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title: "金剛經如是解 · 法會因由分第一"
description: "金刚经如是解是清代无是道人对佛教经典金刚经的注解著作。无是道人为清代佛教高僧，其注解融合了禅宗与净土宗思想，以通俗易懂的语言阐释金刚经深奥义理。该书系统解读了金刚经核心思想如“应无所住而生其心”“凡所有相皆是虚妄”等，强调破除执着、明心见性的修行要旨。作为清代重要的金刚经注疏之一，此解既保留传统经义，又具时代特色，在佛教典籍中占有重要地位，为研究清代佛教思想及金刚经传播提供了珍贵文献。"
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### ○法會因由分第一

> 法会の縁起 第一章

如是我聞：一時，佛在舍衛國祗樹給孤獨園，與大比丘眾千二百五十人俱。爾時，世尊食時，著衣持鉢，入舍衛大城乞食。於其城中，次第乞已，還至本處。飯食訖，收衣鉢，洗足已，敷座而坐。

> このように私は聞きました。 ある時、お釈迦様は舎衛国の祇園精舎におられ、大勢の比丘たち、千二百五十人と共にいらっしゃいました。 その時、世尊は托鉢の時を迎え、衣をまとい、鉢をお持ちになり、舎衛の大城に入って乞食をなさいました。 その城中で、順序よく乞食を終え、もとの場所にお戻りになりました。 食事を終え、衣と鉢を片づけ、足を洗われた後、座を敷いて坐られました。

如是我聞者，如來涅槃時，示阿難一切經首，皆安如是我聞。佛言：覺也，自覺、覺他覺圓滿故。舍衛國，波斯匿王所居。祗樹者，祗陀太子所施。給孤獨園者，給孤獨長者之園，即布金滿地處。比丘，梵語，華言乞士，上乞法於諸佛，下乞食於人間也。千二百五十人，三迦葉、目犍連、舍利弗五人弟子，共合此數。

> このように私は聞きました。如来が涅槃に入られる時、阿難に示され、一切の経典の冒頭には必ず「このように私は聞きました」と置くようにとおっしゃいました。仏とは、覚りのことです。自ら覚り、他を覚らせ、その覚りが円満であるからです。舎衛国は、波斯匿王がお住まいの国です。祇樹とは、祇陀太子が寄進された樹林のことです。給孤独園とは、給孤独長者が寄進された園で、地面に金を敷き詰めて購入された場所です。比丘は梵語で、漢訳では乞士といい、上は諸仏に法を乞い、下は人間に食を乞う者です。千二百五十人は、三迦葉、目犍連、舎利弗の五人の弟子とその弟子たちを合わせた数です。

如是二字，即為全經之髓。六祖云：法非有無謂之如，皆是佛法謂之是。故住曰如是住，降伏曰如是降伏，布施曰如是布施，福德曰福德亦復如是，清淨曰如是生清淨心，又曰如是知．如是見．如是信解，又曰如如不動，又曰作如是觀。每每機鋒相投，則曰如是如是。孔曰：一言終身其恕乎。恕者，如心也。故曾悟一貫，亦曰忠恕。子思之未發，孟軻之不動，總無二義。故經云：諸法如義。

> 「如是」という二文字は、この経全体の髄髄である。六祖は言われた：法は有無にあらず、これを「如」と謂う。すべてこれ仏法なり、これを「是」と謂う。ゆえに住するを「如是住」と曰い、降伏するを「如是降伏」と曰い、布施するを「如是布施」と曰い、福德を「福德もまたかくの如し」と曰い、清浄を「かくの如く清浄心を生ず」と曰い、また「かくの如く知り、かくの如く見、かくの如く信解す」と曰い、また「如如として動かず」と曰い、また「かくの如き観を作す」と曰う。機縁相応ずるごとに、すなわち「如是、如是」と曰う。孔子は曰われた：一言にして終身これを行うべきは、恕であろうか。恕とは、心の如くである。ゆえに曾子が一貫を悟り、また忠恕と曰う。子思の未発、孟軻の不動、総じて二義なし。ゆえに経に云う：諸法は義の如し。

我聞者，固聞之於佛，亦聞之於我也。阿難！現身聞相，何所聞？何所不聞？夫子之文章可得聞也。

> 私は聞く者として、仏から聞いたこともあれば、自分自身から聞いたこともあります。阿難よ、今この身で聞く相を現しているが、いったい何を聞き、何を聞かないのでしょうか。師の教えは聞くことができます。

一時者，在衛之時。爾時者，入城之時。時長老須菩提，乃問法說法之時。佛法隨時示現，即所謂聖之時者，不拘一時也。一切時中，無時不在。道也者，不可須臾離也。

> 「一時」とは、釈尊が舎衛国におられた時のことです。「爾時」とは、釈尊が城に入られた時のことです。この時、長老の須菩提が法を問い、釈尊が法を説かれたのです。仏法は時節に応じて現れます。つまり、聖なるものは特定の時だけにあるのではなく、すべての時の中に、いつでも存在しているのです。道というものは、ほんの一瞬でも離れることはできません。

舉：舍衛國祗樹園，以見微塵剎土、草木樓觀，頭頭皆是真如，不獨我有，諸大比丘眾、一切人天并及異類，俱是共有。孔云：吾無行而不與二三子者，是丘也。故千二百五十人俱此性，俱此般若，即俱此佛體。世尊傳心諭眾，相諭不言，政在穿衣吃飯處討箇下落，故著衣乞食了不異於人，折我憍心，生彼施福也。

> 挙げるに、舎衛国の祇樹園において、微塵のごとき国土や草木、楼閣を見るに、一つ一つがことごとく真如であり、私だけのものではなく、諸大比丘衆も、すべての人天も、さらに異類のものまでもが、ともにこれを共有している。孔子が言うように、「私には、二三の弟子たちと共に行わないことはない。これが丘である」と。ゆえに千二百五十人の人々も、この性を共にし、この般若を共にし、すなわちこの仏体を共にしている。世尊が心を伝えて衆に諭し、言葉によらず姿で示したのは、まさに着衣や食事のところにその真実を求めさせるためであった。だから、衣を着て乞食する姿は、人と少しも変わるところがなく、我が驕りの心を折り、彼らに施しの福を生じさせるのである。

還至本處，乃影借語。本地可還，即我之本來亦可還也。飯食已畢，收衣鉢者，所以狀佛之脫粘染而歸於無也。洗足者，亦以狀空塵也。敷座而坐，寧靜登禪，入於化矣。葢菩提實性，無出入相，無往復相，祗舍王城，不即不離，次第乞內，與還至本處，原無二見。到敷座而坐，則住心降心，俱在此中，為第二分。預示機關，須在解人自悟。

> また元の場所に戻ったというのは、比喩的な表現です。本来の場所に戻ることができるならば、私の本来の姿もまた戻ることができるのです。 食事を終え、衣と鉢を片づけるというのは、仏が執着や煩悩から離れ、無の境地に帰る様子を表しています。足を洗うというのも、塵や汚れを洗い流すことで、心の清浄さを象徴しています。 座を敷いて坐るというのは、静寂の中に禅定に入り、悟りの境地へと入っていく様子です。そもそも菩提の真実の性質には、出たり入ったりする相も、往ったり還ったりする相もありません。ただ王城を離れ、執着も離れもせず、順を追って托鉢をし、元の場所に戻るという一連の流れも、本来は二つの見方があるわけではありません。 座を敷いて坐るというところに至っては、心を安住させ、心を調伏する教えが、この中にすべて含まれており、これが第二の区分となります。その機微を示すことは、理解する人が自ら悟ることを必要とします。

有僧參忠國師，師問：蘊何事業？曰：講金剛經。師曰：最初兩字是甚麼？曰：如是。師曰：是甚麼？僧無對。師曰：咄哉！將甚麼講經？

> ある僧が忠国師に参じた。師が尋ねた：「何をなしておられるか？」僧が答えた：「金剛経を講じています。」師が言った：「最初の二字は何か？」僧が言った：「如是我聞の『如是』です。」師が言った：「それは何か？」僧は答えられなかった。師が言った：「ああ、なんということか！何をもって経を講じているというのか？」

僧問趙州：乞指示。州曰：吃粥了也未？僧云：吃粥了。州云：洗鉢盂去。僧大悟。六祖曰：心念不起，是為坐故。收鉢、洗足、敷座，要向這裏參始得。

> 僧が趙州に尋ねた：「ご指導を賜りたい」。州は言った：「粥は食べ終わったか？」僧は答えた：「食べ終わりました」。州は言った：「鉢を洗いに行け」。僧は大いに悟った。六祖は言われた：「心の念が起こらない、これが坐禅である。鉢を片付け、足を洗い、座を敷く、このところに向かって参究しなければならぬ」。

按是經以無相為宗，前人以無我相四句當四句偈，此分首章曰：我聞是我相也，乞食城中是人相也，大比丘眾是眾生相也，曰佛、曰世尊是壽者相也，不應執著如此。余曰：此種種諸相俱在，還至本處後掃之，不舉其地．其人則落斷見，舉而不掃則落常見。

> この経典は「無相」を根本としています。先人は「我相なし」などの四つの句を四句の偈と見なしましたが、この最初の章では「我聞」は我相であり、「乞食城中」は人相であり、「大比丘衆」は衆生相であり、「仏」「世尊」は寿者相であるとしています。しかし、このように執着すべきではありません。私はこう考えます。これらの様々な相はすべて存在していますが、本来の境地に戻った後でそれらを掃除するのです。その場所を挙げなければ、その人は断見に陥り、挙げて掃除しなければ常見に陥ります。

余常序林，任先參詳。註云：無我相者，非無我也；無人相者，非無人也；無眾生相．壽者相者，非無眾生與壽者也；不可以身相得見如來者，非無身也；不住相布施者，非無布施也；無定法可說者，非無法也；過去、未來、見在心不可得者，非無心也；無所住者，非無住也。皆從有說到無，葢不著有便是無了。達摩曰：廓然無聖。梁武不省，乃曰：對朕者誰？若了此義，則三十二相俱消化于敷座而坐中矣。

> 私は常に、林氏の序文を拠り所とし、先人の解釈を参考にしてきました。注釈にはこうあります。 「我相がない」というのは、我が無いということではない。 「人相がない」というのは、人が無いということではない。 「衆生相・寿者相がない」というのは、衆生と寿者が無いということではない。 「身相によって如来を見ることはできない」というのは、身が無いということではない。 「相に執着せずに布施を行う」というのは、布施が無いということではない。 「定まった法を説くことはできない」というのは、法が無いということではない。 「過去・未来・現在の心も得られない」というのは、心が無いということではない。 「住するところがない」というのは、住するということが無いということではない。 これらは皆、「有」から説き始めて「無」に至るものであり、「有」に執着しなければ、それがすなわち「無」なのです。 達磨大師は「廓然として聖なし」と言われました。梁の武帝はその意味を理解できず、「朕に向かっている者は誰か？」と問いました。もしこの真意を悟るならば、如来の三十二相もすべて、「敷座而坐（座を敷いて坐る）」という一挙の中に溶け込んでしまうでしょう。