(五)
(五)
復次,夫少欲者,雖有財物心不愛著,猶得稱之名為少欲。
さらに、欲の少ない者は、たとえ財産を持っていても心がそれに執着しません。それゆえ、欲が少ない者と呼ばれるのです。
我昔曾聞,有優婆塞,彼優婆塞時有親友信婆羅門法。時彼親友善信婆羅門,弊衣苦行五熱炙身、恒食惡食臥糞穢中,即喚優婆塞言:「汝可就此觀婆羅門,汝頗曾見清身自苦高行之士少欲知足如此人不?」優婆塞言:「如此高行可誑於汝。」即共親友問婆羅門:「汝今苦行為何所求?」婆羅門曰:「我今苦行欲求為王。」時優婆塞語親友言:「此人今者,方求大地庫藏珍寶,宰割自恣貪嗜美味,宮人侍御好樂女色,種種音樂而以自娛。雖作大臣長者有諸財寶不適其意,乃欲希求一切大地人民珍寶,何以稱之為少欲耶?汝但見其身行苦行,便謂少欲,不知此人所求無厭,謂為少欲。」即說偈言:
昔、ある優婆塞(在家の仏教徒)がいました。その優婆塞には、バラモン教を信じる友人がいました。その友人は信心深いバラモンで、粗末な衣をまとい、苦行に励み、五熱(五種の火による苦行)で身を焼き、常に粗悪な食べ物を食べ、汚物の中に横たわっていました。 ある時、その友人が優婆塞を呼んで言いました。「どうか、このバラモンをご覧ください。あなたはこれほど清らかに身を律し、自ら苦しみ、高潔な行いをし、欲が少なく足ることを知る人を見たことがありますか?」 優婆塞は答えました。「このような高潔な行いは、あなたを欺くためのものに過ぎません。」 そこで優婆塞は友人と共にバラモンに尋ねました。「あなたは今、この苦行によって、何を求めようとしているのですか?」 バラモンは言いました。「私は今、この苦行によって、王となることを望んでいます。」 優婆塞は友人に語りました。「この人は今、大地の財宝や宝物を求め、欲しいままに振る舞い、美味なものを貪り、宮中の女官に仕えられ、女色を好み、さまざまな音楽を楽しもうとしているのです。たとえ大臣や長者となり、多くの財宝を持っても満足せず、さらにあらゆる大地や人民や宝物まで望んでいるのです。それなのに、どうして『少欲』などと呼べるでしょうか? あなたはただ、彼が身に苦行を課している様子を見て、『少欲』と思い込んでいるだけです。この人の求める心が限りなく、決して満ち足りることがないことを知らないのです。」 そして、優婆塞は次の偈を唱えました。
「所謂少欲者,非必惡衣食,
無諸資生具,以之為少欲。
此人於今者,心如大河海,
貪求無厭足,云何名少欲?
今修此苦行,貪渴五欲故,
此人實虛偽,詐現少欲相,
為貪故自苦,實非少欲者。」
「いわゆる『少欲』というのは、必ずしも粗末な衣服や食べ物を身にまとい、生活の道具を持たないことを指すわけではありません。 今ここにいるこの人は、その心が大河や大海のように広がり、貪り求めて満足することがありません。どうしてこれを『少欲』と言えるでしょうか? 今、このような厳しい修行を行っていても、それは五つの欲望に渇き求めているからです。 この人は実は虚偽であり、少欲の姿を装っているだけです。 貪りのために自らを苦しめているのであって、真の少欲の人とは言えないのです。」
說是偈已,優婆塞復作是言:「今者此人具諸貪欲瞋恚愚癡,仙聖所行無有少分。是故當知,夫少欲者不在錢財多諸寶物。何以知之?如頻婆娑羅王富有國土象馬七珍,猶名少欲。所以者何?雖有財寶心不貪著樂於聖道,以是之故,雖復富有七珍盈溢,心無希求名為少欲。雖無財寶希求無厭,不得名為少欲知足。」即說偈言:
この偈を説き終えて、優婆塞はさらに次のように述べた。
「今この人は、貪欲・瞋恚・愚痴をことごとく具えており、聖者や仙人の行いとは全く無縁である。ゆえに知るべきである。『少欲』とは、財貨や珍宝を多く持つかどうかにあるのではない。どうしてそう分かるのか?例えば、頻婆娰羅王は国土や象・馬・七宝を豊かに有しながら、なお『少欲』と称される。それはなぜか。財宝があっても心に執着せず、聖なる道を喜ぶからである。それゆえ、たとえ七宝が溢れるほどあっても、心に求めずにいれば、これを『少欲』という。たとえ財宝がなくとも、求めやむことがなければ、『少欲知足』とは呼べないのである。」
そこで、次の偈を説いた。
「若以無衣食,倮形尼乾等,
造作諸勤苦,以為苦行者;
餓鬼及畜生,貧窮諸衰惱,
斯等處艱難,亦應名苦行。
彼人亦如是,徒為自疲勞,
形雖作苦行,而心懷貪著,
希求無厭足,不名為少欲。
雖復具眾物,心無所染著,
修行樂聖道,是乃名少欲。
譬如諸農夫,以穀種田中,
貪收多果實,不名為少欲。
身如惡癰瘡,將適須眾具,
意求於道故,是名少欲者。
為治惡癰瘡,少受資生具,
心不貪後有,是真名少欲。
心意不諂曲,亦不求名利,
雖有資生具,名聞具實德,
能有如斯事,是乃真少欲。」
「もしも、衣服や食物を断ち、裸身のニガンタ(ジャイナ教の苦行僧)のように、 さまざまな苦しい行いを積み、それを苦行だとしている者がいるとしよう。 しかし、餓鬼や畜生、貧しくて衰え悩む者たちも、 同じように苦しい境遇にある。ならば、彼らもまた苦行者と呼ぶべきなのか? そうではない。そのような者は、ただむなしく自分を疲れさせているにすぎない。 姿かたちは苦行をしていても、心には貪り(とらわれ)が宿っている。 求めても満たされることがなく、それを“少欲(欲望の少なさ)”とは呼べない。
反対に、多くの物を持っていても、心がそれに染まらず、 聖なる道を楽しんで修行する者こそ、本当の“少欲”というのだ。 たとえば農夫たちが田んぼに穀物の種をまき、 多くの実りを貪り求めるなら、それは“少欲”とは呼べない。
この身体はまるで悪性の腫れ物のようなもの。それを養うにはさまざまな道具が必要だ。 しかし、あくまで道を求める心でそれらを用いるなら、それが“少欲の者”である。 悪性の腫れ物を治療するために、必要最小限の道具を使うように、 心で来世(さらなる生存)への執着を持たないこと、これこそが真の“少欲”である。
心にへつらいや曲がったところがなく、名声や利益を求めない。 たとえ生活の道具を持っていても、名声は実際の徳に基づく。 そのように生きられる者こそ、本当の“少欲”というのだ。」