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成実論 (成實論)


無中陰品第二十五

無中陰品 第二十五

有人言無有中陰。汝雖言《阿輸羅耶那經》中說有中陰,是事不然。所以者何?若是聖人,不知此為是誰、從何處來?則無中陰。若有者,何故不知?又汝言《和蹉經》說,是事不然。所以者何?是經中問異答異,是和蹉梵志所計身異神異,故如是答:中陰中有五陰。又汝言有中有滅者,是人於欲色界中間受身,於此中滅,故名有中有滅也。所以者何?如經中說若人死何處、去何處、生在何處,是義無異。又汝言雜受身雜生世間者,若言受身、言生世間,是義不異。又汝言四有七有者,是經不然,以不順法相故。又汝言閻王呵責者,此在生有,非中有也。又汝言佛因中陰知宿命者,是事不然,聖智力爾,雖不相續亦能念知。又汝言天眼見死時生時者,欲生名生時,將死名死時,非中陰也。又汝言眾生為陰所縛從此至彼者,示有後世故如是說,不明有中陰也。又汝言死時有微四大去者,世人所見,不可信也,此非用因。又汝言若無中陰中間應斷者,以業力故,此人生此、彼人生彼,如過去未來雖不相續而能憶念,是故無有中陰。復次宿命智中說知此人此間死彼間生,不說住中陰中。復次佛說三種業,現報、生報及後報業,不說有中陰報業。復次若中陰有觸即名生有,若不能觸是則無觸,觸無故受等亦無,如是何所有耶?又若眾生受中陰形,即名受生,如經中說:若人捨此身受餘身者,我說名生。若不受身,則無中陰。復次若中陰有退,即名為生。所以者何?要先生後退故;若無退是則為常。又以業力故生,何用中陰?又若中陰從業成者,即是生有,如說業因緣生;若不從業成,何由而有?是應速答。答曰:我以生有差別說名中陰,是故無如上過。是人雖中陰生,亦與生有異,能令識到迦羅羅中是名中陰。難曰:以業力能至,何用分別說中陰耶?又心無所至,以業因緣故,從此間滅、於彼處生。又現見心不相續生,如人刺足頭中覺痛,此足中識無有因緣至於頭中,以近遠眾緣和合生心。是故不應分別計有中陰。

「中陰は存在しない」と言う人があります。あなたは『阿輸羅耶那経』に中陰があると説かれていると言いますが、そのことは正しくありません。なぜでしょうか。もし聖人であれば、これが誰であり、どこから来たのかを知らないはずです。それなら中陰はありません。もしあるのなら、なぜ知ることができないのでしょうか。

またあなたは『和蹉経』に説かれていると言いますが、そのことも正しくありません。なぜでしょうか。その経では問いと答えが異なっており、和蹉梵志が「身は異なり神は異なる」と計ったことに対して、そのように答えているのです。すなわち中陰の中に五陰がある、と。またあなたは「中有に滅がある」と言いますが、その人は欲界と色界の中間で身を受け、そこで滅するので、「中有に滅がある」と言うのです。なぜでしょうか。経の中で「人がどこで死に、どこへ行き、どこに生まれるか」と説かれているように、その意味に違いはありません。

またあなたは「雑に身を受け、雑に世間に生まれる」と言いますが、「身を受ける」と言い、「世間に生まれる」と言うのは、その意味に違いはありません。またあなたは「四有・七有」と言いますが、その経は正しくありません。法相に順じていないからです。またあなたは「閻王が呵責する」と言いますが、これは生有の中のことであり、中有ではありません。

またあなたは「仏が中陰によって宿命を知る」と言いますが、そのことは正しくありません。聖智の力がそのようなものであり、相続しなくても念知することができるのです。またあなたは「天眼が死の時と生の時を見る」と言いますが、生まれようとするのを生時と名づけ、死に臨むのを死時と名づけるのであり、中陰ではありません。

またあなたは「衆生が陰に縛られてここから彼へと至る」と言いますが、後世があることを示すためにそのように説かれたのであり、中陰があることを明かしたのではありません。またあなたは「死の時に微少な四大が去る」と言いますが、世間の人が見ることであり、信じることはできません。これは根拠とはなりません。

またあなたは「もし中陰がなければ中間は断たれるはずだ」と言いますが、業力によって、この人はここに生まれ、彼の人は彼のところに生まれるのです。過去や未来が相続しなくても憶念できるように。したがって中陰はありません。

さらに、宿命智の中では「この人がここで死に彼のところに生まれた」と知ることが説かれていますが、中陰の中に住んでいるとは説かれていません。さらに、仏は三種の業を説かれました。現報・生報・後報の業です。中陰の報業があるとは説かれていません。

さらに、もし中陰に触があるなら、それはすでに生有と名づけられます。もし触れることができないなら、それは触がないということです。触がなければ受などもまたありません。このようにして何があるというのでしょうか。

また、もし衆生が中陰の形を受けるなら、それはすでに受生と名づけられます。経の中で説かれているように、「もし人がこの身を捨てて他の身を受けるなら、私はこれを生と名づける」と。もし身を受けないなら、中陰はありません。

さらに、もし中陰に退があるなら、それはすでに生と名づけられます。なぜでしょうか。必ず先に生まれて後に退くからです。もし退がないなら、それは常ということになります。また業力によって生まれるのなら、中陰は何の用があるのでしょうか。またもし中陰が業から成るなら、それはすでに生有です。業の因縁によって生まれると説かれている通りです。もし業から成らないなら、何によってあるのでしょうか。これに速やかに答えていただきたいものです。

答えていいます。私は生有の差別によって中陰と名づけて説いています。したがって以上のような過失はありません。その人は中陰に生まれても、また生有とは異なっており、識を迦羅羅の中に到らせることができる、これを中陰と名づけます。

問い難じて言います。業力によって至ることができるのなら、何のために分別して中陰を説くのでしょうか。また心には至る所がありません。業の因縁によって、ここから滅してかの所に生まれるのです。また現に心が相続しないで生まれるのを見ます。たとえば人が足を刺すと頭の中で痛みを覚えますが、この足の中の識には因縁があって頭の中に至るのではありません。近く遠くの多くの縁が和合して心が生まれるのです。したがって分別して中陰があると計るべきではありません。


24 有中陰品
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