(一〇)中阿含七法品漏盡經第十(初一日誦)
中阿含経 七法品 漏尽経 第十
我聞如是:
私はこのように聞きました。
一時,佛遊拘樓瘦,在劒磨瑟曇拘樓都邑。
ある時、お釈迦様はクル国におられ、剣磨瑟曇という町に滞在されていました。
爾時,世尊告諸比丘:「以知、以見故諸漏得盡,非不知、非不見也。云何以知、以見故諸漏得盡耶?有正思惟、不正思惟,若不正思惟者,未生欲漏而生,已生便增廣,未生有漏、無明漏而生,已生便增廣;若正思惟者,未生欲漏而不生,已生便滅,未生有漏、無明漏而不生,已生便滅。」
その時、世尊は比丘たちに告げられた。「知ることによって、見ることによって、煩悩は尽きるのである。知らず、見ないことによってではない。では、どのように知り、見ることによって煩悩は尽きるのか。正しい考え方と、正しくない考え方がある。もし正しくない考え方をすれば、まだ生じていない欲望の煩悩が生じ、すでに生じているものは増大する。まだ生じていない存在への執着の煩悩、無明の煩悩が生じ、すでに生じているものは増大する。もし正しい考え方をすれば、まだ生じていない欲望の煩悩は生じず、すでに生じているものは滅びる。まだ生じていない存在への執着の煩悩、無明の煩悩は生じず、すでに生じているものは滅びるのである。」
「然凡夫愚人不得聞正法,不值真知識,不知聖法,不調御聖法,不知如真法。不正思惟者,未生欲漏而生,已生便增廣,未生有漏、無明漏而生,已生便增廣。正思惟者,未生欲漏而不生,已生便滅,未生有漏、無明漏而不生,已生便滅。不知如真法故,不應念法而念,應念法而不念,以不應念法而念,應念法而不念故,未生欲漏而生,已生便增廣,未生有漏、無明漏而生,已生便增廣。
しかし、凡夫である愚かな人々は、正しい教えを聞く機会がなく、真の善知識にも出会えず、聖なる法を知らず、聖なる法を調御することができず、真実の法をありのままに知ることができません。誤った考え方をする者は、まだ生じていない欲望の煩悩を生じさせ、すでに生じたものはさらに増大させ、まだ生じていない存在への執着の煩悩や無明の煩悩を生じさせ、すでに生じたものはさらに広げてしまいます。正しい考え方をする者は、まだ生じていない欲望の煩悩を生じさせず、すでに生じたものは滅ぼし、まだ生じていない存在への執着の煩悩や無明の煩悩を生じさせず、すでに生じたものは滅ぼします。真実の法をありのままに知らないがゆえに、思うべきでないことを思い、思うべきことを思わず、その結果、まだ生じていない欲望の煩悩を生じさせ、すでに生じたものはさらに増大させ、まだ生じていない存在への執着の煩悩や無明の煩悩を生じさせ、すでに生じたものはさらに広げてしまうのです。
「多聞聖弟子得聞正法,值真知識,調御聖法,知如真法。不正思惟者,未生欲漏而生,已生便增廣,未生有漏、無明漏而生,已生便增廣。正思惟者,未生欲漏而不生,已生便滅,未生有漏、無明漏而不生,已生便滅。知如真法已,不應念法不念,應念法便念,以不應念法不念,應念法便念故,未生欲漏而不生,已生便滅,未生有漏、無明漏而不生,已生便滅也。
多くの教えを聞いた聖なる弟子は、正しい法を聞くことができ、真の善知識に巡り会い、聖なる法によって心を調御し、あるがままに真実の法を知ります。
誤った考え方では、まだ生じていない欲望の漏れ(煩悩)が生じ、すでに生じているものは増大し広がります。まだ生じていない存在への執着の漏れ、無明の漏れも生じ、すでに生じているものは増大し広がります。
正しい考え方では、まだ生じていない欲望の漏れは生じず、すでに生じているものは滅びます。まだ生じていない存在への執着の漏れ、無明の漏れも生じず、すでに生じているものは滅びます。
あるがままに真実の法を知ったならば、心に留めるべきでないことを留めず、心に留めるべきことを留めるべきです。心に留めるべきでないことを留めず、心に留めるべきことを留めることによって、まだ生じていない欲望の漏れは生じず、すでに生じているものは滅びます。まだ生じていない存在への執着の漏れ、無明の漏れも生じず、すでに生じているものは滅びるのです。
「有七斷漏、煩惱、憂慼法。云何為七?有漏從見斷,有漏從護斷,有漏從離斷,有漏從用斷,有漏從忍斷,有漏從除斷,有漏從思惟斷。
七つの漏れ、煩悩、憂いを断つ方法があります。どのような七つでしょうか。漏れは見ることによって断ち、漏れは守ることによって断ち、漏れは離れることによって断ち、漏れは用いることによって断ち、漏れは耐えることによって断ち、漏れは取り除くことによって断ち、漏れは思惟することによって断たれます。
「云何有漏從見斷耶?凡夫愚人不得聞正法,不值真知識,不知聖法,不調御聖法,不知如真法,不正思惟故,便作是念:『我有過去世,我無過去世,我何因過去世,我云何過去世耶?我有未來世,我無未來世,我何因未來世,我云何未來世耶?自疑己身何謂是,云何是耶?今此眾生從何所來,當至何所?本何因有,當何因有?』彼作如是不正思惟,於六見中隨其見生而生真有神,此見生而生真無神,此見生而生神見神,此見生而生神見非神,此見生而生非神見神,此見生而生此是神,能語、能知、能作、教、作起、教起,生彼彼處,受善惡報,定無所從來,定不有、定不當有,是謂見之弊,為見所動,見結所繫。凡夫愚人以是之故,便受生、老、病、死苦也。
漏れ(煩悩)はどのようにして見解から断たれるのでしょうか?凡夫である愚かな人は正しい法を聞く機会がなく、真の善知識に巡り会わず、聖なる法を知らず、聖なる法を調御することができず、真実の法を知らないため、正しい思惟をしないで、次のように考えてしまうのです。
「私は過去世があったのか、なかったのか?なぜ過去世があったのか、どのような過去世だったのか?私は未来世があるのか、ないのか?なぜ未来世があるのか、どのような未来世なのか?自分自身は一体何なのか、どういう存在なのか?この衆生はどこから来て、どこへ行くのか?そもそも何が原因で存在し、今後何によって存在するのか?」
このような誤った思惟によって、六つの見解のうちどれかに執着し、「真に神(アートマン)がある」という見解が生じたり、「真に神はない」という見解が生じたり、「神が神を見る」という見解が生じたり、「神が非神を見る」という見解が生じたり、「非神が神を見る」という見解が生じたり、「これが神であり、語り、知り、作り、教え、起こし、教え起こし、あちこちに生まれ、善悪の報いを受けるが、決してどこからも来ず、決して存在せず、決して存在しないはずだ」という見解が生じたりするのです。
これが、見解の弊害です。見解に動かされ、見解の結びつきに縛られる。凡夫である愚かな人は、このような理由で生・老・病・死の苦しみを受けるのです。
「多聞聖弟子得聞正法,值真知識,調御聖法,知如真法,知苦如真,知苦習、知苦滅、知苦滅道如真。如是知如真已,則三結盡,身見、戒取、疑三結盡已,得須陀洹,不墮惡法,定趣正覺,極受七有,天上人間七往來已,便得苦際;若不知見者,則生煩惱、憂慼,知見則不生煩惱、憂慼,是謂有漏從見斷也。
多くの聖なる弟子は、正しい教えを聞き、真の善知識に巡り会い、聖なる法を調御し、法を真実のままに知ります。苦を真実のままに知り、苦の原因を知り、苦の滅を知り、苦を滅する道を真実のままに知るのです。このように真実のままに知ったならば、三つの結びは尽きます。身見、戒取、疑という三つの結びが尽きると、須陀洹果を得て、悪しき世界に堕ちることなく、必ず正覚に至り、天上と人間の世界を七度往復するだけで、苦の終わりに達するのです。もし知見がなければ、煩悩や憂いが生じますが、知見があれば煩悩や憂いは生じません。これが、見によって漏れを断つということです。
「云何有漏從護斷耶?比丘!眼見色護眼根者,以正思惟不淨觀也,不護眼根者,不正思惟以淨觀也。若不護者,則生煩惱、憂慼,護則不生煩惱、憂慼。如是耳、鼻、舌、身、意知法,護意根者,以正思惟不淨觀也,不護意根者,不正思惟以淨觀也。若不護者,則生煩惱、憂慼,護則不生煩惱、憂慼,是謂有漏從護斷也。
どのようにして煩悩は守ることによって断たれるのでしょうか。比丘よ、目で色を見るとき、目という感覚器官を守るとは、正しい考え方で不浄観を行うことです。目を守らないとは、正しくない考え方で清浄観を行うことです。もし守らなければ、煩悩や憂いが生じますが、守れば煩悩や憂いは生じません。同じように、耳、鼻、舌、身、そして心が対象を知るとき、心という感覚器官を守るとは、正しい考え方で不浄観を行うことです。心を守らないとは、正しくない考え方で清浄観を行うことです。もし守らなければ、煩悩や憂いが生じますが、守れば煩悩や憂いは生じません。これが、煩悩が守ることによって断たれるということです。
「云何有漏從離斷耶?比丘!見惡象則當遠離,惡馬、惡牛、惡狗、毒蛇、惡道、溝坑、屏廁、江河、深泉、山巖。惡知識、惡朋友、惡異道、惡閭里、惡居止,若諸梵行與其同處,人無疑者而使有疑,比丘者應當離。惡知識、惡朋友、惡異道、惡閭里、惡居止,若諸梵行與其同處,人無疑者而使有疑,盡當遠離。若不離者,則生煩惱、憂慼,離則不生煩惱、憂慼,是謂有漏從離斷也。
煩悩を離れることによって断つとは、どういうことでしょうか。比丘よ、悪い象を見たら遠く離れなさい。悪い馬、悪い牛、悪い犬、毒蛇、危険な道、溝や穴、便所、川、深い泉、険しい岩場も同じです。悪い師、悪い友、邪な教え、悪い集落、悪い住処もそうです。もし修行者と共にいて、疑いのない人に疑いを生じさせるような者がいれば、比丘は離れるべきです。悪い師、悪い友、邪な教え、悪い集落、悪い住処、修行者と共にいて疑いを生じさせる者、これらすべてを遠く離れなさい。離れなければ、煩悩と憂いが生じます。離れれば、煩悩と憂いは生じません。これが、煩悩を離れることによって断つということです。
「云何有漏從用斷耶?比丘!若用衣服,非為利故,非以貢高故,非為嚴飾故,但為蚊虻、風雨、寒熱故,以慚愧故也。若用飲食,非為利故,非以貢高故,非為肥悅故,但為令身久住,除煩惱、憂慼故,以行梵行故,欲令故病斷,新病不生故,久住安隱無病故也。若用居止房舍、床褥、臥具,非為利故,非以貢高故,非為嚴飾故,但為疲惓得止息故,得靜坐故也。若用湯藥,非為利故,非以貢高故,非為肥悅故,但為除病惱故,攝御命根故,安隱無病故。若不用者,則生煩惱、憂慼,用則不生煩惱、憂慼,是謂有漏從用斷也。
どのようにして煩悩を、その利用によって断つことができるのでしょうか。
比丘よ、もし衣服を用いるならば、それは利益のためではなく、高慢のためでもなく、飾り立てるためでもありません。ただ、蚊や虻、風雨、寒さや暑さから身を守るためであり、また、恥じる心や慎む心によるのです。
もし飲食を用いるならば、それは利益のためではなく、高慢のためでもなく、肥えたり悦びを得るためでもありません。ただ、この身体を長く保ち、煩悩や憂い、悲しみを除くためであり、清らかな行いを実践するためです。古い病を断ち、新しい病を生じさせず、長く安らかで無事に過ごすためなのです。
もし住居や房舎、寝床や敷物、臥具を用いるならば、それは利益のためではなく、高慢のためでもなく、飾り立てるためでもありません。ただ、疲れを癒して休息を得るためであり、静かに坐るためなのです。
もし湯薬を用いるならば、それは利益のためではなく、高慢のためでもなく、肥えたり悦びを得るためでもありません。ただ、病の苦しみを取り除き、命の根源を保ち、安らかで無事であるためです。
もしこれらを用いなければ、煩悩や憂い、悲しみが生じます。しかし、用いるならば、煩悩や憂い、悲しみは生じません。これを、煩悩をその利用によって断つ、というのです。
「云何有漏從忍斷耶?比丘!精進斷惡不善,修善法故,常有起想,專心精勤,身體、皮肉、筋骨、血髓皆令乾竭,不捨精進,要得所求,乃捨精進。比丘!復當堪忍飢渴、寒熱、蚊虻蠅蚤虱,風日所逼,惡聲捶杖,亦能忍之,身遇諸病,極為苦痛,至命欲絕,諸不可樂,皆能堪忍。若不忍者,則生煩惱、憂慼,忍則不生煩惱、憂慼,是謂有漏從忍斷也。
煩悩を断つには、どうすれば忍耐によって断ち切れるのでしょうか。比丘よ、悪しき不善を断ち、善き法を修めるために精進するとき、常に起こる思いに専心し、身体、皮肉、筋骨、血髄がすべて乾き果てるほどに精勤しても、求めるところを得るまで精進を捨てないのです。比丘よ、さらに飢えや渇き、寒さや暑さ、蚊や虻、蠅や蚤、虱に耐え忍び、風や日差しに苦しめられ、悪しき言葉や打たれる杖にも耐え忍び、身体に起こる様々な病や、命が尽きようとするほどの苦痛、耐えがたいことすべてを堪え忍びなさい。もし耐え忍ばなければ、煩悩や憂いが生じますが、耐え忍べば煩悩や憂いは生じません。これが、煩悩を忍耐によって断ち切るということです。
「云何有漏從除斷耶?比丘!生欲念不除斷捨離,生恚念、害念不除斷捨離,若不除者,則生煩惱、憂慼,除則不生煩惱、憂慼,是謂有漏從除斷也。
どのように漏れは除去によって断たれるのでしょうか。比丘よ、欲の思いが生じたなら、それを除去し捨て去らず、怒りの思いや害の思いが生じたなら、それを除去し捨て去らないならば、煩悩や憂いが生じます。もし除去するならば、煩悩や憂いは生じません。これが漏れが除去によって断たれるということです。
「云何有漏從思惟斷耶?比丘!思惟初念覺支,依離、依無欲、依於滅盡,起至出要,法精進喜息定,思惟第七捨覺支,依離、依無欲、依於滅盡,趣至出要。若不思惟者,則生煩惱、憂慼,思惟則不生煩惱、憂慼,是謂有漏從思惟斷也。
どのように漏れ(煩悩)は思惟によって断たれるのでしょうか。比丘よ、初めの念覚支を思惟するとき、離れ、欲望なく、滅尽に依り、出離へと向かうのです。法に精進し、喜び、息み、定まる。第七の捨覚支を思惟するときも、離れ、欲望なく、滅尽に依り、出離へと趣くのです。もし思惟しなければ、煩悩や憂いが生じます。しかし思惟すれば、煩悩や憂いは生じません。これが、漏れが思惟によって断たれるということです。
「若使比丘有漏從見斷則以見斷,有漏從護斷則以護斷,有漏從離斷則以離斷,有漏從用斷則以用斷,有漏從忍斷則以忍斷,有漏從除斷則以除斷,有漏從思惟斷則以思惟斷,是謂比丘一切漏盡諸結已解,能以正智而得苦際。」
もし比丘が、煩悩が「見」によって断たれるならば「見」によって断ち、煩悩が「護り」によって断たれるならば「護り」によって断ち、煩悩が「離れること」によって断たれるならば「離れること」によって断ち、煩悩が「用いること」によって断たれるならば「用いること」によって断ち、煩悩が「耐えること」によって断たれるならば「耐えること」によって断ち、煩悩が「取り除くこと」によって断たれるならば「取り除くこと」によって断ち、煩悩が「思惟」によって断たれるならば「思惟」によって断つならば、これを比丘が一切の煩悩を尽くし、すべての束縛を解き、正しい智慧によって苦の終極
佛說如是。彼諸比丘聞佛所說,歡喜奉行。
このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。
漏盡經第十竟(千六百二十一字)
漏尽経 第十 終わり(千六百二十一字)
中阿含經卷第二(七千九百三十四字)中阿含七法品第一竟(一萬六千四十三字)(初一日誦)
中阿含経 第二巻