西方。稱阿彌陀佛。波若觀音。時有欲進藥者。答曰。藥能遣病。以留殘年乎。病不與身合。藥何所遣。年不與心合。藥何所留。智晞往日。復何所聞。觀心論內。復何所道。紛紜醫藥。累擾於他。吾生勞毒器。死悅休歸。世相如是。不足多歎。便令唱法花經題。顗贊引曰。法門父母。慧解由生。本迹弘大。微妙難測。輟斧絕絃於今日矣。又索香湯漱口。說十如。四不生。十法界。三觀。四教。四無量。六度等。有問其位者。答曰。汝等嬾種善根。問他功德。如旨問孔蹶者訪路(云云)吾不領眾。必淨六根。為他損己。只是五品內位耳。又勅維那。人命將終。聞鍾磬聲。增其正念。唯長久氣盡為期。云何身冷。方復響磬。世間哭泣著服。皆不應作。且各默然。吾將去矣。言訖。端坐如入定。而卒於天台山大石像前春秋六十有七。即開皇十七年十一月二十二日也。滅後依於遺教而殮焉。至仁壽末年已前。忽振錫披衣。猶如平昔。凡經七現。重降山寺。一還佛壟。語弟子曰。案行故業。各安隱耶。舉眾皆見。悲敬言問。良久而隱。所著。法花疏。止觀門。修禪法等。各數十卷。顗。東西垂範。化通萬里。所造大寺。三十五所手度僧眾。四千餘人。寫經一十五藏。金檀畫像。十萬許軀。五十餘州道俗。受菩薩戒者。不可稱紀。傳業學士。三十二人。習禪學士。散流江漢。莫限其數。沙門灌頂。侍奉多年。歷其景行。可二十餘紙。

釋智顗──その字は徳安、姓は陳氏、潁川の人である。晋の都が遷ってから、荊州の花容に寓居していた。すなわち梁の散騎・益陽公である陳起祖の第二子である。母の徐氏は、五色の香煙が懐にまとわりつく夢を見た。払いのけようとすると、「前世からの因縁により、弘道を託されたのだ。福徳は自ずから至る。なぜそれを払うのか」と声が聞こえた。また、白鼠を飲み込む夢を幾度も見たので、怪しんで占いをしたところ、師は「それは白龍の兆しです」と言った。出産の夜には室内が明るく光り、二晩ほどでその光は止んだ。内外の人々は皆喜び、盛大に供え物を用意したが、火が消え湯が冷めてしまい、事は成らなかった。そこへ突然、二人の僧が門を叩き、「善きかな、この子は徳に熏じられている。必ず出家するだろう」と言い終えると、姿を消した。賓客たちはこれを怪しんだ。また、寝るときは掌を合わせ、座るときは必ず西を向いた。成長するにつれて、口は食べ物を好まず、仏像を見れば礼をし、僧に逢えば必ず敬った。七歳のとき、伽藍へ行くのを好み、僧たちはその志を怪しみ、普門品を口授した。最初に一度合わせて即座に覚えた。十八歳で、湘州果願寺の沙門・法緒に従って出家した。そして大賢山にこもり、法華経や無量義経、普賢観経などを誦した。二十日も経たないうちに、三部をすべて修了した。さらに光州大蘇山の慧思禅師のもとを訪れ、止観の教えを受けた。慧思はまた就師に、就師は最師に法を受けた。この三人の位は、測り知れないものであった。慧思は常に嘆じて言った。「昔、霊鷲山で共に法華を聞いた。宿縁に導かれ、今また来たのだ。」そして普賢道場を示し、四安楽行を説いた。智顗はこの山で法華三昧を行じた。始めて三晝夜、薬王品を誦し、心を苦行に留め、「是れ真精進」の句に至って、悟りを開いた。慧思師と共に霊鷲山の七宝浄土にいて、仏の説法を聞くのを見た。ゆえに慧思は言った。「君でなければ感じることはできず、私でなければ識ることはできない。これが法華三昧の前方便である。」また湷州白沙山に入り、以前のように観に入った。経典に疑問があると、必ず慧思が来て密かに解き明かしてくれるのを見た。その後、常に代わって講義をさせられ、聞く者は皆心服した。そして天台山に向かい、寺の北方の花頂峰で、独り静かに頭陀を行じた。突然、大風が木を抜き、雷が轟き、千もの鬼の群れが現れて様々な形相で叫び、恐ろしさは言葉に尽くせなかった。しかし心を抑えて耐え忍び、湛然として自己を失った。さらに身心の煩痛に悩まされ、火に焼かれるようであった。また亡くなった両親が智顗の膝に頭を載せ、苦しみを訴えて哀れみを乞うのも見た。智顗はやはり法忍に依り、動かず、山の如くであった。それゆえに、強い縁と軽い縁の両方の感応が滅した。そこに突如、西域の神僧が現れて告げた。「敵に勝ち怨みに勝つことこそ、勇というのである。」文が多くてすべては載せない。以後、禅慧が広く流布し、学ぶ者は林の如くであった。当時の名だたる匠たちも、多くが彼に帰依した。陳と隋の二代の帝・后・妃たちは皆、帰戒を受け、供養や布施は夥しかった。後に石城寺に行き、仏の前で、来世の報いを受けようとし、床を東の壁に設け、西方を向いて、阿弥陀仏と般若観音を称えた。薬を進めようとする者があったが、答えて言った。「薬は病を祓い、残りの年を留めることができようか。病が身と合わなければ、薬は何を祓うのか。年が心と合わなければ、薬は何を留めるのか。智晞は以前、何を聞いたのか。観心論の中には、何と説かれていたのか。医薬に紛糾し、他人に累を及ぼす。我が生は毒の器、死は楽しみの帰り。世の相はかくの如し。嘆くに足りない。」そして法華経の題目を唱えさせ、智顗は引き導いて言った。「法門の父母、慧解はこれより生ず。本迹は広大にして、微妙にして測り難し。斧を絶ち絃を断つことは、今日に及んだ。」さらに香湯を求め、口を漱ぎ、十如、四不生、十法界、三観、四教、四無量、六度などを説いた。その位を問う者があった。答えて言った。「あなたがたは善根を植えることに怠け、他人の功徳を問う。例えば、孔や蹶のある道を尋ねるようなものだ(云々)。私は衆生を導かなければ、必ず六根を清らかにしていただろう。しかし、他人のために自己を損なったので、ただ五品内の位にとどまっている。」また維那に命じた。「人の命が終わろうとするとき、鐘や磬の音を聞けば、その正念が増す。ただ、息が長く絶えるときを期とせよ。どうして身が冷えてから、磬を鳴らすことがあろうか。世間の泣き悲しみや喪服は、すべて行うべきではない。おのおの黙していなさい。私は行こう。」言い終えて、端坐し、入定するようにして、天台山大石像の前で亡くなった。春秋六十七。すなわち開皇十七年十一月二十二日である。滅後は遺教に従って葬られた。仁寿末年までに、忽然として錫杖を振り、衣をまとった、生前のように。全部で七度現れ、再び山寺に降り、一度は仏の龕に戻った。弟子たちに言った。「昔の業を見て回ろう。皆、安らかか。」全員がこれを見て、悲しみと敬いをもって言葉を交わし、しばらくして姿を消した。著したものは、法華疏、止観門、修禅法等、各数十巻。智顗は東西に範を示し、教化は万里に通じた。建てた大寺は三十五ヶ所。自ら剃度した僧衆は四千余人。写経十五藏。金や栴檀の仏像は十万体ほど。五十余州の道俗で菩薩戒を受けた者は、数えきれないほどであった。教えを伝えた学士は三十二人。禅を修めた学士は、江漢に散らばり、その数は限りがない。沙門・灌頂が長年お仕えし、その善行を記録して、二十数枚に及んだ。

釋智璪。俗姓張氏。清河人。晉室播遷。寓居臨海。祖元秀。梁倉部侍郎。任臨海內史。父文懷。陳中兵將軍。璪受經之歲。言無虛發。行不慚人。親里鄉隣。深加敬愛。年登十七。二親俱逝。便投安寧寺慧憑法師。以為弟子。逖聞智者軌行超群。為世良導。即泛舸豐流。直指台岫。伏膺受道。乃遣行法花懺悔。第二七日初夜。懺訖。還就禪床。始欲安坐。仍見九頭龍。從地涌出。上昇虛空。明旦諮白。云此是表九道眾生。聞法華經。將來之世。破無明地。入法性空耳。又陳至德四年。永陽王伯智。作牧仙都。延屈智者。來于鎮所。璪隨師受請。同赴稽山。九旬坐訖。仍即辭王。往寶林山寺。行法華三昧。初日初夜。如有人來搖動戶扉。璪即問之。汝是何人。夜來搖戶。即長聲答云。我來看燈耳。頻經數過。問答如前。其寺內。先有大德惠成禪師。夜具聞之。謂弟子曰。彼堂內。從來有大惡鬼。今聞此聲。必是鬼來取人也。天將欲曉。成師扣戶而喚。璪未暇得應。便繞堂唱云。苦哉苦哉。其人了矣。璪即開戶問意。答云。汝猶在耶。吾謂昨夜鬼已害汝。故此嗟耳。成師以事諮王。王遣數十人。執仗防護。璪謂防人曰。命由業也。豈防護所加。願諸仁者。將領還城所。啟王云爾。防人去後。第二日夜。鬼入堂內。槌壁打柱。周遍東西。堂內六燈。璪即滅五留一。行道坐禪誦經。坦然無懼。於三七日中。事恒如此。行法將訖。見一青衣童子。稱讚善哉。言已不現。雖值此二緣。心無憂喜。隋大業元年。駕幸江都。璪銜僧命出參。引入內殿。御遙見璪。即便避廗。命令就坐。種種顧問。便遣通事舍人盧正方。送璪還山。為智者。設一千僧齋。度四十九人出家。施寺物二千段。米三千石。并香蘇等。前後凡經八迴。參見天子。並蒙喜悅。供給豐厚。以貞觀十二年。卒於寺。春秋八十三矣。

釋智璪、俗姓は張氏、清河の人である。晋の時代に都が移り住むにあたり、臨海に寓居した。祖父は元秀で、梁の倉部侍郎となり、臨海内史を務めた。父は文懐で、陳の中兵将軍であった。智璪は経典を学ぶ年頃になると、言葉に虚偽はなく、行いに恥じるところがなかった。親族や近隣の人々は、深く敬い愛した。

十七歳の時に両親が相次いで亡くなり、安寧寺の慧憑法師を訪ねて弟子となった。遠くから智者大師の行いが優れ、世の良き導き手であると聞き、船で豊流を渡り、台嶽を直接目指した。師に従い教えを受け、法華懺悔を行うよう命じられた。第二七日目の初夜、懺悔を終えて禅床に戻り、座ろうとしたところ、九つの頭を持つ龍が地から湧き出て虚空に昇るのを見た。翌朝、このことを師に告げると、師は「これは九道の衆生が法華経を聞き、未来の世に無明の地を破り、法性の空に入ることを示すものだ」と言った。

また、陳の至徳四年、永陽王の伯智が仙都の長官となり、智者大師を招いて館に迎えた。智璪は師に従って招きを受け、共に稽山へ向かった。九十日の坐禅を終え、王に別れを告げて宝林山寺に向かい、法華三昧を修行した。最初の日の夜、人が来て戸を揺するような音がした。智璪が「誰か。夜に戸を揺するのは」と問うと、長く「私は灯を見に来たのだ」と声が返った。何度か同じことが繰り返され、問答も同じであった。

この寺には以前から大徳の惠成禅師がおり、夜にその声を聞いて弟子に言った。「あの堂には昔から大悪鬼がいる。今のこの声は、鬼が人を取りに来たに違いない。」夜明け近く、惠成師が戸を叩いて呼んだが、智璪はすぐに応じなかった。すると惠成師は堂の周りを回りながら、「苦しいかな、苦しいかな。あの人はもう終わった」と唱えた。智璪が戸を開けて問うと、「あなたはまだ生きていたのか。私は昨夜、鬼があなたを害したと思い、嘆いたのだ」と答えた。慧成師はこのことを王に報告し、王は数十人の護衛をつけて守らせた。智璪は護衛に言った。「命は業によるもの。防護でどうにかなるものではない。皆さんは城に戻り、王にそのようにお伝えください。」護衛が去った後、二日目の夜、鬼が堂内に入り、壁を打ち、柱を叩き、東西に荒れ回った。堂内に六つの灯があったが、智璪は五つを消して一つを残し、経を唱え坐禅し、怯えることなく平然としていた。三七日の間、このようなことが続いた。修行が終わろうとする時、青衣の童子が現れ、「善哉」と称賛して、姿を消した。この二つの出来事に遭遇しても、心に憂喜はなかった。

隋の大業元年、皇帝が江都に行幸された時、智璪は僧侶の命を受けて参内した。内殿に招き入れられ、皇帝は遠くから智璪を見ると席を避け、座るように命じた。様々なことを尋ねられ、通事舎人の盧正方に命じて智璪を山に送り返させた。智者大師のために千僧斎を設け、四十九人の出家者を度し、寺に品物二千段、米三千石、香や蘇などを施した。前後して八度、天子に拝謁し、その都度喜ばれ、厚い供養を受けた。

貞観十二年、寺で亡くなった。八十三歳であった。

弘贊法花傳卷第四

弘賛法華伝 巻第四


3 講解
5 遺身

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