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title: "法華經大成 · 安樂行品第十四"
description: "法華經大成（又名法華經大義集）是清代天台宗高僧一松學慶為闡釋鳩摩羅什所譯妙法蓮華經而撰寫的重要注疏。該書誕生於清初佛教復興背景下，作者一松學慶秉承天台宗智者大師法華圓教思想，對經文進行系統性梳理與深入解說。其主要內容在於闡發法華經一乘圓頓之旨，重點解析開權顯實、會三歸一、諸法實相等核心教義，並對經中關鍵名相與修行法門作出精要詮釋。此注疏被視為清代法華經研究的權威著作之一，在天台宗傳承及法華經注疏史上佔有重要地位，為後世學人深入理解法華經提供了清晰指引。"
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## 妙法蓮華經大成卷第七

> 妙法蓮華経大成 第七巻

金臺即山居後學　大義　集

> 金台山居後の学人　大義　集

妙法蓮華經安樂行品第十四

> \##### 第十四章 安楽行品 その時、文殊師利法王子が仏に申し上げました。 「世尊よ、これらの菩薩たちは、この経典を聞いて信じ受持するのが、とても難しいことです。 では、この経典を正しく説き伝えようとする菩薩は、どのように暮らし、どのように行動し、どのような心構えでいればよいのでしょうか。」 仏は文殊師利に答えられました。 「この経典を説き伝えようとする菩薩は、次の四つの安楽行を身につけるべきです。 第一に、菩薩は人の欠点を見つけてはなりません。 また、どんな修行者についても善悪を批評してはなりません。 さらに、単なる言葉の上での修行者や、学ぶ立場の者に対して、軽蔑の念を抱いたり困らせたりしてはいけません。 彼らが『あなたは修行の道から遠い』などと言って、非難や嫌がらせをしてはなりません。 また、彼らを喜ばせようと、表面的に深い仏法を説くことも避けるべきです。 ただ、深い心で慈しみをもって接しなさい。 第二に、すべてのものを見るとき、『これらはすべて空である』と正しく観察しなさい。 すなわち、それらは固定した実体がなく、あるがままに生じたり消えたりしているものです。 言葉や概念にとらわれることなく、ただあるがままに理解しなさい。 第三に、戒律をしっかりと守り、心を静かに保ちなさい。 そして、どんな人に対しても、怒りや憎しみの心を起こしてはいけません。 もし困難な状況に出会っても、決して弱気になってはいけません。 第四に、すべての人に慈しみの心をもって接しなさい。 この仏の教えこそが、すべての人を真の幸せへ導くのだと確信しなさい。 そして、この教えを聞いた人が、少しでも理解できるように、やさしく丁寧に説いてあげなさい。 これを、菩薩の四種の安楽行といいます。 これらを実践しながら、この経典を伝えていく菩薩は、必ず悟りへの道を歩み続けられるでしょう。」

由前品諸菩薩敬順佛意。發願於惡世中。周旋往返。十方國土。不惜身命。忍難通經。諸大士自謂得無生忍。故能忍諸難事。新得記者。畏娑婆多諸患難。自謂未修忍行。力所不堪。願於他方受持。文殊意謂。末世法師。流通此經。雖能忍難。不若無難。故當機請問。如來說四種安樂。以示菩薩。得此持經妙行。能悟而修。必安而樂。惟此四行。乃世尊之垂訓。初心菩薩。守護家業之良規。吾人躬行是行。涉惡世而持經。入塵勞以應物。無往而不安樂矣。動靜一如。身無危險。謂之安。道用充洋。心無憂惱。謂之樂。深造自得。躬行實踐。謂之行。附上文。著如來衣。則法身安。入如來室。則解脫心樂。坐如來座。則般若導行而進。故名安樂行。附下文住忍辱地。故身安。不卒暴。故心樂。觀諸法實相。故行進。故名安樂行。

> 前の品で、多くの菩薩たちは仏の御心に従い、悪世において十方の国土を巡り巡り、身命を惜しまず、艱難を忍んで経典を広めることを誓いました。諸々の大士は、すでに無生法忍を得ていると考えていたため、様々な困難に耐えることができました。しかし、新たに授記を得た者たちは、娑婆世界には多くの患難があることを恐れ、自らは未だ忍辱の修行を積んでおらず、その力が及ばないと言って、他の国土で経典を受持したいと願いました。 文殊菩薩は、末法の世において法師がこの経典を流通させるには、艱難に耐えることができるとしても、難しいことに遭わないに越したことはないと考え、その機会に質問をしました。そこで、如来が四種の安楽を示し、菩薩たちにこの経典を受持する妙行を悟り、修行すれば、必ず安らかで楽しくなることを示されました。 この四つの行こそ、世尊がお示しになった教えであり、初発心の菩薩が仏の家業を守るための良い規範です。私たちがこの行を自ら実践し、悪世にあって経典を受持し、俗世の煩わしさの中で物事に対応すれば、どこに行っても安楽でないことはありません。 動と静が一つとなり、身に危険がないことを「安」といいます。道の働きが満ち溢れ、心に憂いや悩みがないことを「楽」といいます。深く修行して自得し、身をもって実践することを「行」といいます。 前の文に付随して言えば、如来の衣を着ければ法身が安らかになり、如来の室に入れば解脱の心が楽しくなり、如来の座に坐れば般若が行を導き進めるので、安楽行と名づけます。後の文に付随して言えば、忍辱の地に安住するので身が安らかになり、粗暴でないので心が楽しくなり、諸法の実相を観ずるので行が進みます。これにより安楽行と名づけます。

△二示方軌。分二。初文殊請問。二如來垂答。初又二。初歎深位如是弘經。

> △二、方軌を示す。二つに分ける。初めは文殊の請い問う。二には如来の垂れ答える。初めもまた二つに分ける。初めは深き位の如くに是の経を弘むるを歎ず。

爾時文殊師利法王子至護持讀說是法華經。

> その時、文殊師利法王子は<note>至って</note>この法華経を護り持ち、読み説く。

難有下。指持品。深位菩薩。能於惡世。奉命弘經。

> 難有下。指持品。深位の菩薩は、悪世に於いても、命を受けて経典を弘めることが出来る。

△次問淺行云何宣說。

> 次に、浅い修行について尋ねます。どのように説くのでしょうか。

世尊菩薩摩訶薩於後惡世云何能說是經。

> 世尊よ、菩薩摩訶薩は、この末法の世において、どうしてこの経典を説くことができるのでしょうか。

一萬四千新記之者。於惡世中。云何行履。能說是經。得無諸難。必以文殊請問者。示正智發正行也。

> 一万四千人の新しく学び始めた者たちは、この悪い世の中で、どのように行動し、この経典を説くことで、困難に見舞われずに済むのでしょうか。必ず文殊菩薩が問いかけたのは、正しい智慧を示し、正しい行いを起こさせるためです。

△二如來垂答。分二。先總標章門。

> それでは、如来がお答えになる。ここで二つに分かれる。まず初めに、章の大枠を全体的に示される。

佛告文殊師利至欲說是經當安住四法。

> 仏は文殊師利に告げられた。この経典を説こうと思うなら、四つの教えに安住しなさい。

四法下釋。繼三業云大悲者。以三業既正。則正智真淨。既得己利。須起悲利他。必悲智相濟。乃於惡世演說是經。方無諸難。四行少一。不可為人師。亦無益於己。豈持經哉。苟持已有法。諸難自遠。故當安住四法。

> 四つの法について説明する。 「三業」に続いて「大悲」と言うのは、三業がすでに正しければ、正しい智慧は真実に清らかである。自らの利益を得たならば、慈悲を起こして他者を利益する必要がある。必ず慈悲と智慧が互いに助け合って、はじめて悪世においてこの経を説き弘めることができ、そのとき諸々の障難がないのである。 四つの行いのうち一つでも欠ければ、他人の師となることはできず、また自分自身にとっても益がない。どうして経を持ち護ることができようか。 もし持ち護ることにすでに法があれば、諸々の障難は自然と遠ざかる。それゆえ、まさに四つの法に安住すべきである。

△次詳釋四行。分四。初身安樂行。二口安樂行。三意安樂行。四誓願安樂行。初有長行偈頌。長行分二。初總標行近。

> △ここから、四つの安楽行について詳しく説明します。四つの部分に分かれます。第一に、身の安楽行。第二に、口の安楽行。第三に、意の安楽行。第四に、誓願の安楽行です。 第一の身の安楽行には、長行と偈頌があります。長行は二つに分かれます。最初に、行いと近づき方をまとめて示します。

一者安住菩薩行處親近處能為眾生演說是經。

> 一つには、菩薩の行うべき場所と親しむべき場所に安住し、衆生のためにこの経を説くことができる。

處乃身之所踐之境。行近乃身之踐境之行。趨操謂之行。狎習謂之近。二者不違於道。是菩薩行近之處。此身行之要也。

> 身体は、単に私たちが足を踏み入れる場所にすぎません。そして「行じ近づく」とは、その身体が実際にその場所へと進み、関わっていくことです。「行」とは、そうした行動や振る舞いを指し、「近づく」とは、それに慣れ親しむことを意味します。この二つを、道から外れることなく実践する――それが、菩薩が行じ近づく境地です。これこそ、身体の実践において最も大切なことなのです。

△二別釋行近。分二。初釋行處。二釋近處。初又二。先明事行。

> △二、別して行近を釈す。二つに分ける。初めに行処を釈し、二に近処を釈す。初めはまた二つ。先に事行を明かす。

文殊師利云何名菩薩至而不卒暴心亦不驚。

> 文殊師利よ、何をもって菩薩と名づけるのか。 その心は荒々しくなく、驚き慌てることもない。

二處各有事行理行。非事無以涉俗。非理無以契真。理事兼通。真俗不礙。然後說法利生。觸處安樂矣。地以持載為義。無所不載。忍辱即地。亦無不載。無取捨愛憎故。化強暴之世。以忍辱自處。故云住。下三句釋。謂行處必住忍辱地者。六度雖適時為用。而涉難莫尚於忍。趨事而動。悔吝生焉。故須忍以禦之。惟能忍。於剛則柔和以應之。則物不能挫。此柔和非是媚󰦇。以接物之時。心氣溫和。不施之於剛暴。不專之於乖忤也。惟能忍。於逆能善順以接之。則物不能害。此善順非是諂曲。乃人情活變。不拂其性。誘彼從化也。惟能忍。於事能審。而所施不暴。處事安詳。外之柔和善順也。惟能忍。於微能察。而所遇不驚。心安於理。內之柔和善順也。所謂縱遇鋒刀常坦坦。假饒毒藥也閑閑。若事上見得透。則一時浮議不能惑。胸中持得定。則一時浮氣不能動。此道人處世之良方。亦持經之妙訣也。

> 二つの境地には、それぞれ事の修行と理の修行が存在します。事がなければ俗世に関わることはできず、理がなければ真理にかなうことはできません。事と理の両方を兼ね備えてこそ、真実と俗世の障りがなくなります。そうして初めて説法し衆生を利益し、触れるところすべて安楽となるのです。 「地」とは、支え保つという意味であり、何であっても載せないものはありません。忍辱とはすなわち「地」であり、やはり何であっても載せないものです。取捨や愛憎がないからです。強暴な世の中にあって、忍辱をもって自らを処するので、「住」といいます。以下の三句はそれを説明しています。すなわち、行じるところかならず忍辱の地に住するとは、六度は時に応じて用いるものですが、困難に関わることについては忍辱に勝るものはありません。事に向かって動けば、悔いや過ちが生じるものです。それゆえ、忍辱をもってこれを防ぐ必要があります。 ただ忍辱することができるからこそ、剛に対しては柔和をもって応じ、物に挫かれることがないのです。この柔和とは、媚びへつらうことではありません。人と接するときに、心気を温和にし、それを剛暴な者に施し、乖離や背きに専らにしないのです。 ただ忍辱することができるからこそ、逆境に対しては善く従い応じ、物に害されることがないのです。この善順とは、へつらい曲がることではありません。人情の変化に応じ、その性質に逆らわず、彼らを教化へと導くのです。 ただ忍辱することができるからこそ、事に対しては審らかにし、施すところが粗暴でなく、事を安らかに詳らかに処理するのです。これが外側の柔和善順です。 ただ忍辱することができるからこそ、微細なことにも察し、遇うところに驚かず、心を理に安んじるのです。これが内側の柔和善順です。 いわゆる「刃の鋒に遇うとも常に坦坦、たとえ毒薬をもってしても閑閑たり」とあります。もし事の上で見通しが明らかであれば、一時の浮き世の評議も惑わすことができず、胸中にしっかりと定めがあれば、一時の浮ついた気も動かすことができないのです。これこそが、道人が世を処する良き方針であり、また経典を保つ妙なる鍵でもあるのです。

△次明理行。

> ここで、真実の道理と、それに基づく実践について明らかにします。

又復於法無所行至是名菩薩摩訶薩行處。

> また、法に対して何ら執着することなく、行うことのない境地——これを「菩薩摩訶薩の行くところ」というのです。

法即一切行法。雖行是法。而不住相。名無所行。若有所則有能。能所角立。物我成敵。橫逆有不免焉。即所行之法。而觀一切諸法。如實相無相。即無所觀。亦無所行。亦不分別。觀無所觀。行無所行。情識都忘。是非雙泯。世出世法。打成一片。方名平等觀法。菩薩趨操。如是而已。此中柔和即伏忍。善順即順忍。又復等即無生忍。不行不分。即寂滅忍。前二生忍。後二法忍。

> 法とは、あらゆる行いの規範です。この法に従って行動しても、その形に執着しないことを「行うところなし」といいます。もし「行うこと」があれば、それを行う「主体」が生じ、主体と対象が対立します。自分と物事が敵対し、横暴な行いや争いを避けられなくなります。修行するこの法によって、すべての現象をあるがままに観察すると、その実相には形がありません。すると、「観る」ことも「行う」こともなくなり、分別もなくなります。観るところなく、行うところなく、感情や認識はすべて忘れられ、是も非も消え去ります。世俗と出世の法が一体となり、初めて平等の観法といえるのです。菩薩の行いとは、このようなものです。ここで「柔和」とは伏忍（煩悩を抑える忍び）、「善順」とは順忍（真理に従う忍び）です。さらに「等しい」とは無生忍（すべてが生じないと悟る忍び）、「行わず分けない」とは寂滅忍（静かな滅びの境地の忍び）です。最初の二つは生忍（生きとし生けるものに対する忍び）、後の二つは法忍（すべての現象に対する忍び）です。

△二釋近處。又二。初事行。二理行。事行中先明遠。次明近。初又分十。初遠豪勢。

> ▲二、「近処」の解説。さらに二つある。まず事の行、次に理の行。事の行の中で、先に「遠ざけるべきもの」を明らかにし、次に「近づくべきもの」を示す。初めはさらに十に分かれる。第一に、権勢ある者から遠ざかること。

云何名菩薩摩訶薩親近處至國王王子大臣官長。

> 菩薩摩訶薩にとっての本当の「親しむべき場所」とは、 王様や皇子や大臣や役人たちと親しく交わることではありません。

恐流俗阿師。竊權勢而侈驕奢。取供養苟於媚倖。一有至此。則荒於苞苴骯󴙇。恨有所未詳。奔於掉尾乞憐。慮無所不至。為俗人拭涕不暇。何心於道哉。由是誡之不可近也。問。如來不棄十六國王。什奘等皆賴人主行道。此誡不近者。何也。答。但誡其不應為而為之。非誡其當然而不然者。況佛法付於王臣。安得一槩絕之。果有弘護之王臣。必是法身大士而來。非斯人與而孰與哉。但戒黨󰦇。不戒黨賢。展縮之機。貴在活潑。不可泥言失意。然雖近有道。終不至脅肩諂咲。方為吾徒之善道也。

> 世俗の師匠たちが、権力や勢いに頼って贅沢を誇り、供養を得るためにこびへつらったりすることを恐れる。もしこうなってしまえば、賄賂や汚れに溺れ、まだ詳しくないことに恨みを抱き、尻尾を振って憐れみを乞うことに奔走し、思いはすべてに及ぶ。俗人の涙を拭う暇もなく、どのような心で道を志すことができるだろうか。ゆえに、これらに近づいてはならないと戒めるのである。 問う。如来は十六国王を見捨てず、鳩摩羅什や玄奘などもまた国王の力によって道を広めた。この戒めが「近づくな」というのは、なぜか。 答える。それは、為すべきでないことを為すことを戒めるのであって、為すべきことを為さないことを戒めるのではない。ましてや、仏法は王や臣に託されているのであり、どうして一律に断ち切ることができようか。もし真に仏法を護り広める王や臣がいれば、それは必ずや法身の菩薩が現れたのである。そうでなければ誰ができるだろうか。ただ、仲間を戒めるのであって、賢者を戒めるのではない。伸び縮みの機微は、柔軟であることを尊ぶ。言葉にこだわって意味を失ってはならない。たとえ有道の人に近づくとしても、ついには肩をすくめてへつらう笑みを浮かべることのないようにする。それこそが、我々の仲間としての善い道なのである。

△二遠邪人。

> \### 第二に、邪な人を遠ざけること （悪い影響を与える人からは、距離を置きなさい。）

不親近諸外道至及路伽耶陀逆路伽耶陀者。

> さまざまな外道の教え<note>に</note>親しんではならない。また、路伽耶陀（世俗的な議論）や逆路伽耶陀（それに反対する議論）にも関わってはならない。

不秉正教。故名外道。梵志即婆羅門。此云淨行。又云淨裔。其人種類。自謂從梵天口生。在家事梵天。名梵志。即在家外道。尼犍此云離繫。即出家外道。牛狗之戒。斷常之見。順之妨正。逆之取怨。不若遠之。息諸異見。所謂過我門而不入我室。我無憾焉。文者歌詩之流。筆者銘賦之類。顯德謂之讚。寄情謂之詠。四圍之典。盡非方外之談。六書奇絕。總屬雕蟲之技。近之無益。避之者良。杜異端也。路伽耶。此云惡論。逆路伽耶。此云惡問。惡問非請益之機。惡論非文會之友。酧答則困於求疵。討論則封於矛盾。道不同不相為謀。遠之為計。離曲辯也。今雖戒。若欲禦外侮。不妨習曉。但不可忘棄本宗。一味著耳。

> 正しい教えを守らないから「外道」という。梵志はバラモンのことである。「浄行」とも「浄い末裔」とも訳される。彼らの種族は自らを梵天の口から生まれたと称し、在家で梵天に仕える者を梵志と呼ぶ。すなわち在家の外道である。尼犍は「繋がりを離れた者」という意味で、出家の外道である。牛や犬のような戒律、断見や常見のような見解は、従えば正道を妨げ、逆らえば恨みを招く。近づかずに離れて、様々な誤った見解を静めるのが良い。いわゆる「我が門を過ぎても我が室に入らぬ者があっても、私は悔いない」というものである。文とは詩歌の類であり、筆とは銘や賦の類である。徳を顕すものを「讚」といい、心情を託すものを「詠」という。四囲の典籍は、ことごとく世間を超えた話ではない。六書の技巧は、いずれも小さな技に過ぎない。近づいても益はなく、避けるのが良い。異端を退けるのである。路伽耶は「悪論」と訳し、逆路伽耶は「悪問」と訳す。悪問は教えを請う機会ではなく、悪論は文雅の集いの友ではない。応答すれば欠点を探すことに困り、議論すれば矛盾に行き詰まる。道が同じでなければ、共に謀ることはない。遠ざけるのが得策である。曲論を退けるのである。今は戒めとして述べるが、もし外敵を防ごうとするならば、学んで知っておいても妨げにはならない。ただし、自らの宗旨を忘れ捨てて、それに夢中になってはならない。

△三遠險戲。

> 三つの遠い危険や遊びから離れること

亦不親近諸有兇戲至種種變現之戲。

> また、様々な飾り立てた遊びや、<note>乱暴で有害な</note>遊び事に親しんではならない。

扠打也。撲小擊也。那羅此云力。即角力戲。彩畵其身。緣幢倒擲。種種變現。幻術之類。以上諸人。禮樂之家。尚有恥於綱常。出俗道者。寧無虧於篇聚。吾黨當龍象之權。理合莊重。翔而後集可也。

> さて、打（だ）とは、小さく打つことである。那羅（なら）とは、力を意味する。すなわち力比べの遊びである。体に彩色を施し、棒の先に登って逆さまに飛び降りるなど、さまざまな技を繰り出す手品のようなものである。以上の者たちは、礼楽に携わる家の者であっても、なお人倫の道を恥じることがある。ましてや、世俗を離れた修行者ならば、戒律の規範を欠いてはならないであろう。私たちの仲間は、龍や象のように優れた立場にあるのだから、当然ながら威厳を保つべきである。よく見極めてから後に集まるのがよいのである。

△四遠惡人。

> 四つ目に、悪しき人から遠ざかることです。

又不親近旃陀羅至則為說法無所希望。

> また、チャンダーラ（屠殺者など賤しい身分の人々）にも近づかない。たとえ近づくとしても、何の見返りも期待せずに法を説くのである。

旃陀羅。此云屠子。亦云嚴幟。謂幟然造業。而自嚴飾也。白虎通云。四時之畋。總名為獵。易曰。以佃以漁。注云。取獸曰畋。取魚曰漁。此等皆有殺害之心。名惡律儀。親近者令人無慈。如是人來。當為善巧說法。回其殺害之心。不可希望利養也。

> チャンダーラ（旃陀羅）とは、屠殺を業とする者の子を意味します。「屠子」とも「嚴幟」とも訳されます。これは、業をあからさまに作りながら、それを自ら飾り立てる者のことです。『白虎通義』には、四季の狩りを総称して猟（狩猟）と言うとあります。『易経』には「田猟や漁労をする」とあり、その注釈では「獣を捕ることを『畋（田猟）』といい、魚を捕ることを『漁（漁労）』という」と説かれています。これらの行為には全て殺害の心が伴い、これを悪い戒律（悪律儀）と呼びます。このような人々に親しむと、人から慈しみの心が失われます。もしこのような人が来たなら、巧みな説法によって、その殺害の心を転じるように導くべきであり、決して利得や供養を期待してはいけません。

△五遠二乘。

> 五つの遠離と二つの乗り物（について）。

又不親近求聲聞至隨宜說法無所希求。

> また、声聞（しょうもん）を求める者に近づかず、相手に合わせて説法し、何も求めないこと。

二乘之人。沉空滯寂。不發大心。近之者令遠菩提。西方三乘人不雜居。故云或來。既未受大化。不妨順其小志。隨宜而說。亦不可有希求之心。

> 二乗の者は、空に沈み寂に滞り、大いなる心を起こさない。このような者を近づけると、かえって菩提から遠ざけてしまう。西方浄土では三乗の者が混ざって住むことはない。だから「あるいは来る」と言うのだ。まだ大乗の教化を受けていないなら、その小さな志に従うのも妨げない。相手に合わせて説くべきだが、決して希求の心を持ってはならない。

△六遠欲想。

> 六つの遠い欲望についての考え。

文殊師利又菩薩至不與小女處女寡女等共語。

> 文殊師利よ、また菩薩は、幼い女の子や未婚の女性、やもめなどの女性と共に話をしない。

欲想能殺菩提心。深防欲之過患。故戒之。尚不起想。況復形交。或有染其形容姿態。須以九想治之。處女未嫁之稱。寡女無夫之謂。女非法器。難為主伴之交。授受不親。庶免桑間之刺。不生欲想。乃臨事之大節。不與共語。斯避譏之細行。不樂見者。不見可欲。使心不亂也。

> 欲望の思いが菩提心を殺してしまう。欲望の過ちを深く警戒し、戒めるべきである。思いを起こすことさえせず、ましてや肉体の交わりなど論外である。あるいは、その容姿や態度に心を奪われることもあるが、そのような時は九想の観想を用いて対処せよ。 「処女」は結婚前の女性を、「寡女」は夫を失った女性を指す。女性は、悟りの器としてはふさわしくなく、修行の友として共に歩むのは難しい。物を授受する際にも直接触れ合わず、世間の誹りを避けるべきである。 欲望の思いを生じさせないことこそ、修行を実践する上での大きな戒めである。相手と共に言葉を交わさないことは、非難を避けるための細やかな行いである。楽しんで見たいと思わなければ、欲望の対象を目にすることなく、心を乱されることもないのである。

△七遠不男。

> 七つの「遠不男（えんふなん）」

亦復不近五種不男之人以為親厚。

> また、五種の不男の人には近づかず、親しく付き合わない。

不男壞亂菩提心故。五者。謂生犍妒變半也。生者。從生已來便無。犍者。以刀去其勢。妬者。見他行婬方起。變者。遇男變女。遇女變男。半者。半月能男。半月不能男也。五不女者。謂螺筋鼓角脉也。

> 五種の男性でない者とは、菩提心を乱すからである。五種類とは、生・犍・妒・変・半をいう。 「生」とは、生まれた時から男根がない者。 「犍」とは、刀で去勢された者。 「妒」とは、他人が性交するのを見て初めて欲情が起きる者。 「変」とは、男と会えば女に変わり、女と会えば男に変わる者。 「半」とは、半月は男性で、半月は男性でない者である。 五種の女性でない者とは、螺・筋・鼓・角・脉をいう。

△八遠危害。

> 八つの遠い危害があります。

不獨入他家若有因緣須獨入時但一心念佛。

> 訳：たとえやむを得ず一人で他人の家に入らなければならない場合があっても、ただ一心に念仏しなさい。

昔阿難問佛。如來滅後。見女人云何。佛言。勿相見。設相見。勿共語。當專心念佛。

> 昔、阿難が仏に尋ねました。「如来が亡くなられた後、女に対してはどのように接すればよいのでしょうか。」 仏は答えられました。「なるべく見ないようにしなさい。もし見かけても、話をしてはいけません。心をひとつにして、ただひたすら念仏しなさい。」

△九遠譏嫌。

> 九つの遠い誹謗や嫌疑。

若為女人說法不露齒咲至猶不親厚況復餘事。

> 女性に説法するときは、歯を見せて笑ってはいけません。<note>至</note>ましてや親しくするどころか、ましてそれ以上のことをするのはなおさら許されません。

露齒咲。現胸臆。增他不善心故。為女說法。當避譏嫌。尚不宜親厚。況復餘事乎。

> 歯を見せて笑ったり、胸のあたりを見せたりするのは、相手によからぬ心を起こさせるからです。女性に説法するときは、疑われたり批判されたりしないよう気をつけなさい。親しくすることも本来避けるべきなのに、ましてそれ以上のことがあってよいでしょうか。

△十遠畜養。

> 十の遠い飼いならし。

不樂畜年少弟子沙彌小兒亦不樂與同師。

> 年少の弟子や沙弥、小さな子どもを養うことを好まず、また彼らと師を同じくすることをも好まない。

沙彌初入佛法。多存俗情。畜養易致擾惱。所謂嚴訓乏慈。寬待失教。是皆煩於心。同學無規箴之益。所謂和則疑其狎。切則惡其猜。是皆擾於念。不畜不近。風節自高也。先明遠竟。

> 沙弥が初めて仏法に入った時は、まだ世俗の心が多く残っています。 生き物を飼い育てると、かえって心を乱し悩ませることになります。 戒めを厳しくすれば慈悲が足りず、寛大に接すれば教えが身につかない。 これらはすべて心のわずらいとなるのです。 また、同じ学び仲間にも戒めや導きの助けはあまりありません。 親しくすると馴れ馴れしくなり、真剣に向き合うと疑われてしまう。 これらはすべて心の思いわずらいとなるのです。 したがって、動物を飼わず、仲間にもむやみに近づかないことで、 自然と気高い節操が身につくのです。 まずは、こうした道理をはっきりと見きわめておくべきなのです。

△次明近。

> さて、次に「近きもの」について明らかにしましょう。

常好坐禪在於閑處至是名初親近處。

> 常に坐禅を好み、閑静な場所にいること。これをもって、初めての親近すべき処（初親近処）と名付ける。

前離十種惱亂。即戒。今坐禪是定。遠離喧雜。念念與實相相應。故云修攝其心。是名一句。總結。

> まず、十種類の心の乱れから離れること、これが「戒」です。 次に、座って禅を修めること、これが「定」です。 雑音や喧騒から遠く離れ、一瞬一瞬を真実の姿（実相）と調和させる。 したがって、「その心を修め、摂（おさ）める」と説かれているのです。 これが「一句」の総まとめとなります。

△二明理行。

> 二つ目に、理と行について明らかにします。

復次菩薩摩訶薩至是名菩薩摩訶薩第二親近處。

> また、菩薩摩訶薩は——これが、菩薩摩訶薩の第二の親近すべき処と呼ばれるものです。

此即慧也。上近處以戒定為體。此以觀智為體。遠俗塵而戒行精嚴。斂遊念而湛寂斯生。定力既深。智光灼發。三學備矣。六度是修。為正身之妙行。乃成佛之樞要也。觀一切法空者。謂修安樂行之菩薩。從正定心中。起觀照慧。觀察世出世間。一切三科七大。生死涅槃。種種當體真淨。不受一塵。故云空。即第一義空也。如實相者。以一切眾生心境諸法。皆同諸佛所證實相。十如平等。無動無壞。離妄緣故。不顛倒者。即度一切苦危。遠離顛倒。乃實相之用也。不動者。觀江河競注而不流。了知見隨緣不變。乃實相之體也。不退者。眾生分上實未曾退。真如隨緣不減也。不轉者。諸佛分上實不曾轉。真如隨淨不增也。不顛倒。正見也。不動轉。真知也。見不顛倒。諸法有無亦不分別。心無動轉。攝心不動如須彌山。菩薩具正知正見。故如是觀一切法也。如虗下喻也。標定虗空無性。言說不及。不生下。釋上虗空無生出起名相等性。則詮示不及也。觀虗空過去無所有之生性。故不生。察虗空現在無所有之出性。故不出。究虗空未來無所有之起性。故不起。三際皆無。一空獨存。空無定名。壅則成色。通則成空也。亦無定相。方器則方。圓器則圓也。實無所有一定之性。詮說不及。故言語道斷也。實相理境。亦如是觀。實相體中。亦無所有之性。故是法不可示。言辭相寂滅。以過去不生。現在不出。未來不起。三際不遷故。察實相之無名。無生佛之假名。究實相之無相。無生死涅槃等相。故云實無所有也。無量無邊者。虗空不可窮極。是實相之廣大也。無礙無障者。虗空不可分辯。是實相之通達也。虗空如是。實相如是。一切諸法性自寂滅。何言說之可及哉。凡可說者。但從因緣而有。顛倒而生。故有一切言說。當知不從緣有。不從倒生。竟不可說。故云一切語言道斷也。葢心體本寂。相待成搖。由見顛倒。則法有生有起。故心有動有轉。若舟行而岸移也。能如實相而觀。於心不動不轉。於法不生不起。若風止而波澄也。心法一也。倒心觀之則妄境紛拏。實相觀之。則真境自寂。修安樂行者。常樂如是而觀一切諸法如實相者。是名菩薩第二親近處也。

> これが智慧である。先に述べた「近づきやすい行い」では戒と定がその基盤であったが、ここでは観察の智慧を基盤とする。世俗の塵埃を遠ざけて戒行は精妙厳格となり、散乱する念を収めて静寂が生まれる。定の力が深まれば、智慧の光がはっきりと輝き出す。戒・定・慧の三学がここに備わり、六波羅蜜を実践する。これが身を正すための素晴らしい行いであり、仏陀となるための最も重要な要である。 「一切の法は空であると観ずる」とは、安楽の行を修める菩薩が、正しい定の心から観察の智慧を起こし、世間・出世間における、すべての五蘊・十二処・十八界・七大、そして生死や涅槃といったさまざまなものの、そのままの姿が真実に清らかであり、一つの塵も受け入れないことを観察する。ゆえに「空」という。これが第一義空である。 「実相の如くである」とは、一切の衆生の心や境遇、あらゆる法が、すべて諸仏の証する実相と同じであり、十如が平等であり、動かず壊れず、虚妄な縁を離れていることである。「顛倒しない」とは、すべての苦しみや危険を超え、顛倒した見方を離れることであり、これは実相の働きである。 「動かない」とは、川の流れが激しく注いでも流れていないと観じ、見解が縁に従いながらも変わらない本質を了知することであり、これは実相の本体である。「退かない」とは、衆生の立場においては実に退いたことがなく、真如が縁に従っても減ることがないことである。「転じない」とは、諸仏の立場においては実に転じたことがなく、真如が清らかさに従っても増えることがないことである。「顛倒しない」とは正しい見解である。「動かず転じない」とは真実の知恵である。見解が顛倒していなければ、諸法の有無もまた分別せず、心が動かず転じなければ、心を収めて動かず須弥山の如くである。菩薩は正知・正見を具えているから、このように一切の法を観ずるのである。 「虚空の如く」というのは、以下は譬えである。虚空には本性がなく、言葉では表現できないことを明確に示す。「生ぜず、出でず」以下の部分は、虚空に生じ・出で・起こり・名・相などの本性がないことを説明し、それゆえ言葉で示すことはできないことを明かす。 虚空の過去を観ずれば、生ずるという本性は一切なく、ゆえに「生ぜず」という。虚空の現在を観察すれば、出でるという本性は一切なく、ゆえに「出でず」という。虚空の未来を究めれば、起こるという本性は一切なく、ゆえに「起こらず」という。過去・現在・未来の三際はすべてなく、ただ一つの空があるのみである。 空には定まった名前はない。塞がれば色となり、通じれば空となる。また定まった形もない。方形の器ならば方形であり、円形の器ならば円形である。実には、一定の本性は全くなく、言葉で説明することはできない。ゆえに「言語道断」というのである。 実相の真理の境地も、このように観ずべきである。実相の本体の中にも、所有するという本性は全くない。ゆえに「この法は示すべからず、言葉や形の相は寂滅している」のである。過去は生ぜず、現在は出でず、未来は起こらず、三際は移らないからである。 実相の名なきことを観察すれば、仏や衆生という仮の名もない。実相の相なきことを究めれば、生死や涅槃などの相もない。ゆえに「実に所有するところなし」というのである。 「無量無辺」とは、虚空は極め尽くせないことであり、これは実相の広大さである。「無礙無障」とは、虚空は区別できないことであり、これは実相の通達さである。虚空がこのようであり、実相もこのようである。一切の諸法の本性は自ら寂滅している。言葉でどうして及ぼせるだろうか。 およそ語ることができるものは、すべて因縁によって存在し、顛倒によって生じる。それゆえに一切の言葉が存在する。しかし、縁によって有るのでもなく、顛倒によって生じるのでもないと知るべきである。結局は語ることができない。ゆえに「一切の言語道断」というのである。 心の本体は本来寂滅であるが、対立によって揺れ動く。顛倒した見解があれば、法に生じや起こりがあり、心に動きや転じがある。それは、舟が進むと岸が動いて見えるようなものである。実相の如くに観ずることができれば、心は動かず転じず、法は生ぜず起こらない。それは風がやんで波が静まるようなものである。 心と法は一つである。顛倒した心で観ずれば虚妄な境界が入り乱れるが、実相で観ずれば真実の境地はおのずから寂滅する。安楽の行を修める菩薩は、常にこのように一切の諸法が実相の如くであると観ずることを喜ぶのである。これを菩薩の第二の親近処という。

△二偈頌。有二十八行三句。分二。初二十三行。頌上長行。二五行三句。結明行成。初又二。初十五行。頌二處事行。

> △二つの偈頌（げじゅ）があります。全部で28行と3句です。これを二つに分けます。最初の23行は、前の長行（じょうぎょう）の内容を詠んでいます。後の5行と3句で、修行が完成したことをまとめて明らかにします。 最初の23行はさらに二つに分かれます。最初の15行は、二箇所における修行の実践を詠んでいます。

爾時世尊欲重宣此義而說偈言。

> その時、世尊はこの教えの意味を改めて明確に示そうとして、次のように偈（うた）を説かれました。

若有菩薩於後惡世至以此二處能安樂說。

> もしも菩薩が、後の悪しき世において、この二つの場所（＝この経典の教え）によって、安らかに説法することができるならば。

無怖畏心。即上住忍辱地心不驚也。增上者。謂於最上人法生慢。未得謂得之類。三藏者。佛在波羅柰。最初為陳如等說修多羅藏。又在羅閱祗。最初為須那提說毘尼藏。又在毘舍離獼猴池測。最初為䟦耆子說阿毘曇藏。即小乘三藏也。習近小乘。妨弘大法。故須遠之。名字者。謂假名羅漢。非實證也。求現滅度者。欲速取證。非大法器。故弘大法者。不得親近。不希望者。古有未嘗為利說一句法。未嘗因法受一毫財。方可謂之不希望也。屠殺也。分割其肉曰屠。膾細切肉也。販者買賤而賣貴也。衒者賣也。此等皆非清淨之行。故宜遠之。入里乞食者。雜阿含云。有一羊。往糞聚飽食還群。貢高自倨。比丘亦然。得四事供養已。起染著想。不知出要。毀蔑他人。我得彼不得故。是為羊比丘乞食。若師子王。遇大獸即噉。不味不著。得小獸即噉。不鄙不薄。比丘亦然。得四事供養已。不起染著心。自知出要。無增減心。是名師子比丘乞食。又比丘未得食前。應念為修道故。補饑瘡故。既得食已。為報施恩。念道不輟。寶雲經云。乞食應作四分。一分奉同梵行。一分與丐人。一分施鬼神。一分自食。

> 恐れる心がないとは、すなわち忍辱の地に安住し、心が動じないことである。「増上」とは、最も優れた人や法に対して慢心を起こし、得ていないものを得たと思う類である。「三蔵」とは、仏が波羅奈で最初に陳如らに説いた修多羅蔵、また羅閲祇で最初に須那提に説いた毘尼蔵、さらに毘舎離の猿猴池のほとりで最初に跋耆子に説いた阿毘曇蔵、すなわち小乗三蔵のことである。小乗に親しめば大法を広める妨げとなるので、遠ざけるべきである。「名字」とは、仮の名の羅漢であり、真の悟りではない。現世での滅度を求めるとは、速やかに悟りを得ようとすることであり、大法の器ではない。よって大法を弘める者は、これに親しんではならない。「希望しない」とは、古来、利益のために一句も説かず、法によって一毛の財をも受け取らなかった者を、まさに希望しないと言うのである。「屠」は殺すこと、肉を分割することを屠と言い、「膾」は肉を細かく切ることである。「販」は安く買って高く売ること、「衒」は売ることである。これらはいずれも清らかな行いではないので、遠ざけるべきである。 村里に入って乞食することについて。雑阿含経にこうある。一頭の羊が糞の山に行って飽きるまで食べて群れに戻り、誇り高ぶった。比丘もまた同じで、四つの供養を得てから執着の念を起こし、出離の道を知らず、他人を謗り軽んじる。自分は得たが相手は得なかったからである。これを羊の比丘の乞食という。もし獅子王であれば、大きな獣に出会えば噛み、味わいに執着せず、小さな獣に出会えば噛み、卑しめず軽んじない。比丘もまた同じで、四つの供養を得ても執着の心を起こさず、自ら出離の道を知り、増減の心がない。これを獅子の比丘の乞食という。 また比丘は食事を得る前に、修行の道のため、飢えの傷を癒すためと念じるべきである。食事を得た後は、施しの恩に報いるため、道を念じて怠ってはならない。宝雲経にはこうある。乞食で得た物は四等分にすべきである。一分は同じ修行者に施し、一分は貧しい人に与え、一分は鬼神に施し、一分を自ら食べる。

△二八行。頌二處理行。分二。先二行半。頌行處理行。

> △二八行を行じて、処理行を偈で説く。この中を二つに分ける。最初の二行半で、行じるための処理行を偈で説く。

又復不行上中下法至是則名為菩薩行處。

> また、上・中・下のあらゆる法（教え）に執着しないこと、これを菩薩の行う境地と呼びます。

上中下三乘也。問。中下應不行。上是一乘。菩薩所當行者。今云不行。更行何法。答。即此一乘更無別法。言不行者。非竟不修一乘之意。謂修而無修。行而無行。若實有所行之法當情。即有能行之人在心。物我成。是非起。患難生。而安樂喪矣。有為世間法。故不實。無為出世間法。故實。實相本自絕言不可分別等。此頌又復於法無所行等也。不得二句。謂不得於諸法上生妄知見。當起正知見也。以理融之。無一切差別等相。法法皆同一法故也。

> 上乗・中乗・下乗の三つの教えがあります。 問：「中乗・下乗は修行しないとしても、上乗は唯一の教えであり、菩薩が進むべき道です。今『行わない』と言うなら、いったい何の法を修行するのでしょうか。」 答：「この一乗そのものであり、別の法があるわけではありません。『行わない』と言うのは、一乗を全く修さないという意味ではありません。『修行しながらも修行の相を取らず、実践しながらも実践の相を取らない』ということです。もし実際に行うべき法が心にあり、しかも行う人が心の中にいるならば、対象と自己が成り立ち、善悪の分別が起こり、苦しみが生じて安楽が失われます。世間の有為の法は真実ではありません。無為の出世间の法こそが真実です。真実の姿（実相）はもともと言葉を超え、分別できません。この頌は『また法において行うところなし』などと説くものです。『得ず』の二句は、あらゆる法の上に誤った知見を生じさせず、正しい知見を起こすべきであるという意味です。真理をもって一切を融和すれば、あらゆる差別の相はなくなり、あらゆる法は皆同じ一つの法となるのです。」

△次五行半。頌近處理行。

> 五つの行（文）があります。これは、対処の理論と実践についての偈頌です。

一切諸法空無所有至常住一相是名近處。

> あらゆるすべての現象（諸法）は、本来、空（くう）であり、実体として存在するものは何もありません。 そして、唯一不変の真理のすがた（一相）に安住すること、これを「近处（近づく境地）」といいます。

頌上觀一切法空等文。無有二句。即真如實相。隨緣非常。不變非斷。不斷不常。果生因滅也。一切諸法。本非斷常有無等。但以顛倒妄想分別。是有是無等。竟不知不有不無。非實非虗。無生無滅。究竟平等也。在於下。明置心一處。不使入艸。如須彌山安住不動。如實相之理觀一切法。如虗空常住一相。無差別相也。

> 頌において「一切法は空なり」等の文を観じ、『無有二句』とは、すなわち真如実相のことである。縁に随って非常であり、不変であるから断ではない。断でもなく常でもなく、果が生じ因は滅するのである。一切の諸法は、もともと断・常・有・無などではない。ただ顛倒した妄想によって分別し、これを有とし無としている。ついに「不有不無」「非実非虚」「無生無滅」であることを知らず、究竟して平等なのである。 「在於下」とは、心を一処に置き、草に入らせないこと。須弥山のごとく安住して動かず、実相の理のごとく一切法を観じ、虚空のごとく常に一相に住して、差別の相がないのである。

△二五行三句。結明行成。

> およそ二十五の節句が、この修行の完成を示すものとして結ばれている。

若有比丘於我滅後至能於後世說法華經。

> もし、私（釈尊）が滅度した後、後の世において法華経を説くことができる比丘がいるならば、

由事行成。則外儀無失。由理行成。則內心無滯。故說經無怯弱也。菩薩有時下。釋安樂之因。因入靜室修禪定。故止於過惡。得人無我。外則不損。因正憶念修智慧。故離諸取著。得法無我。內無顛倒。心安不怯。故安樂也。初法。即正身也。身安樂行竟。

> 事に従った修行が成就すれば、外面的な振る舞いに誤りはなくなります。理に従った修行が成就すれば、内面の心に滞りがなくなります。そのため、経典を説くことに怯えることがありません。 「菩薩、時に」という以下の部分では、安楽の因を説いています。静かな部屋に入って禅定を修することにより、過ちや悪を止め、人無我（じんむが）を獲得します。外に対しては、他者を損なうことがありません。 また、正しい憶念（おくねん）によって智慧を修することにより、様々な執着を離れ、法無我（ほうむが）を獲得します。内には顛倒（てんどう）がなく、心は安らかで怯えることがありません。これが安楽なのです。 最初の法は、身を正すこと、すなわち身の安楽行です。

△二口安樂行。有長行偈頌。長行分二。先標章。

> 二つ目の「安楽行」について。この章には長行（散文）と偈頌（詩句）があります。長行はさらに二つに分けられ、まずその標題（章の名前）を示します。

又文殊師利如來滅後至應住安樂行。

> また、文殊師利よ、如来が滅度された後は、安楽行に住むべきである。

標口安樂也。

> 安らかで楽しいことを示しています。

△次釋行法。分二。初明止行。

> 次に行法を説明する。これを二つに分ける。第一に、止行を明らかにする。

若口宣說若讀經時至又亦不生怨嫌之心。

> もし口で説法し、あるいは経を読誦するときも<note>至</note>、さらにまた怨みや嫌悪の心を起こさないこと。

若口下。不說過。問。人有何過。經有何過。答。經有大乘小乘。人有大機小機。以乘對機。隨宜難解。經有顯性廢權立實之過。破相隱實開權之過。人有執理不信漸修之過。執事不信頓悟之過。苟性相雙融。經有何過。事理無礙。人有何過。若說有過。則惱亂其聽受之人。非口安樂。故戒之。亦不下。不輕慢。言弘經者不可倚恃法華之圓。而輕蔑偏權之法師也。佛尚以異方便。助圓實之正道。後世弘經。豈可輕慢權小。須順佛意。將護物機。故戒之。不說下。不歎毀。先不說一切人。葢受質二儀。天然之性。未嘗不全。血氣之情。未嘗不偏。夫人之惡聞其失。故不談人短。好譽者必善毀。故不稱人長。善齊物者。不齊而齊之。則無物不齊矣。次別舉聲聞。此等根性不定。若讚二乘之美。令彼退大取小。若毀二乘之惡。令其小大俱失。所以毀讚都不應也。大論云。自讚。自毀。讚他。毀他。如是四法。智者不為。何以故。自讚者是貢幻人。自毀者是妖惑人。讚他者是諂󰦇人。毀他者是讒賊人。一有於此。非口安樂矣。又亦下。不怨嫌。若謂其所承之人。及所秉之法。妨害我道。即是怨心。若謂其人法鄙劣。即是嫌心。安樂行人。為弘大典。將護小行。怨嫌俱捨。方名正行。心機一動。聲說即發。杜說過之源。故不生心。

> 口で他人の過ちを語らない。 問う：人にどんな過ちがあり、経典にどんな過ちがあるのか？ 答える：経典には大乗と小乗があり、人には大機と小機がある。機根に合わせて教えを説くため、一概には理解しがたい。 経典には、真実の性を明かし仮の教えを廃して実を立てるという過ちがあり、また相を打ち壊し実を隠して仮の教えを開くという過ちもある。 人には、理に執着して段階的な修行を信じない過ちがあり、事に執着して頓悟を信じない過ちもある。 もし性と相が互いに融け合えば、経に何の過ちがあろうか。事と理が障りなく一体となれば、人に何の過ちがあろうか。 もし過ちがあると言えば、それを聞く者の心を乱し、口による安楽ではない。ゆえに戒めるのである。 また、「下」とあるのは、「軽んじない」という意味である。 経典を弘める者は、法華経の円満さに頼って、偏った権教の説法者を軽蔑してはならないと説く。 仏でさえも、様々な方便を用いて円実の正道を助けたのである。後世に経を弘める者が、どうして権教・小乗を軽んじられようか。 仏の意に従い、機根に応じて人を導くべきである。ゆえに戒めるのである。 「説かず」以下は、「嘆かず、毀らず」という意味である。 まず「一切の人」について述べる。そもそも人は、天地の二つの気を受け、天性は本来完全であるが、血気の情は必ず偏っている。 人は自分の短所を聞かれるのを嫌うので、他人の短所を語ってはならない。 誉めるのが好きな者は、必ずよく毀るものである。ゆえに人の長所も称えてはならない。 物をうまく平等に扱う者は、無理に揃えようとせず、自然に揃える。そうすれば、すべてのものが揃わないことはない。 次に、特に「声聞」を挙げる。このような人々の根性は定まっていない。 もし声聞の善さを褒めれば、彼らは大乗を退いて小乗を取るかもしれない。 もし声聞の悪さを毀れば、彼らは小乗も大乗も失うことになる。 ゆえに、褒めることも毀ることも、どちらもすべきではない。 『大智度論』にこうある。 「自らを褒め、自らを毀り、他者を褒め、他者を毀る。この四つの行いを、賢者はしない。 なぜなら、自らを褒めるのは慢心の人であり、自らを毀るのは妖しく人を惑わす者である。 他者を褒めるのはお世辞の人であり、他者を毀るのは人を中傷する賊である。 これらの一つでも持てば、口による安楽ではない。」 また、「また」以下は、「怨まず、嫌わない」という意味である。 もし自分が依拠する人や、受け継いだ教えが、自分の修行を妨げると思うなら、それは怨む心である。 もしその人や教えが卑劣だと思うなら、それは嫌う心である。 安楽に行じる者は、大いなる経典を弘めるために、小さな行いを大切に守る。怨む心も嫌う心も共に捨てて、初めて正しい行いとなる。 心に少しでも動きがあれば、言葉はすぐに発せられる。 過ちを語る源を断つため、心を起こさないのである。

△二明觀行。

> 二に、観行について明らかにします。

善修如是安樂心故至令得一切種智。

> 善くこのような安らぎの心を修めるがゆえに、ついには一切種智（あらゆるものを知る智慧）を得るのである。

善修如是。承上不說過乃至不怨嫌。心無所著。必不執大而輕小。但隨順物情。不逆其意。有所難問。不以小乘濟度。但以大乘訓導。有二意。若見其無大機而為說小。但令得方便小益。若不見其無大機而為說小。則妨其大緣。但為說大。無二之咎。又小乘但知行布。不識圓融。難問雖多。凡聖依正之法。不出十對。一迷悟乖角難。二事理相違難。三權實未明難。四體用不合難。五性相隔礙難。六心境分別難。七智行參差難。八修證淺深難。九因果各別難。十生佛尊卑難。若未明此十對歸一實相者。悉是小乘。設有此難。就其心之易明而引導之。或問一而十難皆通。令彼一言醒悟。回小入大。趨造菩提種智也。

> よく修行する者は、このように（上の教えに従って）親切に導く。相手の過失を挙げて責めることなく、嫌ったり恨んだりしない。心に執着がなければ、大乗を重んじて小乗を軽んじることもない。ただ相手の状況に従って心を動かし、その意に逆らわない。質問があっても、小乗で救い導くのではなく、大乗で教え導く。これには二つの意味がある。もし相手に大乗の機根がないと見て小乗を説けば、ただ方便としての小さな利益を与えることになる。もし相手に大乗の機根がないと見ずに小乗を説けば、その大乗の縁を妨げることになる。ただ大乗を説くことには、そのどちらの過ちもない。 また、小乗はただ行いや布施の実践だけを知り、物事の円融な調和を理解しない。質問や難問は多いが、凡夫と聖者、正報と依報の法は、十の対立を超えない。一に迷いと悟りの矛盾の問い、二に理と現象の相違の問い、三に権と実の不明の問い、四に本質と作用の不一致の問い、五に性と相の障り合いの問い、六に心と境の分別の問い、七に智慧と修行の食い違いの問い、八に修行と悟りの深浅の問い、九に原因と結果の各別の問い、十に衆生と仏の尊卑の問いである。 もしこの十の対立が一つ実相に帰することを明らかにしなければ、それはすべて小乗の見解である。たとえこのような問いがあっても、その人の心が理解しやすい方向から導く。あるいは一つの問いから十の難問すべてが通じるようにし、相手の一言で目覚めさせ、小乗から大乗へと転じさせ、菩提の智慧を目指して邁進させるのである。

△二偈頌。有十六行半。分二。初十一行半。頌上長行。二五行。結明行成。初又二。先七行半。頌止行。

> ここでは、16行半からなる偈頌（げじゅ）について説明します。 まず、前半の11行半で、先に述べた長行（長い文章での説明）の内容をたたえています。 次に、後半の5行で、修行が成就したことをまとめています。 前半の11行半はさらに二つに分けられます。 まず最初の7行半で、止行（心を静める修行）をたたえています。

爾時世尊欲重宣此義而說偈言。

> その時、世尊はこの教えの意味を改めて明確に示そうとして、次のように偈（うた）を説かれました。

菩薩常樂安隱說法至離諸憂惱慈心說法。

> 菩薩は常に、安らぎと平安をもたらす説法を喜びとします。そして、あらゆる憂いや悩みから離れ、慈しみの心で法を説きます。

欲口安樂必說法。欲說法必擇地。陞座。澡浴。著衣。內外一如。然後隨問而說。隨義而答。皆使發心入道也。懶惰妨勇猛。懈怠妨精進。憂惱妨安樂。菩薩慈心說法。方能離諸障礙。上約止。今約行。故不詳對上文。

> 安らぎを求めるなら、必ず法を説きなさい。法を説くなら、必ず場所を選びなさい。高座に上がり、身を清め、衣を整え、内も外も一つとなりなさい。そうしてから、問いに応じて説き、義に従って答えなさい。すべての人に発心し、悟りの道に入らせなさい。怠けは勇猛の妨げとなり、なまけは精進の妨げとなり、憂いや悩みは安楽の妨げとなる。菩薩は慈しみの心で法を説くからこそ、さまざまな障害を離れることができるのです。以上は「止」について述べましたが、今は「行」について述べるものです。よって、前文と詳しく対応させてはいません。

△次四行頌觀行。

> それでは、四行の偈（うた）によって観行（かんぎょう）を説明します。

晝夜常說無上道教至是則大利安樂供養。

> 昼夜の別なく常に究極の教えを説き示すこと、これこそが最も大きな功徳であり、安楽をもたらす供養なのです。

說無上道。頌但以大乘解說。但念成佛。令眾成佛。頌一切種智。是則大利。其利有五。一晝夜無間說。顯法體常恒益。二緣喻無量說。顯妙用無窮益。三咸令歡喜說。顯慈悲廣大益。四不望四事說。顯成就四德益。五自他成佛說。顯佛慧平等益。

> 無上の道を説く。つまり、大乗だけを用いて説明し、ただ成仏することだけを念じ、すべての衆生を成仏させる。すべての種智を説く。これこそが大利である。その利は五つある。第一に、昼夜を問わず説き続けることで、法の本体が常に変わらず利益をもたらすことを示す。第二に、縁や譬えを限りなく用いて説くことで、巧みな働きが無限である利益を示す。第三に、すべてを喜ばせて説くことで、慈悲が広大である利益を示す。第四に、四つの布施を期待せずに説くことで、四つの徳を成就する利益を示す。第五に、自他ともに成仏することを説くことで、仏の智慧が平等である利益を示す。

△二五行結明行成。

> ○二、五行を結んで、行が成就することを明らかにする。

我滅度後若有比丘至筭數譬喻說不能盡。

> 私が滅度した後、もし比丘（修行僧）がいるならば、たとえ算術やたとえ話を用いて説明しようとしても、その功徳を語り尽くすことはできません。

心無等。內無過惡則外難不生。及罵等。詳持品偈。智者下。內有善法所以行成。其人下格量。口安樂行竟。

> 心にまさるものはない。 心の内に過ちや悪がなければ、外から困難は生じない。 また、罵りなどについても同様である。 詳しくは「持品」の偈を参照せよ。 「智者」以下の部分は、内に善い法があるから、行いが成就することを示す。 「其人」以下の部分は、その境地の優劣を比較している。 口による安楽行の説明はここまでである。

△三意安樂行。有長行偈頌。長行分二。先標章。

> 三つの「意による安楽行」について述べます。この部分には長行（散文）と偈頌（詩）があります。長行は二つに分かれ、まずその要点を示します。

又文殊師利菩薩摩訶薩至受持讀誦斯經典者。

> また、文殊師利菩薩摩訶薩さま。この経典を受持し、読誦する方々は。

標意安樂也。

> 意味は、安らぎと楽（らく）を目指すことです。

△次釋行法。分三。初釋止行。

> △次に行法を説明する。これは三つに分かれる。最初に、止行を説明する。

無懷嫉妒諂誑之心至亦不應戲論諸法有所諍競。

> 嫉妬やへつらい、偽りの心を持たず、<注>また</注>、あらゆるものについて無益な議論や言い争いをすべきではありません。

無懷下。不嫉諂。嫉者殉自名利。不耐他榮。妒忌為性。諂者為罔他故。矯設形儀。險曲為性。誑者為獲供養。矯現有德。詭詐為性。小隨之三。嫉妒違慈悲之心。諂誑乖智慧之道。非自行之法。若智慧被障。將何上求佛道。若慈悲有妨。將何下化眾生。菩薩修意安樂行者。須戒之也。亦勿下。不輕罵。倚圓行而呵責權行。故云輕罵。倚圓教之長。求權教之短。退彼學佛道者之善根。故戒之也。若比丘下。不惱亂。疑悔者。疑其所得之非。悔其所失之大。所以下。徵釋。去道失智之意。厭生死懶化導。名懈怠。悲華經云。二乘為懈怠人也。又亦下。不諍競。顛倒分別諸法有無等。名戲論諍競。以上皆意地微細邪行。故止之。遺教經云。種種戲論。其心則亂。雖復出家。猶不得脫。是故比丘當須捨離也。

> 心をとどめて、嫉妬（しっと）や諂曲（てんきょく）をしてはなりません。 嫉妬とは、自分の名誉や利益に執着し、他人の栄光を耐えられず、ねたみを本質とする心です。 諂曲とは、他人を欺くために、偽りの態度や振る舞いをして、心が険しく曲がっていることをいいます。 また、偽り（欺瞞（ぎまん））とは、供養を得るために、偽って徳があるように装い、その本質はあざむくことにあります。 これらの三つは、小随煩悩（しょうずいぼんのう）の中のものです。嫉妬は慈悲の心に反し、諂曲や欺瞞は智慧の道にそむきます。これらは自らを修行する正しい道ではありません。もし智慧が妨げられれば、いったいどうやって上に向かって仏道を求めることができるでしょうか。慈悲が妨げられれば、どうやって下に向かって衆生を導き救うことができるでしょうか。 菩薩として心の安楽を修める者は、これらを必ず戒めなければなりません。 また、心をとどめて、軽んじたり罵ったりしてはなりません。 完全な修行（円行）に依りかかって、権力のある修行（権行）を呵責することから「軽罵」と言います。つまり、円教の長所に頼り、権教の短所を求めて、仏道を学ぶ人々の善根を退けてしまうことを戒めているのです。 もし比丘が… 心を乱したり悩ませたりしてはなりません。「疑悔」とは、自分の得たものが正しくないのではと疑い、失ったものが大きすぎるのではと悔やむことです。 「所以に」以下は、理由を説明しています。「道を去り智を失う」意味です。生死を厭い、教化を怠ることを「懈怠（けたい）」といいます。『悲華経』には「二乗は懈怠の人である」と説かれています。 また、心をとどめて、論争をしてはなりません。諸法の有無などを誤って分別することを「戯論（けろん）」や「論争」といいます。 以上はすべて、心の中で起こる微細な邪まな行いですから、これらを止めるよう説いています。『遺教経』には「様々な戯論は、その心を乱す。たとえ出家しても、なお脱却することはできない。ゆえに比丘は、これらを捨て離れなければならない」とあります。

△二明觀行。

> 二に、観行について明らかにします。

當於一切眾生至乃至深愛法者亦不為多說。

> あらゆる生きとし生けるものに対しては、たとえ深く法を愛する者であっても、多く説いてはならない。

十二類生。都納在吾惻隱之心。愍其沉迷。運悲思濟。捨我其誰乎。慈父者。我之四十二位功德。盡在如來範圍之內。櫽括規正。捨如來又其誰乎。大師者。菩薩之道。皆我之成法。文殊成我智。普賢成我行。非觀音不成我普門之德。捨淨藏孰能與我轉邪之益乎。當深心恭敬。集彼十方羣賢之法。成我一身之道。非師而何哉。平等者無黨心之私。順法者乃稱理之談。不多不少者。量其機之利鈍。不為多說者。貴不失人亦不失言也。愛法多說。心不平等。意豈安樂。

> 十二種類の生きとし生けるものは、すべて我が深い憐れみの心に収められている。彼らが迷いに沈むのを哀れみ、救済の慈悲を起こす。我を置いて他に誰ができるだろうか。 慈父とは、我の四十二位の功徳がすべて如来の範囲内にあり、その枠組みによって正されることを言う。如来を置いて他に誰ができようか。 大師とは、菩薩の道がすべて我にとっての完成された法であることを言う。文殊は我が智慧を完成させ、普賢は我が行いを完成させる。観音なくして我が普門の徳は完成しない。浄蔵を置いて他に誰が我に邪を転ずる利益を与えられようか。 深く心を込めて恭敬し、彼方の十方の多くの聖賢の法を集めて、我が一身の道を完成させる。師でなくて何であろうか。 平等とは党派心の私なく、法に順うとは理にかなった談話である。多くも少なくもなく、その機根の利鈍を量る。多く説かないとは、人を失わず、また言葉も失わないことを貴ぶのである。法を愛して多く説き、心が平等でなければ、どうして安楽であろうか。

△三結行成。

> 三つの束縛（三結）の修行が完成しました。

文殊師利是菩薩摩訶薩至恭敬尊重讚歎。

> 文殊師利は、菩薩であり大菩薩です。<note>至って</note>敬い、尊重し、称賛します。

意既安樂。說是經時。一切諸難。何以加焉。故云無能惱亂。得好同學者。我以賢黨人。人亦以賢黨我。所謂朋自遠來也。得眾聽者。內德自充。必徵信於人。人皆我從矣。所謂德不孤也。聽則學我所持之道。持則詠我所誦之德。誦則思我所說之義。說則傳我之道。書則筆之於文。自書人書。供養讚歎。行成感報。如是。

> 心がすでに安らかである。この経典が説かれるとき、いかなる苦難も加わることはない。ゆえに「悩乱されることなし」という。良き学友を得るとは、我が賢き者を仲間とし、人もまた賢き者として我を仲間とする。いわゆる「朋遠方より来たる」である。多くの聴衆を得るとは、内なる徳が自ずから満ち、必ず人に信を得て、人は皆我に従う。いわゆる「徳孤ならず」である。聞くとは我が持つ道理を学ぶこと。持つとは我が唱える徳をよむこと。唱えるとは我が説く義を思うこと。説くとは我が道を伝えること。書くとはそれを文章に記すこと。自ら書き、人にも書き写させ、供養し、讃嘆する。行いが成就すれば感応の報いがある。このように。

△二偈頌。有六行。分三。初二行頌止行。

> 二つの偈頌（げじゅ）には、六つの行があります。これを三つに分けます。最初の二行は「とどめる行い」をたたえています。

爾時世尊欲重宣此義而說偈言。

> その時、世尊はこの教えの意味を改めて明確に示そうとして、次のように偈（うた）を説かれました。

若欲說是經當捨嫉恚慢至云汝不得佛。

> もしこの経典を説こうとするなら、嫉妬や怒り、慢心を捨てなさい。「あなたは仏陀になれない」と言ってはならない。

質則朴素。直不偏此。苟能實踐。則言行不枉。何諂誑之有。直乃入道之基。故常修之。不輕下。頌上可知。

> 質とは、素朴であること。心がまっすぐで、偏らないこと。もしこれを実践できれば、言行は曲がらず、へつらいや偽りなどがあろうか。直心こそ、道に入る基である。ゆえに常にこれを修め、軽んじてはならない。上の偈頌からその意味を知るべきである。

△二三行頌觀行。

> △二十三行の偈頌による観行。

是佛子說法常柔和能忍至說法無障礙。

> 仏の子が説法するときは、常に柔和で忍耐強く、説法に障害がありません。

忍為四行之宗。故文中每舉。修慈下恭上平等之行。能破憍慢。行質直柔和忍辱之道。故無障礙之難也。

> 忍は四つの行いの根本である。そのため、経典の文の中でも度々取り上げられている。慈悲の心を修め、下の者には恭しく、上の者には敬い、平等に行うことで、驕りや慢心を打ち破ることができる。質素で率直、柔和で忍辱の道を行うならば、妨げとなる困難もないのである。

△三一行頌行成。

> 三業の一行が成就し頌となる。

第三法如是智者應守護一心安樂行無量眾所敬。

> 第三の法、このように智者は守るべきである。心を一つに安定させて楽しく修行すれば、無量の衆生から敬われる。

智者守口如瓶。防意如城。護機如子。敬佛如父。一心安樂。三業清淨。能行是道。孰不愛敬哉。意安樂行竟。

> 智ある人は口を慎み、まるで瓶の口を固く閉ざすかのようである。 心の働きを防ぐことは、城を守るようにして行い、 機微を護ることは、わが子を慈しむようにし、 仏を敬うことは、父を敬うかのようにする。 心を一つに定めて安楽を得、身・口・意の三つの行いを清らかに保つ。 この道を歩むことができるなら、誰がその人を愛さず、敬わないだろうか。 ——ここに「意の安楽行」の章を終わる。

△四誓願安樂行。有長行偈頌。長行分二。初明行法。二歎經法。初又分三。初標章。

> △四つの誓願による安楽行には、長行と偈頌があります。長行は二つに分かれます。最初に行法を明らかにし、次に経法をたたえます。行法の部分はさらに三つに分かれます。最初に標章を掲げます。

又文殊師利菩薩摩訶薩至有持是法華經者。

> また、文殊師利菩薩は、この法華経を守り持つ者がいるならば、

標誓願安樂行也。四行標章。五種法師互舉。

> \## 第四の章　安楽修行の誓願 ### 第一節　修行の種類を示す ここからは、修行者が安らかに仏道を行ずるための誓いと実践について説かれます。四つの種類の修行が示され、五種類の説法者それぞれに当てはまるものとして挙げられています。

△二釋行法。

> △二、実践方法について説明します。

於在家出家人中至引之令得住是法中。

> 在家の人も出家の人も、その人を導いて、この教えにしっかりと留まらせることです。

在家出家者。四眾也。四眾雖有僧俗之別。同在三界之中。皆以苦為樂。安樂行菩薩。於此眾中。應生大慈之心。先拔出三界分段之苦。與其三乘聖所稱讚之之樂。非菩薩者。不發大心。二乘人也。雖有聲緣之別。同出三界。皆以樂為苦。菩薩於二乘中。應生大悲之心。拔出變易生死之苦。與一乘諸佛智慧之樂。應作下。堅固願力也。則為大失者。以眾生具有智慧德相。小聖以小智為足。有如來寶藏而不能得。有廣大威神而不能用。故云大失。此句總標。下釋三失。如來隨宜說法。權智也。謂三乘之法。不得已而隨機敷演。實非本懷。二乘不解。執為實證。不求勝進。大失一也。不聞不知不覺者。不解一乘實相也。一乘妙法。實為二乘所說。由不聞是經。是決了聲聞法。則不知如來但為教菩薩事。亦不覺自己所證非究竟滅。大失二也。不問不信不解者。謂不知先三後一說法之儀式也。由不問此三乘法。是方便逐機之談。則不信此一乘法是平等佛慧人皆有分。而不解如來出現大事開示悟入佛知見故。大失三也。其人下。正發誓願。謂三失之人。雖不問三乘是諸佛方便。不信一乘是眾生等有。不解是經為彼所說。彼雖如是。我當起大慈悲而度脫之。得菩提。上求也。隨在何地。下化也。謂彼雖無意求妙法。隨彼在何地位。人天令出三界。二乘令入一乘。皆以如來自在神力。無量智慧力。引之令得住是一乘平等妙法之中。究竟得一切種智之果也。

> 在家も出家も含めた四種類の修行者、すなわち四衆がいます。四衆には僧侶と在家の違いがありますが、皆、三界の中にあり、苦しみを楽しみとみなしています。安楽行の菩薩は、このような人々に対して、大いなる慈しみの心を起こすべきです。まず、三界における「分段生死」の苦しみから救い出し、三乗の聖者が称賛するような楽しみを与えます。菩薩でない者、すなわち大いなる心を起こさない二乗の人は、声聞と縁覚の違いはあっても、共に三界を出て、楽しみを苦しみとみなしています。菩薩は二乗の人々に対して、大いなる悲しみの心を起こし、「変易生死」の苦しみから救い出し、一乗の諸仏の智慧という楽しみを与えるべきです。 「応に作す」より以下は、堅固な誓いの力を説いています。「則ち大失と為す」とは、衆生が本来、智慧と功徳の相を備えているにもかかわらず、小さな聖者は小さな智慧で満足し、如来の宝蔵を得ることができず、広大な威神力も用いることができないため、大きな損失であると言います。この句は全体の総括であり、以下で三つの損失を説明します。「如来、宜に随って法を説く」とは、方便の智慧を指します。つまり、三乗の法は、やむを得ず機根に応じて説かれたものであり、実は如来の本意ではありません。二乗の人々はこれを理解せず、これを真実の証であり究極であると固執して、さらに優れた境地を求めようとしません。これが第一の損失です。 「聞かず、知らず、覚らず」とは、一乗の真実の相を理解しないことを意味します。一乗の妙法は、実は二乗のために説かれたものです。この経を聞かないために、声聞法が明確に決せられたものであることを知らず、如来がただ菩薩のための教えを説いていることを悟らず、また、自分の証したものが究極の滅ではないと気づきません。これが第二の損失です。 「問わず、信じず、解せず」とは、まず三乗の法を説き、後に一乗の法を説くという説法の形式を知らないことを意味します。この三乗の法が方便として機根に応じた教えであると問わないため、この一乗の法が平等な仏の智慧であり、誰もが分け前を持っていると信じることができず、如来が出現した大事な理由、すなわち仏の知見を開示・悟入させることを理解しません。これが第三の損失です。 「其の人」より以下は、正しく誓願を起こすことを説いています。三つの損失を持つ人々は、三乗が諸仏の方便であると問わず、一乗が衆生に等しく存在すると信じず、この経が彼らのために説かれたものであると理解しませんが、彼らがそのような状態であっても、私は大いなる慈悲を起こして彼らを救い度すべきです。「菩提を得」とは、上求（悟りを求めること）を意味し、「随って何れの地に在るとも」とは、下化（衆生を教化すること）を意味します。つまり、彼らは妙法を求める気持ちがなくても、彼らがどのような境地にいようとも、人天の者には三界を出ることを教え、二乗の者には一乗に入ることを教え、いずれも如来の自在の神力と無量の智慧の力によって導き、一乗の平等な妙法の中に安住させ、究極的に一切種智の果を得させるのです。

△三結行成。又二。先明行成無過。

> 三段階目は、行いが完成することについてです。ここも二つに分けられます。まず、行いが完成して過ちがないことについて明らかにします。

文殊師利是菩薩摩訶薩至說是法時無有過失。

> 文殊師利よ、この菩薩摩訶薩が法を説くとき、そこにはいかなる過ちもありません。

由誓願安樂。則無嫉恚懈怠諂曲。諸過失也。

> 誓いと願いによって安らぎを得るならば、嫉妬や怒り、怠けやお世辞、心の歪みといった、あらゆる過ちはなくなります。

△次明行成利益。

> 次に行の成就による利益を明らかにします。

常為比丘比丘尼至現在諸佛神力所護故。

> 常に比丘や比丘尼たちは、現在の諸仏の神力によって守られているからです。

常為下。有大慈悲。故大眾悅服。四事供養也。虗空下。行與法勝。故諸天歸向。尊法敬人也。凡有問難。必有折挫。得其衛護。則正念不失。說必投機。皆得歡喜也。所以下徵釋。顯三世佛皆護此經。不但諸天侍護也。

> 常に下位にありながらも、大いなる慈悲心を持つがゆえに、多くの人々は心から従い、衣服・飲食・臥具・薬の四つの供養を受けるのです。「虚空に」以下の部分は、その行いが法に勝るため、諸天の神々も帰依し向かうことを意味します。これは法を尊び人を敬うことです。およそ問いや難問があれば、必ず打ち負かす智慧があります。その守護を得れば、正しい念いを失うことはありません。説法は必ず機縁に適い、皆が歓喜するのです。「ゆえに」以下の部分で、問いに答えてその理由を明らかにし、三世の仏も皆この経典を護持することを示しています。諸天がただ侍り守るだけではないのです。

△二歎經法。分二。初法說。

> 経典の素晴らしさを称えることについて、二つの観点から説明します。最初に、言葉で説明します。

文殊師利是法華經至何況得見受持讀誦。

> 文殊師利よ、この法華経を（耳にするだけでもそのように尊い功徳がある）。ましてや、実際に経典を目にし、受け入れ、心に留め、読み、暗唱する人には、なおさら計り知れない功徳があるのだ。

昔未顯說。故昔不得聞。無量國中者。約處則邊󳬛下里。不聞不見。約時四十年前。無量土中。久默斯要也。何況下。顯今日得聞。

> 昔はこの教えがまだ明らかにされていなかったため、聞くことができませんでした。 「無量国」と言うのは、場所でいえば辺鄙な土地や村々のように、聞くことも見ることもなかったということです。時でいえば、仏が教えを説き始めてから四十年の間、数えきれないほどの国土の中で、この最も大切な真理を長く沈黙して語られなかったのです。 さらに、この後に続く「いわんや」以下の文では、今日になってようやくこの教えを聞くことができるようになったことを明らかにしています。

△二喻說。分二。初不與珠喻。喻昔未顯說。二與珠喻。喻今日得聞。初又二。先喻說。

> 二つのたとえ話で説かれています。まず、宝珠を与えなかった例えで、昔は明確に説かれなかったことを示し、次に宝珠を与えた例えで、今日（法華経を）聞くことができたことを示しています。最初のたとえ話は、さらに二つに分けられます。まずはたとえ話そのもの。

文殊師利譬如強力至王諸眷屬必大驚怪。

> 文殊師利よ、譬えば、強大な力を持つ王が現れたなら、その眷属たちは皆、大いに驚き怪しむようなものだ。

喻有六。譬如下。威伏諸國喻。俱舍云。南洲人壽八萬歲時。有輪王出。人壽減損。眾惡漸盛。故佛出。金輪旋轉應導。威伏一切。名轉輪王。具說有四。若剎帝利種。受灌頂王位。於十五日。齋戒之時。東方忽有金輪寶現。其輪千輻。具足轂輞。舒妙光明。來應王所。此王定是金輪王。餘三例知。四王威定諸方。亦有差別。慈恩云。金輪望風順化。銀輪遣使方降。銅輪威鎮乃服。銕輪奮戈始定。今以輪王喻如來。有禪定智慧。故云強力。輪王為正統之主。握六龍以象乾。參七鳳以膺鼎。帝心簡在。作百世之君師。四海一人。當萬民之父母。故云聖王。威伏諸國者。喻陰處界等境。乃文乃武。大彰赫奕之風。來享來王。坐受玉帛之貢。乃輪王之威伏也。得法國土王於三界。說法教化。降伏煩惱諸魔。乃如來之威伏也。而諸下。小王不順喻。小王乃傍僭之主。方命虐民。喻諸煩惱五陰等魔。未得無漏智慧調伏。名不順命。時轉下。起兵往伐喻。鳴鼓聲罪曰討伐。種鍾兵者。七賢中所修方法為前軍。初二果所修方法為次軍。三四果所修方法為後軍。所破者三毒等分八萬四千之寇讎。能破者八萬四千法門之官兵。王見下。有功歡喜喻。喻佛見眾生修進斷惑有功。亦大歡喜也。隨功下。隨功賞賜喻。田即三昧。宅即智慧。聚落城邑。喻四果。衣服喻慚忍善法。嚴身具。喻助道善法。種種七寶。即七覺支。象馬車乘。即盡智無生智。奴婢即神通。得有漏善法。如人民。即七賢位也。小乘破見思有微功。佛隨其精進功能。而賜諸禪定等。唯髻下。不與珠喻。髻喻權。珠喻實。言髻中明珠有。實為權所隱也。在頂上者。極果所宗也。有出分段生死之機。為小功勳。有出變易生死之機。為大功勳。未有大功。忽賜髻珠。諸眷驚怪。喻眾生大機未動。忽說此經。二乘疑惑。菩薩驚怪也。所謂輪王之寶。不落餘人之手也。

> たとえに六つの教えがある。譬えて言えば、諸国を威伏する輪王のたとえである。俱舎論によれば、南閻浮提の人間の寿命が八万歳の時、転輪王が出現する。人寿が減じ、衆悪が盛んになると、仏が出現する。金輪を転じて導き応じ、一切を威伏する者を転輪王と名づける。詳しく説けば、四種の転輪王がある。もし剎帝利の種族が灌頂の王位を受けるなら、十五日の斎戒の時に、東方に忽然と金輪の宝が現れる。その輪は千輻をそなえ、轂と輞が具足し、妙なる光明を放って王のもとに来応する。この王は必ず金輪王である。残りの三種も同様に知るべきである。四種の王が諸方を威伏するにもまた差別がある。慈恩大師は言う。「金輪王は風が順に化するのを望む。銀輪王は使いを派遣して初めて降伏させる。銅輪王は威力をもって鎮めて服従させる。鉄輪王は戈を振るって初めて平定する」と。今、輪王をもって如来にたとえる。禅定と智慧を持つから「強力」と言う。輪王は正統の主であり、六龍を制御して天を象り、七鳳を参じて鼎を受け継ぐ。帝心は簡在し、百世の君師となる。四海は一人の主のもと、万民の父母となる。ゆえに「聖王」と言う。「諸国を威伏する」とは、五陰・十二処・十八界などの境にたとえる。文武ともに赫奕たる風を大いに顕し、来朝し王に奉える者には玉帛の貢ぎ物を坐して受ける。これが輪王の威伏である。法を得て国土に及び、三界の王となる。説法教化し、煩悩や諸々の魔を降伏する。これが如来の威伏である。「而して諸」の下は、小王が順わないたとえである。小王は傍らに僭称する主であり、天命に背き民を虐げる。諸々の煩悩や五陰などの魔にたとえる。無漏の智慧を得て調伏していないから、「命に順わず」と言う。「時転」の下は、兵を起こして伐つたとえである。鼓を鳴らし罪を宣告するのを討伐と言う。鐘や兵器をそなえるとは、七賢位において修する方法を前軍とし、初果・二果において修する方法を次軍とし、三果・四果において修する方法を後軍とする。破する所のものは三毒や等分の八万四千の寇讎である。能く破するものは八万四千の法門の官兵である。「王見て」の下は、功があって歓喜するたとえである。仏が衆生の修進・断惑に功あるを見て、大いに歓喜することにたとえる。「功に随う」の下は、功に随って賞賜するたとえである。田とは三昧であり、宅とは智慧である。聚落や城邑とは四果にたとえる。衣服とは慚愧・忍辱の善法にたとえる。厳身具とは助道の善法にたとえる。種々の七宝とは七覚支である。象・馬・車乗とは尽智・無生智である。奴婢とは神通である。有漏の善法を得ることは人民にたとえ、すなわち七賢位である。小乗が見思惑を破る微かな功があれば、仏はその精進の功能に随って諸々の禅定などを賜う。「唯だ髻」の下は、珠を与えないたとえである。髻は権にたとえ、珠は実にたとえる。髻の中にある明珠は、実が権によって隠されていることを意味する。頂上にあるのは、極果に宗とする所である。分段生死を出離する機縁があるのは小功勲であり、変易生死を出離する機縁があるのは大功勲である。未だ大功がなく、忽ち髻の珠を賜えば、諸々の眷属は驚き怪しむ。衆生の大機が未だ動かず、忽ちこの経を説くことにたとえる。二乗は疑惑し、菩薩は驚き怪しむ。いわゆる輪王の宝は、他人の手に落ちないのである。

△二法合。

> \*二つの法を合わせて説明いたします。\*

文殊師利如來亦復如是至而不為說是法華經。

> 文殊師利如来もまた、同じように、 「経典を説くことはない」とは言いません。

次第合上六喻。如來下。合威伏諸國喻。而諸下。合小王不順喻。如來下。合起兵往伐喻。王有象馬車步種種之兵。佛有賢聖諸將。小乘初果為賢。二三四為聖。又初果為聖者。揀前凡位故。大乘住行向為賢。十地為聖。其有下。合有功歡喜喻。於四下。合隨功賞賜喻。根力即七科中根力。修此根力。不漏落於六道生死。故名無漏。涅槃即小果真空。能防見思之非。禦生死之敵。故名城。而不下。合不與珠喻。

> 次に、「六つの譬え」を順に合わせて説明する。 「如来、〜す」の下の部分は、諸国を威服する譬えに相当する。 「而して諸、〜」の下は、小国が従わない譬えに合わせる。 「如来、〜す」の下は、出兵して討伐する譬えを合わせたものである。 王には象・馬・車・歩兵の様々な軍隊があるが、仏には賢聖である諸将がいる。 小乗では、初果を「賢」といい、第二・三・四果を「聖」という。 また、初果を聖者とするのは、それ以前の凡夫の位と区別するためである。 大乗では、十住・十行・十回向を「賢」とし、十地を「聖」とする。 「その有、〜」の下は、功績を喜ぶ譬えに合わせる。 「於四、〜」の下は、功績に応じて褒美を与える譬えに該当する。 「根力」とは、七科の中の根力（五根・五力）のことである。 この根力を修することによって、六道の生死に漏れ落ちることがないため、「無漏」と名づける。 「涅槃」とは小乗の真空の果報であり、見惑・思惑の過ちを防ぎ、生死の敵を防ぐことができるため、「城」と譬えられる。 「而して不、〜」の下は、宝珠を与えない譬えに合わせたものである。

△二與珠喻。喻今日得聞。分二。先喻說。

> 二 珠のたとえを用いて、今日の聞法の機会を得ることを譬える。この中を二つに分け、まずはたとえ話を示す。

文殊師利如轉輪王至不妄與人而今與之。

> 文殊師利よ、それはちょうど転輪聖王が、<note>みずから</note>軽々しく人に与えることのない宝を、今まさにその人に与えるようなものです。

如轉下。有大功勳。勤王有補衮之勞。征伐有勘亂之策。喻滅惑有智斷之功。進修有大乘之機。故心甚歡喜也。以此下。與珠。四十餘年。為權所覆。故云久。解髻即開權。與珠即顯實。喻法華開顯。久默斯要。秘而不談。故云不妄與人。

> \*\*要約すると、\*\* 多くの功績を挙げた部下がいる。王に仕えて国家の乱れを正す（衮職を補う）功労があり、征伐には乱を治める策略がある。これは煩悩を滅する智慧と断ち切る功徳、そして大乗の教えを進んで修行する素質に例えられる。だからこそ心から大いに喜んだのだ。 「ここにおいて」以下の部分は、宝珠を与えることの喩えである。四十余年の長きにわたり、衆生は権教（方便の教え）に覆われていた。だから「久しく」と言う。髻を解くことは権教を開くことであり、宝珠を与えることは真実の教え（実教）を顕すことである。これは法華経において、長らく秘められてきた大切な教えを開き顕すことを喩えている。 長い間、この大切な要諦を黙したまま、秘めて語らなかった。だから「安易に人に与えない」と言うのである。

△次法合。

> つぎに、法の教えを合わせて示します。

如來亦復如是至乃與汝等而敷演之。

> 如来もまた、同じように<注釈>して</注釈>、あなたがたのためにそれを説き明かすのです。

如來下。合大功勳。大集經云。知苦壞五陰魔。斷集離煩惱魔。證滅離死魔。修道壞天主魔。即欲界主。樂著邪見。憎嫉一切賢聖道法。名天主魔。大功勳者。如來見此賢聖。已除界內煩惱。不為魔網所󰋪。滅三毒苦。因出三界苦果。破眾魔之孽網。得自法性。證自涅槃。故大歡喜也。此法下。合與珠。一切智者。一切法能知能解也。多怨者。如五千退席。猶多怨嫉也。難信者。如中下之機。譬喻因緣方始信解也。於諸說中者。於已說今說當說中為第一也。如彼下。提喻。秘密者。諸佛心宗。如珠在髻中也。最上者。如在王頂也。四十年於生死長夜。守此時機。故云長夜守護也。

> 如来の段で、大きな功績について述べている。『大集経』にはこうある。「苦を知り五蘊魔を破る。集を断じて煩悩魔を離れる。滅を証して死魔を離れる。道を修して天主魔を破る。」つまり、欲界の主である天主は、邪見に執着し、すべての賢聖の道法を憎み嫉む。これを天主魔という。大きな功績とは、如来がこの賢聖たちを見て、すでに三界内の煩悩を除き、魔の網に捕らわれることなく、三毒の苦を滅し、三界の苦しみの果報から出て、あらゆる魔の悪業の網を破り、自らの法性を得て、自らの涅槃を証したこと。ゆえに大いに喜ばれるのである。 この法の段で、宝珠を授けることにあたる。「一切智」とは、あらゆる法を知り解すること。「多く怨む者」とは、五千人の退席した者のように、怨み嫉む者が多いこと。「信じ難き」とは、中根・下根の機根の者が、譬え話や因縁話によって初めて信解することをいう。「諸の説の中において」とは、すでに説き終えた法、いま説いている法、これから説く法の中でも、第一であることをいう。 「彼の如く」の段で、譬えを挙げている。「秘密」とは、諸仏の心の宗旨であり、宝珠が髻の中にあるようなもの。「最上」とは、王の頂上にあるがごときもの。四十年の長きにわたり、生死の長夜の中で、この時機を守り続けた。ゆえに「長夜守護」というのである。

△二偈頌。有三十七行半。分二。初十四行半。頌上長行。二二十三行。總結行成。初又二。先四行。頌釋行法。

> △二つの偈頌。三十七行半あり。二つに分ける。最初の十四行半は上の長行を頌する。二番目の二十三行は行いの完成を総括する。最初はさらに二つに分かれる。まず四行で、行法の解釈を頌する。

爾時世尊欲重宣此義而說偈言。

> その時、世尊はこの教えの意味を改めて明確に示そうとして、次のように偈（うた）を説かれました。

常行忍辱哀愍一切至為說此法令住其中。

> 常に忍辱を行じ、一切の衆生を哀れみ、その者たちのもとへ至っては、この法を説き、その中に安住させしめる。

初一行。明忍辱哀愍。乃能弘經。下頌上可知。

> 一行目。忍辱を明らかにし、哀れみの心をもってこそ、経を広めることができる。以下の偈頌が上文を解説していると知るべきである。

△次十行半。頌歎經法。分二。初四行頌喻說。二六行半頌法合。初又二。先三行。頌不與珠喻。

> 次に、十行半の偈で経典の教えを称える。この部分は二つに分かれる。初めの四行は喩えを用いた説明の偈、次の六行半は法を合わせた説明である。初めの四行はさらに二つに分かれる。まず三行で、宝珠を与えない喩えを詠む。

譬如強力轉輪之王至奴婢財物歡喜賜與。

> たとえば、力強い転輪聖王が、召使いや財産を喜んで与えるようなものです。

前喻有六。今頌隨功賞賜。餘皆義含次。

> 前に挙げた六つの喩えがあります。ここでは、功績に応じて褒美を与える話を述べます。その他の内容は、次の機会に含めることにします。

△一行頌與珠喻。

> 一行の偈と珠のたとえ

如有勇健能為難事王解髻中明珠賜之。

> もし勇猛で力強く、困難なことに立ち向かえる者があれば、王は自らの髻（もとどり）の中にあった明珠を解いて与えるのです。

力能趣實。故云勇健。依理起精進之行。故云能為難事。今佛解權賜實。如王解髻賜珠也。

> 力が実（真実）へと向かうので、「勇健」といいます。道理に従って精進の行を起こすので「難事をよく行う」といいます。今、仏は方便を解いて実を与えられます。それはあたかも王が髷（まげ）を解いて宝珠を賜うようなものです。

△二六行半。頌法合。分二。初三行半。頌合不與珠喻。

> △二十六行半は、法の契合をたたえます。二つに分かれます。初めの三行半は、珠を与えなかった譬えを説きます。

如來亦爾為諸法王至以大方便說此諸經。

> 如来もまた同じく、諸法の王として、大きな方便を用いてこれらの諸経を説かれたのです。

雖為法王。於法自在。先以忍辱為涉俗之大力。智慧為自利之寶藏。次以大慈悲心。觀機逗教也。受諸一句。世間因果也。欲求一句。出世安樂也。與五陰魔戰。破世間果。不受諸苦。與煩惱魔戰。滅世間因。不受諸惱也。為是眾生。說諦緣種種之法。三乘九部之經。令出三界。而得解脫也。

> たとえ法王であり、法において自在であっても、まず忍辱をもって俗世に関わる大きな力とし、智慧をもって自利の宝蔵とされます。次に大慈悲心をもって、人々の機根を見極め、それに応じて教えを説かれます。 「諸を受く」という一句は、世間の因果を示します。 「求む」という一句は、世間を超えた安楽を示します。 五陰の魔と戦い、世間の果を破って、諸々の苦しみを受けなくなります。 煩悩の魔と戦い、世間の因を滅ぼして、諸々の悩みを受けなくなります。 これらの衆生のために、四諦や十二因縁などの様々な教え、三乗や九部の経典を説き、三界を出て解脱を得させられるのです。

△二三行。頌合與珠喻。

> 二三の行があります。この詩のまとまりは、珠のたとえを用いています。

既知眾生得其力已至今正是時為汝等說。

> すでに、皆さんがその力を得たことを知りました。 今こそ、ちょうどよい時です。あなたがたのために説きましょう。

其力者。精進力也。不妄開示者。大機未熟也。正是時者。開顯時也。對長文可知。

> その「力」とは、努力を続ける力のことです。 むやみに説き明かさないのは、まだ大きな悟りを得る器が熟していないからです。 「ちょうどその時」とは、説き明かす時が来たということです。 長い文章を読めば、その意味が分かります。

△二二十三行。總結行成。分三。初一行半。結勸四行。

> 第二に、二十三行で修行の成果をまとめる。これは三つに分かれる。まず、一行半で四行をまとめて勧める。

我滅度後求佛道者至應當親近如是四法。

> 私が滅度した後に仏道を求める者は、<note>必ず</note>この四つの法に親しむべきである。

△二二十行半。行成感徵。分二。初四行半。明三障感報。二十六行。明夢境徵相。初又三。初一行。報障清淨。

> △二、二十行半　行が成就する感徴の章。二つに分かれる。初めの四行半で、三障が報いを感じることを明かす。次の六行で、夢の境地の徴相を示す。初めの部分はさらに三つに分かれる。初めの一行で、報障が清らかになることを示す。

讀是經者常無憂惱又無病痛顏色鮮白。

> この経典を読む人は、常に憂いや悩みがなく、また病や痛みもなく、顔色は生き生きと白く輝きます。

此轉現報也。轉報障者。滅順現衰惱故。心持呪印。顧盻雄毅。由中達外。理誠然也。

> この転現する報いについての説明である。「報障」を転ずるとは、順現衰惱（じゅんげんすいのう）が消え去るからである。心に呪印（じゅいん）を保ちながらも、目配りは雄々しく勇ましいのは、内面から外面に至る道理であり、まことにその通りなのである。

△二二句。業障清淨。

> 第二十二句。業の障りが清らかになる。

不生貧窮卑賤醜陋。

> 貧しく卑しい姿に生まれることなく、醜い姿になることもありません。

此轉生報也。轉業障者。滅順生惡業故。惡業之因。應感惡果。由持經力。轉業因而得好果。現在不作貧窮業。未來不生卑賤處也。

> これは転生の報いである。業の障りを転ずるとは、順に生じる悪業を滅するからである。悪業の因は悪果を感ずべきであるが、経を持する力によって業の因を転じ、良い果を得るのである。現在には貧窮の業を作らず、未来には卑しい境遇に生まれることはない。

△三三行。煩惱清淨。

> 三三昧。煩悩が清らかになる。

眾生樂見如慕賢聖至智慧光明如日之照。

> 人々は、高徳の聖者を慕うように、その方を喜んで拝見します。智慧の光明は、太陽が世界を照らすかのようです。

此轉後報也。轉煩惱障者。滅順後麤報故。眾生下。明轉貪障。多貪欲者。為人忽慢。障生梵天。今貪欲障轉。故人人樂見。不敢忽慢。人人景仰。如慕賢聖。天童給使者。不障生梵天也。刀杖下。明轉瞋障。瞋如刀箭。瞋似毒藥。瞋能惡口。內瞋障轉。內之刀杖既捨。則外刀不傷。內之毒藥既除。則外毒不害。內瞋既無。不觸犯於人。縱欲惡罵。非理枉加。口則閉塞。不能惡罵也。既不為人加害罵辱。則遊行之處。無所畏憚。怖障永離。游優自在。故如師子王。智慧下。明轉癡障。愚癡能障智慧。今愚癡既轉。則智慧灼發。光明如日之照也。

> これは後報を転じるものです。煩悩障を転じるとは、順後の粗い報いを滅するからです。「衆生」以下の文は、貪欲の障りを転じることを明かします。貪欲の多い者は人から軽んじられ、梵天に生まれることを妨げられます。今、貪欲の障りが転じるので、人々は皆喜んで見て、軽んじることをしません。人々は皆敬い慕い、聖賢を慕うようです。天の童子が給使として仕え、梵天に生まれることを妨げません。「刀杖」以下の文は、瞋りの障りを転じることを明かします。瞋りは刀や矢のようなものであり、瞋りは毒薬のようなものです。瞋りは悪口を生みます。内なる瞋りの障りが転じれば、内なる刀杖がすでに捨てられるので、外からの刀も傷つけることができません。内なる毒薬がすでに除かれるので、外からの毒も害を与えません。内に瞋りがなければ、他者に触れることもありません。たとえ悪口を言おうとして不当に責められても、口は塞がれて悪口を言うことができません。もはや他者から害されたり罵られたりすることがなければ、遊行する場所でも何も恐れることはありません。恐怖の障りは永遠に離れ、自由に遊ぶことができます。ゆえに獅子王のようなのです。「智慧」以下の文は、愚痴の障りを転じることを明かします。愚痴は智慧を妨げます。今、愚痴がすでに転じれば、智慧は明らかに発現し、その光明は太陽の照らすようです。

△二十六行。明夢境徵相。分六。初一行半。夢諸佛說法。

> 二十六行目。夢の中のしるしについて明らかにする。六つに分ける。初めの一行半。諸仏が説法なさる夢を見る。

若於夢中但見妙事至諸比丘眾圍繞說法。

> 夢の中で、ただ素晴らしい光景だけを目にすることもあります。<note>至</note>多くの比丘たちに囲まれて、説法を行っている様子も見えるでしょう。

由前四行功成。加以弘經之力。化功歸己。果相先彰。故於夢中。見種種妙事。並是未來後報之相。

> 最初の四行の修行が成就し、さらに経典を広める力が加わることで、 教化の功績が自らに帰し、その果報の兆しが先に現れます。 そのため夢の中に、様々な素晴らしい出来事が見られるのです。 これらはみな、未来に受けるべき報いの姿なのです。

△二一行。夢八部圍繞。

> 夢の中で八部衆があなたを取り囲んでいる。

又見龍神阿修羅等數如恒沙恭敬合掌。

> また、竜神や阿修羅などの数がガンジス川の砂のようであり、敬いの心で合掌しているのが見えました。

△三二句。夢自身說法。

自見其身而為說法。

> 自らの身を見極め、説法を行う。

△四六行半。夢聞法得記。

> 四行半ほどの長さの夢の中で、法を聞き、記別（未来の成仏の予言）を受ける。

又見諸佛身相金色至亦有四眾合掌聽法。

> また、多くの仏の体が金色に輝くのを見る。 <note>至</note>また、四つの集いが合掌して法を聴く姿もある。

又見下。見佛放光說法。見身下。聞法歡喜供養得證。佛知下。蒙佛授記。

> また、諸仏の放つ光の中に、それぞれの仏が教えを説いているのを目にする。その身の下では、その教えを聞いて喜び、供養し、悟りを得る。仏がこれらの衆生の心を知り、彼らに成仏の予言を与える。

△五一行半。夢修禪見佛。

> △五行半（約55字）。夢の中で修行し、静かに心を落ち着けて、仏にお会いする。

又見自身在山林中至深入禪定見十方佛。

> また、自身が山林の中にいるのを<note>見て</note>、深く禅定に入り、十方の仏を見ることもある。

△六五行。夢八相成道。

> 六つの清らかな行いと、五つの修行があります。 そして、八つの相をもって悟りを開かれた釈尊の生涯を夢に見るのです。

諸佛身金色百福相莊嚴至如烟盡燈滅。

> 諸仏の御身体は金色であり、百の福徳の相によって荘厳されている。<note>そして、</note>煙が尽きて灯火が消え去るように。

初四句結前起後。又夢下。歷見脩進成佛始終之行也。諸佛之果。由行以致。安樂行人。先見其相。克果必矣。夢作國王。即降兜率。託陰。降生。三相。捨宮殿五欲。詣道樹等。即出家之相。成道必降魔。即成道降魔二相。轉法輪。入涅槃。二相如文。畑盡燈滅。喻機盡應滅也。然皆以夢而說者。欲令行人觀一切法空。無所有。但以因緣顛倒生。自雖見佛聞法。乃至圓成佛果。皆為夢事。了不可得。無有常住。亦無起滅。常觀是相。然後於一切處。得真實安樂行也。

> 四つの偈句（過去の修行の行いをまとめた四つの偈）は、前の文を締めくくり、後の文を導き出しています。次に「また夢の中で～」という箇所からは、修行を積んで仏となるまでの始終の過程を見ていくことになります。諸仏の果報は修行によってもたらされます。安楽行を実践する人は、まずその兆し（相）を目にします。そうすれば、必ず成果を得られるのです。 夢の中で国王になるのは、すなわち兜率天から降りてくる姿、胎内に宿る姿、誕生の姿、三つの相、宮殿と五欲を捨てる姿、菩提樹のもとへ向かう姿などを示しています。これらは出家の相です。成道には必ず魔を降伏することが伴います。すなわち成道と降魔の二つの相です。法輪を転じる相と涅槃に入る相の二つは、経文の通りです。 「田畑の光が尽き、灯火が消える」というのは、教えを受ける人々の縁が尽き、それに応じて仏の応身が滅することを譬えています。 しかし、これらすべてを「夢」として説くのは、修行者に、あらゆる法は空であり、本来何ものも存在せず、ただ因縁と顛倒によって生じるのだと観じさせるためです。たとえ自ら仏を見て法を聞き、完全な仏の果報を成就したとしても、それはすべて夢のようなものであり、実体として捉えることはできません。常住のものもなく、また生じも滅しもしません。常にこのような相を観じることで、あらゆる境地において、真実の安楽行を得ることができるのです。

△三一行。總結利益。

> まとめると、その功徳は次の通りです。

若後惡世中說是第一法是人得大利如上諸功德。

> もし後の世の中で、この第一の法を説くならば、その人は大きな利益を得るであろう。その功徳は、先に述べたとおりである。

上因迹門弟子通經。文殊請問。如來示規四行已竟。

> 次に、法華経の迹門の教えに基づいて、仏弟子たちが経典を実践する方法が説かれます。文殊菩薩が質問をし、如来が四つの実践規範を示されました。これでその説明は終わりです。