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title: "正法念處經 · 5"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第二十九

> 正法念処経 第二十九巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品第六之八三十三天之五

> 第六之八 観天品〈三十三天の五〉

「復次，比丘知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：第十七地名曰柔軟。眾生何業生彼天中？彼以聞慧見：持戒人不殺不盜，生此天中。云何不殺？有諸眾生為貪財利，恣足五欲，斷毒蛇命，取其寶珠，以自供命。持戒之人不為此事，是名不殺，亦教他人令行不殺，乃至蚊蟻微細眾生亦不故殺。云何不盜？不以盜心取人草土，乃至微細亦不故取，乃至他人所有書記，不以盜心書寫自用，是名不盜。云何布施？是持戒人貧窮乏財，以無貪心，減身資分，施初禪人衣服飲食、臥具醫藥、資生之具，或施一食，或於僧寺平治僧地，令僧去來安隱無難。如是自行布施，亦令他人安住善道，勸於他人令捨惡業。是持戒人不殺不盜，自利利他，以是因緣，命終生於三十三天。生此天已，受天快樂。其地皆以柔軟天繒以為敷具，遍覆其地，柔軟滑澤。若天行上，隨足上下，足躡則偃，舉足隨平。譬如大風吹水波起高下不定，風止則平，其地柔軟亦復如是。其地清淨猶如明鏡，若有工師、若工師弟子善能磨鏡，瑩拭明淨照顯眾像，若折一毛以為百分，於此鏡中皆悉了見。此天地中見諸天子一切身分亦復如是，如彼明鏡清淨無垢，其地清淨亦復如是。其地復生希有之事：若諸天女心有所念，欲令天子共其遊戲，天子即於所住地中，自見書字，即與天女遊戲受樂。其地復有希有之事：若天憶念一切所須，皆從地生。

> さらに、比丘よ、業の報いを知り、三十三天の住む地を観察せよ。彼は聞慧によって見る。第十七の地は「柔軟」と名づけられる。どのような衆生の業によって、その天に生まれるのか？彼は聞慧によって見る。戒を持つ人は、殺さず、盗まず、この天に生まれる。 どのように殺さないのか。ある衆生は財利を貪り、五欲に満足して、毒蛇の命を断ち、その宝珠を取って自分の命を養う。戒を持つ人は、このようなことをしない。これが不殺である。また、他の人々にも不殺を実践させ、蚊や蟻のような微細な衆生に至るまで、故意に殺すことはない。 どのように盗まないのか。盗みの心で、他人の草や土を取らない。微細なものでも故意に取らない。さらに、他人の記録や書物を、盗みの心で書き写して自分の用に供することもない。これが不盗である。 どのように布施するのか。この戒を持つ人は貧しく財に乏しいが、貪りの心なく、自らの身の分を減らして、初禅の人に衣服、飲食、寝具、医薬、生活に必要な物を施す。あるいは一食を施し、あるいは僧寺において僧の地を平らにならし、僧の往来が安らかで障りないようにする。このように自ら布施を行い、また他の人々を善道に安住させ、他の人々に悪業を捨てるよう勧める。この戒を持つ人は、殺さず、盗まず、自らを利し他を利する。この因縁によって、命終の後、三十三天に生まれる。 この天に生まれた後、天の楽しみを受ける。その地は全て、柔らかな天の絹をもって敷物とし、一面にその地を覆い、柔らかく滑らかで艶やかである。もし天人がその上を歩けば、足の上げ下げに従い、足を踏み下ろせば沈み、足を上げれば元のように平らになる。あたかも強い風が水に吹けば波が立ち高く低く定まらないが、風がやめば平らになるように、その地の柔らかさもまた同じである。 その地は清らかで、明鏡のようである。もし鏡師やその弟子が、巧みに鏡を磨き、磨き清めて明るく清め、様々な像を映し出すように、もし一本の毛を百分の一に折っても、この鏡の中ではすべて明らかに見える。この天の地にあっては、諸々の天子のすべての身体の部分もまた同じように見える。あたかもその明鏡が清らかで汚れがないように、その地の清らかさもまた同じである。 その地にはさらに希有のことがある。もし天女が心に念いを起こし、天子と共に遊戯したいと思えば、天子はその住む地の上に、自ら文字が書かれるのを見て、直ちに天女と共に遊戯し楽しみを受ける。その地にはさらに希有のことがある。もし天人が憶念し、一切の必要なものが思い浮かべば、すべて地から生じるのである。

「如是三十三天於柔軟地受天快樂，復往詣於遊戲之處。其遊戲處有大園林名摩偷迦，鈴網彌覆，無量寶樹以為莊嚴。於彼林中種種眾鳥、華果具足，五樂音聲遊戲受樂，五根境界受果報樂。於其地中復有林樹，名曰婆羅，若諸天眾入此林中遊戲之時，樹則變小，令諸天女取果不難。其林皆是七寶所成，光明晃曜如日初出，以為莊嚴，無量種色華果莊嚴。種種色鳥出妙音聲，以為莊嚴，如是眾鳥住於林中，出眾妙聲。於此林中受六欲樂，歌舞戲笑。捨此林已，復往詣於遊戲山峯，名曰高聚，往至彼峯與諸天女種種莊嚴歌舞戲笑。昇高聚峯，其峯周匝廣十由旬，其山峯上有大華池，名曰光明，以七寶華、拘牟陀華、俱迦那陀華、青優鉢羅華充滿池中。其水清淨，鵝鴨鴛鴦出眾妙音，甚可愛樂，天子天女圍遶華池歌舞戲笑，飲於天味，無有醉亂。六味之果，隨念食之，其汁香美，飲之無失，天子天女皆共飲之。復於異處有諸天女歌舞戲笑、鼓樂絃歌，簫笛箜篌種種樂器，與諸天子娛樂受樂，圍遶華池久受天樂。復有華池名一切意樂遊戲之處，天鬘莊嚴，栴檀塗身，散以末香，身出光明。

> その三十三天の者たちは、柔らかな大地の上で天界の歓楽を享受した後、遊びの場へと向かいます。その遊びの場には摩偷迦（マドゥカ）という大きな林があり、鈴の網がかけ渡され、無数の宝玉の樹々が飾り立てています。その林の中には、さまざまな鳥たちがいて、花や果実も豊かに実り、五つの楽音による遊びと歓楽、五つの感覚器官による報いの喜びを味わいます。その地には、さらに婆羅（バーラ）という林があります。天の衆がこの林に入って遊ぶ時、樹々は小さくなり、天女たちが果実を容易に摘めるようになります。この林はすべて七宝で作られ、朝日が昇るように輝き映えて、限りない色の花や果実で飾られています。様々な色の鳥たちが美しい声を響かせ、これら多くの鳥たちは林の中に留まり、素晴らしい声を奏でます。この林の中で、六つの欲望の楽しみを味わい、歌い、舞い、戯れます。この林を離れると、次に高聚（コウジュ）という名の遊びの山の頂に向かい、さまざまに飾り立てた天女たちと共に、歌い、舞い、戯れます。高聚の峰に登ると、その峰の周囲は十由旬（ゆじゅん）あり、峰の上には光明（コウミョウ）という大きな花の池があります。この池には七宝の花、クムダ花、クガナダ花、青いウトパラ花が満ちています。水は清らかで、ガチョウやアヒル、オシドリが美しい声を響かせ、実に愛らしいものです。天の王子たちと天女たちは、この花の池の周りを囲んで、歌い、舞い、戯れ、天界の味わいを飲みますが、酔い乱れることはありません。六つの味わいの果実を、思いのままに食べると、その汁は香り高く美しく、飲んでも過ちはありません。天の王子たちと天女たちは、皆でそれを味わいます。また別の場所では、様々な天女たちが歌い、舞い、戯れ、太鼓や弦楽器、笛や琴などの楽器で音楽を奏で、天の王子たちと共に楽しみ、花の池の周りで長く天界の歓楽に浸ります。さらに、一切意楽遊戯（いっさいいらくゆうげ）の場という名の花の池があり、天の花輪で飾られ、栴檀（せんだん）を身に塗り、粉末の香をまき、身体からは光が放たれています。

「以其自作上中下業因緣力故，隨心所樂，得三種報，生似業意。若人造作如是之業，得如是果——眼識緣色而生樂心。何以故？若作下業，於等色中見作下色，其人如是於一緣中見於下色。若作中業，則見中色，生中樂心。若作上業，則見無量種種妙色形相端嚴。如是一切聲香味觸亦復如是。目之所緣，欲界天中一切諸地皆亦如是，若不如是，三種之報則不成就。當知如是三種之業，得是妙色端正莊嚴、天女殊勝。此諸天眾於一切意樂園林之中遊戲受樂，貪著色聲香味觸等，不知厭足。

> その人が自ら行う上・中・下の業の因縁の力によって、心のままに三種の報いを受け、業に似た意が生まれます。人がこのような業を作れば、このような果報を得るのです——眼の認識は色に縁って楽しい心を生じます。なぜか。下の業を作れば、等しい色の中でも下の色として見ます。その人は一つの縁の中で下の色を見ます。中の業を作れば、中ほどの色を見て、中くらいの楽しい心を生じます。上の業を作れば、無量のさまざまな妙なる色、形や姿の端厳（たんごう）を見ます。これと同じように、すべての声・香り・味・触れもまた同様です。目が縁するもの、欲界の天の中のあらゆる地もまた皆このようであり、もしこのようでなければ、三種の報いは成就しません。知るべきです、このような三種の業が、この妙なる色、端正で荘厳な天女の勝れた姿を得させるのだと。これらの天の者たちは、すべての意楽の園林の中で遊び戯れて楽しみを受け、色・声・香り・味・触れなどに貪り執着し、飽き足ることを知りません。

「比丘觀已，而說頌曰：

> 比丘はこれを観じて、次のように詩句を唱えた。

「『劫盡日焰，大海乾竭，億百千劫，貪愛不滅。諸水雨等，海尚可滿；貪欲之海，愛色無厭。憶念諸樂，欲不可滿，若離憂愛，欲則止足。樂從欲生，智者不樂，離欲之樂，樂中最勝。雜愛之樂，如雜毒水；若離愛欲，如水乳合。欲燒癡人，盲冥無覺，如摩羅耶，山蟲食木。愛欲憶念，念不可數，念無厭足，死王所縛。不為欲使，不住愛境，是人樂器，如來所說。如夢所見，乾闥婆城，虛妄不堅。諸欲虛誑，生於海渚食醉七日如幻水沫、甄婆迦果。欲為衰惱，如火害人，若知欲過，不貪醉果，能見實諦，永離愛惱。諸欲如毒，未得思念，得之自惱。眾惡熾然，欲無厭足，退失天樂，墮於地獄，由欲所誑。欲如水波、如電如燈，女欲如毒，如魚洄漩。思惟增長，如火益薪，初後不安，智者所棄。若有習近，展轉增長，觸如火焰，欲受苦報。知此欲過，智人厭捨，離欲之人，得涅槃樂。無數千萬，那由他天，習欲墮落，受地獄苦。欲火刀毒，求樂應捨，常應捨欲，地獄之因。未見有人，不為欲使，無有習欲，不受苦惱。是故捨欲，莫生心念，一切諸欲，如火熾然。』

> 「劫の終わりの日、大海は干上がり、億百千劫が過ぎても、貪りの愛は消え去らない。 あらゆる雨が降り注いでも、海さえも満たされることがある。 しかし、貪欲の海は、美しいものを愛でて飽くことを知らない。 様々な楽しみを思い描いても、欲望は満たされることがない。 もし憂いや愛着を離れるならば、欲望はそこで止まり、満ち足りる。 楽しみは欲望から生まれる。賢者はそれを楽しみとしない。 欲望を離れた喜びこそ、喜びの中でも最も優れている。 雑多な愛着の楽しみは、毒を混ぜた水のようなもの。 もし愛欲を離れるならば、それは水と乳が混ざり合うかのようだ。 欲望は愚かな人を焼き、盲目で闇にいる者は気づかない。 それは摩羅耶山の虫が木を食べ尽くすようなもの。 愛欲の思い出や念いは、数えきれず、飽くことを知らず、死王に縛られたまま。 欲望に使われることなく、愛着の境地に留まらない人こそ、如来が説くところの楽器である。 夢に見るもの、乾闥婆の城のように、虚ろで頼りにならない。 様々な欲望は偽りであり、 <注>海の洲に生まれ、七日間酔って食べる</注> 幻や水の泡、甄婆迦の果実のようである。 欲望は衰えや悩みのもとであり、火が人を害するようである。 もし欲望の過ちを知るならば、酔わせる果実に貪らず、 真理を見ることができ、永く愛の悩みから離れる。 様々な欲望は毒のようであり、得られぬうちは思い、得れば自らを悩ませる。 あらゆる悪が燃え盛り、欲望に飽き足らず、天の楽しみを失い、 地獄に堕ちるのも、欲望に欺かれたからである。 欲望は水の波のよう、稲妻や灯火のようであり、女の欲望は毒のようで、魚の渦巻きのよう。 思い巡らせれば燃え上がり、火に薪をくべるようで、初めも後も安らかではなく、賢者は捨て去る。 もしそれに親しめば、次第に大きくなり、触れることは炎のようで、欲望は苦しみの報いを受ける。 この欲望の過ちを知れば、賢い人は嫌って捨てる。欲望を離れた人は、涅槃の楽しみを得る。 無数の千万、那由他の天人が、欲望に親しんで堕落し、地獄の苦しみを受ける。 欲望は火や刀や毒のようなもの。楽しみを求めるなら、それを捨てるべきである。 常に欲望を捨てるべきだ。それは地獄の原因なのだから。 まだ誰も、欲望に使われず、欲望に親しみながら、苦しみを受けない者を見たことがない。 それゆえ欲望を捨て、心に念いを起こしてはならない。あらゆる欲望は、火が燃え盛るように激しいのだ。」

「如是比丘觀諸天子為欲所使，說偈呵責。放逸諸天復詣一切意樂園林作眾伎樂，與諸天女種種莊嚴，入彼林中歌樂音聲，歡娛受樂。無量河池莊嚴園林，處處皆見種種妙色，如是眼根受於色欲。又隨憶念聞眾妙音、種種愛聲，鼻聞種種上妙愛香，舌得種種殊異之味，隨心所念皆悉得之。隨心所念，得種種觸，身心悅樂，隨意所念，樂法成就。如是天眾為愛所覆，放逸遊戲，如心所念，受五欲樂。乃至愛善業盡，命終還退，墮於地獄、餓鬼、畜生。若生人中，常受安樂，常愛華鬘塗香末香，大富饒財，直心善心，一切眾生之所樂見，信受其言，眾人所愛，妻子具足，善行禮義不失儀式，所有財物，王賊水火所不能奪，王所供養，生大種姓。以餘業故。

> このように、比丘は諸々の天子たちが欲望に駆られている様子を見て、偈（詩句）で彼らを戒めた。 遊びにふける天部の者たちは、再び「一切意楽園林」へと赴き、様々な音楽を奏で、天女たちと共に美しく飾り立ち、その林の中で歌声と楽の音を響かせ、楽しみ、喜びに浸った。 無数の池や川が園林を飾り、至る所に様々な素晴らしい色が広がっている。こうして眼という感覚器官は、色彩への欲に染まる。また、思いのままに、さまざまな妙なる音、愛しい声を聞き、鼻は様々な優れた愛おしい香りを嗅ぎ、舌は様々に特別な味を味わい、心の思いのままに、それらすべてを得るのである。心の思うままに、様々な感触を得て、身体も心も喜び楽しみ、意のままに楽しみの法が成就する。 このように、天の衆生は愛欲に覆われ、遊びにふけり、心の思うままに五つの欲望の楽しみを受ける。やがて善い行いの報いが尽きれば、命終わって退転し、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちる。 もし人間に生まれれば、常に安楽を受け、常に花飾りや塗香、抹香を愛好し、大変裕福で財産が多く、心は正直で善く、すべての衆生に喜ばれて見られ、その言葉は信じられ、人々に愛され、妻や子供も十分に揃い、礼儀をよく行い、わきまえを失わず、所有する財物は王も盗賊も水火も奪うことができず、王からも供養され、高貴な家柄に生まれる。これは、残った善い行いの業によるのである。

「復次，比丘知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：第十八地名雜莊嚴。眾生何業生於彼處？彼以聞慧見：持戒人不殺不盜，亦教他人令住善道。云何不殺不惱眾生？自不殺害，不教他殺，亦不隨喜；亦不親友殺生之人，乃至不與語言交接；不聽他人不淨之語，不同路行。復有不殺：有諸眾生或以歌音或琴樂音、箜篌簫笛誑諸禽獸，令墮網陷。此持戒人不作如是方便殺害，亦教他人令行不殺，見他作者，贖令得脫，心不念殺，是名不殺。云何不盜？或有眾生虛妄誑詐，商賈求財行於非法，種種偷盜。云何誑詐？或以碎沙雜餘財物，稱而賣之。見其為非，勸令不作，方便教言：『莫以妻子、自身財物、惡友因緣而作偷盜。若行偷盜，命終墮於地獄、餓鬼、畜生。偷盜果報，受大苦惱。』如是自不作惡，亦勸他人令離惡法。因緣既至，能捨不取，如是之人自利利人。云何布施？或入大海、過大曠野以求財物，或從他人傭力求財，布施貧窮苦惱之人，心生敬重、諸根悅豫而施與之。或以此物施二禪人，或施貧者，是名布施。云何不殺？若諸獵師羅網捕鳥，若人捕魚，其人見之，以物贖命，還令得脫。思惟歡喜，諸根悅豫，亦教他人令贖生命，心生隨喜：『我為善業，恒願修習。』亦令他人修行善業。如是善業——不殺不盜——自利利他。如是二種持戒利益自利利他，命終生於三十三天，種種廁填莊嚴之殿而於中生。

> また、比丘は業の因果を知り、三十三天の住む地を観察する。彼は聞慧によって見る。第十八の地を「雑荘厳」と名づける。どのような業によって、衆生はそこに生まれるのか。彼は聞慧によって見る。戒を保つ人は、殺さず、盗まず、また他人を教えて善道に留まらせる。 どのようにして殺さず、衆生を悩まさないのか。自ら殺害せず、他人に殺させず、また殺生を喜ばない。また、殺生をする人を親しくせず、言葉を交わすことさえしない。他人の不浄な言葉を聞かず、同じ道を歩まない。 また、殺さないことには別の形もある。ある衆生は、歌声や琴の音、箜篌や笛の音で鳥獣を欺き、網に落とす。この戒を保つ人は、そのような方便で殺害をせず、また他人にも殺さないよう教える。他人が殺生をするのを見れば、金を出して買い取り、逃がしてやる。心に殺生を念じない。これを不殺と名づける。 どのようにして盗まないのか。ある衆生は虚偽で人を欺き、商売で財を求め、非法を行い、様々な盗みをする。どのように欺くのか。砂を砕いて他の物に混ぜ、量って売る。その非を見て、行わないよう勧め、方便で教える。「妻や子、自身の財物、悪友の因縁によって盗みをしてはならない。もし盗みを行えば、命終わって地獄、餓鬼、畜生に堕ちる。盗みの果報は、大きな苦しみを受けることになる」と。このように自ら悪を行わず、また他人にも悪を離れるよう教える。因縁が至っても、それを捨てて取らない。このような人は自らを利し、人を利する。 どのように布施をするのか。あるいは海に入り、広大な荒野を越えて財物を求め、あるいは他人に雇われて力を売り財を得て、貧しく苦しむ人に布施をする。心に敬重を生じ、諸根を喜ばせて施し与える。あるいはその物を二禅の人に施し、あるいは貧しい人に施す。これを布施と名づける。 どのようにして殺さないのか。もし猟師が網で鳥を捕らえ、あるいは人が魚を捕るのを、その人が見て、金を出して命を買い取り、逃がしてやる。思いを巡らせて喜び、諸根を喜ばせ、また他人にも命を贖うよう教え、心に随喜を生じる。「私は善業を為し、常に修習することを願う」と。また他人にも善業を修行させる。このような善業——不殺・不盜——は自らを利し、他を利する。このような二種の戒を保つ利益は自他を利し、命終わって三十三天に生まれ、種々の飾りで埋め尽くされた荘厳な殿舎の中に生まれるのである。

「善業之人生此天已，種種摩尼光明晃曜，廁填莊嚴。其身光明，種種色衣、種種天女，種種衣服莊嚴其身。住在其後，初生天子作如是念：『我以何業而生此處？』自念前生修善業故，來生此天，即自歎曰：『奇哉！善業我修行故，來生此處。』如是天子既思惟已，以善業故，初聞樂音，天女歌音遍一切處山峯宮殿，美音充滿，禽獸率舞。聞此歌音百倍受樂。初聞此音，心生樂著，是名第一生欲因緣。既著聲已，心復生念，欲是眾色，即時迴顧見諸天女無量色相不可譬喻，具足莊嚴。『是誰天女？誰之所攝？』心既念已，欲心即生。

> 善い行いをした人は、この天に生まれると、様々な宝玉の光が輝き、美しく飾り立てられています。その身は光を放ち、様々な色の衣、様々な天女、様々な衣服で身を飾っています。初めて生まれた天子は、こう思います。「私はどんな行いによって、ここに生まれたのだろうか？」過去世に善い行いを修めたから、この天に生まれてきたのだと気づき、自ら感嘆します。「ああ、素晴らしい！私が善い行いを修行したからこそ、ここに生まれてきたのだ。」このように天子が考えた後、善い行いの力によって、初めて音楽の音を聞きます。天女の歌声は、すべての山の峰や宮殿に満ち渡り、美しい音が溢れ、鳥や獣も踊り出します。この歌声を聞いて、百倍もの喜びを味わいます。この音を初めて聞いたとき、心に楽しみへの執着が生まれます。これが第一の生存への欲求因縁です。音に執着した後、心は再びこう思います。「欲とは、多くの色（形）である。」すぐに振り返って、天女たちの無数の姿を見ます。それは譬えようもなく、完璧に飾られています。「あの天女たちは誰なのか？誰に属しているのか？」そう心に思うと、欲の心がすぐに生まれます。

「是時，天女而說頌曰：

> そのとき、天女が次のように歌いました。

「『種種欲因緣，我最為第一，我今奉天子，遊戲種種樂。』

> 「さまざまな欲望の原因となるもののうち、私は最も優れています。今、私は天子に仕え、様々な楽しみの中で遊び戱れましょう。」

「爾時，天子既聞歌音，又見美色，即時迴身至天女邊，欲受觸樂，是名第二生欲因緣。復有第三生欲因緣，心使諸根貪於境界，心緣自在。天子欲心觸諸天女，天女以身亦觸天子，是名第三生欲因緣。復有第四生欲因緣：無量無等香熏之氣不可譬喻，天子觀之從何所來？即知此香從天女生。便以欲心抱持天女，嗅無等香，是名第四生欲因緣。於四境界，心愛染樂。時諸天女以種種飲食須陀之味供養天子，是名第五生欲因緣。如是不可譬喻生欲因緣、五欲境界，初著天樂。

> その時、天子は歌声を聞き、また美しい姿を目にすると、すぐに身をひるがえして天女のそばに寄り、触れ合う快楽を受けようとした。これを第二の欲望が生まれる因縁という。 さらに、第三の欲望が生まれる因縁がある。心が諸々の感覚器官を働かせ、外界の対象に執着し、心のままにふるまうことである。天子の欲望の心が天女たちに触れると、天女たちもまたその身をもって天子に触れる。これを第三の欲望が生まれる因縁という。 さらに、第四の欲望が生まれる因縁がある。計り知れず、比べるもののない香りの気配が漂い、例えようもない。天子がこれを観じて「この香りはどこから来たのか」と知ると、この香りが天女から生じたものであると悟る。そこで欲望の心をもって天女を抱きしめ、比類なき香りを嗅ぐ。これを第四の欲望が生まれる因縁という。 この四つの対象（境界）において、心は愛着と染まりの楽しみを味わう。 その時、天女たちは様々な食物や甘露の味をもって天子を供養した。これを第五の欲望が生まれる因縁という。 このように、例えようもなく欲望が生まれる因縁、五つの欲望の対象によって、初めて天の楽しみに耽るのである。

「如是天子受天樂報，初生之時憶念宿命，以著欲樂，皆悉忘失。復以欲心往詣天女，天女亦來向天子所，歌舞戲笑互相娛樂至天子所，調戲愛語歡娛受樂。復往向於園林華池，天女身著種種莊嚴，復與天子往一切觀意樂園林、一切見林，一切地天遊戲之處。其林諸樹意念具足，無量莊嚴。金樹銀葉，赤寶為枝，頗梨為果，色香味具，有如是等無量諸樹莊嚴園林。復有異林以為莊嚴，毘琉璃樹，真金為枝，赤寶為葉，白銀為果，車𤦲莊嚴。復有異樹於一肘量，一寶莊嚴，所謂金銀赤寶、毘琉璃寶、車𤦲莊嚴。復有樹枝一肘之量，一寶所成，華果具足，天華莊嚴。其華種種色香具足，其香周遍滿六由旬，種種色蜂飲諸華汁。是一切見意樂之林，如是諸樹以為莊嚴，種種白業受斯果報。復以蓮華而為莊嚴，毘琉璃莖，真金為葉，赤寶為鬚，青因陀蜂以為莊嚴，其音美妙，天眾聞之生大歡喜。其林復有行列莊嚴，種種色林以為行列——青黃朱紫，如閻浮提觀於電光。其林如是行列莊嚴，河津華池莊嚴林園。如是功德具足之林，天子見之，心大歡喜，與諸天女至彼林中。餘天見之，知初生天子欲來我所，皆起往迎，互相慰問，美言稱讚，娛樂受樂妓樂之音，遊戲種種蓮華林中，久於一切見林受五欲樂。復捨此林，往詣樂行遊戲之處，其遊戲處種種欄楯以為圍遶，長流美飲、七寶宮殿行列如林，真金為地，種種眾鳥出妙音聲，舞戲自娛。河池流水其音美妙，飲食河流色香味具，天子遊中受五欲樂，遊戲自娛。與諸天女種種莊嚴，受天善業，經於久時，以放逸故而不覺知。

> ある天人は天界の果報を享受していました。生まれた時には過去世の記憶がありましたが、欲望の楽しみに執着するうちにその記憶はすべて失われてしまいました。そして欲望の心をもって天女のもとへ赴けば、天女もまた天人のもとへやって来て、互いに歌舞や笑い、戯れをもって楽しみ合い、愛語を交わし、喜び戯れながら快楽を受けました。さらに園林や華池へと赴けば、天女たちは種々の装飾を身にまとい、天人と共にすべての観意楽園林や一切見林、地天が遊戯する場所へと向かいます。その林には、思いのままに実る樹木が無量の荘厳をもってそびえ、金の樹に銀の葉、赤宝の枝に頗梨の果実が実り、色と香りと味わいを備えて、無量の樹木が園林を荘厳しています。また異なる林には、毘瑠璃の樹に真金の枝、赤宝の葉、白銀の果実が車𤦲に飾られています。さらに別の樹木は、一肘の大きさに一つの宝が荘厳され、金銀や赤宝、毘瑠璃宝、車𤦲によって飾られています。また一肘の枝には一つの宝だけが使われ、花と果実が備わり、天の花が荘厳しています。その花々は様々な色と香りを備え、香りは六由旬にまで広がり、色とりどりの蜂が花の蜜を吸います。これこそ一切見意楽の林であり、かくの如き樹木が荘厳し、様々な善行（白業）がこの果報を生み出しています。さらに蓮華が荘厳し、毘瑠璃の茎に真金の葉、赤宝の蕊、青い因陀羅の蜂が美しい音色を奏で、天の衆はそれを聞いて大いに喜びます。その林には列をなした荘厳があり、青や黄、朱や紫など様々な色の林が、閻浮提で電光を見るかのように輝いています。このような林の列、河の渡し場、華池が園林を荘厳し、このように功徳を備えた林を目の当たりにした天人は心から喜び、天女たちと共にその林へと向かいます。他の天人たちは、新しく生まれた天人が我がもとに来ようとしていると知り、皆立ち上がって迎えに行き、互いに慰め合い、美しい言葉で称賛し、音楽の音に合わせて楽しみ、様々な蓮華の林の中で遊戯します。長い間、一切見林で五欲の楽しみを受け、さらにこの林を離れて、楽行遊戯の場所へと赴きます。その遊戯の場所は様々な欄楯に囲まれ、長く流れる美味しい飲み物、七宝の宮殿が林のように連なり、真金の地面の上で、様々な鳥が妙なる音声を発し、舞や戯れに興じています。河や池の流水が美しい音を立て、飲食の川には色と香りと味わいが備わり、天人たちはその中で五欲の楽しみを受け、遊戯に自らを楽しませます。天女たちと共に様々に装い飾り、天の善業を受けながら、長い時を経ても、放逸であるがゆえにそのことに気づくことはありません。

「如是天子受五欲樂，業盡還退，放逸覆心，不觀退沒，愛心所迷，欲火焚燒，心著欲樂而不覺知。若衰相現，怖畏成就，見無常變，決定必退，爾乃心覺。如是天子樂著放逸，乃至愛善業盡，命終還退，隨業流轉，墮於地獄、餓鬼、畜生。若有餘業生於人中，受第一樂，財寶具足，端直不諂，生於中國，識邪正行，知法非法，一切善人順法之處、知報恩處而於中生，為一切人之所樂見，一切長幼皆生愛敬，常無病惱，端正第一，大力無畏，安慰一切，妻子具足，所有財物，王賊水火不能侵奪。以餘業故。

> このように天人は五欲の楽しみを受けながらも、善業が尽きれば退転します。しかし放逸（心の緩み）に覆われて、退転していくことを観じようとしません。愛欲に心を迷わせられ、欲の火に焼かれながら、心はその楽しみに執着して気づくことがありません。衰えの相が現れ、恐れが成就し、無常の変化を見て、必ず退転することを悟った時、ようやく心が目覚めるのです。 このように天人は放逸に執着し、愛しい善業が尽きるまで、命終えて退転し、業に従って流転し、地獄・餓鬼・畜生に堕ちていきます。 もし残余の業があれば人間に生まれ、第一の楽しみを受け、財宝が満ち足り、正直でへつらわず、中国（中央の国）に生まれ、邪正の行いを識り、法と非法を知り、すべての善人が法に従う場所、恩に報いることを知る場所に生まれます。一切の人々に喜ばれて見られ、老若男女すべてから愛し敬われ、常に病や悩みがなく、端正で最もすぐれ、大力で怖れることなく、すべてを安らかに慰め、妻子が満ち足り、所有する財物は王・盗賊・水・火によっても奪われることがありません。残余の業によるのです。

「復次，比丘知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：三十三天第十九地名曰如意。眾生何業生於此地？彼以聞慧見：有眾生以正見心信業果報，堅住正見，其心質直不惱眾生，孝養父母，順法修行而不懈怠，恭敬三寶佛法眾僧，不殺不盜，不教他作亦不隨喜，見他作者，勸令不作。為諸眾生說於業果，令住善道，不殺不盜。若有眾生不持戒者，教令住戒，若人持戒，教令堅住。如是之人自利利他，命終之後生於善道三十三天。云何不殺生？若是眾生知他眾生，乃至蟣子蚊蟻之類，不故斷命，是名不殺。有諸眾生殺害瞿陀鼠𤜴兔等，安置罝羅罟網機陷，勸令不作。復有異人以惡方便作諸羂弶，張設羅網捕獵鳥獸，種種殺具網漉眾生令其斷命；是持戒人勸令放捨，是名不殺。令他眾生安住善道。云何不盜？乃至草葉不起盜心。見他偷盜，勸令不作。復有眾生行於非法：若於佛塔、若於精舍，以諸音樂供養佛塔，復有異人亦在其中歌舞自娛，或與女人歌舞戲笑而生歡喜。或於僧寺，若客作伎人，或鼓眾伎樂供養佛塔以自活命，作諸音樂，不令此人為他作樂，是名不偷盜。復有偷盜：或於婬女初許多直，後酬少價，是名偷盜。復有偷盜：若有酤酒，屠兒販賣，市買決價，不酬本直，是名偷盜。如是殺生偷盜，持戒之人悉捨不為，見作不喜，心亦不念。云何布施？貧窮少財能捨財物施三禪人，自忍飢苦，施與他人，慈悲心施如愛己子。云何持戒不殺眾生？若治屏廁殺害眾生，教令不作，施其水漿，還置穢處，令不害命，是名不殺。善業之人作此善業，命終生於三十三天。

> さらに、比丘よ、因果の道理を知り、三十三天の住む所を観察せよ。彼は聞慧によって見る。三十三天の第十九の地は如意と名づけられる。いかなる業によって衆生はこの地に生まれるのか。 彼は聞慧によって見る。ある衆生は正見の心をもって因果を信じ、正見に堅く住し、心は正直で衆生を悩ませず、父母に孝養し、法に従って修行して怠ることなく、三宝（仏・法・僧）を敬い、殺さず盗まず、他者にそれをさせず、またそれに随喜せず、他者が行うのを見れば勧めて行わせない。諸々の衆生に因果を説き、善道に住まわせ、不殺・不盗を教える。もし戒を保たない衆生がいれば、戒に住まわせ、もし戒を保つ者がいれば、さらに堅く住まわせる。このような人は自らを利し他を利し、命終の後、善道である三十三天に生まれる。 いかにして不殺生（生き物を殺さないこと）を実践するのか。もしある衆生が他の衆生（蟻や蚊のような小さな虫に至るまで）を故意に命を断つことをしない、これを不殺と名づける。ある衆生はネズミやウサギなどを殺し、罠や網を仕掛けるが、戒を保つ人はそれを勧めてやめさせる。また別の者は悪巧みで罠や網を張り、鳥獣を狩り、様々な殺生の道具で魚をすくい、生き物の命を断つ。この戒を保つ人は、それらの道具を捨てさせ、これを不殺と名づける。他者の衆生を善道に安住させるのである。 いかにして不盗（盗まないこと）を実践するのか。草や葉に至るまで盗みの心を起こさない。他者が盗むのを見れば、勧めてやめさせる。またある者は非法を行う。仏塔や精舎において音楽をもって仏塔を供養する。また別の者がその中で歌舞を楽しんだり、女と歌舞や笑い戯れながら喜んだりする。あるいは僧寺において、雇われた芸人が様々な楽器で仏塔を供養し、それを生業として音楽を作る。戒を保つ人は、このような人に他の人のために音楽を演奏させることをしない。これを不偷盗（盗みをしないこと）と名づける。 また別の盗みとして、遊女に対して初めは多くの代金を約束しながら、後には少ない代金しか払わないこと、これを盗みと名づける。また別の盗みとして、酒を売る者や屠殺人が品物を売買する際に、代金を決めながら代価を支払わないこと、これを盗みと名づける。 このような殺生や盗みを、戒を保つ人はすべて捨てて行わず、他者が行うのを見ても喜ばず、心にも思い浮かべない。 いかにして布施を行うのか。貧しくても財物を三禅の修行者に施し、自らは飢えや苦しみを耐え忍んで他人に施す。慈悲の心をもって、我が子を愛するように施すのである。 いかにして戒を保ち、生き物を殺さないのか。もし便所の掃除などで生き物を殺してしまうような場合でも、戒を保つ人はそうさせず、水をかけて別の場所に移し、命を奪わないようにする。これを不殺と名づける。 善業を行う人は、このような善業をなして、命終の後、三十三天に生まれるのである。

「善業之人生彼天上受五欲樂，天伎樂音、種種天女以為圍遶，受無比樂。今為此天說少分喻，如金輪王所受之樂比於天樂，十六分中不及其一。所受天身無有骨肉亦無垢污，不生嫉妬，其目不眴，衣無塵垢、無有煙霧，亦無大小便利之患。其身光明，轉輪聖王都無此事。於己妻子，不偏攝受，離於嫉妬，飲食自在，無有睡眠亦無疲極，轉輪聖王都無此事。以是因緣，轉輪王樂十六分中不及其一，故以人中說少分喻，如是次第受五欲樂。

> 善行を積んだ人が天に生まれると、五つの欲望の楽しみを受けます。天の楽器の音や、様々な天女たちに囲まれて、比べるもののない至福を味わうのです。今、この天人のために、少しだけ例えを挙げましょう。金輪王が受ける楽しみを天の楽しみと比べても、その十六分の一にも及びません。天人の身体には骨も肉もなく、汚れもありません。嫉妬を生じることもなく、その目はまばたきをしません。衣服には塵や汚れがなく、煙や霧もありません。また、大小便のわずらわしさもありません。その身体は光り輝いており、転輪聖王にはこのようなことは全くありません。自分の妻や子に対しても偏った執着をせず、嫉妬から離れています。飲食は自在で、睡眠もなく、疲れ果てることもありません。転輪聖王にはこのようなことは全くありません。このような理由により、転輪王の楽しみは十六分の一にも及ばないのです。ですから、人間の世界で少しだけ例えを挙げて、このように順を追って五つの欲望の楽しみを受けることを説いたのです。

「有一園林，名迦毘羅，長十由旬，廣五由旬，一切皆以金鳥莊嚴。無量眾鳥遍身眾寶，以為莊嚴，妙花光明莊嚴園林，七寶為樹。林有眾鳥光明殊勝，如人著於種種莊嚴轉增勝妙，種種色鳥莊嚴天樹亦復如是。復有天子於此林中，以種種華遊戲娛樂。其華皆以毘琉璃寶以為莖葉及以華鬚，赤蓮華寶以為華臺，其花香氣滿十由旬，勝一切華，天聞此香十倍增樂。復與天女於迦毘羅向飲食河，隨念即至。高大之殿種種欄楯，樓閣門戶種種寶鈴、種種寶鬘、真珠羅網以覆其上，種種寶幢懸眾寶幡，金銀頗梨赤寶莊嚴。種種諸柱，或有鵝鳥或有鳩鴿、或命命鳥或有鴻鴈以為莊嚴，有如是等種種眾鳥莊嚴其殿。天眾昇殿，以善業故，與諸天女向迦毘羅大林詣飲食處，到已即下，食天甘饌。食訖遊戲，於園林中種種樂音遊戲受樂，經於多時，心著樂故，不覺長遠。復往詣於一切見林，昇於高峯欲見眾林，共餘天眾還昇化殿。種種歌舞、種種戲笑互相娛樂，同心受樂。既至一切見林住於峯上，見須彌山王一面，多有園林以為莊嚴，其花光色如融金聚，光明騰焰。種種河泉流池濟處，美飲之河、種種食河，無量天女種種莊嚴以為圍遶。其須彌山持諸世間，處於六萬眾山之中，六萬眾山以為圍遶，高峻廣大，天、龍、夜叉、阿修羅、甄那羅之所住處，善業諸天之所依止，種種善業果報所得。四寶成就一一住處，種種眾色以為莊嚴，皆悉見之，互相歡娛，欲心放逸，種種美言共相調戲，上中下身遊戲行食。既見此已，而作是念：『非我獨受五欲之樂，亦復多有其餘諸天與諸天女遊戲受樂。』如是見於種種色香如意之樹莊嚴園林。

> 一つの園林があり、名を迦毘羅（カピラ）といいます。長さは十由旬、広さは五由旬。そのすべてが金の鳥で飾られています。無数の鳥たちの全身には様々な宝がついていて、それが飾りとなっています。妙なる花の光明が園林を飾り、七宝を並べた木々が立ち並んでいます。 林の中の鳥たちの光明はひときわ勝れており、あたかも人が様々な飾りをつけて、ますます美しくなるかのようです。様々な色の鳥たちが、天の木を飾っている様子もまた同じです。 さらに、この林の中には天子たちがいて、様々な花で遊び楽しんでいます。その花はみな、毘琉璃（ビルリ）の宝を茎や葉、そして花の芯としています。赤い蓮華の宝が花の台座で、その花の香りは十由旬に満ち、すべての花に勝っています。天の人々はこの香りを嗅ぐと、十倍の喜びを覚えます。 また、天女たちと共に迦毘羅の飲食の川へ向かうと、思いのままにそこへ至ります。高い大殿には様々な欄干や、楼閣の門には様々な宝の鈴、様々な宝の花飾り、真珠の羅網がその上にかかっています。様々な宝の幢があり、多くの宝の幡が掲げられています。金、銀、玻璃（はり）、赤い宝で飾られています。 様々な柱があり、あるものは鵞鳥、あるものは鳩や鳩、あるいは命命鳥（めいめいちょう）、あるいは鴻雁などで飾られています。このような様々な鳥たちが、その殿を飾り立てています。 天の人々は殿に昇り、善業のため、天女たちと共に迦毘羅の大林へ向かい、飲食の場所へ赴きます。到着するとすぐに降りて、天の美味しい食べ物を頂きます。食事の後は遊戯し、園林の中で様々な楽器の音を奏でて楽しみます。 長い時間が過ぎ、楽しさに心を奪われていたため、遠くまで来たことに気づきません。さらに、すべてを見渡す林（一切見林）へ向かい、高い峰に登って様々な林を見渡そうとします。他の天の人々と共に、また化現した殿に昇ります。 様々な歌や踊り、様々な笑い声で互いに楽しみ合い、同じ心で楽しみを味わいます。やがて一切見林に着き、峰の上に立つと、須弥山王の一面が見えます。そこには多くの園林があり、飾り立てられています。その花の光の色は、溶けた金が集まったようで、光明が炎のように立ち上っています。 様々な川や泉、流れる水のある場所、美しい飲み物の川、様々な食べ物の川があり、無数の天女たちが様々な飾りをつけて周りを取り囲んでいます。 その須弥山は、すべての世の中を支えています。六万の衆山の中にあり、六万の衆山が周りを取り囲んでいます。高く険しく広大で、天、龍、夜叉、阿修羅、甄那羅（ケンナラ）の住むところであり、善業の天の人々がよりどころとするところです。様々な善業の果報によって得られたものです。 四種の宝でできた一つ一つの住まいは、様々な色を帯びて飾られており、すべてを見ることができます。互いに楽しみ合い、欲望の心にふけり、様々な美しい言葉で互いにからかい合い、身分の上下によって遊び、食べ物をいただきます。 これを見た天の人々は、こう思います。「私だけが五欲の楽しみを受けているのではない。他にも多くの天の人々が、天女たちと共に遊び楽しんでいるのだ」と。こうして、様々な色や香りの意のままになる木々に飾られた園林を見るのです。

「爾時，諸天復見餘地：一名高聚；二名大高聚。種種河流以為莊嚴，若其日月行此山頂，觀彼二山，於此日中見百千身，如羅睺阿脩羅手障日光，如前所說。爾時，天子復於空中徘徊旋轉觀於山王，與諸天女娛樂受樂，歌頌音聲住於宮殿，山王園林皆悉見之。還於自地，既至本宮，於園林中歌舞戲笑受種種樂，五欲自娛欲樂覆心，不覺長遠。復往詣於娑羅摩山，其山縱廣有五由旬，高十由旬，或乘宮殿或乘飛鳥而昇此山。種種寶柱以為莊嚴，種種河池七寶莊嚴，如意寶樹光焰騰赫，種種妓樂歡喜相娛，受自業果。以放逸故，經於多時，而不覺知，為樂所迷，不知厭足。復往詣於優鉢羅林，於此林中百千眾蜂以為圍遶，入於林中共食美飲，歌舞受樂而無厭足。復往詣於遊戲之處，名曰無垢，百百千千眾樂音聲共相娛樂而不厭足。諸天放逸受五欲樂，乃至愛善業盡，命終還退，墮於地獄、餓鬼、畜生。若有餘業，生於人中，顏色光澤主上貴重，第一富樂，聰慧明了。以餘業故。

> 時、諸天はさらに他の地を見た。その名を一つは高聚、二つは大高聚という。様々な川が流れて飾り立てられ、日月がこの山頂を巡ると、その二つの山を見て、この一日のうちに百千の姿を見る。それは羅睺阿修羅の手が日光を遮るのと同様であり、先に述べた通りである。時に天子は空中をぐるぐると旋回しながら山王を眺め、天女たちと共に楽しみ、歌や音楽を奏でて宮殿に住み、山王の園林を全て見渡した。また自分の地に戻り、自分の宮殿に着くと、園林で舞い歌い笑い戯れ、様々な楽しみを味わい、五欲に自ら溺れ、欲楽が心を覆い、時が長く経つのを感じなかった。さらに娑羅摩山へと向かった。この山は縦横五由旬、高さ十由旬あり、ある者は宮殿に乗り、ある者は飛鳥に乗ってこの山に登った。様々な宝の柱が飾り立て、様々な川や池が七宝で飾られ、如意宝樹は光を放ち輝き、様々な音楽が響き合い喜び楽しみ、自らの業の果報を受けていた。放逸のゆえに長い時が過ぎても気づかず、楽しみに迷い、満足することを知らなかった。さらに優鉢羅林へと向かった。この林には数百千の蜂が取り巻いており、林に入り共に美味しい飲み物を飲み、歌い舞い楽しんでも飽きることがなかった。さらに無垢という名の遊戯の場所へと向かった。そこでは数百千の音楽が響き合い、共に楽しんでも飽きることがなかった。諸天は放逸に五欲の楽しみを味わい、愛する善業が尽きるまでそれを続け、命終わると退転し、地獄・餓鬼・畜生に堕ちた。もし余った業があれば、人として生まれ、顔色は光り輝き、主上として重んじられ、第一の富と楽しみを得て、聡明で明らかな者となる。これは余った業のゆえである。

「復次，比丘知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：第二十地名微細行。眾生何業生於彼天？彼以聞慧見：此眾生修行善法，自利利人，不誑眾生、不惱眾生，質直修行而行善業得樂果報，作清涼業得清涼報，善業樂報，一切眾生之所供養，眾人所愛，現在未來安樂利益。若捨此身至未來世，所作善業猶如父母，為如實故，受無量樂。不殺不盜亦教他人令行不殺、不行偷盜。若復有人殺生偷盜，不共同止亦不親近、不共遊戲、不與同事，如是破戒行惡之人不與同住。親近持戒、行善之人，同其事業，遊戲受樂，互共思惟法以非法。此善業人自不作惡亦教他人令不作惡，如是之人遍修善業，令破戒者住於善道，示人正法令入正道，種於善業。其人心淨猶如鍊金，行於善業，現在未來安隱快樂。是名不殺。復有不殺：有諸眾生以邪見故，殺諸蛇蠍、百足蚊虻、蜥蜴之類，殺如是等，熏諸果樹，欲令園林華果繁茂。持戒之人則不如是，以護生命，種種果食疑有蟲者，終不故食。若水酪漿種種諸飲，不諦觀視，終不飲之。經宿之水，若不細觀，恐生細蟲，若不漉治，不飲不用。是名微細持不殺戒。云何不盜、不恣？復有幾種？若人思惟欲令種種稻穀麻麥、種種黍豆，我獨成就；令世間人五穀不登，獨我成熟。常作如是不善思惟，復於異時眾生薄福，田稼不收，如是惡人見世飢饉，心生歡喜：『如我所念。』於市肆賣，曲心巧偽，量諸穀麥誑惑於人，究竟成業。若心思惟，名為思業；若作誑時，名為誑業；作誑業已，名究竟業。如是眾過，捨離不作。持戒之人雖復貧窮，不為非法誑惑他人，見他作者，心不隨喜。若飢饉世，治生求利，如法販賣，不誑眾生，是名不盜。如是善人云何布施？善心善行，自利利他，自身貧窮勤苦得財，若從他人常乞財物，得已布施貧窮疾病、困乏之人。若學三禪、得三禪人從他求索，勤苦得已而行布施。是人布施三業成就：若心思惟，欲行布施，是名決定；若布施時，名之為業；若行施已，心復思惟，是名究竟。

> さらに、比丘は業の因果を悟り、三十三天の住む地を観察する。彼は聞慧によって、第二十の地を「微細行」と見る。どのような業によって、衆生はその天に生まれるのか。彼は聞慧によって、この衆生は善法を修行し、自らを利し他を利し、衆生を欺かず、悩ませず、質素で率直に修行し、善業を行って楽の果報を得、清涼の業をなして清涼の報いを受け、善業楽報は一切の衆生の供養するところとなり、多くの人に愛され、現在未来にわたり安楽で利益があると見る。もしこの身を捨てて未来世に至れば、なした善業は父母の如く、真実のためゆえに限りない楽を受ける。殺さず盗まず、また他人にも殺さず盗まないように教える。もし人が殺生や盗みを行っても、ともにその場に留まらず、親しくせず、共に遊ばず、同じ事業をしない。このように戒を破り悪を行う人とは共に住まない。戒を守り善を行う人に親しみ、その事業を共にし、遊び楽しみ、互いに法と非法を共に考える。この善業をなす人は自ら悪をなさず、また他人にも悪をなさせない。このように人は広く善業を修め、戒を破った者を善道に住まわせ、人に正しい法を示し正しい道に入らせ、善の種を植える。その人の心は清らかで、金を精錬するようであり、善業を行い、現在未来に安穏で楽しい。これを不殺という。また別の不殺がある。諸々の衆生は邪見のゆえに、蛇や蠍、百足、蚊、虻、蜥蜴などを殺し、このようなものを殺して果樹を燻し、林や園の花や果実を繁らせようとする。戒を守る人はそうではない。命を護るがゆえに、様々な果物や食べ物で虫がいると思われるものは、決して故意に食べない。もし水や乳、粥、様々な飲み物も、よく確かめずに決して飲まない。一晩置いた水も、細かく観察せず、小さな虫がいる恐れがあれば、漉さなければ飲まず使わない。これを微細な不殺戒を守ると言う。では不盗とは何か。放逸にしないとは。またいくつかの種類があるか。もし人が思い考えて、様々な稲、穀物、麻、麦、様々な黍や豆を、私だけが成功させようと欲する。世の人々の五穀が実らず、ただ私だけが成熟するように。常にこのような不善の思いをなす。また別の時に、衆生は福が薄く、田の作物は収穫できない。このような悪人は世が飢饉であるのを見て、心に喜びを生じる。「私の念じた通りだ」と。市場で売る時、心を曲げ偽り、穀物や麦を量って人を惑わし、ついに業を成す。もし心に思うなら、これを思業と言う。もし欺くことをなすなら、これを誑業と言う。欺くことをなし終えたなら、これを究竟業と言う。このような過ちを捨て離れ、なさない。戒を守る人は、たとえ貧しくとも、非法をもって他人を惑わさない。他の人がなすのを見ても、心から随喜しない。もし飢饉の世に、生活のために利益を求めるなら、法に従って売買し、衆生を欺かない。これを不盗と言う。このような善人はどのように布施するのか。善心善行、自利利他で、自ら貧しく勤め苦しんで財を得、あるいは他人から常に財物を乞い、得た後に貧しく病気で苦しむ人に布施する。もし三禅を学び、三禅を得た人が他人から求め、勤め苦しんで得た後に布施を行う。この人の布施は三業を成就する。もし心に思い、布施をしようと欲するなら、これを決定と言う。もし布施する時、これを業と言う。もし布施をなし終えた後、心に再び思うなら、これを究竟と言う。

「如是之人造作一千二百善業，命終之後生於善道微細地處。行善業人生彼天已，以作微細業因緣故，所得天身，隨其所念，巨細隨心。其地園林七寶為樹，第一清淨，自業成就。其七寶林長二十由旬，廣十由旬，河泉流水、園林具足，見者愛樂，清淨無垢猶如明鏡。其樹枝葉清淨無垢如融金色，金銀琉璃及餘種種雜色之樹以為園林。天子入林，於諸寶樹枝葉之中，皆悉自見身之色像。如一樹中自見其身，百千樹中自見其身亦復如是，一一天子身之色相，悉現眾樹。以善業故，得相似果。其樹復有奇特之事，隨其造作上中下業生此天中，隨其本作上中下業悉現樹中，根莖枝葉皆悉覩見。時天帝釋與諸天女華鬘莊嚴，其殿光明晃曜大明，勝於和合百日竝照。微細行天遙見帝釋，皆往出迎，到已恭敬頂禮帝釋，隨天帝釋還入林中受五欲樂。釋迦天王亦以美言慰問諸天：『行大善業！』其林眾鳥出美妙音，真金為樹莊嚴園林。

> このような人は、千二百の善き行いを積み、命終えた後には善き世界の微細な領域に生まれます。善行を積んだ人はその天に生まれると、微細な業の因縁によって、その心のままに、思いのままに巨大にも微細にもなれる天の身を得ます。その地には、七宝でできた木々が林となり、第一に清らかで、自らの業によって成就されています。その七宝の林は、長さ二十由旬、広さ十由旬あり、川や泉の流れる水、美しい園林を備え、見る者は皆愛しみ楽しみ、清らかで汚れがなく、鏡のように明らかです。その木々の枝葉は、清らかで汚れがなく、溶かした金の輝きのようであり、金、銀、瑠璃、その他様々な色の木々が園林を飾っています。 天人がその林に入ると、数々の宝の木々の枝葉の中に、みな自分の姿が映るのを見ます。一本の木に自分の身が映れば、百千の木にもまた同じように映り、一人一人の天子の姿や相が、すべての木に現れます。善業のゆえに、似たような果報を受けるのです。その木にはさらに不思議なことがあり、天人が上・中・下のどの業を積んでこの天に生まれたかに応じて、根、茎、枝、葉のすべてに、その元の行いがはっきりと映し出されて見えます。 その時、帝釈天は天女たちと共に花や飾りで身を飾り、その殿堂の輝きは大いなる光明を放ち、百の太陽が一体となって照らすよりも勝れていました。微細行天の者たちは、遠くから帝釈天を見ると、皆出迎えに参り、到着しては恭敬して帝釈天に礼拝し、天帝に従って再び林の中に入り、五つの欲望の楽しみを味わいます。釈迦天王もまた、慈しみの言葉で諸天に語りかけます。「大いなる善業を行いなさい！」と。その林では、様々な鳥が美しい声で鳴き、真金の木々が園林を飾り立てています。

「是時天王觀業報已，而說頌曰：

> その時、天の王は業の報いを見終えて、次のように詩句を述べられた。

「『善業得此果，種種業林證，雖無有言說，知以善業報。種種諸果報，處處受生死，或善或不善，故得如是報。若人修善業，當得生天中；若作不善業，墮於三惡道。樂行善不善，著欲癡所迷，不知當退沒，決定受死苦。今此善業報，以樹相而知，於欲不厭離，心為樂所迷。欲味放逸人，心常求境界，常為愛所惱，亦為愛所縛。欲共女人生，女人為甚惡，能生於熱惱，如火害眾生。如是欲熱惱，過於大猛火，女色大熱惱，焚燒眾生心。女人壞世間，令善皆盡滅，是地獄因緣，大仙如是說。口善說美言，其心如毒害，誑詐無暫停，女人心無實。須臾起愛心，須臾心不愛，其心不暫停，如電不久住。巧智虛誑人，心貪則親近，常思樂他人，懷慢情恣態。天人毘舍遮、羅剎龍夜叉，皆為女色縛，女人如惡毒。不念於恩惠，非種姓伎術，女人性如風，其心不停息。若見大財富，心則生愛樂，又見衰禍至，厭之而捨棄。若有人親近，則生愛樂心，見其憂惱至，須臾即捨離。如蜂樂遊華，見萎速捨棄，女人亦如是，不悅則捨離。惡心無慈惠，躁擾心不定，為破愚癡人，女人出於世。天中大繫縛，無過於女色，女人縛諸天，將至三惡道。若心貪女色，是欲最尤甚，女色欲燒心，後受大苦惱。現在所作業，貪欲自迷心，癡心不能覺，女欲之所迷。丈夫既信已，為無量愛縛，忽然便捨離，猶如蛇脫皮。如是女人性，諸方便供養，種種而守護，猶不可從心。女人性如是，其心無誠實，虛誑多姦偽，智者所不信。』

> 善い行いにはこのような結果がある。様々な行いの果報が証される。 言葉はなくとも、善い行いの報いによって知ることができる。 様々な果報を受け、あちこちで生死を繰り返す。 善であれ悪であれ、その行いに応じて報いを受ける。 もし人が善行を修めれば、天上に生まれる。 もし不善の行いをすれば、三つの悪道に堕ちる。 楽しんで善悪の行いをし、欲望に惑わされ痴に迷う者は、 やがて退転し没することを知らず、必ず死の苦しみを受ける。 今、この善行の報いを、木の姿によって知るのだ。 欲望を厭い離れることなく、心は快楽に惑わされている。 欲望の味に溺れ、放逸な人は、心が常に対象を求め、 常に愛執に悩まされ、そして愛執に縛られる。 欲望は女性と共に生じる。女性は極めて悪しきものであり、 激しい悩みを生み、あたかも火が生き物を苦しめるかのようだ。 この欲望の熱悩は、大きな猛火よりも過酷である。 女色という大いなる熱悩は、生きとし生けるものの心を焼き尽くす。 女性は世の中を壊し、善いことすべてを滅ぼし尽くす。 これが地獄に至る因縁であると、大いなる仙人は説かれた。 口では美しい言葉を巧みに語るが、その心は毒のようである。 欺き偽り、決して止まることがない。女性の心には誠実さがない。 一瞬で愛し、また一瞬で愛さなくなる。 その心は決して止まらず、稲妻が長く留まらないのと同じだ。 巧みな知恵で人を欺き、欲しいと思えば親しみ、 常に他人を楽しませようと考えるが、慢心と勝手気ままな態度を秘めている。 天人、毘舎遮、羅刹、龍、夜叉でさえも、 皆、女色に縛られる。女性はまるで恐ろしい毒のようだ。 恩恵を顧みることもなく、家柄や技芸も問題にしない。 女性の性質は風のようなもので、その心は決して止まることがない。 大きな富を見れば、心は愛着し喜び、 衰えや災いが訪れるのを見れば、嫌って捨て去る。 もし誰かが親しんでくれれば、愛着の心を生じ、 その人の憂いや苦しみを見れば、たちまち捨て去る。 まるで蜂が花を楽しみ、花が萎むとすぐに捨てるように、 女性もまた同じで、気が乗らなければ捨て去る。 悪意に満ち、慈しみや思いやりがなく、荒々しく心は定まらない。 愚かな人々を破滅させるために、女性はこの世に現れる。 天における最大の束縛は、女色に勝るものはない。 女性は天の神々さえも縛り、三悪道へと導く。 もし心が女色に執着すれば、この欲望が最も甚だしいものとなる。 女色の欲望に心を焼かれ、後に大きな苦しみを受ける。 現在行っている行為に、貪欲が自らの心を迷わせ、 愚かな心は目覚めることができず、女欲に迷わされる。 夫がすでに信じたならば、無量の愛に縛られるが、 突然に捨て去る。まるで蛇が皮を脱ぐように。 このような女性の性質は、どんなに様々に供養し、 様々に守ろうとしても、心のままにすることはできない。 女性の性質はこのようであり、その心に誠実さはない。 偽り多く、邪悪で真実がない。賢者は信じることがない。

「時諸天子聞天帝釋說是法已，心生厭離而說頌曰：

> その時、あの多くの天子たちは、天帝釈がこの教えを説くのを聞いて、心に厭離の念を生じ、こう偈を詠んで言った。

「『如是如是能天王，所說如實誠不虛，我無智慧不覺知，為天女網自縛心。』

> 「このように、かの天の王よ、あなたの言うことは真実で、偽りはありません。 私には智慧がなく、気づくこともできません。天女の網にとらわれ、心を縛られてしまったのです。」

「時天帝釋聞此偈已，即往詣於鳥音聲林，無量宮殿以為莊嚴，蓮華浴池莊嚴林樹，金色山峯如融金聚，種種伎樂歌頌妙音，多有種種天女眷屬。帝釋天王入此林中欲受天樂，諸根境界受五欲樂。復往詣於乾陀聚山須彌之峯，七寶莊嚴，其河流注端嚴奇特。如真珠瓔珞莊嚴山峯，真珠為沙以布河底，於河兩岸多有眾鳥出妙音聲，見此河者，皆生愛樂。釋迦天王與諸天女及諸天眾，種種莊嚴，遊戲受樂於此山峯。既受樂已，復與天子及諸天女復往詣於周羅宮殿遊戲之處，既至此處，餘地諸天聞天主至，亦皆來集。其峯宮殿居須彌頂，高廣嚴淨，夜摩天光照觸其頂，如須彌色映四天下，夜摩天光照此山頂亦復如是。得夜摩天光明照故，於餘宮殿，千倍殊勝。爾時，天主釋迦提婆於此宮殿既遊戲已，與諸天子及諸天女還善法堂。此微細行天受五欲樂，乃至愛善業盡，命終還退，墮於地獄、餓鬼、畜生。若有餘業生於人中，常受安樂，或為國王或為大臣，第一螺髮，其心審諦，人所諮奉，不好多言，衣服鮮潔淨無垢污，妻妾貞潔，心不邪曲，好行布施，端直不諂，兄弟宗親之所愛敬，恭敬師長，愛樂賓客，樂行布施，持戒自守，性愛香鬘，遠惡知識，生於大姓，端正殊妙種種莊嚴。以餘業故。

> この偈を聞いた帝釈天は、ただちに鳥の声が響く林へと向かった。そこには無数の宮殿が飾り立てられ、蓮の花が咲く浴池や、美しく整えられた林の木々があった。金色の山々は溶けた金が固まったように輝き、様々な楽器の音や歌声が美しく響き渡っていた。また、多くの天女たちの眷属も集まっていた。帝釈天はこの林に入り、天界の楽しみを味わい、五感の対象による五つの欲望の快楽を享受した。次に、乾陀聚山（けんだじゅせん）の頂上、すなわち須弥山の峰へと向かった。そこは七宝で飾られ、川の流れは荘厳で独特の美しさを見せていた。真珠の瓔珞（ようらく）が山の峰を飾り、川底には真珠の砂が敷き詰められていた。川の両岸には多くの鳥たちが美しい声で鳴き、この川を見る者は皆、心から愛し楽しんだ。帝釈天は天女や天の衆生たちと共に、様々に飾り立てられ、この山頂で遊び楽しんだ。楽しみ終えると、さらに天子や天女たちと共に、周羅宮殿（しゅうらきゅうでん）という遊び場へと向かった。そこに到着すると、他の場所の天の衆生たちは天主が来たと聞き、皆集まってきた。その峰の宮殿は須弥山の頂上にあり、高く広く、清らかで荘厳であった。夜摩天（やまてん）の光がその頂上を照らし、まるで須弥山の色が四大洲を照らし出すように、夜摩天の光もこの山頂を照らした。夜摩天の光に照らされたことで、他の宮殿に比べて千倍も素晴らしいものとなった。その時、帝釈天はこの宮殿で遊び楽しんだ後、天子や天女たちと共に善法堂へと戻った。この微細な行いの天の者たちは五欲の楽しみを味わうが、善業が尽きると命終わり、退いて地獄・餓鬼・畜生に落ちる。もし余った業によって人として生まれるならば、常に安楽を受け、あるいは国王となり、あるいは大臣となる。第一の螺髪（らはつ）を持ち、その心は慎重で真実であり、人々から相談を受け尊ばれる。多弁ではなく、衣服は清らかで汚れがなく、妻や妾は貞節で、心は曲がっていない。布施を好んで行い、正直でお世辞を言わず、兄弟や親族から愛され敬われる。師長を敬い、客を愛し楽しませ、布施を行うことを好み、戒律を守り、自らを律する。香りや花鬘（けまん）を好み、悪い知識を遠ざけ、高貴な家系に生まれ、端正で並ぶ者なく、様々に荘厳される。これらは余った業によるものである。

「復次，比丘，知業果報，觀三十三天所住之地。彼以聞慧見：第二十一地名歌音喜樂。眾生何業生於此地？彼以聞慧見：有眾生善心善業、善身口意，行於善業，自利利他，饒益眾生，心有慈悲，信於業果，正見正業，持二種戒，心不散亂，不失威儀，不親惡友，孝養父母，供養沙門、婆羅門，三種善業遍行究竟，持二種戒——不殺不盜。云何不殺？若稻穀黍麥生微細蟲，不擣不磨，知其有蟲，護此蟲命，不轉與人。復有不殺生：若牛馬駝驢擔負，脊壞瘡中生蟲，若以漿水洗此瘡時，不以草藥斷此蟲命，以鳥毛羽洗拭取蟲置餘臭爛敗肉之中，令全其命。護此驢牛恐害其命，復護蟲命，乃至蟻子亦不故殺。若晝若夜不行放逸，心不念殺，有眾生想，若蟣若蟻亦不故殺。是名不殺。云何不盜？幾種不盜？若有眾生見蛇食蟲、蝦蟇食蟲、黃鼬食蟲，若狗野干取諸眾生欲自食之。其人若見，以其所食而貿易之，令其得脫。如是之人護彼此命，是名不盜。自不偷盜亦不教人，勸諸眾生令住善道，未住戒者，教令住戒，已持戒者，令其增長，說業果報令其覺悟。是則名曰不殺不盜。復有順法行人利益眾生，見諸蜜蜂，知他欲殺，以物救贖令其得脫，施眾生命，是名施命。復有布施：若法行人貧窮乏短，若以一食施四禪人，若見惡人欲斷人命，以物贖命，令其得脫。施命、施法，諸施之中最為第一，是人行於二種之施，亦教他人令行二施，見作隨喜。如是持戒，命終之後生三十三天歌音喜樂之地。以善業化，得勝供養。其地園林以善業故，種種莊嚴。

> また、比丘よ、業の報いを知り、三十三天の住む地を観察せよ。彼は聞慧によって見る。第二十一の地は「歌音喜楽」と名づけられる。いかなる業によって衆生はこの地に生まれるのか。 彼は聞慧によって見る。ある衆生が善心・善業・善き身口意を持ち、善業を行い、自他を利し、衆生を益し、心に慈悲あり、業果を信じ、正見・正業を持ち、二種の戒を守り、心散乱せず、威儀を失わず、悪友に親しまず、父母を孝養し、沙門・婆羅門を供養し、三種の善業を遍く行い尽くし、二種の戒——不殺・不盗を守る。 どのように不殺なのか。もし稲穀・黍・麦に微細な虫が生じているなら、それを搗かず磨かず、虫の存在を知り、その虫の命を守り、他人に渡さない。また別の不殺生がある。もし牛・馬・駱駝・驢馬が荷物を背負い、背中の傷に虫が湧いたなら、この傷を漿水で洗う時に、草药でこの虫の命を絶たず、鳥の羽で虫を取り、他の腐って爛れた肉の中に置き、その命を全うさせる。この驢馬や牛を害から守り、さらに虫の命も守る。蟻に至るまで故意に殺さない。昼も夜も放逸に過ごさず、心に殺生を念じず、虫や蟻のような小さな生き物でも故意に殺さない。これを不殺と名づける。 どのように不盗なのか。いくつかの不盗がある。もし蛇が虫を食べる、蛙が虫を食べる、鼬が虫を食べる、犬や山犬が様々な衆生を捕らえて自ら食べようとするのを、ある人が見て、その食べ物と引き換えに救い出し、逃がしてやる。このように人の命を護ることを不盗と名づける。自ら盗まず、他人にも盗ませず、衆生に善道に留まるよう勧め、まだ戒を守っていない者には戒を守らせ、既に戒を守る者にはさらに増長させ、業の報いを説いて覚悟させる。これを不殺・不盗と名づける。 また、法に従い行い、衆生を利益する人がある。蜜蜂を見て、誰かに殺されそうだと知れば、物を使って買い戻し救い出し、命を施す。これを施命と名づける。さらに布施がある。法を行う人が貧しく乏しい時に、一食を四禅の人に施す。あるいは悪人が人の命を絶とうとするのを見て、物で命を買い戻し救い出す。命を施し、法を施すことは、すべての施しの中で最も優れている。この人は二種の施しを行い、他人にも二種の施しを行わせ、見て喜ぶ。このように戒を守り、命終えた後、三十三天の歌音喜楽の地に生まれる。善業の力により、勝れた供養を受ける。その地の園林は善業の故に、種々に荘厳されている。

「『天所住處，無有一跡非善業化，無有一天不遊戲者，無有一天不受樂者，無有一天不退沒者。善業盡故，退時自知，猶不厭足，愛繩所縛，愛所欺誑。』帝釋天王說是語已，與諸天眾於園林中遊戲受樂，林樹華果種種具足。飲食之河眾味具足，與諸天眾至此河邊歡娛受樂。復與天女往詣摩多隣南遊戲之處，時天帝釋見其林樹，告諸天曰：『汝等見此遊戲處不？』諸天子言：『唯然，已見。』時天帝釋為諸天子說本事法：『如我昔於宿舊諸天聞如是說：過去有佛，號迦迦居伽反村陀如來，於此林中為天說法，初善中善後善，善義善語，純備具足白淨之法。所謂：「是事有故是事有，是事滅故是事滅。」云何名有？以有欲故，則有過失。若無欲者，則無過失。天子當知！是為是事有故是事有。云何是事無故是事無？若無欲者，則無欲過，是為是事無故是事無。云何是事滅故是事滅？愛滅故欲滅，欲滅故欲過滅，是名是事滅故是事滅。天子當知！是事有故是事有，是事無故是事無。若以逆觀愛之因緣、生欲之本，欲之因緣能生於欲。云何為欲？心求憶念，欲有所作，是名為欲。癡有所求，故名無明。以無明故，於境無厭，是名為愛。諸天子！不求知足，故名為欲。諸天子！是名是事有故是事有。云何是事無故是事無？所謂有愛，貪不知足；若愛滅者，無厭則滅，是為是事無故是事無。是名是事滅故是事滅。

> 「天上の住処には、善い行いの結果でないものは一つもなく、遊び楽しむ天人がいない日はなく、楽しまない天人はおらず、退転しない天人はいない。しかし善い行いの果報が尽きれば、退く時が来るのを自ら知る。それでもなお満足せず、愛の綱に縛られ、愛に欺かれるのだ。」 帝釈天はそう語り、天の衆と共に林の中で遊び楽しんだ。そこには様々な木々や花や果実が豊かにあり、様々な味わいの飲み物の川が流れ、天の衆と共にその川辺で歓楽に興じた。さらに天女たちと共に、マトリンリンの南方にある遊戯の場所へ向かった。その時、帝釈天は林を見て天の子らに言った。「あなたたちはこの遊戯の場所を見たか。」天子たちは言った。「はい、見ました。」帝釈天は天子たちのために、昔の法話を説いた。「かつて私は古い天の先輩たちからこう聞いた。過去に迦迦村陀如来という仏がおられた。この林の中で天のために法を説き、初めも善く、中も善く、終わりも善く、その意味は善く、言葉は善く、清らかな法を完全に備えていた。すなわち、『このことがあるから、このことがあり、このことが滅びるから、このことが滅びる』と。何を『有る』と言うのか。欲望があるから、過ちがあるのである。もし欲望がなければ、過ちはない。天子たちよ、これが『このことがあるから、このことがある』ということである。では、何を『このことがないから、このことがない』と言うのか。もし欲望がなければ、欲望による過ちはない。これが『このことがないから、このことがない』ということである。では、何を『このことが滅びるから、このことが滅びる』と言うのか。愛が滅びれば欲望が滅び、欲望が滅びれば欲望による過ちが滅びる。これを『このことが滅びるから、このことが滅びる』という。天子たちよ、知るがよい。『このことがあるから、このことがあり、このことがないから、このことがない』のである。愛の因縁、欲望の根本を逆に観察すれば、欲望の因縁が欲望を生む。何を欲望と言うのか。心で求め、思い起こし、何かをしようと欲すること。これを欲望という。無知ゆえに求めるので、無明と名づける。無明のゆえに、対象に際限なく執着する。これを愛という。天子たちよ、知ることを求めず、満足することを知らない。これを欲望というのである。天子たちよ、これが『このことがあるから、このことがある』ということである。では、何を『このことがないから、このことがない』と言うのか。すなわち、愛があると貪りは満足を知らない。もし愛が滅びれば、満足を知らなさも滅びる。これが『このことがないから、このことがない』というのであり、『このことが滅びるから、このことが滅びる』というのである。

「『復次，天子！是事有故是事有，所謂和合作業。以有業故，則有業報；若無集業，則無業報。諸天子！是名是事有故是事有，是事無故是事無。

> 「また、天子よ。このことがあるから、あのことがある。つまり、縁によって集まった行いがあるからである。行いがあるから、その報いがある。行いが集まらなければ、報いもない。天子たちよ。これを『このことがあるから、あのことがあり、このことがないから、あのことがない』というのである。」

「『復次，天子！云何是事有故是事有？所謂先以憶念，眼緣於色而生於識。憶念為先，是名是事有故是事有。云何是事無故是事無？若無色則無眼，無眼則無憶念，無色、無眼、無憶念故眼識亦無。如是，天子！是名是事無故是事無。

> 「また、天子よ。『これがあるから、あれがある』とはどういうことか。すなわち、まず心に留めること（憶念）があって、目が色に触れて認識（眼識）が生じる。このように、憶念が先にあること、これを『これがあるから、あれがある』というのだ。 では、『これがないから、あれがない』とはどういうことか。もし色がなければ、目もない。目がなければ、憶念もない。色がなく、目がなく、憶念がなければ、目の認識もまた存在しない。このように、天子よ。これを『これがないから、あれがない』というのである。」

「『復次，天子！云何是事有故是事有？譬如陶師，輪繩泥水眾法和合，而有瓶生。諸天子！是事有故是事有亦復如是。

> 「また、天子よ。いったいどういうことが『これがあるから、これがある』と言えるのだろうか。たとえば、陶工がろくろや縄、粘土や水といった多くの要素を集めて、はじめて瓶が生まれるようなものだ。天子たちよ、『これがあるから、これがある』というのも、まさに同じことなのだ。

「『復次，天子！云何是事無故是事無？譬如陶師，輪繩泥水若不和合，則亦無瓶。是為是事無故是事無亦復如是。

> また、天子よ。「この事が無いから、この事が無い」とは、どういうことか。例えて言うなら、陶芸家がろくろや糸、土や水をうまく合わせなければ、瓶はできない。これと同じように、「この事が無いから、この事が無い」というのも、その通りである。

「『復次，天子！云何是事有故是事有？所謂和合必有別離，是為是事有故是事有。云何是事無故是事無？若無和合則無別離。如是，天子！是為是事無故是事無。

> 「また、天子よ。『これがあるから、あれがある』とはどういうことか。すなわち、出会いがあれば必ず別れがある。これが『これがあるから、あれがある』ということだ。では『これがないから、あれがない』とはどういうことか。もし出会いがなければ、別れもない。このように、天子よ。これが『これがないから、あれがない』ということである。」

「『復次，天子！云何是事有故是事有？以有生故則便有死。若無生者則無有死。如是，天子！是名是事有故是事有，是事無故是事無天無老故，為天說法不言老支，但言有死。

> 「また、天子よ。『これがあるから、それがある』とはどういうことか。生があるから死がある。もし生がなければ、死もない。このように、天子よ。これを『これがあるからそれがあり、これがないからそれがない』というのだ<note>天には老いがないため、天のために説法する際には老いという縁は語らず、ただ死があるとのみ説く</note>。」

「『復次，天子！云何是事有故是事有？所謂有欲故，決定被燒，譬如有火則必有燒。如是，天子！是名是事有故是事有。云何是事無故是事無？所謂厭離欲故，欲不能燒，猶如無火則不能燒。如是，天子！是名是事無故是事無。

> 「また、天子よ。どのようなことが『これがあるから、あれがある』と言われるのか。すなわち、欲望があるから、必ずそれに焼かれることになる。たとえば、火があれば必ず燃えるものがあるように。このように、天子よ。これを『これがあるから、あれがある』と言う。では、どのようなことが『これがないから、あれがない』と言われるのか。すなわち、欲望を厭い離れるならば、欲望は焼くことができない。ちょうど、火がなければ燃やすことができないように。このように、天子よ。これを『これがないから、あれがない』と言うのである。」

「『復次，天子！云何是事有故是事有？所謂有父母精血，有業、有藏、有中陰身，猶如香氣故有身生。如是，天子！是為是事有故是事有。云何是事無故是事無？若無父母則無精血，無決定業、無藏、無中陰則無身生。如是，天子！是為是事無故是事無。

> 「また、天子よ。『これがあるから、あれがある』とはどういうことか。それは、父母の精血があり、業があり、蔵があり、中有（ちゅうう）の身があり、香りのようにして身が生まれることである。このように、天子よ。これを『これがあるから、あれがある』という。 では、『これがないから、あれがない』とはどういうことか。もし父母がなければ精血もなく、決定された業もなく、蔵もなく、中陰の身もなければ、身は生まれない。このように、天子よ。これを『これがないから、あれがない』という。」

## 正法念處經卷第二十九

> 正法念処経 第二十九巻