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title: "阿毘達磨俱舍論 · 6"
description: "阿毘達磨俱舍論是印度佛教论师世亲尊者所造的重要论典，由唐代高僧玄奘翻译为中文。该论成书于公元5世纪左右，属于说一切有部的核心著作，系统阐述佛教教义，尤其是对法相、因果、轮回等核心概念进行精密分析。内容涵盖界品、根品、世间品、业品、随眠品、贤圣品、智品和定品八大部分，体系严谨。在佛教史上具有承前启后的地位，既总结部派佛教思想，又为大乘佛教奠定理论基础，被誉为小乘佛学百科全书，对汉传佛教和藏传佛教均产生深远影响。"
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## 阿毘達磨俱舍論卷第十八

> 阿毘達磨倶舎論 第18巻

尊者世親造

> 尊者世親造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 分別業品第四之六

> 第四「業の分別」章 その六

於前所辯三重障中，說五無間為業障體。五無間業其體是何？頌曰：

> 先に述べた三重の障りのうち、五無間が業障の本体であると説かれている。 では、五無間の業の本体とは何か。 それについての頌（偈）は次の通りである。

此五無間中， 四身一語業，三殺一誑語， 一殺生加行。

> 五無間罪のうち、 四つは身の業、一つは言葉の業。 三つは殺生、一つは虚偽の言葉、 一つは殺生の準備行為。

論曰：五無間中四是身業、一是語業、三是殺生、一虛誑語根本業道、一是殺生業道加行，以如來身不可害故。破僧無間是虛誑語。既是虛誑語，何緣名破僧？因受果名，或能破故。若爾，僧破其體是何？能所破人誰所成就？頌曰：

> 論曰く、五無間罪のうち、四つは身業、一つは語業である。 三つは殺生、一つは虚誑語の根本業道であり、一つは殺生業道の加行である。 これは如来の身を害することができないからである。 破僧無間は虚誑語である。 既に虚誑語であるなら、なぜ破僧と名付けるのか。 因によって果の名を受けるか、あるいは破することができるからである。 もしそうならば、僧破のその体は何か。 能破・所破の人は誰によって成就されるのか。 頌に曰く、

僧破不和合， 心不相應行，無覆無記性， 所破僧所成。

> 僧（そう）の和合（わごう）を破ること。これは心不相応行（しんふそうおうぎょう）に属します。無覆無記（むふくむき）の性質を持ち、破られた僧によって成り立ちます。

論曰：僧破體是不和合性，無覆無記心不相應行蘊所攝，豈成無間？如是僧破因誑語生，故說破僧是無間果。非能破者成此僧破，但是所破僧眾所成。此能破人何所成就？破僧異熟何處幾時？頌曰：

> 論じられるところによれば、僧団の破壊という本質は「不和合性」であり、無覆無記（おおいがなく善悪も無記）の心不相応行蘊に含まれるものである。どうしてこれが無間業となり得るのか。このように、僧団の破壊は誑語から生じるものであり、故に破僧は無間の結果であると言われる。破壊を為す者がこの僧団の破壊を成就するのではなく、破壊される側の僧団の大衆によって成り立つ。この破壊を為す者は、何を成就するのか。破僧の異熟果は、どこで、いつ生じるのか。偈頌に曰く、

能破者唯成， 此虛誑語罪，無間一劫熟， 隨罪增苦增。

> 能破者ただ成るのみ、この虚誑の語の罪は、無間に一劫熟し、罪に随って苦しみ増す。

論曰：能破僧人成破僧罪，此破僧罪誑語為性，即僧破俱生語表無表業，此必無間大地獄中經一中劫受極重苦。餘逆不必生於無間，若作多逆罪皆於次生熟，如何多逆同感一生？隨彼罪增苦還增劇，謂由多逆感地獄中大柔軟身多猛苦具，受二三四五倍重苦。誰於何處能破於誰？破在何時？經幾時破？頌曰：

> 論じて曰く、僧を破る者は破僧罪を成す。この破僧罪は誑語を体性とする。すなわち、僧の破れと共に生じる語表・無表の業である。この業は必ず無間地獄において、一中劫の間、極めて重い苦しみを受ける。その他の逆罪は必ずしも無間地獄に生まれるわけではない。もし多くの逆罪を犯したなら、それらはすべて次の生で熟する。どのようにして多くの逆罪が同じ一生に感応するのか？その罪が増すにつれて苦しみもまた増し激しくなる。すなわち、多くの逆罪によって地獄の中に極めて柔らかな身体と多くの猛々しい苦しみの道具が生じ、二倍、三倍、四倍、五倍の重い苦しみを受けるのである。 誰が、どこで、誰を破ることができるのか？破るのはいつか？どれほどの間破るのか？頌に曰く、

苾芻見淨行， 破異處愚夫，忍異師道時， 名破不經宿。

> 僧侶が清らかな行いを見るとき、 愚かな者たちとは異なる場所で（分別を）破る。 老師の教えと異なる道を一時的に受け入れても、 それは一夜を経ずして破られるという。

論曰：能破僧者要大苾芻，必非在家、苾芻尼等。唯見行者，非愛行人。住淨行人，非犯戒者，以犯戒者言無威故。要異處破，非對大師，以諸如來不可輕逼，言詞威肅對必無能。唯破異生非破聖者，以諸聖者證法性故。有說：得忍亦不可破。為含二義說愚夫言，要所破僧忍師異佛，忍異佛說有餘聖道。應說僧破在如是時，此夜必和不經宿住。如是名曰破法輪僧，能障聖道輪、壞僧和合故。何洲人幾破法輪僧？破羯磨僧何洲人幾？頌曰：

> 論じて曰く、僧を破ることは、大比丘（だいびく）によるものに限られる。在家や比丘尼などではない。また、見解によって動く者（見行者）によるものであり、愛着によって動く者（愛行人）によるものではない。清らかな行いを保つ者（住浄行人）によるものであり、戒を破る者ではない。戒を破る者は言葉に威厳がないからである。また、大師（仏陀）の面前ではなく、別の場所で破るのである。なぜなら、如来を軽んじたり迫ったりすることはできず、その言葉は威厳に満ちており、対面しては破ること叶わないからである。さらに、破るのは凡夫のみであり、聖者を破ることはない。聖者たちは法の真理を悟っているからである。ある説では、忍（見解の確立）を得た者も破ることはできないという。この二つの意味を含めて「愚夫」という言葉を用いるのである。破られる僧は、師（仏陀）と仏陀を異なるものと認め、仏陀の教えとは別に、残された聖なる道があると認めるのである。僧の破壊は、このような時に起こると説くべきであり、その夜は必ず和合し、一晩を経ずに元に戻る。これを「法輪を破る僧（破法輪僧）」と名付ける。聖なる道の輪を妨げ、僧の和合を壊すからである。どの洲（四大洲のいずれ）の、何人によって、法輪を破る僧が起こるのか？また、羯磨（修行の儀式

贍部洲九等， 方破法輪僧；唯破羯磨僧， 通三洲八等。

> 閻浮提の九段階で（これらの人々が）法輪の僧伽を破る。（ただし）羯磨の僧伽のみを破るのは、三つの大陸の八段階（で行われる場合に限られる）。

論曰：唯贍部洲，人少至九或復過此，能破法輪。非於餘洲，以無佛故。有世尊處方有異師。要八苾芻分為二眾，以為所破，能破第九，故眾極少猶須九人。等言為明過此無限。唯破羯磨通在三洲，極少八人，多亦無限。通三洲者，有聖教故。要一界中僧分二部別作羯磨，故須八人，過此無遮故亦言等。於何時分無破法輪？頌曰：

> 論じて曰く、ただ贍部洲（せんぶしゅう）においてのみ、人が少なくとも九人、あるいはそれ以上集まって、法輪を破ることができる。他の洲ではそうではない。なぜなら、そこには仏がいないからである。世尊がおられるところに、はじめて異なる師が現れるからである。必要なのは、八人の比丘が二つの集団に分かれて、破られる側となり、破る側の第九番目として一人が加わることである。したがって、最低でも九人は必要となる。「等」という語は、これを超えていくらでも多いことを示している。 ただ、羯磨（かつま）を破ることについては、三つの洲すべてで可能である。最低でも八人必要であり、多くに制限はない。三つの洲すべてで可能なのは、そこに聖教が存在するからである。重要なのは、一つの世界の中で僧団が二つに分かれて、別々に羯磨を行うことである。そのためには八人必要だが、それ以上は制限がないので、「等」という語が用いられている。 では、どのような時機に法輪を破ることはないのだろうか。頌（じゅ）に曰く、

初後皰雙前， 佛滅未結界，於如是六位， 無破法輪僧。

> 最初と最後の疱（はれもの）が両方とも前にあるように、 仏陀の滅後、まだ結界（けっかい）が成立していない時、 この六つの場合には、 法輪（ほうりん）の僧団を破ることはありません。

論曰：初謂世尊轉法輪未久，後謂善逝將般涅槃時，此二時中僧一味故。於正戒見皰未起時，要二皰生方可破故。未立止觀第一雙時，法爾由彼速還合故。佛滅後時，無真大師為敵對故。未結界時，無一界中分二部故。於此六位無破法輪。非破法輪諸佛皆有，必依宿業有此事故。且止傍論，應辯逆緣。頌曰：

> 論じます。まず、「初」とは世尊が法輪を転じて間もない時をいい、「後」とは善逝がまさに般涅槃に入ろうとする時を指します。この二つの時期においては、僧団は一体でありました。正しい戒律と見解に「皰（ほう）」、すなわち小さな亀裂がまだ生じていない時は、その二つの皰が生じて初めて破ることができるからです。また、止観の第一双（止と観の優れた実践者）が確立されていない時は、自然に彼らによってすぐに再び統合されるからです。仏が滅した後は、真の大師が敵対する相手として存在しないからです。また、結界が施されていない時は、一つの結界内で二つの部派に分かれることがないからです。これらの六つの場合には、法輪を破ることはありません。しかし、法輪を破ることがないということは、すべての仏に必ずあるわけではなく、必ず過去の業に基づいてこのような事が起こるのです。さて、余談はこれくらいにして、次に逆縁（法輪を破る因

棄壞恩德田， 轉形亦成逆，母謂因彼血， 誤等無或有，打心出佛血， 害後無學無。

> 恩徳の田を捨て壊すことは、姿を変えても逆縁となる。 母というのは彼の血によって誤りなどあるはずがない。 心から仏の血を出すのは、後に無学（阿羅漢）を害することのないように。

論曰：何緣害母等成無間非餘？由棄恩田、壞德田故。謂害父母是棄恩田。如何有恩？身生本故。如何棄彼？謂捨彼恩。德田謂餘阿羅漢等，具諸勝德及能生故。壞德所依，故成逆罪。父母形轉殺成逆耶？逆罪亦成，依止一故。由如是義，故有問言：頗有令男離命根，非父阿羅漢，而為無間罪觸不？曰：有，謂母轉形。頗有令女離命根，非母阿羅漢，而為無間罪觸不？曰：有，謂父轉形。設有女人羯剌藍墮，餘女收取置產門中生子。殺，何成害母逆？因彼血者身生本故。諸有所作應諮後母，能飲能養能長成故。若於父母起殺加行，誤殺餘人無無間罪。於非父母起殺加行，誤殺父母亦不成逆。如子執杖擊父身蚊，母隱在床謂餘而殺。若一加行害母及餘，二無表生，表唯逆罪，以無間業勢力強故。尊者妙音說有二表，表是積集極微成故。若害阿羅漢無阿羅漢想，於彼依止起定殺心，無簡別故亦成逆罪。若有害父，父是阿羅漢，得一逆罪，以依止一故。若爾，喻說當云何通？佛告始欠持：汝已造二逆，所謂害父、殺阿羅漢。彼顯一逆由二緣成，或以二門訶責彼罪。若於佛所惡心出血，一切皆得無間罪耶？要以殺心方成逆罪，打心出血無間則無。若殺加行時，彼非阿羅漢，將死方得阿羅漢果，能殺彼者有逆罪耶？無，於無學身無殺加行故。若造無間加行不可轉，為有離染及得聖果耶？頌曰：

> 論じて曰く、なぜ母などを殺すことが無間業となり、それ以外ではならないのか？それは、恩田を捨て、徳田を壊すからである。すなわち、父母を害することは恩田を捨てることである。どのように恩があるのか？己の身体の生まれ出づる根本であるからである。どのようにそれを捨てるのか？その恩を捨てることをいう。徳田とは、その他の阿羅漢などのことであり、諸々の勝れた徳を具え、また（功徳を）生ずるからである。徳の依り所を壊すが故に、逆罪となる。 父母の性別が変わった場合、殺せば逆罪となるか？逆罪はそれでも成る。依り所の対象が同一であるからである。このような意味から、次のような問いがある。ある者が男性の命を断ったとして、その対象が父（でありながら同時に）阿羅漢ではない場合に、無間罪に触れることがあるか？答える、ある。それは母が性転した場合である。ある者が女性の命を断ったとして、その対象が母（でありながら同時に）阿羅漢ではない場合に、無間罪に触れることがあるか？答える、ある。それは父が性転した場合である。 もし、ある女性が胎児を流産し、別の女性がその胎児を拾い、自らの産門に置いて子を産んだとする。その子が（実母を）殺した場合、どうして母を害する逆罪となるのか？その血を与えた者が、身体の生まれ出づる根本であるからである。様々な行いは継母に相談すべきである。乳を飲ませ、養い、成長させるからである。 もし父母に対して殺害の加行を起こしたが、誤って他人を殺したならば、無間罪はない。父母ではない者に対して殺害の加行を起こし、誤って父母を殺しても、逆罪とはならない。例えば、子が杖を執って父の身体にとまった蚊を打とうとして、母が床に隠れているのを他人と思って殺したような場合である。 もし一つの加行で母とその他を害したならば、二つの無表（の業）が生じるが、表（の業）はただ逆罪のみである。無間業の勢力が強いからである。尊者妙音は二つの表があると言う。表とは多くの極微が積集して成るからである。 もし阿羅漢を害する時、それが阿羅漢であるという想いがなく、その対象に対して確固たる殺意を起こし、区別しないならば、これもまた逆罪となる。 もし父を害した者で、その父が阿羅漢であった場合、一つの逆罪を得る。依り所の対象が同一であるからである。もしそうならば、たとえ話はどのように説明されるべきか？仏は始欠持に告げた。「汝はすでに二つの逆罪を造った。すなわち、父を害し、阿羅漢を殺したことである。」これは、一つの逆罪が二つの理由によって成ることを示す。あるいは二つの観点からその罪を呵責するのである。 もし仏に向かって悪心をもって出血させたならば、すべての者が無間罪を得るのか？必ず殺心をもってする時に限り逆罪となる。打つ心で出血させたならば、無間罪はない。 もし殺害の加行の時に、その対象がまだ阿羅漢ではなく、死に臨んで阿羅漢果を得た場合、殺した者に逆罪はあるか？ない。無学の身に対して殺害の加行がないからである。 もし無間業の加行を起こしてそれが不可逆となった場合、煩悩を離れることや聖果を得ることはあるのか。頌に曰く、

造逆定加行， 無離染得果。

> 逆罪を犯す定まった行いは、 煩悩から離れることなく果報を得る。

論曰：無間加行若必定成，中間決無離染得果。餘惡業道加行中間，若聖道生，業道不起，依止與彼定相違故。於諸惡行無間業中何罪最重？於諸妙行世善業中何最大果？頌曰：

> 論じて曰く、無間業（むげんごう）を引き起こす行いが必ず完成するなら、その途中で煩悩から離れて悟りの果報を得ることは決してない。その他の悪業の道を起こす行いの最中に、聖なる道（悟りへの道）が生じれば、悪業の道は起こらなくなる。なぜなら、そのよりどころとなる心が、聖なる道と根本的に相反するからである。 様々な悪い行いや無間業のうち、どの罪が最も重いのか。また、様々な善い行いや世間的な善業のうち、どの行いが最も大きな果報をもたらすのか。これを詩句で示そう。

破僧虛誑語， 於罪中最大；感第一有思， 世善中大果。

> 僧侶の和合を破るための嘘の言葉は、 罪の中でも最も重いものです。 この行為は、最高の世界（有頂天）に生まれ変わるという、 世俗的な善行の中では最大の結果をもたらします。

論曰：雖了法非法，為欲破僧而起虛誑語顛倒顯示，此無間中為最大罪，由此傷毀佛法身故、障世生天解脫道故。謂僧已破乃至未合，一切世間入聖得果離染盡漏皆悉被遮，習定溫誦思等業息，大千世界法輪不轉，天人龍等身心擾亂，故招無間一劫異熟。由此破僧罪為最重，餘無間罪如其次第，第五三一後後漸輕。第二最輕，恩等少故。若爾，何故三罰業中，佛說意罰為最大罪，又說罪中邪見最大？據五無間說破僧重，約三罰業說意罪大，就五僻見說邪見重。或依大果害多有情斷諸善根，如次說重。感第一有異熟果思，於世善中為最大果，感八萬大劫極靜異熟故。約異熟果故說此言。據離繫果，則金剛喻定相應思能得大果，諸結永斷為此果故。為簡此故，說世善言。為唯無間罪定生地獄、諸無間同類亦定生彼？有餘師說：非無間生。同類者何？頌曰：

> 論によれば、法と非法を理解していながら、僧団を破壊する目的で虚偽の言葉を用いて、真理を歪めて示す行為は、五無間罪の中で最も重い罪である。なぜなら、それは仏法の体を傷つけ、人々が天界に生まれ、解脱を得る道を妨げるからである。すなわち、僧団が分裂してから再び和合するまでの間、世間における聖者への入り方や悟りの獲得、煩悩の離脱や煩悩の消尽がすべて妨げられ、瞑想・読誦・思索などの善行も停止し、大千世界において法の輪が回らなくなり、天・人・竜などの心身が乱れるからである。そのため、無間地獄に一劫の間、大きな苦しみの報いを受ける。したがって、破僧の罪が最も重く、他の無間罪は第五・第三・第一と順に軽くなっていく。第二の無間罪は最も軽い。それは恩が少ないなどによる。 もしそうなら、なぜ三つの罰の業の中で、仏は意の罰を最大の罪と説き、また罪の中で邪見を最大と説くのか。五無間罪に基づけば破僧が重いと説かれ、三つの罰の業に基づけば意の罰が大きい罪とされ、五つの邪見に基づけば邪見が重いと説かれる。あるいは、大きな果報をもたらすこと、多くの有情に害を与えること、すべての善根を断つことによって、それぞれ順に重いと説かれるのである。 なお、第一有の異熟果を受けるという思は、世間の善の中で最大の果報であり、八万大劫という極めて静かな異熟果をもたらす。異熟果に基づいて、このように説かれるのである。離繫果に基づけば、金剛喩定と相応する思が大きな果報を得ることができ、すべての結縛が永遠に断たれることがその果報である。このことを簡別するために、「世間の善」という言葉が説かれるのである。 無間罪だけが必ず地獄に生まれるのか、それとも無間罪と同類のものも必ずそこに生まれるのか。他の師は言う、「無間罪と同類でも必ずしも生まれるわけではない」と。同類とは何か。偈頌に曰く、

污母無學尼， 殺住定菩薩，及有學聖者， 奪僧和合緣，破壞窣堵波， 是無間同類。

> 汚れた母や無学の尼僧を殺すこと、 禅定に住する菩薩を殺すこと、 さらには有学の聖者を殺すこと、 僧団の和合の縁を奪うこと、 ストゥーパを破壊すること—— これらは無間業と同じ類いの重罪である。

論曰：如是五種隨其次第，是五無間同類業體。謂有於母阿羅漢尼行極污染謂非梵行，或有殺害住定菩薩，或殺學聖者，或奪僧合緣，或破窣堵波，是五逆同類。有異熟業於三時中極能為障。言三時者，頌曰：

> 論曰：この五つの類は、順に五無間業と同じ種類の業の本質である。すなわち、母や阿羅漢尼に対して著しい汚れをなす、すなわち不浄行を行うこと。あるいは定に住する菩薩を殺すこと。あるいは学びの聖者を殺すこと。あるいは僧伽の和合の縁を奪うこと。あるいはストゥーパを壊すこと。これらが五逆と同類の業である。これらの異熟業は、三つの時において特に大きな障りをなす。三つの時とは、偈頌に曰く：

將得忍不還， 無學業為障。

> 忍びを得て還らざるも、無学の業は障りとなる。

論曰：若從頂位將得忍時，感惡趣業皆極為障，以忍超彼異熟地故。如人將離本所居國，一切債主皆極為障。若有將得不還果時，欲界繫業皆極為障，唯除隨順現法受業。若有將得無學果時，色無色業皆極為障，亦除順現。二喻如前。如上所言住定菩薩，為從何位得住定名？彼復於何說名為定？頌曰：

> 論じて曰く、もし頂位から忍位を得ようとする時、悪趣に感応する業はすべて大きな障りとなる。なぜなら、忍位はその異熟の境地を超えるからである。例えば、人が元の国を離れようとする時、すべての債主が大きな障りとなるようなものである。 また、不還果を得ようとする時、欲界に繋がる業はすべて大きな障りとなる。ただし、現世の報として受ける業は除く。 さらに、無学果を得ようとする時、色界・無色界の業はすべて大きな障りとなる。この場合も、現世の報として受ける業は除く。この二つの譬えは先の通りである。 先に述べた「住定の菩薩」とは、どの位から「定に住する」との名を得るのか。また、その菩薩において、何をもって「定」と説くのか。 偈頌に曰く、

從修妙相業， 菩薩得定名，生善趣貴家， 具男念堅故。

> 妙相の業を修めることにより 菩薩は「定」の名を得る。 善趣の貴き家に生まれ 男に生まれ、念が堅固であるがゆえに。

論曰：從修能感妙三十二大丈夫相異熟果業，菩薩方得立住定名，以從此時乃至成佛常生善趣及貴家等。生善趣者，謂生人天，趣妙可稱故名善趣。於善趣內常生貴家，謂婆羅門或剎帝利、巨富長者大婆羅家。於貴家中根有具缺，然彼菩薩恒具勝根，恒受男身尚不為女，何況有受扇搋等身。生生常能憶念宿命，所作善事常無退屈。謂於利樂有情事中，眾苦逼身皆能堪忍。雖他種種惡行違逆，而彼菩薩心無厭倦。如世傳有無價䭾娑，當知此言目彼菩薩。由彼大士雖已成就一切殊勝圓滿功德，而由久習無緣大悲，任運恒時繫屬他故。普於一切有情類中，以無慢心皆攝同己。或常觀己如彼僕使，故於一切難求事中皆能堪忍，及於一切勞迫事中皆能荷負。修妙相業其相云何？頌曰：

> 論じます。修行によって、素晴らしい三十二の大丈夫相という異熟果（いじゅくか）をもたらす業を修めた菩薩こそ、初めて「決定の位」に立つと名づけられます。この時から成仏に至るまで、常に善趣（ぜんしゅ）や高貴な家に生まれるからです。善趣とは、人や天に生まれることであり、その趣は素晴らしく称賛に値するので善趣といいます。善趣の中でも、常に高貴な家に生まれます。それはバラモン、クシャトリア、大富豪の家長、大バラモンの家などです。これらの高貴な家においても、能力の有無はありますが、その菩薩は常に優れた能力を備え、常に男身を受け、女身になることさえありません。ましてや、扇搋（せんたく、中性の身体）などを身に受けることはありません。生まれ変わるごとに常に過去世を記憶し、行った善事に決して退屈することはありません。つまり、衆生を利益し楽しませる行いにおいて、様々な苦しみが身に迫っても、すべてを耐え忍ぶことができるのです。他の者がどんなに悪行をなして逆らっても、その菩薩の心に嫌気がさすことはありません。世に言う「無価の駄裟（たしゃ）」とは、この菩薩を指す言葉だと知るべきです。なぜなら、この大士はすでに一切の殊勝で円満な功徳を成就しているにもかかわらず、長く習い慣れた無縁の大悲により、自然に常に他者と結びついているからです。あらゆる生きとし生けるものに対して、慢心なく、すべてを自分と同じように扱います。あるいは、常に自分を彼らの召使のように見なし、それゆえに、あらゆる困難を要する事柄に耐え、あらゆる労苦を伴う事柄を担うことができるのです。この妙相の業を修めるとは、どのようなことでしょうか。偈頌にこうあります。

贍部男對佛， 佛思思所成，餘百劫方修， 各百福嚴飾。

> 閻浮提の男が仏に対し、仏は思惟によって完成されたもの。 残りの百劫を経てようやく修められ、各々百の福徳によって厳かに飾られる。

論曰：菩薩要在贍部洲中，方能造修引妙相業，此洲覺慧最明利故。唯是男子非女等身，爾時已超女等位故。唯現對佛，緣佛起思是思所成，非聞修類。唯餘百劫造修非多，諸佛因中法應如是。唯薄伽梵釋迦牟尼，精進熾然能超九劫，九十一劫妙相業成。是故如來告聚落主：我憶九十一劫以來，不見一家因施我食有少傷損，唯成大利。從此自性恒憶宿生，是故但言九十一劫。宿舊師說：菩薩出初無數劫來，離四過失、得二功德。如前所辯，一一妙相百福莊嚴，何等名為一一福量？有說：唯除近佛菩薩，所餘一切有情所修富樂果業名一福量。有說：世界將欲成時，一切有情感大千土業增上力為一福量。有說：此量唯佛乃知。今我大師，昔菩薩位於三無數劫供養幾佛耶？頌曰：

> 論じて曰く、菩薩は閻浮提（Jambudvīpa：我々の住む世界）においてのみ、優れた身体的特徴（妙相）を生み出す修行を行えます。なぜなら、この世界では智慧と悟りが最も明らかであり、鋭いからです。その修行ができるのは男性の身のみであり、女性などではありません。というのも、その段階ではすでに女性としての状態を超えているからです。また、その修行は目の前の仏に直面し、仏を縁として思考を起こすことは、思惟によって成就されるものであり、聞いたり学んだりする類のものではありません。この修行は残り百劫（極めて長い時間）の間のみ行われ、それ以上多くはありません。すべての仏が修行の過程において、このようにするのが道理なのです。 ただし、釈迦牟尼世尊（Shakya-muni）だけは、その精進が熾烈であり、九劫を超えることができました。九十一劫の間に、妙相の業を完成させたのです。それゆえ、如来は村の長に告げて言いました。「私は九十一劫の昔から思い起こすに、私に布施をしたことでわずかな損害も受けた家はなく、ただ大きな利益を得た家しか見たことがない。」それ以来、生まれながらにして常に過去の生を憶念しています。それゆえに「九十一劫」とだけ言うのです。 古来の師たちは説いています。菩薩が最初の無数劫を超えた時から、四つの過失から離れ、二つの功徳を得るのだと。それは以前に論じた通りです。一つ一つの妙相は百の福徳によって飾られています。では、一つの福徳の量とはどの程度でしょうか？ ある説では、仏に近い菩薩を除き、他のすべての有情が修める富と楽の果報の業を、一つの福徳の量とします。 また別の説では、世界が形成されようとする時、すべての有情が大千世界を感じ取る業の増上の力を、一つの福徳の量とします。 さらに別の説では、この量は仏のみが知るところである、とされています。 さて、我が大師（釈迦牟尼）は、かつて菩薩であった時代、三つの無数劫の間に、どれだけの仏に供養したのでしょうか？ 偈頌に曰く、

於三無數劫， 各供養七萬，又如次供養， 五六七千佛。

> 三つの無数の劫（長い時間）の間、 それぞれ七万の仏に供養し、 さらに順に、 五、六、七千の仏に供養した。

論曰：初無數劫中供養七萬五千佛，次無數劫中供養七萬六千佛，後無數劫中供養七萬七千佛。三無數劫一一滿時，及初發心，各逢何佛？頌曰：

> 論じて曰く： 最初の無数劫において七万五千の仏を供養し、次の無数劫において七万六千の仏を供養し、後の無数劫において七万七千の仏を供養した。三つの無数劫のそれぞれが満ちるとき、および最初に発心したとき、それぞれどの仏に出会ったのか。偈に曰く：

三無數劫滿， 逆次逢勝觀，然燈寶髻佛， 初釋迦牟尼。

> 長い長い時間をかけて修行を積み、数多くの仏陀に出会いました。 そして、燃燈仏や宝髻仏といった方々を経て、初めて釈迦牟尼仏として悟りを開かれました。

論曰：言逆次者，自後向前。謂於第三無數劫滿所逢事佛名為勝觀，第二劫滿所逢事佛名曰然燈，第一劫滿所逢事佛名為寶髻，最初發心位逢釋迦牟尼。謂我世尊昔菩薩位最初逢一佛號釋迦牟尼，遂對其前發弘誓願：願我當作佛，一如今世尊。彼佛亦於末劫出世，滅後正法亦住千年。故今如來一一同彼。我釋迦菩薩於何位中何波羅蜜多修習圓滿？頌曰：

> 論曰：「逆次」とは、後ろから前へと遡ることである。すなわち、第三の无数劫が満ちた時に出会った仏を勝観と名づけ、第二の劫が満ちた時に出会った仏を然燈と名づけ、第一の劫が満ちた時に出会った仏を宝髻と名づけ、最初に発心した位で釈迦牟尼に出会った。すなわち、我が世尊はかつて菩薩の位にあった時、最初に一仏に出会い、その名を釈迦牟尼といい、その前に立って広大な誓いを立てられた。「願わくは、我、仏と成らんこと、今の世尊の如くに」と。その仏もまた末劫に出世し、滅後、正法もまた千年の間存続した。故に、今の如来はすべて、その同じ道を歩まれる。我が釈迦菩薩は、どの位において、どの波羅蜜多を修行して円満にされたのか。頌に曰く、

但由悲普施， 被析身無忿，讚歎底沙佛， 次無上菩提，六波羅蜜多， 於如是四位，一二又一二， 如次修圓滿。

> ただ慈悲の心で広く施しをするゆえに、 身を裂かれても怒りの心はなかった。 底沙仏を賛嘆したことにより、 この上ない悟り（無上菩提）を得ることとなった。 六つの波羅蜜（布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧）を、 このような四つの位（段階）において、 一つ、また二つ、さらに一つ、また二つと、 順番に完全に修めていったのである。

論曰：若時菩薩普於一切能施一切乃至眼髓，所行惠捨但由悲心，非自希求勝生差別，齊此布施波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩被析身支，雖未離欲貪而心無少忿，齊此戒忍波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩勇猛精進因行，遇見底沙如來坐寶龕中入火界定威光赫奕特異於常，專誠瞻仰忘下一足，經七晝夜無怠，淨心以妙伽他讚彼佛曰：

> 論じて曰く：菩薩が全てのもの、さらには自分の眼や髄までも惜しみなく施し、ただ慈悲の心によって布施を行う時、自ら優れた生まれや境遇を求めない。この時をもって、布施波羅蜜多の修行は円満する。また、菩薩がその身体を引き裂かれても、まだ欲の貪りを離れていないにもかかわらず、少しも怒りの心を起こさない時、この時をもって、戒と忍辱の波羅蜜多の修行は円満する。さらに、菩薩が勇猛に精進する修行の途上、底沙如来が宝の龕に座し、火界定に入って威光赫奕とし、ひときわ常と異なる様子に出会い、一心に仰ぎ見て片足を下ろすのを忘れ、七昼夜もの間怠ることなく、清らかな心で妙なる偈をもってその仏を讃えた：

天地此界多聞室， 逝宮天處十方無，丈夫牛王大沙門， 尋地山林遍無等。

> 天地この界、多聞の室、 逝きし宮、天処、十方に無し。 丈夫、牛王、大沙門、 地を尋ね、山林も、すべて比ぶる者なし。

如是讚已便超九劫，齊此精進波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩處金剛座，將登無上正等菩提，次無上覺前住金剛喻定，齊此定慧波羅蜜多修習圓滿。能到自所往圓德彼岸，故此六名曰波羅蜜多。契經說：有三福業事，一施類福業事、二戒類福業事、三修類福業事。此云何立福業事名？頌曰：

> このように讃嘆し終えると、九つの劫を超え、ここに精進波羅蜜多の修行が円満する。また、菩薩が金剛座に坐して、まさに無上正等菩提に登ろうとする時、無上覚の前にあって金剛喻定に住する。ここに定慧波羅蜜多の修行が円満する。自ら行くところの円満した功徳の彼岸に至ることができるから、この六つを波羅蜜多と名づける。 経典に説かれるには、「三つの福業事がある。第一に施類福業事、第二に戒類福業事、第三に修類福業事」と。では、このように福業事という名はどのように立てられるのか。偈頌に曰く――

施戒修三類， 各隨其所應，受福業事名， 差別如業道。

> 施し、戒律、修行の三つの種類は、それぞれにふさわしいことに従って、 受ける福徳や業の名が、その違いによって業道のようである。

論曰：三類皆福，或業或事，隨其所應如業道說。謂如分別十業道中，有業亦道有道非業，此中有福亦業亦事、有福業非事、有福事非業、有唯是福非業非事。且施類中身語二業具福業事三種義名，彼等起思唯名福業，思俱有法唯受福名，戒類既唯身語業性故皆具受福業事名。修類中慈唯名福事，業之事故。慈相應思，以慈為門而造作故，慈俱思戒唯名福業，餘俱有法唯受福名。或福業名顯作福義，謂福加行事顯所依，謂施戒修是福業之事，為成彼三起福加行故。有說：唯思是真福業。福業之事謂施戒修，以三為門福業轉故。何法名施？施招何果？頌曰：

> 論に曰く、三種類はいずれも「福」であり、あるいは「業」、あるいは「事」とされる。それぞれの該当に従い、「業道」に説かれる通りである。すなわち、十の業道を分別した場合、業でもあり道でもあるもの、道であって業でないものがあるように、ここでも、福（功徳）であり業でもあり事でもあるもの、福と業であって事でないもの、福と事であって業でないもの、単に福であって業でも事でもないものがある。 まず「施（布施）」の種類において、身体と言葉の二つの業は、「福」「業」「事」の三つの意味をすべて備えている。それらに伴って生じる「思（意志）」は、ただ「福業」とのみ名づけられる。「思」と共に存在する他の法（要素）は、ただ「福」と名づけられるだけで、「業」や「事」とは呼ばれない。 「戒（戒律）」の種類は、身と語の業そのものであるから、すべて「福」「業」「事」の名を備えて受ける。 「修（修行・瞑想）」の種類においては、「慈（慈しみ）」だけが「福事」と名づけられる。それは「業」の「事」（対象・基盤）だからである。「慈」と対応する「思」も、また、慈を門として起こされるからである。慈と共にある「思」と「戒」は、ただ「福業」とのみ名づけられる。それ以外の共にある法は、ただ「福」の名を受けるのみである。 あるいは、「福業」という名は、福をつくるという意味を明らかにする。「福加行（福をつくるための実践）」は「事」（行為の対象）を示す。すなわち、「施」「戒」「修」は「福業」の「事」であり、これらの三つを成就させるために「福加行」が起こされるからである。 ある学説では、「思こそが真の福業である」とする。「福業の事」とは、施・戒・修を指す

由此捨名施， 謂為供為益，身語及能發， 此招大富果。

> このように施しに執着を捨て、ただ供養のため、他を利するために 身体とことば、そしてそれらを起こす心のはたらきによって施しを行うならば、この行いは大きな富の報いをもたらす。

論曰：雖所捨物亦得施名，而於此中捨具名施，謂由此具捨事得成，故捨所由是真施體。或由怖畏希求貪等捨事亦成，非此意說，簡彼故說為供益言。謂為於他供養饒益而有所捨，此具名施。具名何謂？謂身語業及此能發。能發謂何？謂無貪俱能起此聚。如有頌曰：

> 論じていわく、捨てる物も施し（布施）の名を得るけれども、この中では捨てるという行為そのものを「施し」と呼ぶ。つまり、この行為によって捨てる事が成立するからであり、捨てるよりどころこそが真の施しの本体である。あるいは、恐れや願望、貪りなどによって捨てる事が成立することもあるが、ここではそういう意味ではない。それを区別するために、「供養や利益のため」と言うのである。すなわち、他者を供養し利益するために何かを捨てる、この行為を「施し」と呼ぶ。では「行為」とは何か？それは身体と言葉の働き（身語業）、およびそれを引き起こすものである。引き起こすものとは何か？無貪（むとん）という心の作用を伴って、このまとまりを生じさせるものである。次の偈（うた）の通りである。

若人以淨心， 輟己而行施，此剎那善蘊， 總立以施名。

> 清らかな心で、自分のものを差し出して施しを行うならば、 この一瞬の善い行いの集まりが、まとめて「布施」と呼ばれるのです。

應知如是施類福業事，能招當現大財富為果。言施類福者，顯施為體義，如葉類器草類舍等。戒修類言准此應釋。為何所益而行施耶？頌曰：

> 知っておくべきだ——この布施という種類の福徳の行為は、今も未来も大きな富という果報をもたらすものだ。「施類福」と言うのは、布施を本体とする意味を明らかにするもので、例えば「葉でできた器」や「草でできた家」などのように、主要な素材を示す言い方だ。「戒類」「修類」という言葉も、これに準じて解釈すべきである。では、何の利益のために布施を行うのか。偈頌で答える：

為益自他俱， 不為二行施。

> 自他の利益のために施しを行い、二つの目的のために施しをしない。

論曰：此中一切未離欲貪及離欲貪諸異生類，持己所有奉施制多，此施名為唯為自益，非他由此有獲益故。若諸聖者已離欲貪，施諸有情除順現受，此施名曰唯為益他，以他由此獲饒益故，非為自益，超果地故。若彼一切未離欲貪及離欲貪諸異生類，持己所有施諸有情，此施名為為二俱益。若彼聖者已離欲貪，奉施制多除順現受，此施名曰不為益二，以此唯為恭敬報恩。前已總明施招大富，今次當辯施果別因。頌曰：

> 論曰：ここで言うところの、欲に対する執着をまだ離れていない者と、離れた凡夫たちが、自分の所有物を持って制多（仏塔）に捧げる布施は、「ただ自分の利益のためだけ」と呼ばれる。なぜなら、それによって他者が利益を得ることはないからである。 一方、欲の執着をすでに離れた聖者が、現在の報いとして現れるものを除いて、生きとし生けるものに施しを行う場合、これは「ただ他者の利益のため」と呼ばれる。他者がそれによって利益を得るからであり、自分自身は果報の境地を超えているため、自らの利益にはならないからである。 まだ欲への執着を離れていない者や、離れた凡夫たちが、自分の所有物を持って生きとし生けるものに施す場合、この布施は「両方の利益のため」と呼ばれる。 しかし、すでに欲の執着を離れた聖者が、現在の報いとして現れるものを除いて、制多に捧げる布施は、「どちらの利益のためでもない」と呼ばれる。これはただ、恭敬と報恩のためだけに行われるからである。 前にすでに、布施は大きな富をもたらすと総説した。今ここで、布施の果報が異なる理由を弁別しよう。 偈頌に言う：

由主財田異， 故施果差別。

> 施す者の財や田が異なるゆえに、施しの果報に違いが生じる。

論曰：施有差別，由三種因，謂主、財、田有差別故，施差別故，果有差別。且由施主差別云何？頌曰：

> 論にはこう示されている。施しには違いがある。それは三つの原因による。すなわち、施す人・施す物・施す相手に違いがあるからである。施しに違いがあれば、その結果にも違いが生じる。では、施す人の違いによってどのような差があるのか。偈頌に示す通りである。

主異由信等， 行敬重等施，得尊重廣愛， 應時難奪果。

> 主を異にするは信等による。行には敬重等の施しあり。尊重と広愛とを得て、時に応じて奪い難き果報を得る。

論曰：由施主成信、戒、聞等差別功德，故名主異；由主異故，施成差別；由施差別，與果有異。諸有施主具如是德，能如法行敬重等四施，如次便得尊重等四果。謂若施主行敬重施，便感常為他所尊重。若自手施，便能感得於廣大財愛樂受用。若應時施，感應時財，所須應時不過時故。若無損施，便感資財，不為他侵及火等壞。由所施財差別云何？頌曰：

> 論に曰く、施主が信・戒・聞などの差別ある功徳を具えることにより、主（施主）に差異があると名づける。主に差異があるがゆえに、施しにも差異が生じる。施しに差異があるがゆえに、果報にも差異がある。諸々の施主がこのような徳を具え、法のままに敬重などの四種の施しを行うならば、順に尊重などの四種の果報を得る。すなわち、もし施主が敬重の施しを行えば、常に他者から尊重されることを感得する。もし自ら手ずから施しを行えば、広大な財物に対する愛楽と受用を感得する。もし時宜にかなった施しを行えば、時宜にかなった財を感得し、必要なものが時に適って得られ、時を過ぎることがない。もし損なうことのない施しを行えば、資財を感得し、他者に侵されることも火などの災いによって壊されることもない。施される財物の差異によってどうなるのか。頌に曰く、

財異由色等， 得妙色好名，眾愛柔軟身， 有隨時樂觸。

> 財や色などによって、見事な容貌や良い名声を得ることができ、多くの人々に愛され、柔らかな身体を得て、それに応じて楽しい触れ合いがある。

論曰：由所施財或闕或具色香味觸，如次便得或闕或具妙色等果。謂所施財色具足故便感妙色。香具足故便感好名，如香芬馥遍諸方故。味具足故便感眾愛，如味美妙眾所愛故。觸具足故感柔軟身及有隨時生樂受觸，如女寶等。果有減者，由因闕故，如是亦由具色香等故名財異。由財異故，施體及果皆有差別。由所施田差別云何？頌曰：

> 論に曰く、施す財物に色・香・味・触が欠けているか備わっているかによって、そのまま順に、美しい色などの果報が欠けるか備わるかが得られる。すなわち、施す財物に色が備わっていれば美しい色の果報を感じ、香が備わっていれば良い名声を感じる。香が芳しく四方に広がるように。味が備わっていれば多くの人に愛される果報を感じる。味が素晴らしく多くの人に愛されるように。触が備わっていれば柔らかい身体と、時が来れば楽しい触れ合いを生じる果報を感じる。女宝などのように。果報に減りがあるのは、因が欠けているからである。このように色・香などを備えているかどうかによって、財物に違いがあると名付ける。財物の違いにより、施しの本体と果報にもそれぞれ差別が生じる。施す田の違いによる差別はどうであろうか。偈頌に曰く、

田異由趣苦， 恩德有差別。

> 田舎によって苦しみは異なり、恩恵や徳にも違いがある。

論曰：由所施田趣、苦、恩德各有差別，故名田異，由田異故施果有殊。由趣別者，如世尊說：若施傍生受百倍果，施犯戒人受千倍果。由苦別者，如七有依福業事中，先說應施客行病侍、園林常食及寒風熱隨時食等。復說若有具足淨信男子女人，成此所說七種有依福業事者，所獲福德不可取量。由恩別者，如父母、師及餘有恩。如熊鹿等，《本生經》說諸有恩類。由德別者，如契經言：若施持戒人，受億倍果等。於諸施福最勝者何？頌曰：

> 論で述べる。施す対象（田）には、趣・苦・恩・徳の違いがあるため、田に差別があるとされる。田に差別があるからこそ、施しの果報にも差異が生じるのである。 趣の違いについて、世尊はこのように説かれた。「もし傍生に施せば、百倍の果報を受ける。もし戒を破った人に施せば、千倍の果報を受ける」と。 苦の違いについて、七種の有依福業事の中では、まず旅人や病人、園林、常食、寒風や暑さに応じた食事などに施すべきことが説かれている。さらに、清らかな信を具えた男子・女子が、この七種の有依福業事を成就すれば、得られる福徳は量り知ることができないと説かれている。 恩の違いについて、父母や師、その他の恩ある者があげられる。また、熊や鹿などのように、恩を施すものについても、『本生経』の中で説かれている。 徳の違いについて、経典にはこのように説かれている。「もし戒を保つ人に施せば、億倍の果報を受ける」と。 では、すべての布施の福徳の中で、最も勝れたものは何であろうか。偈頌で示される。

脫於勝菩薩， 第八施最勝。

> 勝れたる菩薩を解脱し、第八には施しが最も優れている。

論曰：薄伽梵說：若離染者，於離染者施諸資財，於財施中此為最勝。若諸菩薩所行惠施，是普利樂諸有情因。雖不名為脫施於脫，而於施福亦為最勝。除此更有八種施中，第八施福亦為最勝。八施者何？一隨至施、二怖畏施、三報恩施、四求報施、五習先施、六希天施、七要名施、八為莊嚴心為資助心為資瑜伽為得上義而行惠施。隨至施者，宿舊師言：隨近己至方能施與。怖畏施者，謂見此財壞相現前，寧施不失。習先施者，謂習先人父祖家法而行惠施。餘施易了，故不別釋。如契經說：施預流向其果無量，施預流果果量更增，乃至廣說。頗有施非聖果亦無量耶？頌曰：

> 論の中でこう述べられている。世尊はおっしゃった。「執着を離れた者に対して、執着を離れた者が財物を施すならば、これは財物の施しの中で最も優れている」と。もし菩薩が行う布施があれば、それはすべての衆生を利益し、楽しませる原因となる。それを「解脱者への施し」とは呼ばないが、その施しの福徳もまた最も優れている。この他にも八種の施しがあり、その中の第八の施しの福徳もまた最も優れている。八種の施しとは何か。第一に「随至施」、第二に「怖畏施」、第三に「報恩施」、第四に「求報施」、第五に「習先施」、第六に「希天施」、第七に「要名施」、第八に「心を荘厳し、心を資助し、心を資瑜伽とし、上義を得るために行う施し」である。「随至施」とは、先師たちの言葉によれば、近くに来た者に随って施すことである。「怖畏施」とは、この財が壊れる相が目前に現れるのを見て、施す方が失うよりましだと考えることである。「習先施」とは、先人や父祖の家法に従って布施を行うことである。他の施しは理解しやすいので、別に説明しない。経典にこうある。「預流向に施すと、その果報は無量である。預流果に施すと、その果報はさらに増大する」と、詳しく説かれている。問う、果報に聖なる果がないが、それでも無量である施しはあるだろうか。偈頌に曰く、

父母病法師， 最後生菩薩，設非證聖者， 施果亦無量。

論曰：如是五種設是異生，但施亦能招無量果。住最後有，名最後生。法師四田中，是何田所攝？是恩田攝。所以者何？為諸世間大善友故、無明所盲者能施慧眼故、開示世間安危事故、令有情生起無漏法身故。以要說者，善說法師乃至能為佛所作事故，於彼行施便招無量果。欲知諸業輕重相者，應知輕重略由六因。其六者何？頌曰：

後起田根本， 加行思意樂，由此下上故， 業成下上品。

> 後から生じる業の根本（煩悩）と、加行（努力）と思い・意欲によって、この上下の差があるから、業も下品・上品となる。

論曰：後起者，謂作已隨作。田，謂於彼作損作益。根本者，謂根本業道。加行者，謂引彼身語。思，謂由彼業道究竟。意樂者，謂所有意趣，我應造作如是如是、我當造作如是如是。或有諸業唯由後起所攝受故得成重品，定安立彼異熟果故。或有諸業由田成重，或有於田由根本力成重非餘，如父母田行殺罪重，非盜等業由餘成重。例此應思。若有六因皆是上品，此業最重。翻此最輕，除此中間非最輕重。如契經說：有二種業，一造作業、二增長業。何因說業名增長耶？由五種因。何等為五？頌曰：

> 論中提到：「後起」是指在根本行為之後，繼續進行的相關動作。「田」是指對於對象做出損害或利益的行為。「根本」是指根本的業道（即基本善惡行為）。「加行」是指引發身體和語言行為的預備動作。「思」是指透過那些行為而達到究竟完成。「意樂」是指心中的意圖和願望，例如「我應該如此如此做」「我將如此如此做」。 有些業因為受到「後起」的隨順支持，而成為重業，因為這會確定感召相應的異熟果報。有些業則因為「田」的緣故成為重業，或者在某種田上，因為根本行為的力量而成為重業，而非其他因素。例如，在父母這個田上，殺害父母會成為重罪，但偷盜等其他行為並不會因為這個田而成為重業。依此類推，可以思考其他情況。 如果六種因都屬於上品（極為強烈），那麼這個業就是最重的。反之，如果這六種因都屬於下品，那就是最輕的。除此之外，中間的情況則不屬於最重或最輕。 如經典中所說：「有兩種業，一種是造作業，另一種是增長業。」那麼，什麼因緣會使業被稱為「增長」呢？這是因為五種原因。這五種原因是什麼呢？頌文說：

由審思圓滿， 無惡作對治，有伴異熟故， 此業名增長。

論曰：由審思故者，謂彼所作業，非先全不思、非率爾思作。由圓滿故者，謂諸有情中，或由一惡行便墮惡趣，或乃至三；或由一業道便墮惡趣，或乃至十。此中若有齊此量業應墮惡趣，未圓滿時但名造作不名增長，若此已圓滿亦得增長名。由無惡作對治故者，謂無追悔無對治業。由有伴故者，謂作不善業，不善為助伴。由異熟故者，謂定與異熟，善翻此應知。異此諸業唯名造作，如前所明。未離欲等持己所有奉施制多，此施名為唯為自益。既無受者，福如何成？頌曰：

制多捨類福， 如慈等無受。

論曰：福有二類，一捨、二受。捨類福者，謂由善心但捨資財施福便起。受類福者，謂所施田受用施物施福方起。於制多所奉施供具，雖無受類，有捨類福。彼既不受，福由何生？復以何因知福生者要由彼受不受不生？不受於他，無攝益故。此非定證，若福要由攝益他成，則修慈等及正見等應不生福。是故應許供養制多有多福生，如修慈等。謂如有一修慈等定，雖無受者及攝益他，而從自心生無量福。如是有德者，雖已滅過去，而追伸敬養，福由自心生。豈不唐捐此施敬業？不爾，發業心方勝故。謂如有一欲害怨家，彼命雖終猶懷怨想，發起種種惡身語業，生多非福非但起心。如是大師雖已過去，追伸敬養起身語業，方生多福非但起心。若於善田殖施業種可招愛果，若於惡田雖施但應招非愛果。此不應爾。所以者何？頌曰：

惡田有愛果， 種果無倒故。

論曰：現見田中種果無倒，從末度迦種末度迦果生，其味極美。從賃婆種賃婆果生，其味極苦。非由田力，種果有倒。如是施主雖於惡田，而益他心殖諸施種，但招愛果不招非愛。然由田過，令所殖種或生果少或果全無。施類福業事傍論已了，今次應辯戒類福業事。頌曰：

離犯戒及遮， 名戒各有二，非犯戒因壞， 依治滅淨等。

論曰：諸不善色名為犯戒，此中性罪立犯戒名。遮謂所遮非時食等，雖非性罪而佛為護法及有情別意遮止，受戒者犯亦名犯戒，簡性罪故但立遮名。離性及遮，俱說名戒。此各有二，謂表、無表，以身語業為自性故。已略辯戒自性差別。若具四德得清淨名，與此相違名不清淨。言四德者，一者不為犯戒所壞，犯戒謂前諸不善色。二者不為彼因所壞，彼因謂貪等煩惱隨煩惱。三者依治，謂依念住等，此能對治犯戒及因故。四者依滅，謂依涅槃迴向涅槃非勝生故。等言為顯復有異說。有說：戒淨由五種因，一根本淨、二眷屬淨、三非尋害、四念攝受、五迴向寂。有餘師說：戒有四種，一怖畏戒，謂怖不活、惡名、治罰、惡趣畏故，受護尸羅。二希望戒，謂貪諸有勝位、多財、恭敬、稱譽受持淨戒。三順覺支戒，謂為求解脫及正見等受持淨戒。四清淨戒，謂無漏戒，彼能永離業惑垢故。已辯戒類，修類當辯。頌曰：

等引善名修， 極能熏心故。

論曰：言等引善，其體是何？謂三摩地，自性俱有。修名何義？謂熏習心，以定地善於心相續極能熏習令成德類，如花熏苣蕂。是故獨名修。前辯施福能招大富，戒修二類所感云何？頌曰：

戒修勝如次， 感生天解脫。

論曰：戒感生天，修感解脫。勝言為顯就勝為言，謂施亦能感生天果，就勝說戒。持戒亦能感離繫果，就勝說修。經說四人能生梵福：一為供養如來䭾都建窣堵波於未曾處，二為供養四方僧伽造寺施園四事供給，三佛弟子破已能和，四於有情普修慈等。如是梵福其量云何？頌曰：

感劫生天等， 為一梵福量。

論曰：先軌範師作如是說：隨福能感一劫生天受諸快樂是一福量，由彼所感受快樂時同梵輔天一劫壽故。以於餘部有伽他言：

有信正見人， 修十勝行者，便為生梵福， 感劫天樂故。

毘婆沙師作如是說：即於分別妙相業中，所辯福量此即同彼。等言為顯如是異說。財施已說。法施云何？頌曰：

法施謂如實， 無染辯經等。

論曰：若能如實為諸有情以無染心辯契經等令生正解，名為法施。故有顛倒或染污心求利名譽恭敬辯者，是人便損自他大福。前已別釋三福業事，今釋經中順三分善。頌曰：

順福順解脫， 順決擇分三，感愛果涅槃， 聖道善如次。

論曰：言順福分者，謂感世間可愛果善。順解脫分者，謂定能感涅槃果善。此善生已，令彼有情名為身中有涅槃法。若有聞說生死有過、諸法無我、涅槃有德，身毛為竪悲泣墮淚，當知彼已殖順解脫分善。如見得雨場有芽生，知其穴中先有種子。順決擇分者，謂近能感聖道果善，即煖等四，後當廣說。如世間所說書、印、算、文、數，此五自體云何應知？頌曰：

諸如理所起， 三業并能發，如次為書印、 算文數自體。

論曰：如理起者，正加行生。三業，應知即身語意。能發，即是能起此三，如其所應受想等法。此中書印以前身業及彼能發五蘊為體，次算及文以前語業及彼能發五蘊為體，後數應知以前意業及彼能發四蘊為體，但由意思能數法故。今應略辯諸法異名。頌曰：

善無漏名妙， 染有罪覆劣，善有為應習， 解脫名無上。

論曰：善無漏法亦名為妙。諸染污法亦名有罪有覆及劣。准此妙劣，餘中已成，故頌不辯。諸有為善亦名應習，餘非應習義准已成。何故無為不名應習？不可數習令增長故。又習為果，此無果故。解脫涅槃亦名無上，以無一法能勝涅槃，是善是常超眾法故。餘法有上，義准已成。

## 說一切有部俱舍論卷第十八