阿毘達磨俱舍論卷第十二
阿毘達磨倶舎論 第十二巻
尊者世親造
尊者世親造
三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘奉詔訳
分別世品第三之五
第三品 世界の分別 その五
如是已約踰繕那等辯器世間身量差別。約年等辯壽量有殊,二量不同未說應說。此二建立無不依名,前二及名未詳極少,今應先辯三極少量。頌曰:
すでに由旬などによって器世間の身体の大きさの違いを説明し、年などによって寿命の長短の違いを述べました。しかし、この二つの尺度が異なることについては、まだ説明すべきことが残っています。 この二つ(器世間・寿命)の成立は、すべて名称(概念・単位)に依っています。ところが、「前二」(器世間と寿命、またはその最小単位)および「名称」(単位となる言葉)について、その「極めて微小なもの」がまだ詳しく述べられていません。そこで、まず三つの「極少量」(最小単位)について説明しましょう。
偈頌に曰く、
極微字剎那, 色名時極少。
極めて微細な文字や刹那(瞬間)、 色や名前の最もわずかなもの。
論曰:分析諸色至一極微,故一極微為色極少。如是分析諸名及時至一字剎那,為名時極少。一字名者,如說瞿名。何等名為一剎那量?眾緣和合法得自體頃,或有動法行度一極微。對法諸師說:如壯士一疾彈指頃六十五剎那,如是名為一剎那量。已知三極少,前二量云何?今且辯前踰繕那等。頌曰:
論じて曰く、あらゆる物質を分析して極微(ごくび)に至る。ゆえに一つの極微が物質の最小単位である。同様に、あらゆる名称や時間を分析して一字(いちじ)や一刹那(いっせつな)に至る。それらが名称と時間の最小単位である。一字の名称とは、例えば「瞿(く)」という呼び名のようなものである。では、一刹那の量とは何か。それは、さまざまな条件が集まって一つのものが生じる瞬間、あるいは動くものが一つの極微の距離を進む間のことである。対法(仏教論書)の師たちは次のように説く:「壮健な男が一度指を勢いよく弾く間に六十五刹那がある。これが一刹那の量である。」すでに三つの極少(ごくしょう)を知ったが、前の二つの量はどうであろうか。ここではまず、前出のヨージャナなどの単位について論じる。偈頌(げじゅ)に曰く、
極微微金水, 兔羊牛隙塵,
蟣虱麥指節, 後後增七倍,
二十四指肘, 四肘為弓量,
五百俱盧舍, 此八踰繕那。
ごくわずかな黄金と水の粒、 そして、うさぎ・羊・牛の毛先の塵、 さらに蟻・虱(しらみ)・麦粒・指節 — それぞれ後に続くものは、前のものの七倍の大きさである。
指節二十四個分で一肘、 四肘で一弓の長さ、 五百弓で一俱盧舎(くるしゃ)、 これを八つ集めたものが一踰繕那(ゆぜな)となる。
論曰:極微為初,指節為後,應知後後皆七倍增。謂七極微為一微量,積微至七為一金塵,積七金塵為水塵量,水塵積至七為一兔毛塵,積七兔毛塵為羊毛塵量,積羊毛塵七為一牛毛塵,積七牛毛塵為隙遊塵量,隙塵七為蟣,七蟣為一虱,七虱為穬麥,七麥為指節,三節為一指。世所極成,是故於頌中不別分別。二十四指橫布為肘,竪積四肘為弓謂尋,竪積五百弓為一俱盧舍,一俱盧舍許是從村至阿練若中間道量。說八俱盧舍為一踰繕那。如是已說踰繕那等。今當辯後年等量別。頌曰:
論に曰く:極微を初めとし、指節を終りとして、後のものは皆、前に比べて七倍ずつ増すことを知るべきである。すなわち、七つの極微をもって一つの微量とし、微量を七つ積んで一つの金塵とする。七つの金塵を積んで一つの水塵とし、水塵を七つ積んで一つの兎毛塵とする。七つの兎毛塵を積んで一つの羊毛塵とし、羊毛塵を七つ積んで一つの牛毛塵とする。七つの牛毛塵を積んで一つの隙遊塵とする。隙塵の七倍が蟣(き)であり、七つの蟣が一つの虱(しつ)である。七つの虱が一つの穬麦(こうばく)であり、七つの穬麦が一つの指節である。三つの節をもって一つの指とする。これは世間で広く認められているところであり、故に偈頌の中では特に区別して述べていない。
二十四の指を横に並べた長さを一肘とし、縦に四肘を積んで一弓(=尋)とする。縦に五百弓を積んで一倶盧舎とする。一倶盧舎の長さは、村から阿練若(あらにゃ=静かな修行所)までの道のりに相当するとされる。八倶盧舎をもって一踰繕那(ゆぜんな)とする。
以上のように、踰繕那などの単位を述べた。次に、年などの時間の単位の違いについて述べるべきであろう。偈頌に曰く:
百二十剎那, 為怛剎那量,
臘縛此六十, 此三十須臾,
此三十晝夜, 三十晝夜月,
十二月為年, 於中半減夜。
百二十刹那をもって、一怛刹那を量とする。 六十怛刹那をもって、一臘縛とする。 三十臘縛をもって、一須臾とする。 三十須臾をもって、一昼夜とする。 三十昼夜をもって、一月とする。 十二か月をもって、一年とする。 そのうちに、夜は半分に減らされる。
論曰:剎那百二十為一怛剎那,六十怛剎那為一臘縛,三十臘縛為一牟呼栗多,三十牟呼栗多為一晝夜。此晝夜有時增、有時減、有時等。三十晝夜為一月,總十二月為一年。於一年中分為三際,謂寒、熱、雨各有四月。十二月中六月減夜,以一年內夜總減六。云何如是?故有頌言:
論じて曰く、一刹那は百二十のたち刹那であり、六十のたち刹那は一らふであり、三十のらふは一もくりたであり、三十のもくりたは一昼夜である。 この昼夜には、長くなる時もあり、短くなる時もあり、等しくなる時もある。 三十昼夜で一月となり、合わせて十二月で一年となる。 一年の中では三つの時期に分けられ、寒・熱・雨がそれぞれ四ヶ月ずつある。 十二月のうち、六ヶ月は夜が減る。一年のうちで、夜は合計六減るのである。 なぜこのようになるのか。故に、次の偈(うた)がある。
寒熱雨際中, 一月半已度,
於所餘半月, 智者知夜減。
暑さ・寒さ・雨の季節の中で、 一か月と半月が過ぎました。
残りの半月については、 賢い人は夜が短くなるのを知っています。
如是已辯剎那至年。劫量不同,今次當辯。頌曰:
このように、刹那から年までの時間区分と、劫(こう)の量が異なることを説明しました。次に、その劫について解説します。 頌(じゅ)に曰く、
應知有四劫, 謂壞成中大,
壞從獄不生, 至外器都盡,
成劫從風起, 至地獄初生,
中劫從無量, 減至壽唯十,
次增減十八, 後增至八萬,
如是成已住, 名中二十劫,
成壞壞已空, 時皆等住劫,
八十中大劫, 大劫三無數。
知っておくべきことに、四つの劫があります。 それは、壊劫、成劫、中劫、大劫です。
壊劫は、地獄の者が生まれなくなることから始まり、 外の器世界がすべて尽きるまで続きます。
成劫は、風が起こることから始まり、 地獄の最初の者が生まれるまで続きます。
中劫は、寿命が無量のときから始まり、 それが減って十年になるまで続きます。
次に、寿命が増えたり減ったりを十八回繰り返し、 最後に八万歳まで増えます。
このようにして世界が成り、そして留まる期間を、 中劫二十劫といいます。
成劫、壊劫、壊れてからの空劫の期間は、 いずれも住劫と同じ長さです。
これら八十の中劫を一つの中大劫といい、 さらに三つの無数劫が一つの大劫となります。
論曰:言壞劫者,謂從地獄有情不復生至外器都盡。壞有二種:一趣壞、二界壞。復有二種:一有情壞、二外器壞。謂此世間過於二十中劫住已,從此復有等住二十,壞劫便至。若時地獄有情命終無復新生,為壞劫始。乃至地獄無一有情,爾時名為地獄已壞。諸有地獄定受業者,業力引置他方獄中,由此准知傍生鬼趣。然各先壞本處住者,人天雜居者與人天同壞。若時人趣此洲一人,無師法然得初靜慮,從靜慮起唱如是言:離生喜樂,甚樂甚靜。餘人聞已皆入靜慮,命終並得生梵世中。乃至此洲有情都盡,是名已壞贍部洲人。東西二洲例此應說。北洲命盡生欲界天,由彼無能入定離欲。乃至人趣無一有情,爾時名為人趣已壞。若時天趣四大王天隨一法然得初靜慮,乃至並得生梵世中。爾時彼天有情都盡,是名已壞大王眾天。餘五欲天例同此說。乃至欲界無一有情,名欲界中有情已壞。若時梵世隨一有情,無師法然得二靜慮,從彼定起唱如是言:定生喜樂,甚樂甚靜。餘天聞已皆入彼靜慮,命終並得生極光淨天。乃至梵世中有情都盡,如是名已壞有情世間。唯器世間空曠而住。餘十方界一切有情,感此三千世界業盡,於此漸有七日輪現,諸海乾竭眾山洞然,洲渚三輪並從焚燎,風吹猛焰燒上天宮,乃至梵宮無遺灰燼。自地火焰燒自地宮,非他地災能壞他地,由相引起故作是言。下火風飄焚燒上地,謂欲界火猛焰上昇為緣引生色界火焰。餘災亦爾,如應當知。如是始從地獄漸減乃至器盡,總名壞劫。所言成劫,謂從風起乃至地獄始有情生。謂此世間災所壞已,二十中劫唯有虛空,過此長時次應復有等住二十,成劫便至。一切有情業增上力,空中漸有微細風生,是器世間將成前相。風漸增盛,成立如前所說風輪水金輪等,然初成立大梵王宮乃至夜摩宮。後起風輪等,是謂成立外器世間。初一有情極光淨歿,生大梵處為大梵王。後諸有情亦從彼歿,有生梵輔、有生梵眾、有生他化自在天宮。漸漸下生,乃至人趣俱盧、牛貨、勝身、贍部,後生餓鬼、傍生、地獄。法爾後壞,必最初成。若初一有情生無間獄二十中成劫應知已滿,此後復有二十中劫名成已住,次第而起,謂從風起造器世間,乃至後時有情漸住。此洲人壽經無量時,至住劫初壽方漸減。從無量減至極十年即名為初一住中劫,此後十八皆有增減,謂從十年增至八萬,復從八萬減至十年,爾乃名為第二中劫。次後十七例皆如是。於十八後,從十歲增極至八萬歲,名第二十劫。一切劫增無過八萬,一切劫減唯極十年。十八劫中一增一減,時量方等,初減後增故二十劫時量皆等。此總名為成已住劫。所餘成壞及壞已空,並無減增二十差別,然由時量與住劫同,准住各成二十中劫。成中初劫起器世間,後十九中有情漸住。壞中後劫減器世間,前十九中有情漸捨。如是所說成住壞空,各二十中積成八十,總此八十成大劫量。劫性是何?謂唯五蘊。經說三劫阿僧企耶精進修行方得成佛。於前所說四種劫中,積何劫成三劫無數?累前大劫為十百千,乃至積成三劫無數。既稱無數,何復言三?非無數言,顯不可數。《解脫經》說六十數中,阿僧企耶是其一數。云何六十?如彼經言:有一無餘數始為一,一十為十,十十為百,十百為千,十千為萬,十萬為洛叉,十洛叉為度洛叉,十度洛叉為俱胝,十俱胝為末陀,十末陀為阿庾多,十阿庾多為大阿庾多,十大阿庾多為那庾多,十那庾多為大那庾多,十大那庾多為鉢羅庾多,十鉢羅庾多為大鉢羅庾多,十大鉢羅庾多為矜羯羅,十矜羯羅為大矜羯羅,十大矜羯羅為頻跋羅,十頻跋羅為大頻跋羅,十大頻跋羅為阿芻婆,十阿芻婆為大阿芻婆,十大阿芻婆為毘婆訶,十毘婆訶為大毘婆訶,十大毘婆訶為嗢蹭伽,十嗢蹭伽為大嗢蹭伽,十大嗢蹭伽為婆喝那,十婆喝那為大婆喝那,十大婆喝那為地致婆,十地致婆為大地致婆,十大地致婆為醯都,十醯都為大醯都,十大醯都為羯臘婆,十羯臘婆為大羯臘婆,十大羯臘婆為印達羅,十印達羅為大印達羅,十大印達羅為三磨鉢耽,十三磨鉢耽為大三磨鉢耽,十大三磨鉢耽為揭底,十揭底為大揭底,十大揭底為拈筏羅闍,十拈筏羅闍為大拈筏羅闍,十大拈筏羅闍為姥達羅,十姥達羅為大姥達羅,十大姥達羅為跋藍,十跋藍為大跋藍,十大跋藍為珊若,十珊若為大珊若,十大珊若為毘步多,十毘步多為大毘步多,十大毘步多為跋邏攙,十跋邏攙為大跋邏攙,十大跋邏攙為阿僧企耶。於此數中忘失餘八,若數大劫至此數中阿僧企耶名劫無數。此劫無數復積至三,經中說為三劫無數。非諸算計,不能數知,故得說為三劫無數。何緣菩薩發願長時精進修行方期佛果?如何不許願長時修?無上菩提甚難可得,非多願行無容得成。菩薩要經三劫無數修大福德智慧資糧六波羅蜜多,多百千苦行方證無上正等菩提,是故定應發長時願。若餘方便亦得涅槃,何用為菩提久修多苦行?為欲利樂一切有情,故求菩提發長時願:云何令我具大堪能,於苦瀑流濟諸含識,故捨涅槃道求無上菩提。濟他有情於己何益?菩薩濟物遂己悲心,故以濟他即為己益。誰信菩薩有如是事?有懷潤己無大慈悲,於如是有情,此事實難信。無心潤己有大慈悲,於如是有情,此事非難信。如有久習無哀愍者,雖無益己而樂損他,世所同悉。如是菩薩久習慈悲,雖無利己而樂他益,如何不信?又如有情由數習力,於無我行不了有為,執以為我而生愛著,由此為因甘負眾苦,智者同悉。如是菩薩數習力故,捨自我愛增戀他心,由此為因甘負眾苦,如何不信?又由種姓異,有此志願起,以他苦為己苦、用他樂為己樂,不以自苦樂為己苦樂事,不見異益他而別有自益。依如是義故,有頌言:
論曰:壊劫とは、地獄の有情が新たに生まれなくなり、外の器世間がすべて消滅するまでの期間を言う。壊れ方には二種類ある:第一に趣(生存領域)の壊、第二に界(世界)の壊である。さらに二種類に分けられる:第一に有情の壊、第二に外の器世間の壊である。この世界は二十の中劫が過ぎた後、さらに等しい二十の中劫が続き、壊劫が訪れる。もし地獄の有情が命終しても新たに生まれる者がなくなれば、これが壊劫の始まりである。やがて地獄に一人の有情もいなくなり、その時を「地獄すでに壊れた」と言う。地獄で必ず受けべき業のある有情は、業の力によって他の地獄に導かれる。これによって傍生(動物)と鬼趣も同様に理解できる。ただし、それぞれ元の場所に住む者は先に壊れ、人間や天と混住する者は人間や天と共に壊れる。もし人間趣において、この洲の一人が師なくして自然に初静慮を得、その静慮から起きて「離生喜楽、非常に楽しく非常に静かである」と唱える。他の人々はこれを聞いて皆静慮に入り、命終して梵世に生まれる。やがてこの洲の有情がすべて尽きるまで、これを「贍部洲の人すでに壊れた」と言う。東洲と西洲もこれに準じて説くべきである。北洲は命終して欲界の天に生まれる。彼らは定に入って欲を離れることができないからである。やがて人間趣に一人の有情もいなくなり、その時を「人趣すでに壊れた」と言う。もし天趣において、四大王天の一人が自然に初静慮を得、やがて皆梵世に生まれる。その時、彼の天に有情がすべて尽き、これを「大王衆天すでに壊れた」と言う。残りの五欲天もこれに準じて説く。やがて欲界に一人の有情もいなくなり、これを「欲界の有情すでに壊れた」と言う。もし梵世の一人の有情が師なくして自然に第二静慮を得、その定から起きて「定生喜楽、非常に楽しく非常に静かである」と唱える。他の天はこれを聞いて皆その静慮に入り、命終して極光浄天に生まれる。やがて梵世の有情がすべて尽きる。これを「有情世間すでに壊れた」と言う。ただ器世間のみが空しく広がって残る。残りの十方世界のすべての有情がこの三千世界に感応する業を尽くすと、ここに次第に七つの日輪が現れ、諸海は干上がり、衆山は燃え立ち、洲と渚と三輪はすべて焼き尽くされる。風は猛火を吹き上げ、天宮を焼き、梵宮に至るまで灰燼も残さない。それぞれの地の火が自らの地の宮殿を焼くのであり、他の地の災害が他の地を壊すのではない。ただし相によって引き起こされるので、このように言うのである。下の火が風に吹かれて上の地を焼く。すなわち欲界の火の猛焔が上昇し、縁となって色界の火焔を引き起こす。他の災害も同様に、応じて知るべきである。このように地獄から徐々に減少し、器世間の尽きるまでを総称して壊劫と言う。
成劫とは、風が起こることから地獄に最初の有情が生まれるまでを言う。すなわち、この世間が災害によって壊れた後、二十の中劫の間は虚空のみがある。この長い時を過ぎて、さらに等しい二十の中劫が続き、成劫が訪れる。すべての有情の業の増上力によって、虚空に次第に微細な風が生じる。これが器世間が成立する前の兆しである。風が次第に増大し、すでに説いた風輪、水輪、金輪などを成立させるが、初めに大梵王宮や夜摩宮が成立する。その後、風輪などが起きる。これが外の器世間の成立である。最初の有情が極光浄天から没して、大梵天に生まれ大梵王となる。後の諸有情も彼から没し、梵輔天や梵衆天や他化自在天宮に生まれる者がある。次第に下に生まれ、人間趣の俱盧、牛貨、勝身、贍部に至り、後に餓鬼、傍生、地獄に生まれる。法として後に壊れるものは必ず最初に成る。もし最初の有情が無間地獄に生まれたならば、二十の成劫がすでに満ちたと知るべきである。その後、さらに二十の中劫があり、「成已住」と名づけて次第に起こる。すなわち、風が起こり器世間を造り始め、やがて後に有情が徐々に住む。この洲の人の寿命は無量の時を経て、住劫の初めに至って初めて次第に減少する。無量から減少して極めて十年となり、これを第一の住中劫と名づける。その後、十八の劫はすべて増減がある。すなわち十年から八万に増え、八万から十年に減る。これが第二の中劫となる。次の十七の劫も皆これに準じる。十八の後、十歳から増えて極めて八万歳に至る。これを第二十劫と名づける。すべての劫の増加は八万を超えず、すべての劫の減少は極めて十年のみである。十八の劫の中では、一増一減があり、その時量は等しい。初めに減って後に増えるので、二十劫の時量はすべて等しい。これを総称して「成已住劫」と言う。残りの成劫、壊劫、壊劫後の空劫には、このような増減の二十の区別はない。しかし時量が住劫と同じであるので、住劫に準じてそれぞれ二十の中劫を成す。成劫の初めの劫は器世間を起こし、後の十九劫で有情が徐々に住む。壊劫の後の劫は器世間を減じ、前の十九劫で有情が徐々に捨てる。このように説く成劫、住劫、壊劫、空劫は、それぞれ二十の中劫で、合わせて八十となり、この八十をもって一大劫の量とする。劫の自性は何か?五蘊のみである。
経典に「三劫阿僧企耶(三無数劫)の精進修行によってのみ仏となる」と説かれている。前に説いた四種の劫のうち、どの劫を積んで三劫無数とするのか?前の大劫を重ねて十、百、千とし、やがて積み重ねて三劫無数とする。「無数」と言うからには、なぜさらに「三」と言うのか?「無数」という言葉は、数えられないことを示すのではない。『解脱経』に「六十の数のうち、阿僧企耶はその一つである」と説かれている。六十とは何か?その経典にこうある:一から始まり、一の十倍を十、十の十倍を百、百の十倍を千、千の十倍を万、万の十倍を洛叉、洛叉の十倍を度洛叉、度洛叉の十倍を倶胝、倶胝の十倍を末陀、末陀の十倍を阿庾多、阿庾多の十倍を大阿庾多、大阿庾多の十倍を那庾多、那庾多の十倍を大那庾多、大那庾多の十倍を鉢羅庾多、鉢羅庾多の十倍を大鉢羅庾多、大鉢羅庾多の十倍を矜羯羅、矜羯羅の十倍を大矜羯羅、大矜羯羅の十倍を頻跋羅、頻跋羅の十倍を大頻跋羅、大頻跋羅の十倍を阿芻婆、阿芻婆の十倍を大阿芻婆、大阿芻婆の十倍を毘婆訶、毘婆訶の十倍を大毘婆訶、大毘婆訶の十倍を嗢蹭伽、嗢蹭伽の十倍を大嗢蹭伽、大嗢蹭伽の十倍を婆喝那、婆喝那の十倍を大婆喝那、大婆喝那の十倍を地致婆、地致婆の十倍を大地致婆、大地致婆の十倍を醯都、醯都の十倍を大醯都、大醯都の十倍を羯臘婆、羯臘婆の十倍を大羯臘婆、大羯臘婆の十倍を印達羅、印達羅の十倍を大印達羅、大印達羅の十倍を三磨鉢耽、三磨鉢耽の十倍を大三磨鉢耽、大三磨鉢耽の十倍を掲底、掲底の十倍を大掲底、大掲底の十倍を拈筏羅闍、拈筏羅闍の十倍を大拈筏羅闍、大拈筏羅闍の十倍を姥達羅、姥達羅の十倍を大姥達羅、大姥達羅の十倍を跋藍、跋藍の十倍を大跋藍、大跋藍の十倍を珊若、珊若の十倍を大珊若、大珊若の十倍を毘歩多、毘歩多の十倍を大毘歩多、大毘歩多の十倍を跋邏攙、跋邏攙の十倍を大跋邏攙、大跋邏攙の十倍を阿僧企耶。この数の中で八つが欠落している。もし大劫をこの数の中の阿僧企耶に至るまで数えれば、それを劫無数と言う。この劫無数をさらに三度積み重ねて、経典では三劫無数と言う。あらゆる計算をもってしても数え知ることができないので、三劫無数と言うのである。
なぜ菩薩は長い時を経て精進修行して仏果を得ようと願うのか?長い時を経て修行する願いを許さないのはなぜか?無上の菩提は非常に得難く、多くの願いと行いがなければ成就できないからである。菩薩は三劫無数の間、大いなる福徳と智慧の資糧、六波羅蜜多を修行し、多くの百千の苦行を経て初めて無上の正等菩提を証する。それゆえ必ず長い時を経る願いを起こすべきである。もし他の方便でも涅槃を得られるなら、なぜ菩提のために長く苦行を修めるのか?すべての有情を利楽するために、菩提を求めて長い時を経る願いを起こすのである。「どうか私が大いなる能力を具え、苦しみの激流の中で全ての生きとし生けるものを救済せんことを」と。それゆえ涅槃の道を捨て、無上の菩提を求めるのである。他者を救済することは自分に何の利益があるのか?菩薩は衆生を救うことによって自分の慈悲心を遂げるのであり、それゆえ他者を救うことがすでに自分の利益となる。誰が菩薩にそのようなことがあると信じるのか?自分の利益を願い、大慈悲を持たない者には、このような有情については、このことは確かに信じ難い。自分の利益を願わず、大慈悲を持つ者には、このような有情については、このことは信じ難くない。例えば、長く哀れみの心を持たない者が、たとえ自分に利益がなくとも他者を害することを楽しむのは、世に共通して知られている。このように、菩薩は長く慈悲を修めるので、たとえ自分に利益がなくとも他者の利益を楽しむ。どうして信じられないのか?また、例えば有情が繰り返しの力によって、無我の行いを了せず、有為を我と執着して愛着を生じ、これを因として多くの苦しみを甘受するのは、智者なら皆知っている。このように、菩薩は繰り返しの力によって、自己愛を捨て、他者を愛する心を増大させる。これを因として多くの苦しみを甘受する。どうして信じられないのか?また、種姓の違いによって、このような志願が起こる。他者の苦しみを自分の苦しみとし、他者の楽しみを自分の楽しみとし、自分の苦楽を自分の苦楽とは見なさず、他者の利益とは別に自分の利益があるとも見なさない。このような意味に基づいて、次のような偈がある:
下士勤方便, 恒求自身樂,
中士求滅苦, 非樂苦依故,
上士恒勤求, 自苦他安樂,
及他苦永滅, 以他為己故。
低位の修行者は努力して、常に自分の幸せだけを求める。 中位の修行者は苦しみの消滅を願う。なぜなら、苦しみが幸せの基盤ではないと知るからだ。 高位の修行者は常に努め、自分の苦しみを顧みず、他者の安楽を願う。 さらに他者の苦しみを永遠に滅ぼすことを目指す。それは、他者を自分のように見なすからだ。
如是已辯劫量差別。諸佛獨覺出現世間,為劫增時、為劫減位?頌曰:
このようにして、劫(長い時間の単位)の量の違いについて説明しました。 では、諸仏や独覚(ひとりで悟りを開く者)がこの世に現れるのは、劫が増えていく時でしょうか、それとも減っていく時でしょうか? これを簡潔に示した詩句(偈)は次の通りです。
減八萬至百, 諸佛現世間,
獨覺增減時, 麟角喻百劫。
十万歳から百歳に減る間、 諸仏がこの世に現れます。 独覚が現れる時は、その寿命が増減し、 麟角のような独覚は百劫の修行を要します。
論曰:從此洲人壽八萬歲,漸減乃至壽極百年,於此中間諸佛出現。何緣增位無佛出耶?有情樂增難教厭故。何緣減百無佛出耶?五濁極增難可化故。言五濁者:一壽濁、二劫濁、三煩惱濁、四見濁、五有情濁。劫減將末,壽等鄙下如滓穢故,說名為濁。由前二濁,如其次第,壽命資具極被衰損。由次二濁,善品衰損,以耽欲樂自苦行故,或損在家出家善故。由後一濁衰損自身,謂壞自身身量色力念智勤勇及無病故。獨覺出現通劫增減。然諸獨覺有二種殊:一者部行、二麟角喻。部行獨覺先是聲聞,得勝果時轉名獨勝。有餘說彼先是異生,曾修聲聞順決擇分,今自證道得獨勝名。由本事中說:一山處總有五百苦行外仙。有一獼猴曾與獨覺相近而住,見彼威儀,展轉遊行至外仙所,現先所見獨覺威儀。諸仙覩之咸生敬慕,須臾皆證獨覺菩提。若先是聖人,不應修苦行,麟角喻者謂必獨居。二獨覺中麟角喻者,要百大劫修菩提資糧,然後方成麟角喻獨覺。言獨覺者,謂現身中離稟至教唯自悟道,以能自調不調他故。何緣獨覺言不調他?非彼無能演說正法,以彼亦得無礙解故,又能憶念過去所聞諸佛所宣聖教理故。又不可說彼無慈悲,為攝有情現神通故。又不可說無受法機,爾時有情亦有能起世間離欲對治道故。雖有此理,由彼宿習少欣樂勝解無說希望故。又知有情難受深法,以順流既久難令逆流故。又避攝眾故,不為他宣說正法,怖諠雜故。輪王出世為在何時?幾種幾俱何威何相?頌曰:
論じます。この人間界において、人々の寿命が八万歳の時から徐々に減り始め、ついには百歳になるまでの間に、諸仏が出現されます。では、なぜ寿命が増える時期には仏が現れないのでしょうか。それは、生き物たちが楽しみを好み、教えられても厭う心を起こしにくいからです。また、なぜ寿命が百歳を下回ると仏が現れないのでしょうか。それは、五濁が極度に増して、教え導くことが難しくなるからです。
五濁とは、第一に寿命の濁り、第二に時代の濁り、第三に煩悩の濁り、第四に誤った見解の濁り、第五に人間の濁りです。時代が減りゆく終わりには、寿命などが低劣で、まるで澱のようなものです。このため「濁り」と呼びます。最初の二つの濁りによって、寿命と生活の資材がひどく損なわれます。次の二つの濁りによって、善い行いが衰えていきます。というのも、欲望の快楽にふけったり、無意味な苦行を行ったりするからです。あるいは、在家の人々や出家者の善い行いを損なうからです。最後の一つの濁りによって、自分の身体が損なわれます。身体の大きさや力、心の働きや勤勉さ、勇気、そして健康を損なうからです。
独覚は、時代の増減の両方に出現します。しかし、独覚には二つの種類があります。第一に「部行」の独覚、第二に「麟角のたとえ」の独覚です。部行の独覚は、もともと声聞(直接仏の教えを聞く者)であり、優れた果報を得た時に、名前を変えて「独勝」と呼ばれるようになります。また、ある説では、彼らはもともと凡夫であり、過去に声聞のための「順決択分」という修行を積み、今では自ら悟りの道を証して「独勝」という名を得たと説きます。というのも、過去の物語にはこうあります。ある山の場所に、五百人の苦行を積む仙人たちがいました。そこに一匹の猿がいて、以前、独覚の近くに住み、その威儀を見ていたのです。その猿はあちこちを遊行して、仙人たちの所へ行き、以前見た独覚の威儀を真似て示しました。仙人たちはそれを見て、皆敬い慕い、たちまちに独覚の悟りを証しました。もし彼らが元から聖人だったなら、苦行を修める必要はなかったでしょう。麟角のたとえとは、必ず独りでいることを意味します。この二種の独覚のうち、麟角のたとえの方は、百大劫もの間、悟りのための備えを積み、その後ようやく麟角のたとえの独覚となります。
「独覚」というのは、現世において、他人から教えを受けることなく、ただ自ら悟りを開くことを言います。自分を調えることはできても、他者を調えることはしないからです。では、なぜ独覚は他者を教えないと言うのでしょうか。彼らに説法の能力がないわけではありません。なぜなら、彼らもまた無碍の理解力を得ており、過去に聞いた諸仏の説かれた聖教の道理を記憶しているからです。また、彼らに慈悲がないとも言えません。生き物を摂取するために神通力を現すからです。また、教えを受けるにふさわしい人がいないとも言えません。というのも、その時代にも世俗的な欲望を離れる対治法を起こすことができる人がいるからです。
しかし、このような道理はあっても、彼らは過去の修行の習慣によって、人に教え語ることをあまり好みません。その喜びや理解も少なく、説法を望まないのです。また、生き物たちは深い教えを受け入れるのが難しいと知っています。長い間、流れに順ってきた者は、なかなか逆らって流れを遡ることが難しいからです。さらに、多くの人々を集めることを避けます。そのため、他者のために正しい教えを説かず、にぎやかで雑多な場所を恐れるのです。
転輪聖王は、どのような時に世に現れるのでしょうか。その種類はいくつあり、どのような状況で現れ、どのような威徳を持ち、どのような姿をしているのでしょうか。この問いに答えて、偈頌で示します。
輪王八萬上, 金銀銅鐵輪,
一二三四洲, 逆次獨如佛。
他迎自往伏, 諍陣勝無害,
相不正圓明, 故與佛非等。
転輪聖王は八万歳の上にあり、 金・銀・銅・鉄の四種の輪を用いる。 それぞれ一洲・二洲・三洲・四洲を治めるが、 その順序は仏と逆であり、独りで仏のようであるわけではない。
他者が迎えに来れば自ら赴き、服従し、 戦いの陣に勝っても害を加えることはない。 その相は正しく円満に明らかではなく、 ゆえに仏とは等しくないのである。
論曰:從此洲人壽無量歲乃至八萬歲,有轉輪王生。減八萬時,有情富樂壽量損減、眾惡漸盛,非大人器,故無輪王。此王由輪旋轉應導威伏一切,名轉輪王。《施設足》中說有四種,金、銀、銅、鐵輪應別故。如其次第勝、上、中、下,逆次能王領一二三四洲,謂鐵輪王王一洲界,銅輪王二,銀輪王三,若金輪王王四洲界。契經就勝但說金輪,故契經言:若王生在剎帝利種紹灑頂位,於十五日受齋戒時,沐浴首身受勝齋戒,昇高臺殿臣僚輔翼,東方忽有金輪寶現。其輪千輻具足轂輞,眾相圓淨如巧匠成,舒妙光明來應王所。此王定是轉金輪王。轉餘輪王應知亦爾。輪王如佛,無二俱生,故契經言:無處無位非前非後有二如來、應、正等覺出現於世,有處有位唯一如來。如說如來,輪王亦爾。應審思擇,此唯一言,為據一三千、為約一切界?有說:餘界定無佛生。所以者何?勿薄伽梵功能有礙,唯一世尊普於十方能教化故。若有一處一佛於中無教化能,餘亦應爾。又世尊告舍利子言:設復有人來至汝所,問言:頗有梵志沙門,正於今時與喬答摩氏平等平等得無上覺耶?汝得彼問當云何答?時舍利子白世尊言:我得彼問當如是答:今時無有梵志沙門得無上菩提與我世尊等。所以然者,我從世尊親聞親持,無處無位非前非後有二如來應正等覺出現於世,有處有位唯一如來。若爾,何緣《梵王經》說:我今於此三千大千諸世界中得自在轉?彼有密意。密意者何?謂若世尊不起加行,唯能觀此三千大千;若時世尊發起加行,無邊世界皆佛眼境。天耳通等例此應知。有餘部師說:餘世界亦別有佛出現世間。所以者何?有多菩薩現俱修習菩提資糧,一界一時可無多佛,多界多佛何理能遮?故無邊界中有無邊佛現。若唯一佛,設住一劫時,尚不遍為一世界佛事,況同人壽能益無邊。然諸有情居無邊界,時處根性差別無邊,佛應遍觀此有情類。如是時處應見世尊,佛便應機現通說法,令其過失未生不生,諸有已生能令斷滅,令其功德未生得生,諸有已生能令圓滿。如何一佛此事頓成?是故同時定有多佛。然彼所引,無處無位非前非後有二如來出於世等。應共思擇,此言為說一界多界?若說多界,則轉輪王餘世界中亦應非有,以說如佛遮俱生故。若許輪王餘界別有,如何不許別界佛耶?佛出世間具吉祥福,多界多佛何過而遮?謂多界中諸佛俱現,便能饒益無量有情,令得增上生及決定勝道。若爾,何故一世界中無二如來俱時出現?以無用故。謂一界中一佛,足能饒益一切。又願力故,謂諸如來為菩薩時先發誓願:願我當在無救無依盲闇界中成等正覺,利益安樂一切有情,為救為依為眼為導。又令敬重故,謂一界中唯有一如來便深敬重。又令速行故,謂令如是知一切智尊甚為難遇,彼所立教應速修行,勿般涅槃或往餘處,便令我等無救無依。故一界中無二佛現。如是所說四種輪王,威定諸方亦有差別。謂金輪者,諸小國王各自來迎作如是請:我等國土寬廣豐饒,安隱富樂多諸人眾。唯願天尊親垂教勅,我等皆是天尊翼從。若銀輪王自往彼土,威嚴近至彼方臣伏。若銅輪王至彼國已,宣威競德彼方推勝。若鐵輪王亦至彼國,現威列陣剋勝便止。一切輪王皆無傷害,令伏得勝已,各安其所居,勸化令修十善業道,故輪王死定得生天。經說輪王出現於世,便有七寶出現世間。其七者何?一者輪寶、二者象寶、三者馬寶、四者珠寶、五者女寶、六者主藏臣寶、七者主兵臣寶。象等五寶有情數攝,如何他業生他有情,非他有情從他業起?然由先造互相屬業,於中若一稟自業生,餘亦俱時乘自業起。如是所說諸轉輪王,非唯有七寶與餘王別,亦有三十二大士相殊。若爾,輪王與佛何異?佛大士相處正明圓,王相不然,故有差別。劫初人眾為有王無?頌曰:
論曰:この閻浮提において人の寿命が無量歳から八万歳に至るまでの間、転輪王が生まれます。寿命が八万歳を下回ると、衆生は富楽に恵まれず寿命も減り、諸々の悪が徐々に盛んになり、大人の器ではないため、輪王は現れません。この王は、輪が回転することによって導き、すべてを威伏することから、転輪王と名づけられます。 『施設足論』には、金輪・銀輪・銅輪・鉄輪の四種があると説かれています。その順に優・上・中・下とされ、逆の順に一洲・二洲・三洲・四洲を統べ治めます。すなわち、鉄輪王は一洲を、銅輪王は二洲を、銀輪王は三洲を、金輪王は四洲を統べるとされています。 経典では殊勝なものを取って、ただ金輪王のみを説いています。それゆえ経典にこうあります。「もし王が刹帝利の種姓に生まれ、灌頂の位を継ぎ、十五日の斎戒の日に、沐浴し身に勝れた斎戒を受け、高き台殿に上がり臣僚たちに囲まれていると、東方に忽然として金輪宝が現れる。その輪は千輻を具え轂と輞も完全で、様々な相が円満に清らかで、巧みな工匠が作ったかのようである。妙なる光明を放ち、王の許に来て応ずる。この王は必ず転金輪王である。」他の転輪王についても、同様に知るべきです。 輪王は仏のように、二人が同時に生まれることはありません。それゆえ経典に「無き所、無き位にして、前にも後ろにも、二人の如来・応・正等覚が世に出現することはない。有る所、有る位にして、ただ一人の如来のみである」と説かれています。仏について説かれたように、輪王についても同様です。 この「唯一」という言葉は、一つの三千世界について言うのか、あるいは一切の世界について言うのか、よく考えてみるべきです。 ある説では、「他の世界には決して仏は生まれない。なぜならば、世尊の機能に滞りがあってはならないからだ。ただ一人の世尊が、十方すべてにおいて教化できるのである。もし一つの世界で一仏が教化できない所があるならば、他の世界でも同じである。」とあります。 また、世尊が舎利子に告げて言われました。「もし誰かがあなたの所に来て、『今、喬答摩氏と平等平等に、無上覚を得たバラモンや沙門がいるか』と問うたら、あなたはその問いにどう答えるか。」その時、舎利子は世尊に申し上げました。「私はその問いに対して、『今、我が世尊と等しい無上菩提を得たバラモンや沙門はおりません。なぜなら、私は世尊から直接聞き、直接受け継いだからです。無き所、無き位にして、前にも後ろにも、二人の如来・応・正等覚が世に出現することはありません。有る所、有る位にして、ただ一人の如来のみです』と答えましょう。」 もしそうなら、なぜ『梵王経』に「私は今、この三千大千世界において、自在に転ずることを得ている」と言うのでしょうか?それには密意があります。その密意とは何かというと、世尊が加行を起こさない限り、ただこの三千大千世界のみを見ることができる。しかし、世尊が加行を発起する時には、無辺の世界がすべて仏眼の境となる。天耳通などについても、この例に従って知るべきです。 他の部派の師は、「他の世界にも、別々に仏が出現する。なぜなら、多くの菩薩が同時に菩提資糧を修習しているからである。一つの世界に一時に多くの仏はあり得ないが、多くの世界に多くの仏がいることをどうして遮ることができようか。それゆえ、無辺の世界には無辺の仏が現れるのである。」と説きます。 もしただ一仏であるならば、たとえ一劫にわたっても、一世界のための仏事すら遍く成し遂げることはできないでしょう。まして人の寿命に等しい期間で、無辺の衆生を利益できるはずがありません。しかし、諸々の衆生は無辺の世界に住み、時や処、根性の差別は限りなく、仏はこれらの衆生を遍く観察すべきです。このように、時や処に応じて衆生が世尊を見るべきなら、仏は機に応じて神通を現し、説法し、彼らの未生の過失は生じさせず、既に生じたものは断滅させ、未生の功徳は生じさせ、既に生じたものは円満させるのです。どうして一仏がこのような事を瞬時に成し遂げられるでしょうか?それゆえ、同時に必ず多くの仏が存在するのです。 しかし、彼らが引用した「無き所、無き位にして、前にも後ろにも、二人の如来が世に出現することはない」等の言葉については、共に考えてみるべきです。この言葉は、一つの世界について言うのか、多くの世界について言うのか?もし多くの世界について言うなら、転輪王も他の世界には存在しないことになります。なぜなら、仏と同じく、俱生を遮ると説かれているからです。もし輪王が他の世界に別に存在することを許すなら、どうして他の世界の仏を許さないのでしょうか? 仏が世間に出現することは、吉祥の福徳を具えています。多くの世界に多くの仏がいることが、どんな過失があって遮られるのでしょうか?多くの世界に諸仏が同時に現れれば、無量の衆生を利益し、増上生と決定勝の道を得させることができるのです。 もしそうなら、なぜ一つの世界に二人の如来が同時に出現しないのでしょうか?それは、無用だからです。一つの世界に一仏いれば、すべてを利益するのに十分だからです。また、願力によるものです。諸如来は菩薩の時に、まずこう誓願しました。「我は願わくは、救いなく依るところなく、暗き世界において等正覚を成し、一切の有情を利益し安楽ならしめ、彼らの救いとなり、依るところとなり、眼となり、導き手とならん。」また、敬重させるためです。一つの世界にただ一つの如来がいれば、深く敬重されるからです。また、速やかに修行させるためです。一切智者である尊はいと難遇であると知らせ、その教えを速やかに修行させ、涅槃に入ったり、他の所へ行ってしまい、我等を救いなく依るところなくさせることがないようにするためです。それゆえ、一つの世界に二仏は現れないのです。 以上のように説かれた四種の輪王は、諸々の方角を威定することにも差別があります。すなわち、金輪王の場合は、諸々の小国王が自ら来迎し、「我々の国土は広く豊かで、安穩にして富楽、多くの人々がおります。どうか天尊よ、自ら親しく教え勅してください。我々は皆、天尊の翼従でございます」と請うのです。銀輪王の場合は、自らその国に赴き、その威厳が近づくと、彼の方が臣伏します。銅輪王の場合は、その国に至り、威を示し徳を競うと、彼の方が勝ると認めます。鉄輪王の場合も、その国に至り、威を示し軍陣を列ねることで戦いに勝ち、そこに止まります。すべての輪王には傷害がなく、伏せて勝ちを得させると、それぞれの住む所に安んじ、十善業道を修めるよう勧め教化します。ゆえに、輪王が死ねば必ず天に生まれます。 経典には、輪王が世に出現すれば、七宝も世に出現すると説かれています。その七つとは、第一に輪宝、第二に象宝、第三に馬宝、第四に珠宝、第五に女宝、第六に主蔵臣宝、第七に主兵臣宝です。 象などの五宝は有情数に含まれます。どうして他人の業によって、他人の有情が生まれるのでしょうか?他人の有情が他人の業によって生じることはありません。しかし、過去に互いに属する業を造ったことによって、もしその中のある者は自己の業によって生まれ、他の者も同時に自己の業によって生じるのです。 以上のように説かれた諸々の転輪王は、ただ七宝によって他の王と異なるだけでなく、三十二の大士の相によっても異なります。もしそうなら、輪王と仏とは何が異なるのでしょうか?仏の大士相は、処も正しく明らかで円満ですが、王の相はそうではないため、差別があります。 劫の初めの人々には王があったのでしょうか、なかったのでしょうか?
劫初如色天, 後漸增貪味,
由墮貯賊起, 為防雇守田。
劫の初めは色界の天人のように清らかであったが、 次第に味に対する貪りの思いが増していった。 堕ちたものが蓄えや盗みを始めたことから、 防ぐために田畑を守る者を雇うようになった。
論曰:劫初時人皆如色界,故契經說:劫初時人有色意成,支體圓滿諸根無缺,形色端嚴身帶光明,騰空自在飲食喜樂長壽久住。有如是類地味漸生,其味甘美其香欝馥。時有一人稟性耽味,嗅香起愛取甞便食,餘人隨學競取食之。爾時方名初受段食。資段食故身漸堅重,光明隱沒黑闇便生,日月眾星從茲出現。由漸耽味地味便隱,從斯復有地皮餅生。競耽食之,地餅復隱,爾時復有林藤出現。競耽食故,林藤復隱,有非耕種香稻自生,眾共取之以充所食。此食麁故,殘穢在身,為欲蠲除便生二道,因斯遂有男女根生。由二根殊形相亦異,宿習力故便相瞻視,因此遂生非理作意,欲貪鬼魅惑亂身心,失意猖狂行非梵行。人中欲鬼初發此時。爾時諸人隨食早晚隨取香稻無所貯積,後時有人稟性嬾惰,長取香稻貯擬後食,餘人隨學漸多停貯。由此於稻生我所心,各縱貪情多收無厭,故隨收處無復再生,遂共分田慮防遠盡。於己田分生悋護心,於他分田有懷侵奪,劫盜過起始於此時。為欲遮防共聚詳議,銓量眾內一有德人,各以所收六分之一,雇令防護封為田主,因斯故立剎帝利名。大眾欽承恩流率土,故復名大三末多王,自後諸王此王為首。時人或有情厭居家,樂在空閑精修戒行,因斯故得婆羅門名。後時有王貪悋財物,不能均給國土人民,故貧匱人多行賊事。王為禁止行輕重罰,為殺害業始於此時。時有罪人心怖刑罰,覆藏其過異想發言,虛誑語生此時為首。於劫減位有小三災。其相云何?頌曰:
論じて曰く、劫の初めの人々は皆、色界の如くであった。故に経典にはこう説かれている。「劫の初め、人々には色と意識のみがあり、肢体は円満で諸根に欠けはなく、形色は端厳で身体には光が宿り、虚空を自在に飛び、飲食を喜び楽しみ、長寿であった」。そのような時期に、地味が徐々に生じ、その味は甘美で香りは芳ばしかった。ある時、一人の者が味に耽る性分を持ち、香りを嗅いで愛執を起こし、口にして食べてみた。他の者たちもそれに従い競って食べ始めた。この時をもって、初めて「段食」を受けるようになったと名付けられる。段食を摂取したことで身体は次第に堅く重くなり、光明は隠れて闇が生じ、日月や星々がここに現れた。
次第に味を貪ることで地味は消え、続いて地皮餅が生じた。競ってこれを食べたため地皮餅も消え、次に林藤が現れた。競って食べたため林藤も消え、やがて耕さずとも実る香稻(かんだ)が自然に生じ、人々が集まってこれを取って食べた。この食物は粗かったため、身体に残滓が生じた。それを除こうとして二つの道が生まれ、ここに男女の根が現れた。根が異なることで形や姿も変わり、宿世の習いの力で互いに見つめ合うようになった。ここから非理の作意が生じ、欲の鬼が心身を惑わせ乱し、心を失い狂乱して非梵行(淫らな行い)を行うようになった。人間における欲の鬼が初めて発せられたのはこの時である。
その頃、人々は食事の度に香稻を取り、蓄えることはなかった。後に、ある者が怠惰な性分で、多くの香稻を取って後々のために蓄えた。他の者たちもこれに従い次第に多く蓄えるようになった。このことから稻に対する我執の心が生じ、各自が貪りの心のままに収穫を増やし飽きることがなかったため、収穫した場所には再び稻は生えなくなった。そこで互いに田を分け、遠く後々までの不足を案じた。自らの田に対しては貪り護る心が生じ、他者の田に対しては奪い取ろうとする心が起こった。盗みの過ちが始まったのはこの時である。
これを防ぐため、人々は集まって相談し、群れの中から徳のある一人を選び出し、各自の収穫の六分の一を与えて田を守らせ、これを田主とした。ここに「刹帝利(かたな・うじ・くにのおさ)」の名が立てられた。大衆は敬い従い、その恩恵は国土全体に行き渡った。このため、またの名を「大三末多王」という。後の諸王は、この王を初めとする。時に、人々の中には家にいることを厭い、閑寂な地にいて戒行を修める者もいた。ここから「婆羅門(しんぴ・うじ・きよきひと)」の名を得た。
後に、ある王が財物に対して貪りをおぼえ、国民に平等に施すことができなかったため、貧しい人々が多く盗みを働くようになった。王はこれを禁じるために軽重の罰を科した。殺生の業が始まったのはこの時である。時に、罪を犯した者が刑罰を恐れ、過ちを隠して偽りの言葉を発した。虚偽の言葉が生じたのはこの時を初めとする。
劫が減っていく時代には、三つの小さな災いがある。その相はどのようなものか。偈に曰く、
業道增壽減, 至十三災現,
刀疾飢如次, 七日月年止。
寿命をのばしたり縮めたりする因縁の道が積み重なり、 ついには十三の災いが現れる。 刀の災い、疫病の災い、飢饉の災いが、順に七日間、七か月、七年続く。
論曰:從諸有情起虛誑語,諸惡業道後後轉增,故此洲人壽量漸減,乃至極十小三災現。故諸災患二法為本:一耽美食、二性嬾惰。此小三災中劫末起。三災者,一刀兵、二疾疫、三飢饉。謂中劫末十歲時,人為非法貪染污相續,不平等愛映蔽其心,邪法縈纏瞋毒增上,相見便起猛利害心。如今獵師見野禽獸,隨手所執皆成利刀,各逞兇狂互相殘害。又中劫末十歲時人,由具如前諸過失故,非人吐毒疾疫流行,遇輒命終難可救療。又中劫末十歲時人,亦具如前諸過失故,天龍忿責不降甘雨,由是世間久遭飢饉,既無支濟多分命終。是故說言,由飢饉故便有聚集白骨運籌。由二種因名有聚集:一人聚集,謂彼時人由極飢羸聚集而死。二種聚集,謂彼時人為益後人,輟其所食置於小篋擬為種子。故飢饉時名有聚集。言有白骨亦由二因:一彼時人身形枯燥,命終未久白骨便現。二彼時人飢饉所逼,聚集白骨煎汁飲之。有運籌言亦二因故,一由糧少行籌食之,謂一家中從長至幼,隨籌至日得少麁飡。二謂以籌挑故場蘊,得少穀粒多用水煎,分共飲之以濟餘命。然有至教說治彼方,謂若有能一晝一夜持不殺戒,於未來生決定不逢刀兵災起。若能以一訶梨怛雞,起殷淨心奉施僧眾,於當來世決定不逢疾疫災起。若有能以一摶之食,起殷淨心奉施僧眾,於當來世決定不逢飢饉災起。此三災起各經幾時?刀兵災起極唯七日,疾疫災起七月七日,飢饉七年七月七日,度此便止。人壽漸增,東西二洲有似災起,謂瞋增盛身力羸劣,數加飢渴,北洲總無。前說火災焚燒世界,餘災亦爾,如應當知。何者為餘?今當具辯。頌曰:
論曰:生きとし生けるものによる虚偽の言葉から、諸々の悪業の道は次第に増大する。このため、この閻浮提(南瞻部洲)の人々の寿命は徐々に減少し、ついには十歳にまで達し、三つの小災いが現れる。すべての災いや悩みは、二つのものを根本とする。すなわち、一つは美食を貪ること、もう一つは怠惰であることだ。
この三つの小災いは、中劫の終わりに起こる。三つの災いとは、第一に戦争、第二に疫病、第三に飢饉である。
中劫の終わり、人々の寿命が十歳になった時、人々は不正な法に染まり、貪欲と汚れが相続する。不平等な愛執がその心を覆い隠し、邪な法に絡め取られ、怒りの毒が増し加わる。互いに顔を合わせれば、猛烈な害心が生じる。それは今日の猟師が野生の獣を見るが如くである。手に持つものはすべて鋭い刃と化し、互いに凶暴さを競い、殺し合うのである。
また、中劫の終わり、人々の寿命が十歳になった時、先に述べたような過失をすべて具えているため、人間にあらざる者たちが毒を吐き、疫病が流行する。罹れば即座に命を落とし、治療が極めて困難である。
また、中劫の終わり、人々の寿命が十歳になった時、同じく先の過失をすべて具えているため、天竜が怒り責めて甘露の雨を降らさない。これにより世の中は長きにわたり飢饉に見舞われる。もはや支えとなるものもなく、多くの者が命を終える。 それゆえに「飢饉によって、白骨の集積と、割り符による分配がある」と説かれる。
「集積がある」と呼ばれるのは、二つの原因による。第一に、人々の集積である。すなわち、その時の人々は極度の飢えと痩せ衰えによって集まって死ぬこと。第二に、種の集積である。すなわち、その時の人々は後の人のために、自分の食べ物を控えて小さな箱に入れ、種子として備えること。だから飢饉の時を「集積がある」と言うのである。
「白骨がある」と言われるのも、また二つの原因による。第一に、その時の人々の身体は乾燥しており、死後間もなく白骨が現れること。第二に、その時の人々は飢饉に迫られ、白骨を集めて煎じ、その汁を飲むことである。
「割り符による分配がある」と言われるのも、二つの原因による。第一に、食糧が少ないため、割り符によって食事をすることである。すなわち、一家の中で長から幼に至るまで、割り符の順番が来た日にのみ、粗末な食事をわずかに得る。第二に、割り符で古い穀物の貯蔵場所を掘り起こし、わずかな穀粒を得て、多量の水で煎じ、皆で分け合って飲み、かろうじて命をつなぐことである。
しかし、聖なる教えには、これらの災いを治める方策が説かれている。すなわち、もし一昼夜、殺生をしない戒めを守ることができれば、未来の生において必ず戦争の災いに遭わない。もし一つの訶梨怛雞(アーロギャの果実)をもって、誠実で清らかな心を起こし、僧侶の集いに施すことができれば、未来の世において必ず疫病の災いに遭わない。もし一片の食べ物をもって、誠実で清らかな心を起こし、僧侶の集いに施すことができれば、未来の世において必ず飢饉の災いに遭わないのである。
これらの三つの災いは、それぞれどれほどの期間続くのか。戦争の災いは、せいぜい七日間のみ。疫病の災いは、七月と七日間。飢饉の災いは、七年と七月と七日間。これを過ぎれば止む。その後、人々の寿命は徐々に増加していく。
東方と西方の二つの洲(東勝神洲・西牛貨洲)にも、これに類似した災いが起こることがある。すなわち、怒りが増して盛んになり、身体は衰弱し、飢えと渇きが頻繁に襲う。北方の洲(北倶盧洲)には、このような災いは全くない。
先に、火災が世界を焼き尽くすことを述べた。残りの災いについても同様である。どのようなものが「残り」なのか、これから詳しく説明しよう。
偈頌に曰く、
三災火水風, 上三定為頂,
如次內災等, 四無不動故,
然彼器非常, 情俱生滅故,
要七火一水, 七水火後風。
三つの災いとは、火・水・風である。 上の三つの禅定(第三禅定まで)がそれぞれの頂点とされる。 その順に、内なる災いなどが生じる。 第四禅定および無色界は不動であるから、これらの災いを受けない。 しかし、それらの器(世界)は常住ではない。 有情と共に生じ、滅するからである。 要するに、七回の火災の後に一度の水災があり、 七回の水災の後に一度の風災が起こる。
論曰:此大三災逼有情類,令捨下地集上天中。初火災興由七日現,次水災起由雨霖淫,後風災生由風相擊。此三災力壞器世間,乃至極微亦無餘在。一類外道執極微常,彼謂爾時餘極微在。何緣彼執猶有餘極微?勿後麁事生無種子故。豈不前說,由諸有情業所生風能為種子。或此即以前災頂風為緣、引生風為種子。又化地部契經中言:風從他方飄種來此。雖爾,不許芽等生時是種等因親所引起。若爾,芽等從何而生?從自分生。如是自分復從自分,展轉乃至最細有分從極微生。於芽等生中,種等有何力?除能引集芽等極微,種等更無生芽等力。何緣定作如是執耶?從異類生定不應理。不應何理?應無定故。功能定故,無不定失。如聲熟變等,從異類定生。德法有殊,實法不爾。現見實法唯從同類生,如藤生枝及縷生衣等。此非應理,非理者何?引不極成為能立故。今此所引何不極成?非許藤枝縷衣別故。即藤縷合,安布不同得枝衣名,如蟻行等。云何知爾?一縷合中曾不得衣,唯得縷故。有誰為障令不得衣?若一縷中無全衣轉,則應一縷上有衣分無衣。應許全衣唯集諸分,非更別有有分名衣。又如何知衣分異縷?若謂衣要待多所依合,於唯多經合應亦得衣。或應畢竟無得衣理,中及餘邊不對根故。若謂漸次皆可對根,則應眼身唯得諸分,不應說彼得有分衣故,即於諸分漸次了別,總起有分覺,如旋火輪。謂若離縷異色類業,衣色等三不可得故。若錦衣上色等屬衣,則應許實從異類起,一一縷色等無種種異故。或於一分無異色等,邊應不見衣,由彼顯衣故。或即彼分應見異色等,以衣必有異色等相故。彼許有分體唯是一,而有種種色類業殊,審有如斯甚為靈異。又於一火光明界中,遠近不同燒照有異,觸色差別應不得成。各別極微雖越根境,而共聚集可現根證,如彼所宗合能生果,或如眼等合能發識。又如瞖目視散髮時,若多相隣彼則能見,一一遠住便無見能。極微對根理亦應爾。又即於色等,立極微名故。色等壞時極微亦壞,極微實攝,色等德收,異體不應定俱時滅。此二體別,理必不然。以審觀時非離色等有別地等,故非體別。又彼宗中自許地等眼身所取,寧異色觸?又燒毛㲲紅花等時,彼覺則無,故毛等覺但緣色等差別而起,熟變生時形量等故。猶如行伍記識瓶盆,若不觀形不記識故。誰當採錄愚類狂言?故對彼宗廣諍應止。此三災頂為在何處?第二靜慮為火災頂,此下為火所焚燒故。第三靜慮為水災頂,此下為水所浸爛故。第四靜慮為風災頂,此下為風所飄散故。隨何災上,名彼災頂。何緣下三定遭火水風災?初二三定中,內災等彼故。謂初靜慮尋伺為內災,能燒惱心等,外火災故。第二靜慮喜受為內災,與輕安俱潤,身如水故,遍身麁重由此皆除故,經說苦根第二靜慮滅。第三靜慮動息為內災,息亦是風等,外風災故。若入此靜慮,有如是內災,生此靜慮時,遭是外災壞。何緣不立地亦為災?以器世間即是地故,但可火等與地相違,不可說言地還違地。第四靜慮何為外災?彼無外災,離內災故。由此佛說彼名不動,內外三災所不及故。有說:彼地有淨居天故,彼不遭諸災所壞。由彼不可生無色天,亦復不應更往餘處。若爾,彼地器應是常。不爾,與有情俱生俱滅故。謂彼天處無總地形,但如眾星居處各別。有情於彼生時死時,所住天宮隨起隨滅,是故彼器體亦非常。所說三災云何次第?要先無間起七火災,其次定應一水災起。此後無間復七火災,度七火災還有一水,如是乃至滿七水災。復七火災後風災起,如是總有八七火災、一七水災,一風災起。何緣如是?由彼有情所修定因於上漸勝,故感身壽其量漸長,由是所居亦漸久住。由此善釋《施設足》文遍淨天壽六十四劫。
論じて曰く、この三種の大災害は有情を脅かし、下の地を捨てて天の上に集まらせる。最初の火災は七つの太陽が現れることにより起こり、次の水災は大雨が降り続くことにより起こり、最後の風災は風が激しくぶつかり合うことにより起こる。この三災の力が物質世界を破壊し、極微の粒子さえも残さない。
一つの外道の一派は、極微は永遠であると主張する。彼らは、その時にまだ極微が残っていると言う。なぜ彼らは、なお極微が残ると執着するのか?それは、後に粗い物質が生じるための種子が無くなるのを防ぐためである。しかし、すでに前に述べたではないか。諸有情の業によって生じる風が種子となり得ると。あるいは、この前の災害の頂上の風を縁として、それを引き起こす風が種子となるのである。
また、化地部の経典にはこう言われている。「風は他方から種を吹き寄せてここに来させる。」とはいえ、彼らは芽などが生じる時に、種などが直接の原因となって引き起こすとは認めない。もしそうなら、芽などは何から生じるのか?「自己の部分から生じる。」と彼らは言う。そして、この自己の部分もまた自己の部分から生じ、次々とたどって最も微細な部分に至り、それが極微から生じる。芽などの発生において、種などには何の力があるのか?「芽などの極微を引き集める以外に、種などには芽などを生じさせる力はない。」と彼らは主張する。
なぜ彼らは、そのように断固として執着するのか?「異なる種類から生じることは、道理に適わないからである。」と。何が道理に適わないのか?「一定しないからである。」と。しかし、機能が一定しているため、一定しないという過失はない。例えば、音や熟成による変化などは、異なる種類から確かに生じる。属性(徳)の法には差異があるが、実体(実)の法はそうではない。現に見られるように、実体は同じ種類からのみ生じる。例えば、蔓から枝が生じ、糸から衣服が生じるなどである。
これは道理に適わない。なぜ道理に適わないのか?「完全に成立していないものを根拠として挙げているからである。」と。ここで挙げられているものは、なぜ完全に成立していないのか?「蔓と枝、糸と衣服は別々であると許されていないからである。」と。つまり、蔓や糸が集まり、配置が異なることによって枝や衣服という名称を得るのであり、蟻の行列などのようなものである。どうしてそれが分かるのか?「一本の糸の中では、衣服は決して得られず、ただ糸だけが得られるからである。」と。誰が邪魔をして、衣服を得られなくしているのか?「もし一本の糸の中に全体の衣服が存在しないならば、一本の糸の上には衣服の部分があっても、衣服自体はないことになる。全体の衣服はただ各部分の集合であり、部分全体としての衣服という別のものが存在するわけではないと認めるべきである。」と。また、どうして衣服の部分が糸とは別であると知るのか?「もし衣服が、多くのよりどころが集まるのを待つ必要があるならば、多くの経糸が集まっただけでも衣服が得られるはずである。あるいは、結局、衣服を得る道理はない。なぜなら、中央や他の端は感覚器官に触れないからである。」と。もし「次第にすべてが感覚器官に触れる」と言うならば、「目や身体はただ各部分を捉えるべきであり、部分全体としての衣服を捉えると言ってはならない。したがって、各部分を次第に識別し、全体として部分があるという認識が生じるのは、火を回した時の輪のようである。」と。つまり、もし糸とは異なる色の種類や作用を離れるならば、衣服の色などの三つの性質は得られない。もし錦の衣服において、色などが衣服に属するならば、実体は異なる種類から生じると認めるべきである。なぜなら、一本一本の糸の色などには様々な差異がないからである。あるいは、一つの部分に異なる色などがなければ、端の方は衣服が見えないはずである。なぜなら、それが衣服を現すからである。あるいは、その部分自体に異なる色などが見えるべきである。なぜなら、衣服には必ず異なる色などの相があるからである。彼らは、部分全体(有分)の体はただ一つであるのに、様々な色の種類や作用の差異があると認める。よくよく考えると、これは非常に不思議である。
また、一つの火の光の領域において、遠近が異なるために燃焼や照明に違いがあり、触覚や色の差異は成立し得ないはずである。個々の極微は感覚器官の対象を超えているが、共に集まることによって感覚器官に証認され得る。例えば、彼らの宗が認めるように、和合が果を生じるように。あるいは、例えば眼などが和合して認識を生じるように。また、例えば目の病んだ人が散った髪を見る時、多くが隣接していればそれを見ることができるが、一つ一つが遠くにあれば見る能力がない。極微が感覚器官に対しても、道理は同じであるべきだ。
また、色などにおいて極微という名前を立てる。したがって、色などが壊れる時、極微も壊れる。極微は実体(実)に含まれ、色などは属性(徳)に収められる。異なる体は必ずしも同時に滅するとは限らない。この二つの体が別々であるということは、道理からしてそうではない。なぜなら、よく観察する時、色などを離れて別に地などの実体があるわけではないからである。よって、体が別々であるわけではない。また、彼らの宗派では、地などは眼や身体によって捉えられると自ら認めている。どうして色や触覚と異なり得るのか?また、毛や木綿、紅花などを焼く時、それらの認識は無くなる。したがって、毛などの認識は、ただ色などの差別によって生じるのである。熟成や変化が生じる時、形や量などが同じであるから。ちょうど、行列によって瓶や盆を記憶するようなものである。形を観察しなければ、記憶しないからである。
誰が愚か者の狂った言葉を記録するだろうか?したがって、彼らの宗派に対する広範な論争はここで止めるべきである。
この三災の頂上はどこにあるのか?第二静慮が火災の頂上であり、これより下は火によって焼かれるからである。第三静慮が水災の頂上であり、これより下は水によって浸され腐るからである。第四静慮が風災の頂上であり、これより下は風によって吹き散らされるからである。どの災害の上にあるかによって、その災害の頂上と呼ばれる。
なぜ下の三定(第一~第三静慮)は火・水・風の災害に遭うのか?第一、第二、第三の定の中には、内なる災害がそれらと等しいからである。すなわち、第一静慮では、尋(粗い思考)と伺(細かい思考)が内なる災害であり、心などを焼き悩ます。これは外なる火災に等しい。第二静慮では、喜(よろこび)の感受が内なる災害であり、軽安(身心の軽やかさ)と共にあり、身を水のように潤す。全身の粗重(重だるさ)はこれによって除かれる。したがって、経典には「苦の根は第二静慮で滅する」と説かれている。第三静慮では、動く息(呼吸)が内なる災害であり、息もまた風などである。これは外なる風災に等しい。もしこの静慮に入れば、このような内なる災害がある。この静慮に生まれた時、この外なる災害によって壊されるのである。
なぜ地もまた災害として立てないのか?物質世界(器世間)はすなわち地であるからである。ただ火などは地と相違するが、地が地に違反するとは言えない。
第四静慮には、外なる災害は何か?そこには外なる災害はない。内なる災害を離れているからである。このゆえに、仏はそれを「不動」と名付けた。内外の三災が及ばないからである。ある説には「その地には浄居天(淨居天)が住む。したがって、そこは諸々の災害によって壊されない。なぜなら、彼らは無色天に生まれることができず、また他の場所に移るべきでもないからである。」と。もしそうなら、その地の物質は常住であるべきか?「そうではない。有情と共に生じ、共に滅するからである。」と。すなわち、その天の場所には全体的な地形はなく、ただ星々のようにそれぞれが別々に住んでいる。有情がそこに生まれ、死ぬ時、住んでいる天宮は現れたり滅したりする。したがって、その物質の体もまた常住ではないのである。
説かれた三災は、どのような順序で起こるのか?まず、中断なく七回の火災が起こる。次に、必ず一回の水災が起こる。この後、再び中断なく七回の火災が起こる。七回の火災を経過すれば、再び一回の水災がある。このようにして、満七回の水災が起こるまで続く。さらに七回の火災の後、風災が起こる。このようにして、合計で八回の七火災、一回の七水災、一回の風災が起こる。
なぜこのようになるのか?それは、諸有情が修める定の因が、上に行くほど徐々に勝れていくからである。したがって、身心の寿命の量も次第に長くなる。よって、その住処も次第に長く存続する。このことによって、『施設足論』の「遍浄天の寿命は六十四劫である」という文がうまく説明されるのである。
說一切有部俱舍論卷第十二
説一切有部倶舎論 巻第十二