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title: "正法念處經 · 6"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第三十

> 正法念処経 巻第三十

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品第六之九三十三天之六

> 観天品 第六の九 <note>三十三天の第六</note>

「『復次，是事有故是事有，所謂有彼岸故，則有此岸。若無彼岸，則無此岸。如是，天子！是為是事有故是事有，是事無故是事無，互共有生各各因緣。一切有為法從因緣生。因緣者，所謂無明緣行，行緣識，乃至死亦如是。天子當知！如是十二因緣，彼佛世尊於此宮殿，人中之數五千歲中，於此宮殿演說此法。我今為汝宣說少分，如恒河沙等三世如來、應、等正覺同說此法，為正法身。彼佛世尊說此法時，七億諸天盡諸有漏，得法眼淨。

> さらに、あるものが存在するから別のものが存在するのです。つまり、彼岸があるから此岸があるのです。もし彼岸がなければ、此岸もありません。天子よ、このように、あるものが存在するから別のものが存在し、あるものが存在しないから別のものも存在しないのです。互いに依存して生じ、それぞれに因縁があります。 すべての因縁によって生じる現象（有為法）は、因と縁によって生まれます。その因縁とは、すなわち、無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、さらに死に至るまで同じように続きます。 天子よ、知ってください。この十二因縁を、かの仏世尊はこの宮殿において、人間の年数で五千年の間、説き示されました。私は今、あなたにその一部を説きましょう。ガンジス川の砂の数ほどの三世の如来、応供、正等覚者が、同じくこの教えを説かれました。これこそが正法の体です。 かの仏世尊がこの法を説かれた時、七億の天人がすべての煩悩（有漏）を尽くし、法の眼（法眼浄）を得ました。

「『爾時，世尊還閻浮提，以大悲心為人說法。所謂無明緣行，乃至生緣老死。時諸眾生無量無邊，遠離塵垢，於諸法中漏盡解脫。如是世尊、天人之師，為諸天人演說斯法。』如是帝釋為諸天眾廣說法已，往詣摩多隣那天宮，到其宮已，見種種鳥，七寶翅羽以為莊嚴。眾蓮華池，其諸池中七寶蓮華，其蓮華色種種寶色，種種眾蜂以為莊嚴，如日初出，其華光明莊嚴寶殿。於其宮側毘琉璃樹，以樹光明互相映發，令此天宮出青光明。其琉璃樹真金為葉，以此樹葉相映發故，出黃赤光。復有大光以為莊嚴，宮室園林以種種寶以為莊嚴。種種寶宮，種種七寶園林華樹以為莊嚴，甚可愛樂。帝釋見之，發希有心。於其殿中有大華池，七寶成就，其水黃色如融金聚，殊妙莊嚴。種種眾寶莊嚴廁填，種種色鳥以為莊嚴。一切天眾種種伎樂，歌舞戲笑共相娛樂，往詣大池，其池名曰一切最勝。

> その時、世尊は閻浮提に戻り、大いなる慈悲の心で人々に説法されました。すなわち、無明を縁として行が生じ、乃至、生を縁として老死が生じる、と。その時、無量無辺の衆生が塵垢を遠く離れ、諸々の法において煩悩の漏れが尽き、解脱しました。このように、世尊は天人の師として、天や人のためにこの法を説かれました。 このように帝釋天が多くの天衆に広く説法を終えた後、摩多隣那天の宮殿へと向かいました。その宮殿に到ると、様々な鳥たちが七宝の羽根で飾られて荘厳されていました。また、多くの蓮華の池があり、その池の中には七宝の蓮華が咲き、その蓮華の色は様々な宝の色をしていて、多くの種類の蜂によって飾られていました。まるで朝日が昇るように、その蓮華の光は宝殿を荘厳に照らし出していました。その宮殿の側には毘琉璃の木があり、その木々の光が互いに照り映えて、この天宮を青い光で輝かせていました。その琉璃の木々には真金の葉がつき、この木の葉が互いに映え合うことで、黄色や赤い光を放っていました。さらに大きな光が荘厳を添え、宮殿や庭園は様々な宝によって飾られていました。様々な宝の宮殿、様々な七宝の庭園や花の木が飾り立てられ、たいへん愛らしいものでした。帝釋天はそれを見て、希有の心を起こしました。その殿の中には大きな華の池があり、七宝で完成されていました。その水は黄色く、溶けた金が集まったようで、殊妙に荘厳されていました。様々な宝が隙間なく飾り立て、様々な色の鳥が荘厳を添えていました。全ての天衆は様々な伎楽や歌や舞、笑い声をあげて共に楽しみ戯れながら、大いなる池へと向かいました。その池の名は、一切最勝といいます。

「池中諸鳥見諸天子心意蕩逸，即為天子而說頌曰：

> 池の中の鳥たちは、天の王子たちが心を遊ばせて浮かれて踊っているのを見て、彼らに向かってこの詩を語りかけました。

「『譬如靈鷲鳥，不住蓮花中，如是寂靜處，惡人不應住。如是寂靜林，云何行放逸！顛倒不順法，如日出冷光，若得離愛樂，解脫離眾苦，若離此二法，天樂非為樂。修禪離放逸，解脫於欲網，解脫乃名樂，非汝愛所誑。世尊先住此，及諸修行者，汝為欲所牽，不應住此林。此殿受天樂，無常不久住，若離於愛欲，是為第一樂。先住此林者，皆入第一處，若得第一處，能斷一切苦。貪心好美食，為貪心所誑，此寂靜林中，斯人不應住。若修寂靜心，樂清淨應住，心行於欲境，不住寂靜林。若有心寂靜，應住於林中，為欲心所亂，不應住此林。怖畏五因緣，愛所不能燒，清淨離愛人，終不墮惡道。有生必有死，強者病所侵，富樂有衰惱，少壯老所壞；恩愛必有離，和合不久停，諸法皆如是，正覺之所說。若人於三界，其心不迷者，是人得寂靜，應住寂林中。常為欲諂曲，憶念懷怖畏，是人則不得，林中寂靜樂。若人心清淨，依林修寂靜，其人林中樂，非是行欲人。林中修淨心，入聚心不動，是故住林中，不應住城邑。若人入城邑，為欲心所亂，諂曲不清淨，至林還寂靜。是故林樹間，第一最寂滅，行者所應住，能離於欲心。諸根心寂靜，行者心安樂，千帝釋之樂，不及此人心。若得禪定樂，一切白淨法，夜摩諸天中，不及此樂分。樂從欲所生，常與眾苦合，若斷煩惱樂，永無有破壞。無始生死中，煩惱怨結心，若斷此怨結，欲樂無能及。從欲生樂者，不淨苦果報，若得解脫樂，是樂無與等。依止離欲行，行者第一道，從愛生欲樂，不能至正道。初愛生味者，得報如火毒，從欲所生樂，常在於地獄。初愛生善味，中愛亦如是，後寂靜清淨，能至安樂處。若行初中善，莊嚴如慈母，云何捨正念，戲欲樂境界？欲洄澓所轉，中後常苦惱，云何愚癡人，於欲生愛樂？如妙色毒花，如觸猛火焰，欲樂亦如是，後受大苦惱。如火益眾薪，其焰不可滅，自他俱能燒，欲樂亦如是。如飛蛾投火，不見燒害苦，欲樂亦如是，癡人不覺知。若人著欲樂，常為欲所燒，如蛾投燈火，欲火過於此。是故捨欲害，常樂修智慧，莫行於放逸，放逸墮惡道。一切愛欲樂，為放逸所誑，受樂報既盡，後墮地獄苦。其人善業盡，為欲之所誑，從天至地獄，欲癡所誑故。從生乃至終，常修正思惟，心念於戒法，是人得寂滅。諂曲邪憶念，三毒生味著，放逸水甚深，女欲為水衣。歌樂動其心，愛水衝磐石，境界蛇所覆，心波駛流注。愛河大瀑惡，流注龍境界，癡人入此河，為天欲所沒。可畏如瀑河，癡人不覺沒，猶如癡蜜蜂，飲於毒樹花。如是欲毒害，癡人樂貪著，蜂飲毒存亡，愛欲無不沒。三毒水中生，放逸風所吹，愛火燒天眾，而猶不覺知。毒生於天中，放逸為稠林，癡人所遊戲，以愛自誑心。放逸生諸欲，攀緣不暫停，是欲如夢幻，智者所不信。諸欲雖如夢，夢非地獄因，是故捨諸欲，常修清淨業。善行為最勝，非為不善業，如是善業繫，則得於勝處。諸天著欲樂，不得寂靜處，智人至寂靜，以不放逸故。』

> 「たとえば霊鷲鳥（りょうじゅちょう）は蓮の花に留まらないように、 この静かな境地は、悪人が住むべき場所ではない。 この静かな林に、どうして放逸に振る舞うことがあろうか！ 道理に背き、法に従わないのは、真昼に冷たい光を放つ太陽のようなもの。 もし愛執を離れ、解脱の喜びを得れば、あらゆる苦しみから解き放たれる。 この二つの法（愛執と解脱）を離れたなら、天の楽しみさえも本当の楽しみではない。 禅定を修めて放逸を離れ、欲の網から解き放たれよ。 解脱こそが真の名の楽しみであり、あなたの愛欲が欺くものではない。 世尊はかつてここに住み、修行者たちもまた同様だった。 あなたは欲望に引きずられて、この林に住むべきではない。 この宮殿は天の楽しみを与えるが、それは無常であり長くは続かない。 もし愛欲を離れるならば、それが第一の楽しみとなる。 以前この林に住んだ者たちは、皆、最高の境地に入った。 もしその最高の境地を得れば、あらゆる苦しみを断ち切ることができる。 貪りの心で美食を好む者は、貪りの心に欺かれている。 この静かな林に、そのような人は住むべきではない。 もし静かな心を修め、清らかさを楽しむなら、ここに住むにふさわしい。 心が欲の対象に走る者は、この静かな林に留まってはならない。 もし心が静かなら、林の中に住むべきである。 欲の心に乱される者は、この林に住むべきではない。 五つの因縁（恐怖）を畏れ、愛欲に焼かれることのない人は 清らかで愛欲を離れ、決して悪道に落ちることはない。 生あるものには必ず死があり、強い者も病に侵される。 富や楽しみには衰退と悩みがあり、若さも老いに打ち破られる。 愛しい者との絆も必ず別れがあり、和合は長くは続かない。 すべての法はこのように、正覚者が説かれた通りである。 もし人が三界において、心が迷うことのないならば その人は静けさを得て、静かな林に住むべきである。 常に欲望に欺かれ、恐れを抱く者がいるなら その人は林の中の静けさの楽しみを得ることはできない。 もし人の心が清らかで、林に依って静けさを修めるなら その人の林の中の楽しみは、欲に走る人とは同じではない。 静けさを修める人は、林の中で心を清め、群衆の中に入っても動じない。 それゆえに林に住むべきであり、町や村に住むべきではない。 もし人が町や村に入れば、欲の心に乱される。 偽りがなく、清らかでない者は、林に戻って初めて静けさを得る。 それゆえに林の中こそが、第一に最も静かな境地である。 修行者はそこに住むべきであり、それによって欲の心を離れることができる。 感覚も心も静かな修行者は、心に安らぎを感じる。 千の帝釈天（たいしゃくてん）の楽しみも、この人の心には及ばない。 もし禅定の楽しみを得れば、一切の清らかな法が成就する。 夜摩天（やまてん）の天人の間でさえ、この楽しみの分け前には及ばない。 楽しみが欲望から生まれるものは、常に多くの苦しみと結びついている。 もし煩悩を断ち切った楽しみは、永遠に壊れることがない。 始まりのない生死の中で、煩悩は怨みとなって心に結びつく。 もしこの怨みの結び目を断ち切れば、欲望の楽しみは全く及ばない。 欲望から生まれる楽しみは、不浄で苦い報いをもたらすだけである。 解脱の楽しみを得たなら、その楽しみに匹敵するものはない。 欲望を離れることに依り、修行者の最高の道となる。 愛情から生まれる欲望の楽しみは、正しい道に至ることはできない。 最初の愛情が味わいを生み出せば、その報いは火の毒のようなもの。 欲望から生まれる楽しみは、常に地獄にある。 最初の愛情が善い味わいを生み、中間の愛情もまたそうであるが 後には静けさと清らかさが訪れ、安楽な境地に至ることができる。 もし道の初めも中も善く、慈母のように整えられているのに どうして正しい念（おもい）を捨てて、欲の楽しみの境地で戯れるのだろうか？ 欲望は渦のように回り、中でも後でも常に苦しみを与える。 どうして愚かな人々が、欲望に愛着と楽しみを生じるのだろうか？ 美しい毒の花のように、また燃え盛る猛火に触れるように 欲望の楽しみも同じで、後に大きな苦しみを受ける。 火が薪を増やすように、その炎は消えることがない。 自他ともに焼き尽くすように、欲望の楽しみもまた同じである。 飛蛾が火に飛び込んでも焼かれる苦しみが見えないように 欲望の楽しみもまた同じで、愚か者はそれに気づかない。 もし人が欲望の楽しみに執着すれば、常に欲望に焼かれる。 蛾が灯火に飛び込むように、欲望の火はこれ以上に激しい。 それゆえに欲望の害を捨て、常に智慧（ちえ）を修めよ。 放逸に振る舞ってはならない。放逸は悪道に落ちる。 すべての愛欲の楽しみは、放逸によって欺かれる。 楽しみの報いが尽きれば、後に地獄の苦しみを受ける。 その人の善業が尽きれば、欲望に欺かれる。 天から地獄へ、欲望の愚かさに欺かれたからである。 生まれてから命が終わるまで、常に正しい思惟（しい）を修め 心に戒めの法を念ずる人は、この人こそ静けさを得る。 偽りの邪な憶念（おくねん）が、三毒（貪・瞋・痴）の味わいを生む。 放逸の水は非常に深く、女性の欲望はその水の表面のようなもの。 歌や楽器が心を動かし、愛の水は岩盤を打ち砕く。 境界は蛇に覆われ、心の波は速く流れ注ぐ。 愛欲の河は大きく、速く、恐ろしく、龍の境地へと流れ込む。 愚か者はこの河に入り、天の欲望に溺れてしまう。 恐ろしい急流の河のように、愚か者は気づかずに溺れる。 まるで愚かな蜂が毒の木の花の蜜を飲むように。 このように欲望の毒は害であり、愚か者はそれを楽しんで執着する。 蜂が毒を飲めば生死に関わるが、愛欲に溺れない者はない。 三毒（の水）の中から生まれ、放逸の風に吹かれる。 愛欲の火が天の衆生を焼き尽くすのに、彼らはなお気づかない。 毒は天の中に生まれ、放逸が密林をなす。 愚か者がそこで遊戯し、愛欲で自らの心を欺く。 放逸が様々な欲望を生み、心はそれに絡みついて止まることがない。 この欲望は夢や幻のようなもので、智慧ある者は信じない。 様々な欲望は夢のようなものだが、夢は地獄の因ではない。 それゆえに諸々の欲望を捨て、常に清らかな業（行い）を修めよ。 善い行いが最も優れており、不善な行いではない。 このように善い行いに結びつけば、優れた境地を得ることができる。 諸天人は欲望の楽しみに執着し、静けさの境地を得られない。 智慧ある者は静けさに至る、それは放逸によらないからである。」

「爾時，天鳥為於放逸諸天子等說是偈已，時釋迦天王於此林中，復詣異處。到彼林已，其林一切善業莊嚴種種功德，學無學人所住之處，大仙世尊迦迦村陀如來住處。時天帝釋與無量天眾作天伎樂，共入林中，見此林樹。既入林中，諸天威德悉皆殊勝，如須彌山處於六萬金山之中，釋迦天主在諸天中亦復如是。三十三天諸園林中，此林光明最勝殊特。時天帝釋與諸天眾恭敬圍遶，詣閻浮林。其閻浮林一切金樹以為莊嚴，釋迦天王至此林中，告諸天曰：『汝等天眾見此一切殊勝林不？無量華池園林具足。』天眾白言：『唯然，已見。』帝釋告言：『此林如是一切功德皆悉具足。我今覩之，生希有心。今覩此林，如見迦迦村陀如來無等色身，一切智慧大悲如來之所住處。於此住處，無量天眾以聞法故，從樂得樂。此佛、如來、無上丈夫，已入涅槃，遺果猶存。』爾時，帝釋復往詣於俱吒迦殿林。迦迦村陀如來，往昔亦曾入此林中。帝釋天王入此林中，見百千萬殿圍遶此殿，七寶莊嚴，謂青寶王、金剛車𤦲、毘琉璃寶，種種眾寶間錯莊嚴，種種幢幡以為嚴飾。諸殿之中，如來所坐殊勝之殿，光明晃曜。猶如初夏秋天之時，無諸雲翳，於眾星中日月最勝，如來所坐宮殿殊勝亦復如是。其明照曜，唯除帝釋，一切天眾不能久視是殿威德。譬如閻浮提中盛夏之日，一切世人無能久觀，如來之殿亦復如是。釋迦天王告諸天曰：『汝等見是殿威德不？』諸天白言：『唯然，天王！我已見之。』帝釋告曰：『此殿往昔迦迦村陀如來、等正覺、調御丈夫、無上大師，與百千沙門皆離疑網，見四真諦，得二解脫，具六神通、四如意足，昇此大殿，以利安樂諸天人故。於夏四月，此處安居，為三十三天演說正法。所謂：「此是色、此色集、此色滅、此色滅道證，受想行識和合聚集，觀過捨出亦復如是。」天子當知！彼佛如來，如是次第為諸天眾——放逸憍慢、不覺退沒無常之苦但著欲樂、不知自相平等之相——說如是法利益眾生。

> その時、天鳥が放逸な天子たちにこの偈を説き終えた。そこで、釈迦天王はこの林から別の場所へと向かった。その林に到着すると、そこは一切の善業によって荘厳され、様々な功徳を備え、学人・無学人が住む場所であり、大仙・世尊・迦迦村陀如来の住まいであった。時に帝釈天は無量の天の衆と共に天の楽器を奏で、林の中に入り、この林の木々を見た。林の中に入ると、諸天の威徳は全て殊勝であり、ちょうど須弥山が六万の金山の中にあるように、釈迦天主もまた諸天の中にあってそのようであった。三十三天の様々な園林の中で、この林の光明は最も優れて特別であった。時に帝釈天は諸天の衆に恭敬され囲まれて、閻浮林へ向かった。その閻浮林は一切が金の樹で荘厳されていた。釈迦天王はこの林に至り、諸天に告げた。「あなたたち天の衆は、この一切の殊勝な林を見るか？無量の花の池や園林が具足している。」天の衆は申し上げた。「はい、見ました。」帝釈天は告げた。「この林はこのように一切の功徳を全て具足している。私は今これを見て、希有の心を生じた。今この林を見ることは、迦迦村陀如来の比べるもののない色身、一切の智慧と大悲の如来の住まいを見るようである。この住まいでは、無量の天の衆が法を聞くことによって、楽から楽を得る。この仏、如来、無上の丈夫はすでに涅槃に入られたが、その遺した果報はなお存在している。」時に帝釈天はさらに、倶吒迦殿林へ向かった。迦迦村陀如来も、昔この林に入られたことがあった。帝釈天王はこの林に入り、百千万の殿に囲まれたこの殿を見た。それは七宝で荘厳され、すなわち青宝王、金剛車𤦲、毘瑠璃宝など、様々な宝が間を置いて荘厳し、様々な幢幡が飾り立てられていた。諸殿の中で、如来の坐された殊勝な殿は、光明が輝き耀いていた。ちょうど初夏や秋の時、雲の翳りがなく、衆星の中で日月が最も勝れているように、如来の坐された宮殿の殊勝もまたそのようであった。その光明の照り輝くことは、帝釈天を除けば、一切の天の衆は長くこの殿の威徳を直視することができなかった。例えば閻浮提の中で真夏の日、一切の世人が長く観ることができないように、如来の殿もまたそのようであった。釈迦天王は諸天に告げた。「あなたたちはこの殿の威徳を見るか？」諸天は申し上げた。「はい、天王！私はそれを見ました。」帝釈天は告げた。「この殿は昔、迦迦村陀如来、等正覚、調御丈夫、無上の大師が、百千の沙門と共に、皆、疑網を離れ、四つの真諦を見、二つの解脱を得、六つの神通と四つの如意足を具えて、この大殿に昇り、諸天の人々を利益し安楽にするために、夏の四月、ここに安居して、三十三天の為に正法を演説された。すなわち、『これが色、これが色の集まり、これが色の滅、これが色の滅への道の証である。受・想・行・識もまた集まり合わさり、その過ちを観て、これを捨て出でることもまた同じである』と。天子たちよ、知るがよい。かの仏如来は、このように順を追って諸天の衆に――放逸で驕り慢じ、退没の無常の苦に気づかず、ただ欲望の楽しみに執着し、自己の相の平等の相を知らない――このような法を説いて、衆生を利益されたのである。」

「『爾時，如來復為放逸諸天子等說微妙法，以偈訶責：

> その時、如来は再び、気ままに過ごしている天の子たちのために、巧みな教えを説かれ、次の詩で彼らを戒められました。

「『「放逸生死本，諸天所住處，放逸毒所醉，沒在於諸有。若有離放逸，永脫三界海，放逸癡為本，盲冥無所覺。光明起有本，從於火日生，因癡生放逸，大仙如是說。放逸火熾然，由心之所起，誑惑愚癡人，至諸地獄道。天人行放逸，女色之所使，和合相娛樂，不知愛別苦。臨命欲終時，現前受大苦，婇女亦隨盡，諸樂皆磨滅。和合必有離，一切樂皆盡；壯少當衰變，一切業皆盡。一切諸眾生，善惡業所繫，如伎人遊戲，去來各差別。業伎之所繫，流轉於生死，無常業流動，智者不應信。放逸如毒害，應方便捨離，若離於放逸，永渡三界海。」

> 「放逸（ほういつ）は生死の根本であり、諸天の住処である。 放逸という毒に酔いしれて、あらゆる生存の世界に沈んでいる。 もし放逸を離れる者があれば、永遠に三界の海を脱する。 放逸は愚かさを根本とし、盲目で暗く、何も悟ることがない。 光明はもとより起こる場があり、火や太陽から生じる。 愚かさによって放逸が生まれると、大仙（仏陀）はこのように説かれた。 放逸の火が燃え盛るのは、心によって起こるからである。 愚かな人々を惑わし欺いて、諸々の地獄の道へ至らせる。 天人は放逸を行い、女色に駆り立てられる。 結びつき合って楽しみ戯れるが、愛する者と別れる苦しみを知らない。 命が終わろうとする時、目の前に大きな苦しみが現れる。 女官たちもまた尽き果て、あらゆる楽しみは消え去る。 結びつきは必ず別れを伴い、すべての楽しみは尽きる。 壮健も若さも衰え変わり、すべての業は尽きる。 すべての生きとし生けるものは、善悪の業に縛られている。 あたかも芸人のように、去ったり来たりしてそれぞれ異なる。 業という芸人に縛られて、生死の世界を流転する。 無常という業は流れ動くものゆえ、賢者はそれに拠ってはならない。 放逸は毒のように害をもたらすゆえ、うまく手段を尽くして捨て去るべきである。 もし放逸を離れるならば、永遠に三界の海を渡り超えるであろう。」

「『爾時，迦迦村陀如來調伏九那由他放逸諸天，令離放逸，分別解說，利益諸天，與諸比丘及諸大眾詣閻浮提。』時天帝釋為諸天眾說是語已，往詣殿所，昇於寶殿。俱吒迦殿無量眾寶以為莊嚴，其諸珍寶，一切天眾先未曾見，諸天見之，皆生歡喜發希有心。帝釋見已，告諸天眾：『汝等見此殊勝殿不？未曾有此勝妙莊嚴。』時諸天眾白天王言：『唯然，已見。』帝釋告言：『此寶宮殿乃是夜摩天王之所奉獻，以淨信心施於迦迦村陀世尊。此殿光明不可得見，如是彼天光明殊勝。何以故？先世天子不行放逸，如汝等故。』時諸天眾自知劣弱，捨憍慢心。一切天眾皆以頭面禮如來殿，皆發歡喜，顏色悅樂心生厭離。自知其業減劣尠少，有發無上菩提心者，有發緣覺菩提心者，有發聲聞菩提心者，有於佛所得不壞信，一切天眾皆生淨信，合掌恭敬住在一面。時天帝釋入俱吒殿，至於如來師子之座演說法處。迦迦村陀如來所臥敷具，金剛為床，種種具足。時天帝釋以清淨心，舉身投地禮師子座，心自念言：『此是如來所坐之處。』以敬重心念如來故，從地而起，見書殿壁有偈句頌。其文頌曰：

> 「その時、迦迦村陀如来は九那由他の放逸な諸天を調伏し、彼らをして放逸を離れさせ、それぞれに解説して諸天を利益し、比丘たちや大衆と共に閻浮提へと向かわれました。」と、天帝釈は諸天の衆にこの言葉を語り終え、殿舎に向かい宝殿に昇りました。俱吒迦殿は無量の宝をもって荘厳され、その珍宝の数々は、すべての天の衆がこれまで見たことのないものでした。諸天はそれを見て、皆、歓喜を生じ、希有の心を発しました。帝釈はそれを見て、諸天の衆に告げました。「あなたがたはこの勝れた殿舎を見ましたか？このような勝れた妙なる荘厳はかつてありませんでした。」その時、諸天の衆は天王に申し上げました。「そのとおり、既に見ました。」帝釈は告げました。「この宝の宮殿は、実に夜摩天王が奉献されたものです。清らかな信心をもって迦迦村陀世尊に布施されたのです。この殿の光明は見ることがかなわないほどであり、そのように彼の天の光明は勝れています。なぜなら、前世の天子たちは放逸を行わず、あなたがたのようではなかったからです。」その時、諸天の衆は自らの劣っていること（弱さ）を知り、驕りの心を捨てました。すべての天の衆は皆、頭と顔をもって如来の殿に礼拝し、歓喜を発し、顔色は悦び楽しみ、心には厭離を生じました。自らの業が減り劣り、僅かであることを知り、ある者は無上菩提心を発し、ある者は縁覚菩提心を発し、ある者は声聞菩提心を発し、ある者は仏において不壊の信を得ました。すべての天の衆は皆、清らかな信を生じ、合掌して恭敬し、一方に留まりました。その時、天帝釈は俱吒殿に入り、如来の師子座、すなわち説法の場所に至りました。迦迦村陀如来が臥せられた敷物は、金剛を床とし、種々の具足を備えていました。その時、天帝釈は清らかな心をもって、全身を投げ打ちて師子座に礼拝し、心に自ら念じました。「ここは如来がお座りになった場所である。」と。如来を敬い重んずる心をもって、地より起ち上がると、殿の壁に偈句の頌が書かれているのを見ました。その文の頌にはこうありました。

「『若人投崖巖，或有不失命。墮放逸地者，無有不受苦。若人行放逸，一切有所作，如是於晝夜，終無有樂報。世間出世間，一切諸樂法，放逸能破壞，是故應捨離。不放逸不死，放逸是死句；不放逸最勝，當為諸天主。放逸生死本，謹慎是勝道，是故捨放逸，常得受天樂。若人欲求樂，若怖畏諸苦，應捨放逸行，放逸如火毒。放逸睡覆人，放逸癡毒害，作諸不善業，放逸墜坑陷。不放逸最勝，放逸為不善；不放逸得樂，放逸常受苦。總說此偈句，為苦樂根本，既知此功德，善修自利益。』

> 「たとえ人が崖から身を投げても、命を落とさないことがある。 しかし放逸に陥った者は、誰一人として苦しみを免れない。 もし人が放逸に生きるならば、その行いのすべては、 昼も夜も、ついには楽しい報いをもたらさない。 世の中のものであれ、世を超えたものであれ、 あらゆる楽しい法を、放逸は打ち壊してしまう。 だからこそ、放逸を捨て去るべきである。 不放逸は死なず、放逸は死の言葉である。 不放逸は最も優れ、天の主となるべきものである。 放逸は生死の根本であり、慎重さは勝れた道である。 それゆえ放逸を捨てれば、常に天の楽を受ける。 もし人が楽を求め、苦しみを恐れるなら、 放逸の行いを捨てるべきである。放逸は火や毒のようなものだ。 放逸は眠りで人を覆い、放逸の毒は人を害し、 多くの不善の業を作り、放逸は穴に落ち込ませる。 不放逸が最も優れ、放逸は善くない。 不放逸は楽を得、放逸は常に苦しむ。 この偈の句は、総じて苦と楽の根本を説いている。 この功徳を知ったならば、よく自らの利益を修めなさい。」

「爾時，帝釋讀誦此偈，增長恭敬，以清淨心復以頭面禮師子座，久於此處讚不放逸、毀呰放逸，還出此殿向諸天眾。時諸天眾見天王帝釋皆生恭敬，至帝釋所。時天帝釋以向偈頌，為諸天眾具足演說，告諸天曰：『如是偈句，為欲利益安樂一切諸天子故，書之殿壁。』一切天眾聞是說已，皆禮世尊，作如是言：『如來世尊世間之眼，為我等故說如是偈。』時諸天眾久不放逸，復以種種伎樂之音，與諸天眾往詣微細行天。微細行天聞是事已，與諸天女種種伎樂，出妙音聲來詣此林，欲與此林諸天子等共相娛樂。微細行天既至此林，此林諸天還失正念，入於放逸，種種伎樂歌舞戲笑，向微細行諸天大眾。既相見已，皆生歡喜，於園林中寶樹、寶枝彌覆園林，互相娛樂。乃至愛善業盡，從天命終，隨業流轉，墮於地獄、餓鬼、畜生。若有閉於三惡道門，還生人中安樂國土，園林流池皆悉具足，常行善業，大富饒財，或為國王或為大臣，為一切人之所愛敬，常樂布施，護持禁戒，樂作善業。以餘業故。

> その時、帝釈天はこの偈を読誦し、ますます恭敬の心を深め、心を清らかにして師子座にひたいをつけて礼拝し、長くこの座において不放逸を讃え、放逸を非難した。そしてこの殿を出て、諸々の天の大衆のもとへ向かった。諸天の大衆は、天王帝釈天が皆、恭敬の心を起こしているのを見て、帝釈天のもとへ集まった。その時、天帝釈天は先ほどの偈を、諸天の大衆のために詳細に説き聞かせて、こう告げた。「この偈文は、全ての諸天子たちに利益と安楽をもたらすために、殿の壁に書き記したものである。」これを聞いた一切の天の大衆は、皆、世尊に礼をして、こう言った。「如来・世尊は世の中の眼であり、我々のためにこの偈を説いてくださいました。」その時、諸天の大衆は長らく不放逸の状態にあったが、さらに様々な伎楽の音を奏でながら、共に微細行天へと向かった。微細行天はこのことを聞き、諸天女たちと共に様々な伎楽で妙なる音声を奏でながらこの林にやって来て、この林の諸天子たちと共に楽しもうとした。微細行天がこの林に到着すると、この林の諸天たちは再び正念を失い、放逸に陥り、様々な伎楽や歌舞・戯笑をもって、やって来た微細行天の大衆を出迎えた。互いに見合って皆が歓喜し、園林の中にある宝樹や宝の枝が園林を覆い、互いに楽しみ合った。そして、愛する善業が尽きると、天命を終え、業に従って流転し、地獄・餓鬼・畜生に堕ちた。もし三悪道の門を閉ざすことができれば、人間界に生まれ変わり、安楽な国土を得て、園林や流れる池も全て具わっており、常に善業を行い、大いなる富と財宝を有し、あるいは国王となり、あるいは大臣となり、全ての人々に敬愛され、常に布施を喜び、戒律を護り、善業を作すことを楽しむ。これは残余の業によるものである。

「復次，比丘知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：有地處第二十二，名威德輪。眾生何業生於彼天？彼以聞慧見：諸眾生修行善法常不放逸，以利益心利益眾生，信於業果，近善知識，不殺生、不偷盜。若尸賒婆樹、若菴羅樹、若棗、若榛種種林樹，於此樹上有諸鳥巢，巢中有子。若鳥、若蛇取諸鳥子，其人見之，以慈悲心利益眾生，救令得脫。云何不盜？於他林樹乃至不取一枝一葉，亦不教他。若行道路見地遺果，不取不盜，見人取者勸令捨離。云何行善而修布施？於降雨時以食施僧，若飢饉世、若疾病人以食施之。自持禁戒，令他住戒，見住戒者教他隨喜，為他眾生說業果報。念佛法僧而行布施，若施父母、若優婆塞，或無禁戒病患之人，以飲食湯藥所須之具施此諸人，亦教他人，說業果報。不近惡友，不與同住，不共言說。常能善攝身口意業，自利利他。是人命終生於善道三十三天威德輪地。生此天已，以善業故，其身光明如月盛滿。其地莊嚴甚可愛樂，七寶園林充滿其地。種種流泉，諸蓮華池種種蓮華，毘琉璃莖，黃金為葉遍覆池水。種種金石以為崖岸。旋轉洄澓猶如舞戲，種種眾鳥出妙音聲令心悅豫。真金山峯、毘琉璃峯莊嚴其地。鵝鴨鴛鴦出眾妙音，天子天女歡喜遊戲遶蓮華池。其河流注出妙音聲，復有眾寶蓮華之林，種種光明、種種眾蜂以為莊嚴。天子天女觀蓮華池，以種種寶莊嚴其身。光明輪天，久時受樂。復往詣於彌難多林遊戲受樂，種種樂音互相娛樂。至彼林中有蓮華林，名箜篌遊戲，其蓮華林縱廣正等五百由旬，上味色香美味之飲充滿其中，諸天飲之，歌舞戲笑共相娛樂。

> さらに、比丘は業の報いを理解し、三十三天の住む地を観察する。彼は聞慧によって見る。そこに第二十二の地があり、威徳輪と名づけられる。どのような業によって、衆生はその天に生まれるのか。彼は聞慧によって見る。諸々の衆生は善法を修行し、常に放逸ではなく、利益の心をもって衆生を利益し、業とその報いを信じ、善知識に親しくし、殺生をせず、偷盗をしない。もし尸賖婆樹（シシャバの木）や、アンラ樹（アンラの木）、棗（なつめ）、榛（はしばみ）などの様々な林の木々がある。これらの木の上に、鳥の巣があり、巣の中には雛がいる。もし鳥や蛇が、それらの鳥の卵や雛を取ろうとするのを、その人が見て、慈悲の心で衆生を利益し、救って逃がしてやる。どのようにして盗みをしないのか。他人の林の木からは、たとえ一本の枝や一枚の葉であっても取らず、また他人にも取らせない。もし道を歩いていて、地に落ちている果実を見ても、取らず、盗まず、人が取ろうとするのを見れば、勧めてそれをやめさせる。どのように善を行い、布施を修めるのか。雨が降る時には、食べ物を僧侶に施し、飢饉の時や、病気の人には食べ物を施す。自らは禁戒を保ち、他人を戒めに住まわせ、戒めに住む人を見れば、他人にも随喜するよう勧め、他の衆生のために業とその報いを説く。仏・法・僧を念じながら布施を行い、あるいは父母に施し、あるいは優婆塞（在家の信者）に施し、あるいは禁戒のない病人などに、飲食や薬湯、必要な物を施し、また他人にも教え、業と報いを説く。悪い友に近づかず、同じ場所に住まず、共に語り合わない。常に身・口・意の三つの業（行い）をよく善く保ち、自らを利し他を利する。その人は命終わった後、善道である三十三天の威徳輪の地に生まれる。この天に生まれると、善業のゆえに、その身体の光明は満月のように盛んである。その地の荘厳は、まことに愛しい。七宝の園林がその地に満ちている。様々な流れる泉、様々な蓮華の池には種々の蓮華があり、毘瑠璃（琉璃）の茎、黄金の葉が池の水一面を覆っている。様々な金石が崖岸となっている。水は渦を巻きながら、まるで舞い戯れるようであり、様々な鳥たちが妙なる音声を発して心を喜ばせる。真金の山の峰、毘瑠璃の峰がその地を荘厳している。鴨や鴛鴦（おしどり）は素晴らしい音声を発し、天子や天女は喜び楽しみながら蓮華の池の周りを遊戯する。その川の流れは妙なる音声を発し、また、衆宝の蓮華の林があり、様々な光明、様々な蜂によって荘厳されている。天子と天女は蓮華の池を観賞し、様々な宝でその身を荘厳している。光明輪の天は、長い間、楽しみを受ける。さらに彌難多林（ミナダの林）に赴き、遊戯して楽しみを受け、様々な楽の音で互いに楽しみ合う。その林に至ると、蓮華の林があり、箜篌（くご、楽器）の遊戯と名づけられる。その蓮華の林は縦横が等しく五百由旬あり、上等の味・色・香り・美味の飲み物がその中に満ちている。諸天はそれを飲み、歌舞・遊戯・笑いをもって互いに楽しみ合う。

「時有天鳥名曰正行，見諸天子行於放逸而說頌曰：

> その時、正行という名の天鳥がいて、天の者たちが放逸に行動しているのを見て、次のように詩を唱えた。

「『無恥無慚愧，懈怠惡知識，是地獄種子，智者所捨離。無恥無慚愧，常作不善行，如人墜高巖，後時乃自覺。貪癡無誠信，其心無怖畏，為嫉妬所迷，不得生天中。飲酒虛妄語，心堅著貪欲，不信業果報，是地獄因緣。守護心過惡，瞋恚之惡業，眾生惡業故，墮於三惡道。心勇造惡業，常為欲所使，常行於妄語，其人無樂報。若人毀犯戒，如偽寶雲母，其人惡業故，墮於三惡道。若人住惡心，其闇無有邊，若人歸三寶，如夜大光明。愚夫行放逸，如醉癡自欺，二放逸所惑，輪轉於地獄。一切諸世間，有出必歸滅，如生則有死，畢竟不相離。放逸自圍遶，境界海增長，愛鎖之所縛，遊戲於天中。諸天初生時，樂生念念滅，放逸自覆心，不知無常轉。放逸自迷惑，常樂於境界，因欲無厭足，常受諸苦惱。無有念念時，須臾不自在，是愛使眾生，受於天中樂。愛地甚暴惡，無量雜覺觀，遊戲於愛地，為欲之所使。譬如地獄火，焚燒諸罪人，愛火亦如是，焚燒一切天。飢渴火熾然，焚燒諸餓鬼，畜生相殘害，人中追求苦。愛火周遍起，一切皆圍遶，火燒常熾然，世間莫能覺。』

> 恥を知らず、慚じる心もなく、怠け者で悪友に従う。 これこそが地獄の種であり、賢者はこれを捨て離れる。 恥を知らず、慚じる心もなく、常に悪い行いを積む。 それは人が高い崖から落ちて、後になってようやく気づくようなもの。 貪り・愚かさ・誠実さの欠如、その心には何の怖れもない。 嫉妬に惑わされて、天界に生まれることはできない。 酒を飲み、虚偽の言葉を語り、心は貪欲に固く執着し、 因果応報の教えを信じない。これが地獄に落ちる因縁となる。 心の悪しき過ちを守り（実は守らず）、怒りの悪業を積む。 衆生が悪業をなすゆえに、三悪道（地獄・餓鬼・畜生）に堕ちる。 心を奮い立たせて悪業を造り、常に欲望のままに動かされ、 常に虚偽の言葉を語る。その人には幸せな報いはない。 もし人が戒律を破るならば、それは偽りの宝（雲母）のようなもの。 その人の悪業によって、三悪道に堕ちる。 もし人が悪意に留まるならば、その闇は限りがない。 しかし、もし人が三宝（仏・法・僧）に帰依するならば、それは夜の大いなる光のようだ。 愚かな者は放逸（だらしなさ）に走り、酔った愚か者のように自らを欺く。 二つの放逸（心の緩みと行動の乱れ）に惑わされて、地獄を輪廻し続ける。 この世のすべてのものは、生じたものは必ず滅びる。 生まれたからには死があるように、両者は決して離れない。 放逸に自らを囲まれ、欲望の海はますます広がる。 愛の鎖に縛られて、天界で遊戯にふける。 天人が初めて生まれる時、楽は一瞬ごとに消え去る。 放逸が心を覆い隠して、無常の移り変わりに気づかない。 放逸に自ら惑わされ、常に欲望の対象に夢中になり、 欲求に限りがないゆえに、常に苦しみを受ける。 一瞬たりとも、ほんのわずかな時も自由ではない。 この愛が衆生を動かし、天界の楽を受けさせる。 愛という世界は非常に荒々しく、無数の雑多な思考が渦巻く。 愛の世界で遊戯にふけり、欲望に動かされる。 例えば地獄の火が罪人を焼き尽くすように、 愛の火もまた、すべての天人を焼き尽くす。 飢えと渇きの火が激しく燃え、餓鬼たちを焼く。 畜生は互いに傷つけ合い、人間の世界では苦しみを追い求める。 愛の火は至るところで燃え上がり、すべてを包み込む。 その火は常に激しく燃え続けるが、世の中の者はそれに気づかない。

「如是天鳥為諸放逸諸天子等說是偈已，若諸天子已於先世行善業者，聞此法音，少離放逸，不飲天酒，遠離色香味觸上妙五欲放逸之樂。復入園林伎樂自娛，隨心所念受種種樂。青毘琉璃車𤦲寶峯，於園林中流泉河水、眾蓮華池以為莊嚴，種種色蜂遊集其中。其蓮華林，毘琉璃葉，頗梨為莖，多有眾蜂不可喻說，百千天女與諸天子遊戲受樂。以善業故，種種境界、天女愛河之所㵱沒，未曾覺悟。如是遊戲共相娛樂，乃至愛善業盡，從天命終，隨業流轉，墮於地獄、餓鬼、畜生。若生人中，生安樂處，大富饒財，其心廣大，樂修正法常愛智慧，愛樂沙門及婆羅門，壽命延長。以餘業故。

> このような天の鳥は、遊びにふける天子たちにこの偈を説き終えると、もし先の世で善行を積んだ天子たちは、この法の声を聞いて、少しばかり放逸を離れ、天の酒を飲まず、色・香・味・触・法の優れた五欲の放逸の楽しみから遠ざかる。そして再び園林に入り、妓楽で自らを楽しませ、心のままに様々な楽しみを受ける。青く美しい琉璃や車渠の宝の峰々があり、園林の中には流れる泉や川の水、多くの蓮華の池が飾りとなり、様々な色の蜂が集まって飛び交っている。その蓮華の林は、琉璃の葉、玻璃の茎を持ち、多くの蜂は言葉に尽くせないほどで、百千の天女たちが天子たちと共に遊び楽しんでいる。善業のゆえに、様々な境地や天女の愛の河に溺れ流されながらも、未だ悟ることがない。このように遊び楽しみ共に戯れ、ついには善業が尽きるまで続け、天の命が終わると、業に従って流転し、地獄・餓鬼・畜生に堕ちる。もし人間に生まれれば、安楽な場所に生まれ、大いに富み財宝に恵まれ、心は広大で、正法を修めることを喜び、常に智慧を愛し、沙門や婆羅門を敬い愛し、寿命が長く延びる。これは余業の故である。

「復次，比丘知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：二十三地處名曰月行。眾生何業生於彼處？彼聞知見：若有眾生以清淨心修行善業，善修其心，造佛形像或為供養，洗佛形像令除塵垢，揩拭刷磨。或見金銀為如來像，見之歡喜，思惟愛仰福田功德，思心功德，自熏其心而行善業，心生喜悅，不殺不盜。云何不殺？如是之人乃至不念斷眾生命，亦不教他，見人作者不生隨喜，勸令不作，令住善道，自利利人。復有不殺：不生殺念，乃至床褥臥具有濕生蟲，不起心想欲害其命，於微細命乃至蟻子不起殺意，是名不殺生。云何不盜？如是善人修行善業不知厭足，於一切處不行偷盜，乃至草木泥土，自既不取亦不教他。設有大熱，不奪他蔭，不令他人住於日中，自受蔭處。自有勢力亦不奪他，不教他人，見他作者勸令不作，乃至蔭涼亦不偷盜，微細之事皆不偷盜。是名不盜。如是之人命終之後生於天中月行之地。生彼天已，以善業故，得樂果報。光明普照猶如和合十月並照，如是天眾身相光明，清淨無垢亦復如是。天子既生，一切天眾百倍轉勝，其身光明冷暖調適，一切餘天見之愛樂。其光勝於餘天之光，其光普照滿十由旬，勝餘一切珍寶之光，以善業故。如是天子無量眷屬以為圍遶，作眾伎樂，詣於園林遊戲之處，林名五樂，第一勝妙，於三十三天最為殊特。其樹威德，樹有善果、眾鳥勝慧、鉢頭摩伽華、華池流水，空中香風來吹寶鈴，出於無量微妙音聲。是時天子與諸天眾作眾伎樂，與諸天女種種莊嚴，詣五樂林種種伎樂遊戲受樂。天女歌頌五樂之音，受第一樂。以於福田作善業故，得此勝香，其香普熏滿五由旬。其果處空猶如眾星。其樹莊嚴，天中最勝，明如日光，其光不熱亦復無冷。其果色香眾味具足，其香勝於一切香氣，熏五由旬。如星處空，果中常流種種香飲，諸天飲之離於醉亂，種種香味隨心所念皆悉得之。受如是等功德之種。

> また、比丘は業の因果を知り、三十三天の住む地を観察する。彼は聞慧によって見る。第二十三の地は「月行」と名づけられる。どのような業によって衆生はそこに生まれるのか。彼は聞いて知る。もし衆生が清らかな心で善業を修行し、善くその心を修め、仏の形像を作り、あるいは供養のために仏の形像を洗い、塵や垢を取り除き、拭き磨くならば。あるいは金銀で作られた如来の像を見て、それを見て喜び、その福田の功徳を思い慕い、心の功徳を思い、自らの心を善く熏じながら善業を行い、心に喜悦を生じ、殺さず盗まない。 どのようにして殺さないのか。そのような人は、たとえ心の中でさえも衆生の命を絶つことを思わず、また他人に教えることもなく、人が行うのを見ても喜ばず、行わないように勧めて善道に留まらせ、自らを利し人を利する。また別の不殺がある。殺すという念を起こさず、床や敷物に湿生の虫がいても、その命を害そうとする心を起こさず、微細な命、蟻に至るまでも殺意を起こさない。これを不殺生という。 どのようにして盗まないのか。そのような善人は善業を修行して飽くことを知らず、あらゆる場所で盗みを行わない。草や木、泥土に至るまで、自ら取らず、また他人に教えることもない。たとえ大変な暑さがあっても、他人の木陰を奪わず、他人を日の下に立たせて自分が木陰にいるようなことをしない。自らに力があっても他人から奪わず、他人に教えることもなく、他人が行うのを見ては行わないように勧め、木陰のような微細なことまでも盗まず、細かなことですら盗まない。これを不盗という。 このような人は命を終えた後、天の月行の地に生まれる。その天に生まれてから、善業のゆえに楽しい果報を得る。その光明はあまねく照らし、ちょうど十の月が合わさって同時に照らすかのようであり、天の衆の身の相の光明は清らかで無垢であり、また同じである。天子が生まれると、すべての天の衆は百倍も勝り、その身の光明は冷暖が調和し、他のすべての天人はそれを見て愛着する。その光は他の天人の光よりも勝り、その光はあまねく十由旬を満たし、他のすべての宝の光よりも勝っている。善業のゆえである。 このような天子は無量の眷属に囲まれ、様々な伎楽を作し、園林の遊戯の場所へ赴く。その林は「五楽」と名づけられ、第一の優れたものであり、三十三天の中でも最も殊勝である。その樹は威徳を持ち、樹には善い果実があり、多くの鳥は優れた智慧を持ち、鉢頭摩伽の華があり、華池には水が流れ、空から香風が吹き、宝の鈴を鳴らして無量の微細な音声を発する。この時、天子は多くの天の衆と共に様々な伎楽を作し、多くの天女と共に種々に荘厳し、五楽の林に赴いて種々の伎楽で遊戯して楽しむ。天女は五楽の音を歌い、第一の楽を受ける。 福田において善業を作ったゆえに、この勝れた香りを得る。その香りはあまねく五由旬を薫す。その果実は空にあって、多くの星のようである。その樹は荘厳であり、天の中で最も勝れ、光は日光のように明るく、その光は熱くもなく冷たくもない。その果実の色、香り、味はすべて具わり、その香りはすべての香りより勝れ、五由旬を薫す。星が空にあるように、果実の中から常に種々の香りの飲み物が流れ出る。天人はそれを飲んで、酔いや乱れから離れ、種々の味が心に念ずるままにすべて得られる。このような功徳の種を受けるのである。

「時有天鳥名教放逸，為於放逸諸天子等而說頌曰：

> ある時、教放逸（きょうほういつ）という名の天の鳥がいて、怠け心にふける天人たちに向けて、次のような詩を語った。

「『善業將盡，空過壽命，當速修法，莫行放逸。少壯易過，命亦如是，眾具將失，莫行放逸。天非常法，非常具足，及時未壞，當修福德。善業和合，心念守護，未見有處，而無過患。若常亂心，行於非法，是樂虛妄，去已不還。持戒貿樂，生於天中，若不護戒，臨終悔恨。故應持戒，守護莫犯，愚人離戒，不能昇天。若於天中，受五欲樂，持戒清淨，故得大果。諸天著欲，放逸癡毒，不覺無常，壞其身命。無量百千，那由他天，皆為放逸，欲火所燒。一切眾生，放逸所盲，後受衰惱，乃知其過。心常攀緣，而無暫住，愚不覺知，後為大惡。心樂欲境，不覺憂惱，衰禍既至，乃生悔恨。結使煩惱，從憶念生，心王結使，常行隨逐。隨心馳騁，在在所住，常為惛醉，流三界海。若知真諦，見世間法，無常苦空，永離憂惱。為色所使，常求諸欲，是人後生，永無天樂。此珊瑚林，眾寶莊嚴，種種枝條，蓮華嚴飾。種種流水，諸河莊嚴，業因所得，遍於虛空。劫火既起，燒滅須彌，況此天身，猶如水沫，生已復滅，放逸自欺。』

> 「善い行いの果報は尽き、寿命は空しく過ぎ去る。だからこそ速やかに修行しなさい。油断してはならない。 若さはすぐに過ぎ去る。命も同じである。様々な恵みも失われていく。油断してはならない。 天の世界も永遠ではない。そこでの幸福も永遠ではない。 まだ壊れていないうちに、善い行いによる福徳を積みなさい。 善い行いを積み、心をしっかりと守りなさい。どこを見ても、悩みのない場所など存在しないのだから。 心が乱れ、道理に反した行いをすれば、その楽しみは偽りのものに過ぎず、去っては二度と戻らない。 戒律を守って本当の安らぎを得るのである。天界に生まれても、戒律を守らなければ、死ぬ間際に後悔する。 だから戒律を守り、破らないようにしなさい。愚かな人は戒律を離れ、天に生まれることができない。 もし天界で五つの欲望の楽しみを受けられるなら、それは戒律を清らかに守った大きな成果である。 天人は欲望に執着し、油断という毒に惑わされ、全ては無常であると気づかず、自らの命を潰えてしまう。 数え切れないほどの天人が、油断という欲望の火に焼かれてしまう。 全ての生きとし生けるものは、油断に目をくらまされ、後で衰えや苦しみを受けて初めて、その過ちに気づくのだ。 心は常に何かにとらわれ、一瞬もとどまることはない。愚か者はそれに気づかず、後に大きな過ちを犯す。 心は欲望の対象に夢中で、憂いや苦しみに気づかない。衰えや災いが訪れて初めて、後悔の念が生まれる。 煩悩という束縛は、過去の記憶から生じる。心という王と煩悩は常に連れ立って行動する。 心が赴くままに、どこまでも駆け巡り、いつも昏睡状態のように酔い痴れて、迷いの世界という広い海を渡り続ける。 もし真実の教えを理解し、この世の全てが無常であり、苦しみであり、実体がないことを見極めれば、憂いや悩みから永遠に解放される。 しかし、目に見えるものに惑わされ、常に欲望を追い求める者は、来世において天の楽しみを永遠に失うのだ。 この珊瑚の林は、様々な宝で飾られ、様々な枝葉や蓮の花で彩られている。 様々な流れる水や川が飾り、善い行いの結果として、虚空にはこれらが満ちている。 しかし、世界の火災が起きれば、須弥山さえも焼き尽くす。ましてやこの天人の身体は、まるで水の泡のようであり、生まれては消え去る。 油断は自らを欺くことなのだ。」

「爾時，諸天子若於先世集眾善業，聞此天鳥說法之音，則能解悟。『如鳥所說，必當無常。』少時憶念，離於放逸，復為境界色香味觸之所誑惑，悉忘法音猶如隔世，所應作業、不應作業皆悉忘失。現受欲樂，不觀未來，不念天鳥說法之音。現觀五欲遊戲受樂，不念地獄、餓鬼、畜生受大苦惱，不念天身甚為難得，不念無始苦惱輪轉地獄、餓鬼、畜生。諸苦堅䩕難可調伏，唯除天子第一勝心久習善根。

> 当時、天子たちの中でも、前世において多くの善行を積んできた者は、この天の鳥が説く法の音を聞いて、その意味を悟ることができました。そして「鳥が告げる通り、すべては必ず無常である」と理解し、しばらくの間はその教えを心に留めて、放逸な生活から離れるのでした。しかし、再び美しい色や香り、味わい、触り心地といった五欲の境界に惑わされると、法の音をすべて忘れてしまい、あたかも前世の出来事のように遠くに感じられます。そして、なすべきこととなすべきでないことの区別もすべて忘れ、目の前の欲の楽しみだけに浸り、未来を顧みず、天の鳥が説いた法の音も思い出そうとしません。 ただ目の前の五欲の遊びに耽って楽しみ、地獄や餓鬼、畜生の世界で受ける大きな苦しみを思い起こすこともなく、天の身を得ることが非常に難しいことにも気づかず、また無始の昔から地獄・餓鬼・畜生と苦しみながら輪廻し続けてきたことも顧みません。それらの苦しみは非常に固く、容易には調伏できません。ただ、第一級の勝れた心を持ち、長い間善根を積んできた天子だけは、そのような迷いに陥ることなく、法の教えを忘れずにいることができるのです。

「復次，比丘觀此天鳥以何等業，說於清淨無垢如實之法，教於放逸諸天子等？彼聞知見：若有於人中時，作放逸行，若遊戲人、若大力士、若諸伎兒，身著袈裟遊戲歌舞，頌佛功德而得財物。既得財物，若衣若食布施沙門、婆羅門或自食用。以著袈裟因緣力故，身壞命終生於天上受飛鳥身，受第一樂，以彼業故。復次，諸天歌舞戲笑娛樂受樂，毘琉璃樹，黃金為葉，頗梨為枝，四周彌布。復有寶樹，種種珊瑚寶樹嚴飾，百千眾蜂以為莊嚴，黃金真珠以為樹枝。復有山峯，七寶焰輪以為莊嚴。復有蓮華——黃金蓮華、頗梨蓮華、毘琉璃華，於此華中遊戲受樂。復有異天寶殿樓閣，諸天於此與諸天女遊戲受樂，離於嫉妬及諸恐怖，心相愛樂互相渴仰，受第一樂。復與天眾遊戲歌舞入如意林，既入此林，隨心所念一切皆得。以是因緣，名如意樹。久於此林受天樂已，復往詣於須彌金峯，其山峯中河池流泉以為莊嚴，與諸天女歌舞戲笑作天伎樂，出妙音聲，聞之悅樂，目視種種上妙之色而受快樂。以自業化，諸天女眾以為圍遶，於須彌山無量種種蓮華之池皆悉見之。復有種種園林蓮華，其香殊妙聞之悅樂。復有第一上妙之觸，若身觸之猶如觸於迦旃隣提迦旃隣提，海中之鳥，觸之大樂，有輪王出此鳥則現，無量離垢清淨光明善妙之香。若有見之，甚可愛樂。遊戲如是山峯之中，若心生念，一切皆得無量功德皆悉具足，自在受用，他不能奪，清淨無垢，於此地中受天快樂，遊戲娛樂受種種樂。其身光明，無量天女以為圍遶，受天五欲。乃至愛善業盡，命終還退，隨業流轉，墮於地獄、餓鬼、畜生。若生人中，從生至終常受快樂，色貌第一，或為王者或為大臣，所生國土常有善法、正見眾生之所住處而於中生，離惡知識。以餘業故。

> さらに、比丘よ、この天界の鳥たちはどのような業によって、清らかで汚れのない真実の法を説き、修行に怠惰な天の者たちを教え導くのか、観察しなさい。彼らは次のように知り、見る。すなわち、もし人が人間の世界にいた時、放逸な行いをし、遊び人や力自慢の者、芸能者などが、袈裟を身にまとって遊戯し、歌舞し、仏の功徳を称えて財物を得たとする。そうして得た財物で、衣や食を沙門や婆羅門に布施したり、自ら飲食したりする。その袈裟をまとった因縁の力によって、命終えて天に生まれ、飛鳥の身を受けて至上の楽を受ける。これがその業によるものである。 また、天の者たちは歌舞や笑い戯れて楽しみ、毘琉璃の樹（瑠璃の木）は黄金の葉を持ち、水晶の枝を広げている。四方に満ち渡っている。さらに宝の樹々があり、様々な珊瑚の宝樹が飾り立て、百千の蜜蜂が飾りとなり、黄金や真珠が枝となっている。また、七宝の炎の輪が飾る山の峰がある。黄金の蓮華、水晶の蓮華、瑠璃の蓮華があり、その中で遊び楽しむ。さらに、別の天の宝殿や楼閣があり、天の者たちは天女と共に遊戯し楽しみ、嫉妬や恐怖から離れ、互いに心から愛し合い、慕い合い、至上の楽を受ける。 そして、天の衆と共に遊戯し歌舞して如意林に入る。この林に入れば、心に念じるままに、すべてが得られる。この因縁によって、如意樹と呼ばれる。長くこの林で天の楽を受けた後、さらに須弥山の金の峰へと向かう。その山の峰には、河や池、流れる泉が飾りとなり、多くの天女と共に歌舞し笑い戯れ、天の音楽を奏でる。その妙なる音声を聞けば心は楽しみ、様々な素晴らしい色を目にしながら楽しみを受ける。自らの業によって、無数の天女たちに囲まれ、須弥山にある無数の様々な蓮華の池をすべて見る。さらに、様々な園林や蓮華があり、その香りは殊に優れて、聞けば心は喜び楽しむ。また、至上の触れる感触があり、身に触れれば、あたかも迦旃隣提（海の鳥で、触れると大いなる楽をもたらす。転輪王が現れると、この鳥も現れる）に触れるかのようである。 汚れのない清らかな光と、善く妙なる香りがある。もしそれを見れば、大いに愛し楽しむ。そのようにして山の峰の中で遊戯し、心に念じれば、すべてが得られ、無量の功徳がすべて備わる。自在に享受し、他者に奪われることなく、清らかで汚れがない。この地において天の楽を受け、遊戯し楽しみ、様々な楽を受ける。その身は光り輝き、無量の天女たちに囲まれて、天の五欲を受ける。 やがて愛しい善業が尽きれば、命終えて退き、業に従って流転し、地獄・餓鬼・畜生に堕ちる。もし人間に生まれれば、生まれてから死ぬまで常に楽しみを受け、その容姿は第一であり、あるいは王となり、あるいは大臣となる。生まれる国には常に善法があり、正見の衆生の住むところに生まれ、悪い知識（悪友）から離れる。これは残った業によるものである。

「復次，比丘知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：有地處第二十四地，名閻摩娑羅。眾生何業而生彼天？彼聞知見：若有眾生奉持禁戒，以正見心利益眾生，正身口意。若邊險地、若曠野中，若人沒溺墮於大河，救令得脫。若於曠野，渴乏所逼，施以漿水。若於險道迷失道徑，示以正路不求報恩。利益眾生，救護眾生，施其壽命。云何不殺生、不偷盜？或於此人若復餘人行於善業。不殺眾生：若於所住房舍之中生諸眾生——若胎生濕生、若麁若細——壞人資具，或在樑間數墮人上，令人不安，以慈悲心而不殺害。蝦蟆毒蟲，種種毒螫，雖被中害，不斷其命。是名不殺生。云何不盜？幾種不盜？如是善人行於曠野，其力自在，賈客之水及於黑鹽，有力能取而不偷盜，自守渴乏。若彼賈客以水施之，然後乃飲。若彼不施，貿以飲之，善觀微細業之果報，受行佛法、念佛功德以修其心。於須臾頃不近惡友，不與言說，不同道行。以何因緣不與同行？一切善業近惡知識則為妨礙，是故不得與之共語、去來同住。何以故？惡知識者，是貪瞋癡之所住處，有智之人應當捨之猶如毒樹。其人清淨如鍊真金，身壞命終生於閻摩娑羅之地。善業之人生彼天已，一切善人敬重供養，決定業行，受於樂果。其身光明如人之數日日增長。何以故？諸天之中無日夜故，此天身光如是增長。餘天見之，於天女前皆生慚愧。勝餘一切異地諸天，諸天見已，皆往詣於釋迦天王問此因緣，白言：『天王！閻摩娑羅有一天子，初始出生光明勝於一切天眾。』

> また、比丘（びく）は業の報いを知り、三十三天（さんじゅうさんてん）の住む地を観察する。彼は聞慧（もんえ）によって見る。そこに第二十四の地があり、閻摩娑羅（えんまさら）という。どのような業によって、衆生はその天に生まれるのか。彼は聞いて知る。 もしある衆生が戒律を守り、正しい見解をもって衆生を利益し、身・口・意を正しくする。もし辺境の危険な地や、荒野の中で、人が大河に落ちて溺れそうになっているなら、助けて救い出す。もし荒野で、渇きに苦しんでいる者には、水や飲み物を与える。もし険しい道で道に迷った者には、正しい道を示し、恩返しを求めない。衆生を利益し、衆生を救い、その命を助ける。 どうして殺生せず、盗みをしないのか。あるいはこの人や、別の人が善行を行う。命あるものを殺さない。もし住む家の中に、様々な生き物が生まれることがある。胎生（たいしょう）や湿生（しっしょう）、粗いものや細かいもので、道具や物を壊したり、梁の間から人に落ちてきて、人を不安にさせることがあっても、慈悲の心で殺さない。ヒキガエルや毒虫、様々な毒を持つ生き物に噛まれても、その命を断たない。これを不殺生（ふせっしょう）という。 どうして盗まないのか。どのような盗みをしないのか。このような善人が荒野を歩くとき、自分の力は自由に使える。商人の水や黒い塩など、それらを取る力はあるが、盗まず、自ら渇きに耐える。もしその商人が水を与えたなら、それから飲む。もし与えなければ、何かと交換して飲む。微細な業の報いをよく観察し、仏法を受け行い、仏の功徳を思い、心を修める。しばらくの間も悪友に近づかず、話をせず、同じ道を歩まない。 なぜ同じ道を歩まないのか。すべての善い行いは、悪い知識（悪友）に近づくと妨げられるからである。それゆえ、共に語り、行き来したり、同じ場所に住んではならない。なぜか。悪い知識とは、貪り・怒り・愚かさの住まうところであり、智慧ある者は毒の木のように捨てるべきである。 その人は清らかで、精錬された金のようなものである。身が壊れ命が終わると、閻摩娑羅の地に生まれる。善業を持つ人がその天に生まれると、すべての善人は敬い、供養し、定まった業の行いによって楽の果報を受ける。その身の光は、人の数が日々増えるように、日々増大する。なぜか。天には昼夜がないからであり、この天の人の身の光はこのように増大する。他の天の人はこれを見て、天女の前でみな恥じ入る。他のすべての異なる地の天の衆より勝れている。 他の天の人はこれを見て、みな帝釈天（たいしゃくてん）の王のもとに行き、この理由を尋ねて言う。「天王よ、閻摩娑羅に一人の天子が生まれました。その光は、他のすべての天の衆よりも勝っています。」

「時天帝釋聞是語已，而說頌曰：

> その時、帝釈天はこの言葉を聞いて、讃歌を唱えました。

「『天子之光明，從於持戒生，須彌金光輪，十六不及一。身常出光明，猶如融金聚，光明善和合，智者造業故。以上中下業，三種持戒故，得果亦如是，有上中下報。持戒離放逸，增長無放逸，常得受安樂，諸法皆如是。若持戒清淨，今得光明身，和合千日光，所照莫能及。若有勝丈夫，受持七種戒，其人得善果，先佛之所說。若人造善業，不失樂果報，不作則無果，作業終不失。癡人不樂因，但喜樂果報，無因果難求，如沙不出油。若人修行善，遠離於嫉妬；不善愚癡人，常行於瞋恚。』

> 「天子の光明は、戒律を守ることから生まれる。 須弥山のような金色の光の輪も、その十六分の一にも及ばない。 身から常に光を放ち、それは溶けた金の塊のように輝く。 その光は美しく調和している。賢者が善い行いを積んだからだ。 上・中・下の三種の戒律を守ることによって、 得られる果報もまた、上・中・下の三段階となる。 戒律を守れば放逸を離れ、努め励む心が育つ。 常に安らぎと喜びを得る。すべての教えはこの通りである。 もし戒律を清らかに保てば、今この身に光を宿す。 千の太陽の光を合わせたとしても、その輝きには敵わない。 もし優れた人が、七つの戒律を守り続ければ、 その人は善い果報を得る。これは先の仏方が説いたことである。 もし人が善い行いを積めば、楽しい果報を失うことはない。 行わなければ結果はなく、行いは決して無駄にならない。 愚かな人は原因を喜ばず、結果ばかりを求める。 原因なくして結果は得られない。砂から油が絞れないように。 もし人が善を行い、嫉妬を遠ざけるならば、 不善で愚かな人は、常に怒りの心に動かされる。』

「爾時，天帝釋說於如是善業果報，教於放逸諸天子等；時諸天子聞是語已，頂受奉行，還至閻摩娑羅之地。至其住處，天子天女遊戲娛樂伎樂音聲，受天之樂。此天地處，二娑羅樹於三十三天諸園林中，此樹最勝。其量色相光明華果最為殊勝，鈴網彌覆樹葉之音如五樂聲，天聞其音皆來向樹遊戲受樂。諸天既至，昇娑羅樹，於其樹上有蓮華池，其蓮花池名曰歡喜。蓮華池中多有鵝鴨鴛鴦，出眾妙音以為莊嚴，無量蓮華八功德水蓮花莊嚴，諸天見之歎未曾有：『除此二樹，未有如是蓮華浴池。此娑羅樹唯除波利耶多拘毘陀羅樹，餘無及者。』說是語已。天子天女遊戲歌舞受五欲樂，久於此處受天之樂。復往詣於常遊戲林，首冠華鬘，服於種種異色之衣，其身流出種種光明，說少分喻。譬如夏日電光之色，三種具足：一者青光；二者黃光；三者赤光。遊戲之處，諸天子等，受五欲樂，如山濬水湧波之力，受種種樂。

> その時、帝釈天はこうした善行の報いについて詳しく説き、遊びにふける天子たちを教え導きました。天子たちはこの教えを聞き、心から敬い受け入れ、それぞれの住まいである閻摩娑羅の地へと戻って行きました。 そこに着くと、天子や天女たちは遊びや舞踊、音楽に興じ、天界の楽しみを満喫しました。この天の地にある二本の娑羅樹は、三十三天のすべての林の中でも最も優れています。その大きさ、色や輝き、光、花、果実のすべてが特別に見事で、鈴の網が枝を覆い、葉のそよぐ音は五つの楽器の奏でる音のよう。天の人々はその音を聞いて、この樹のもとに集まり、楽しみながら遊びました。 天の人々が集まると、彼らは娑羅樹に登りました。その樹の上には「歓喜」という名の蓮華の池がありました。その池には数多くの雁や鴨、鴛鴦がいて、美しい声を響かせて飾り立て、無数の蓮華と八つの功徳を備えた水が満ちていました。天の人々はこの光景を見て、「この二本の樹の他に、こんなに素晴らしい蓮華の浴池は見たことがない。この娑羅樹は、波利耶多樹や拘毘陀羅樹を除けば、他に比べるものがない」と感嘆しました。 こう語り終えると、天子と天女たちは遊び、舞い、歌い、五つの欲の楽しみを享受しました。彼らは長い間この場所で天の楽しみを味わった後、さらに常遊戲林へと向かいました。そこでは頭に花の冠をかぶり、様々な色の衣をまとい、その身からは様々な光を放っていました。これを例えるなら、夏の日の稲光のようで、三種の光——青、黄、赤——を帯びていました。 この遊びの場所で、天子たちは山から勢いよく流れ落ちる水の力のように、様々な五欲の楽しみを受けました。

「爾時，天帝釋與善法殿一切天眾遊戲，出於善法堂殿，與諸天女作眾伎樂，出妙音聲，向閻摩娑羅所住之地。時閻摩娑羅一切天眾見帝釋來，皆出奉迎，合掌頂禮。釋迦天王、善法堂天、閻摩娑羅天皆共和合，共相娛樂歌舞戲笑，往詣雙樹。至此樹下，一切天眾圍遶此樹，飲於摩偷天之上味。時釋迦天王告諸天曰：『汝見如是閻摩娑羅樹，一切天中，唯除波利耶多俱鞞陀羅樹，餘一切樹無與等者。』諸天白言：『唯然，已見。』帝釋告言：『汝等諸天，未知如是閻摩娑羅樹之功德，唯見其色，汝當觀此二樹勢力。』時天帝釋從殿而下，手執金剛擊此大樹，其門即開。於其樹中，無量園林華池流水蓮華莊嚴，摩尼山峯、白銀山峯、頗梨山峯、毘琉璃山峯，種種流水河池莊嚴。復見天華七寶蓮華池，百千眾蜂以為圍遶。復見園林，黃金白銀、毘琉璃寶、青寶王樹。復有眾鳥，七寶為翅，出無量種美妙音聲，諸天聞之，得未曾有，歡喜受樂。時天帝釋與諸天眾前後圍遶，入於閻摩娑羅樹中行列之殿，見行列殿種種寶柱七寶莊嚴，謂青寶王、毘琉璃寶、白銀眾寶、頗梨車𤦲莊嚴其柱。復有種種床褥繒敷綩綖莊嚴其床，其床四足，眾寶莊嚴，謂金剛寶、青寶頗梨、毘琉璃寶。復見樹內山峯之中，種種眾鳥無量音聲。時天帝釋告諸天眾：『汝等見此雙樹之內奇特事不？』諸天白言：『唯然，已見。』時天帝釋自觀天眾放逸著樂，將諸天眾入於示業果報之殿，其殿清淨猶如明鏡，其明普照。時天帝釋曉示諸天：『汝等當於寶殿壁上觀業果報，隨其因緣所作之業。若於福田施以財寶，信心奉施、隨心而施、以時而施，得如意報。隨其生處，則受果報，隨其所受種種果報皆悉見之。』時天帝釋復示天眾：『汝等天眾當觀如是持戒修行，於諸道中守護眾生猶如父母，如實不虛，如清淨地、如好珍寶、諸天種子。若人護此七種之戒，隨其生處天人之中，受持戒果。』時天帝釋復示諸天業鏡之影，告諸天曰：『汝等觀於一切業報。若有丈夫作諸善業，集於智慧正見之燈，能知如是上中下智，漏、無漏果。』時天帝釋復示天眾九種布施持戒之智：『於布施中有上中下，善道果報皆得成就。思修福田，功德具足九種具足。天子！若不決定施，不相應相，是名少果。復有少果，謂餓鬼神通，或有畜生受於樂果，是名下施。天子！汝等觀是業鏡之影，種種業果中布施果。不修思心，心不具足，功德財物亦不具足。施好福田具功德者，得中果報，生於人中弗婆提國、瞿陀尼國。若處畜生——若阿修羅、若夜叉中，是名中果。』於鏡殿壁見如是相。時天帝釋復示天眾業之果報，告言：『天子！汝等當觀上中下業，不修思心，福田具足。云何名為不修思心而得果報？若有施主，以時而施，使人布施，心無深信；非身自施，見之不起，不恭敬禮；具足福田、具足財物，思不具足，決定布施。生於邊地無正法律、無禮儀處，或為王領或為臣佐，無有人禮。諸天子！汝當觀此業鏡之壁，悉皆得見。』時天帝釋如是示之。

> そのとき、天帝釈（たいていしゃく）は善法殿（ぜんぽうでん）のすべての天の衆（しゅう）とともに遊び戯れ、善法堂殿を出て、天女たちと様々な音楽や舞を奏で、美しい音声を響かせながら、閻摩娑羅（えんまさら）の住む地へと向かいました。そのとき、閻摩娑羅のすべての天の衆は、帝釈が来るのを見て、皆出迎え、合掌して礼をしました。釈迦天王、善法堂の天、閻摩娑羅の天は皆、和合し、共に楽しみ、歌舞や笑い戯れながら、双樹（そうじゅ）のもとへと向かいました。この樹の下に至ると、すべての天の衆がこの樹を囲み、摩偷（まとう）の天の味を飲みました。 そのとき、釈迦天王は諸天に告げました。「あなたたちは、この閻摩娑羅の樹を見なさい。すべての天界の中で、波利耶多倶鞞陀羅（はりやたくびんだら）の樹を除いては、これに並ぶ樹は何一つない。」諸天は申し上げました。「その通りです、すでに見ております。」帝釈は告げました。「あなたたち諸天は、まだこの閻摩娑羅の樹の功徳を知らず、その色ばかりを見ている。さあ、この二つの樹の力を観なさい。」 そこで天帝釈は殿から下り、手に金剛（こんごう）を持ってこの大樹を打つと、その門が開きました。その樹の中には、無量の園林や華やかな池、流れる水、蓮華が荘厳されていました。摩尼（まに）の山々、白銀の山々、頗梨（はり）の山々、毘瑠璃（びるり）の山々があり、様々な流水や河や池が荘厳していました。また、天の華や七宝の蓮華の池があり、百千もの蜂の群れがそれを囲んでいました。さらに園林があり、黄金、白銀、毘瑠璃宝、青宝王の樹がありました。また、様々な鳥がいて、七宝を翼とし、無量の美しい音声を発していました。諸天はこれを聞いて、かつてない感動を覚え、喜び楽しみました。 そのとき、天帝釈は諸天の衆を前後に従えて、閻摩娑羅の樹の中にある行列殿（ぎょうれつでん）に入りました。行列殿には様々な宝の柱があり、七宝で荘厳されていました。すなわち、青宝王、毘瑠璃宝、白銀の様々な宝、頗梨や車𤦲（しゃくや）がその柱を飾っていました。また、様々な寝床や敷物、絹の飾り、柔らかな敷物がその床を荘厳し、その床の四本の脚は、金剛宝、青宝、頗梨、毘瑠璃などの多くの宝で飾られていました。さらに、樹の中の山々の峯には、様々な鳥の無量の音声が聞こえました。 そのとき、天帝釈は諸天の衆に告げました。「あなたたちは、この双樹の中にあるこの奇特なものを見たか。」諸天は申し上げました。「その通りです、すでに見ております。」そのとき、天帝釈は、天の衆が放逸で楽しみに執着しているのを観察し、天の衆を率いて「業果報を示す殿」に入りました。その殿は清らかで明鏡のようであり、その明かりは全てを照らしました。そこで天帝釈は諸天に示して言いました。「あなたたちは、この宝殿の壁の上で、業（ごう）の因果応報を観なさい。因縁に従ってなされた業（わざ）を。もし福田（ふくでん）に対して財宝を施し、信心をもって施し、心のままに施し、時に応じて施せば、思いのままの報いを得る。生まれた場所に従って果報を受け、受ける様々な果報を、全てありのままに見ることができる。」 そのとき、天帝釈はさらに天の衆に示して言いました。「あなたたち天の衆は、このように戒を保ち修行し、あらゆる道において、父母のように衆生を守り、真実で虚偽なく、清らかな大地の如く、良き宝の如く、天の種（しゅ）となる者たちを観なさい。もし人がこの七種の戒を護れば、生まれる場所に従って、天人の中において、戒を保った果報を受ける。」 そのとき、天帝釈はさらに諸天に業の鏡の影を示し、告げて言いました。「あなたたちは、すべての因果応報を観なさい。もしある丈夫（じょうぶ）が、諸々の善業を作り、智慧と正見という灯明を集めれば、このような上・中・下の智慧、煩悩ある果と煩悩なき果を知ることができる。」 そのとき、天帝釈はさらに天の衆に、九種の布施と持戒の智慧を示しました。「布施には上・中・下があり、善道の果報はすべて成就する。福田を思い修行し、功徳を備えることが九種の具足となる。天子よ、もし心を定めずに施し、相応（そうおう）しない相であれば、これを少果（しょうか）と言う。また、少果とは、餓鬼の神通力を得ることであり、あるいは畜生が楽果を受けることもある。これを下施（げせ）と言う。天子よ、あなたたちはこの業の鏡の影を観なさい。様々な業果の中に布施の果がある。思い修める心を修めず、心が具足せず、功徳や財物も具足しないが、良い福田に対して功徳ある者に施せば、中位の果報を得る。すなわち、人間界の弗婆提（ふつばだい）国や瞿陀尼（くだに）国に生まれる。あるいは畜生、阿修羅、夜叉の中に生まれれば、これを中果（ちゅうか）と言う。」鏡殿の壁には、そのような相が現れていました。 そのとき、天帝釈はさらに天の衆に業の果報を示し、告げて言いました。「天子よ、あなたたちは上・中・下の業を観なさい。思い修める心は修めずとも、福田は具足しているものがある。どのようにして思い修める心を修めずに果報を得るのか。もし施主が、時に応じて施し、人に施させ、心に深い信はなく、自ら身を施さず、それを見ても立ち上がらず、敬って礼しない。しかし福田は具足し、財物は具足している。このように思い（思惟）は具足しないが、施しを決意して行う。そうすれば、辺地（へんち）で正しい法律や礼儀のない場所に生まれ、あるいは王領となり、あるいは臣佐となるが、人の礼を受けることはない。諸天子よ、あなたたちはこの業の鏡の壁を観なさい。すべてありのままに見ることができる。」と。天帝釈はこのように示しました。

## 正法念處經卷第三十

> 正法念処経 巻第三十