戒壇作業成敗第八(此篇機要,成敗一時)
戒壇作業の成否 第八(この篇は肝要であり、成否は一時にかかっています)
成敗之相,其用在人,人兼明昧,故事涉興毀。是以謹慎之士,不自師心。雖於戒相分明,不妨臨用迷忘,是以律文統約,有陵犯處,並開迷忘。至於結界持護,必須是非通顯,若疑、若誤,捨而重加,豈非敬慎之至極也!今行事者率多輕略,不審界之遠近,莫顯僧之別同,欺罔佛法,妄稱僧傑;誦文不識綱目,目覩不識是非,飾詐抱迷,輒興搆結。今略示數相以顯是非:
戒の成敗のあり方は、その用い方を人に委ねています。人には明るい者も暗い者もいますから、事は興ることもあれば壊れることもあります。ですから謹慎する人は、自らの心だけを師とすることはありません。戒相がはっきりしていても、いざ用いる時に迷い忘れることもありますので、律文は全体をまとめて約し、違反を犯す箇所については、いずれも迷い忘れることを許しています。結界して守り保つことに至っては、必ず是非をはっきりと通らせねばなりません。もし疑いがあれば、もし誤りがあれば、それを捨てて改めて加えるのです。これこそ敬慎の極みではないでしょうか。
ところが今、行事を行う者たちは、おおむね軽々しく略して、結界の遠近を確かめず、僧の別同を明らかにすることもなく、仏法を欺き、みだりに僧の傑と称しています。文を誦しても綱目を知らず、目にしても是非をわきまえず、偽りを飾り迷いを抱いたまま、にわかに構結を起こします。ここにいくつかのあり方を略して示し、是非を明らかにしましょう。
一、約相集僧,則識僧之真偽,一一人中以五十餘法簡定之;不入簡者不足稱僧,則非作法之匠也!簡法如律鈔中。
一、相について僧を集めるとは、すなわち僧の真偽を見分けることです。一人ひとりについて五十余りの法によって選び定めます。この選定に入らない者は僧と呼ぶに足りず、ましてや作法を司る匠ではありません。選定の方法は律の鈔にあるとおりです。
二、依相三唱,必審標、相分齊,尺寸灼然,入則有足數別眾之儀,出則非二相之攝也。今時往往有結二界,不集相外之僧,直將五六人往場相地而結者;或於場內通唱二界三相已,具加二界羯磨者;或有場內通唱二界相已,隨界而結者;或於大界內不入場中,遙唱場相而結者。如《五分》中:「不唱方相,不成結界。」今隔界虛唱,全非正法;唱不明了,不知分齊,咸名不唱,界結不成,如是類知,並是約界分齊之是非也!然大界、戒場並須成就,事不獲已,大界不成,乍可以無界之場得受戒也?戒場不成,大界雖成,終是無法之地,何有得行法事!故勤勤作業,戒場為初,必須依法取成,不得依俙作法,朦朧謂是。僧曰知法之人,可不思之!取名棄實,言又繁矣,臨事多惑,老叟重言,固其宜也!
二、相に依って三唱するには、必ず標と相の分斉を審らかにし、尺寸を灼然と定めなければなりません。入ればすなわち足数・別衆の儀があり、出ればすなわち二相の摂に非ざるのです。今の時、往々にして二界を結ぶに、相外の僧を集めず、ただ五六人を場の相地へ往かせて結するものがあります。あるいは場内において通じて二界三相を唱し終えてから、具に二界の羯磨を加えるものがあります。あるいは場内において通じて二界の相を唱し終えて、界に随って結するものがあります。あるいは大界内において場中に入らず、遥かに場の相を唱して結するものがあります。
『五分』の中に「方相を唱せざれば、結界は成ぜず」とあります。今、界を隔てて虚しく唱するのは、全く正法に非ず。唱が明了ならず、分斉を知らなければ、みなこれを不唱と名づけ、界の結は成じません。このような類をもって知るべきです。これらはみな界の分斉についての是非なのです。
しかしながら、大界と戒場はともに成就しなければなりません。事已むを得ずして大界が成じないとき、仮に無界の場をもって戒を受けることができましょうか。戒場が成じなければ、大界は成じていても、終にはこれ無法の地であり、どうして法事を行うことがありましょうか。ですから勤勤として作業し、戒場を初めとし、必ず法に依って取って成じ、依俙の作法に依ってはならず、朦朧としてこれを是と称してはなりません。僧は知法の人と曰うのですから、思わずにおられましょうか。
名を取って実を棄てるならば、言はまた繁く、事に臨めば惑いが多いのです。老叟の重ねて言うのは、もっともなことなのです。
三、明事義,即結界也。界有大小之差,地分內外之別,先須曉了,後方就法。
三、事と義を明らかにするとは、すなわち結界のことです。結界には大小の違いがあり、地には内と外の区別がありますから、まずこれをよく理解してから、そのうえで法に取りかからなければなりません。
四、謂作業,即羯磨也。不但一僧獨誦,並須通眾具解,有不解者,非足非別;以闇昧者,莫知和忍之緣,孰識同別之相,故非二攝,不集非咎。
四、作業とは、すなわち羯磨のことです。一人の僧が独りで誦するだけでなく、衆全体がともに理解していなければなりません。理解しない者があれば、それは足りるものでも別のものでもありません。暗昧な者には和忍の縁を知ることができず、誰が同と別の相を識別できるでしょうか。ですから二摂ではなく、集まらないことも咎ではありません。
作業成敗,必約四緣,謂僧界事法,如上備列。持律之士,務學在斯,闇此四緣,不足登壇位也!故《十誦》云:「作羯磨者應分別云:是白、是第一羯磨、第二羯磨、第三羯磨;如是分別。其聽作者,莫餘覺、餘思惟,應心心相憶,念此白、此羯磨;如是分明。」故佛世執法,猶行五非,豈是不學無知人耶?臨機心境迷忘故也!
作業の成否は、必ず四つの縁によるのであって、すなわち僧界の事と法であり、以上のとおり詳しく列挙しました。持律の者は、このことを学ぶのを務めとします。この四つの縁に暗いようでは、壇に登る資格はありません。だから『十誦律』にこう説いています。「羯磨を行う者は、分別すべきです。これは白である、これは第一羯磨である、第二羯磨である、第三羯磨であると、このように分別しなさい。それを聞いて作す者は、他のことを覚えたり、他のことを思惟したりしてはならず、心と心で相憶念し、この白を、この羯磨を念じなさい。このように分明にしなさい」と。それゆえ、仏在世のとき法を執り行った者でさえ、なお五つの非を行いました。どうして学ばない無知な人でありましょうか。機に臨んで心境が迷い忘れるからなのです。