次第品第二十六
次第品 第二十六
論者言:有人說四諦次第見,有人說一時見。
論者はいいます。ある人は四諦を順を追って見ると説き、ある人は一度にすべて見ると説いています。
問曰:何因緣故說次第見?何因緣故言一時見?答曰:次第見者,如經中說:若人見世間集即滅無見,見世間滅即滅有見。當知集滅二相各異。又若人能知所有集相皆是滅相,是名離垢得法眼淨。又說利智慧人漸捨諸惡,如練金師能離身垢。又《漏盡經》說:能知見者則漏得盡。行者不能自知日日所盡,常修習故得盡諸漏。復次佛言:於諸諦中能生眼智明慧,欲界苦中二、色無色界二,集等亦爾。又經中佛自口說:漸次見諦,如人登梯次第而上。以是等經故,知四諦非一時得。又諸煩惱於四諦中四種邪行,所謂無苦、無集、無滅、無道,故無漏智亦應次第四種正行。又行者應定心分別是苦、是苦因、是苦滅、是苦滅道,若一心中,何得如是決定分別?故知次第非一時也。
問い:どのような理由から、次第に見ることを説くのでしょうか。どのような理由から、一時に見ると言うのでしょうか。
答え:次第に見るということについては、経典の中に次のように説かれています。「もし人が世間の集(生起)を見れば、すなわち無という見解が滅し、世間の滅を見れば、すなわち有という見解が滅する。」集と滅という二つの相は、それぞれ異なることを知るべきです。また、もし人がすべての集の相がみな滅の相であることを知ることができるなら、これを「垢を離れて法眼が浄らかになる」と名づけます。また、鋭い智慧の人は次第に諸々の悪を捨てる、ちょうど金を精錬する人が身体の垢を離れることができるようなものである、とも説かれています。また『漏尽経』には、「よく知り見ることができる者は、漏が尽きる」と説かれています。修行者は、日々に何が尽きたかを自ら知ることはできませんが、常に修習するがゆえに、諸々の漏を尽くすことができます。さらに、仏は仰いました。「諸々の諦において、眼・智・明・慧を生じることができる。欲界の苦において二つ、色界・無色界において二つ、集などについても同様である」と。また経典の中で仏自らが口に説かれました。「次第に諦を見ることは、人がはしごを登るように次第に上がっていく」と。これらの経典によって、四諦は一時に得るのではないと知られます。また、諸々の煩悩は四諦において四種の邪行があり、いわゆる苦はない、集はない、滅はない、道はないというものです。それゆえ無漏の智もまた、次第に四種の正行があるべきです。また修行者は心を定めて、これが苦である、これが苦の因である、これが苦の滅である、これが苦の滅に至る道である、と分別するべきです。もし一つの心の中で、どうしてこのように決定して分別することができるでしょうか。ゆえに次第であって、一時ではないと知られるのです。