建中寺
建中寺
普泰元年尚書令樂平王尒朱世隆所立也本是閹官司空劉騰宅屋宇奢侈梁棟踰制一里之間廊廡充溢堂北宣光殿門匹乾明門博敞弘麗諸王莫及也在西陽門内御道北所(漢魏無所字)謂延年里劉騰宅東有太僕寺寺東有乘黃署署東有武庫署即魏相國司馬文王府(漢魏府下有武字)庫東至閶闔宮(漢魏無宮字)門是也西陽門内御道南(如隱漢魏無南字)有永康里里(漢魏不重)内復有領軍將軍元乂(如隱綠君义漢魏義)宅掘故井得石銘云是漢太尉荀彧宅正光年中元乂專權太后幽隔永巷騰為謀主乂是江陽王繼之子太后妹婿熙平初明帝幼冲諸王權(漢魏照曠勸)上太后拜乂為侍中領軍左右令總禁兵委以腹心反得幽隔永巷六年太后哭曰養虎自齧長虺成蛇至孝昌二(漢魏無二字)年太后反政遂誅乂等沒騰田宅元乂誅日騰巳物故太后追思騰罪發墓殘尸使其神靈無所歸聚(如隱綠君趣)以宅賜高陽(漢魏無此二字)王雍建義元年尚書令樂平王尒朱世隆為榮追福題以為寺朱門黃閣所謂仙居也以前廳為佛殿後堂為講室(漢魏堂)金花寶葢遍滿其中有一涼風堂本騰避暑之處淒涼常冷經夏無蠅有萬年千嵗之樹也
普泰元年、尚書令の楽平王・尓朱世隆が建立した寺である。もとは宦官で司空だった劉騰の邸宅であり、建物は贅沢を極め、梁や棟は格式を超えていた。一里(街区)の間に廊下や廂が溢れんばかりに立ち並び、堂の北にある宣光殿の門は乾明門に匹敵し、広々として壮麗であり、諸王の及ぶところではなかった。西陽門の内側、御道の北側に位置する。(漢魏の記録には「所」の字はない)延年里と呼ばれていた。劉騰の邸宅の東には太僕寺があり、その東に乗黄署、さらに東に武庫署がある。これは魏の相国・司馬文王(司馬昭)の府である。(漢魏の記録では「府」の下に「武」の字がある)この武庫署の東は閶闔宮の門に至る。(漢魏の記録には「宮」の字はない)
西陽門の内側、御道の南側(漢魏の記録には「南」の字はない。『如隠録』君注によれば)に永康里がある。この里(漢魏の記録では「里」の字は重ねられていない)の内に、さらに領軍将軍・元乂(『如隠録』君注によれば「绿」、『漢魏』では「義」)の邸宅があった。古い井戸を掘った際に得た石の銘文には、「漢の太尉・荀彧の邸宅であった」と記されていた。
正光年間、元乂が権力を独占し、太后は永巷に幽閉された。劉騰はその謀略の主導者であった。元乂は江陽王・元継の子であり、太后の妹の夫であった。熙平の初め、明帝が幼くして諸王が権勢を振るった(漢魏の記録では「照」「曠」「勧」の字)頃、太后は元乂を侍中・領軍・左右令に任じ、禁兵を統率させ、腹心として重く用いた。ところが逆に太后は永巷に六年間も幽閉されることとなった。太后は泣いて言った。「虎を養えば自らを噛み、長き虺(まむし)は蛇となる」と。孝昌二年(漢魏の記録には「二」の字はない)に至り、太后が政権を取り戻し、ついに元乂らを誅殺し、劉騰の田地や邸宅を没収した。元乂が誅された時、劉騰はすでに死去していたが、太后は劉騰の罪を追及し、その墓を暴き、死体を損壊させた。その霊魂が帰り集う場所もないようにするためであった(『如隠録』君注によれば「趣」の字)。この邸宅は高陽王・雍に下賜された(漢魏の記録には「此の二字」はない)。
建義元年、尚書令・楽平王・尓朱世隆が、尓朱栄の冥福を祈るために、この建物を寺とするよう願い出て、寺号を掲げた。朱塗りの門、黄色の閣があり、いわゆる「仙居」である。かつての前庁を仏殿とし、後堂を講堂とした(『漢魏』では「堂」)。金の花や宝の蓋がその中に満ち満ちている。一つの涼風堂があり、もとは劉騰が暑さを避けた場所である。清々として常に冷たく、夏でも蝿がいない。万歳千年の木々が生えている。