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title: "中阿含經 · 30 象跡喻經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （三〇）中阿含舍梨子相應品象跡喻經第十初一日誦

> 象跡喩経第十

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦様は舎衛国に滞在され、勝林の給孤独園におられました。

爾時，尊者舍梨子告諸比丘：「諸賢！若有無量善法，彼一切法皆四聖諦所攝，來入四聖諦中，謂四聖諦於一切法最為第一。所以者何？攝受一切眾善法故。諸賢！猶如諸畜之跡，象跡為第一。所以者何？彼象跡者最廣大故。如是，諸賢！無量善法，彼一切法皆四聖諦所攝，來入四聖諦中，謂四聖諦於一切法最為第一。云何為四？謂苦聖諦，苦習、苦滅、苦滅道聖諦。諸賢！云何苦聖諦？謂生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎會苦、愛別離苦、所求不得苦、略五盛陰苦。

> その時、尊者舎梨子は比丘たちに告げられました。「皆さん、もし無量の善い法があるならば、それらすべての法は四聖諦に含まれ、四聖諦の中に収まるのです。つまり、四聖諦はあらゆる法の中で最も第一のものと言えます。なぜでしょうか？すべての善い法を取り込むからです。皆さん、ちょうどあらゆる獣の足跡の中で、象の足跡が第一であるようなものです。なぜでしょうか？その象の足跡が最も広大であるからです。このように、皆さん、無量の善い法は、すべて四聖諦に含まれ、四聖諦の中に収まるのです。つまり、四聖諦はあらゆる法の中で最も第一のものなのです。その四つとは何でしょうか？苦の聖諦、苦の集まりの聖諦、苦の滅びの聖諦、苦の滅びに至る道の聖諦です。皆さん、苦の聖諦とは何でしょうか？生の苦、老いの苦、病の苦、死の苦、怨み憎む者と会う苦、愛する者と別れる苦、求めるものが得られない苦、要するに五つの盛んなる蘊（心身の構成要素）の苦です。」

「諸賢！云何五盛陰？謂色盛陰，覺、想、行、識盛陰。諸賢！云何色盛陰？謂有色，彼一切四大及四大造。諸賢！云何四大？謂地界，水、火、風界。諸賢！云何地界？諸賢！謂地界有二，有內地界，有外地界。諸賢！云何內地界？謂內身中在，內所攝堅，堅性住，內之所受。此為云何？謂髮、毛、爪、齒、麤細皮膚、肌肉、筋、骨、心、腎、肝、肺、脾、腸、𦝩、糞，如是比此身中餘在，內所攝，堅性住，內之所受，諸賢！是謂內地界。諸賢！外地界者，謂大是，淨是，不憎惡是。諸賢！有時水災，是時滅外地界。

> 諸賢者よ、五盛陰とは何か。それは色盛陰、受盛陰、想盛陰、行盛陰、識盛陰である。 諸賢者よ、色盛陰とは何か。それは一切の色であり、すべて四大および四大によって造られたものである。 諸賢者よ、四大とは何か。それは地界、水界、火界、風界である。 諸賢者よ、地界とは何か。地界には二種類ある。内なる地界と、外なる地界である。 諸賢者よ、内なる地界とは何か。それは内なる身体の中に存在し、内に摂せられた堅さ、堅固な性質をもち、内において受け取られたものである。それはどのようなものか。髪、毛、爪、歯、粗い皮膚、細かい皮膚、筋肉、筋、骨、心臓、腎臓、肝臓、肺臓、脾臓、腸、胃、糞など、このようにこの身体の中に残るもの、内に摂せられ、堅固な性質をもち、内において受け取られるもの、これらを諸賢者よ、内なる地界という。 諸賢者よ、外なる地界とは、それは大きく、清らかで、憎むべきものではない。諸賢者よ、時に水害が起こり、その時には外なる地界は滅びる。

「諸賢！此外地界極大，極淨，極不憎惡，是無常法、盡法、衰法、變易之法，況復此身暫住，為愛所受？謂不多聞愚癡凡夫而作此念：『是我，是我所，我是彼所。』多聞聖弟子不作此念：『是我，是我所，我是彼所。』彼云何作是念？若有他人罵詈、捶打、瞋恚責數者，彼作是念：『我生此苦，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣苦更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動。彼於後時他人來語柔辭軟言者，彼作是念：『我生此樂，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣樂更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識、無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動。彼於後時，若幼少、中年、長老來行不可事，或以拳扠，或以石擲，或刀杖加，彼作是念：『我受此身，色法麤質，四大之種，從父母生，飲食長養，常衣被覆，坐臥按摩，澡浴強忍，是破壞法，是滅盡法，離散之法，我因此身致拳扠、石擲及刀杖加。』由是之故，彼極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，彼作是念：『我極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，我受此身，應致拳扠、石擲及刀杖加，但當精勤學世尊法。』

> 諸賢よ、この大地の要素は極めて大きく、極めて清らかで、極めて嫌悪すべきものではないが、それすらも無常であり、尽きるものであり、衰えるものであり、変易する法なのです。ましてや、この身はほんの束の間、愛着によって保たれているに過ぎません。 無知で愚かな凡夫は、『これは私だ、これは私のものだ、私はこれに属する』と考えるものです。しかし、多くを学んだ聖なる弟子は、そのような考えを持ちません。彼らはどう考えるのでしょうか。 もし他人から罵られ、打たれ、怒りをぶつけられ、責め立てられたなら、彼らはこう考えます。『この苦しみは私に生じた。それは原因と縁によって生じたのであり、原因なくして生じたのではない。その縁とは何か。苦しみを感じる接触が縁となったのだ』と。彼らはこの接触が無常であると観じ、感受や想い、形成作用や識別作用が無常であると観じます。彼らの心は対象に縁ってとどまり、静まり、一つにまとまり、動揺することなく定まります。 その後、もし他人が柔らかな言葉で優しく語りかけてきたなら、彼らはこう考えます。『この楽しみは私に生じた。それは原因と縁によって生じたのであり、原因なくして生じたのではない。その縁とは何か。楽しみを感じる接触が縁となったのだ』と。彼らはこの接触が無常であると観じ、感受や想い、形成作用や識別作用が無常であると観じます。彼らの心は対象に縁ってとどまり、静まり、一つにまとまり、動揺することなく定まります。 その後、もし若者でも、中年でも、老人でも、理不尽なことをしに来て、拳で殴り、石を投げ、刀や杖で襲いかかってきたとしても、彼らはこう考えます。『私はこの身体を受けている。この物質的な身体は粗い本質を持ち、四大の要素から成り、父母から生まれ、飲食によって養われ、常に衣で覆われ、座り臥し、揉まれ、洗われ、無理に耐え忍ぶものである。これは壊れる法であり、滅び尽きる法であり、離れ散る法である。私はこの身体ゆえに、拳や石、刀や杖を受けるのだ』と。 このゆえに、彼らは大いに精進して怠ることなく、身体を正し、念を正し、忘れることなく、迷うことなく、安定して心を一つにします。彼らはこう考えます。『私は大いに精進して怠ることなく、身体を正し、念を正し、忘れることなく、迷うことなく、安定して心を一つにしている。私はこの身体を受けているゆえに、拳や石、刀や杖を受けるべきである。ただ、世尊の教えを学ぶことに精進しよう』と。

「諸賢！世尊亦如是說：『若有賊來，以利刀鋸，節節解身。若汝為賊以利刀鋸節節解身時，或心變易，或惡語言者，汝則衰退。汝當作是念：「若有賊來，以利刀鋸節節解我身者，因此令我心不變易，不惡語言，當為彼節節解我身者起哀愍心，為彼人故，心與慈俱，遍滿一方成就遊，如是二三四方、四維上下，普周一切，心與慈俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊。」』

> 諸賢よ、世尊もまたこのように説かれました。 「もし賊が来て、鋭い刃物で、体を関節ごとに切り刻もうとするならば、その時、もしあなたの心が乱れたり、悪しき言葉を発したりするならば、あなたは修行の道から退いてしまう。あなたはこう思うべきである。『もし賊が来て、鋭い刃物で、私の体を関節ごとに切り刻もうとするならば、それによって、私の心は乱れず、悪しき言葉も発しないようにしよう。その体を切り刻もうとする者のために、哀れみの心を起こそう。その人のために、慈しみの心を伴い、一方に満ちあふれさせて、心を安らかに保とう。このように、二方、三方、四方、四隅、上下、すべての方向に、あまねく一切に、慈しみの心を伴い、とらわれもなく、恨みもなく、怒りもなく、争いもなく、広大無辺に、限りなく善く修め、すべての世間に満ちあふれさせて、心を安らかに保とう。』」

「諸賢！彼比丘若因佛、法、眾，不住善相應捨者，諸賢！彼比丘應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨。諸賢！猶如初迎新婦，見其姑嫜，若見夫主，則慙愧羞厭。諸賢！當知比丘亦復如是，應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨，彼因慙愧羞厭故，便住善相應捨，是妙息寂，謂捨一切有，離愛、無欲、滅盡無餘。諸賢！是謂比丘一切大學。

> 諸賢よ。もし比丘が、仏・法・僧という縁によって、善く相応した捨（心）に安住していないならば、諸賢よ。その比丘は、慚愧と恥じらいの心を起こすべきです。 「私は利益を得ず、功徳を得ていない。なぜなら、仏・法・僧という縁によって、善く相応した捨に安住していないからだ」と。 諸賢よ。ちょうど、嫁いだばかりの新婦が、舅や姑、あるいは夫を見たときに、恥じらいと慎みの心を抱くようなものです。 諸賢よ。比丘もまた同じように、慚愧と恥じらいを起こすべきです。 「私は利益を得ず、功徳を得ていない。なぜなら、仏・法・僧という縁によって、善く相応した捨に安住していないからだ」と。 彼が、この慚愧と恥じらいの心によって、善く相応した捨に安住するならば、それは妙なる寂静、すなわち一切の存在に対する執着を捨て、愛着を離れ、欲望なく、完全に滅びて余ることのない境地です。 諸賢よ。これを、比丘の一切にわたる大いなる学びであると言います。

「諸賢！云何水界？諸賢！謂水界有二，有內水界，有外水界。諸賢！云何內水界？謂內身中在，內所攝水，水性潤，內之所受。此為云何？謂腦、腦根，淚、汗、涕、唾、膿、血、肪、髓、涎、膽、小便，如是比此身中餘在，內所攝水，水性潤，內之所受，諸賢！是謂內水界。諸賢！外水界者，謂大是，淨是，不憎惡是，諸賢！有時火災，是時滅外水界。

> 諸賢よ、水界とは何か。諸賢よ、水界には二つある。内なる水界と、外なる水界である。 諸賢よ、内なる水界とは何か。それは内なる身体の中にあり、内に属する水、水性で潤い、内に受け取られたものである。それは何かというと、脳、脳根、涙、汗、鼻水、唾、膿、血、脂、髄、涎、胆汁、小便、これらに類する、この身体の中に残り、内に属する水、水性で潤い、内に受け取られたものである。諸賢よ、これを内なる水界という。 諸賢よ、外なる水界とは、それは大きく、清らかで、憎むべきものではない。諸賢よ、時に火災が起こり、その時、外なる水界は滅するのである。

「諸賢！此外水界極大，極淨，極不憎惡，是無常法、盡法、衰法、變易之法，況復此身暫住，為愛所受？謂不多聞愚癡凡夫而作此念：『是我，是我所，我是彼所。』多聞聖弟子不作此念：『是我，是我所，我是彼所。』彼云何作是念？若有他人罵詈、捶打、瞋恚責數者，便作是念：『我生此苦，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣苦更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動。彼於後時，他人來語柔辭軟言者，彼作是念：『我生此樂，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣樂更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動。彼於後時，若幼少、中年、長老來行不可事，或以拳扠，或以石擲，或刀杖加，彼作是念：『我受此身，色法麤質，四大之種，從父母生，飲食長養，常衣被覆，坐臥按摩，澡浴強忍，是破壞法，是滅盡法，離散之法，我因此身致拳扠、石擲及刀杖加。』由是之故，彼極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，彼作是念：『我極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，我受此身應致拳扠、石擲及刀杖加，但當精勤學世尊法。』

> 皆さん、この外にある水の世界は、広大で、清らかで、まったく嫌悪すべきものではありませんが、それでも無常であり、尽きるものであり、衰えるものであり、変化する法なのです。ましてや、この身体はほんの一時的にとどまり、愛着によって受け取られたものにすぎません。多くの教えを聞かない無知な凡夫は、『これは私だ、これは私のものだ、私はそれに属している』と考えるのです。しかし、多くの教えを聞いた聖なる弟子は、『これは私だ、これは私のものだ、私はそれに属している』とは考えません。彼はどのように考えるのでしょうか。 もし他の人が罵ったり、打ったり、怒って責めたりしても、彼はこう考えます。『この苦しみは私に生じたが、それは因縁から生じたのであって、原因なく生じたのではない。その因縁とは何か。それは苦しみを感じる接触（更楽）である』と。彼はこの接触が無常であると観察し、感受（覚）、表象（想）、形成作用（行）、認識（識）が無常であると観察します。彼の心は対象（界）に縁ってとどまり、静まり、一つに合わさり、定まって動揺しません。 その後、他の人が柔らかな言葉で優しく話しかけてきても、彼はこう考えます。『この楽しみは私に生じたが、それは因縁から生じたのであって、原因なく生じたのではない。その因縁とは何か。それは楽しみを感じる接触（更楽）である』と。彼はこの接触が無常であると観察し、感受（覚）、表象（想）、形成作用（行）、認識（識）が無常であると観察します。彼の心は対象（界）に縁ってとどまり、静まり、一つに合わさり、定まって動揺しません。 その後、もし若者でも、中年でも、老人でも、理不尽なことをしに来て、拳で殴り、石を投げ、刀や杖で攻撃してきても、彼はこう考えます。『私はこの身体を受けている。この物質的な身体（色法）は粗い性質であり、四大（地水火風）の要素からなり、父母から生まれ、飲食によって養われ、常に衣で覆われ、座り臥し、按摩され、沐浴し、無理に耐え忍ぶものである。これは壊れる法であり、滅び尽きる法であり、離散する法である。私はこの身体ゆえに、拳や石や刀杖の攻撃を受けるのだ』と。 このゆえに、彼は非常に精進して怠ることなく、身体を正し、念を正し、忘れることなく、迷うことなく、安定して心を一つにします。彼はこう考えます。『私は非常に精進して怠ることなく、身体を正し、念を正し、忘れることなく、迷うことなく、安定して心を一つにしている。この身体を受けた以上、拳や石や刀杖の攻撃を受けることもあるだろう。ただ、世尊の教えを学ぶことに精進すればよいのだ』と。

「諸賢！世尊亦如是說：『若有賊來，以利刀鋸，節節解身。若汝為賊以利刀鋸節節解身時，或心變易，或惡語言者，汝則衰退。汝當作是念：「若有賊來，以利刀鋸節節解我身者，因此令我心不變易，不惡語言，當為彼節節解我身者起哀愍心，為彼人故，心與慈俱，遍滿一方成就遊，如是二三四方、四維上下，普周一切，心與慈俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊。」』

> 諸賢よ、世尊もまたこのように説かれました。 「もし賊がやって来て、鋭い刀や鋸で、関節ごとに体を切り刻むとしても、もしお前が賊に鋭い刀や鋸で関節ごとに体を切り刻まれる時、心が乱れたり、悪い言葉を発したりするならば、お前は衰退してしまう。 お前はこのように思うべきである。 『もし賊がやって来て、鋭い刀や鋸で関節ごとに私の体を切り刻むならば、それによって私の心を乱さず、悪い言葉を発さないようにしよう。 そして、私の体を関節ごとに切り刻むその者のために哀れみの心を起こし、その人のために、慈しみの心とともに、一方に満ちあふれ、成就して遊ぼう。 このように、二方、三方、四方、四隅、上下、すべての世界に満ちあふれ、慈しみの心とともに、執着なく、怨みなく、怒りなく、争いなく、広大無辺に、限りなく善く修め、すべての世間に満ちあふれて成就して遊ぼう。』」

「諸賢！彼比丘若因佛、法、眾，不住善相應捨者，諸賢！彼比丘應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨。諸賢！猶如初迎新婦，見其姑嫜，若見夫主，則慙愧羞厭。諸賢！當知比丘亦復如是，應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨，彼因慙愧羞厭故，便住善相應捨，是妙息寂，謂捨一切有，離愛、無欲，滅盡無餘。諸賢！是謂比丘一切大學。

> 諸賢よ。もし、ある比丘が、仏、法、僧という縁によって、善く相応した捨（心）に安住していないならば、諸賢よ。その比丘は、慚愧し、恥じ、厭離すべきです。『私は利益を得ず、功徳を得ない。すなわち、私は仏、法、僧という縁によって、善く相応した捨に安住していない』と。 諸賢よ。ちょうど、嫁いだばかりの新婦が、舅や姑、あるいは夫を見たとき、慚愧し、恥じ、身を縮めるようなものです。諸賢よ。比丘もまた同じであると知るべきです。慚愧し、恥じ、厭離すべきです。『私は利益を得ず、功徳を得ない。すなわち、私は仏、法、僧という縁によって、善く相応した捨に安住していない』と。 彼は、この慚愧と恥じと厭離のゆえに、やがて善く相応した捨に安住するようになります。それは、妙なる寂静、すなわち、一切の生存を捨て、愛着を離れ、欲望なく、滅尽して余すところのない境地です。 諸賢よ。これを、比丘の一切の大いなる学びであると言います。

「諸賢！云何火界？諸賢！謂火界有二，有內火界，有外火界。諸賢！云何內火界？謂內身中在，內所攝火，火性熱，內之所受。此為云何？謂暖身、熱身、煩悶、溫壯、消化飲食，如是比此身中餘在，內所攝火，火性熱，內之所受，諸賢！是謂內火界。諸賢！外火界者，謂大是，淨是，不憎惡是。諸賢！有時外火界起，起已燒村邑、城郭、山林、曠野，燒彼已，或至道、至水，無受而滅。諸賢！外火界滅後，人民求火，或鑽木截竹，或以珠燧。

> 諸賢よ、火界とは何か。諸賢よ、火界には二つある。内なる火界と、外なる火界である。 諸賢よ、内なる火界とは何か。それは、内なる身体の中に存在し、内に含まれる火であり、火の性質は熱く、内で受け取られるものである。それはどのようなものか。身体を温める熱、身体を熱くする熱、煩わしいほどの熱、温かさや活力、飲食を消化する力などである。このように、この身体の中に残り、内に含まれる火であり、火の性質は熱く、内で受け取られるもの、諸賢よ、これを内なる火界という。 諸賢よ、外なる火界とは、それは大きく、清らかで、憎むべきものではない。諸賢よ、時に外なる火界が起こり、起こった後、村や町、山林、野原を焼き、焼き尽くした後、道や水辺に至り、受け取るものなく消えていく。諸賢よ、外なる火界が消えた後、人々は火を求め、木をこすり、竹を切り、あるいは火打石を用いる。

「諸賢！此外火界極大，極淨，極不憎惡，是無常法、盡法、衰法、變易之法，況復此身暫住，為愛所受？謂不多聞愚癡凡夫而作此念：『是我，是我所，我是彼所。』多聞聖弟子不作此念：『是我，是我所，我是彼所。』彼云何作是念？若有他人罵詈、捶打、瞋恚責數者，便作是念：『我生此苦，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣苦更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動。彼於後時，他人來語柔辭軟言者，彼作是念：『我生此樂，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣樂更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動。彼於後時，若幼少、中年、長老來行不可事，或以拳扠，或以石擲，或刀杖加，彼作是念：『我受此身，色法麤質，四大之種，從父母生，飲食長養，常衣被覆，坐臥按摩，澡浴強忍，是破壞法，是滅盡法，離散之法，我因此身致拳扠、石擲及刀杖加。』由是之故，彼極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，彼作是念：『我極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，我受此身應致拳扠、石擲及刀杖加，但當精勤學世尊法。』

> 諸賢よ、さらに言えば、この外の火の世界は極めて大きく、極めて清らかであり、極めて憎むべきものではありません。しかしそれでさえ、無常の法であり、尽きる法であり、衰える法であり、変化する法なのです。ましてや、この身は一時的にとどまるだけで、愛着によって受け取られたものにすぎません。 よく学ばず、愚かで無知な凡夫は、こう考えます。「これは私だ、これは私のものだ、私はそれに属している」と。しかし、よく学んだ聖なる弟子は、そのような考えを持ちません。 では、彼らはどのように考えるのでしょうか。もし他の人が罵ったり、打ったり、怒りをぶつけたり、責め立てたりしても、彼らはこう思います。「この苦しみは私に生じたが、それは原因と条件から生じたものであり、原因なくして生じたのではない。その条件とは何か。それは苦しみを感じる接触（触）である」と。彼らはこの接触が無常であると観じ、感覚、認識、心の形成、識別も無常であると観じます。そして、心を対象に据えてとどめ、一つの心にまとめ、動揺することなく安定させます。 また、後になって他の人が優しい言葉や柔らかな言葉をかけてきても、彼らはこう思います。「この楽しみは私に生じたが、それは原因と条件から生じたものであり、原因なくして生じたのではない。その条件とは何か。それは楽しみを感じる接触（触）である」と。彼らはこの接触が無常であると観じ、感覚、認識、心の形成、識別も無常であると観じます。そして、心を対象に据えてとどめ、一つの心にまとめ、動揺することなく安定させます。 さらに、後になって、若者でも、中年でも、老人でも、理不尽なことをしに来て、拳で殴り、石を投げ、刀や杖で襲ってきても、彼らはこう思います。「私はこの身体を受けている。この物質的な身体は粗雑な性質であり、四大（地・水・火・風）の要素からなり、父母から生まれ、飲食によって養われ、常に衣で覆われ、座り臥し、揉みほぐされ、洗われ、無理に耐え忍ぶものである。これは壊れる法であり、滅び尽きる法であり、離れ散る法である。私はこの身体があるがゆえに、拳や石、刀や杖を受けるのだ」と。 このようなわけで、彼らは大いに精進して怠ることなく、身体を正し、念を正し、忘れることなく、迷うことなく、安定して心を一つにします。そして、こう思います。「私は大いに精進して怠らず、身体を正し、念を正し、忘れることなく、迷うことなく、安定して心を一つにしている。この身体を受けた以上、拳や石、刀や杖を受けることもあるだろう。ただ、世尊の教えを学ぶことにひたすら精進すればよい」と。

「諸賢！世尊亦如是說：『若有賊來，以利刀鋸，節節解身。若汝為賊以利刀鋸節節解身時，或心變易，或惡語言者，汝則衰退。汝當作是念：「若有賊來，以利刀鋸節節解我身者，因此令我心不變易，不惡語言，當為彼節節解我身者起哀愍心，為彼人故，心與慈俱，遍滿一方成就遊，如是二三四方、四維上下，普周一切，心與慈俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊。」』

> 諸賢よ、世尊もまたこのように説かれています。『もし賊が来て、鋭い刀や鋸で、関節ごとに体を切り刻もうとする時、もしお前が賊に鋭い刀や鋸で関節ごとに体を切り刻まれる時、心が乱れたり、悪い言葉を発したりするならば、お前は衰退してしまう。お前はこう思うべきである。「もし賊が来て、鋭い刀や鋸で関節ごとに私の体を切り刻もうとするならば、それによって私の心を乱さず、悪い言葉を発さないようにしよう。そして、私の体を関節ごとに切り刻もうとするその者のために哀れみの心を起こし、その人のために、慈しみの心とともに、一つの方向へと広がり、満たし、成就して遊ぼう。同様に、二、三、四の方向、四方、上下へと、すべてに遍く行き渡り、心を慈しみとともに、縛りなく、怨みなく、怒りなく、争いなく、極めて広く、甚だ大きく、限りなく善く修め、すべての世間を満たし、成就して遊ぼう。」』と。

「諸賢！彼比丘若因佛、法、眾，不住善相應捨者，諸賢！彼比丘應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨。諸賢！猶如初迎新婦，見其姑嫜，若見夫主，則慙愧羞厭。諸賢！當知比丘亦復如是，應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨，彼因慙愧羞厭故，便住善相應捨，是妙息寂，謂捨一切有，離愛、無欲，滅盡無餘。諸賢！是謂比丘一切大學。

> 諸賢よ。もし、ある比丘が、仏・法・僧を縁として、善く相応する捨（心）に住することができないならば、諸賢よ。その比丘は、慚愧し、恥じ、厭うべきです。『私は利益を得ず、功徳を得ない。すなわち、私は仏・法・僧を縁として、善く相応する捨に住することができないのだ』と。 諸賢よ。ちょうど、嫁いだばかりの新婦が、舅や姑、あるいは夫を見たときに、慚愧し、恥じ、厭うようなものです。諸賢よ。比丘もまた同じであると知るべきです。慚愧し、恥じ、厭うべきです。『私は利益を得ず、功徳を得ない。すなわち、私は仏・法・僧を縁として、善く相応する捨に住することができないのだ』と。 その慚愧し、恥じ、厭うことを縁として、彼は善く相応する捨に住するようになります。これは、妙なる寂静であり、すなわち、一切の存在を捨て、愛着を離れ、欲望なく、完全に滅し尽くして余すところのない境地です。 諸賢よ。これを、比丘の一切の大いなる学び（究極の修行）と言うのです。

「諸賢！云何風界？諸賢！謂風界有二，有內風界，有外風界。諸賢！云何內風界？謂內身中在，內所攝風，風性動，內之所受。此為云何？謂上風、下風、腹風、行風、掣縮風、刀風、躋風、非道風、節節行風、息出風、息入風，如是比此身中餘在，內所攝風，風性動，內之所受，諸賢！是謂內風界。諸賢！外風界者，謂大是，淨是，不憎惡是。諸賢！有時外風界起，風界起時撥，屋拔樹，崩山，山巖撥已便止，纖毫不動。諸賢！外風界止後，人民求風，或以其扇，或以哆邏葉，或以衣求風。

> 諸賢よ、風界とは何か。諸賢よ、風界には二種ある。内なる風界と、外なる風界である。 諸賢よ、内なる風界とは何か。内なる身体の中に存在し、内に属する風、その風の性質は動き、内に受け取られるもの。それはどのようなものか。上風、下風、腹風、行風、掣縮風、刀風、躋風、非道風、節節行風、息を出す風、息を吸う風、このようにこの身体の中に他にも存在し、内に属する風、その風の性質は動き、内に受け取られるもの、諸賢よ、これを内なる風界という。 諸賢よ、外なる風界とは、それは広大であり、清らかであり、憎むべきものではない。諸賢よ、時に外なる風界が起こることがある。風界が起こると、家屋を倒し、樹木を抜き、山を崩し、山の岩を倒した後、やがて止む。微動だにしない。諸賢よ、外なる風界が止んだ後、人々は風を求める。あるいは扇で、あるいは多羅樹の葉で、あるいは衣で風を求めるのである。

「諸賢！此風界極大，極淨，極不憎惡，是無常法、盡法、衰法、變易之法，況復此身暫住，為愛所受？謂不多聞愚癡凡夫而作此念：『是我，是我所，我是彼所。』多聞聖弟子不作此念：『是我，是我所，我是彼所。』彼云何作是念？若有他人罵詈、捶打、瞋恚責數者，便作是念：『我生此苦，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣苦更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動。彼於後時，他人來語柔辭軟言者，彼作是念：『我生此樂，從因緣生，非無因緣。云何為緣？緣樂更樂。』彼觀此更樂無常，觀覺、想、行、識無常，彼心緣界住，止合一心，定不移動；彼於後時，若幼少、中年、長老來行不可事，或以拳扠，或以石擲，或刀杖加，彼作是念：『我受此身，色法麤質，四大之種，從父母生，飲食長養，常衣被覆，坐臥按摩，澡浴強忍，是破壞法，是滅盡法，離散之法，我因此身致拳扠、石擲及刀杖加。』由是之故，彼極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，彼作是念：『我極精勤而不懈怠，正身正念，不忘不癡，安定一心，我受此身應致拳扠、石擲及刀杖加，但當精勤學世尊法。』

> 皆さん、この風の要素は広大で、清らかで、まったく嫌悪すべきものではありませんが、それでも無常であり、尽きるものであり、衰えるものであり、変化するものです。ましてや、この身体は一時的にとどまるだけで、愛着によって受け入れられたものにすぎません。 多くの教えを聞かない無知な凡夫は、こう考えます。「これは私だ、これは私のものだ、私はこれに属している」と。しかし、多くの教えを聞いた聖なる弟子は、そのような考えを持ちません。 では、彼はどのように考えるのでしょうか。 もし他人が罵ったり、殴ったり、怒って責めたりしたとき、彼はこう考えます。「この苦しみは、私に生じたものだ。それは原因と条件から生じたものであり、原因なくして生じたものではない。その条件とは何か。それは、苦しみを引き起こす接触である」と。 彼はこの接触が無常であると観察し、感覚、認識、形成作用、意識が無常であると観察します。彼の心は対象に縁ってとどまり、静まって一つにまとまり、動揺することなく定まります。 その後、もし他人が柔らかな言葉で優しく話しかけてきたとき、彼はこう考えます。「この楽しみは、私に生じたものだ。それは原因と条件から生じたものであり、原因なくして生じたものではない。その条件とは何か。それは、楽しみを引き起こす接触である」と。 彼はこの接触が無常であると観察し、感覚、認識、形成作用、意識が無常であると観察します。彼の心は対象に縁ってとどまり、静まって一つにまとまり、動揺することなく定まります。 その後、もし若者や中年、老人がやってきて、理不尽なことをし、拳で殴り、石を投げ、刀や杖で打ちかかってきても、彼はこう考えます。「私はこの身体を受けている。この物質的な身体は粗雑なもので、四大（地・水・火・風）の要素からなり、父母から生まれ、飲食によって養われ、常に衣で覆われ、座り寝し、按摩され、洗浴し、無理に耐えてきた。これは壊れるべき法であり、滅びるべき法であり、離散する法である。私はこの身体ゆえに、拳や石、刀や杖を受けるのだ」と。 このゆえに、彼は大いに精進して怠ることなく、身体を正し、念を正し、忘れず、迷わず、安定して心を一つにします。彼はこう考えます。「私は大いに精進して怠らず、身体を正し、念を正し、忘れず、迷わず、安定して心を一つにしている。この身体を受けた以上、拳や石、刀や杖を受けることもあるだろう。ただ、世尊の教えを学ぶことに精進しよう」と。

「諸賢！世尊亦如是說：『若有賊來，以利刀鋸，節節解身。若汝為賊以利刀鋸節節解身時，或心變易，或惡語言者，汝則衰退。汝當作是念：「若有賊來，以利刀鋸節節解我身者，因此令我心不變易，不惡語言，當為彼節節解我身者起哀愍心，為彼人故，心與慈俱，遍滿一方成就遊，如是二三四方、四維上下，普周一切，心與慈俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊。」』

> 諸賢よ、世尊もまたこのように説かれました。 『もし賊がやってきて、鋭い刀や鋸で、体を関節ごとに切り刻もうとするならば。もしお前が賊に鋭い刀や鋸で関節ごとに体を切り刻まれている時、もし心が乱れたり、悪い言葉を発したりするならば、お前は衰退するだろう。お前はこのように考えるべきである。「もし賊がやってきて、鋭い刀や鋸で私の体を関節ごとに切り刻もうとするならば、それによって私の心が乱れず、悪い言葉を発さないようにしよう。その体を切り刻もうとする者のために哀れみの心を起こし、その人のために、慈しみの心とともに、一方に満ちあふれ、成就して遊ぼう。このように二方、三方、四方、四隅、上下、すべてにわたり、あまねく一切に、心を慈しみとともに、結びつきなく、怨みなく、怒りなく、争いなく、極めて広く甚だ大きく、無量に善く修め、一切の世間に満ちあふれ、成就して遊ぼう」と。』

「諸賢！彼比丘若因佛、法、眾，不住善相應捨者，諸賢！彼比丘應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨。諸賢！猶如初迎新婦，見其姑嫜，若見夫主，則慙愧羞厭。諸賢！當知比丘亦復如是，應慙愧羞厭，我於利無利，於德無德，謂我因佛、法、眾，不住善相應捨，彼因慙愧羞厭故，便住善相應捨，是妙息寂，謂捨一切有，離愛、無欲，滅盡無餘。諸賢！是謂比丘一切大學。

> 諸賢よ。もし、ある比丘が、仏・法・僧を縁として、善く相応した捨（心）に安住していないならば、諸賢よ。その比丘は、慚愧し、恥じ、厭うべきです。『私は利益を得ず、功徳を得ない。すなわち、私は仏・法・僧を縁としながら、善く相応した捨（心）に安住していない』と。 諸賢よ。それはちょうど、嫁いだばかりの新婦が、舅や姑、あるいは夫を見たときに、慚愧し、恥じ、厭うようなものです。諸賢よ。比丘もまた同じであると知るべきです。慚愧し、恥じ、厭うべきです。『私は利益を得ず、功徳を得ない。すなわち、私は仏・法・僧を縁としながら、善く相応した捨（心）に安住していない』と。 彼が、この慚愧と恥と厭悪を縁として、遂に善く相応した捨（心）に安住するならば、それは妙なる寂静、すなわち、一切の生存への執着を捨て、愛を離れ、欲なく、滅尽して余すところのない（境地）です。 諸賢よ。これを、比丘の一切の大いなる学び（究極の修学）と言うのです。

「諸賢！猶如因材木，因泥土，因水草，覆裹於空，便生屋名。諸賢！當知此身亦復如是，因筋骨，因皮膚，因肉血，纏裹於空，便生身名。諸賢！若內眼處壞者，外色便不為光明所照，則無有念，眼識不得生。諸賢！若內眼處不壞者，外色便為光明所照，而便有念，眼識得生。諸賢！內眼處及色，眼識知外色，是屬色陰。若有覺是覺陰，若有想是想陰，若有思是思陰，若有識是識陰，如是觀陰合會。

> 諸賢よ、木材や土や水草を材料として、それらで空間を覆い包むと、家というものが生じるように。諸賢よ、この身体もまた同じであると知るべきです。筋骨や皮膚や血肉を材料として、それらで空間を包み込むと、身体というものが生じるのです。 諸賢よ、もし内なる眼の器官が壊れているならば、外にある色（形や物）は光に照らされることがなく、それに対する認識も生じず、眼による識別作用は起こりません。諸賢よ、もし内なる眼の器官が壊れていないならば、外にある色は光に照らされ、それに対する認識が生じ、眼による識別作用が起こります。 諸賢よ、内なる眼の器官と外なる色、そしてそれらを知る眼識は、すべて色の集まり（色蘊）に属します。もし感覚（受）があればそれは感覚の集まり（受蘊）であり、もしイメージ（想）があればそれはイメージの集まり（想蘊）であり、もし意志作用（行）があればそれは意志作用の集まり（行蘊）であり、もし識別作用（識）があればそれは識別作用の集まり（識蘊）です。このように、五つの集まり（五蘊）が結び合う様子を観察するのです。

「諸賢！世尊亦如是說：『若見緣起便見法，若見法便見緣起。』所以者何？諸賢！世尊說五盛陰從因緣生，色盛陰，覺、想、行、識盛陰。諸賢！若內耳、鼻、舌、身、意處壞者，外法便不為光明所照，則無有念，意識不得生。諸賢！若內意處不壞者，外法便為光明所照而便有念，意識得生。諸賢！內意處及法，意識知外色法，是屬色陰。若有覺是覺陰，若有想是想陰，若有思是思陰，若有識是識陰，如是觀陰合會。諸賢！世尊亦如是說：『若見緣起便見法，若見法便見緣起。』所以者何？諸賢！世尊說五盛陰從因緣生，色盛陰，覺、想、行、識盛陰，彼厭此過去、未來、現在五盛陰，厭已便無欲，無欲已便解脫，解脫已便知解脫，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。諸賢！是謂比丘一切大學。」

> 諸賢よ、世尊もまたこのように説かれました。 「縁起を見れば法を見るのであり、法を見れば縁起を見るのである」と。 なぜでしょうか。諸賢よ、世尊は五つの盛んなる蘊（うん）が因縁によって生じると説かれます。 すなわち、色の盛陰、受（覚）・想・行・識の盛陰です。 諸賢よ、もし内なる耳・鼻・舌・身・意の処（感官）が壊れているならば、外の対象は光に照らされず、それゆえに思いが起こらず、意識は生じることがありません。 諸賢よ、もし内なる意の処が壊れていないならば、外の対象は光に照らされ、それによって思いが起こり、意識が生じるのです。 諸賢よ、内なる意の処と対象とによって、意識が外の色の対象を知る。これが色陰に属します。 もし感覚（受）があればそれは受陰であり、もしイメージ（想）があればそれは想陰であり、もし意志作用（思）があればそれは行陰であり、もし識別作用（識）があればそれは識陰です。 このようにして、諸々の蘊が集まり合うのを観るのです。 諸賢よ、世尊はまたこのように説かれました。 「縁起を見れば法を見るのであり、法を見れば縁起を見るのである」と。 なぜでしょうか。諸賢よ、世尊は五つの盛んなる蘊が因縁によって生じると説かれます。 色の盛陰、受・想・行・識の盛陰です。 彼はこの過去・未来・現在の五盛陰に厭離し、厭離したゆえに欲がなくなり、欲がなくなったゆえに解脱し、解脱したゆえに解脱を知ります。 すなわち、生は尽き、梵行は立ち、なすべきことは為し終え、もはや再び存在を受けることがない、と真実のままに知るのです。 諸賢よ、これが比丘の一切の大いなる学びである、と説かれます。

尊者舍梨子所說如是。彼諸比丘聞尊者舍梨子所說，歡喜奉行。

> 尊師サーリプッタはこのように説かれました。比丘たちは尊師サーリプッタの説法を聞き、歓喜してその教えを実践しました。

象跡喻經第十竟三千八百六十七字

> 象跡の譬えの経　第十　終わり<note>三千八百六十七字</note>