---
title: "中阿含經 · 19 尼乾經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma7j3zcm01c5jl0a3f1hlf3f"
---

### （一九）中阿含業相應品尼乾經第九初一日誦

> 中阿含経 業相応品 尼乾経 第九

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊釋羇瘦，在天邑中。

> ある時、仏は釈迦族の地に滞在され、天の都と呼ばれる町におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「諸尼乾等如是見、如是說，謂人所受皆因本作，若其故業因苦行滅，不造新者，則諸業盡，諸業盡已，則得苦盡，得苦盡已，則得苦邊。我便往彼，到已，即問：『尼乾！汝等實如是見、如是說，謂人所受皆因本作，若其故業因苦行滅，不造新者，則諸業盡，諸業盡已，則得苦盡，得苦盡已，則得苦邊耶？』彼答我言：『如是。瞿曇！』我復問彼尼乾：『汝等自有淨智，我為本有，我為本無，我為本作惡，為不作惡，我為爾所苦盡，為爾所苦不盡，若盡已，便得盡，即於現世斷諸不善，得眾善法，修習作證耶？』彼答我言：『不也。瞿曇！』

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。「ニガンタ（ジャイナ教の行者）たちはこのような見解を持ち、このように説いています。『人が受けるものはすべて過去の行為によるものである。もし過去の業が苦行によって滅び、新たな業を作らなければ、すべての業は尽きる。業が尽きれば苦も尽きる。苦が尽きれば、苦の終わりに至る』と。 私は彼らのもとに行き、到着するとすぐに尋ねました。『ニガンタよ、あなた方は本当にこのような見解を持ち、このように説いているのか。人が受けるものはすべて過去の行為によるものであり、もし過去の業が苦行によって滅び、新たな業を作らなければ、すべての業は尽き、業が尽きれば苦も尽き、苦が尽きれば苦の終わりに至ると』と。 彼らは私に答えました。『そうです。ゴータマよ』。 私はさらに彼らニガンタに尋ねました。『あなた方自身に清らかな智慧があるのか。私は過去に存在したのか、存在しなかったのか。私は過去に悪い行いをしたのか、しなかったのか。私はこれだけの苦が尽きるのか、これだけでは尽きないのか。もし尽きるならば、すでに尽きて、現世においてすべての不善を断ち、多くの善い法を得て、修習し証することができるのか』と。 彼らは私に答えました。『いいえ。ゴータマよ』。

「我復語彼尼乾：『汝等自無淨智，我為本有，我為本無，我為本作惡，為不作惡，我為爾所苦盡，為爾所苦不盡，若盡已，便得盡，即於現世斷諸不善，得眾善法，修習作證，而作是說，謂人所受皆因本作，若其故業因苦行滅，不造新者，則諸業盡，諸業盡已，則得苦盡，得苦盡已，則得苦邊。尼乾！若汝等自有淨智，我為本有，我為本無，我為本作惡，為不作惡，我為爾所苦盡，為爾所苦不盡，若盡已，便得盡，即於現世斷諸不善，得眾善法，修習作證。尼乾！汝等可得作是說，謂人所受皆因本作，若其故業因苦行滅，不造新者，則諸業盡，諸業盡已，則得苦盡，得苦盡已，則得苦邊。』

> 私はまた、あの尼乾子にこう言いました。 『あなた方は、自ら清らかな智慧を持っていないのです。 「私は前世に存在したのか、存在しなかったのか。 私は前世に悪をなしたのか、なさなかったのか。 私はこれだけの苦しみを尽くしたのか、尽くさなかったのか。 もし尽くしたならば、すでに尽きているはずだ。 すでに現世において、あらゆる不善を断じ、多くの善法を得て、修習し証しているはずだ」と。 そして、こう主張するのです。 「人が受けるものはすべて、前世の行為によるものである。 もし過去の業が苦行によって滅び、新たな業を造らなければ、すべての業は尽きる。 すべての業が尽きれば、苦しみも尽きる。 苦しみが尽きれば、苦しみの果てに至る」と。 尼乾子よ、もしあなた方が自ら清らかな智慧を持っているならば、 「私は前世に存在したのか、存在しなかったのか。 私は前世に悪をなしたのか、なさなかったのか。 私はこれだけの苦しみを尽くしたのか、尽くさなかったのか。 もし尽くしたならば、すでに尽きているはずだ。 すでに現世において、あらゆる不善を断じ、多くの善法を得て、修習し証しているはずだ」と言えるでしょう。 尼乾子よ、あなた方はこう主張できるはずです。 「人が受けるものはすべて、前世の行為によるものである。 もし過去の業が苦行によって滅び、新たな業を造らなければ、すべての業は尽きる。 すべての業が尽きれば、苦しみも尽きる。 苦しみが尽きれば、苦しみの果てに至る」と。

「尼乾！猶如有人身被毒箭，因被毒箭則生極苦，彼為親屬憐念愍傷，欲饒益安隱故，即呼拔箭金醫。箭金醫來，便以利刀而為開瘡，因開瘡時，復生極苦，既開瘡已，而求箭金，求箭金時，復生極苦，求得金已，即便拔出，因拔出時，復生極苦，拔金出已，薄瘡纏裹，因裹瘡時，復生極苦，彼於拔箭金後，得力無患，不壞諸根，平復如故。尼乾！彼人自有淨智，便作是念：『我本被毒箭，因被毒箭，則生極苦，我諸親屬見憐念愍傷，欲饒益安隱我故，即呼拔箭金醫，箭金醫來，便以利刀為我開瘡，因開瘡時，復生極苦，既開瘡已，而求箭金，求箭金時，復生極苦，求得金已，即便拔出，因拔出時，復生極苦，拔金出已，薄瘡纏裹，因裹瘡時，復生極苦，我於拔箭金後，得力無患，不壞諸根，平復如故。』

> 尼乾よ、たとえば人が毒矢に射られたとしよう。毒矢に射られたために、ひどい苦しみが生じる。その人の親族たちは、彼を憐れみ、哀れに思い、彼の利益と安らぎを願って、ただちに矢の鏃を抜く医者を呼ぶ。矢の鏃を抜く医者が来ると、鋭い刃で傷口を開く。その傷口を開くとき、またひどい苦しみが生じる。傷口を開いた後、鏃を探し求める。鏃を探し求めるとき、またひどい苦しみが生じる。鏃を見つけた後、ただちにそれを引き抜く。それを引き抜くとき、またひどい苦しみが生じる。鏃を引き抜いた後、薄く傷を包帯で巻く。その傷を巻くとき、またひどい苦しみが生じる。彼は矢の鏃を抜いた後、力を得て病苦がなくなり、諸根を損なうことなく、元通りに平癒する。尼乾よ、その人は自ら清らかな智慧を得て、このように考えるのである：『私はかつて毒矢に射られ、毒矢に射られたために、ひどい苦しみが生じた。私の親族たちは、私を憐れみ、哀れに思い、私の利益と安らぎを願って、ただちに矢の鏃を抜く医者を呼んだ。矢の鏃を抜く医者が来ると、鋭い刃で私の傷口を開いた。その傷口を開くとき、またひどい苦しみが生じた。傷口を開いた後、鏃を探し求めた。鏃を探し求めるとき、またひどい苦しみが生じた。鏃を見つけた後、ただちにそれを引き抜いた。それを引き抜くとき、またひどい苦しみが生じた。鏃を引き抜いた後、薄く傷を包帯で巻いた。その傷を巻くとき、またひどい苦しみが生じた。私は矢の鏃を抜いた後、力を得て病苦がなくなり、諸根を損なうことなく、元通りに平癒した。』

「如是，尼乾！若汝等自有淨智，我為本有，我為本無，我為本作惡，為不作惡，我為爾所苦盡，為爾所苦不盡，若盡已，便得盡，即於現世斷諸不善，得眾善法，修習作證。尼乾！汝等可得作是說，謂人所受皆因本作，若其故業因苦行滅，不造新者，則諸業盡，諸業盡已，則得苦盡，得苦盡已，則得苦邊，我問如是，不見諸尼乾能答我言：『瞿曇！如是，不如是。』

> このように、尼乾よ、もしあなた方に清らかな智慧があり、『我は本来存在するのか、我は本来存在しないのか、我は本来悪をなしたのか、悪をなさなかったのか、我はこれだけの苦しみを滅したのか、これだけの苦しみを滅しきれなかったのか、もし滅しきったならば、すでに滅したのであり、現世においてすべての不善を断じ、多くの善なる法を得て、修習し証することができる』と知ることができるならば、尼乾よ、あなた方はこのように言うことができるでしょう。すなわち、人が受けるものはすべて過去の行為によるものであり、もし過去の業が苦行によって滅び、新しい業を作らなければ、すべての業は尽き、すべての業が尽きれば苦しみも尽き、苦しみが尽きれば苦しみの終わりに至る、と。私はこのように問いましたが、諸々の尼乾たちが『瞿曇よ、その通りです、そうではありません』と答えるのを見ることはありませんでした。

「復次，我問諸尼乾曰：『若諸尼乾有上斷、上苦行，爾時諸尼乾生上苦耶？』彼答我言：『如是。瞿曇！』『若有中斷、中苦行，爾時諸尼乾生中苦耶？』彼答我言：『如是，瞿曇！』『若有下斷、下苦行，爾時諸尼乾生下苦耶？』彼答我言：『如是，瞿曇！』是為諸尼乾有上斷、上苦行，爾時諸尼乾則生上苦；有中斷、中苦行，爾時諸尼乾則生中苦；有下斷、下苦行，爾時諸尼乾則生下苦。若使諸尼乾有上斷、上苦行，爾時諸尼乾止息上苦；有中斷、中苦行，爾時諸尼乾止息中苦；有下斷、下苦行，爾時諸尼乾止息下苦。若如是作、不如是作，止息極苦甚重苦者，當知諸尼乾即於現世作苦。但諸尼乾為癡所覆，為癡所纏，而作是說：『謂人所受皆因本作，若其故業因苦行滅，不造新者，則諸業盡，諸業盡已，則得苦盡，得苦盡已，則得苦邊。』我問如是，不見諸尼乾能答我言：『瞿曇！如是，不如是。』

> さらに、私はニガンタ（苦行者）たちに尋ねました。「もしニガンタたちに、最も厳しい断食や苦行があるなら、そのときニガンタたちは最も大きな苦しみを生じるのですか？」彼らは私に答えました。「そのとおりです、ゴータマよ。」「もし中程度の断食や苦行があるなら、そのときニガンタたちは中程度の苦しみを生じるのですか？」彼らは私に答えました。「そのとおりです、ゴータマよ。」「もし軽い断食や苦行があるなら、そのときニガンタたちは軽い苦しみを生じるのですか？」彼らは私に答えました。「そのとおりです、ゴータマよ。」 つまり、ニガンタたちには最も厳しい断食や苦行があり、そのときニガンタたちは最も大きな苦しみを生じる。中程度の断食や苦行があれば、中程度の苦しみを生じる。軽い断食や苦行があれば、軽い苦しみを生じるのです。 もし、ニガンタたちに最も厳しい断食や苦行があるなら、そのときニガンタたちは最も大きな苦しみを鎮めるのでしょうか？中程度の断食や苦行があれば、中程度の苦しみを鎮めるのでしょうか？軽い断食や苦行があれば、軽い苦しみを鎮めるのでしょうか？ もし、このように行っても、あるいは行わなくても、極めて重い苦しみを鎮めることができるなら、ニガンタたちはまさに今この世で苦しみを作り出している、と知るべきです。しかし、ニガンタたちは愚かさに覆われ、愚かさに縛られて、このように言うのです。「人が受けるものはすべて過去の行為によるものである。もし過去の業が苦行によって滅び、新たな業を作らなければ、すべての業は尽き、業が尽きれば苦しみも尽き、苦しみが尽きれば苦しみの終わりに至る」と。 私はこのように尋ねましたが、ニガンタたちが「ゴータマよ、そのとおりです」とも「そのとおりではありません」とも答えるのを見ることはありませんでした。

「復次，我問諸尼乾曰：『諸尼乾！若有樂報業，彼業寧可因斷、因苦行，轉作苦報耶？』彼答我言：『不也。瞿曇！』『諸尼乾！若有苦報業，彼業寧可因斷、因苦行，轉作樂報耶？』彼答我言：『不也。瞿曇！』『諸尼乾！若有現法報業，彼業寧可因斷、因苦行，轉作後生報耶？』彼答我言：『不也。瞿曇！』『諸尼乾！若有後生報業，彼業寧可因斷、因苦行，轉作現法報耶？』彼答我言：『不也。瞿曇！』『諸尼乾！若有不熟報業，彼業寧可因斷、因苦行，轉作熟報耶？』彼答我言：『不也。瞿曇！』『諸尼乾！若有熟報業，彼業寧可因斷、因苦行，轉作異耶？』彼答我言：『不也。瞿曇！』『諸尼乾！是為樂報業，彼業不可因斷、因苦行，轉作苦報。諸尼乾！苦報業，彼業不可因斷、因苦行，轉作樂報。諸尼乾！現法報業，彼業不可因斷、因苦行，轉作後生報。諸尼乾！後生報業，彼業不可因斷、因苦行，轉作現法報。諸尼乾！不熟業，彼業不可因斷、因苦行，轉作熟報。諸尼乾！熟報業，彼業不可因斷、因苦行，轉作異者。以是故，諸尼乾！虛妄方便，空斷無獲。』

> さらに、私はニガンタたちに尋ねました。『ニガンタたちよ、もし楽の報いをもたらす業があるならば、その業は断食や苦行によって、苦の報いに変えることができるでしょうか？』彼らは私に答えました。『いいえ、ゴータマよ』 『ニガンタたちよ、もし苦の報いをもたらす業があるならば、その業は断食や苦行によって、楽の報いに変えることができるでしょうか？』彼らは私に答えました。『いいえ、ゴータマよ』 『ニガンタたちよ、もし現世で報いを受ける業があるならば、その業は断食や苦行によって、来世で受ける報いに変えることができるでしょうか？』彼らは私に答えました。『いいえ、ゴータマよ』 『ニガンタたちよ、もし来世で報いを受ける業があるならば、その業は断食や苦行によって、現世で受ける報いに変えることができるでしょうか？』彼らは私に答えました。『いいえ、ゴータマよ』 『ニガンタたちよ、もしまだ熟していない業があるならば、その業は断食や苦行によって、熟した報いに変えることができるでしょうか？』彼らは私に答えました。『いいえ、ゴータマよ』 『ニガンタたちよ、もし熟した報いをもたらす業があるならば、その業は断食や苦行によって、別のものに変えることができるでしょうか？』彼らは私に答えました。『いいえ、ゴータマよ』 『ニガンタたちよ、このように、楽の報いをもたらす業は、断食や苦行によって苦の報いに変えることはできません。ニガンタたちよ、苦の報いをもたらす業は、断食や苦行によって楽の報いに変えることはできません。ニガンタたちよ、現世で報いを受ける業は、断食や苦行によって来世で受ける報いに変えることはできません。ニガンタたちよ、来世で報いを受ける業は、断食や苦行によって現世で受ける報いに変えることはできません。ニガンタたちよ、まだ熟していない業は、断食や苦行によって熟した報いに変えることはできません。ニガンタたちよ、熟した報いをもたらす業は、断食や苦行によって別のものに変えることはできません。ですから、ニガンタたちよ、あなた方の方法は誤りであり、空しい苦行には何の得るところもないのです』

「彼諸尼乾便報我言：『瞿曇！我有尊師，名親子尼乾，作如是說：「諸尼乾！汝等若本作惡業，彼業皆可因此苦行而得滅盡，若今護身、口、意，因此不復更作惡業也。」』我復問彼諸尼乾曰：『汝等信尊師親子尼乾，不疑惑耶？』彼答我言：『瞿曇！我信尊師親子尼乾，無有疑惑。』我復語彼諸尼乾曰：『有五種法現世二報，信、樂、聞、念、見善觀，諸尼乾！人自有虛妄言，是可信、可樂、可聞、可念、可見善觀耶？』彼答我言：『如是。瞿曇！』我復語彼諸尼乾曰：『是虛妄言，何可信，何可樂，何可聞，何可念，何可善觀？謂人自有虛妄言，有信、有樂、有聞、有念、有善觀。』

> 「その尼乾たちは私に答えました。『瞿曇よ、我々には尊師がおられます。親子尼乾という方で、このように説かれます。「尼乾たちよ、もしあなた方が過去に悪い行いをしたなら、その業はこの苦行によってすべて消滅させることができる。また今、身と口と心を守ることによって、これ以上悪い行いを繰り返すことはない」と。』私はさらに彼ら尼乾たちに尋ねました。『あなた方は、尊師である親子尼乾を信じ、疑いを持たないのですか？』彼らは答えました。『瞿曇よ、我々は尊師である親子尼乾を信じ、疑いはありません。』私はまた彼ら尼乾たちに言いました。『この世において二つの報いをもたらす五つの法があります。信じること、喜ぶこと、聞くこと、心に留めること、よく観察することです。尼乾たちよ、人が自ら虚偽の言葉を語るなら、それは信じるに値し、喜ぶに値し、聞くに値し、心に留めるに値し、よく観察するに値するでしょうか？』彼らは答えました。『その通りです。瞿曇よ。』私はさらに彼ら尼乾たちに言いました。『その虚偽の言葉を、どうして信じることができましょうか。どうして喜ぶことができましょうか。どうして聞くことができましょうか。どうして心に留めることができましょうか。どうしてよく観察することができましょうか。人が自ら虚偽の言葉を語るなら、そこに信じることも、喜ぶことも、聞くことも、心に留めることも、よく観察することもあり得ないのです。』

「若諸尼乾作是說者，於如法中得五詰責，為可憎惡。云何為五？今此眾生所受苦樂皆因本作，若爾者，諸尼乾等本作惡業。所以者何？因彼故，諸尼乾於今受極重苦，是謂尼乾第一可憎惡。復次，眾生所受苦樂皆因合會，若爾者，諸尼乾等本惡合會。所以者何？因彼故，諸尼乾於今受極重苦，是謂尼乾第二可憎惡。復次，眾生所受苦樂皆因為命，若爾者，諸尼揵等本惡為命。所以者何？因彼故，諸尼乾於今受極重苦，是謂尼乾第三可憎惡。復次，眾生所受苦樂皆因見也。若爾者，諸尼乾等本有惡見。所以者何？因彼故，諸尼乾於今受極重苦，是謂尼乾第四可憎惡。復次，眾生所受苦樂皆因尊祐造，若爾者，諸尼乾等本惡尊祐。所以者何？因彼故，諸尼乾於今受極重苦，是謂尼乾第五可憎惡。若諸尼乾因本所作惡業、惡合會、惡為命、惡見、惡尊祐，為惡尊祐所造，因彼故，諸尼乾於今受極重苦，是謂因彼事故，諸尼乾等為可憎惡。

> もしニガン（ジャイナ教の修行者）たちがこのように説くならば、正しい教えの中において五つの詰問を受け、憎むべきものとなります。どのような五つでしょうか。 今、衆生が受けている苦しみや楽しみはすべて過去の行いによるものだというならば、ニガンたちは過去に悪い行いをしたことになります。なぜでしょうか。そのため、ニガンたちは今、非常に重い苦しみを受けているからです。これがニガンに対する第一の憎むべき点です。 また、衆生が受けている苦しみや楽しみはすべて因縁の結びつきによるものだというならば、ニガンたちは過去に悪い因縁を結んだことになります。なぜでしょうか。そのため、ニガンたちは今、非常に重い苦しみを受けているからです。これがニガンに対する第二の憎むべき点です。 また、衆生が受けている苦しみや楽しみはすべて生命のあり方によるものだというならば、ニガンたちは過去に悪い生命のあり方をしていたことになります。なぜでしょうか。そのため、ニガンたちは今、非常に重い苦しみを受けているからです。これがニガンに対する第三の憎むべき点です。 また、衆生が受けている苦しみや楽しみはすべて見解によるものだというならば、ニガンたちは過去に悪い見解を持っていたことになります。なぜでしょうか。そのため、ニガンたちは今、非常に重い苦しみを受けているからです。これがニガンに対する第四の憎むべき点です。 また、衆生が受けている苦しみや楽しみはすべて尊い存在（神）によって造られたものだというならば、ニガンたちは過去にその尊い存在を悪く扱ったことになります。なぜでしょうか。そのため、ニガンたちは今、非常に重い苦しみを受けているからです。これがニガンに対する第五の憎むべき点です。 もしニガンたちが、過去の悪い行い、悪い因縁の結びつき、悪い生命のあり方、悪い見解、悪い尊い存在の取り扱いによって、その尊い存在によって造られた苦しみを、そのために今、非常に重い苦しみを受けているのだとすれば、これらの事柄によって、ニガンたちは憎むべき存在だと言えるのです。

「我所自知、自覺法為汝說者，若沙門、梵志，若天、魔、梵及餘世間皆無能伏，皆無能穢，皆無能制。云何我所自知、自覺法為汝說者，非為沙門、梵志，若天、魔、梵及餘世間所能伏、所能穢、所能制？若有比丘捨身不善業，修身善業，捨口、意不善業，修口、意善業，彼於未來苦，便自知我無未來苦，如法得樂而不棄捨。彼或欲斷苦因，行欲，或欲斷苦因，行捨欲，彼若欲斷苦因，行欲者，即修其行欲，已斷者，苦便得盡。彼若欲斷苦因，行捨欲者，即修其行捨欲，已斷者，苦便得盡。若彼比丘便作是念：『隨所為、隨所行，不善法生而善法滅，若自斷苦，不善法滅而善法生，我今寧可自斷其苦。』便自斷苦。自斷苦已，不善法滅而善法生，不復斷苦。所以者何？比丘！本所為者，其義已成，若復斷苦，是處不然。

> 私が自ら知り、自ら覚った法をあなた方に説くならば、もし沙門や梵志、あるいは天、魔、梵天、その他の世間の誰もが、これを打ち伏せることも、汚すことも、制することもできないのです。 どうして私が自ら知り、自ら覚った法をあなた方に説くならば、沙門や梵志、あるいは天、魔、梵天、その他の世間の誰にも打ち伏せられず、汚されず、制されないのでしょうか。 もし比丘が身の不善業を捨てて身の善業を修め、口と意の不善業を捨てて口と意の善業を修めるならば、彼は未来の苦について、自ら「私は未来の苦を持たない」と知り、法に従って楽を得て、それを捨てることはありません。 彼が苦の因を断ちたいと願い、欲を実行するか、あるいは苦の因を断ちたいと願い、欲を捨てる行いをするならば、もし彼が苦の因を断ちたいと願い、欲を実行するならば、その欲の行いを修め、すでに断たれたならば、苦は尽きるのです。 もし彼が苦の因を断ちたいと願い、欲を捨てる行いをするならば、その欲を捨てる行いを修め、すでに断たれたならば、苦は尽きるのです。 もしその比丘がこのように考えるならば：『何を行い、何を為しても、不善法が生じて善法が滅びる。もし自ら苦を断つならば、不善法が滅びて善法が生じる。私は今、むしろ自ら苦を断とう。』そして自ら苦を断つのです。 自ら苦を断ったならば、不善法は滅びて善法が生じ、再び苦を断つことはありません。 なぜそうなのでしょうか。比丘よ、もともと為そうとした目的は、その意義がすでに成就したのです。もし再び苦を断つならば、それは道理に合いません。

「比丘！猶如箭工用檢撓箭，其箭已直，不復用檢。所以者何？彼人本所為者，其事已成，若復用檢，是處不然。如是，比丘便作是念：『隨所為、隨所行，不善法生而善法滅，若自斷苦，不善法滅而善法生，我今寧可自斷其苦。』便自斷苦。自斷苦已，不善法滅而善法生，不復斷苦。所以者何？本所為者，其義已成，若復斷苦，是處不然。比丘！猶如有人愛念、染著、敬待彼女，然彼女人更與他語，共相問訊，往來止宿，其人因是身心生苦惱，極憂慼耶？」

> 比丘よ、ちょうど矢師が矢を矯正するように、その矢がまっすぐになったならば、もう矯正する必要はありません。なぜでしょうか？その人が本来目指していたことは、すでに成就したからです。もしさらに矯正しようとするなら、それは道理に合いません。 同じように、比丘はこう考えます。『あることを為し、あるように行うと、不善なる法が生じて善なる法が滅する。もし自ら苦を断つならば、不善なる法が滅して善なる法が生じる。ならば、私は今、自らその苦を断とう。』そして自ら苦を断ちます。自ら苦を断ったならば、不善なる法は滅し、善なる法は生じます。もはや苦を断つ必要はありません。なぜでしょうか？本来目指していた意味は、すでに成就したからです。もしさらに苦を断とうとするなら、それは道理に合いません。 比丘よ、ちょうどある人が、ある女性を愛し、執着し、大切に思っているとします。しかし、その女性が他の人と話し、挨拶を交わし、行き来して共に過ごすのを見て、その人はそのために心身に苦悩を生じ、ひどく憂い悲しむのではないでしょうか？

比丘答曰：「如是。世尊！所以者何？其人於女愛念、染著，極相敬待，而彼女人更與他語，共相問訊，往來止宿，其人身心何得不生苦惱憂慼？」

> 比丘は答えました。「その通りです、世尊。なぜなら、その人は女性を愛し、執着し、深く敬い大切にしています。しかし、その女性が他の男性と話し、親しく挨拶を交わし、行き来して共に過ごすなら、その人の心身はどうして苦しみや憂いに満たされないでいられましょうか？」

「比丘！若使其人而作是念：『我唐愛念、敬待彼女，然彼女人更與他語，共相問訊，往來止宿，我今寧可因自苦自憂故，斷為彼女愛念、染著耶？』其人於後因自苦自憂故，便斷為彼女愛念、染著。若彼女人故與他語，共相問訊，往來止宿，其人於後，身心寧當復生苦惱，極憂慼耶？」

> 比丘よ、もしその人がこのように考えるならば：『私は彼女をいたずらに愛し、大切に思っている。しかし、彼女は他の男と話し、挨拶を交わし、行き来して共に過ごしている。私は今、自分自身を苦しめ悩ませる原因である彼女への愛着と執着を断ち切るべきではないか？』と。その人はその後、自分自身を苦しめ悩ませる原因である彼女への愛着と執着を断ち切る。もし彼女がなおも他の男と話し、挨拶を交わし、行き来して共に過ごすならば、その人はその後、心身に再び苦しみや憂いを生じるでしょうか？

比丘答曰：「不也。世尊！所以者何？其人於女無復愛念、染著之情，若彼女人故與他語，共相問訊，往來止宿，若使其人因此身心復生苦惱極憂慼者，是處不然。」

> 比丘は答えました。「いいえ、世尊。なぜなら、その人は女性に対してもはや愛着や執着の情を持たないからです。もしその女性が他の者と話し、挨拶を交わし、一緒に過ごしたとしても、そのためにその人の心身が再び苦しみや深い憂いに満たされるようなことは、決してありません。」

「如是，比丘便作是念：『隨所為、隨所行，不善法生而善法滅，若自斷其苦，不善法滅而善法生，我今寧可自斷其苦。』便自斷苦。自斷苦已，不善法滅而善法生，不復斷苦。所以者何？本所為者，其義已成，若復斷苦，是處不然。

> このように、比丘はこのように思うのです：『何を行い、何を為しても、不善なる法が生じて善なる法が滅びるならば、もし自らその苦しみを断つならば、不善なる法が滅びて善なる法が生じる。私は今、自らその苦しみを断とう。』そして自ら苦しみを断つのです。自ら苦しみを断った後、不善なる法が滅びて善なる法が生じ、もはや苦しみを断つことはありません。なぜそうなるのでしょうか？本来目指していた目的は、その意味がすでに成就したからです。もし再び苦しみを断つならば、それは正しいあり方ではありません。

「彼復作是念：『若有所因，斷其苦者，我便已斷，然我於欲猶故未斷，我今寧可求斷於欲。』便求斷欲。彼為斷欲故，獨住遠離，在無事處，或至樹下空安靜處，山巖石室、露地穰積，或至林中，或在塚間，彼已在無事處，或至樹下空安靜處，敷尼師檀，結加趺坐，正身正願，反念不向，斷除貪伺，心無有諍，見他財物諸生活具不起貪伺，欲令我得，彼於貪伺淨除其心。如是，瞋恚、睡眠、掉悔，斷疑、度惑，於諸善法無有猶豫，彼於疑惑淨除其心。

> 彼はまたこう考えた。『もし何か原因があって苦しみが断たれるなら、私はすでに断っているはずだ。しかし、私はまだ欲望を断ち切れていない。今こそ欲望を断つことを求めよう』。そして欲望を断つことを求めた。欲望を断つために、彼は一人で離れ、人里離れた静かな場所に行った。あるいは木の下の空き地、山の岩屋、野原の草むら、あるいは林の中、墓場の間。彼は人里離れた場所に身を置き、あるいは木の下の静かな場所に座り、敷物を敷いて結跏趺坐し、姿勢を正し、心を正して、思いを内に向け、貪りの心を断ち、心に争いを起こさず、他人の財物や生活の道具を見ても貪りの心を起こさず、『自分が手に入れたい』と思わない。彼は貪りの心を清らかに除いた。同様に、怒り、眠気、心の浮つき、後悔、疑い、迷いを断ち、善い法に対してためらうことなく、彼は疑いの心を清らかに除いた。

「彼已斷此五蓋——心穢、慧羸，離欲，離惡不善之法，至得第四禪成就遊。彼得如是定，心清淨，無穢無煩，柔軟善住，得不動心，趣向漏盡智通作證，彼便知此苦如真，知此苦習、知此苦滅、知此苦滅道如真，亦知此漏如真，知此漏習、知此漏滅、知此漏滅道如真，彼如是知、如是見已，則欲漏心解脫，有漏、無明漏心解脫，解脫已，便知解脫，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。

> 彼はすでにこの五つの覆い――心の汚れ、智慧の弱まり――を断ち切り、欲を離れ、悪しき不善の法を離れ、第四禅を成就して遊ぶ境地に至った。彼はこのような定を得て、心は清らかで、汚れも煩いもなく、柔らかく善く住し、動かぬ心を得て、漏れ尽きる智慧への道を証しに向かう。彼はこの苦を真の如く知り、この苦の生起を知り、この苦の滅を知り、この苦の滅に至る道を真の如く知る。また、この漏れを真の如く知り、この漏れの生起を知り、この漏れの滅を知り、この漏れの滅に至る道を真の如く知る。彼がこのように知り、このように見たとき、欲の漏れから心は解き放たれ、存在の漏れ、無明の漏れから心は解き放たれる。解き放たれたならば、すでに解き放たれたことを知り、生は尽き、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、もはや再び存在を受けることはなく、真の如く知るのである。

「如來如是正心解脫，得五稱譽，如法無諍，可愛可敬。云何為五？彼眾生者，所受苦樂皆因本作，若爾者，如來本有妙業，因彼故，如來於今聖無漏樂，寂靜止息而得樂覺，是謂如來得第一稱譽。復次，眾生所受苦樂皆因合會，若爾者，如來本妙合會，因彼故，如來於今聖無漏樂，寂靜止息而得樂覺，是謂如來得第二稱譽。復次，眾生所受苦樂皆因為命，若爾者，如來本妙為命，因彼故，如來於今聖無漏樂，寂靜止息而得樂覺，是謂如來得第三稱譽。復次，眾生所受苦樂皆因見也，若爾者，如來本妙見，因彼故，如來於今聖無漏樂，寂靜止息而得樂覺，是謂如來得第四稱譽。復次，眾生所受苦樂皆因尊祐造，若爾者，如來本妙尊祐，因彼故，如來於今聖無漏樂，寂靜止息而得樂覺，是謂如來得第五稱譽。是為如來本妙業、妙合會、妙為命、妙見、妙尊祐，為妙尊祐所造，因彼故，如來於今聖無漏樂，寂靜止息而得樂覺，以此事故，如來於今得五稱譽。

> 如来はこのように正しい心で解脱し、五つの称賛を得られました。それは法にかなって争いがなく、愛すべき敬うべきものです。どのような五つでしょうか。 衆生が受ける苦しみや楽しみは、すべて過去の行いによるものです。もしそうならば、如来はもとより優れた行いをなさっておられました。それゆえに、如来は今、聖なる煩悩のない楽しみ、静寂で安らぎを得て、楽を覚えておられます。これが如来が得られた第一の称賛です。 また、衆生が受ける苦しみや楽しみは、すべて因縁の和合によるものです。もしそうならば、如来はもとより優れた和合をなさっておられました。それゆえに、如来は今、聖なる煩悩のない楽しみ、静寂で安らぎを得て、楽を覚えておられます。これが如来が得られた第二の称賛です。 また、衆生が受ける苦しみや楽しみは、すべて生命によるものです。もしそうならば、如来はもとより優れた生命をなさっておられました。それゆえに、如来は今、聖なる煩悩のない楽しみ、静寂で安らぎを得て、楽を覚えておられます。これが如来が得られた第三の称賛です。 また、衆生が受ける苦しみや楽しみは、すべて見解によるものです。もしそうならば、如来はもとより優れた見解をなさっておられました。それゆえに、如来は今、聖なる煩悩のない楽しみ、静寂で安らぎを得て、楽を覚えておられます。これが如来が得られた第四の称賛です。 また、衆生が受ける苦しみや楽しみは、すべて尊い存在によるものです。もしそうならば、如来はもとより優れた尊い存在でいらっしゃいました。それゆえに、如来は今、聖なる煩悩のない楽しみ、静寂で安らぎを得て、楽を覚えておられます。これが如来が得られた第五の称賛です。 このように、如来はもとより優れた行い、優れた和合、優れた生命、優れた見解、優れた尊い存在であられ、その優れた尊い存在によって成し遂げられました。それゆえに、如来は今、聖なる煩悩のない楽しみ、静寂で安らぎを得て、楽を覚えておられます。このことによって、如来は今、五つの称賛を得られたのです。

「有五因緣，心生憂苦。云何為五？婬欲纏者，因婬欲纏故，心生憂苦。如是，瞋恚、睡眠、掉悔、疑惑纏者，因疑惑纏故，心生憂苦。是謂五因緣，心生憂苦。有五因緣，心滅憂苦。云何為五？若婬欲纏者，因婬欲纏故，心生憂苦，除婬欲纏已，憂苦便滅，因婬欲纏，心生憂苦，於現法中而得究竟，無煩無熱，常住不變，是聖所知、聖所見。如是，瞋恚、睡眠、掉悔，若疑惑纏者，因疑惑纏故，心生憂苦，除疑惑纏已，憂苦便滅，因疑惑纏，心生憂苦，於現法中而得究竟，無煩無熱，常住不變，是聖所知、聖所見。是謂五因緣，心滅憂苦。

> 心に憂いと苦しみが生じる原因は五つあります。どのような五つでしょうか。欲の煩悩に縛られている者は、欲の煩悩に縛られているがゆえに、心に憂いと苦しみが生じます。このように、怒りの煩悩、眠気の煩悩、心の浮動と後悔の煩悩、疑いの煩悩に縛られている者は、疑いの煩悩に縛られているがゆえに、心に憂いと苦しみが生じます。これが、心に憂いと苦しみが生じる五つの原因です。 心から憂いと苦しみが消え去る原因も五つあります。どのような五つでしょうか。もし欲の煩悩に縛られている者が、欲の煩悩に縛られているがゆえに心に憂いと苦しみが生じるならば、その欲の煩悩を取り除いたとき、憂いと苦しみは消え去ります。欲の煩悩によって生じた心の憂いと苦しみは、この現世において完全に終わりを迎え、もはや煩わされることも熱にうなされることもなく、常に変わらない安らぎの境地に至ります。これは聖者が知り、聖者が見た境地です。このように、怒りの煩悩、眠気の煩悩、心の浮動と後悔の煩悩、疑いの煩悩に縛られている者が、それらの煩悩に縛られているがゆえに心に憂いと苦しみが生じるならば、その煩悩を取り除いたとき、憂いと苦しみは消え去ります。それらの煩悩によって生じた心の憂いと苦しみは、この現世において完全に終わりを迎え、もはや煩わされることも熱にうなされることもなく、常に変わらない安らぎの境地に至ります。これは聖者が知り、聖者が見た境地です。これが、心から憂いと苦しみ

「復次，更有現法而得究竟，無煩無熱，常住不變，是聖所知、聖所見。云何更有現法而得究竟，無煩無熱，常住不變，是聖所知、聖所見？謂八支聖道，正見乃至正定，是為八。是謂更有現法而得究竟，無煩無熱，常住不變，是聖所知、聖所見。」

> さらに、この世において完全に達成され、煩わしさも熱さもなく、常に変わらず存在するものがあります。それは聖なる者が知り、聖なる者が見るものです。 では、この世において完全に達成され、煩わしさも熱さもなく、常に変わらず存在する、聖なる者が知り見るものとは何でしょうか。 それは八つの支分からなる聖なる道、すなわち正しい見解から正しい禅定までの八つです。 これが、この世において完全に達成され、煩わしさも熱さもなく、常に変わらず存在する、聖なる者が知り見るものなのです。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

尼乾經第九竟三千六百

> ニガンタ経第九終了<note>三千六百</note>