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title: "中阿含經 · 18 師子經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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## 中阿含經卷第四

> 中阿含経 第四巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （一八）業相應品師子經第八初一日誦

> （一八）業相応品 師子経 第八<note>初一日誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊鞞舍離，在獼猴水邊高樓臺觀。

> ある時、仏陀はヴァイシャーリー（鞞舍離）を訪れ、猿の池のほとりの高台にある楼閣に滞在されました。

爾時，眾多鞞舍離麗掣集在聽堂，數稱歎佛，數稱歎法及比丘眾。彼時，尼乾弟子師子大臣亦在眾中。

> その時、ヴェーサーリーの多くのリッチャヴィの人々が集会所に集まり、何度も仏陀を称賛し、何度も法と比丘の僧団を称賛しました。その時、尼乾子の弟子である師子大臣もその集まりの中にいました。

是時，師子大臣欲往見佛，供養禮事，師子大臣則先往詣諸尼乾所，白尼乾曰：「諸尊！我欲往見沙門瞿曇。」

> その時、大臣シーラは仏に会い、供養し礼拝したいと考えました。そこでまず尼乾子（ジャイナ教の修行者）たちのもとへ行き、こう告げました。「尊い方々よ、私は沙門ゴータマに会いに行こうと思います。」

彼時，尼乾訶師子曰：「汝莫欲見沙門瞿曇。所以者何？沙門瞿曇宗本不可作，亦為人說不可作法。師子！若見宗本不可作則不吉利，供養禮事亦不吉利。」

> その時、ニガンタの教えを説く者が言った。「お前は、沙門ゴータマに会おうとしてはならない。なぜなら、沙門ゴータマは根源的に『なすべきでない』という教えを根本としており、人々にも『なすべきでない』という法を説いているからだ。シーシャよ、もし『なすべきでない』という根本の教えに触れれば、それは不吉であり、供養や礼拝もまた不吉となるであろう。」

彼眾多鞞舍離麗掣再三集在聽堂，數稱歎佛，數稱歎法及比丘眾。彼時，尼乾弟子師子大臣亦再三在彼眾中。時，師子大臣亦復再三欲往見佛，供養禮事。

> ヴェーサーリーの多くのリッチャヴィ族の人々は、集会所に何度も集まり、繰り返し仏陀を称賛し、繰り返し法と比丘僧伽を称賛しました。その時、尼乾子（ジャイナ教）の弟子であるシンハ大臣もまた、その集まりの中に何度も加わっていました。そしてシンハ大臣もまた、何度も仏陀のもとを訪れ、供養し礼拝したいと願うようになりました。

師子大臣便不辭尼乾，即往詣佛，共相問訊，却坐一面，而作是語：「我聞沙門瞿曇宗本不可作，亦為人說不可作法。瞿曇！若如是說，沙門瞿曇宗本不可作，亦為人說不可作法，彼不謗毀沙門瞿曇耶？彼說真實耶？彼說是法耶？彼說法如法耶？於如法無過、無難詰耶？」

> 師子大臣は、尼乾子に別れを告げずに、そのまま仏のもとへ向かった。共に挨拶を交わし、一方の端に座って、こう言った。 「私はこう聞きました。『沙門ゴータマは、根本的に作ることができないという教えを掲げ、また人々に作ることのできない法を説いている』と。ゴータマよ、もしこのように『沙門ゴータマは、根本的に作ることができないという教えを掲げ、人々に作ることのできない法を説いている』と語る者がいるならば、その者は沙門ゴータマを謗り貶めていることになるのでしょうか？ その者は真実を語っているのでしょうか？ その者は正しい法を語っているのでしょうか？ その者は法に適った語り方をしているのでしょうか？ その語りは、法に従っており、過ちもなく、非難される点もないのでしょうか？」

世尊答曰：「師子！若如是說，沙門瞿曇宗本不可作，亦為人說不可作法，彼不謗毀沙門瞿曇！彼說真實，彼說是法，彼說如法，於法無過，亦無難詰。所以者何？師子！有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本不可作，亦為人說不可作法。師子！復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本可作，亦為人說可作之法。師子！復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本斷滅，亦為人說斷滅之法。師子！復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本可惡，亦為人說可憎惡法。師子！復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本法、律，亦為人說法、律之法。師子！復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本苦行，亦為人說苦行之法。師子！復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本不入於胎，亦為人說不入胎法。師子！復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本安隱，亦為人說安隱之法。

> 世尊が答えて言われました。「師子よ、もし『沙門ゴータマの教えの根本は、なすべきではないことであり、彼はまた、なすべきではない法を説く』とそのように言うならば、その人は沙門ゴータマを謗り、非難していることにはならない。その人は真実を語り、正しい法を語り、法に適ったことを語り、法について過ちがなく、問い詰められることもない。なぜか。師子よ、ある事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができないのである。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本はなすべきではないことであり、彼はまた、なすべきではない法を説くのである。師子よ、また別の事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができない。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本はなすべきことであり、彼はまた、なすべき法を説くのである。師子よ、また別の事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができない。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本は断滅であり、彼はまた、断滅の法を説くのである。師子よ、また別の事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができない。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本は憎むべきことであり、彼はまた、憎むべき法を説くのである。師子よ、また別の事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができない。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本は法と律であり、彼はまた、法と律の法を説くのである。師子よ、また別の事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができない。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本は苦行であり、彼はまた、苦行の法を説くのである。師子よ、また別の事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができない。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本は胎内に入らないことであり、彼はまた、胎内に入らない法を説くのである。師子よ、また別の事柄によってこの事の故に、如来の正しい法を謗り非難することができない。すなわち、沙門ゴータマの教えの根本は安らぎであり、彼はまた、安らぎの法を説くのである。」

「師子！云何有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本不可作，亦為人說不可作法？師子！我說身惡行不可作，口、意惡行亦不可作。師子！若如是比無量不善穢污之法，為當來有本、煩熱苦報、生老病死因。師子！我說此法盡不可作。師子！是謂有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本不可作，亦為人說不可作法。

> 師子よ。では、なぜこのことゆえに、如来の真実の教えを謗ることができないのか。沙門ゴータマは、根本的に「為してはならないこと」を説き、人々にも「為してはならないこと」を説いている。師子よ。私は、身体による悪行は為してはならないと説く。言葉による悪行、心による悪行もまた、為してはならないと説く。師子よ。このような無数の不善で汚れた行為――これらは未来の生存の基となり、苦しみと煩悩の熱をもたらし、生・老・病・死の原因となる。師子よ。私はこれらの行為はすべて為してはならないと説く。師子よ。これこそが、このことゆえに如来の真実の教えを謗ることができず、沙門ゴータマは根本的に「為してはならないこと」を説き、人々にも「為してはならないこと」を説いている理由なのである。

「師子！云何復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本可作，亦為人說可作之法？師子！我說身妙行可作，口、意妙行亦可作。師子！若如是比無量善法與樂果，受於樂報，生於善處而得長壽。師子！我說此法盡應可作。師子！是謂有事因此事故，不能謗毀，沙門瞿曇宗本可作，亦為人說可作之法。

> 「獅子よ。では、なぜわが師・ゴータマの教えが『実践可能である』とされ、人々にも実践可能な法を説いていると、非難したり中傷したりできないのか。それを説明しよう。 獅子よ、私は、身体による善い行い（身妙行）は実践可能であると説く。同様に、言葉による善い行い（口妙行）、心による善い行い（意妙行）も実践可能である。獅子よ、このように無量の善い行いは、安らぎの報いをもたらし、幸せな結果をもたらし、善い場所に生まれ、長寿を得る。獅子よ、私はこれらの法はすべて、実践すべきものであると説く。 獅子よ、これこそが、わが師・ゴータマの教えを『実践可能である』とし、人々にも実践可能な法を説いていると、非難したり中傷したりできない理由なのである。」

「師子！云何復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本斷滅，亦為人說斷滅之法？師子！我說身惡行應斷滅，口、意惡行亦應斷滅。師子！若如是比無量不善穢汙之法，為當來有本、煩熱苦報、生老病死因。師子！我說此法盡應斷滅。師子！是謂有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本斷滅，亦為人說斷滅之法。

> 師子よ、では何が理由で、如来の真実の教えを誹謗中傷できないのか。沙門ゴータマは「根本から断滅する」ことを説き、人々にも断滅の法を説くと言われる。師子よ、私は身の悪行は断滅すべきであり、口と意の悪行も断滅すべきだと説く。師子よ、このように無数の不善で汚れた法々、すなわち未来の生存の根本となり、悩み苦しみの報いをもたらし、生・老・病・死の原因となるもの、これらすべてを断滅すべきだと私は説く。師子よ、このような理由があるからこそ、如来の真実の教えを誹謗中傷できないのであり、沙門ゴータマが「根本から断滅する」ことを説き、人々にも断滅の法を説くと言われるのである。

「師子！云何復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本可惡，亦為人說可憎惡法？師子！我說身惡行可憎惡，口、意惡行亦可憎惡。師子！若如是比無量不善穢汙之法，為當來有本、煩熱苦報、生老病死因。師子！我說此法盡可憎惡。師子！是謂有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本可惡，亦為人說可憎惡法。

> 師子よ、ではなぜ、このような理由によって、如来の正しい教えを非難することができず、「沙門ゴータマの根本は嫌悪すべきものであり、人々に嫌悪すべき法を説いている」と言われるのか？師子よ、私は身の悪行は嫌悪すべきものであり、口の悪行、意の悪行もまた嫌悪すべきものであると説く。師子よ、このように無量の不善で汚れた法々、すなわち未来の生存の根本となり、煩悩の熱苦の報いをもたらし、生・老・病・死の因となるものについて、師子よ、私はこれらの法はすべて嫌悪すべきものであると説く。師子よ、これこそが、このような理由によって、如来の正しい教えを非難することができず、「沙門ゴータマの根本は嫌悪すべきものであり、人々に嫌悪すべき法を説いている」と言われる所以である。

「師子！云何復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本法、律，亦為人說法、律之法？師子！我為斷貪婬故而說法、律，斷瞋恚、愚癡故而說法、律。師子！若如是比無量不善穢汙之法，為當來有本、煩熱苦報、生老病死因。師子！我為斷彼故而說法、律。師子！是謂有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本法、律，亦為人說法、律之法。

> 獅子よ。では、どのような理由があって、人々が「沙門ゴータマは法と律を根本として、また人々に法と律を説いている」という真実の教えを非難したり中傷したりすることができないのでしょうか。 獅子よ。私は、貪欲と淫欲を断つために法と律を説き、怒りと愚かさを断つために法と律を説いています。獅子よ。このように、数え切れないほどの不善で汚れた煩悩――それは未来の生存の基となり、熱苦の報いをもたらし、生・老・病・死の因となるものですが――私はそれらを断つために法と律を説いています。 獅子よ。これこそが、まさにその理由であり、それによって人々は「沙門ゴータマは法と律を根本として、また人々に法と律を説いている」という真実の教えを非難したり中傷したりすることができないのです。

「師子！云何復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本苦行，亦為人說苦行之法？師子！或有沙門、梵志裸形無衣，或以手為衣，或以葉為衣，或以珠為衣，或不以瓶取水，或不以魁取水，不食刀杖劫抄之食，不食欺妄食，不自往，不遣信，不來尊、不善尊、不住尊。若有二人食，不在中食，不懷妊家食，不畜狗家食，設使家有糞蠅飛來，便不食也。不噉魚，不食肉，不飲酒，不飲惡水，或都無所飲，學無飲行；或噉一口，以一口為足，或二口、三、四，乃至七口，以七口為足；或食一得，以一得為足，或二、三、四，乃至七得，以七得為足；或日一食，以一食為足，或二、三、四、五、六、七日、半月、一月一食，以一食為足；或食菜茹，或食稗子，或食穄米，或食雜󰎣，或食頭頭邏食，或食麤食；或至無事處，依於無事，或食根，或食果，或食自落果，或持連合衣，或持毛衣，或持頭舍衣，或持毛頭舍衣，或持全皮，或持穿皮，或持全穿皮；或持散髮，或持編髮，或持散編髮，或有剃髮，或有剃鬚，或剃鬚髮，或有拔髮，或有拔鬚，或拔鬚髮；或住立斷坐，或修蹲行，或有臥刺，以刺為床，或有臥果，以果為床，或有事水，晝夜手抒，或有事火，竟昔然之，或事日、月、尊祐大德，叉手向彼，如此之比受無量苦，學煩熱行。師子！有此苦行我不說無。師子！然此苦行為下賤業，至苦至困，凡人所行，非是聖道。師子！若有沙門、梵志，彼苦行法知斷滅盡，拔絕其根，至竟不生者，我說彼苦行。師子！如來、無所著、等正覺，彼苦行法知斷滅盡，拔絕其根，至竟不生，是故我苦行。師子！是謂有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本苦行，亦為人說苦行之法。

> 師子よ、さらに別の理由がある。その理由によって、如来の正しい教えを非難することはできない。沙門ゴータマは苦行を根本とし、また人々に苦行の法を説く、と。師子よ、ある沙門や婆羅門の中には、裸形で衣をつけない者、手を衣とする者、葉を衣とする者、珠を衣とする者がいる。また、瓶で水を汲まず、杓で水を汲まず、刀や杖で奪った食べ物を食べず、欺きの食べ物を食べず、自ら行かず、使いを遣わさず、来ることを尊ばず、善いことを尊ばず、とどまることを尊ばない。二人が食事をしている時にはその間に加わらず、妊婦の家では食べず、犬を飼う家では食べず、もし家に糞蝿が飛んできたら、食べない。魚を食べず、肉を食べず、酒を飲まず、悪い水を飲まず、全く飲まないこともあり、無飲の行を学ぶ。あるいは一口だけ食べ、一口で足りるとし、二口、三口、四口、乃至七口で足りるとする。あるいは一得だけ食べ、一得で足りるとし、二得、三得、四得、乃至七得で足りるとする。あるいは一日に一度食べ、一度の食事で足りるとし、二日、三日、四日、五日、六日、七日、半月、一月に一度食べ、一度の食事で足りるとする。あるいは野菜を食べ、稗を食べ、稷米を食べ、雑穀を食べ、頭頭邏食を食べ、粗食を食べる。あるいは無事の場所に行き、無事に依って、根を食べ、果実を食べ、自然に落ちた果実を食べる。あるいは連合衣を着、毛衣を着、頭舍衣を着、毛頭舍衣を着、全皮を着、穴の開いた皮を着、全皮と穴の開いた皮を着る。あるいは髪を振り乱し、髪を編み、髪を振り乱して編む。あるいは髪を剃り、鬚を剃り、鬚髪を剃る。あるいは髪を抜き、鬚を抜き、鬚髪を抜く。あるいは立ったまま座ることを断ち、蹲ったまま歩む行を修し、あるいは棘の上に臥し、棘を床とし、あるいは果実の上に臥し、果実を床とする。あるいは水を事とし、昼夜手で水を掻き出す。あるいは火を事とし、一晩中火を燃やし続ける。あるいは太陽、月、尊い祐け、大いなる徳を事とし、それらに向かって合掌する。このような類の、無量の苦を受け、煩熱の行を学ぶのである。師子よ、このような苦行が存在することを、私は否定しない。師子よ、しかしながら、この苦行は下賤な業であり、極めて苦しく、極めて困難で、凡人が行うものであり、聖なる道ではない。師子よ、もしある沙門や婆羅門が、その苦行の法を、断ち尽くし、滅ぼし尽くし、その根を抜き去り、ついに再び生じないように知るならば、私はそのような者の苦行を説く。師子よ、如来、阿羅漢、正等覚者は、その苦行の法を、断ち尽くし、滅ぼし尽くし、その根を抜き去り、ついに再び生じないように知っている。それゆえ、私は苦行を行う者である。師子よ、これが、ある事があるゆえに、その事によって、如来の正しい教えを非難することはできず、「沙門ゴータマは苦行を根本とし、また人々に苦行の法を説く」と言う理由である。

「師子！云何復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本不入於胎，亦為人說不入胎法？師子！若有沙門、梵志當來胎生，知斷滅盡，拔絕其根，至竟不生者，我說彼不入於胎。師子！如來、無所著、等正覺，當來有胎生知斷滅盡，拔絕其根，至竟不生，是故我不入於胎。師子！是謂有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本不入於胎，亦為人說不入胎法。

> 師子よ、さらに、次の事由があるからこそ、如来は真実の教えを誹謗されることがなく、「沙門ゴータマは本来、胎内に宿らない」と言われ、また人々に胎内に宿らない教えを説かれるのです。師子よ、もし修行者や婆羅門が未来において胎内に生まれることがあるとしても、その生まれを完全に知り、断ち尽くし、根を絶やして、ついに生まれない状態に至るならば、私はその人は胎内に宿らないと言います。師子よ、如来、阿羅漢、正等覚者は、未来における胎内への生まれを完全に知り、断ち尽くし、根を絶やして、ついに生まれない状態に至っています。それゆえに、私は胎内に宿らないのです。師子よ、これが、真実の教えを誹謗されることなく、「沙門ゴータマは本来、胎内に宿らない」と言われ、また人々に胎内に宿らない教えを説かれる事由なのです。

「師子！云何復有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本安隱，亦為人說安隱之法？師子！族姓子所有剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道者，唯無上梵行訖，我於現法自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真，我自安隱，亦安隱他比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷。我已安彼，便為生法，眾生於生法解脫，老法、病法、死法、憂慼染汙法，眾生於憂慼染污法解脫。師子！是謂有事因此事故，於如實法不能謗毀，沙門瞿曇宗本安隱，亦為人說安隱之法。」

> 師子よ、さらにもう一つの理由がある。この理由によって、如来の教えを謗ることはできない。沙門ゴータマは、その教えの根本が安らかであり、人々にも安らかな道を説いているからだ。師子よ、良家の子弟が髪やひげを剃り、袈裟を身にまとい、確かな信仰をもって家を出て、出家して修行者となる。彼らは最高の清らかな行いを完成させ、現世において自ら悟り、自ら証し、その境地を成就する。すなわち、「生は尽きた。清らかな行いは完成した。為すべきことは為し終えた。もはや再び迷いの世界に生まれることはない」と、あるがままに知るのである。私は自ら安らかであり、また他の人々——比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷——をも安らかにする。私は彼らを安らかにしたので、彼らは「生」というものから解脱する。すなわち、生・老・病・死、そして憂いや苦しみに染まった状態から解脱するのである。師子よ、これが、如来の教えを謗ることができず、沙門ゴータマの教えの根本が安らかであり、人々に安らかな道を説くもう一つの理由なのである。

師子大臣白世尊曰：「瞿曇！我已知。善逝！我已解。瞿曇！猶明目人，覆者仰之，覆者發之，迷者示道，闇中施明，若有眼者，便見於色。沙門瞿曇亦復如是，為我無量方便說法、現義，隨其諸道。世尊！我今自歸於佛、法及比丘眾，唯願世尊受我為優婆塞，從今日始，終身自歸，乃至命盡。世尊！猶如有人養不良馬，望得其利，徒自疲勞而不獲利。世尊！我亦如是，彼愚癡尼乾不善曉了，不能自知，不識良田而不自審，長夜奉敬，供養禮事，望得其利，唐苦無益。世尊！我今再自歸佛、法及比丘眾，唯願世尊受我為優婆塞，從今日始，終身自歸，乃至命盡。世尊！我本無知，於愚癡尼乾有信有敬，從今日斷。所以者何？欺誑我故。世尊！我今三自歸佛、法及比丘眾，唯願世尊受我為優婆塞，從今日始，終身自歸，乃至命盡。」

> シシ大臣は世尊に申し上げました。 「ゴータマよ、私は知りました。善逝よ、私は理解しました。 ゴータマよ、ちょうど目の明らかな人が、覆われたものを開き、隠されたものを現し、迷える者に道を示し、暗闇に灯りをともすように、もし目ある者があれば、物の形を見ることができるでしょう。沙門ゴータマもまた同じく、私のために無量の方便をもって法を説き、意味を示し、様々な道に従わせてくださいました。 世尊よ、私は今、仏と法と比丘の僧伽に帰依いたします。どうか世尊よ、私を優婆塞（在家の男性信者）としてお受け入れください。今日より始めて、終身、命が尽きるまで帰依いたします。 世尊よ、たとえば人が、劣った馬を養って、その利益を得ようと望んでも、ただ疲れるだけで利益を得られないようなものです。世尊よ、私もまた同じです。あの愚かなニガンタ（ジャイナ教の修行者）たちは、よく理解せず、自らを知らず、良田を識別せず、自らを省みることもなく、長い間、敬い、供養し、礼拝し、その利益を得ようと望んでも、無駄に苦しむだけで益はありませんでした。 世尊よ、私は今、再び仏と法と比丘の僧伽に帰依いたします。どうか世尊よ、私を優婆塞としてお受け入れください。今日より始めて、終身、命が尽きるまで帰依いたします。 世尊よ、私はもともと無知でしたので、愚かなニガンタに対して信と敬いを持っていましたが、今日から断ち切ります。なぜなら、彼らは私を欺いたからです。 世尊よ、私は今、三たび仏と法と比丘の僧伽に帰依いたします。どうか世尊よ、私を優婆塞としてお受け入れください。今日より始めて、終身、命が尽きるまで帰依いたします。」

佛說如是。師子大臣及諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。師子經第八竟二千四百一十三字

> 仏がこのようにお説きになると、師子大臣や比丘たちは、仏の教えを聞いて、喜び、その通りに実践しました。師子経第八終わり