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title: "法華經入疏 · 觀世音菩薩普門品第二十五"
description: "法華經入疏又名法華經入注，由宋代僧人道威入注。该书是对鸠摩罗什所译《妙法莲华经》的权威注疏，成书于宋代佛教义学兴盛时期。内容以天台宗圆教思想为核心，逐句阐释经文的深奥义理，涵盖一乘实相、开权显实、会三归一等重要教义。此疏结合了智顗等前代祖师的观点，系统深入，是研究《法华经》及天台宗教理的关键文献，在佛教注疏史上具有重要地位，为后世学者所重视。"
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妙法蓮華經觀世音菩薩普門品第二十五

> \*\*法華経 観世音菩薩 普門品 第二十五\*\*

第二觀音品。明所化弟子三昧乘。乘為三：初、釋品目；二、示章意；三、釋經文。釋品目中，初、簡異彰要；二、撮要釋題。初、明此品是當途王經，講者甚眾，今之解釋不與他同。別有私記兩卷，今略撮彼釋此。題有通有別，通有十雙，別有五隻，在下委明。初、通有十雙者：一、觀世音人也，普門法也。人有多種，竝是示為一實，并七方便。法有多種，即前後問答，云何而為眾生說法等事。依前問答，論觀世音人；依後問答，論普門法。人法合題，故言觀世音普門品。二、拔苦與樂明：觀世音者，大悲拔苦。依前問答，百千苦惱皆得解脫；普門者，大慈與樂。依後問答，應以得度而為說法也。三、約福慧二嚴明：觀世音者，智慧莊嚴，智能斷惑，如明時無闇；普門者，福德莊嚴，福能轉壽，如珠雨寶者也。四、真應二身明：觀世音者，觀冥於境，即法身也；普門者，隨所應現，即應身也。五、約藥樹珠王明：觀世音者，譬藥樹王，徧體愈病；普門者，譬如意珠王，隨意所與。六、冥顯二益明：觀世音者，冥作利益，無所見聞，三毒七難皆離，二求兩願皆滿也；普門者，顯作利益，目覩三十三聖容，耳聞十九尊教也。七、約權實二智明：觀世音者，隨自意照，實智也；普門者，隨他意照，權智也。八、本迹明：觀世音者，不動本際也；普門者，迹任方圓也。九、緣了二因明觀世音者，根本是了因種子；普門者，根本是緣因種子也。十、智斷二德明觀世音者，究竟是智德，如十四夜月光；普門者，究竟是斷德，如二十九夜月，邪輝將盡也。經文兩問答，含無量義，略用十雙，始從人法，終至智斷，釋品通名，其義如是。第二、別論五隻者，初、釋觀者，觀有多種，謂析觀、體觀、次第觀、圓觀。析觀者，滅色入空也；體觀者，即色是空也；次第觀者，從析觀乃至圓觀也；圓觀者，即析觀是實相，乃至次第觀亦實相也。今簡三觀，唯論圓觀，文云普門也。觀若不圓，門不稱普，即此義也。二、釋世者，若就於行，先世後觀；若就言說，先觀後世。今從說便，故後論世。世亦多種，謂有為世、無為世、二邊世、不思議世。有為世者，三界世也；無為世者，二涅槃也。二邊世者，生死、涅槃也；不思議世者，實相境也。揀却諸世，但取不思議世也。三、釋音者，機也。機亦多種，人天機、二乘機、菩薩機、佛機。人天機者，諸惡莫作，諸善奉行也；二乘機者，厭畏生死，欣尚無為也；菩薩機者，先人後己，慈悲仁讓也；佛機者，一切諸法中，悉以等觀入，一切無礙人，一道出生死也。揀却諸音之機，唯取佛音之機而設應，以此機應因緣，故名觀世音也。四、釋普者，周徧也。諸法無量，若不得普，則是偏法；若得普者，則是圓法。故思益云：一切法邪，一切法正。略約十法明普。得此意已，類一切法無不是普，所謂慈悲普、弘誓普、修行普、離惑普、入法門普、神通普、方便普、說法普、成就眾生普、供養諸佛普。始自人天，終至菩薩，皆有慈悲。然有普有不普，生法兩緣，慈體既偏，被緣不廣，不得稱普。無緣與實相體同，其理既圓，慈靡不徧，如礠石吸鐵，任運相應。如此慈悲徧熏一切，名慈悲普。弘誓普者，弘，廣也；誓，制也。廣制要心，故言弘誓。弘誓約四諦起，若約有作無生無量四諦者，收法不盡，不名為普；若約無作四諦者，名弘誓普也。修行普者，例如佛未值定光佛前，凡有所修，不與理合，從得記已，觸事即理，理智歷法而修行者，無行而不普也。斷惑普者，若用一切智、道種智斷四住塵沙等惑，如却枝條，不名斷惑普；若用一切種智斷無明者，五住皆盡，如除根本，名斷惑普也。入法門普者，道前名修方便，道後所入名入法門。若二乘以一心入一定，一心作一，不得眾多，又為定所縛，故不名普；若歷別諸地淺深階差，亦不名普；若入王三昧，一切三昧悉入其中，不起滅定，現諸威儀，故名入法門普也。神通普者，大羅漢天眼照大千，支佛照百佛世界，菩薩照恒沙世界，皆緣境狹，發通亦偏。若緣實相修者，一發一切發，相似神通，如下說，況真神通而非普耶？方便普者，二種道前，方便修行中攝。道後又二：一者法體，如入法門中說；二者化用，如今說。逗機利物，稱適緣宜，一時圓徧，雖復種種運為，於法性實際而無損減，是名方便普也。說法普者，能以一妙音稱十法界機，隨其宜類，俱令解脫，如脩羅琴，故名說法普也。成就眾生普者，一切世間及出世間所有事業，皆菩薩所為，鑿井造舟，神農甞藥，雲蔭日照，利益眾生，乃至利益一切賢聖，示教利喜，令入三菩提，是名成就眾生普也。供養諸佛普者，若作外事供養，以一時、一食、一華、一香，供養一切佛，無前無後，一時等供，於一塵中出種種塵，亦復如是。若作內觀者，圓智導眾行，圓智名為佛，眾行資圓智，即是供養佛。若行資餘智，不名供養普，眾行資圓智，是名供養普也。五釋門者，從假入空，空通而假壅，從空入假，假通而空壅，偏通則非普，壅故非門。中道非空非假，正通實相，雙照二諦，故名普，正通故名門。普門圓通，義則無量，略舉其十雙五隻，類則可知。釋題目竟。次示章意者，此品猶是普現三昧，化他流通也。第三正釋經文，文為三：一問，二答，三聞品得益也。問答兩番，初番問答為二：初問又二：

> \*\*第二 観音品\*\* 明かすところは、化せられる弟子の三昧の乗。乗には三つあり。初めに品目の解釈、次に章の意を示す、三に経文を解釈する。 品目を解釈する中で、初めに異なる点を簡明に示して要を彰かにし、次に要を撮って題を解釈する。初めに、この品は当世の王たる経であり、講じる者は非常に多いが、今の解釈は他と異なる。別に私記二巻があり、今はその要を略撮ってこれを解釈する。 題には通有り別有り。通には十双あり、別には五隻あり、下で詳しく明かす。 初めに、通の十双とは。 一に、観世音は人、普門は法なり。人に多種あり、全て一実を示すもの、並びに七方便なり。法に多種あり、即ち前後の問答にて、「云何が衆生のために説法等の事をなすや」と。前の問答に依りて観世音の人を論じ、後の問答に依りて普門の法を論ず。人法合せて題す、故に観世音普門品と言う。 二に、拔苦与楽を明かす。観世音は大悲にて苦を拔く。前の問答に依りて、百千の苦悩皆解脱を得。普門は大慈にて楽を与う。後の問答に依りて、応に得度すべきを以て説法す。 三に、福慧二厳に約して明かす。観世音は智慧荘厳、智は惑を断ずること能わず、明の時に闇無きが如し。普門は福德荘厳、福は寿を転ずること能う、珠の雨の宝を降らすが如し。 四に、真応二身に約して明かす。観世音は観、境に冥ず、即ち法身なり。普門は随って応現すべき所、即ち応身なり。 五に、薬樹珠王に約して明かす。観世音は譬えば薬樹王、遍体病を癒す。普門は譬えば如意珠王、意に随いて与う。 六に、冥顕二益に約して明かす。観世音は冥く利益を作す、見聞する所無し、三毒七難皆離れ、二求両願皆満つ。普門は顕に利益を作す、目に三十三の聖容を睹、耳に十九の尊教を聞く。 七に、権実二智に約して明かす。観世音は自意に随いて照らす、実智なり。普門は他意に随いて照らす、権智なり。 八に、本迹に約して明かす。観世音は本際を動かさず。普門は迹、方円に任す。 九に、縁了二因に約して明かす。観世音の根本は、是れ了因の種子。普門の根本は、是れ縁因の種子なり。 十に、智断二徳に約して明かす。観世音の究竟は、是れ智徳、十四夜の月光の如し。普門の究竟は、是れ断徳、二十九夜の月、邪輝の将に尽きんとするが如し。 経文の両問答、無量の義を含む。略して十双を用い、始めは人法より、終わりは智断に至るまで、品の通名を釈す。その義、是の如し。 第二、別に五隻を論ず。 初めに、「観」を釈す。観に多種あり、謂わく析観、体観、次第観、円観。析観は、色を滅して空に入る。体観は、即ち色是れ空。次第観は、析観より乃至円観に至る。円観は、即ち析観是れ実相、乃至次第観も亦実相なり。今、三観を簡び、唯円観のみを論ず、文に普門と云う是れなり。観もし円ならざれば、門を普と称せず、即ち此の義なり。 二に、「世」を釈す。若し行に就いては、先ず世、後に観。若し言説に就いては、先ず観、後に世。今、説の便に従うが故に、後に世を論ず。世も亦多種あり、謂わく有為世、無為世、二辺世、不思議世。有為世は、三界の世。無為世は、二涅槃。二辺世は、生死、涅槃。不思議世は、実相の境なり。諸世を揀却し、但だ不思議世のみを取る。 三に、「音」を釈す。機なり。機も亦多種あり、人天機、二乗機、菩薩機、仏機。人天機は、諸悪莫作、諸善奉行。二乗機は、生死を厭畏し、無為を欣尚す。菩薩機は、先人後己、慈悲仁譲。仏機は、一切諸法中、悉く等観を以て入り、一切無礙の人、一道に生死を出づ。諸音の機を揀却し、唯仏音の機のみを取りて応を設く。此の機応因縁を以て、故に観世音と名づく。 四に、「普」を釈す。周遍なり。諸法無量、若し普を得ざれば、則ち是れ偏法。若し普を得れば、則ち是れ円法。故に思益に云く、一切法は邪、一切法は正。略して十法に約して普を明かす。此の意を得已んぬれば、一切法の普にあらざる無きを類す。所謂、慈悲普、弘誓普、修行普、離惑普、入法門普、神通普、方便普、説法普、成就衆生普、供養諸仏普。 始め人天より終り菩薩に至るまで、皆慈悲有り。然れども普なる有り、普ならざる有り。生法両縁、慈体既に偏すれば、被縁広からず、普と称することを得ず。無縁は実相体と同じ、其の理既に円ければ、慈靡く遍せず。磁石の鉄を吸うが如く、任運に相応す。此の如き慈悲、遍く一切を熏ず、名づけて慈悲普と為す。 弘誓普は、弘は広、誓は制。広く要心を制す、故に弘誓と言う。弘誓は四諦に約して起る。若し有作・無生・無量の四諦に約すれば、法を収むること尽くさず、普と名けず。若し無作の四諦に約すれば、弘誓普と名く。 修行普は、例せば仏の未だ定光仏に値はざる前、凡そ修する所有るも、理に合せず。記を得已んぬれば、事に触るれば即ち理、理智、法に歴て修行する者は、行の普にあらざる無し。 断惑普は、若し一切智、道種智を用いて四住・塵沙等の惑を断ずるは、枝條を却く如く、断惑普と名けず。若し一切種智を用いて無明を断ずるは、五住皆尽き、根本を除く如く、断惑普と名く。 入法門普は、道前を修方便と名け、道後に入る所を入法門と名く。若し二乗、一心に一一定に入り、一心に一を作す、衆多を得ず、又定の為に縛せらるるが故に、普と名けず。若し歴別の諸地、浅深階差を為すも、亦普と名けず。若し王三昧に入れば、一切の三昧、悉く其中に入る。滅定を起さずして、諸の威儀を現ず。故に普と名く。 神通普は、大羅漢の天眼、大千を照らし、支仏、百仏世界を照らし、菩薩、恒沙世界を照らすも、皆境を縁ずること狭く、発通も亦偏し。若し実相に縁じて修する者は、一発すれば一切発す。相似の神通、下説の如し、況んや真神通の普にあらざらんや。 方便普は、二種。道前の方便は修行中に摂す。道後又二つ。一には法体、入法門中の説の如し。二には化用、今説の如し。機を逗して物を利するに、縁宜と称適し、一時に円遍す。復種種に運為すと雖も、法性實際に於て損減無し。是を方便普と名く。 説法普は、能く一妙音を以て十法界の機に称し、其の宜類に随って倶に解脱せしむ。脩羅琴の如し。故に説法普と名く。 成就衆生普は、一切世間及び出世間の所有する事業、皆菩薩の所為。井を鑿ち、舟を造り、神農薬を甞め、雲蔭り日照りて、衆生を利益す。乃至一切賢聖を利益し、示教利喜して三菩提に入らしむ。是を成就衆生普と名く。 供養諸仏普は、若し外事の供養を作すに、一時、一食、一華、一香を以て、一切仏を供養し、前無く後無く、一時に等しく供養す。一塵の中に種種の塵を出すも、亦復是の如し。若し内観を作すに、円智、衆行を導く。円智を仏と名け、衆行、円智を資くる、是れ供養仏と為す。若し行、余智を資くれば、供養普と名けず。衆行、円智を資くる、是を供養普と名く。 五に、「門」を釈す。仮より空に入る、空は通じて仮は壅る。空より仮に入る、仮は通じて空は壅る。偏通は則ち普にあらず、壅は故に門にあらず。中道は空にも非ず仮にも非ず、正に実相に通じ、双に二諦を照らす。故に普と名け、正に通ずるが故に門と名く。普門円通、義則ち無量なり。略して其の十双五隻を挙ぐれば、類すれば則ち知るべし。 題目の解釈竟る。 次に、章の意を示す。此の品は、是れ猶お普現三昧、化他流通なり。 第三、正しく経文を解釈す。文を三と為す。一に問い、二に答え、三に品を聞きて得益す。問答、両番。初番の問答を二と為す。初めに問、又二つ。

爾時，無盡意菩薩即從座起，偏袒右肩，合掌向佛而作是言：

> その時、無尽意菩薩は立ち上がり、右肩をあらわにし、合掌して仏に向かい、こう申し上げました。

初經家敘時者，說東方菩薩竟，次說西方菩薩時，世界悉檀也。說東方生善竟，次說西方主善時，為人悉檀。說東方斷疑竟，次說西方斷疑時，即對治也。說東方得道竟，次說西方得道時，第一義悉檀也。言無盡意者，大品明空則無盡，大集明八十無盡門，淨名云：夫無盡者，非盡非無盡，故名無盡。總三經用三觀三智釋無盡也。意者智也，無盡者境也，智契於境，單從於境應言無盡，單從於智應言於意，境智合稱故言無盡意也。又意者世出世之本也，又意即法界中道，故言能觀心性名為上定，此約三智三觀釋名也。

> まず経典の冒頭で時を述べるとき、東方の菩薩について説き終えた後に、西方の菩薩について説く時節は、世界悉檀です。東方で善を生じさせる説法が終わり、次に西方で善を主とする時節は、為人悉檀です。東方で疑いを断つ説法が終わり、次に西方で疑いを断つ時節は、対治悉檀です。東方で悟りを得る説法が終わり、次に西方で悟りを得る時節は、第一義悉檀です。 「無尽意」という言葉について、『大品般若経』では「空」を説くことを「無尽」とし、『大集経』では八十の無尽法門を説き、『維摩経』では「無尽とは、尽くるにあらず、尽くせざるにあらず、故に無尽と名づく」とあります。これらの三経の趣旨を、三観・三智を用いて「無尽」を解釈します。 「意」とは智慧のこと、「無尽」とは真理の対象（境）のことです。智慧がその対象と一つになるので、対象だけを取れば「無尽」と言うべきであり、智慧だけを取れば「意」と言うべきところを、対象と智慧を合わせて「無尽意」と呼ぶのです。また、「意」は世間と出世間の根本であり、さらに「意」はそのまま法界・中道を意味します。ゆえに「心の本性を観ずることを、最高の禅定と名づける」と言われるのです。これは、三智・三観によって名義を解釈したものです。

世尊！觀世音菩薩以何因緣名觀世音？

> 世尊よ、観世音菩薩はどのような因縁によって「観世音」と名付けられたのですか？

次初約藥樹王身大悲拔苦冥益興問者，大經云：具二莊嚴：能問、能答。無盡意前以慧莊嚴問觀世音慧莊嚴，佛以慧莊嚴答觀世音慧莊嚴也。

> まず、薬樹王の身に基づいて大悲が苦しみを取り除き、目に見えない形で利益をもたらすことについて問いを立てます。「大経」には次のように説かれています。「二つの荘厳を備えている。すなわち、問うことができることと答えることができることである。」無尽意菩薩は智慧の荘厳をもって観世音菩薩の智慧の荘厳について問い、仏は智慧の荘厳をもって観世音菩薩の智慧の荘厳についてお答えになったのです。

△佛答為三：一、總答，二、別答，三、勸持名答。總為四：

> 仏の答えは三つに分けられます。 第一に「総答」、第二に「別答」、第三に「持名を勧める答」です。 総答は四つに分かれます。

佛告無盡意菩薩：善男子！若有無量百千萬億眾生，

> 仏は無尽意菩薩に告げられた。「善き子よ、もし無数の百千万億の生きとし生けるものたちが、

一、明人數也。自有多苦，苦一人，多人受一苦，一人受多苦，一人受少苦。今文百千萬億眾生，多人也。

> 一、まず「数」について説明します。苦しみには様々な種類があり、一人だけで多くの苦しみを抱える場合や、多くの人が一つの苦しみを共有する場合、一人が多くの苦しみを受ける場合、一人でわずかな苦しみを受ける場合があります。今ここに書かれている「百千万億の衆生」とは、多くの人々のことを指しています。

受諸苦惱。

> あらゆる苦しみや悩みを受けること。

二、明遭苦也。受諸苦惱，多苦也。舉多顯少，多尚能救，況少苦耶？

> 二、苦しみに遭うことを明らかにする。様々な苦しみや悩みを受けることを「多苦」という。多いことを挙げて少ないことを示すもので、多い苦しみさえも救うことができるのに、ましてや少ない苦しみはなおさらである。

聞是觀世音菩薩，一心稱名。

> この観世音菩薩のことを聞いたならば、心を一つにして、その名を唱えなさい。

三、明聞名稱號也。遭苦是惡，稱名是善，善惡合為機義也。

> 三、聞く名号の意味を知るということです。苦しみに遭うのは悪、名号を称えるのは善であり、善と悪が一つになったものが「機」の意味です。

觀世音菩薩即時觀其音聲，皆得解脫。

> 観世音菩薩が、その声を聞きとどけてくださることで、皆が苦しみから救われます。

四、明得解脫也。皆得解脫是應，此是機感因緣，名觀世音。亦是人法因緣，乃至智斷因緣，名觀世音。後去例如此結，名不繁文。

> 第四に、解脱を明らかにする。すべてが解脱を得るのは道理であり、これは衆生の感応による因縁であるから、観世音と名づける。また、人と法の因縁、さらには智と断の因縁によって、観世音と名づける。以降もこれに倣って結ぶので、煩雑な文章にはしない。

△別答為三：一、口機應，二、意機應，三、身機應。口又二：初明七難，次結。

> 別の答えを三つに分ける。一、口による機応、二、意による機応、三、身による機応。口はさらに二つに分かれる。初めに七つの難を示し、次にまとめる。

若有持是觀世音菩薩名者，設入大火，火不能燒，由是菩薩威神力故。

> もし、この観世音菩薩の御名を心に持つ者がいれば、たとえ大火の中に入っても、火はその者を焼くことができません。それは、この菩薩の計り知れない力によるものです。

火難為四：一、持名是善；二、遭火是惡；三、應；四、結。於一難中例為三番釋火，下去六難亦復如是。三番者：一、果報火，地獄已上、初禪已還皆論機應；二、惡業火者，地獄已上、非想已還皆論機應；三、煩惱火者，地獄已上、等覺已還皆論機應。七難、三毒、二求例皆如此。此義既廣，可以意知，不可文記也。

> 火難は四つの項目に分けられる。 一、仏の名を唱えることは善である。 二、火に遭うことは悪である。 三、それに対する応答（救い）がある。 四、まとめ。 一つの災難について、三つの観点から「火」を解説する。 以下、六つの災難についても同様である。 三つの観点とは、次の通りである。 一、果報の火…地獄から初禅天までの範囲において、衆生の機根と仏の応答を論じる。 二、悪業の火…地獄から非想天までの範囲において、衆生の機根と仏の応答を論じる。 三、煩悩の火…地獄から等覚の位までの範囲において、衆生の機根と仏の応答を論じる。 七難、三毒、二求、すべてこれに準じて理解すべきである。 この義は広大であるため、心で理解することはできても、文字に書き記すことはできない。

若為大水所漂，稱其名號，即得淺處。

> もし大水に流されている時に、その名号を唱えれば、すぐに浅い場所にたどり着けます。

二明水難，亦應約報業煩惱三番機應釋之。

> 第二に、水の難についても、報い・業・煩悩の三つの観点から、機と応の関係を説明するべきです。

若有百千萬億眾生，為求金、銀、瑠璃、硨磲、碼碯、珊瑚、琥珀、真珠等寶入於大海，假使黑風吹其船舫飄墮羅剎鬼國，其中若有乃至一人稱觀世音菩薩名者，是諸人等皆得解脫羅剎之難，以是因緣名觀世音。

> もし何百何千何万もの人々が、金、銀、瑠璃、瑠璃、車渠、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠などの宝を求めて海に入り、もし黒い風が彼らの船を吹き、羅刹の鬼の国に流れ落ちたとしても、その中でたとえたった一人でも観世音菩薩の名を唱える者がいれば、その人々は皆、羅刹の難から救われる。この因縁によって、観世音と名づけられたのである。

三、明風難，亦應三番釋之。

> ３．風難（修行の妨げとなる外的な困難）について明らかにします。これも三つの観点から説明するべきです。

若復有人臨當被害，稱觀世音菩薩名者，彼所執刀杖尋段段壞而得解脫。

> また、もし人が殺されようとする時に、観世音菩薩の名を呼べば、相手が振るう刀や棒はたちまち次々に折れ、その人は救われるのです。

四、明刀杖難，亦須三番釋之。

> 明かすべきは、刀や杖による苦しみについてであり、これもまた三つの観点から説明しなければならない。

若三千大千國土滿中夜叉、羅剎欲來惱人，聞其稱觀世音菩薩名者，是諸惡鬼尚不能以惡眼視之，況復加害？

> 仮に三千大千世界の国土すべてに夜叉や羅刹が満ちていて、人を悩まそうとしても、その者が観世音菩薩の御名を唱えるのを聞けば、それらの悪鬼たちは、目を向けることさえできず、ましてや害を加えることなどできません。

五、明惡鬼難，亦三番釋之。

> ５．悪鬼の難について、同じく三つの観点から説明します。

設復有人，若有罪、若無罪，杻械枷鏁檢繫其身，稱觀世音菩薩名者，皆悉斷壞，即得解脫。

> もし仮に、罪がある人でも罪がない人でも、手足や首に枷や鎖、道具をはめられて体を縛られたとしても、観世音菩薩の名前を一心に唱えるならば、その束縛はすべて断ち切られ、たちどころに解救けを得られます。

六、明枷鏁難，亦三番釋之。

> 六、枷鎖の難について、同じく三つの観点から説明します。

若三千大千國土滿中怨賊，有一商主將諸商人，齎持重寶經過險路，其中一人作是唱言：諸善男子！勿得恐怖，汝等應當一心稱觀世音菩薩名號，是菩薩能以無畏施於眾生。汝等若稱名者，於此怨賊當得解脫。眾商人聞，俱發聲言：南無觀世音菩薩！稱其名故，即得解脫。

> もし三千大千世界の国土が怨みを持つ賊で満ちていたとしよう。そこに一人の商人のリーダーが多くの商人たちと共に、貴重な宝を携えて危険な道を通りかかった。その一行の中で一人の者がこう叫んだ。「皆さん、どうか恐れないでください。皆さんは心を一つにして観世音菩薩の名号を唱えなさい。この菩薩は、生きとし生けるものに無畏（おそれのない心）を施してくださるのです。もし皆さんがその名を唱えれば、この怨みの賊たちから必ず救われます。」 商人たちはこれを聞いて、声を揃えて「南無観世音菩薩」と唱えた。その名を唱えたことによって、彼らはたちまち苦しみから解放されたのである。

七、明怨賊難，亦三番釋之。

> 七、怨みをなす賊の難について、三つの段階で説明します。

無盡意！觀世音菩薩摩訶薩，威神之力巍巍如是。

> 無尽意よ、観世音菩薩摩訶薩の威神の力は、このように計り知れないほど偉大なのです。

此第二，總結上七難。七難是口機者，以稱名故也。口業機應竟。

> 七つの困難はすべて口業によるものです。それは、南無阿弥陀仏と称えることによって解決されるからです。口業の機と教えの対応についての説明は以上です。

△二、明意業機應為二。

> 二、意業による機応について明かす。これには二つの項目がある。

若有眾生多於婬欲，常念恭敬觀世音菩薩，便得離欲；若多瞋恚，常念恭敬觀世音菩薩，便得離瞋；若多愚癡，常念恭敬觀世音菩薩，便得離癡；

> もし欲の強い人がいるなら、常に観世音菩薩を心に念じ、敬い崇めれば、欲から離れることができます。 もし怒りの強い人がいるなら、常に観世音菩薩を心に念じ、敬い崇めれば、怒りから離れることができます。 もし愚かさの強い人がいるなら、常に観世音菩薩を心に念じ、敬い崇めれば、愚かさから離れることができます。

初、明意三機感三毒。是意機者，令常念故，亦應如上三番釋之。

> まず、「意」という三つの機が三毒を感じ取る、ということについて明らかにします。この「意の機」とは、常に念じさせるものであるため、先に述べた三つの解釈と同様に説明すべきです。

無盡意！觀世音菩薩有如是等大威神力，多所饒益，是故眾生常應心念。

> 無尽意よ、観世音菩薩にはこのような大きな力があり、多くの利益をもたらしてくださる。だからこそ、人々は常に心を込めて念じるべきなのです。

二、結意業成機應也。

> 第二に、意業の結びつきにより、機と応が成就することを明かす。

△三、明身機為二。

> 三、身体の仕組みを明らかにする（二つの側面）

若有女人，設欲求男，禮拜供養觀世音菩薩，便生福德智慧之男。

> もし女性が男の子を授かりたいと願うなら、観世音菩薩を礼拝し供養すれば、必ず福徳と智慧を備えた男の子を授かることができます。

初求男有立願修行德業，亦應三番釋之。

> まず、幼い太子が大願を立てて修行と善行に励んでいたことを説明します。 次に、その願いが叶うまで三度の呼びかけがあったことについても述べます。

設欲求女，便生端正有相之女，宿植德本，眾人愛敬。

> もし女人を求めるならば、端正で相好を備えた娘が生まれます。それは過去世に徳の根を植えたからであり、人々から愛され敬われるのです。

次求女，文略。修行正言，禮拜是同，故略之。願業各異，故重出之。

> 次に女性を求めることについては、経文に簡略に記されています。礼拝の修行は同じなので省略されています。願いや行いによって異なるため、重ねて示されています。

無盡意！觀世音菩薩有如是力，若有眾生恭敬禮拜觀世音菩薩，福不唐捐。

> 無盡意よ、観世音菩薩にはこのような力がある。もしも衆生が観世音菩薩を敬い、礼拝すれば、その功徳（功徳）は決して無駄にはならない。

第二、結歎身業。然二求是身機者，常禮拜故。已上竝是別答初問。藥樹王身大悲拔苦冥益竟。

> 二つ目は、身の業（行動）についての賛嘆です。二つの執着（二求）を抱える人々は、常に礼拝する存在だからです。 以上は、最初の問いに対する別々の答えです。薬樹王の身は、大いなる慈悲によって人々の苦しみを取り除き、その効果は目に見えない形で現れるのです（以上でその説明は終わりです）。

△第三、勸持名。又為三：

> 三つ目は、念仏を勧めることです。これもまた三つに分けられます。

是故眾生皆應受持觀世音菩薩名號。

> 故に、すべての衆生は観世音菩薩の御名を心に持つべきです。

初、勸持名。上述勝名美德，不辨形質，若欲歸崇，宜持名字，是故勸持名也。

> まず、「持名」を勧めます。前述の通り、尊い名号の素晴らしい功徳は、形や姿を問いません。もし帰依し敬いたいと望むなら、その名号を唱えるのがふさわしいのです。そのため、ここで持名を勧めるわけです。

△二格量中又四

> △二、功徳の大きさを量ることについては、さらに四つの段階がある。

無盡意！若有人受持六十二億恒河沙菩薩名字，復盡形供養飲食、衣服、臥具、醫藥。

> 無尽意よ、もしも人が六十二億ものガンジス河の砂の数の菩薩の名前を心に保ち、その生涯にわたって彼らに食べ物や飲み物、衣服、寝具、薬を捧げるとしよう。

初明格量本也。入大乘論云法身唯一應色，則多格六十二億應等一法身也。智者云圓人唯一偏人，則多格六十二億偏菩薩等一圓菩薩也。若心境相對四句分別，今此乃是兩俱句邊，持六十二億心境俱劣，受持觀音心境俱勝，此即定教當教而觀。若二交互句，竝境隨心轉。問：何故法華論中乃以持六十二億恒河沙佛名為校量耶？答：有云論誤，今云不爾。今先出論，次略消釋。論云受持觀音名與六十二億恒河沙諸佛名彼福平等者，有二種義：一信力故、二畢竟知故。信力復二：一者求我如觀音畢竟信故、二生恭敬心如彼功德我亦得故。二畢竟知者，決定知法界故。法界者名為法性，初地菩薩能證入一切諸佛平等身故。平等身者，謂真如法身，是故受持觀音與六十二億恒河沙諸佛功德無差。今謂以此驗知，須依圓釋。何者？於二義中信力約事、畢竟約理，事理相資方成所念。如信力二中既云求我身如觀音，即指化身。又云觀音功德我亦得之，乃指報身。願齊報應方乃成念，但念果德者何必識理？故次義云知法界等。次引證位即是初地，且引分證令人識之，故知念觀音三身須却以念佛校之。若以念法身論之，縱引十方諸佛其功亦等，何但六十二耶？所以論文雖似舉經，乃是增句釋義，亦如方便品初。

> まず、比較の基準を明らかにする。『入大乗論』にはこうある。「法身は唯一つであり、応身や色身は多数である。六十二億の応身が一つの法身に等しい」。智者大師は言う。「円教の人は唯一人であり、偏った教えの人は多数である。六十二億の偏った菩薩が一人の円教の菩薩に等しい」。 心と境を四句に分別するならば、これは両方ともに劣る句にあたる。六十二億を保つ心と境はともに劣り、観音の名を受持する心と境はともに勝れている。これはまさに、教えを定めてそれに従って観ずるという立場である。もしも交互の句であれば、境は心に従って変わることになる。 問う：なぜ『法華論』において、六十二億恒河沙の仏の名を保つことを比較の対象とするのか？ 答える：ある者は「論の誤りである」と言うが、私はそうではないと考える。まず論を挙げ、次に簡単に解説しよう。論に言う。「観音の名を受持することと、六十二億恒河沙の諸仏の名を保つことと、その福徳が平等であることには、二つの意味がある。一つは信の力、二つは畢竟の知である。信の力にはさらに二つある。一つは、我が身を観音の如くに求めることを畢竟に信じること。二つは、恭敬の心を起こして、彼の功徳を我もまた得るということ。二つ目の畢竟の知とは、法界を決定して知ることである。法界とは法性をいう。初地の菩薩は、一切の諸仏の平等の身を証入することができる。平等の身とは、真如法身をいう。ゆえに、観音の名を受持することと六十二億恒河沙の諸仏の功徳とは差がない」。 今、これによって確かめるならば、円教の解釈に従う必要がある。なぜか？ 二つの義のうち、信の力は事について言い、畢竟は理について言う。事と理が互いに助け合って、初めて念じることが成り立つ。信の力の二つのうち、「我が身を観音の如くに求める」と言うのは、化身を指す。また、「観音の功徳を我もまた得る」と言うのは、報身を指す。報身と応身に斉しく願うことによって、初めて念じることが成り立つのである。しかし、果上の徳のみを念じて、なぜ理を識らねばならないのか？ ゆえに次の義で「法界等を知る」と言う。次に証の位を引いて、初地を示す。とりあえず分証の位を引いて人に認識させるのである。ゆえに、観音の三身を念じることと、仏を念じることとを比較しなければならないことが分かる。もしも法身を念ずるという立場で論じるならば、縦え十方の諸仏を引いても、その功徳は等しい。まして六十二億に限ることはない。だから、論の文は経典を引用しているように見えても、実は句を増やして意味を解釈しているのである。これは『方便品』の初めと同じである。

於汝意云何？是善男子、善女人功德多不？

> あなたはどう思いますか。この善き男性、善き女性の功徳は多いでしょうか？

二、佛起問：

> では、仏様がお尋ねになりました。

無盡意言：甚多，世尊！

> 無尽意が申し上げました。「たくさんでございます、世尊よ。」

三，無盡意答也。

> 無尽意菩薩がお答えになりました。

佛言：若復有人受持觀世音菩薩名號，乃至一時禮拜供養，是二人福正等無異，於百千萬億劫不可窮盡。

> 仏は言われた。「もしさらに、ある人が観世音菩薩の名号を受け持し、一時でも礼拝し供養するならば、この二人の功徳は全く等しく、百千万億劫の間でも尽きることがない。」

四、佛正格量

> 四、仏の正しい基準

無盡意！受持觀世音菩薩名號，得如是無量無邊福德之利。

> 無盡意よ、観世音菩薩の名号を受持すれば、このように計り知れないほどの福徳の利益を得ることができるのです。

第三、結歎勸持名。已上竝是答初重問竟。

> 第三に、この念仏の名号を称える功徳をたたえ、皆さんに勧めます。 以上が、最初の重要な問いに対する答えとなります。

△第二、問答明寶珠王身大慈與樂顯益，為二：初、問，又為三：

> 第二に、問答によって宝珠王の身が大慈をもって楽を与え、利益を顕かにすることを明かす。この部分は二つに分かれる。最初に問いがあり、さらに三つに分かれる。

無盡意菩薩白佛言：世尊！觀世音菩薩云何遊此娑婆世界？

> 無尽意菩薩が仏に申し上げました。「世尊よ、観世音菩薩はどのようにしてこの娑婆世界に現れるのですか？」

初問身輪。

> まず、「身輪（しんりん）」とは何かについてお話しします。

云何而為眾生說法？

> どのようにして人々に教えを説けばよいのでしょうか？

二、問口輪。

> 口輪とは何か。 口輪（くちわ）とは、悪い言葉を吐き出させないためのものです。 心が怒りや憎しみに燃えていても、そのまま口に出せば火事を起こします。 その火を食い止めるのが口輪の修行です。 つまり、言葉を慎み、無用な争いを避けることです。 口は善悪の門。 この門を守り、平和な言葉を選びなさい。

方便之力，其事云何？

> 方便の力とは、どのようなものなのでしょうか。

三問意輪。此聖人三密無謀之權，隨機適應也。

> 三つ目の問い「意輪」について。この聖者の三密（身・口・意）は、何の計らいもない絶対の働きであり、相手の機根に応じて自然に現れるものです。

△第二、佛答，為三：一、別答，二、總答，三、勸供養。

> 二つ目、仏の答えは三つに分かれます。第一に個別の答え、第二に全体的な答え、第三に供養を勧めることです。

佛告無盡意菩薩：善男子！若有國土眾生，應以佛身得度者，觀世音菩薩即現佛身而為說法；應以辟支佛身得度者，即現辟支佛身而為說法；應以聲聞身得度者，即現聲聞身而為說法；應以梵王身得度者，即現梵王身而為說法；應以帝釋身得度者，即現帝釋身而為說法；應以自在天身得度者，即現自在天身而為說法；應以大自在天身得度者，即現大自在天身而為說法；應以天大將軍身得度者，即現天大將軍身而為說法；應以毗沙門身得度者，即現毗沙門身而為說法；應以小王身得度者，即現小王身而為說法；應以長者身得度者，即現長者身而為說法；應以居士身得度者，即現居士身而為說法；應以宰官身得度者，即現宰官身而為說法；應以婆羅門身得度者，即現婆羅門身而為說法；應以比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷身得度者，即現比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷身而為說法；應以長者、居士、宰官、婆羅門婦女身得度者，即現婦女身而為說法；應以童男、童女身得度者，即現童男、童女身而為說法；應以天、龍、夜叉、乾闥婆、阿脩羅、迦樓羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等身得度者，即皆現之而為說法；應以執金剛神得度者，即現執金剛神而為說法；

> 仏は無尽意菩薩に告げられた。「善き男子よ。もしある国土の衆生が、仏の姿によって救われるべき者であれば、観世音菩薩はすぐに仏の姿を現して法を説く。辟支仏（びゃくしぶつ）の姿によって救われるべき者には、すぐに辟支仏の姿を現して法を説く。声聞（しょうもん）の姿によって救われるべき者には、すぐに声聞の姿を現して法を説く。梵王（ぼんのう）の姿によって救われるべき者には、すぐに梵王の姿を現して法を説く。帝釈天（たいしゃくてん）の姿によって救われるべき者には、すぐに帝釈天の姿を現して法を説く。自在天（じざいてん）の姿によって救われるべき者には、すぐに自在天の姿を現して法を説く。大自在天（だいじざいてん）の姿によって救われるべき者には、すぐに大自在天の姿を現して法を説く。天の大将軍の姿によって救われるべき者には、すぐに天の大将軍の姿を現して法を説く。毘沙門天（びしゃもんてん）の姿によって救われるべき者には、すぐに毘沙門天の姿を現して法を説く。小王（しょうおう）の姿によって救われるべき者には、すぐに小王の姿を現して法を説く。長者（ちょうじゃ）の姿によって救われるべき者には、すぐに長者の姿を現して法を説く。居士（こじ）の姿によって救われるべき者には、すぐに居士の姿を現して法を説く。宰官（さいかん）の姿によって救われるべき者には、すぐに宰官の姿を現して法を説く。婆羅門（ばらもん）の姿によって救われるべき者には、すぐに婆羅門の姿を現して法を説く。比丘（びく）、比丘尼（びくに）、優婆塞（うばそく）、優婆夷（うばい）の姿によって救われるべき者には、すぐにその姿を現して法を説く。長者、居士、宰官、婆羅門の女性の姿によって救われるべき者には、すぐに女性の姿を現して法を説く。童男（どうなん）、童女（どうにょ）の姿によって救われるべき者には、すぐに童男や童女の姿を現して法を説く。天、竜、夜叉（やしゃ）、乾闥婆（けんだつば）、阿修羅（あしゅら）、迦楼羅（かるら）、緊那羅（きんなら）、摩睺羅伽（まごらか）、人非人等（にんぴにんとう）の姿によって救われるべき者には、すぐにそれらの姿を現して法を説く。執金剛神（しゅこんごうしん）の姿によって救われるべき者には、すぐに執金剛神の姿を現して法を説く。」

初、佛別答菩薩三業之問。應以者，答方便力也。現身，答其問遊也。說法，答其問口也。凡有三十三身、十九說法，例皆如上方便力等三也。應具指離合，以結說少故但十九，如八部四眾但結一說。

> 最初に、仏は菩薩の身・口・意の三業に関する問いに別々に答えられました。「応身」は、力や方便（慈悲の手段）についての問いに答えています。また、姿を現すことは、その活動の自由さについての問いに答え、法を説くことは、言葉の働きについての問いに答えています。一般に三十三の姿と十九の説法があり、これらはいずれも先に述べた方便力などの三つに含まれます。詳しくは個別や総合の説明を加えるべきですが、省略して簡潔に述べたため、説法は十九のみです。例えば、八部や四衆は一つの説法としてまとめられています。

無盡意！是觀世音菩薩成就如是功德，以種種形遊諸國土度脫眾生。

> 無尽意よ、この観世音菩薩はこのような功徳を成就し、さまざまな姿で諸々の国々を遊行し、衆生を救い渡しているのである。

此第二、結別開總。別答文廣意狹，總答文狹意廣。言三十三身是別，故結云成就如是功德。即以此句復為開下總句之首，故下總云以種種形等也。問：此經會三，何故云應以三乘等耶？答：形異法一，故妙音品云：種種變化，說是經典。人不見之，謂說三乘者，謬矣。

> 第二に、それぞれの答えをまとめて全体の答えへと開くことについて説明します。 個別の答えは言葉は多いですが意味は狭く、全体の答えは言葉は少ないですが意味は広いのです。三十三種の姿が個別の答えであるため、「このような功徳を成就した」と結ぶのです。この一句が、さらに次の全体の答えの冒頭を開くものとなり、したがって全体の答えでは「さまざまな形などをもって」と述べています。 問い：この経典では三つの乗り物を一つにまとめる教えですが、なぜ「三つの乗り物などに応じて」と言うのでしょうか。 答え：姿は異なっていても法は一つだからです。そのため妙音菩薩品では「さまざまに変化して、この経典を説く」と述べています。人がそれを理解できずに、三つの乗り物を説いていると言うのは、誤りです。

△三、勸供養為二。

> 三、供養を勧めるための二つのこと。

是故，汝等應當一心供養觀世音菩薩。是觀世音菩薩摩訶薩於怖畏急難之中能施無畏，是故此娑婆世界皆號之為施無畏者。

> よって、あなたがたは一心に観世音菩薩を供養すべきである。この観世音菩薩摩訶薩は、恐れや切迫した難儀の中にあって、無畏（おそれのない心）を施してくださる。それゆえ、この娑婆世界では、みな彼のことを「施無畏者」と称しているのである。

初勸供養。

> まず、供養（くよう）を勧めます。

△次受旨又為六。

> △次に教えを受けて、さらに六つに分かれる。

無盡意菩薩白佛言：世尊！我今當供養觀世音菩薩。即解頸眾寶珠瓔珞價直百千兩金而以與之，作是言：仁者！受此法施珍寶瓔珞。

> 無尽意菩薩が仏に申し上げた。「世尊よ、私は今、観世音菩薩に供養を捧げましょう。」そして、首にかけていた百千両の金に値する多くの宝珠の首飾りを解いて差し出し、こう言った。「尊い方よ、どうかこの法の施しとしての宝の首飾りをお受けください。」

初奉命施供。

> 初めて命を受けて、布施（お布施）の供養を捧げました。

時觀世音菩薩不肯受之。

> 時に観世音菩薩はそれをお受けになろうとしませんでした。

二，觀音不受。

> 観音様はそれをお受けになりません。

無盡意復白觀世音菩薩言：仁者！憫我等故，受此瓔珞。

> 無尽意菩薩が再び観世音菩薩に申し上げました。「尊者よ、私たちを哀れんで、どうかこの瓔珞をお受け取りください。」

三無盡意重奉。

> 三無尽の菩薩が重ねてささげた。

爾時，佛告觀世音菩薩：當憫此無盡意菩薩及四眾、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿脩羅、迦樓羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等故，受是瓔珞。

> その時、仏は観世音菩薩に告げられました。「無尽意菩薩や四衆、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の衆生を哀れみ、この瓔珞を受け取りなさい。」

四、佛勸受之。

> 四、仏がそれを受けるよう勧められる。

即時，觀世音菩薩憫諸四眾及於天、龍、人非人等，受其瓔珞，分作二分：一分奉釋迦牟尼佛，一分奉多寶佛塔。

> そのとき、観世音菩薩は四衆(ししゅう)と天(てん)・龍(りゅう)・人非人等(にんにひとう)をあわれみ、その瓔珞(ようらく)を受け取り、二つに分けました。一つは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)にささげ、もう一つは多宝仏(たほうぶつ)の塔にささげました。

五、觀音即受。

> 五、観音はすぐにそれを受け入れました。

無盡意！觀世音菩薩有如是自在神力，遊於娑婆世界。

> 無尽意よ、観世音菩薩はこのような自在の神通力をもって、この娑婆世界に遊行されるのです。

六、結觀音神力。已上竝是第二問答，明寶珠王身大慈與樂顯益竟。

> 第6節、観音の神力のまとめ。以上が第二の問答であり、宝珠王の身が大慈悲で楽を与える顯益（はっきりした利益）を示し終えたところである。

爾時，無盡意菩薩以偈問曰：

> その時、無尽意菩薩が詩句をもって尋ねました。

偈有二十六行，為二：初、十七行頌觀音，二、九行頌普門。記云：此後偈頌，什公不譯。近代皆云梵本中有，此亦未測什公深意。續僧傳中云：偈是闍那掘多所譯。今從什本，故無所釋。觀音義疏記云：荊溪亦於輔行記中引，還著於本人之文。故知具釋，理亦無妨。近有天竺式法師，分節其文，對於長行二種問答，宛如符契。今依彼科，略分偈文。

> 偈は二十六行あり、二つに分けられる。初めの十七行は観音を讃え、後の九行は普門を讃える。解説によれば、この後の偈頌は鳩摩羅什（くまらじゅう）によって訳されなかった。近頃では「梵本にこの偈は存在する」と言われているが、それも鳩摩羅什の深い意図を測りかねる話である。『続高僧伝』には、この偈は闍那崛多（じゃなくった）が訳したものであると記されている。現在では鳩摩羅什の訳本に従っているため、特に解釈を加えない。『観音義疏記』には、荊溪も『輔行記』の中で「還著於本人（本人に返る）」という文を引用しているとある。したがって、この偈を詳しく解釈しても道理上差し支えない。最近では天竺式の法師がこの文を区切り、長行における二種の問答にぴったり符合するようにした。そこで今はその区分に従って、偈文を大まかに分けることとする。

世尊妙相具，我今重問彼：佛子何因緣，名為觀世音？

> 世尊よ、見事なお姿をそなえられています。 私は今、あらためてお尋ねいたします。 仏の子は、どのような因縁によって「観世音」と名づけられたのでしょうか？

初一行頌。問。

> 一つの偈を説いて、問いかける。

△次十六行頌答。初三行頌總答，為三：

> <△次の十六行の偈で答える。最初の三行の偈は総答であり、その中で三つに分かれる>

具足妙相尊，偈答無盡意：汝聽觀音行，善應諸方所，

> 具足妙相の尊、偈をもって無盡意に答えたもう。汝、觀音の行を聽け。善く諸の方所に應ず。

初，一行勸聽。

> 最初に、一行が聴くことを勧めた。

弘誓深如海，歷劫不思議，侍多千億佛，發大清淨願。

> 広大な誓いは海のように深く、 長い年月を経ても計り知れません。 幾千億もの仏に仕え、 大いなる清らかな願いを起こされました。

次一行，歎其行願。

> 次の一行は、その行いと願いを称えるものです。

我為汝略說，聞名及見身，心念不空過，能滅諸有苦。

> 私はあなたのために、簡潔に説きましょう。 彼の名を聞き、その姿を見る者、 心に念じる者は、その功徳が空しく終わることはなく、 あらゆる存在の苦しみを滅ぼすことができるのです。

三一行正是，總答三業應。

> 三業のすべてが、一行の正しさに含まれているのです。

△第二十三行頌別答十三。

> 二十三番目の行の偈が、別の十三の問いに答える。

假使興害意，推落大火坑，念彼觀音力，火坑變成池。

> もしも害そうとする心を起こして、大きな火の穴に突き落とそうとしても、あの観音さまの力を念じれば、火の穴は池に変わります。

初一行，頌火難。

> 初一行には、火の災難を讃える偈文が説かれています。

或漂流巨海，龍魚諸鬼難，念彼觀音力，波浪不能沒。

> あるいは広大な海に漂流して、竜や魚などの鬼の難に遭っても、かの観音の力を念じれば、波に呑まれることはない。

二頌水難。

> 二つの偈で水難を説く。

或在須彌峰，為人所推墮，念彼觀音力，如日虗空住。

> あるいは須弥山の頂より、人に突き落とされようとも、 かの観音の力を念じなさい。 太陽が虚空中に留まるかのごとく、その身は支えられ、落ちることはありません。

三，除墮須彌難。

> ３つ目は、須弥山に落ちる難から救うことです。

或被惡人逐，墮落金剛山，念彼觀音力，不能損一毛。

> あるいは悪人に追われて、金剛山から落ちても、かの観音の力を念じれば、毛一本も損なわれることがありません。

四、除金剛山難。

> 四、金剛山の難を除く

或值怨賊繞，各執刀加害，念彼觀音力，咸即起慈心。

> もし怨みを持つ賊に囲まれ、それぞれが刀を手に害そうとしても、観音様の力を念ずれば、皆すぐに慈しみの心を起こすでしょう。

五頌怨賊難。

> （第五の偈） 怨みや恨みを持つ敵の難から逃れるために

或遭王難苦，臨刑欲壽終，念彼觀音力，刀尋段段壞。

> あるいは王の難の苦しみに遭い、死刑に臨んで命終わらんとする時、あの観音の力を念ずれば、刀はたちまち段々に壊れる。

六頌刀杖難。

> 六つの偈で「刀杖の難(苦しみ)」について説く。

或囚禁枷鏁，手足被杻械，念彼觀音力，釋然得解脫。

> あるいは、牢獄に閉じ込められ、枷鎖（かさ）をはめられ、手足に械（かせ）をかけられても、あの観音さまの力を念ずれば、たちまちにして解き放たれ、自由を得るのです。

七頌枷鏁難。

> 七つの縄の束縛の苦しみ。

呪詛諸毒藥，所欲害身者，念彼觀音力，還著於本人。

> 呪いや毒薬によって、誰かが自分の身体を害そうとしたとしても、観音様の力を心に念じれば、その害は自らに跳ね返るのです。

八頌呪咀難。

> 八つの呪いの難しさ

或遇惡羅剎，毒龍諸鬼等，念彼觀音力，時悉不敢害。

> もし邪悪な羅刹や毒龍、諸々の鬼などに出会うことがあっても、かの観音の力を念ずれば、その時、害そうとは決してできなくなる。

九頌，龍鬼羅剎難。

> 九つの偈（うた）によって、竜や鬼、羅刹の災いを除くことができる。

若惡獸圍繞，利牙爪可怖，念彼觀音力，疾走無邊方。

> もし、恐ろしい牙や爪を持った猛獣に囲まれても、あの観音さまの力を念じれば、獣たちは素早くどこか遠くへ逃げ去っていくのです。

十頌惡獸難。

> 十の悪獣の難を説く

蚖蛇及蝮蠍，氣毒煙火然，念彼觀音力，尋聲自迴去。

> 毒蛇やさそり、まむしなどが、 猛毒の煙や炎を吹きかけても、 あの観音様の力を念じれば、 その声に応じて、自ら去っていく。

十一、頌蛇蠍難。

> 蛇や蠍の苦しみを賛える。

雲雷鼓掣電，降雹澍大雨，念彼觀音力，應時得消散。

> 雷が轟き、稲妻が走り、雹が降り、大雨が降り注ぐ時も、観音さまの力を念じれば、たちまち雲は晴れ、雨は止むでしょう。

十二頌除雷電難。

> 十二の偈頌で雷や雷の難を除く

眾生被困厄，無量苦逼身，觀音妙智力，能救世間苦。

> 苦しみの中にある生きとし生けるものは、 限りない苦しみにその身をさらされています。 観音さまの、不思議な智慧の力は、 この世の苦しみから、全てを救い給うのです。

十三、除眾苦難也。上頌別答觀音竟。

> 十三、あらゆる苦しみや困難を取り除いてくださるのです。 以上が、観音の功徳を別々に讃えた偈（うた）の答えとなります。

△二、九行頌普門為三。

> \*\*普門品の9つの偈頌は、三つの段落に分けられます。\*\*

具足神通力，廣修智方便，十方諸國土，無剎不現身。種種諸惡趣，地獄鬼畜生，生老病死苦，以漸悉令滅。

> 完全な神通力を備え、智慧と方便を広く修め、十方のあらゆる国々、すべての世界に姿を現さないところはない。 さまざまな苦しみの世界、地獄・餓鬼・畜生、生・老・病・死の苦しみを、少しずつすべて消し去っていく。

初二行，頌身業化。

> 第一に、身体の行為による教化について述べる。

△二、頌意業為四。

> 意業について、四つの偈（うた）で説明されています。

真觀清淨觀，廣大智慧觀，悲觀及慈觀，常願常瞻仰。

> 真観と清浄観、広大な智慧の観、 悲観と慈観、常に願い、常に仰ぎ見る。

初一行，舉德勸瞻仰。

> 初めて一行を唱え、徳を称えて敬い仰ぐよう勧める。

無垢清淨光，慧日破諸闇，能伏災風火，普明照世間。

> 汚れのない清らかな光、 智慧の太陽はすべての闇を破り、 災いや風火をしずめ、 あまねくこの世を照らし出す。

二，一行頌，破闇伏災。

悲體戒雷震，慈意妙大雲，澍甘露法雨，滅除煩惱燄。

> 悲しみの身体を戒律の雷鳴とし、慈しみの心を広大なる妙雲とし、甘露の法雨を注ぎ、煩悩の炎を消し尽くす。

三，一行頌慈悲說法。

> 三つ目。一行の偈（うた）で慈悲の教えを説くこと。

諍訟經官處，怖畏軍陣中，念彼觀音力，眾怨悉退散。

> 訴訟や戦場の真っただ中、 恐れに震える時も、 あの観音さまの力を念じれば、 すべての恨みや敵は消え去るでしょう。

四，一行頌念除眾怨。

> 四つ目は、一つの行（偈）を唱えて、すべての恨みや怨みを取り除くことです。

△三下三行頌口業化勸念為三。

> △第三の下の三行の偈は、口の行為による教化について述べ、心を込めて念じることを勧めています。

妙音觀世音，梵音海潮音，勝彼世間音，是故須常念。

> 妙なる声の観世音、清らかなる声の海潮音、世の中のあらゆる音に勝るその声ゆえに、常に念じるべきなのです。

初一行頌，讚德勸念。

> 初めに一行の偈（うた）を述べて、その功徳を賛嘆し、念仏を勧めます。

念念勿生疑，觀世音淨聖，於苦惱死厄，能為作依怙。

> 念々に疑いを起こしてはならない。観世音は清らかな聖者であり、苦しみや悩み、死の災いにおいて、よりどころとなってくれるのだ。

二，一行頌歎化能勸勿疑。

> 二、それぞれの句に両方の働きを称え、疑いを持たないように勧めています。

具一切功德，慈眼視眾生，福聚海無量，是故應頂禮。

> あらゆる功徳をそなえ、 慈しみの眼で生きとし生けるものを見つめ、 その福徳は海のように限りなく集まっている。 ゆえに、この方に敬礼すべきなのである。

三一行，總結聖德勸頂禮。已上頌別答普門竟。

> 三つ、あるいは一つにまとめて、聖者の功徳を称え、敬礼を勧める。以上の偈頌で、普門の問いに別々に答える章を終える。

爾時，持地菩薩即從座起，前白佛言：世尊！若有眾生聞是觀世音菩薩品自在之業，普門示現神通力者，當知是人功德不少。佛說是普門品時，眾中八萬四千眾生，皆發無等等阿耨多羅三藐三菩提心。

> その時、持地菩薩が席を立ち、仏の前に進み出て申し上げました。「世尊よ、もしこの観世音菩薩の章において、自在の働きや、あらゆる門に示現する神通力を聞く众生がいるなら、その人の功徳は少なくないと知るべきです。」 仏がこの普門品を説かれた時、会衆の中の八万四千の众生が、みな無上等の阿耨多羅三藐三菩提心を起こしました。

第二、聞品得益持地者，寶雲經云：菩薩有十法名持地三昧，如世間地：一者、廣大，二、眾生依止，三、無好惡，四、受大雨，五、生草木，六、種子所依，七、生眾寶，八、生眾藥，九、風不動，十、師子吼亦不能驚。菩薩亦爾，經一一合。今謂以八教判，方應今經。應對諸經及以今部辨其得益共別不同，以判教相兼帶等異。教若唯小，顯露終無結得大益。密得大益，教不可傳；教雖不傳，須辨其旨。若如方等、般若之流，以部共故，聞益亦共，即具顯密及以不定。互相知者，名為不定；互不相知，名為秘密。是則部內或品似大，而益有大小；或品似小，益亦大小；或兼大小，益亦大小。皆以向來三義消之，不能具指諸經品相。思之！思之！今經唯大，大中唯圓，無密偏小，故聞品益始終無偏。雖於圓中亦有發心不退及無生等，不與偏小共也。約部判益，良在於此。故嚴王品雖云法眼名同體異，定非初果，須判為六根清淨法眼位耳，即七信已上也。若聞法華令得初果，則法華一部文義俱壞。經云無等等者，九法界心不能等理，佛法界心能等此理，故無等而等也。又畢竟之理是無等，初緣畢竟理而發心能等於理，故言無等等也。又心之與理俱不可得，將何物等何物而言無等等耶？心之與理俱不可說，不可說而說，說此心等此理，故言無等等耳。初一是橫釋，次一是竪釋，次一非橫非竪釋也。又復應知初一是橫釋者，結前三重釋無等等以成大車，佛界一念望理名橫，佛心望理二義均等，故名為橫。次約初心緣畢竟理，初後相望名為竪。第三意者，心之與理冥符一體俱不可說，誰論橫竪？初釋唯佛心即空也，次釋通一切即假也，第三明前二俱不可得即中道也。然此品文疏釋甚略，若委解經文具如智者，別行玄文義疏竝記，委釋須者請看彼解。