中阿含經卷第二
中阿含経 第二巻
東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯
東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳
(六)七法品善人往經第六(初一日誦)
善人往経第六
我聞如是:
私はこのように聞きました。
一時,佛遊舍衛國,在勝林給孤獨園。爾時,世尊告諸比丘:「我當為汝說七善人所往至處及無餘涅槃。諦聽,諦聽!善思念之。」時,諸比丘受教而聽。
ある時、お釈迦様は舎衛国に滞在され、勝林の給孤独園におられました。その時、世尊は比丘たちにこうおっしゃいました。
「これから、七種の善き人の行き着く境地と、完全なる涅槃について説きましょう。よく聞きなさい。よく心に留めて、深く考えなさい」
比丘たちは教えを受け、耳を傾けました。
佛言:「云何為七?比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。如是行者,無上息迹慧之所見,然未得證。比丘!行如是,往至何所?譬如燒䴸,纔燃便滅。當知,比丘!亦復如是,少慢未盡,五下分結已斷,得中般涅槃,是謂第一善人所往至處,世間諦如有。
仏は言われた。「七つとは何か。比丘よ、修行は次のようにあるべきである:『我というものはなく、我が所有するものもない。未来にも我はなく、我が所有するものもない。すでにあるものは断たれ、断たれたものは捨てられる。楽しみがあっても染まらず、縁が合っても執着しない』。このように修行する者は、最上の安らぎの境地を智慧によって見るが、まだそれを証得してはいない。比丘よ、このように修行して、どこへ至るのか。たとえば、もみ殻を燃やすと、燃え始めてすぐに消えるようなものだ。比丘よ、これと同じように、わずかな慢心がまだ尽きていないが、五下分結はすでに断たれ、中般涅槃を得る。これが第一の善人の至る所であり、世間の真理として確かに存在するのである。」
「復次,比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。行如是者,無上息迹慧之所見,然未得證。比丘!行如是,往至何所?譬若如鐵洞燃俱熾,以椎打之,迸火飛空,上已即滅。當知,比丘!亦復如是,少慢未盡,五下分結已斷,得中般涅槃,是謂第二善人所往至處,世間諦如有。
また、比丘よ、修行はこのようにあるべきである。「我」というものはなく、「我の所有」もない。未来にも「我」はなく、「我の所有」もない。すでにあるものは断ち切り、断ち切ったものは捨て去る。楽しみがあっても執着せず、縁が合っても固執しない。このように修行する者は、最上の安らぎの境地を智慧によって見るが、まだそれを証得していない。
比丘よ、このように修行する者は、どこへ至るのであろうか?たとえば、真っ赤に焼けた鉄を槌で打つと、火花が飛び散って空中に上がり、すぐに消えてしまう。比丘よ、まさにそのように、わずかな慢心がまだ尽きていないが、五下分結はすでに断たれ、中般涅槃を得るのである。これが第二の善人の至るべき境地であり、世の真理として確かに存在するのである。
「復次,比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。行如是者,無上息迹慧之所見,然未得證。比丘!行如是,往至何所?譬若如鐵洞燃俱熾,以椎打之,迸火飛空,從上來還,未至地滅。當知,比丘!亦復如是,少慢未盡,五下分結已斷,得中般涅槃,是謂第三善人所往至處,世間諦如有。
さらに、比丘よ、修行はこのようにあるべきである。「私」というものは実体がない、また「私のもの」も実体がない。未来においても「私」はなく、「私のもの」もない。すでにあるものは断ち切られ、断ち切られたものは捨て去られる。楽しみがあってもそれに染まらず、縁が合っても執着しない。このように修行する者は、至上の安らぎの境地を智慧によって見るが、まだそれを証得してはいない。
比丘よ、このように修行する者は、どこへ至るのであろうか。たとえば、鉄を真っ赤に焼き、槌で打つと、火花が飛び散って空中に上がり、上から落ちてくるが、地面に着く前に消えてしまう。比丘よ、知るがよい。これと同じように、わずかな慢心がまだ尽きておらず、五下分結は断たれているが、中般涅槃を得るのである。これが第三の善人が至るべき境地であり、世間の真理として確かに存在するのである。
「復次,比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。行如是者,無上息迹慧之所見,然未得證。比丘!行如是,往至何所?譬若如鐵洞然俱熾,以椎打之,迸火飛空,墮地而滅。當知,比丘!亦復如是,少慢未盡,五下分結已斷,得生般涅槃,是謂第四善人所往至處,世間諦如有。
さらに、比丘よ、このように修行すべきである。私というものは実体がなく、私のものというものも実体がない。未来にも私という実体はなく、私のものという実体もない。すでにあるものは断ち切り、断ち切ったものは捨て去り、楽しみがあってもそれに染まらず、集まりがあってもそれに執着しない。このように修行する者は、最高の安らぎの境地を智慧によって見るが、まだそれを体得していない。
比丘よ、このように修行する者は、どこへ行き着くのであろうか。たとえば、真っ赤に焼けた鉄を槌で打つと、火花が飛び散って空中に舞い上がり、地面に落ちて消えるようなものである。比丘よ、このように知るべきである。わずかな慢心がまだ尽きていないが、五下分結はすでに断たれ、生まれ変わって涅槃に入る。これが第四の善人が行き着く境地であり、世間の真理として確かに存在するのである。
「復次,比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。行如是者,無上息迹慧之所見,然未得證。比丘!行如是,往至何所?譬若如鐵洞燃俱熾,以椎打之,迸火飛空,墮少薪草上,若烟若燃,燃已便滅。當知,比丘!亦復如是,少慢未盡,五下分結已斷,得行般涅槃,是謂第五善人所往至處,世間諦如有。
さらに、比丘よ、修行はこのように行うべきである。
「私」という実体はなく、「私のもの」もない。 未来にも「私」はなく、「私のもの」もない。 すでに生じた執着は断ち切り、断ち切ったものは捨て去る。 楽しみがあってもそれに染まらず、縁が集まっても執着しない。
このように修行する者は、最上の安らぎの道を智慧によって見るが、まだそれを体得はしていない。
比丘よ、このように修行する者は、どこへ至るのか? たとえば、真っ赤に焼けた鉄を槌で打つと、火花が飛び散り、わずかな薪や草の上に落ちる。 煙を立て、あるいは燃え上がるが、燃え尽きれば消えてしまう。
比丘よ、知るべきである。これと同様に、わずかな慢心がまだ尽きていないが、五下分結はすでに断たれ、涅槃へと向かう境地に至る。 これを第五の善人の至る境地という。これは世の真理として実在するのである。
「復次,比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。行如是者,無上息迹慧之所見,然未得證。比丘!行如是,往至何所?譬若如鐵洞燃俱熾,以椎打之,迸火飛空,墮多薪草上,若烟若燃,燃盡已滅。當知,比丘!亦復如是,少慢未盡,五下分結已斷,得無行般涅槃,是謂第六善人所往至處,世間諦如有。
また、比丘よ、修行はこのようにあるべきである。『我』というものはなく、『我の所有』というものもない。未来においても『我』はなく、『我の所有』もない。すでにあるものは断ち切り、断ち切ったものは捨て去る。楽しみがあってもそれに染まらず、縁が合っても執着しない。このように修行する者は、最上の安らぎの境地を智慧によって見るが、まだそれを体得はしていない。
比丘よ、このように修行する者は、どこへ至るのか。たとえば、真っ赤に焼けた鉄を槌で打つと、火花が飛び散り、たくさんの薪や草の上に落ちる。煙が立ち、燃え上がり、燃え尽きて消えていく。比丘よ、これと同じように、わずかに残った慢心が尽き、五下分結が断たれたなら、修行を経ずして涅槃に入る。これが第六の善人が至るべき境地であり、世間の真理として確かに存在するのである。
「復次,比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。行如是者,無上息迹慧之所見,然未得證。比丘!行如是,往至何所?譬若如鐵洞燃俱熾,以椎打之,迸火飛空,墮多薪草上,若烟若燃,燃已便燒村邑、城郭、山林、曠野。燒村邑、城郭、山林、曠野已,或至道、至水、至平地滅。當知,比丘!亦復如是,少慢未盡,五下分結已斷,得上流阿迦膩吒般涅槃,是謂第七善人所往至處,世間諦如有。
さらに、比丘よ。修行はこのように行うべきである。「私」という実体はなく、「私のもの」という所有もない。未来においても「私」はなく、「私のもの」もない。すでにあるものは断ち切り、断ち切ったものは捨て去る。楽しみがあっても執着せず、縁が合っても執着しない。このように修行する者は、至上の安らぎの境地を智慧によって見るが、まだそれを証得してはいない。
比丘よ。このように修行する者は、どこへ至るのであろうか。たとえば、真っ赤に焼けた鉄を槌で打つと、火花が飛び散り、多くの薪や草の上に落ちる。煙が立ち、燃え上がり、燃え広がって村や町、山林、野原を焼き尽くす。村や町、山林、野原を焼き尽くした後、その火は道端で、水辺で、平らな地で消えていく。
比丘よ。同じように、わずかに残った慢(思い上がり)がまだ尽きていないが、五つの下分結(下位の束縛)はすでに断たれ、上流に至り、阿迦膩吒(有頂天)において涅槃に入る。これが第七の善人の至るべき境地であり、世の真理として確かに存在するのである。
「云何無餘涅槃?比丘!行當如是:我者無我,亦無我所,當來無我,亦無我所,已有便斷,已斷得捨,有樂不染,合會不著。行如是者,無上息迹慧之所見,而已得證。我說彼,比丘!不至東方,不至西方、南方、北方、四維、上、下,便於現法中息迹滅度。
無余なる涅槃とは何か。比丘よ、修行はこのようにあるべきである。「私」というものは無く、「私のもの」も無い。未来においても「私」は無く、「私のもの」も無い。すでにあるものは断ち切られ、断ち切られたものは捨て去られる。楽しみがあってもそれに染まらず、縁が集まっても執着しない。このように修行する者は、最上の安らぎの境地を智慧によって見極め、すでにそれを証得している。私は言う、比丘よ、その者は東方にも至らず、西方、南方、北方、四隅、上、下にも至らず、ただこの現世において、安らぎの境地に達し、完全に寂滅するのである。
「我向所說七善人所往至處及無餘涅槃者,因此故說。」
「私がこれまでに語った七つの善き人の行き着く先と、完全な涅槃についての話は、このことから説かれたのです。」
佛說如是。彼諸比丘聞佛所說,歡喜奉行。
このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。
善人往經第六竟(千一百三字)
善人往生の経 第六巻 終了(千一百三字)