絕餘編序
生平行履,百無一長。獨有大菩提心,忘身為法,捨己從人,則堪質諸三世慈尊者也。自庚午至甲戌,五年之中,幾經困衡,曾無退悔。蓋因乙亥仲秋,復遇一友背盟,而此志遂不啻如槁木死灰矣。丙子春,本擬遁跡萬山深處,甘與野獸同死。途中大病,逗留九華,哀禱地藏本師,仍得閱藏著述之決,乃不復與文字般若為讎。嗟乎,文字性空,性空即是實相。實相離一切相,即一切法,豈離文字而解脫哉?追思昔年焚棄筆硯,絕而不絕,今也不絕而絕矣。非絕非不絕,而論於絕,絕無絕相,姑名絕餘。知我者其惟此編乎,笑我者其惟此編乎,吾以俟諸後世子與可也。
私の生涯を振り返れば、何一つ取り柄もありません。ただ一つ、大菩提心だけは持ち続け、身を忘れて法のために尽くし、己を捨てて人に従うことだけは、三世の慈尊に問い質すに足るものだったと信じています。庚午から甲戌までの五年間、幾度となく苦難に遭いながらも、一度も退くことはありませんでした。しかし、乙亥の仲秋、またしても友が盟約を破ったことで、この志はまるで枯れ木や冷たい灰のようになってしまいました。丙子の春、私は深い山奥に身を隠し、野獣と共に死のうと決意しました。旅の途中で重い病にかかり、九華山に逗留した折、地蔵菩薩に哀れみを乞い、経蔵を読み著述を続ける決意を得ました。それ以来、文字の智慧を敵視することはなくなりました。ああ、文字は本質が空であり、その空こそが実相なのです。実相はすべての相を離れながら、すべての法そのものなのです。どうして文字を離れて解脱ができるでしょうか。昔、筆と硯を焼き捨て、絶とうとして絶えきれなかったことを思い返せば、今は絶えようとせずに絶えているのです。絶えるでもなく絶えないでもなく、絶えると言えば絶える相さえなく、ただ仮に「絶余」と名付けるだけです。私を理解してくれるのはこの書だけでしょう。私を笑うのもこの書だけでしょう。私は後の世の人々がどう判断するかを待つことにします。
崇禎壬午仲夏藕益道人智旭書於吳興之鐵佛觀堂
崇禎壬午年の仲夏、藕益道人智旭が呉興の鉄仏観堂にて記す。