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title: "廣福山勝覺寺密印禪師語錄 · 示雪嵋禪人"
description: "廣福山勝覺寺密印禪師語錄由清代僧人真傳說，弟子如暐等人編纂。該書收錄了密印禪師的開示、法語、機鋒對答及詩偈，是研究清初禪宗思想的重要文獻。其內容體現了臨濟宗的禪風，強調直指人心、見性成佛，反映了當時禪林的修行與教化實踐。此語錄在佛教史上具有較高地位，為學者探究清代禪宗發展與語錄體裁提供了珍貴史料。"
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### 示雪嵋禪人

> 雪嵋禅人に示す

夙有般若、近善知識，實非細事，縱然深達此道，開言進語不得妄談，微露手眼要有來歷，非是倚艸附木之輩，無主孤魂專在第六識裏，得水便弄泥團塞人耳目，引得盲人猶如夜裏持物相似，雖然在手不辨赤黃，上下渾然遞相鈍置，故有習氣深入，難改舊時行履。且道錯在何處？蓋為從前自己了不徹底，昔時遇人來處不清，復到明眼人前，如鏡照妖近旁不得，或經一年半載忿起煩惱，依然走向背地捏怪，效設師位欺誑盲俗，有始無終遭人貶剝。試看當時高峰和尚，忽被雪巖老人一句逼得口啞，自發誓云：「我拌一生作個癡獃，定要見這一著子明白。」經及五年，一日寓菴宿睡覺，正疑之間，忽同宿道友推枕子墮地作聲，驀然打破疑團，如在羅網中跳出。自古迄今不獨高峰和尚，前輩仰山、香巖相見溈山並無兩般矣。可見他是真法王子，善不小小便了，焉敢造次承當？怎似這般瞎見人，妄披獅子皮就作野豻鳴，只圖說得快便是禪，打得贏便是道，也學棒下翻身，不脫口裏水漉漉地，為佗當時初得見處，著向見邊，見邊不脫，專愛說玄說玅，賣弄蹤跡，謂之為人事業，殊不知正是障蔽黃面底魔子也。所以雲門道：「光不透脫，有兩般病：一切處不明，面前有物是一；又透得一切法空，隱隱地似有個物相似，亦是光不透脫。」而然是也。假使黃粱夢斷，閨閤情忘，尚與古人徹證無別，依還不得強作主宰。不見白雲老人道：「悟了須遇人始得，若不遇人，只是個無尾巴猢猻，纔弄出來，有人便笑。」近時看來，覓個別有長處底人，正如天上擇月，諦觀此道，愈漸可憐。近日雪嵋禪者，昔在融徹處來，經及數載，不憚勞倦，誠肯用意。殊不知我儂門下，並無甚麼奇特，直將這個千聖近旁不得底，萬靈景仰無門底，速捨身命，便與從前古人併作一阬，後來有人向汝手中乞命，那時節方知此話實不誣矣。脫或未能，從前有箇撞死老鼠瞎貓，切莫效樣。

> 古くから般若の智慧があり、善知識に近づくことは、決して小さなことではありません。たとえこの道を深く理解していても、言葉を発する際には軽々しく語ってはならず、わずかに手や目を動かすにも来歴が必要です。それは草に寄りかかり木に付くような輩ではなく、主のない孤魂がただ第六識の中に留まり、水を得れば泥団子を弄んで人の耳目を塞ぎ、盲人を引き連れてまるで夜に物を持つかのように、手にしていても赤や黄色の区別もつかず、上下が渾然として互いに鈍く置かれているからです。そのため、習気が深く入り込み、古い行いを改めるのは難しいのです。さて、どこに間違いがあるのでしょうか？それは、かつて自分自身が徹底的に理解していなかったからです。昔、人に出会ったときの来歴がはっきりせず、また明眼人の前に出ると、鏡が妖怪を映すように近づくこともできず、あるいは一年半経って怒りや煩悩が起こり、依然として陰で怪しいことを捏造し、師匠の位を真似て無知な人々を欺き、始めはあっても終わりがなく、人から貶されることになります。かつて高峰和尚が、雪巖老人の一言に追い詰められて口がきけなくなり、自ら誓いを立てた様子を見てみましょう。「私は一生をかけて愚か者になり、必ずこの一着をはっきりと見極めよう。」五年が経ち、ある日庵に泊まって目が覚めたとき、正に疑っている最中に、たまたま同宿の道友が枕を落として音を立て、突然疑団が打ち破られ、まるで羅網から飛び出したかのようでした。古より今に至るまで、高峰和尚だけでなく、先達の仰山や香巖が溈山に会った時も同じでした。彼らが真の法の王子であることは明らかで、小さな善で終わるものではありません。どうして軽々しく引き受けられましょうか？このような盲目の者が、妄りに獅子の皮を被って野豻のように鳴き、ただ早口に話すことが禅だと思い、勝つことが道だと考え、棒の下で身を翻すことを真似て、口から水が滴るような言葉を吐き、彼が初めて見たものをその見たままに執着し、見たものを離れず、ひたすら玄妙を語り、自分の足跡をひけらかし、それを人の事業と呼ぶなど、まさに黄面を覆い隠す魔の子であることに気づいていません。だから雲門は言いました。「光が透き通っていないには、二つの病がある。あらゆる場所で明らかでなく、目の前に物があるのが一つ。また、あらゆる法が空であることを透徹しても、かすかに何かがあるように感じるのも、光が透き通っていないからだ。」その通りです。たとえ黄粱の夢が断たれ、閨閤の情が忘れられても、なお古人の徹底した証悟と変わらず、依然として強いて主宰しようとしてはなりません。白雲老人が言ったように、「悟った後には人に出会わなければならない。もし人に出会わなければ、ただの尻尾のない猿で、ちょっと出てくれば人が笑う。」近頃を見ると、特別に長所のある人を探すのは、まるで天上で月を選ぶようで、この道をよく観察すれば、ますます哀れに思えます。最近の雪嵋禅者は、かつて融徹のところから来て、数年を経て、労苦を厭わず、誠実に心を込めています。しかし、私たちの門下には何も特別なことはなく、ただこの千聖も近づけないもの、万霊も仰ぎ見る門のないものを、速やかに身命を捨てて、かつての古人と共に一つの穴に埋め、後になって誰かがあなたの手から命を乞う時、その時になって初めてこの言葉が真実であることを知るでしょう。もしそれができなければ、かつての死んだ鼠にぶつかる盲目の猫のようにならないでください。