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title: "正法念處經 · 7"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第四十二

> 正法念処経 第四十二巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之二十一夜摩天之七

> 観天の章　第二十一＜注＞夜摩天の七

「爾時，彼天次第而行，上彼山峯第一無垢如鏡之地。彼諸天眾，業地鏡中自見其身，分分明了。彼諸天等，若有先修身口意者，業地鏡中得見自身，額中所現業果生死。如彼某時某處某國某因某緣某退相等，一切皆見，亦見他相——當退之相。隨何者天額中書字餘業之相，或有生業，彼一切相，業地鏡中一切自見，退夜摩天。若是餘業或是生業，或身惡業或口惡業或意惡業，如是因緣退已，當生某地獄中、某餓鬼中、某畜生中；從畜生處既得脫已，行欲放逸之所誑故，業風所吹，轉某處生。又復如是欲過中出，彼於額上字書畫中，一切具見。於額畫中亦如是見欲過中出，如某欲法如是對治，所謂修欲無光明觀，不為彼欲之所能誑。又復彼欲有異對治，謂見此色是虛妄見，於如是色隨順見已，心正觀察，悕欲之心更不增長。如是如是，五境界中如欲過患，如是諦觀，彼天如是則無憙愛。憙愛之心不能為妨、不能為礙，喜愛乃是生死種子，彼天如是欲中得出。額畫字中一切皆見，彼既見已，若勝修身、若勝修意。彼能捨欲，見欲過患故知出欲；知出過已，見先受樂境界過患如食毒棗，今所受欲亦如是見。何以故？以於境界受欲樂故，墮於惡道。如是修故，捨離境界。若於額上書字畫中，見惡道業，墮於惡道——地獄、餓鬼、畜生之中。見彼業已，彼如是業，一切皆失；生善道業，一切皆生。善業力故。彼諸天子如是見已，深生信心，造作善業，如是乃至造作涅槃種子善業。

> 爾の時、かの天人は次第に進み、かの山の頂上にある、第一の無垢なる鏡のような地に上った。かの天人の衆は、業の地の鏡の中に、自らの身を明瞭に見る。かの天人等の中に、もし先に身・口・意を修めた者がいれば、業の地の鏡の中に自らの身を見て、額に現れた業の果報と生死を見る。例えば、ある時、ある場所、ある国、ある因、ある縁によって退転する相など、すべてを見る。また、他の者が退転する相をも見る。どの天人の額に書かれた文字の中にある余業の相であれ、あるいは生業であれ、そのすべての相を、業の地の鏡の中に自ら見て、夜摩天から退転する。もし余業か生業か、あるいは身の悪業か口の悪業か意の悪業か、そのような因縁によって退転した後、ある地獄、ある餓鬼、ある畜生に生まれることを見る。畜生の処から解脱した後も、欲望に遊び、放逸に欺かれ、業の風に吹かれて、どこか他の処に転生する。また、このようにして欲望の過ちから出ようとするとき、彼は額の上の文字や絵の中に、すべてをありのままに見る。額の絵の中にもまた、欲望の過ちから出る様子を見る。例えば、ある欲望に対しては、このように対治する、すなわち、欲望には無光明の観を修すべきであり、その欲望に欺かれることはない、と。また、その欲望には別の対治もある。すなわち、この色は虚妄の見であると見て、そのような色に順じて見た後、心を正しく観察し、渇望の心をさらに増長させない。このように、五つの境界における欲望の過患を、このように諦観すれば、かの天人は喜愛の心を持たなくなる。喜愛の心は妨げにも障りにもならず、喜愛こそが生死の種子である。かの天人は、このようにして欲望の中から出る。額の絵の文字の中にすべてを見る。彼はそれを見た後、もし優れた身の修行、優れた意の修行をすれば、彼は欲望を捨てることができる。欲望の過患を見るゆえに、欲望を出ることを知る。出る過ちを知った後、先に受けた楽しみの境界の過患を、毒の棗を食べるように見る。今受ける欲望もまた、そのように見る。なぜなら、境界において欲望の楽しみを受けるゆえに、悪道に堕ちるからである。このように修するゆえに、境界を捨て離れる。もし額の上の文字や絵の中に、悪道の業を見て、悪道――地獄、餓鬼、畜生――に堕ちるならば、その業を見た後、そのような業はすべて失われ、善道に生まれる業はすべて生じる。善業の力による。かの天子たちはこのように見た後、深く信心を生じ、善業を造り、このようにして涅槃の種子となる善業をも造る。

「若更餘天少智慧者，其心樂欲，彼前作業，業網自在，既見業畫文字相已，生如是心：『若我此處後時退已，或生人中或生天中。』彼天如是見生處已，心不驚怖，而復更入五境界波愛河中洗。以放逸故，行放逸行。如是天者，不曾學來、不曾聞來，少智慧故，於欲不知，不能離欲，善法則滅，而復更作其餘生業——地獄、餓鬼、畜生之業。何以故？一切善業皆悉盡故，欲所誑故，而復墮於地獄、餓鬼、畜生之中。

> さらに、智慧の少ない他の天人がいると、その心は楽しみや願望に傾いている。彼がかつて行った行為は、業の網のままに自在に動き回る。すでに業の絵のような文字の相を見た後、こうした心を生じる：「もし私がここで後に退いたなら、あるいは人間に生まれ、あるいは天に生まれるだろう」と。その天人は、このように生まれる場所を見ても、心に恐れや驚きを抱かず、かえってさらに五つの境界の波の愛河に入り、そこで身を洗う。放逸のゆえに、放逸の行を歩む。このような天人は、これまで学んだこともなく、聞いたこともなく、智慧が少ないがゆえに、欲について知らず、欲を離れることができない。善法はすでに滅び、さらにまた他の生存の業——地獄、餓鬼、畜生の業——を作り出す。なぜならば、すべての善業はすべて尽きてしまい、欲に惑わされたがゆえに、再び地獄、餓鬼、畜生の中に堕ちていくからである。

「爾時，有鳥名為賢語，見放逸天行放逸行，天善業故，而說偈言：

> その時、賢語という名の鳥がいて、天人が放逸な行いをして遊んでいるときに、その天人の善行の功徳によって、次のような偈を唱えました。

「『若善牽心者，如是則得善；若隨不善者，如是得不善。一切多用心，如地風水火，隨所得因緣，心如是行轉。心能速疾行，亦能速疾迴，速將至天中，速令入惡道。心速疾行善，若能防護心，一切法能作，一切業能斷。一切法行主，所謂彼心是；復以如是義，故得名為心。心常求人便，皆不應信之，體性甚㦜動，大力不可持。須臾間作善，須臾作不善；如是作無記，其行不可測。心來不可知，心去不可識，先無後時有，已有還復無。心無有處所，和集不可得，以無身體故，不可得捉持。因緣和合故，念念如是生，如珠牛糞合，因緣而生火。如是根色等，一切因緣心，非一能生心，和合故生心。如是知心已，知心難調伏，意隨正法行，慎勿憙樂欲。』

> 「もしも心をよく導くならば、そのようにして善を得る。</row><row>もしも不善に従うならば、そのようにして不善を得る。</row><row>すべてのものは、心を大きく働かせるのだ。</row><row>ちょうど大地や風、水、火が、</row><row>縁によって得られるように、心もまたそのように働き巡る。</row><row>心は速やかに走り行き、また速やかに巡り戻る。</row><row>速やかに天の世界へと導き、速やかに悪い道へと入らせる。</row><row>心は速やかに善を行なう。もしも心を防ぎ護ることができれば、</row><row>すべてのことが成し遂げられ、すべての業を断ち切ることができる。</row><row>すべてのものごとを行なう主、それは、あの心である。</row><row>このような意味からも、心と名づけられるのだ。</row><row>心は常に人の隙をうかがっている。だから、決してそれを信じてはならない。</row><row>その性質は非常に揺れ動きやすく、力強くて、持ちこたえることがむずかしい。</row><row>ほんのしばらくの間で善を作り、ほんのしばらくの間で不善を作る。</row><row>このように善でも悪でもない無記をも作り、その働きは計り知れない。</row><row>心が来ても知ることができず、心が去っても識ることができない。</row><row>先にはなく、後にあって、すでにあったものがまた無くなる。</row><row>心には居場所がなく、集めて捉えることもできない。</row><row>身体というものが無いから、掴んだり捕まえたりすることができないのだ。</row><row>様々な縁が集まって和合するから、瞬間瞬間にこうして生まれる。</row><row>ちょうど、まがい玉と牛の糞が合わさり、その縁によって火が生まれるように。</row><row>このように、感覚器官や対象など、すべてのものは、様々な縁によって生じる心によるのだ。</row><row>ただ一つだけのものが心を生むのではなく、和合によって心は生まれる。</row><row>このように心を知ったならば、心は調伏しがたいと知り、</row><row>心を正しい教えに従わせなさい。欲の楽しみを好んではならない。」</row>

「彼天如是既聞偈已，修身修意，二種修心。既修心已，不樂境界，隨順法行，退夜摩天復生勝處，不離天處。若生人中，或為人王或為大臣，或時得種解脫種子，三種菩提，隨願皆得，或具善業作轉輪王。

> かの天人は、この偈を聞いて、身と意を修め、この二つによって心を整えました。心を整えた後は、もはや欲の世界に執着せず、教えに従って行い、夜摩天からさらに優れた境地へと生まれ変わり、天の世界を離れることはありません。もし人間に生まれるならば、王となるか、大臣となるか、あるいは解脱の種をまいて、三種の菩提（声聞・独覚・仏）を願いに応じてすべて得られます。あるいは善行を積んで転輪聖王となるのです。

「若彼諸天如是希有見於業相如鏡中見，心不調者，彼天復墮地獄、餓鬼、畜生之中。

> もし天人が、このように珍しい業の姿を鏡に映るように見ても、心が調わないならば、その天人たちは再び地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちてしまうのです。

「又彼比丘觀此希有業畫文字果報之相，彼則觀見：若人精勤專意深心畫如來像，若有思信寂靜之心如是書寫正法文典，心意寂靜。彼人生天，咽中額上，見則生信。

> また、かの比丘はこの稀有なる業という絵画と文字の果報の相を観察する。そのとき、彼は次のように見る——もし人が精進し、心を集中し、深い思いをもって如来の像を描き、あるいは信心と静けさの心をもって正法の文典を書き写すならば、その人の心は静けさに満ちている。その人は天に生まれ、その喉や額を見た者は、たちまち信心を生じるであろう。

「又復有人心無正信，或為王勅或為他遣，或為取物，活命因緣，若書經文或畫佛像，亦生天中，見則不信，多行放逸。彼亦造作善業種子，得生天中，雖見不信，以離信來、離思來故。如是無因，則無業果，如是一切皆從因緣相似業生。

> また、ある人々は心に正しい信仰を持たず、あるいは王命によって、あるいは他人に遣わされて、あるいは物を得るため、生活のための因縁によって、経文を書いたり仏像を描いたりしても、天界に生まれることがあります。しかし天界の姿を見ても信じることがなく、放逸な行いを多くします。彼らも善業の種子を作り、天界に生まれますが、天界を見ても信じません。それは、信仰から離れ、思惟（思い）から離れているからです。このように、因がなければ果報もありません。すべてのことは因縁によって生じる、相似の業から生じるのです。

「若復有天性憙放逸，行放逸行，受天境界五欲之樂，常不厭足，復於增長無量欲山寶圍山中，於長久時五欲功德而受樂已。共天女眾如是種種遊戲受樂，後離如是五欲功德莊嚴之山，復向第三珠圍山去。生歡喜心，五樂音聲在道遊戲，普勝妙事第一成就，於須臾間具足受樂，如意所念種種境界而受快樂。既於山中在河岸邊受欲樂已，方至第三珠圍之山。如是如是，天可愛樂境界受樂，如是如是喜愛增長，以於彼愛不解脫故，欲火所燒，於彼聲觸味色香等不知厭足，境界河中亦不厭足，如彌那魚。如是第三名珠圍山，一廂則是青色珠寶，次第二廂赤蓮花寶，次第三廂是車𤦲寶，次第四廂是白銀寶。彼天見已，生歡喜心，迭互相向如是說言：『天當看此無量種種端嚴殊妙種種光明。此寶光明，百萬由旬皆悉普遍入彼光明，不可分別。此勝光明，青黃赤白有無量種。』

> また、天性として放逸（ほういつ）を好み、放逸の行いにふけり、天の世界の五欲の楽しみを受けても常に満足せず、さらに無量の欲山宝囲山（よくさんほういさん）の中で長い間、五欲の功徳によって楽しみを受けた者がある。彼は天女たちと共に、このように様々な遊びや楽しみを味わった後、その五欲の功徳で飾られた山を離れて、第三の珠囲山（しゅいさん）へと向かう。喜びの心を生じ、五つの楽の音声とともに道中で楽しみ、優れた素晴らしい体験を最高の形で味わい、ほんのひとときの間に十分に楽しみ、心に思うままの様々な境地で喜びを受ける。山の中で川岸にいて欲の楽しみを受けた後、ようやく第三の珠囲山に至る。このようにして、天の愛すべき境地で楽しみを受ければ受けるほど、喜びと愛着は増大する。その愛着から解脱できないがゆえに、欲の火に焼かれ、声・触・味・香・色などに飽くことを知らず、境界の川の中でも満足することはない。まるでミナ魚のように。 さて、この第三の珠囲山は、第一の側面は青い珠宝、第二の側面は赤い蓮華宝、第三の側面は車𤦲宝（しゃるほう）、第四の側面は白銀宝でできている。天たちはこれを見て喜びの心を起こし、互いに言い合う。「天よ、この無量の種類の見事で素晴らしく、様々な光を放つ宝を見よ。この宝の光は、百萬由旬もあまねく照らし、その光の中では区別もつかない。この勝れた光は、青・黄・赤・白の無量の種類があるのだ。」

「彼諸天眾如是說已，復向餘林，林名樹稠。彼諸天眾、諸天女眾生歡喜心，無量音樂隨種種處皆悉樂見。次到彼林，善業成熟，種種莊嚴如是遊行，種種受樂，乃於久時行放逸行，為愛所使。爾時，彼天見樹稠林，諸七寶樹於彼林中，見有二河：第一香水，勝味觸水，如心意念則有水滿。彼河之水，隨念而轉。彼河銀岸多有種種異異諸鳥。彼一河者，名為雜水；次第二河名如意水。彼雜水者，本性自體。如是雜水，第一清淨，水流盈滿。彼種種水遠離醉過，善業因緣。其水則有無量種色，是故彼河名為雜水。又第二河名如意水，隨彼天心種種意念，如是水生。若念須陀，則須陀流第一白淨、第一香味，須陀流滿。若彼諸天意念天酒，則有色香觸味具足美妙天酒滿中流出。若念山澤種種異華，則有色香觸等具足如是妙花，滿河流出；於其花中有種種蜂以為莊嚴。彼華之名，尚不可說。如是第二如意水河，種種流滿。

> かの天の衆たちがそのように語り終えてから、さらに別の林へと向かった。その林は「樹稠林」という名である。かの天の衆や天女たちは喜びの心を生じ、無数の音楽が各所で楽しげに聞こえていた。彼らは次にその林に至り、善業が成熟したことによる様々な荘厳を備え、このように遊び楽しみながら、長い間、放逸な行いをし、愛欲に駆られていた。 その時、かの天々は樹稠林を見た。そこには多くの七宝の樹々があり、林の中に二つの川があるのを認めた。第一の川は「香水」と呼ばれ、優れた味と触感を持つ水であり、心の念じるままに水が満ちる。その川の水は思念に従って流れを変える。川の銀の岸辺には、様々な種類の異なる鳥たちが多くいた。 第一の川は「雑水」と名付けられ、第二の川は「如意水」と名付けられた。「雑水」はその本性自体が様々で、非常に清らかであり、水流は満ち溢れている。その様々な水は酔いの過ちから遠く離れており、善業の因縁により、計り知れないほどの色を帯びている。ゆえに、その川は「雑水」と呼ばれる。 また第二の川「如意水」は、かの天々の心の様々な念いに従って、そのように水が生じる。もし天が「須陀（美食）」を念じれば、須陀の流れが現れる。それは第一に白く清らかで、第一の香りと味を持ち、須陀で満ち溢れる。もしかの天々が天の酒を念じれば、色・香・味・触が完全に備わった、素晴らしい天の酒が川に満ちて流れ出る。もし山や沢の様々な異なる花を念じれば、色・香・触などが完全に備わった、そのような見事な花が川に満ちて流れ出る。その花々の中には、様々な蜂がいて、美しい飾りとなっている。その花の名さえも、言い尽くすことはできない。 このようにして第二の如意水の川は、様々なものを満ち溢れさせて流れている。

「彼處如是樹稠林中有如是花，莊嚴可愛。彼處諸天在兩河中處處遊戲，種種受樂。可愛聲觸味色香等種種受樂，以善業故，共飲天酒，種種受樂。聞樂音聲，種種耳樂，種種歡喜，隨心具足受種種樂。遠離憂悲，遠離飢儉，離於怖畏，於境界中常不知足。如飲醎水，隨增其渴。有無量種無量分別，有無量種受天之樂。

> 彼の地には、見事な花が咲き誇る林が広がり、なんとも愛らしい景観が広がっている。天人は、その両河の間で、思い思いに遊び、さまざまな快楽を享受している。心地よい音、触り心地、香り、色、味といったさまざまな感覚の喜びを味わい、善行の果報によって天の酒を共に飲み、種々の楽しみを満喫する。音楽の響きに耳を傾け、多様な耳の楽しみを得て、限りない歓喜に満たされ、心のままにさまざまな喜びを味わうのである。そこには憂いや悲しみはなく、飢えや欠乏もなく、恐怖もない。しかし、彼らは境界（感覚の対象）に対して決して満足することがない。まるで塩水を飲むと、かえって渇きが増すように。実に、量り知れない種類の、計り知れない区別があり、量り知れない天界の快楽を享受するのである。

「彼天如是行林河中受樂行已，彼處有鳥，名曰河行，見天放逸而說偈言：

> かの天人が、このように林の中の川で楽しみながら過ごしていると、その場所に「河行」という名の鳥がいて、天人が遊びにふける様子を見て、次のような偈（うた）を詠んだ。

「『猶如此水流，天樂亦如是，命念念不住，癡故不覺知。老病死等故，能令業盡退，天不離此法，常隨逐欲行。命則非是常，三界樂亦爾，天癡為欲誑，如是不覺知。如空中水渧，必墮而不停，一切樂如是，與雨渧不異。如風吹塵土，迭互競相推，轉於虛空中，身轉亦如是。此樂非勝樂，貪誑不常定，與愛毒和合，猶如雜毒食。彼常勝樂者，所謂不死處、無愛別離處、無冷無熱處。彼處常安隱，智者之所說，何處不生死，彼處則無苦。諸因婦女樂，一切皆有苦，彼愛為種子，復生地獄中。彼樂能生苦，云何說為樂？乃是苦中苦，後時則如毒。若此眾生生，眾生業風吹，業網癡所覆，隨生處愛樂。若善不善業，常隨彼共行，處處皆逐去，如香不離花。汝如是受樂，此後時則失，如晝日時滿，日沒光隨沒。』

> 「流れる水のように、天の楽しみもまた同じです。 命は一瞬ごとに留まることがなく、愚かでは気づくことができません。 老いや病、死などの原因によって、業は尽きて退き去ります。 天人はこの理から離れず、常に欲望を追い求めて行動します。 命は決して永遠ではなく、三界の楽しみもまた同様です。 天人は愚かにも欲望に惑わされ、このようにして気づかないのです。 空中の水滴が必ず落ちて留まらないように、 すべての楽しみも同様で、雨のしずくに変わりはありません。 風が塵を吹き上げ、互いに押し合い競い合いながら 虚空中を巡るように、身体の移り変わりもまた同じです。 この楽しみは真の優れた楽しみではなく、貪りに惑わされ不変ではありません。 愛という毒と結びつき、まるで毒を混ぜた食物のようなものです。 あの常に優れた楽しみとは、いわゆる不死の境地、 愛する者との別れのない場所、寒さも暑さもない場所です。 その場所は常に安らかで安定しており、賢者たちが説くところです。 どのような場所も生死を免れないところはなく、そこには苦しみがありません。 あらゆる女性の楽しみは、すべてに苦しみが伴い、 その愛を種として、さらに地獄に生まれ変わります。 その楽しみは苦しみを生むのに、どうして楽しみと言えるでしょうか？ それは苦しみの中の苦しみであり、後になると毒のようなものです。 もしこれらの衆生が生まれるなら、衆生は業の風に吹かれ、 業の網に覆われ愚かさに覆われて、生まれた場所で愛着を楽しみます。 善悪の業は常にその人に伴い、 あらゆる場所に追いかけて行き、香りが花から離れないのと同じです。 あなたはこのように楽しみを受けていますが、それは後には失われます。 昼の時間が満ちれば、日が沈み光も消え去るように。」

「彼水行鳥，天善業故，已為一切放逸行天如是說已。若天放逸行放逸者，聞水行鳥如是偈說，作如是言：『此鳥善語，已覺悟我。如此鳥說，我必當得。此鳥實說，我放逸故，行放逸行，猶故如是不能捨離。我於後時必定破壞，得大怖畏。我等從今當善心意，對治放逸，捨離放逸。』

> その水鳥は、天の善き行いの力によって、すでにすべての怠り遊ぶ天々に向かってこう説いたのです。「もし天々が怠り遊びにふけるならば、その鳥の詩を聞いて、こう言うべきです。『この鳥の言葉は素晴らしい、私を目覚めさせてくれた。この鳥が告げる通り、私は必ず悟りを得られるだろう。この鳥の語ることは真実だ。私は怠り遊びにふけっていながら、なおも怠り遊びをやめられずにいる。その結果、いずれ必ず破滅し、大きな恐れを味わうことになる。だから今日から私たちは、心を正しく持ち、怠り遊びを防ぎ、怠り遊びを捨て去ろう。』」と。

「彼天如是於長久時，專心善意，捨離放逸，知欲過患。心思惟已，以心動故，心力大故，或於多時久習欲故，還復著樂。彼天如是無量分別無量境界，上下受樂種種諸欲具足之處。種種鳥聲，勝妙園林有蓮花池。七寶山峯多有無量妙蓮花池以為莊嚴，多有無量百千蜂眾出種種聲，莊嚴妙池。彼處有河，滿中飲食。有百千樹，隨念枝網蔭覆彼河，枝間有華，華為堂舍，種種具足。彼天自身有妙光明，無諸憂惱，自善業故得如是報。下中上天皆離妬嫉，迭互相愛，一心一欲，彼此不妨，如是如是遊行受樂。

> かの天人は、長い間、心を一つに善に向け、怠りを捨て、欲望の過ちを知っていた。しかしながら、心が動き、その力が強く、また長く欲望に親しんできたため、再び楽し

「爾時，彼天既受樂已，迭共籌量而作是言：『如我先聞，此夜摩處一切諸天有主，名為牟修樓陀，遊戲受樂，我等今者相與共去。』

「彼處諸天離彼天主牟修樓陀五百由旬，遙聞歌聲，以太遠故，聞不了了。以聲普遍一切天處，是故不了。若鳥音聲，如是歌聲功德具足，聞彼歌聲雖不了了，極生愛樂，不可厭足。以心動故，生決定意，一切天眾即向天主牟修樓陀戲樂之處。彼林一切功德具足。彼欲行天共諸天女種種莊嚴，種種衣服一切功德皆悉具足，普身所著無縷天衣以自莊嚴，其手皆執種種樂器，迭相愛念，生歡喜心。有乘空者、乘蓮花者。復有乘於優鉢羅者，彼優鉢羅有第一香，多有眾蜂。復有乘於拘物頭者，彼拘物頭，形量白色皆如月輪。彼天皆共如是天女遊戲歌舞在空而行，五欲境界種種受樂，不知厭足。彼天善業自心所化，自如是乘。自業所化有下中上，色亦如是有下中上，樂亦如是有下中上。如是受樂，智慧亦爾有下中上，命亦如是有下中上。一切如是。遍滿虛空，向戲樂林，無量種欲具足之處，牟修樓陀天王住處堂殿之所。彼如是行在道，未到戲樂之林，於虛空中遙見如炎，復見一處青寶之色，復於異處見黃白色，復於異處見如火色。「彼天如是空中見已，則生第一希有之心，迭相告言：『天當看此虛空之中希有之事，如著種種希有色衣在虛空中。我未曾見。』彼諸天眾迭互說已，生希有心，少時停住。

> 彼の天界において、諸天は天主牟修楼陀から五百由旬離れた場所で、遠くから歌声を聞く。しかし、あまりに遠いため、はっきりとは聞こえない。その声が天のすべての場所に広がっているため、明瞭には聞こえないのだ。もし鳥の声であれば、そのような歌声の功徳は十分に備わっているが、聞こえ方がはっきりしなくても、極めて愛着を感じ、飽きることがない。心が動かされるため、決意が固まり、すべての天の衆はたちまち天主牟修楼陀の遊戯・快楽の場所へ向かう。その林にはすべての功徳が備わっている。彼の欲行天は、多くの天女たちとともに、様々な荘厳、様々な衣服、すべての功徳を完全に備え、身にまとうものはすべて、縫い目のない天衣で自らを飾り、手にはそれぞれ様々な楽器を携え、互いに愛し合い、喜びの心を生じている。空に乗る者もいれば、蓮華に乗る者もいる。また、優鉢羅（うはつら）に乗る者もいる。その優鉢羅は第一の香りを持ち、多くの蜂が集まっている。さらに、拘物頭（くもず）に乗る者もいる。その拘物頭は形も量も白く、月の輪のようである。彼ら天は、共にそのような天女とともに遊戯し、歌い舞いながら空中を行く。五欲の境地において様々な快楽を受け、飽きることを知らない。彼らの善業が自らの心によって生み出したものであり、それに応じて乗り物が現れる。自らの業に応じて、下・中・上の差があり、色もまたそのように下・中・上があり、楽もまたそのように下・中・上がある。このように快楽を受け、智慧もまた同様に下・中・上があり、寿命もまたそのように下・中・上がある。すべてがその通りである。虚空に満ち溢れ、遊戯の林、無量の欲望が満ちた場所、牟修楼陀天王の住まう堂殿へ向かう。彼らがそのように道を行き、まだ遊戯の林に到着しないうちに、虚空中に遠く炎のようなものを見る。また一か所には青宝のような色を見る。さらに別の場所には黄白色を見る。また別の場所には火のような色を見る。「彼ら天は、このように空中でそれを見ると、初めての稀有な心を生じ、互いに告げ合う。『天よ、この虚空の中の稀有なことを見よ。あたかも様々な希有な

「未經久時，復聞有聲，第一微妙美音歌聲，聞音聲已，復生喜心、希有之心。始從在地乃至遍空一切天眾共諸天女，心皆樂見，悉欲往看。此天如是，空中見者，一切皆是；山樹具足地處諸天，彼天亦爾，遙見此天。

「山樹具足地處諸天亦向天王須夜摩天。須夜摩天坐七寶座，在七寶窟以大青寶瓔珞莊嚴，復以勝妙蓮花之色勝大妙寶而自莊嚴。又復更有第一光明妙寶勝幡，光明普遍一千由旬，有白光炎滿虛空中。如著種種勝妙衣服在於虛空，幡亦如是。

「此廣博行地處諸天如是見已，生希有心，少時停住，須臾則知山樹具足地處諸天亦向天主牟修樓陀所住之處戲樂林所，起如是心：『彼如是去，亦如我去。』廣博行處勝上諸天籌量說言：『我今共彼山樹具足地處諸天，一切和合相與俱去，向彼天主牟修樓陀所住之處。』

> 「この広大なる行地に住む天部の者は、このように見て驚き、しばらく立ち止まり、すぐに山と木々が豊かな地に住む天部もまた、天主・牟修楼陀の住む戯楽林に向かっていることに気づく。次のような心を起こす。『彼らがあのように進むのは、私が進むのと同じだ。』広大なる行地の優れた天部は、考慮して言う。『今、私はこの山と木々が豊かな地に住む天部と共に、皆が集まって一緒に天主・牟修楼陀の住む処へ向かおう。』」

「如是時間暫住須臾。爾時彼處山樹具足地處諸天見廣博行地處天眾，生希有心，作如是言：『我今共彼廣博行處一切諸天，迭共和合，相與同詣牟修樓陀天王住處戲樂林中。』

> その時、しばらくの間、そこに留まりました。 すると、その山と木々が豊かな場所、広大な行いの地に住む天の神々は、珍しい思いを抱いて、こう言いました。 「私は今、この広大な行いの地にいる全ての天の神々と共に、互いに集い合って、ともに牟修楼陀天王の住まいである遊戯林へ赴こうではないか。」

「爾時，如是山樹具足地處諸天共廣博行地處諸天，一切天眾皆共和合，遍在虛空，無量幢幡，皆乘寶殿，在鳥背上，五樂音聲、五欲功德皆悉具足，向戲樂林須夜摩天遊戲大林。多有無量諸欲功德皆悉具足，不可譬喻。往向彼林受境界樂、五欲功德，不知厭足。一切功德富樂之事皆不厭足，迭互相近，不可厭足。如是一切皆受欲樂，不知厭足。

> その時、このような山々や樹木が豊かに備わる地に住む天部の神々と、広大な地に住む天部の神々は、すべての天人の集いが一体となり、虚空いっぱいに広がり、無数の幢幡（どうばん）を掲げていました。彼らは皆、宝石で飾られた殿閣に乗り、鳥の背に載って、五つの楽器の音色や五つの欲の功徳をすべて備え、戯楽林（けらくの森）へと向かいました。これは須夜摩天（すやまとうてん）の遊戯大林（ゆげたいりん）です。 そこには、言葉にできないほど多くの無量の欲の功徳がすべて備わっていました。彼らはその林へと向かい、境界の楽しみや五欲の功徳を受けながらも、満足することを知りませんでした。すべての功徳や富の楽しみに決して満足することなく、互いに近づき合い、飽くことがありませんでした。このように、すべてが欲の楽しみを受けながらも、満足することを知らなかったのです。

「然彼比丘見彼天已，無量業果皆悉諦知，而說偈言：

「『譬如天雨水，是故河增長；如是欲雨故，天增長欲火。彌那生水中，而常患枯渴；如是樂增渴，故天不知足。如虛空無邊，亦復無盡滅；欲如是無邊，界欲不可盡。海水波旋滿，髣髴有足義；悕望於欲者，畢竟不知足。天未得境界，愚癡不知足；心常悕望樂，得已不知足。既得衰惱已，無量到退失，由境界熱惱，是故應捨欲。既被貪欲誑，能壞信欲者，得衰惱則離，而天不覺知。境界非可足，不知足無樂；如是不知足，智者能捨離。寂靜為樂根，苦由境界起，故應修寂靜，遠離境界地。常捨離煩惱，修行無上智，從智得解脫，由煩惱繫縛。病殺繫縛等，境界所怖畏，流轉生死中，皆由於境界。若合若別離，或百或千到，生生處常爾，唯善逝諦知。生死無量樂，生死無量苦，一切由境界，生生處皆有。如是之境界，破壞癡心者，愚癡無眼故，復憙樂境界。捨怨而不近，聞名亦生慮，境界如怨家，癡故不曾捨。若為境界燒，則是愚癡者，為自業所誑，癡故不能離。如有畏火者，猶故近於火；如是境界迷，亦樂近境界。猶如食毒者，不為自受樂；近愛癡亦爾，永無安隱事。如渴者於鹽，舐之不除渴；境界故闇眼，於愛不知足。天境界不足，欲心之所誑，為業風所吹，到於惡道處。』

> 「例えば、天から雨が降れば、川が増えていく。 同じように、欲望の雨が降ることで、天人の欲望の火はますます燃え上がる。 魚は水中に生まれながら、常に渇きに苦しむ。 同じように、楽への渇きが増すばかりで、天人は満足することを知らない。 虚空が限りなく、尽きることがないのと同様に、 欲望にも限りがなく、その領域を尽くすことはできない。 海水が波で満たされているように、一見すると満たされているように思えても、 欲望を追い求める者は、結局のところ満足を知らない。 天人は、まだ対象を得ていない間は、愚かさゆえに満足を知らず、 常に楽しみを願いながら、いざ得ても満足しない。 そして、衰退や悩みを得て、数知れぬほどの退失を招く。 対象の熱悩があるからこそ、欲望を捨てるべきである。 貪欲にだまされ、信仰や欲望そのものを壊されてしまう。 衰退の悩みを得てはじめて離れるが、天人はそれに気づかない。 対象によって満たされることはなく、満足を知らなければ楽はない。 このように満足を知らぬことを、賢者は手放すことができる。 静けさこそが楽の根本であり、苦しみは対象から生じる。 だからこそ、静けさを修め、対象の世界から遠ざかるべきである。 常に煩悩を捨て、無上の智慧を修行する。 智慧によって解脱を得るが、煩悩によって人は縛られる。 病、殺害、束縛など、対象によって恐怖が生じ、 生死の中を流転するのは、すべて対象のゆえである。 会っても別れても、百回でも千回でも、 生まれるところは常にそうであり、それを真に知るのは善逝（悟りし者）のみである。 生死には無量の楽があるが、生死には無量の苦しみもある。 すべては対象によって生じ、生まれるところごとに存在する。 このような対象は、愚かな心を壊すものであり、 愚かで眼がないからこそ、かえって対象を喜ぶ。 怨みを捨てて近づかず、名を聞くだけでも用心する。 対象はまさに怨みの家のようなものだが、愚かゆえに決して手放さない。 もし対象によって焼かれるなら、それは愚か者である。 自らの業にだまされ、愚かゆえに離れることができない。 火を恐れる者が、それでもなお火に近づくように、 対象に惑わされた者は、対象に近づくことを楽しむ。 まるで毒を食べる者が、自らの楽しみにならないのと同じで、 愛執や愚かさに近づくのもまた、決して安らかなことにはならない。 喉の渇いた者が塩をなめても渇きが癒えないように、 対象は目をくらませ、愛執において満足を知らない。 天人は対象に満足せず、欲望の心にだまされ、 業の風に吹かれて、ついには悪道の場所へと至るのである。」

「彼比丘如是諦知無量道處眾生業生，次第皆知，憐愍彼天，已說此偈。

> その比丘は、このようにして無量の道筋にある衆生の業による生まれをありのままに知り、順を追ってすべてを悟った。そして、その天の人々を哀れんで、次の偈を説いた。

「又復彼天迭相和合，一切同行，心生歡喜向戲樂林牟修樓陀天王住處。爾時，彼天如是而行，無量服飾無量樂行，無量業化，無量園林池等受樂，無量百千天女圍遶，如是而行。復有餘天百千堂殿在上而坐，行虛空中，光明周遍普照虛空，歌舞遊戲，五樂音聲，鬘莊嚴身，以香坌身，頸著瓔珞，頭冠天幘，風吹衣裳如雲而行，天女抱之心甚喜樂。復有餘天，天女詠歌及箜篌聲，既聞此聲，心生愛樂。如是等類，若干種天種種受樂，向戲樂林空中而住，悕望受樂。彼地處天一切皆向牟修樓陀天王住處。總說彼天，如業相似，若戲若行若莊嚴具，音聲普遍十方充滿，皆來近在王住堂殿。普彼一切夜摩天眾，牟修樓陀夜摩天王於中最勝。如業之身，以業勝故，其果亦勝。如是因果非不相似，如種子芽。一切天眾皆近天王牟修樓陀所居堂殿，彼天皆劣，唯有天王牟修樓陀於中獨勝。一切諸天，天欲之中，天王欲勝，皆悉具足。無譬喻樂，且說少分。

> また、かの天々は互いに和合し、すべて共に行動し、心に歓喜を生じて、遊戯の林である牟修楼陀天王の住処へと向かう。その時、かの天々はこのようにして行く。無量の装飾、無量の楽しい行い、無量の業によって現れたもの、無量の園林や池などで楽しみ、無量の百千の天女に囲まれて、このように行く。また、他の天々は百千の堂殿に上って座し、虚空の中を行く。その光明は周囲に満ち、虚空を普く照らし、歌舞し、遊戯し、五種の楽器の音声が響く。花鬘で身を飾り、香を身に塗り、首には瓔珞をかけ、頭には天の冠をいただき、風に衣をなびかせて雲のように行く。天女を抱き、その心は大いに喜び楽しむ。また、他の天々は、天女の詠歌や箜篌の音を聞き、その音声を聞いて、心に愛楽を生じる。このような種類の、様々な天々が様々に楽しみながら、遊戯の林へと向かい、虚空に留まり、楽しみを願い望む。かの地の天々は、すべて牟修楼陀天王の住処へと向かう。総じてかの天々を言えば、その業に従い、戯れたり、行き来したり、装飾したりする。その音声は十方に普遍し満ちて、すべて王の住む堂殿の近くに集まる。普く、かの一切の夜摩天の衆の中で、牟修楼陀夜摩天王は最も勝れている。業に従った身であり、業が勝れているゆえに、その果報もまた勝れている。このような因果は似ずということはなく、種と芽のようである。一切の天々は皆、天王牟修楼陀の居る堂殿に近づく。かの天々は皆劣り、ただ天王牟修楼陀のみがその中で特に勝れている。一切の天々の天の欲の中で、天王の欲が勝れ、すべてを具足している。譬えようもない楽しみであるが、ほんの一部分を説こう。

「有七寶鳥在樹林上，周匝遍有。嘴銜樹心，身無所依在虛空中。又復異處饒希有鈴，其聲美妙，若天聞者，皆來向之。如是分別心快樂故，在彼林行。又復更有七寶眾鳥間錯雜翅，在彼林外周匝圍遶，嘴中銜鬘繞林飛行。又復多有希有孔雀，背上皆有蓮花水池。於彼池中饒種種鳥，有百千蜂在彼池水蓮花之中，蜂有音聲。池名清水。彼蓮華葉種種不同，或有花葉是毘琉璃，或有花葉是七寶者。有餘蓮花，五由旬香。如是彼鳥孔雀背上端嚴殊妙，歌樂嬉戲，池鳥相應。彼孔雀背亦甚希有。又復多有大希有鳥，孔雀銜鬘，謂其背上有大蓮花。天子坐彼蓮花臺上，有百天女而為圍遶，種種嬉戲美妙歌音而受快樂。又復多有大希有鳥，孔雀銜鬘。彼受樂天自業所化，一一孔雀頭上皆有隨念樹生。有種種花，其花甚饒，樹上多有七寶翅鳥。其諸天子既上彼樹，與天女眾共飲天酒，歌舞嬉戲而受快樂。又復多有大希有鳥，孔雀銜鬘。一一孔雀叢毛之中，多諸天眾共天女眾坐受快樂，迭相愛樂，嬉戲歌舞受天之樂。天見如是孔雀銜鬘希有事故，生希有心。又復更見第二希有，所謂蓮花妙池銜鬘。彼蓮花池其數二萬，離於泥濁，有金銀沙，八功德水盈滿彼池，鵝鴨鴛鴦池中甚饒。

> 七宝でできた数々の鳥が林の上におり、あたり一面にいます。くちばしで木の芯をくわえながら、体はどこにも寄せずに虚空に浮かんでいます。また別の場所には、めったにない鈴がたくさんあり、その音色は美しく、天人がこれを聞けば皆、その方へと向かいます。このように、心が楽しくなるままに、彼らはその林の中で過ごしています。 さらにまた、七宝でできた様々な鳥たちが、色とりどりの羽を混ぜ合わせて、その林の外側をぐるりと取り巻き、くちばしに花の首飾りをくわえて林の周りを飛び回っています。 また、数多くの珍しい孔雀がいて、その背中にはそれぞれ蓮の花の水池をのせています。その池の中には様々な鳥がたくさんおり、百千もの蜂がその池の蓮の花の中で音を立てています。その池の名は清水といいます。蓮の花や葉は様々で、ある花や葉は瑠璃でできており、あるものは七宝でできています。中には、五由旬もの香りを放つ蓮の花もあります。このように、鳥や孔雀の背中は見事で美しく、歌や遊びの楽しさは池の鳥たちと呼応し合っています。その孔雀の背中はまたたいへん珍しいものです。 さらにまた、多くの大きな珍しい鳥がいて、孔雀が花の首飾りをくわえています。その背中には大きな蓮の花があり、天子がその蓮華の台座に座り、百人の天女が周りを取り巻き、様々な遊戯や美しい歌声で楽しみを味わっています。 さらにまた、多くの大きな珍しい鳥がいて、孔雀が花の首飾りをくわえています。快楽を受けるその天子たちは自らの業によって姿を現し、一羽一羽の孔雀の頭には、思いのままに生じる木が生えています。そこには様々な花があり、その花はとても豊かで、木の上には七宝の羽を持つ鳥がたくさんいます。天子たちはその木に登ると、天女たちと共に天酒を飲み、歌や踊りに興じて楽しみを味わいます。 さらにまた、多くの大きな珍しい鳥がいて、孔雀が花の首飾りをくわえています。一羽一羽の孔雀の羽毛の間には、多くの天の衆が天女たちと共に座って楽しみを味わい、互いに愛し合い、戯れ歌い踊りながら天の楽しみを受けています。天の者たちはこのような孔雀が花の首飾りをくわえている珍しい出来事を見て、珍しいという心を起こします。 またさらに、第二の珍しいものを見ます。それは蓮華の素晴らしい池が花の首飾りをくわえているというものです。その蓮華の池の数は二万あり、泥や濁りがなく、金や銀の砂が敷き詰められ、八功徳水がその池に満ちています。鴨や鴛鴦が池の中にたくさんいます。

「天善業故，鵝說偈言：

> 天の善業の故に、鵞鳥が偈を説いて言うには、

「『久時受此樂，此樂非常法，一切皆無常，而天不覺知。此樂且相續，必當有斷時，為欲心所誑，不覺知失壞。此樂雜苦樂，隱覆故不覺；如蓮花鬘中，毒蛇不可見。猶如雜毒飯，食者被殺害；此樂一切爾，必當墮地獄。如索筋為羂，眼見甚可愛；境界羂如是，見好實甚惡。如金波迦果，初甜美味多，後時則能殺，世間樂亦爾。如飛虫見燈，其心甚愛樂，入中則被燒，此樂亦如是。愚凡夫不知，戲樂猶如燈，悕樂如觸火，畢竟不得樂。如鹿患渴故，隨逐陽炎走，畢竟不除渴，此樂亦如是。過現不知足，未來亦復然，一切天境界，如是故應捨。寂樂為根樂，是智者所說，於樂根無心，彼則常受苦。梵實第一勝，忍為最寂靜，一智明是世，一慈生勝樂。不惱他最吉，正見第一善，直心最為良，捨惡業亦爾。若近於老宿，恒常敬重法，供養於師長，信業則為善。常供養三寶，正心意無垢，復供養父母，是涅槃城道。佛說一切法，出家最第一，梵行行中勝，能得一切樂。佛說諸施中，法施最為勝；勤中禪第一，則能到涅槃。於施戒智中，唯智以為最，智能到涅槃，施戒唯得樂。眼見非為最，智見則為勝；佛說八分道，諸道中寂靜。諦中四諦勝，是如來所說；於五種力中，智慧力為最。說上下八方，更無有勝者，唯如來為最，能示真法故。說一切眾中，聖眾最寂靜，以三寶福田，依止能生樂。等供養父母，第三次和上，能以法境界，開眼令覩見。非可見可取，如來如是說，此皆是樂地，依境界非樂。若能行此法，則行無垢道，行此道安隱，夜摩地非樂。』

> 「長くこの楽を受けるといっても、この楽は永遠のものではない。 すべてのものは無常であり、天人はそのことに気づかない。 この楽も続くようでいて、必ず途切れる時がくる。 欲望の心に欺かれ、失われることに気づけない。 この楽には苦しみが混ざっているのに、覆い隠されているので気づかない。 それはまるで、蓮の花の飾りの中に毒蛇が隠れているようなものだ。 毒の混ざった飯を食べれば、人は死んでしまうように、 この楽もすべてそうであり、必ず地獄に堕ちるだろう。 筋を縄にした罠は、見た目にはとても愛らしい。 境界の罠もそれと同じで、良く見えるものが実はとても悪い。 金波迦（きんばか）の果実のように、最初は甘く美味しいが、 後になって人を殺してしまう。世の中の楽もまた同じだ。 飛ぶ虫が灯りを見て、心から愛し、そこに入れば焼かれてしまうように、 この楽もまたそうである。 愚かな凡夫は知らない。遊びの楽は灯りのようなものだと。 楽を渇望することは火に触れるようなもので、結局は楽を得られない。 鹿が渇きに苦しみ、陽炎（かげろう）を追いかけても、 結局は渇きが癒されないように、この楽もまたそうである。 過去も現在も満足を知らず、未来もまた同じである。 すべての天の境涯はそうであるから、捨て去るべきだ。 静かな楽が根底の楽であり、それは智者が説くところである。 楽の根元に心を留めなければ、彼は常に苦しみを受ける。 梵（清净）は実に第一の勝れであり、忍耐が最も静かである。 一つの智慧がこの世を明らかにし、一つの慈しみが勝れた楽を生む。 他者を悩まさないことが最も吉であり、正しい見解が最も善い。 直心が最も良く、悪業を捨てることもまた同じである。 もし年長者に近づき、常に敬って法を重んじ、 師長を供養し、因果を信じるならば、それは善いことである。 常に三宝を供養し、心を正しく汚れなきものとし、 さらに父母を供養することこそ、涅槃の城への道である。 仏はすべての法の中でも、出家が最も第一であると説かれた。 梵行（清らかな行）は行の中での勝れであり、すべての楽を得られる。 仏は諸々の施しの中で、法の施しが最も勝れていると説かれた。 勤めの中では禅定が第一であり、それによって涅槃に至ることができる。 施し・戒め・智慧の中では、ただ智慧が最上のものである。 智慧は涅槃に至り、施しと戒めはただ楽を得るだけである。 眼で見ることは最上ではなく、智慧で見ることが勝れている。 仏は八つの正道を説き、全ての道の中で静かな道であるとした。 真理の中では四つの聖なる真理が勝れており、それは如来の説かれたところである。 五つの力の中では、智慧の力が最も勝れている。 上下八方を説いても、それに勝るものはなく、 ただ如来が最も勝れており、真の法を示すからである。 あらゆる集まりの中で、聖なる集まりが最も静かであり、 三宝という福田に依り頼むことで、楽を生むことができる。 父母を等しく供養し、三番目には師を敬い、 法の境界によって、智慧の眼を開き見えるようにする。 見えても捉えられない、と如来はこのように説かれた。 これらはすべて楽の境地であるが、その境涯に執着すれば楽ではない。 もしこの法を行じるならば、それは汚れなき道を歩むことである。 この道を行けば安らかである。夜摩天の境地は楽ではない。」

「彼鳥如是，以善業故，本人中時，因法活命，賣法得物以自存濟。如是業因，彼處為鳥，本善業故，雖生鳥中，憶法不忘，如是說偈。是故應當精勤讀誦，常受持法。以業因緣，雖作畜生，本來習故，善能說法，得果不空。

> あの鳥はこのように、善行の功徳によって、前世で人間だった時に、仏法によって生計を立て、法を売って物を得て自分を養っていました。このような業の因縁により、彼はその場所で鳥として生まれましたが、もとの善業のゆえに、鳥の身でありながらも、法を記憶して忘れず、このように偈を説きました。それゆえ、人は熱心に経典を読み誦し、常に法を受け持つべきです。この業の因縁によって、たとえ畜生に生まれ変わっても、もとの習慣によって、巧みに法を説くことができ、得る果報は無駄になることはありません。

「又彼一切諸夜摩天向彼二萬蓮花之池，種種異異別別莊嚴，勝妙天女而為圍繞。於彼池中，先有種種異異莊嚴諸天之眾、諸天女眾，百百千千那由他數、那由他數、億億數等，種種受樂。共諸天女五樂音聲，或有入在蓮花中者，或有坐於蓮花臺者，或有在於蓮花葉者，或有在於蓮華鬚者。隨心意念，麁細等身，如眼睫頃，百千由旬已能來去。如眼所見無遠無近，皆一念時，彼天來去亦復如是。如一指面，眾眼共看，不妨不患。如是彼天，或有一百或有一千，皆共聚在一蓮花鬚，同坐不妨，不隘不迮。以善業故，自業力故，彼蓮花池如是勢力、如是功德。彼天如是於蓮花中，或百或千，如是嬉戲，如心美味天酒恣飲。彼蓮花中舊住諸天共後來天和合嬉戲，自有光明勝百千日，皆受欲樂。於如是處久時受樂，爾乃前詣牟修樓陀天王林所。欲入彼林，彼林多有無量種色甚可愛樂。牟修樓陀如心意念化作彼林，如自心中如是如是種種所念，如是如是化作種種異異樹林，本未曾有。夜摩天王善業力故。爾時，天眾見如是林本未曾有，本未曾見，生希有心。生是心已，欲入彼林，漸次近之，彼天種種莊嚴其身，塗天栴檀，著天所應如天相似種種衣服，過蓮花池，到彼樹林，見已羞慚。業如是故，有如是林，種種勝妙。彼諸天眾見餘林來，既見彼林，普遍審觀。既審觀已，迭相向說，迭相指示，然後入中。

> また、かの一切の夜摩天（ヤーマ天）は、かの二万の蓮華の池へと向かう。そこには様々に異なる荘厳が施され、勝れた天女たちが周囲を取り巻いている。その池の中には、あらかじめ様々に荘厳された多くの天の衆や天女の衆が、百、千、那由他（なゆた、極めて大きな数）、さらに億といった数で、様々な楽しみを受けている。彼らは天女たちと共に五つの楽の音声を奏で、ある者は蓮華の中に入り、ある者は蓮華の台座に座り、ある者は蓮華の葉の上に、またある者は蓮華の蕊（しべ）の上にいる。心の思いのままに、粗いものや細かいものなど、様々な体となり、瞬く間に百千由旬（ゆじゅん、長さの単位）もの距離を行き来する。目に見えるところに遠近なく、全てが一つの思いの瞬間に、かの天たちもまた同じように行き来するのである。指の面の上に、多くの目が共に見ても、妨げも悩みもない。そのように、かの天たちは、百であれ千であれ、皆一つの蓮華の蕊に集まり、共に座っても妨げがなく、狭くもなく窮屈でもない。善き行いの故に、自らの業の力の故に、かの蓮華の池にはこのような力と功徳がある。かの天たちは、このように蓮華の中で、百や千と戯れ、心のままに美味しい天の酒を思う存分に飲む。かの蓮華に元から住んでいた天たちは、後から来た天たちと和合して戯れ、自身の光は百千の太陽よりも勝れ、全て欲の楽しみを受ける。このような場所で長い間楽しんだ後、ついに牟修楼陀（むしゅるだ）天王の林（はやし）へと向かう。その林に入ろうとする時、その林には無量の種類の色があり、非常に愛で楽しい。牟修楼陀は心の思いのままに、その林を化現する。自らの心の中で、このように願う様々な思いに応じて、このように様々に異なる未曾有の樹林を化現するのである。夜摩天の王の善き業の力による。 その時、天の衆はこのような未曾有の林を、かつて見たこともなく、新たに見る，希有な心を生じる。その心を生じて、林に入ろうとし、徐々に近づく。かの天たちは様々にその身を荘厳し、天の栴檀（せんだん）を塗り、天にふさわしい様々な衣服を着て、蓮華の池を過ぎ、かの林に到る。見て、恥ずかしさを覚える。業がこのようなものであるから、このような林があり、様々に勝れ妙なるのである。かの天の衆は、他の林が来るのを見て、すでにその林を見て、くまなく詳しく観察する。詳しく観察した後、互いに語り合い、互いに指し示しながら、その後、中に入るのである。

「既過彼池，入林中已，見鸚鵡行，皆悉執持種種寶鬘，一一鸚鵡寶珠繫咽，如是寶珠相續為鬘繞彼林已，而說偈言：

> 池を渡り終えて林の中に入ると、鸚鵡たちが様々な宝の花飾りを手にしているのが見えました。どの鸚鵡も喉に宝珠を結びつけており、それらの宝珠が連なって花飾りとなり、その林を巡り巡っていました。そして、鸚鵡たちはこう詠いました。

「『此眾生輪轉，自業所牽推，老死樑繩中，眾生不厭離。彼道至道行，天人阿修羅，不知真諦故，為自心所使。世間所作輪，手推非疾轉；業手眾生輪，轉之甚為速。十二輻和合，聚在癡轂中，因緣輪迴轉，世間不覺知。』

> 「この世の生きとし生けるものは、自らの為した行い（業）に引き寄せられて巡り続ける。 老いと死という縄に絡められても、人々はそこから逃れようとしない。 天・人・阿修羅の様々な世界へと渡り歩くが、真実の教えを知らないため、自らの心に操られている。 世の中の回る輪は、手で押しても速くは回らない。 しかし、業という手が動かす、この世の人々の輪は、驚くほどの速さで回転する。 十二の縁起の輪が組み合わさり、無明という心の中心に集まっている。 因と縁によって輪廻は巡り続けるが、世の人々はそれに気づかない。」

「彼天如是聞鸚鵡鳥所說偈已，一心善念，觀察本業，大慇重心，念本業行，作如是言：『彼鸚鵡鳥則為勝我，我則不如彼鸚鵡鳥。思惟作業，我為愛壞，嬉戲受樂。』時，彼諸天如是說已，為欲往見夜摩天王牟修樓陀，過鸚鵡行，復向名為嶮岸鬘林。於彼林中復有一林，名曼陀羅，百千色花以為莊嚴。彼林多有種種鳥眾，林之光明勝百千日，離日熱過。彼林之樹有勝光明。見彼樹林則生眼樂，聞鳥音聲則生耳樂，嗅藕根香則生鼻樂，甞食果味則生舌樂，無縷天衣觸生身樂。諸根樂故，意生喜樂。五根縛心，令意隨順，思念諸法。以二種意，隨順而知。如是見於曼陀羅林。曼陀羅樹一一皆饒諸天女眾。如是天女，種種衣服莊嚴微妙，口中言說，種種歌舞，種種受樂，彼諸天眾本未曾見。

> その天は、かの鸚鵡が説いた偈を聞いてから、一心に善く念じ、自らの過去の業を観察し、深く敬う心をもって、自らの業の道を思い起こして、こう言った。「あの鸚鵡鳥は私より勝れている。私はあの鸚鵡鳥に及ばない。業を思い起こし、私は愛欲に破られ、遊戯にふけり楽しんでいた。」そのように天たちが語った後、彼らは夜摩天の王である牟修楼陀に会いに行こうとして、鸚鵡の通り過ぎた場所を越え、さらに「険岸鬘林」という名の林へと向かった。その林の中にはさらに「曼陀羅」という名の林があり、百千の色とりどりの花で飾られていた。その林にはさまざまな鳥が多く集い、林の光は百千の太陽よりも輝かしく、太陽の暑さによる苦しみはなかった。その林の木々は優れた光を放っていた。その林を見れば目に楽しく、鳥の声を聞けば耳に楽しく、蓮根の香りを嗅げば鼻に楽しく、果実の味を味わえば舌に楽しく、織糸のない天衣に触れれば身に楽しかった。諸々の感官が楽しいがゆえに、心に喜びが生まれた。五つの感官が心を捉え、意を従わせ、諸々の法を思念させた。二種の意によって、すべてを従順に知った。こうして曼陀羅の林を見た。曼陀羅の木々には、それぞれ多くの天女たちが集っていた。それらの天女たちは、さまざまな衣服で微妙に飾られ、口々に語り、種々に歌い舞い、さまざまな楽しみを受けていた。それらの天の衆は、これまでに見たことのないものだった。

「如是彼處一切地中地行諸天，見彼天女在樹林中。不可譬喻，無量百千億眾甚多天眾、天女普遍林中。無有一天、無一天女心不悕望欲見天主牟修樓陀，一切悕望皆欲往見。實心喜樂欲見天王，以是天王福德力故。爾時，彼天如上所說和合而來，行彼林中。彼林多有流水河池、蓮花雜林皆悉具足，地分處處一切莊嚴。其地柔軟皆作金色，雜寶間錯。如是見已，則受欲樂。如是次第，漸進前向夜摩天王牟修樓陀，一切同心悕望欲見，心皆相愛。如上所說種種異乘，過彼地處，復入異地。於彼地中有可愛山，如是地中諸可愛山其數五百，是遊戲處。彼一切山是毘琉璃，其樹皆是赤蓮華寶，金葉莊嚴。復有寶樹，銀葉莊嚴。彼處多有珊瑚諸鳥，又復更有異法莊嚴，無量雜寶鹿鳥莊嚴，種種河池流水莊嚴，交枝為舍。普遍莊嚴交枝之舍處處遍有，其果金色，金寶樹枝，其果皆作毘琉璃色，金寶之葉。有百千蜂，蜂有音聲美妙悅耳。種種味觸飲食滿河，多有寶鳥莊嚴彼河。彼中地處，觸則生樂。復有天眾見諸寶山，山名遊戲。有見平地、有見山峰、有見窟門，復有天見樹枝堂舍，有見一切在蓮花池，天眾天女皆悉歡喜。有共天女而歌舞者，或有諸天共天女眾入蓮華林遊戲樂者，有歡喜心而飲酒者，有以天華散平地者，有結花鬘莊嚴身者，有以寶冠共諸天女迭互莊嚴。自有光明，身無垢穢。復有異天共諸天女行虛空者。復有異天手執樂器，口中詠歌，住在平地。或百或千，彼天之身，如是如是種種莊嚴，種種光明，青黃赤紫、雜色光明從身而出。

> その地のすべての場所で、地を行く天々は、林の中にいる天女たちを目にした。たとえようもなく、無量の百千億もの多くの天の衆と天女たちが林に満ちていた。一人の天として、また一人の天女として、天主ムシュドゥダを拝見したいと願わない者はおらず、皆が一目見ようと望んでいた。心から喜び楽しみ、天王を拝見したいと願っていた。それは、この天王の福徳の力によるものであった。 その時、それらの天々は先に述べたように集まって来て、その林の中を進んだ。その林には、多くの流れる水、池、蓮華、雑多な林がすべて備わり、地面の場所ごとがすべて荘厳されていた。その地は柔らかく、すべて金色をしており、様々な宝が織り交ぜられていた。このように見て、彼らは愛欲の楽しみを受けた。 このように次第に、彼らは夜摩天王ムシュドゥダのもとへと進んで行った。皆、心を一つにして一目見ようと望み、心は互いに愛し合っていた。 先に述べたように、様々な異なる場所を通り過ぎ、その地の領域を過ぎて、さらに別の地へと入った。その地には愛すべき山があり、そのような地の中にある愛すべき山々は五百あった。それは彼らの遊戯の場所であった。それらの山々はすべて毘琉璃でできており、その木々はすべて赤蓮華宝で、金色の葉で飾られていた。また、銀の葉で飾られた宝の木もあった。そこには多くの珊瑚や様々な鳥がおり、さらに別の法による荘厳もあった。無量の雑多な宝、鹿、鳥たちが荘厳し、様々な川や池、流れる水が荘厳し、枝を交差させた堂舎があちこちに普遍的にあった。その実は金色で、金宝の枝を持ち、その実はすべて毘琉璃色をしており、金宝の葉があった。百千の蜂がおり、蜂の声は美しく耳に心地よかった。種々の味や触感を備えた飲食物が川に満ち、多くの宝鳥たちがその川を飾っていた。その中の地の場所は、触れると楽が生じた。 さらに、天々は様々な宝の山々を見た。名を遊戯山という。ある者は平地を見、ある者は山の頂上を見、ある者は洞窟の門を見た。また、ある天は木の枝で作られた堂舎を見、ある者はすべての蓮華池の中にいるのを見た。天々と天女たちは皆、歓喜した。 共に天女と歌い踊る者もいれば、ある天は天女たちと共に蓮華林に入って遊戯し楽しむ者もいた。歓喜の心で酒を飲む者もいれば、天の花を平地に散らす者もいた。花の鬘を結んで身を飾る者もいれば、宝冠で天女たちと互いに飾り合う者もいた。彼らは自ら光明を放ち、身に汚れはなかった。さらに、別の天は天女たちと共に虚空を行く者もいた。また別の天は、楽器を手に取り、口で歌を詠みながら、平地に立っていた。あるいは百、あるいは千もの、それらの天の身は、このように様々に飾られ、様々な光明を放ち、青、黄、赤、紫、雑色の光明が身から出ていた。

「爾時，彼天既於如是遊戲山中受快樂已，欲見天王牟修樓陀，更前內入彼天。復見夜摩天王，名集鬘地，即入其中。山樹具足、廣博行地，彼一切天第一莊嚴，并集鬘地，三地諸天皆於天王牟修樓陀生敬重心。是彼天王善業力故，是彼天王過去修集無量善業之所感致。

> その時、天人はこのような遊戯の山で楽しみを味わった後、天王の牟修樓陀に会いたいと思い、さらに奥へと進みました。すると、夜摩の天王、その名を集鬘地という方の元に入っていきました。山や木々が豊かに茂り、広々とした行き来のできるその地は、あらゆる天人のなかで最も荘厳な場所であり、集鬘地を含めた三つの天界のすべての天人は、天王の牟修樓陀に対して深い敬愛の心を抱いていました。これは、その天王の善い行いの力によるものであり、また、過去において限りない善行を積み重ねてきたその結果として現れたものです。

「集鬘地中有一萬殿，無量種色種種金柱而為莊嚴。彼殿可愛，金寶為壁，毘琉璃寶、青寶柱雜雜間錯。復有異殿毘琉璃壁，金寶、青寶拘欄，因陀羅寶以為窓牖，又復多有種種寶柱雜雜間錯。復有異殿毘琉璃壁，金寶為門，毘琉璃扉，種種間錯。復有樓殿甚可愛樂，謂赤蓮花雜金為柱，金寶為門，珊瑚為窓，種種雜寶間錯其地。又復彼處種種間錯青寶為壁，赤金為門，白銀為柱，普彼殿內光明炎鬘。

> 集の世界には一万の宮殿があり、無数の種類の色と様々な金の柱によって荘厳されています。その宮殿は美しく、金の宝物を壁とし、瑠璃の宝石や青い宝物の柱が混ざり合って飾られています。また別の宮殿には瑠璃の壁、金や青い宝物の欄干、因陀羅の宝物が窓や窓枠として使われ、さらに多くの様々な宝物の柱が混ざり合っています。また別の宮殿には瑠璃の壁、金の宝物でできた門、瑠璃の扉があり、様々に彩られています。さらにまた、高楼の宮殿はとても愛らしく、赤い蓮華と金が混じった柱、金の宝物の門、サンゴの窓があり、様々な宝物がその地を彩っています。また、そこでは青い宝物の壁、赤金の門、白銀の柱が様々に混ざり合い、宮殿の内側全体が光の炎の鬘で満ちています。

「又復彼處牟修樓陀天王之殿，種種業化，第一赤色金寶之殿，金剛間錯，赤蓮花寶以為殿柱，七寶為窓，第一光明迭相照耀重樓行殿。如是如是種種莊嚴，彼天見已，迴眼遍看。復觀寶山，彼此迭共相與同心，普看山殿，前向大王須夜摩天，然後乃入牟修樓陀天王殿內。既如是入，勝勝異見，種種可愛，第一希有無量功德一切具足。彼諸天等，見集鬘已，悕望欲見夜摩天主牟修樓陀，一切天眾皆悉同行，復入一處王所行處。見大天王七千天子而為圍繞，悉皆第一勝妙莊嚴。身有光明，一一天子威德如山，天衣流動，頭著寶冠，肘後、臂上妙寶莊嚴，勝妙花鬘以嚴其胸。有如是等七千天子圍遶天王牟修樓陀，亦如眾山周匝圍遶須彌山王，亦如諸河圍遶大海，如星曜等圍遶於月。如是彼天一切圍遶夜摩天王牟修樓陀，如是而住。夜摩天王端正殊妙，光明威德勝出一切諸餘天眾。天王之殿有百千柱，彼一一柱皆是七寶，以莊嚴殿。天因陀羅大青寶座。彼天王殿如是勢力如是如是。天入彼殿，如是如是轉更寬博，如是如是七寶莊嚴。殿內有樹，名殿嚴樹。彼如是樹，恒常有花，於六時中具足不闕，又一切時，常有天果。彼殿何名？謂名樂見。七寶為壁，種種間雜。

> またまた、そこには牟修楼陀天王の宮殿がある。様々な業の果報として、最も第一の赤い金の宝でできた宮殿であり、金剛石がちりばめられ、赤蓮華の宝を宮殿の柱とし、七宝で窓が作られている。第一の光明が互いに照り輝き、幾重にも連なる楼閣の宮殿である。このように様々に荘厳されたその宮殿を、かの天人は見て、目を巡らせてあまねく眺める。また宝の山々を観察し、互いに同調し心を一つにして、山と宮殿を一斉に見渡す。そしてまず王である須夜摩天の方を向き、その後、牟修楼陀天王の宮殿の中に入る。こうして入ると、次々に素晴らしい光景が現れ、様々で愛らしく、第一で希有な無量の功徳が全て備わっている。かの天人たちは、集まりの鬘（装飾）を見ると、夜摩天の主である牟修楼陀天王に拝謁したいと願い、天人の群れは皆全て共に従い、さらに王の行くところに入る。そこには大いなる天王を、七千の天子たちが取り囲んでいる。彼らは皆、第一の素晴らしい荘厳を備えている。身には光明があり、一人ひとりの天子の威徳は山のようである。天人の衣はひらひらと揺れ、頭には宝冠を戴き、肘の後ろや腕には見事な宝が飾られ、勝れた花の鬘が胸を飾っている。このように七千の天子たちが、天王である牟修楼陀を取り囲んでいる。それは、あたかも多くの山々が周囲を取り巻いて須弥山王を囲むかのようであり、多くの河が大海を囲むかのようであり、星々や惑星などが月を囲むかのようである。このようにかの天人たちは皆、夜摩天王の牟修楼陀を取り巻いて、そのように留まっている。夜摩天王はその姿が端正で殊勝に妙であり、光明と威徳は他の全ての天人の群れよりも勝っている。天王の宮殿には百千の柱がある。その一本一本の柱も皆、七宝であり、宮殿を荘厳している。天のインドラ（帝釈天）という大いなる青い宝の座がある。かの天王の宮殿は、このような勢力を持っており、このように、天人がその宮殿に入れば入るほど、さらに広々となり、このように七宝で荘厳される。宮殿の中には樹があり、その名を「殿厳樹」という。その樹は常に花を有し、六つの季節を通じて欠けることなく備わり、また常に天の果実がある。その宮殿の名は何というか？「楽見」という名である。七宝で壁が作られ、様々に混じり合って飾られている。

## 正法念處經卷第四十二

> 正法念処経 第四十二巻