ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 続原教論 (續原教論)
  2. 第一 (第一)
  3. 序 (序)
←と→
矢印キーでページをめくれます

続原教論 (續原教論)


原教論序

『原教論序』

夫情智相違而後有教,識趣相違而後有辯,故分別是非所以立教,不辯何以明理哉?昔人欲理之明,乃設難以為問答,使讀之者了然不疑。今儒者疑難於佛,必當辯之,所謂立教明理也。昔諸佛出世,諸大菩薩化為外道,各執異說問難於佛,如來乃破其邪執,立如是義、說如是經,則諸教皆由論辯而起也。若唐宋大儒各執所見疑難於佛,毀訾排斥或有甚焉,亦或菩薩化身儒門,故爾相違,使有以辯之以彰至理歟?果亦未造佛之閫域實有所疑歟?自是以來數百年間,以儒名者之於佛教,或為敬信、或為非議,毀讚不常、是非莫辯,使至道不明,誠可悲矣!士榮自知愚陋,所學不及先儒之萬一,又未得吾佛證入之門,伏念二教之相違久矣,而智者則默然而不為之辯,坐視求學之士,循習舊聞或生誹謗,喪內學之家珍、傷名教之根本,故不自揆度,輒以其所非斥之言,具錄于前,為之辯解于後,著論三篇,解五篇,辯六篇,通十四篇,原其異同謂之論,釋其疑惑謂之解,明其是非謂之辯,理學君子幸決擇而去取焉,固不礙於聖賢之學也。時

人が感情や知識の見解を異にすれば、それによって教えが生まれ、考え方や趣きが違えば、それによって問答が起こる。だからこそ、是非を分別して教えを立てるのであり、問答をしなければ、どうして道理を明らかにできようか。昔の人は道理を明らかにしようとして、あえて問いを設けて問答とし、読む者がはっきりと迷いなく理解できるようにした。

今、儒者が仏教に対して疑問を抱き、論難するならば、必ずこれに答えて明らかにすべきである。これがまさに教えを立て、道理を明らかにするということである。昔、諸仏が世に現れたとき、大菩薩たちは外道に変身して、それぞれ異なる説を唱えて仏に問いかけた。如来はその誤った執着を打ち破り、このような義を立て、このような経典を説かれた。つまり、すべての教えは論議や問答によって起こったのである。

唐宋の大儒たちがそれぞれ自分の見解に執着して仏教に疑問を抱き、誹謗したり排斥したりしたことの中には、非常に激しいものもあった。あるいは、これも菩薩が儒者の姿に変わって現れたからであり、あえて相対立させて、人々が論議することによって真理を明らかにさせるためであろうか。あるいは本当に仏教の深い境地に至らず、実際に疑問があったのであろうか。

それ以来、数百年の間、儒者と名乗る者たちの仏教に対する態度は、敬い信じることもあれば、非難することもあり、毀誉褒貶が一定せず、是非も明らかにならなかった。そのため、最高の真理が明らかにされず、誠に悲しむべきことである。

士栄は自分の愚かさと浅はかさを自覚しており、学んだことは先儒の万分の一にも及ばず、また仏の悟りの門に入ることもできていない。しかし、二つの教えが長い間対立してきたのに、賢者たちは黙って弁明しない。ただ座って、学問を求める人々が古い考え方に従い、あるいは誹謗を生じさせるのを見過ごしている。これは内なる学問の家宝を失い、名教の根本を傷つけることになる。

それゆえ、自分の力量を顧みずに、非難された言葉を前に列挙し、その後でそれに対する弁明を試みた。論三篇、解五篇、弁六篇、合わせて十四篇を著わした。その異同の根源を探るものを「論」と呼び、人々の疑問を解き明かすものを「解」と呼び、是非を明らかにするものを「弁」と呼ぶ。どうか道理を学ぶ君子よ、これらを取捨選択していただきたい。これらは決して聖賢の学問を妨げるものではない。

時に

洪武乙丑季夏上弦建安沈士榮謹序

洪武帝乙丑年の夏、六月の上弦の日に、建安の沈士榮が謹んで序を記す。


篇目

CBETA コード: JB090

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません