---
title: "雜阿含經 · 30"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8xhhde0oz6l404xwdsbklg"
---

### （三〇）

> 第三十

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛住王舍城迦蘭陀竹園。

> あるとき、仏は王舎城の迦蘭陀竹林に住んでおられた。

爾時，尊者舍利弗在耆闍崛山中。

> その時、尊者舎利弗は耆闍崛山におられた。

時，有長者子名輸屢那。日日遊行，到耆闍崛山，詣尊者舍利弗，問訊起居已，却坐一面，語舍利弗言：「若諸沙門、婆羅門於無常色、變易、不安隱色言：『我勝、我等、我劣。』何故沙門、婆羅門作如是想，而不見真實？若沙門、婆羅門於無常、變易、不安隱受、想、行、識而言：『我勝、我等、我劣。』何故沙門、婆羅門作如是想，而不見真實？

> その時、輸屢那という長者の息子がいました。彼は毎日散策し、耆闍崛山に赴き、尊者舎利弗のもとを訪ね、挨拶を交わした後、一隅に座り、舎利弗に言いました。 「もし諸々の沙門や婆羅門が、無常であり、変易し、安らかでない色（物質）について、『私は勝れている、私は同等だ、私は劣っている』と言うならば、なぜ沙門や婆羅門はそのように考えて、真実を見ないのでしょうか。もし沙門や婆羅門が、無常であり、変易し、安らかでない受（感受）、想（表象）、行（形成作用）、識（認識作用）について、『私は勝れている、私は同等だ、私は劣っている』と言うならば、なぜ沙門や婆羅門はそのように考えて、真実を見ないのでしょうか。」

「若沙門、婆羅門於無常色、變易、不安隱色言：『我勝、我等、我劣。』何所計而不見真實？於無常、變易、不安隱受、想、行、識言：『我勝、我等、我劣。』何所計而不見真實？」

> もし沙門や婆羅門が、無常であり、変易し、不安で安らかでない色について、『私は優れている、私は同等だ、私は劣っている』と言うならば、何を考えて真実を見ないのでしょうか。無常であり、変易し、不安で安らかでない受、想、行、識について、『私は優れている、私は同等だ、私は劣っている』と言うならば、何を考えて真実を見ないのでしょうか。

「輸屢那！於汝意云何？色為常、為無常耶？」

> スナンダよ、あなたはどう思いますか？色は常なるものですか、それとも無常なるものですか？

答言：「無常。」

> 「無常です。」

「輸屢那！若無常，為是苦耶？」

> ウルナよ、無常なるものは、苦であると言えるでしょうか？

答言：「是苦。」

> 答えて言う：「これは苦しみです。」

「輸屢那！若無常、苦，是變易法，於意云何？聖弟子於中見色是我、異我、相在不？」

> ウルナよ、もしそれが無常であり、苦であり、変化するものであるならば、どう思うか。聖なる弟子は、その中に色を見て、『これが私である』『これは私とは異なる』『これは私の中にある』などと考えるだろうか。

答言：「不也。」

> いいえ、違います。

「輸屢那！於意云何？受、想、行、識為常、為無常？」

> ウルナよ、どう思うか？受、想、行、識は常なるものか、無常なるものか？

答言：「無常。」

> 「無常です。」

「若無常，是苦耶？」

> 「無常であるならば、それは苦しみでしょうか？」

答言：「是苦。」

> 答えて言う：「これは苦しみです。」

「輸屢那！識若無常、苦，是變易法，於意云何？聖弟子於中見識是我、異我、相在不？」

> 「シュリラナーよ。認識作用が無常であり、苦しみであり、変化し移りゆく性質のものであるならば、あなたはどう思うか。聖なる学び手は、その中で認識作用を『自己である』『自己とは別のものである』『自己の内に宿るものだ』と見なすだろうか？」

答言：「不也。」

> いいえ、違います。

「輸屢那！當知色，若過去、若未來、若現在，若內、若外，若麁、若細，若好、若醜，若遠、若近，彼一切色不是我、不異我、不相在，是名如實知。如是受、想、行、識，若過去、若未來、若現在，若內、若外，若麁、若細，若好、若醜，若遠、若近，彼一切識不是我、不異我、不相在，是名如實知。輸屢那！如是於色、受、想、行、識生厭，離欲、解脫，解脫知見：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』」

> シュルナーよ、知りなさい。 色について、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、 内なるものであれ、外なるものであれ、 粗いものであれ、細かいものであれ、 美しいものであれ、醜いものであれ、 遠くにあるものであれ、近くにあるものであれ、 そのすべての色は、「私」ではない。「私と異なるもの」でもない。「互いに依存し合うもの」でもない。 これを「如実に知る」という。 同じように、受・想・行・識についても、 それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、 内なるものであれ、外なるものであれ、 粗いものであれ、細かいものであれ、 美しいものであれ、醜いものであれ、 遠くにあるものであれ、近くにあるものであれ、 そのすべての識は、「私」ではない。「私と異なるもの」でもない。「互いに依存し合うもの」でもない。 これを「如実に知る」という。 シュルナーよ、このようにして、色・受・想・行・識に対して厭い離れる心が生じ、 執着から離れ、解脱する。 そして、解脱した智慧と眼が生じて、こう知る。 「私はすでに生を尽くした。 清らかな修行はすでに完成した。 為すべきことはすでに為した。 もはや、再び迷いの世界に生まれることはない。」と。

時，舍利弗說是經已，長者子輸屢那遠塵離垢，得法眼淨。時，長者子輸屢那見法得法，不由於他，於正法中，得無所畏。從坐起，偏袒右肩，胡跪合掌，白舍利弗言：「我今已度，我從今日歸依佛、歸依法、歸依僧，為優婆塞。我從今日已，盡壽命，清淨歸依三寶。」

> その時、舎利弗がこの経を説き終えると、長者の子スジャーナ（輸屢那）は、心から塵や汚れが離れ去り、清らかな法の眼（法眼）を得ました。その時、スジャーナは法を見、法を得て、他人に依ることなく、正しい法において恐れのない境地に達しました。彼は座を立ち、右肩をあらわにし、ひざまずいて手を合わせ、舎利弗にこう申し上げました。「私は今、すでに救われました。私は今日より仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依して、在家の信者（優婆塞）となります。今日よりこのかた、命の終わるまで、清らかに三宝に帰依いたします。」

時，長者子輸屢那聞舍利弗所說，歡喜踊躍，作禮而去。

> その時、長者の子である輸屢那は舎利弗の説法を聞き、歓喜して踊り上がり、礼をして立ち去りました。