ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 般舟三昧経 (般舟三昧經)
  2. 第三 (第三)
  3. 10 請仏品 (10 請佛品)
←と→
矢印キーでページをめくれます

般舟三昧経 (般舟三昧經)


般舟三昧經卷下

般舟三昧経 巻下

後漢月氏三藏支婁迦讖譯

後漢 月氏三蔵 支婁迦讖 訳

請佛品第十

第十章 仏を請う

跋陀和菩薩政衣服,長跪叉手白佛言:「我欲請佛及比丘僧明日於舍食,願佛哀受請。」佛及比丘僧默然悉受請。

バドラと菩薩は衣を整え、ひざまずいて両手を合わせ、仏に申し上げた。「明日、私が仏と比丘僧たちを自宅にお招きして食事を差し上げたいと願っております。どうか仏様、私の願いをお聞き入れください。」仏と比丘僧たちは黙って、すべての招待をお受けになった。

跋陀和菩薩知佛已受請,起至摩訶波喻提比丘尼所,白比丘尼言:「願受我請,明日與比丘尼俱於舍小飯。」摩訶波喻提比丘尼即受請。

跋陀和菩薩は、仏が供養の申し出を受け入れられたのを知ると、立ち上がって摩訶波闍波提比丘尼のもとへ向かい、こう申し上げました。「どうか私の供養をお受け入れください。明日、比丘尼の方々と共に、私のささやかな家で食事をおとりください。」摩訶波闍波提比丘尼は、その供養の申し出をお受けになりました。

跋陀和菩薩語羅隣那竭菩薩:「舍第!諸郡國其有新來人,悉請會佛所。」

跋陀和菩薩が羅隣那竭菩薩に言った。 「皆さん。各地で新しく来た人々は、すべて仏のもとにお連れしなさい。」

羅隣那竭菩薩前至佛所,為佛作禮,長跪叉手白佛言:「我兄請佛、所有新來人悉欲請於舍食,願哀受之。」

羅隣那竭菩薩が仏のもとに進み出て、仏に敬礼をしました。そして長くひざまずいて両手を合わせ、仏に申し上げました。「私の兄が仏をお招きしたいと願っております。新たに来られた方々も皆、我が家で食事を共にしたいと望んでおります。どうかお慈悲をもってお受け入れください。」

跋陀和菩薩、羅隣那竭菩薩、憍曰兜菩薩、那羅達菩薩、須深菩薩、摩訶須薩和菩薩、因坻達菩薩、和倫調菩薩悉與宗親俱前,以頭面著佛足,及為比丘僧作禮。作禮已竟從佛所去,歸到羅閱祇國,至跋陀和菩薩家,共相佐助作諸飯具。

跋陀和菩薩、羅隣那竭菩薩、憍曰兜菩薩、那羅達菩薩、須深菩薩、摩訶須薩和菩薩、因坻達菩薩、和倫調菩薩は、それぞれ一族の人々と共に、仏のもとに進み出て、額を仏の足に付けて礼拝し、比丘たちにも敬意を表しました。礼拝を終えると、仏のもとを離れ、羅閲祇国にある跋陀和菩薩の家に帰り、皆で協力して様々な食事の準備を整えました。

四天王、釋提桓因、梵三鉢皆共疾來,佐助跋陀和菩薩作眾飯具。

四天王、釈提桓因、梵三鉢たちは皆、すぐに助けに来て、跋陀和菩薩のために食事の準備を整えてくれました。

爾時,跋陀和菩薩宗親共莊嚴羅閱祇國,持若干種雜繒帳覆一國中,其街巷市里皆懸繒幡,舉一國中悉散華、燒香,作百種味飯具,用佛故,比丘僧、比丘尼、優婆塞、優婆夷及諸貧窮乞匃者,其飯具適等。何以故?不有偏施,於人民及蜎飛蠕動之類悉平等。

そのとき、跋陀和菩薩は一族の人々とともに、羅閲祇国をあげて飾り立てました。さまざまな種類の織物の帳を国じゅうに張りめぐらし、街路や市場のあちこちに絹の幡を掲げ、国じゅうに花を散らし、香をたき、百種類の味の食事を用意しました。仏のためであり、また比丘僧・比丘尼・優婆塞・優婆夷、そして貧しい人々や物乞いの人々のためでもあり、その食事はすべて等しく同じものでした。なぜでしょうか。偏った施しをすることなく、人々や、羽のある小さな生き物、這い動く小さな生き物にいたるまで、すべて平等に施したからです。

跋陀和與八菩薩與諸宗親,以飯時俱往詣佛前,以頭面著佛足,却白佛言:「飯食具以辦,願佛可行。」

跋陀和という名の菩薩と、八人の菩薩たち、そしてその親族の方々が、食事の時間に揃って仏さまのもとへ参りました。 皆、頭を佛の御足に付けて礼拝し、申し上げました。 「食事の準備が整いました。どうか佛さま、お出でくださいませ。」

時佛與比丘僧皆著衣持鉢,俱詣來會者皆隨行。佛入羅閱祇國中到跋陀和菩薩家。跋陀和菩薩作是念:「今佛威神故,令我舍極廣大,悉作琉璃,表裏悉相見——城外悉見我舍中,我舍中悉見城外。」佛即知跋陀和心所念,佛便放威神令跋陀和舍極廣大,舉一國中人民悉見於舍中。

当時、仏と比丘僧たちは皆衣を着け鉢を持ち、集まった人々も皆一緒について行きました。仏は羅閲祇国に入り、跋陀和菩薩の家に到着されました。

跋陀和菩薩はこう考えました。「今、仏の威神力によって、私の家が非常に広大になり、すべてが瑠璃のように透き通り、内外がはっきりと見えるようになった。城外からも私の家の中がすべて見え、私の家の中からも城外がすべて見える。」

仏は跋陀和の心の思いを知り、すぐに威神力を示されました。それによって跋陀和の家はさらに広大になり、国中の人々が皆その家の中を見ることができました。

佛前入跋陀和菩薩家坐,比丘僧、比丘尼、優婆塞、優婆夷各各異部悉坐於舍中。跋陀和菩薩見佛、比丘僧坐已,自供養佛、比丘僧,若干百種飯手自斟酌。佛及比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷皆已乃飯,諸貧窮者悉等與、悉各平足,皆持佛威神恩使之足。跋陀和菩薩見佛諸弟子悉飯已,前行澡水,畢竟持一小机,於佛前坐聽經。為跋陀和菩薩及四輩弟子說經,莫不歡喜者、莫不樂聞者、莫不欲聞者。佛以經請比丘僧及諸弟子,佛起與比丘僧俱去。

仏の前で、跋陀和菩薩が自分の家に座っていました。比丘僧、比丘尼、優婆塞、優婆夷たちは、それぞれ異なる集まりとして、その家の中に座っていました。跋陀和菩薩は、仏と比丘僧たちが座っているのを見て、自ら仏と比丘僧たちに供養しました。何百種類もの食べ物を自分の手で盛り付けました。仏、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷たちが皆食事を終えた後、貧しい人々にも等しく分け与え、皆が十分に満たされました。それはすべて、仏の威神力と恩恵によるものでした。

跋陀和菩薩は、仏の弟子たちが皆食事を終えたのを見て、前に進み出て手を洗うための水を用意しました。それが終わると、小さな椅子を持ってきて、仏の前に座り、経を聞きました。仏は跋陀和菩薩と四輩の弟子たちのために経を説かれました。喜ばない者はいませんでした。楽しく聞かない者はいませんでした。聞きたくないと思う者はいませんでした。仏は経をお説きになった後、比丘僧と弟子たちを伴って立ち上がり、共に去って行かれました。

跋陀和菩薩飯已,與宗親俱出羅閱祇國到佛所,前為佛作禮,皆却坐一面。及羅隣那竭菩薩、橋曰兜菩薩、那羅達菩薩、須深菩薩、摩訶須薩和菩薩、因坻達菩薩、和倫調菩薩、跋陀和菩薩見人眾皆安坐已,前問佛:「菩薩用幾事得見現在佛悉在前立三昧?」

ボサツ・ボウダ(跋陀和菩薩)は食事を終え、親族たちと共にラージャグリハ(羅閲祇)の町を出て、仏の許へ向かいました。そして仏の前に進み出て礼拝し、皆、一方に座りました。また、菩薩ラリンナーガ(羅隣那竭菩薩)、菩薩キョウトウ(橋曰兜菩薩)、菩薩ナーラダ(那羅達菩薩)、菩薩スシマ(須深菩薩)、菩薩マハースサヴァ(摩訶須薩和菩薩)、菩薩インディラダ(因坻達菩薩)、菩薩ヴァラダ(和倫調菩薩)、そして菩薩ボウダ(跋陀和菩薩)は、人々が皆、落ち着いて座っているのを見てから、仏に問いました。「菩薩は、どのようなことを修めれば、現在の仏たちが目の前に現れるという三昧(サマーディ)を得ることができるのでしょうか。」

佛告跋陀和菩薩:「菩薩有五事疾得見現在佛悉在前立三昧,學、持、諦行心不轉。何等為五?一者、樂於深經無有盡時,不可得極,悉脫於眾災變去、以脫諸垢中、以去冥入明,諸曚曨悉消盡。」

仏陀は跋陀和菩薩に告げられた。「菩薩には、今まさに目の前に現れている諸仏をすべて目の前にして立つ三昧(坐禅の境地)を速やかに得るための五つの事柄がある。それを学び、身に持ち、真実に実践し、心を退転させてはならない。その五つとは何か。第一に、深遠な経典に対して限りない喜びを持ち、その究極に達することができずとも、あらゆる災いや変化から完全に解脱し、すでに汚れから離れ、暗闇を去って光明へ入り、すべての曖昧さが完全に消え去ることである。」

佛告跋陀和:「是菩薩逮得無所從來生法樂、逮得是三昧。復次,跋陀和!不復樂所向生是為二;不復樂喜於餘道是為三;不復樂於愛欲中是為四;自守行無有極是為五。

仏は跋陀和に告げられた。「この菩薩は、『生まれることのない法(真理)』からの喜びを得て、この三昧に達するのです。 さらに、跋陀和よ。この菩薩は、 第一に、生まれる先を楽しまなくなります。 第二に、他の道を喜ばなくなります。 第三に、愛欲の中に楽しみを見いださなくなります。 第四に、自らを守りながら果てしなく修行を続けます。」

「菩薩復有五事疾得是三昧。何等為五?一者、布施心不得悔、無所貪、無所惜,從是不得有所悕望,施人已後不復恨。復次,跋陀和!菩薩持經布施,為他人說經,所語者安諦無有疑、無所愛惜,說佛深語身自行立是中。復次,跋陀和!菩薩不嫉妬,所作無有疑,却睡臥、却五所欲、不自說身善、亦不說他人惡。若有罵者、若有刑者,亦不得恚、亦不得恨、亦不得懈。何以故?入空行故。復次,跋陀和!菩薩是三昧自學復教他人,書是經著好疋素上使久在。復次,跋陀和!菩薩所信多樂,敬長老及知識。於新學人若得所施,當念報恩、常有識信。受人小施念報大,何況於多者?菩薩常樂重於經,棄捐無反復之意,常念有反復,如是者得三昧疾。」

菩薩にはまた、この三昧(さんまい)を速やかに得るための五つの行いがあります。その五つとは何でしょうか。

第一に、施しを行う心に後悔がなく、執着も惜しみもなく、見返りを求めることもなく、人に施した後に恨みを抱かないことです。

また、跋陀和(ばっだわ)よ、菩薩は経典を施しとして与え、他人のために経を説きます。語るときは穏やかで的確であり、疑いもなく、惜しむ心もありません。仏の深い教えを説き、自らその中に身を置いて実践します。

また、跋陀和よ、菩薩は嫉妬せず、行いに疑いがありません。睡眠を避け、五つの欲望を遠ざけ、自らの善を語らず、他人の悪も言いません。もし罵る者があっても、罰する者があっても、怒らず、恨まず、怠りません。なぜなら、空の行に入っているからです。

また、跋陀和よ、菩薩はこの三昧を自ら学び、さらに他人にも教え、経典を書き写して良い布の上に納め、長く伝えられるようにします。

また、跋陀和よ、菩薩は深く信じ、多くを喜び、長老や知識のある人を敬います。新しく学ぶ者に対しては、もし施しを受けたなら、その恩を報いようと常に思い、感謝の心を持ちます。小さな施しを受ければそれに倍する報いを思うのです。ましてや大きな施しにおいてはなおさらです。菩薩は常に経典を重んじ、恩義を忘れる心を捨て、いつも感謝の心を持つ。このようにして、速やかに三昧を得るのです。

佛爾時頌偈言:

その時、仏は偈(げ)を唱えてこうおっしゃいました。

「常愛樂法在深解, 於諸習欲不貪生,
遊步五道無所著, 如是行者得三昧。
好喜布施不想報, 所惠無著不追念,
所與不見有受者, 唯欲得解佛深慧。
愍傷眾生行布施, 其心喜踊不悔恨,
常立布施及戒忍, 精進一心智慧事。
具足六度攝一切, 慈悲喜護四等心,
善權方便濟眾生, 如是行者得三昧。
若有興施除慳貪, 其心歡踊而授與,
既施之後恒欣喜, 如是行者得三昧。
曉知經法分別句, 聞深要義佛所教,
講說微妙道德化, 如是行者得三昧。
其人學誦是三昧, 具足解慧為人說,
令此經法得永存, 如是行者得三昧。
常不祕奧佛經法, 不望供養乃為講,
唯求安隱佛道地, 如是行者得三昧。
除去所著棄諸蓋, 捐去貢高及慢大,
不自稱譽說彼短, 終不復起吾我想。
其有寂定意不起, 便能解是道定慧,
棄捐諛諂心清淨, 用是速逮不起忍。
常行至誠無綺飾, 其願具足無缺減,
殖眾正德無邪行, 愛樂法者得道疾。
所誦習經常不忘, 常護禁戒清淨行,
如是行者得佛疾, 何況奉是寂三昧?」

常に法を愛し楽しみ、深く理解に努め、 諸々の欲望に執着せず生きることなく、 五道(迷いの世界)を巡り歩いても何にもとらわれない、 このように行ずる者は三昧を得る。

布施を好んで喜んで行い、見返りを望まず、 施しに執着せず、後で思い悩むこともない。 施すときに受け手があるとも思わず、 ただひたすら仏の深い智慧を解き明かそうと願う。

衆生を哀れみ、慈しんで布施を行い、 その心は喜びにあふれ、悔いることがない。 常に布施、戒、忍辱、精進、一心、智慧の行に励む。

六波羅蜜を完全にそなえてすべてを包み込み、 慈・悲・喜・捨の四つの心で生きる。 巧みな方便で衆生を救い導く、 このように行ずる者は三昧を得る。

もし施しを行う人が、物惜しみの心を除き、 喜び勇んで人に与え、 施した後もいつまでも嬉しい気持ちでいるならば、 そのように行ずる者は三昧を得る。

経典の教えをよく知り、その意味や句を明らかにし、 仏の教えにある深い大切な真理を聞いて、 その素晴らしい教えを人々に説き聞かせる、 このように行ずる者は三昧を得る。

その人がこの三昧を学び唱え、 深く理解して他の人のために説き、 この経典の教えをとこしえに伝えるならば、 そのように行ずる者は三昧を得る。

仏の教えを決して隠し持たず、 供養を望んで説くのではなく、 ただ仏の道という安らぎの境地を求めて説く、 そのように行ずる者は三昧を得る。

心のよりどころをすべて捨て、煩悩の覆いを除き、 高ぶりやおごり、慢心を投げ捨て、 自分を誉めず、他人の欠点を言わず、 もはや「我」や「我がもの」という思いを起こさない。

心が静まり、動かないならば、 この教えのさとりと智慧を解くことができる。 お世辞やこびる心を捨てて、心が清らかであれば、 それによって速やかに無生法忍を得る。

常に誠実に生き、飾り立てることがなく、 願いが十分にそなわり、欠けるところがなく、 多くの正しい徳を積み、邪な行いをしない。 法を愛し楽しむ者は、悟りに速く達する。

学び誦する教えを決して忘れず、 常に戒律を守り、清らかな行いを保つ。 そのように行ずる者は速やかに仏の境地を得る。 ましてや、この静かな三昧を修行するならば、なおさらである。

佛告跋陀和菩薩:「往昔無數劫提和竭羅佛時,我於提和竭羅佛所聞是三昧,即受持是三昧,見十方無央數佛,悉從聞經、悉受持。爾時,諸佛悉語我言:『却後無央數劫,汝當作佛名釋迦文。』」

仏は跋陀和菩薩に告げられた。「遠い昔、無数の劫の昔、提和竭羅仏の時代に、わたしはその仏のもとでこの三昧を聞き、すぐに受け入れ、保ち続けました。そうして十方の無数の仏をお目にかけ、そのすべてから経を聞き、すべてを受け取りました。その時、諸仏はみなわたしに言われました。『この後、無数の劫を経て、あなたは仏となり、その名を釈迦文と称するであろう』と。」

佛告跋陀和菩薩:「我故語汝,今自致作佛,是三昧若曹當學,為知內法第一眾所不能及,出眾想去,其有於是三昧中立者念得佛道。」

仏は跋陀和菩薩に告げられた。「わたしがあなたに告げるのは、この三昧をあなたがたが学ぶべきであり、内なる法を知る第一のものとして、群を抜いてすぐれ、さまざまな思いを超えるものだからである。この三昧に安住する者は、仏の道を成就すると心得なさい。」

佛爾時頌偈言:

その時、仏は偈(げ)を唱えてこうおっしゃいました。

「憶念我昔定光佛, 於時逮得是三昧,
即見十方無數佛, 聞說尊法深妙義。
譬有德人行採寶, 所望如願輒得之,
菩薩大士亦如是, 經中求寶即得佛。」

昔、私は定光仏(燃燈仏)を深く心に念じ、 その時、この三昧(深い禅定)を悟りました。 するとたちまち、十方の無数の仏をお見かけし、 尊い教えの深い妙なる意味を聞くことができました。 例えるなら、徳を積んだ人が宝を探しに行き、 願いのままに、すぐにそれを手に入れるようなものです。 菩薩の大いなる者もまた、これと同じく、 教えの中に宝を求めるならば、すなわち仏道を悟るのです。

跋陀和菩薩白佛:「當云何守是三昧?天中天!」

跋陀和菩薩が仏に申し上げました。「天中の天よ、この三昧をどのように保つべきなのでしょうか?」

佛告跋陀和菩薩:「色不當著、不當有所向生、當行空,是三昧當守。何等為三昧?當隨是法行。

仏は跋陀和菩薩に告げられた。「色に執着してはならず、何かに向かって生まれてはならない。空を行じなさい。この三昧を保ちなさい。では、三昧とは何か。この教えに従って行じなさい。」

「復次,跋陀和!菩薩自觀身無身,亦無所觀、亦無所見、亦無所著。本亦無所盲、亦無所聾,如經中法,視住亦無所見、亦無所著,無所著為守道者。於法中無所疑,不疑者為見佛;見佛者為疑斷。諸法無所從來生。何以故?菩薩有法疑想便為著。何等為著?有人、有壽命、有德、有陰、有人、有對、有想、有根、有欲,是為著。何以故?菩薩見諸法無所著,是法亦不念、亦不見。何等為不見?譬如愚人學餘道自用,有人謂有身,菩薩不作是見。菩薩何等為見?譬如怛薩阿竭、阿羅訶、三耶三佛、阿惟越致、辟支佛、阿羅漢所見,不喜、不憂;菩薩如是見,亦不喜,亦不憂;守是三昧者亦不喜、亦不憂。

「さらに、跋陀和よ。菩薩は自らの身体を観察しても、そこに実体としての身体はないと見る。観察する主体もなく、見るものもなく、執着するものもない。もともと目が見えないこともなく、耳が聞こえないこともない。経典に説かれる法のように、とどまって見ることもなく、執着することもない。執着しないことこそが、道を守る者である。法について何の疑惑もない。疑惑のない者が仏を見る。仏を見る者は、疑惑が断たれた者である。すべての法は、どこからも生じてきたものではない。なぜか。菩薩に法についての疑惑の想いがあれば、それは執着となる。何をもって執着とするのか。人がある、寿命がある、徳がある、五陰がある、人がある、対境がある、想いがある、感官がある、欲望がある、と見ること、これを執着という。なぜか。菩薩は諸法に執着するところがないと見る。この法についても、心に思い描かず、見ることもない。何を見ないのか。例えば、愚者が他の道を学んで自己流に解釈し、『身体がある』と言うようなものだ。菩薩はそのように見ない。では、菩薩はどのように見るのか。例えば、如来、阿羅漢、正等覚者、不退転の菩薩、辟支仏、阿羅漢が見るように。喜びもなく、憂いもない。菩薩もそのように見る。喜びもなく、憂いもない。この三昧を保つ者も、喜びもなく、憂いもない。」

「譬如虛空,無色、無想、清淨無瑕穢。菩薩見諸法如是,眼無所罣礙見諸法,用是故見諸佛。見諸佛如以明月珠持著琉璃上、如日初出時、如月十五日在眾星中央時、如遮迦越王與諸群臣相隨時、如忉利天王釋提桓因在諸天中央時、如梵天王在眾梵天中央最高坐、如炬火在高山頂燒、如醫王持藥行愈人病、如師子出獨步、如眾野鴈飛行虛空中前有導、如冬月高山上積雪四面皆見、如天地大界金剛山却臭穢、如下水持地、如風持水諸穢濁悉清淨、如虛空等、如須彌山上忉利天為莊嚴。諸佛如是,佛持戒、佛威神、佛功德,無央數國土悉極明。是菩薩見十方佛如是,聞經悉受得。」

例えば虚空が色もなく、概念もなく、清らかで汚れがないように、菩薩は諸法をそのように見る。その眼は何にも妨げられることなく諸法を見るゆえに、諸仏を見ることができる。諸仏を見ることは、明月の珠を瑠璃の上に置くようなもの、日が昇り始める時のようなもの、十五夜の月が星々の中央にある時のようなもの、転輪聖王が群臣と共に従う時のようなもの、忉利天の帝釈天が諸天の中央にある時のようなもの、梵天王が諸梵天の中央で最も高い座にあるようなもの、松明が高い山の頂で燃えているようなもの、医王が薬を持って人々の病を癒すようなもの、獅子が独り歩き出すようなもの、多くの野雁が虚空を飛ぶ時に先導者がいるようなもの、冬の月に高い山に積もった雪が四方すべてに見えるようなもの、天地の大いなる領域で金剛山が穢れを退けるようなもの、水が地を支えるようなもの、風が水を支えてすべての濁りを清めるようなもの、虚空に等しいようなもの、須弥山の上の忉利天が荘厳であるようなものである。諸仏もまたそのようであり、仏の戒、仏の威神、仏の功徳によって、無数の国土がすべて極めて明らかである。この菩薩は十方の仏をそのように見て、経を聞けばすべてを受け得るのである。

佛爾時頌偈言:

その時、仏は偈(げ)を唱えてこうおっしゃいました。

「佛無垢穢離塵勞, 功德眾竟無所著,
尊大神通妙音聲, 法鼓導義喻諸音。
覺天中天脫諸慧, 種種香華以供養,
以無數德奉舍利, 幡蓋雜香求三昧。
聞法普妙學具足, 遠離顛倒喻滅度,
終不想著於空法, 當志解妙無礙慧。
清淨如月日出光、 譬如梵天立本宮,
常清淨心念世尊, 意無所著不相空。
譬如冬月高山雪、 若如國王人中尊,
摩尼清淨超眾寶, 觀佛相好當如是。
如鴈王飛前有導, 虛空清淨無穢亂,
紫磨金色佛如是, 佛子念此供養尊。
去諸幽冥除闇愚, 即悉速逮淨三昧,
捐捨一切諸想求, 無垢穢行得定意。
無有塵勞釋垢穢, 棄去瞋恚無愚癡,
其目清淨自然明, 念佛功德無罣礙。
思佛世尊清淨戒, 心無所著不相求,
不見吾我及所有, 亦不起在諸色相。
捨離生死無眾見, 棄捨貢高慧清淨,
遠除憍慢不自大, 聞寂三昧離邪見。
其有比丘佛子孫、 信比丘尼、清信士、
除去貪欲清信女, 念精進學得是法。」

「仏には汚れや煩悩がなく、功徳を極めても何にも執着なさいません。 尊い大神通力と妙なる響きの声で、法の太鼓はあらゆる音の意味を導きます。 天中の天たる覚者が、あらゆる智慧を超えてお示しになれば、様々な香や花を捧げ、 数えきれない功徳をもって舎利を供養し、幡や蓋や様々な香で三昧を求めます。 法を聞き、広く妙なる学びを身につけ、迷いを離れて滅度に譬えられるも、 ついに空の法に思いを留めず、妙なる無碍の智慧を解き明かすべきです。 清らかで月や日が光を放つように、梵天が本来の宮に立つように、 常に清らかな心で世尊を念じ、心は何にも執着せず、空にも執着しません。 例えば冬の高山の雪、あるいは王として人々の中の尊き者のように、 摩尼宝がすべての宝を超えて清らかなように、仏の相好を観ずるのもそのように。 ちょうど雁の王が先導となって飛ぶように、虚空は清らかにして穢れ乱れず、 紫磨金色の仏もまたそのようです。仏の子らよ、この供養を尊び念じなさい。 あらゆる暗闇と愚かさを取り除き、すぐに清らかな三昧に達し、 すべての思いや求めを捨て去り、汚れなき行いによって定の意を得ます。 煩悩なく汚れを解き放ち、怒りを捨て愚かさをなくし、 その目は清らかに自然と明らかとなり、仏の功徳を障りなく念じます。 世尊の清らかな戒を思い、心は執着せず求めもせず、 自我や所有するものを見ず、さまざまな色や形にも執着しません。 生死を離れ、さまざまな見解もなく、高ぶりを捨てて智慧は清らかに、 慢心と高慢を遠く除き、おごることなく、静かな三昧を聞いて邪見を離れます。 比丘や仏の子孫たる者、信じる比丘尼、清らかな信士、 そして貪りを除いた清信女、精進を念じてこの法を得なさい。」


9 羼羅耶佛品
11 無想品

CBETA コード: T0418

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません