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  1. 関中創立戒壇図経 (關中創立戒壇圖經)
  2. 4 戒壇高下廣狹
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関中創立戒壇図経 (關中創立戒壇圖經)


戒壇高下廣狹第四(并引圖相)

戒壇の高さ・広さ・狭さについて 第四(図も併せて示す)

檢《別傳》云:「比丘受具戒壇初結之時,釋迦如來召十方諸佛;時須彌燈光明王最居其長,身長五丈,欲立戒壇三重,重高佛五肘,表五分法身。釋迦如來云:『娑婆世界眾生少見少聞,若依佛五肘為量,恐生疲怠,無由可成,減同迦葉佛二肘半量,則易成就。』」所以取佛肘量者,以諸佛肘骨並是金剛,闍維之時,肘骨不灰,全堅舍利,所在流化,故壇身量取佛肘以定之;欲令比丘持戒堅固如金剛而不壞也!戒壇亦爾,雖經劫壞,而常存故。

『別伝』を検討すると、次のように述べられています。「比丘が具足戒を受ける戒壇を最初に結ぶとき、釈迦如来は十方の諸仏を召された。そのとき、須弥灯光明王が最も上座であり、身の丈は五丈あった。戒壇を三重に立てようとし、それぞれの高さは仏の五肘とし、五分法身を表した。釈迦如来はこう言われました。『娑婆世界の衆生は見ることも聞くことも少ない。もし仏の五肘を基準にすれば、疲れや怠け心が生じて完成できない恐れがある。迦葉仏と同じ二肘半の量に減らせば、成就しやすいであろう』と。」仏の肘を量の基準とするのは、諸仏の肘の骨がみな金剛であり、火葬のときにも肘の骨は灰にならず、堅固な舎利としてとどまり、その在所で流布して教化するからです。それゆえ戒壇の寸法は仏の肘を基準として定めるのです。それは比丘が持戒を金剛のように堅固にして壊さないようにするためです。戒壇もまた同じで、劫を経て壊れても、常にとどまるからです。

檢釋迦如來一肘,則中人二肘,如來在世倍人;人肘長唐尺一尺五寸,則佛肘三尺;佛肘既長二肘半,則唐尺七尺五寸也!又云:「準迦葉佛肘為量者」,則又長於釋迦肘矣!依今北天竺東石戒壇,縱廣二百步,高一丈許,此則隨時不定;今且從釋迦丈六為言,其下層從地起基,高佛一肘,則唐尺高三尺也!謂在色道下座身為言,餘亦同之。然此色道上三下四,唯多出為佳,以在露地,色道廣覆,而風雨不至,諸窟神王久而得固也。如今浮圖出檐,可不然耶!不得過於一肘者,恐地裂故。又表比丘於壇受戒,制心專一而不散亂也!其第二層高佛一肘半,則唐尺四尺五寸也,同轉輪聖王初登壇上受灌頂之時壇度也。其第三層高二寸者,以佛指二寸為量,則當中人四寸也。

釈迦如来の一肘を検すると、これは中人の二肘にあたり、如来が在世のときは人の倍でありました。人の肘は唐尺で一尺五寸ですから、仏の肘は三尺となります。仏の肘がすでに二肘半あるとすれば、唐尺で七尺五寸でございます。

また「迦葉仏の肘を基準として量る」と説かれていますが、それならばさらに釈迦の肘よりも長くなります。今の北天竺の東の石戒壇に準じますと、縦横二百歩、高さ一丈ほどで、これは時とともに一定しません。今しばらくは釈迦の丈六に従って述べますと、その下層は地面から基を起こし、仏の一肘の高さ、すなわち唐尺で三尺の高さです。これは色道の下座の身を基準として述べたもので、ほかの場合も同様です。

しかし、この色道は上に三つ、下に四つあり、ただ多く出ているのを良いとします。露地にあって色道が広く覆い、風雨が届かず、諸々の窟の神王が長く保たれて固まるからです。今の浮図の軒の出のように、そうではないでしょうか。一肘を超えてはならないとするのは、地が裂けるのを恐れるからです。また、比丘が壇で受戒するとき、心を制して専一にし、散乱しないことを表しています。

その第二層は仏の一肘半の高さ、すなわち唐尺で四尺五寸です。これは転輪聖王が初めて壇上に登って灌頂を受けるときの壇の高さと同じです。その第三層は二寸の高さで、仏の指の二寸を基準とすれば、中人の四寸にあたります。

今北印度烏仗那國東千餘里,度鐵索橋至烏仗那舊都,其地平坦,名果皆備,即古轉輪王之果園也,有大石戒壇焉。佛滅度後三百年時,有大阿羅漢優樓質那者,威德巨勝,於園北山石崖造大寺,南北周院五十餘里,僧所住處一十五里。請彌勒尊者為指揮之,役使工匠,經三百年,以大神力住諸人壽。五重精舍,純石為之。最上重者高三百餘尺,中安栴檀像,相亦如之;乃至下重安赤銅像。今上四重皆閉,非凡所幸;而石若琉璃,內外映徹,人從邊過,照見藏腑。其下重者,今人受用,四周華果列植充滿。東有石壇,縱廣二百餘步,四周石欄雕飾難言;基上平鏤,奇態轉勢,高可一丈。上壇中心安佛舍利,覆釜在上,如前所述。受戒之日,如上集僧,別施高座,先誦《遺教經》,諸比丘聞皆悉涕泣。及受戒訖,又誦《遺教》,其事見在。往往有僧,從彼而來,玄奘法師《西域傳》中,略述大栴檀像事,而不辨其緣由。至於戒壇,文事蓋闕。豈非行不至彼,隨聞而述,不足怪也!

今、北インドの烏仗那国の東千余里、鉄の鎖橋を渡って烏仗那の旧都に至ります。その地は平坦で、名の知られた果物がすべて揃っており、古の転輪王の果樹園にあたります。そこには大きな石の戒壇があります。仏が滅度されてから三百年のとき、大阿羅漢の優楼質那という方がおられました。威徳はきわめて勝れており、園の北の山の石崖に大寺を造りました。南北の周院は五十余里、僧の住むところは十五里です。弥勒尊者を招いて指図を仰ぎ、工匠たちを使役すること三百年、大きな神力によって人々の寿命を保たせました。五重の精舎は純粋に石で造られています。最も上の重は高さ三百余尺で、中に栴檀の像を安置し、その姿もまたこれに準じています。最下の重に至っては赤銅の像を安置しています。今は上の四重はすべて閉ざされ、凡人が住むところではありません。しかも石は瑠璃のようで、内外が映え透り、人がそばを通ると臓腑まで照らし見えます。その下の重は、今も人々が用いており、四方には花や果樹が並び植えられて満ちています。東には石の壇があり、縦横二百余歩、四方の石の欄は彫飾りが言葉に尽くせないほどです。基の上は平らに彫り込まれ、奇妙な姿が勢いよく巡り、高さは一丈ほどです。壇の中心には仏舎利を安置し、覆釜がその上にあり、これは先に述べたとおりです。受戒の日には、先に述べたように僧を集め、別に高座を設け、まず『遺教経』を誦します。諸々の比丘はこれを聞いて皆、涙を流します。受戒が終わると、また『遺教経』を誦します。その行事は今も行われています。しばしば僧がそこからやって来ます。玄奘法師の『西域伝』には、大栴檀像の事が略述されていますが、その由来は明らかにされていません。戒壇に至っては、記述が欠けているようです。まさに彼の地に行き着かず、伝え聞いたままに述べたのであり、怪しむには足りないことです。

今約祇樹園中,總有六十四院,通衢大巷,南有二十六院。

ここで祇樹園の中について述べれば、全部で六十四の院があり、大通りや大きな路地があり、南には二十六の院があります。

三門之左右大院:西門之右六院(初、三果學人四諦院,二、學人十二因緣院,三、他方三乘八聖道院,四、四天下我見俗人院,五、外道欲出家院,六、凡夫禪師十一切入院);

三門の左右にある大きな院について、西門の右側には六つの院があります(第一に三果の学人の四諦院、第二に学人の十二因縁院、第三に他方の三乗の八聖道院、第四に四天下の我見の俗人の院、第五に外道が出家を願う院、第六に凡夫の禅師の十一切入院)。

東門之左七院(初、大梵天王院,二、維那知事院,三、大龍王院,四、居士清信長者院,五、文殊師利院,六、僧庫院,七、僧戒壇);

東門の左側には七つの院があります(第一に大梵天王院、第二に維那知事院、第三に大龍王院、第四に居士清信長者院、第五に文殊師利院、第六に僧庫院、第七に僧戒壇です)。

中門之右七院(初、緣覺四諦院,二、緣覺十二因緣院,三、菩薩四諦院,四、菩薩十二因緣院,五、無學人問法院,六、學人問法院,七、佛香庫院);

中門の右側には七つの院があります(第一に縁覚の四諦院、第二に縁覚の十二因縁院、第三に菩薩の四諦院、第四に菩薩の十二因縁院、第五に無学の人が法を問う院、第六に学の人が法を問う院、第七に仏の香庫院です)。

中門之左六院(初、他方俗人菩薩院,二、他方比丘菩薩院,三、尼請教誡院,四、教誠比丘尼院,五、他方諸佛院,六、諸仙院)。

中門の左側には六つの院があります(第一に他方の俗人菩薩の院、第二に他方の比丘菩薩の院、第三に尼が教誡を請う院、第四に比丘尼を教誡する院、第五に他方の諸仏の院、第六に諸仙の院です)。

繞佛院外有十九院(在通衢外,巷北自分五門,二巷周通南出):

仏を巡る院の外には十九の院があります(大通りから外れ、巷の北側で五つの門に分かれ、二つの巷が巡り通って南へ出ています)。

中院東門之左七院(初、律師院,二、戒壇院,三、諸論師院,四、修多羅院,五、佛經行院,六、佛洗衣院,七、佛衣服院);

中院の東門の左側には七つの院があります(第一に律師院、第二に戒壇院、第三に諸論師院、第四に修多羅院、第五に仏経行院、第六に仏洗衣院、第七に仏衣服院です)。

中院北有六院(初、四韋陀院,二、天下不同文院,三、天下陰陽書院,四、天下醫方院,五、僧淨人院,六、天下童子院);

中院の北には六つの院があります(第一に四韋陀院、第二に天下不同文院、第三に天下陰陽書院、第四に天下医方院、第五に僧浄人院、第六に天下童子院です)。

中院西有六院(初、無常院,二、聖人病院,三、佛示病院,四、四天王獻佛食院,五、浴室院,六、流廁院);

中院の西には六つの院があります(第一に無常院、第二に聖人病院、第三に仏示病院、第四に四天王献仏食院、第五に浴室院、第六に流廁院です)。

正中佛院之內有十九所(初、佛院門東,佛為比丘結戒壇。二、門西,佛為比丘尼結戒壇。三、前佛殿,四、殿東三重樓,五、殿西三重樓,六、七重塔,七、塔東鐘臺,八、塔西經臺,九、後佛說法大殿,十、殿東五重樓,十一、殿西五重樓,十二、三重樓,十三、九金鑊,十四、方華池,十五、三重閣,十六、閣東五重樓,十七、閣西五重樓,十八、東佛庫,十九、西佛庫)。

正中の仏院の中には十九の建物があります(第一に、仏院の門の東に、仏が比丘のために戒壇を結ばれた場所があります。第二に、門の西に、仏が比丘尼のために戒壇を結ばれた場所があります。第三に、前方の仏殿です。第四に、仏殿の東の三重の楼です。第五に、仏殿の西の三重の楼です。第六に、七重の塔です。第七に、塔の東の鐘台です。第八に、塔の西の経台です。第九に、後方にある仏の説法の大殿です。第十に、その殿の東の五重の楼です。第十一に、殿の西の五重の楼です。第十二に、三重の楼です。第十三に、九つの金鑊です。第十四に、方形の華池です。第十五に、三重の閣です。第十六に、閣の東の五重の楼です。第十七に、閣の西の五重の楼です。第十八に、東の仏庫です。第十九に、西の仏庫です)。

余以恒俗所聞,唯存聲說,附事經論,則紛然莫舉,豈非信文誦語,不存行事,徒喪生涯,於道何益。所以每事研覈,文質相師,隨有作業,名實非爽。雖加砭石,久弊膏肓,空費言時,卒未悛革。故示見圖,開張視聽,更有廣相,如別所存。今略顯之,且救恒要,庶或值者,知其致焉!

私は世間一般の慣習として聞いてきたことに基づけば、ただ音声による説法だけが残っており、事実に即した経や論に照らすと、入り乱れて挙げきることができません。まさに文字の文を信じ言葉を誦するだけで、実際の行いを伴わないのではありませんか。いたずらに生涯を空しく費やして、道にとって何の益があるでしょうか。それゆえ私は一つ一つの事柄を詳しく調べ究め、文と実質が互いに師となって、行うところのものごとに応じて、名と実が食い違わないようにしています。たとえ石針を当てる治療を加えても、長く病んだ膏肓の患いは、いたずらに言葉の時を費やすばかりで、ついには改められません。そこで図を示して見せ、視聴を広げ開きます。さらに広く説くべき相は、別に記すところのとおりです。今はこれを略して示し、ひとまず日ごろの要を救おうと思います。願わくは、これに遇う者が、その趣旨を知らんことを。

原夫戒壇之場,隨依大界僧住,不可恒準方隅,不定東西。多以東方為受戒之場,由創歸於佛法之地也!西方為無常之院,由終沒於天傾之位也!從多為相,餘則隨機。其初壇下層縱廣二丈九尺八寸,中層縱廣二丈三尺,上層畟方七尺。

もともと戒壇の場所は、大きな界の僧の住するところに従うものであって、常に方角や隅に準じることはできず、東西も定まっていません。多くは東方を受戒の場とします。それは初めて仏法の地に帰するからです。西方は無常の院とします。それは最後に天の傾く位で没するからです。多いほうに従って相とし、そのほかは機に随います。その最初の壇の下層は縦横二丈九尺八寸、中層は縦横二丈三尺、上層は畟方七尺です。

余所撰《祇桓圖》上下兩卷,修緝所聞,統收經律,討讎諸傳,極有蹤緒。然五大精舍,佛所常遊,祇桓一代,最住經久,故二十五載弘化在茲,四藏、五部咸稱舍衛。故一佛化相,事迹極多,備在本圖,故此存略。致諸教中,樹立祇桓,開化元首,總而會之,大有科要。如《賢愚經》,初搆祇栖,在八十頃地中,布金買地。舍利弗角神通,力伏外道六師,與須達捉繩,經度精舍,或喜或憂,如常聞見。又曰:「汝於毘婆尸佛乃至迦葉,為佛起寺,而蟻生不絕。生死長遠,唯福為要。以栴檀塗佛窟,別房住止千二百處,百二十處別打犍稚。」如是云云,廣文如彼。

私が撰した『祇桓図』上下二巻は、聞き及んだことを修め集め、経と律を統べて収め、諸々の伝を校訂して、きわめて筋道が立っています。しかし五大精舎は仏が常に遊行された場所であり、とりわけ祇桓は一時代を通じて最も長く住まわれたところです。それゆえ二十五載の教化はここにあり、四蔵も五部もみな舎衛と称しています。ですから一仏の教化のありさま、その事迹はきわめて多く、すべて本図に備わっていますので、ここでは略して置きます。諸々の教えの中で祇桓を樹立し、教化の元首を開いたことを、総じて会するに、大きな科の要があります。『賢愚経』によれば、初め祇栖を構えるにあたり、八十頃の地の中に金を敷いて地を買いました。舎利弗は神通を競い、力をもって外道の六師を伏し、須達とともに縄を執って精舎を経度しましたが、あるいは喜びあるいは憂うさまは、常に聞き見るがごとくです。また曰く、「汝は毘婆尸仏から迦葉に至るまで、仏のために寺を起こしたが、蟻は生じて絶えなかった。生死は長遠であり、ただ福のみが要である。栴檀を仏窟に塗り、別房の住止は千二百処、百二十処には別に犍稚を打つ」と。このように云々とあり、広文は彼のごとくです。

又檢《聖迹記》云:「繞祇桓園有一十八寺,並有僧住。」又別圖云:「祇桓一寺,十字巷通於外院。」又云:「寺有二門,一南一東。」又云:「寺有五門。」又云:「七日所成,大房三百口、六十餘院。」案北齊靈裕法師〈寺誥〉述,〈祇桓圖經〉具明諸院,大有準的。又案《別傳》:「祇桓一寺,頓結三壇,今雖荒毀,不妨初有。」自爾至今,千七百載,前後重造,凡二十返,形相不同,不足可怪,且據元始,如前略存。

また『聖迹記』を調べますと、次のようにあります。「祇桓園を巡る一帯には十八の寺があり、いずれにも僧が住んでいます。」また別の図には、「祇桓の一寺は、十字路の巷が外院へと通じています。」また、「寺には二つの門があり、一つは南、一つは東です。」また、「寺には五つの門があります。」また、「七日で造り上げられ、大きな房は三百、院は六十余りです。」とあります。北斉の霊裕法師の〈寺誥〉の述べるところ、および〈祇桓図経〉が諸々の院を詳しく明らかにしているのを調べますと、大いに確かなよりどころがあります。また『別伝』を調べますと、「祇桓の一寺には、たちどころに三つの壇が設けられました。今は荒れ果ててはいますが、初めにあったことを妨げるものではありません。」とあります。それから今日に至るまで千七百年、前後に何度も造り直され、その数はおよそ二十回に及びます。姿かたちが同じでないのも怪しむには足りず、まあ元初のあり方に基づいて、前のように略して記しておきます。

今明東夏創立戒壇之源。《梁僧傳》云:「昔宋文帝元嘉七年,有罽賓國沙門求那跋摩者,梁曰功德鎧也。越自南海,來達楊都,文帝禮異恒倫,號稱三藏,譯出經戒。甞遊南林寺,見竹樹扶疎,便有終焉之志。乃於寺前園中立戒壇,令受戒者登壇上而受也。人有疑其得道者,密以華布諸僧座下,唯跋摩所坐者,華更鮮榮。預知亡日,端拱而卒,手出遺文,云獲二果。仍於戒壇上焚之,咸見一

今、東夏(中国)において戒壇が創設された起源を明らかにします。『梁僧伝』にこうあります。「昔、宋の文帝の元嘉七年、罽賓国の沙門に求那跋摩という者がいました。梁では功德鎧といいます。南海を越えて楊都に到着すると、文帝は並々ならぬ礼をもって遇し、三蔵と称しました。彼は経と戒を訳出しました。かつて南林寺を訪れたとき、竹や樹がのびやかに茂るのを見て、ここで生涯を終えようという志を抱きました。そこで寺の前の園の中に戒壇を設け、受戒する者を壇の上に登らせて戒を受けさせました。人々のうちに、彼が道を得ているのではないかと疑う者がいて、密かに花を僧たちの座の下に敷きましたところ、跋摩の座ったところの花だけが、いっそう鮮やかに栄えました。彼は亡くなる日をあらかじめ知って、端然と拱手して亡くなりました。手から遺文が出て、二果を得たと記されていました。そこで戒壇の上でこれを焼きましたところ、皆が一つの

物,狀若龍蛇,衝煙上天。

物は、その姿が龍や蛇のようで、煙を突いて天へと昇っていきます。

「至元嘉十一年,有僧伽跋摩者,時號三藏法師,與前三藏同至楊都,為諸僧尼等,於南林寺壇重受具戒。于時祇桓寺僧慧照等五十人,影福寺尼慧果等三百二十三人,同從重受。有慧義法師,稟性剛烈,不耐諠黷,謂三藏曰:『大法東流,傳道非一;先賢勝哲,共有常規;豈獨改異,何穆眾望?』答曰:『五部之異,自此常理,相與棄俗,本為弘法,法必可傳,何忤眾情?』又問曰:『夫戒非可見之色也!頃見重受戒者,或依舊臘次,或從後受為始,進退之間,足致深疑?』答曰:『人有二種,故不一類。若年歲不滿,胎月未充,則依今受為初。若先年已滿,便入得戒之位;但疑先受有中下心,理須更求增勝而重受戒,即依本臘而永定也。』又問:『自誓不殺,身口已滿,有何不盡,更重受耶?』答曰:『戒有九品,下為上因。至於求者,心有優劣;所託緣起,亦自不同。別受重發,有何障礙?五戒、十戒,生亦各異,乃至道、定律儀,並防身、口;不同心業,有一無二也。』如是云云。又問:『三藏昔存之日,布薩僧事常在寺內;及論受戒,何為獨出邑外等,咸是善法,何以異耶?』答:『諸部律制,互有通塞,唯受戒法重,不同餘事。以餘法不成,唯得小罪,罪可懺悔;夫紹隆佛種,用消信施,以戒為本,若不成就,非出家人。障累之源,斷滅大法,故異餘者。』於是慧義欣然無言,遂令弟子慧基等渡蔡州岸,於船上受戒(云云)。」

至元嘉十一年、僧伽跋摩という僧がいました。当時、三蔵法師と呼ばれ、先の三蔵たちと同じく楊都に至り、僧尼たちのために南林寺の戒壇で重ねて具戒を受けさせました。そのとき、祇桓寺の僧慧照ら五十人、影福寺の尼慧果ら三百二十三人が、ともに重受しました。

慧義法師という人がいて、生まれつき気性が剛直で、騒がしく煩わしいことを我慢できず、三蔵に向かって言いました。「大法が東へ流れてきたのち、道を伝えるやり方は一つではありません。先賢の優れた人々にも、ともに定まったしきたりがありました。どうしてただ一人で改め変え、どうして衆の望みにかなうことがありましょうか。」

三蔵は答えました。「五部の違いは、これからは当然の道理です。ともに俗を捨てたのは、もともと法を弘めるためであり、法は必ず伝えられねばなりません。どうして衆の心に背くことがありましょうか。」

慧義がまた問いました。「戒は目に見える色ではありません。近ごろ重受した者を見ますと、あるいはもとの臘次に従い、あるいは後の受戒をもって初めとするといいます。進むも退くも、深い疑いを招くに十分ではありませんか。」

三蔵は答えました。「人には二種ありますから、一つに類しません。もし年齢が満たず、胎月が満ちていなければ、今の受戒を初めとします。もし先に年齢がすでに満ちていれば、そのまま得戒の位に入ります。ただし先の受戒に中下の心があったのではないかと疑われるなら、道理としてさらに増勝を求めて重ねて戒を受けるべきであり、その場合はもとの臘によって永く定まります。」

慧義がまた問いました。「自ら誓って殺さず、身と口がすでに満たされているのに、何が尽きず、さらに重ねて受けるのですか。」

三蔵は答えました。「戒には九品があり、下は上の因となります。求める者に至っては、心に優劣があり、託する縁起もまた自ずから異なります。別に受け重ねて発すことに、何の障りがありましょうか。五戒・十戒も、生ずることはそれぞれ異なり、道・定の律儀に至るまで、ともに身と口を防ぎます。心業はこれと同じではなく、一つあって二つはありません。」

このように云々とありました。

慧義がまた問いました。「三蔵がかつて在世の日、布薩や僧の事は常に寺の内で行われていました。受戒を論ずるに及んでは、なぜただ一人邑の外に出るのですか。いずれも善法であるのに、どうして異なるのですか。」

三蔵は答えました。「諸部の律の制は、互いに通ずるところも塞がるところもあります。ただ受戒の法は重く、ほかの事とは異なります。ほかの法は成じ得なくとも、ただ小罪を得るだけで、罪は懺悔できます。仏種を紹隆し、信施を消受するには、戒を本とします。もし成就しなければ、出家の人ではありません。障累の源を断ち、大法を滅ぼすことになるからです。ゆえにほかのものとは異なるのです。」

そこで慧義は欣然として言葉なく、ついに弟子の慧基らに蔡州の岸を渡らせ、船上で受戒させました。云々。

今通檢《別傳》諸記,南國諸方戒壇非一,宋都一壇如上已辨。東晉法汰,道安法師之同學也,生知天授,先於楊都瓦官寺立壇;晉支道林於石城沷洲各立一壇;晉支法存於若耶謝敷隱處立壇;竺道壹於洞庭山立壇;竺道生於吳中虎丘立壇;宋智嚴於上定林寺立壇,宋慧觀於石梁寺立壇;齊僧敷於蕪湖立壇;梁法超於南㵎立壇;梁僧祐於上雲居、棲霞、歸善、愛敬四寺立壇;今荊州四層、長沙二寺剎基下,大明寺前湖中,並是戒壇。以事覈論,自渝州已下,江淮之間,通計戒壇三百餘所;山東、河北、關內、劍南,事絕前聞,經傳不錄;故使江表佛法,經今五六百年,曾不虧殄,由戒壇也!以戒為佛法之源,本立而不可傾也!故使中原河之左右既不行之,由此佛法三被誅除,誠所宜也!又江漢之間,英靈間出,山川秀麗,見便忘返者,土地之使然也!人依外報,故使外報既勝,內智亦奇,致諸賢達之士,通鑒輔臣,詳度佛教,深有可歸,必無敗壞之理也!可謂江漢滔滔,南國之紀事雖聞於往代,語迹見於今乎!中原兩河晉氏南渡之後,分為一十六國;以武猛相陵,佛法三除,並是獯鬻之胤;本非文國之後,隨心即斷,故其然乎!所以戒壇之舉,即住法之弘相也!餘則略之(云云)。

ここで『別伝』の諸記を広く照らし合わせてみますと、南国の諸方に戒壇は一つではありません。宋の都の一壇については、すでに上で論じ終えました。東晋の法汰は道安法師の同学であり、生まれながらに知を授かった人で、早くも楊都の瓦官寺に壇を建てました。晋の支道林は石城と洲のそれぞれに一壇を建てました。晋の支法存は若耶の謝敷が隠棲した所に壇を建てました。竺道壹は洞庭山に壇を建てました。竺道生は呉中の虎丘に壇を建てました。宋の智厳は上定林寺に壇を建て、宋の慧観は石梁寺に壇を建てました。斉の僧敷は蕪湖に壇を建てました。梁の法超は南㵎に壇を建てました。梁の僧祐は上雲居・棲霞・帰善・愛敬の四寺に壇を建てました。今、荊州の四層、長沙の二寺の刹基の下、大明寺前の湖の中は、いずれも戒壇です。事実に照らして論じますと、渝州から下り、江淮の間を通算すると、戒壇は三百余所あります。山東・河北・関内・剣南では、事は前の聞こえに絶え、経伝にも録されていません。それゆえ江表の仏法が、今に五六百年を経て、かつて損なわれ尽きることがなかったのは、戒壇によるものです。戒を仏法の源とし、本が立てば傾くことはありません。それゆえ中原の河の左右でこれが行われなかったために、仏法が三度誅除されたのは、まことに当然のことです。また江漢の間には英霊が間々現れ、山川は秀麗で、見ればたちまち帰るのを忘れるのは、土地がそうさせるのです。人は外報に依るので、外報がすでに勝れているため、内智もまた奇しく、多くの賢達の士や、通鑑の輔臣に至るまで、仏教を詳しく量って、深く帰すべきものがあるとし、必ず壊敗の道理はないとするのです。江漢は滔滔として流れ、南国の紀事は往代に聞こえているとはいえ、その語跡は今に現れていると言えましょう。中原の両河は、晋氏が南渡した後、十六国に分かれました。武猛をもって相陵し、仏法は三度除かれ、いずれも獯鬻の子孫です。もと文国之后ではなく、心のままに断じたので、そのようになったのです。ですから戒壇の挙は、すなわち住法の弘相なのです。その余は略します。云々。

《善見》云:「戒壇上不得立房,縱使王立,有慚比丘剔壞,餘材草送住寺比丘,唯置佛殿及樹木也!」據斯以言,明是法住之處,非人所宅(兩位別也)。

『善見律』にこう説かれています。「戒壇の上に房舎を建ててはなりません。たとえ王が建てたとしても、慚愧ある比丘がこれを取り壊し、残った材木や草は寺に住む比丘たちに施し、ただ仏殿と樹木だけを置くのです」と。この言葉によれば、そこは明らかに法が住する場所であり、人が住む宅ではないことが分かります(両者は別のものです)。


3 戒壇形重相狀
5 戒壇大界內外

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