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  1. 牧雲和尚嬾斎別集 (牧雲和尚嬾齋別集)
  2. 第1巻 (第一)
  3. 文
  4. 序
  5. 聽雲集序
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牧雲和尚嬾斎別集 (牧雲和尚嬾齋別集)


聽雲集序
人生遇合,世出世固自不偶。昭易澤國也,極樂孤菴也,予初至,歌想滄浪,竿投綠水而已。居無何,有一翁來訪,鬚鬢皤然,瞻其容,聆其語,益儒者也。出詩貽余,誦其詞,高其韻,視其印,誌為木頭老子。木頭老子蓋儒而詩者也,余喜之。既而四方來學聚於一堂,風甚冷淡,木頭老子樂之。一日,攜一矮榻及團蒲直來堂中,晨香夕燈,行住坐臥與衲子俱,余始知木頭老子又儒而禪者也。適大山勝公自牛頭山來,余請典藏職。大山又儒而衲,衲而愛詩,木頭老子不覺與之合焉,飲食居處靡不同也,余益奇之。昔者吾友斷峰,雲間人,亦儒而後禪,鍼芥天童,先師惜沒焉,其法不見於世。木頭老子蓋曾與之抵足焦山,討論竺典。木頭老子之入佛,年且久矣,而絕無泛濫之語、橫溢之機。其學問有淵源,佛理窮精奧,不立異同;其骨氣不為時抑,不求人聞,獨以了手一著為念。在儒為慥慥君子,法中亦可謂耆年禪伯也。乃醉心於孤庵,歲暮忘歸,余亦不知其合也。擁爐煨芋,秉燭炊茗,每誦其詩而樂之,然詩乃木頭老子之緒餘也。

ある人生の出会いというものは、世間であろうと世を離れた場であろうと、決して偶然に起こるものではない。昭易は沢国であり、極楽は小さな庵である。私が初めてここに訪れた時は、ただ「滄浪の水よ」と歌い、釣り竿を緑の水面に投げる思いでいた。

そうして間もなく、一人の老翁が訪ねてきた。鬚や鬢は真っ白で、その顔を拝し、その言葉を聞けば、ますます儒者らしい。私に詩を贈り、その言葉を朗読し、その韻の深さを称え、その印を認めると、「木頭老子」と記されていた。木頭老子は、儒者でありながら詩人でもあった。私は喜んだ。

やがて、四方から学びたいと願う者たちが一堂に集まった。風はいたって冷淡であったが、木頭老子はそれを楽しんでいた。

ある日、彼は低い寝台と丸い座布団を携えて、堂内に直接やってきた。朝には香を焚き、夕べには灯りをともし、行き、立ち、寝て、座るすべての時を、僧たちと共に過ごした。私はここで初めて、木頭老子が儒者でありながら禅者でもあることを知った。

折よく、大山勝公が牛頭山からやって来た。私は彼に経蔵の管理を依頼した。大山はまた、儒者でありながら僧であり、僧でありながら詩を愛した。木頭老子は思わず彼と意気投合し、飲食や居住のすべてを共にしないことはなかった。私はますます不思議に思った。

昔、私の友人である断峰は雲間の出身で、やはり儒者から後に禅者となり、天童寺においてぴたりと心が合う師に出会ったが、先師は惜しくも他界し、その教えは世に広まらなかった。木頭老子はかつて彼と焦山で膝を突き合わせて過ごし、仏典について討論したという。木頭老子が仏門に入ってから久しいが、言葉にでたらめはなく、心の動きに乱れは全くない。その学問には深い基盤があり、仏の理を極めつくし、異なる立場を立てることもなければ、争うこともない。その骨格と気概は、時代に押し流されることなく、世に名を知られようとも求めず、ただ自らの最後の一着を成し遂げることだけを念じている。儒者としては誠実で篤実な君子であり、仏法の世界にあってもまた、年長の禅の大家と言えるだろう。

そして今、彼は小さな庵に心を奪われ、歳の末になっても帰ることを忘れている。私もまた、なぜ彼がこれほどまでにこの地に心を合わせているのか、その理由を知らない。

炉を囲んで芋を焼き、燭をかざして茶を沸かしながら、私たちはいつも彼の詩を朗読しては楽しんでいる。しかし、詩とは、木頭老子にとっては余技に過ぎないのだ。


別刻古庭和尚拈頌序
柴菴先生和池上來詩序

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