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title: "成實論 · 35 有我無我品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 有我無我品第三十五

> 第三十五章 有我无我

問曰：汝言無我。是事不然。所以者何？四種答中是第四置答，謂人死後，若有、若無、亦有亦無、非有非無。若實無我，不應有此置答。又若人言無有眾生受後身者，即是邪見。又十二部經中有本生經，佛自說言彼時大喜見王我身是也。如是等本生，今五陰非昔五陰，是故有我從本至今。又佛說今喜、後喜為善兩喜。若但五陰，不應兩喜。又經中說心垢故眾生垢，心淨故眾生淨。又一人生世間，多人得衰惱；一人生世間，多人得利益。又若修集善不善業，皆依眾生，不依非眾生數。又處處經中佛自說我，言有眾生能受後身，又能自利不利他等。以是等緣故知有我。汝先雖說但名字等，是事不然。所以者何？佛但以外道離五陰已別計有我常不壞相，斷此邪見故言無我。今我等說五陰和合名之為我，是故無咎。又雖言我但名字等，應深思惟此言，若眾生但名字者，如殺泥牛不得殺罪，若殺實牛亦不應有罪。又如小兒以名字物施皆有果報，大人持施亦應得報。而實不然。又但名字故無而說有者，聖人應有妄語；以實語故名為聖人，故知有我。又若聖人見實無我，而隨俗故說有我者，則是倒見，以異說故。又若隨俗無而說有，則不應復說經中實義十二因緣、三解脫門、無我法等，若人謂有後世隨而言有，若人謂無隨人言無。又諸世間萬物皆從自在天生，如是種種邪見經書皆應隨說。是事不可，是故汝所引經皆已總破，故非無我。答曰：汝先言以置答故知有我者，是事不然。所以者何？此不可說法，後滅諦聚中當廣分別，故無實我及不可說者，但假名說非實有也。又汝法中我，以六識識，如汝經說：因眼所見色故我壞。是則眼識所識，則不應言非色非非色，聲等亦爾。復次若我六識所識，則與經相違，經中說：五情不能互取五塵，所伺異故。若我可六識識，則六根互用。又汝所言前後相違，眼識所識則不名為色。又汝言無我是邪見者，經中佛自告諸比丘：雖無有我，因諸行相續故說有生死。我以天眼見諸眾生生時死時，亦不說是我。又汝自法中有過，汝法中言我不生，若不生則無父母，無父母則無逆罪，亦無諸餘罪業，是故汝法即是邪見。又汝言有本生者，因五陰故名喜見王，即彼陰相續故名佛，故說我是彼王。汝法中我是一，故不應差別。又汝言為善兩喜者，經中佛自遮是事，言我不說有捨此五陰、受彼陰者，但以五陰相續不異故言兩喜。又汝言心垢故眾生垢者，以此故知無有實我；若實有我，應與心異，不應言心垢故眾生垢。所以者何？不可彼垢此受故，但以假名因緣有垢故言假名垢。是故假名為我，非真實也。又汝法中說我非五陰，是則不生不滅、無罪福等，有如是過。我等說五陰和合假名為我，因是我故，有生有滅及罪福等，非無假名，但非實耳。又汝先言破外道意故佛說無我者，汝自妄想如是分別，佛意不然。又種種說我皆是過咎，如汝言外道離五陰已別計有我，汝亦如是。所以者何？五陰無常，我不可說若常無常，是即離陰。復次陰有三分，戒定慧品，善不善無記，欲界色界無色界繫，如是分別。我不得爾，故異五陰。又我是人，五陰非人，是則為異。又陰是五，我是一，是故我非陰也。若有我者，以此等緣則異五陰。又世間無有一法不可說一、不可說異，是故無有不可說法。

> 問う：あなたは「無我」と言うが、それは正しくない。なぜなら、四種の答え方のうち第四番目の「置答」というものがある。人が死んだ後、あるいは有り、あるいは無し、あるいは亦有り亦無し、あるいは非有り非無し、という問いに対して答えを保留するのが置答である。もし本当に無我ならば、この置答は成立しないはずだ。また、人が「衆生は来世の身体を受けることはない」と言うならば、それは邪見である。さらに、十二部経の中に本生経があり、仏自ら「その時の大喜見王は、すなわち我である」と説かれた。このような本生の物語では、現在の五陰は昔の五陰と同じではないのに、我が最初から今まで存在すると言える。また仏は「今の喜びと後の喜びは善い二つの喜びである」と説かれた。もし単なる五陰だけならば、二つの喜びは成立しない。また経典には「心が汚れているから衆生も汚れ、心が清らかだから衆生も清らかである」と説かれる。また一人が世間に生まれることで、多くの人が衰え苦しみ、一人が世間に生まれることで多くの人が利益を得ることもある。また善悪の業を修め積むのは、すべて衆生に依るものであり、衆生でないものに依るのではない。また様々な経典で仏自ら「我」と言い、「衆生は来世の身体を受け、自らを利し他を利さないこともある」と説かれた。これらの理由によって、我は存在すると知るべきである。あなたは先に「ただ名前だけのものである」と言ったが、それは正しくない。なぜなら、仏は外道が五陰を離れて別に常不壊の我を計るのを、この邪見を断つために「無我」と言ったのである。我々が説くのは、五陰の和合を名づけて「我」とするのであり、それゆえ過ちはない。また「我はただ名前だけのものである」と言うが、この言葉を深く考えるべきである。もし衆生がただ名前だけのものであるならば、泥で作った牛を殺しても殺罪にならないはずだ。もし実牛を殺しても罪がないことになる。また小児が名前だけの物を施しても果報があるのに、大人が施しても報いを得るべきである。しかし実際はそうではない。またもし名前だけのものであるから無いのに有ると説くならば、聖人は妄語を持つべきことになる。真実の語によって聖人と呼ばれるのであり、それゆえ我は存在すると知るべきである。またもし聖人が真実には無我であるのを見て、世俗に従って我があると説くならば、それは顛倒した見解であり、異なる説を持つことになる。またもし世俗に従って無いのに有ると説くならば、経典の中の真実の義、十二因縁、三解脱門、無我法などを説くべきではないことになる。もし人が後世があると言えば、それに従って有ると言い、人がないと言えば、それに従ってないと言うならば、また世間の万物はすべて自在天から生まれるというような、様々な邪見の経書もすべて追従して説くべきことになる。これはあり得ないことである。それゆえ、あなたが引用した経典はすべて破られているのであり、無我ではないことにはならない。 答える：あなたは先に「置答があるので我は存在すると知る」と言ったが、それは正しくない。なぜなら、この「説くことができない法」については、後で滅諦聚の中で詳しく分別するが、実の我も「説くことができないもの」も存在せず、ただ仮名として説くのであり、実有ではないからである。またあなたの法では、我は六識によって識別される。あなたの経典に「眼によって色を見るがゆえに我が壊れる」と説かれている。それならば、眼識によって識別されるものであれば、「色でもなく非色でもない」と言うべきではない。声などについても同様である。また、もし我が六識によって識別されるならば、経典の教えと矛盾する。経典には「五つの感官は互いに五つの対象を取ることができない。伺うものが異なるからである」と説かれる。もし我が六識によって識別されるならば、六根が互いに用いられることになる。またあなたの言説は前後で矛盾している。眼識によって識別されるものは、色と名づけるべきではないからである。また、あなたが「無我は邪見である」と言うことについて、経典の中で仏は自ら比丘たちに告げられた。「我がなくても、諸行が相続するがゆえに、生死があると説くのである。私は天眼によって諸々の衆生が生まれる時、死ぬ時を見るが、それを我とは説かない」と。またあなた自身の法にも過ちがある。あなたの法では「我は生まれない」と言う。もし生まれないならば、父母が存在しないことになる。父母がなければ、逆罪も存在せず、他のすべての罪業も存在しない。それゆえ、あなたの法はまさに邪見なのである。また、あなたが「本生がある」と言うことについて、五陰によって喜見王と名づけられ、その五陰が相続することによって仏となるのであり、それゆえ「我はその王である」と説かれるのである。あなたの法では我は一つであるから、差別があってはならない。また、あなたが「善い二つの喜び」と言うことについて、経典の中で仏は自らこのことを遮って言われた。「私は、この五陰を捨てて、かの五陰を受ける者がいると説かない。ただ五陰が相続して異ならないがゆえに、二つの喜びと言うのである」と。また、あなたが「心が汚れているから衆生が汚れる」と言うことによって、実の我が存在しないことが知られる。もし実の我が存在するならば、心と異なるはずであり、「心が汚れているから衆生が汚れる」と言うべきではない。なぜなら、かの汚れをこれが受けることはあり得ないからである。ただ仮名の因縁によって汚れがあるがゆえに、仮名の汚れと言うのである。それゆえ、仮名としての我はあるが、真実の我ではないのである。また、あなたの法では「我は五陰ではない」と言うならば、それは生まれず滅せず、罪福などがないということになり、このような過ちがある。我々が説くのは、五陰の和合を仮名として「我」とするのであり、この我によって生滅や罪福などがあるのである。仮名がないわけではない。ただ実ではないだけである。また、あなたが先に「外道を破るために仏は無我を説いた」と言うのは、あなた自身の妄想によってそのように分別しているのであり、仏の意はそうではない。また、様々に「我」を説くことはすべて過失である。あなたが「外道は五陰を離れて別に我を計る」と言うが、あなたも同じである。なぜなら、五陰は無常であり、我は常とも無常とも説くことができない。これはすなわち陰を離れていることになる。また、陰には三分があり、戒・定・慧の品、善・不善・無記、欲界・色界・無色界に繫がるものという分別がある。我はそのようではないから、五陰と異なることになる。また、我は人であり、五陰は人ではないから、これも異なることになる。また、陰は五つであり、我は一つであるから、我は陰ではないことになる。もし我が存在するならば、これらの理由によって五陰と異なるはずである。また、世間に、一とも説けず異とも説けない法は一つも存在しない。それゆえ、「説くことができない法」は存在しないのである。

問曰：如然、可然，不得言一、不得言異，我亦如是。答曰：是亦同疑。何者是然？何者可然？若火種是然，餘種是可然，則然異可然。若火種即是可然，云何言不一？若可然即是火種，若離火種亦俱不然，故名同疑。若然有可然，如我有色，即墮身見，又應多我。如薪火異、牛糞火異，我亦如是，人陰我異、天陰我異，是即多我。又如然可然在三世中，我與五陰亦應如是在三世中。如然可然是有為故，我與五陰亦應有為。又汝雖言然與可然不一不異，然眼見異相，我與五陰亦應有異。又五陰失而我不失，以此間沒、至彼間生，有兩喜故。若隨五陰有失有生，則同五陰，不名兩喜。汝以妄想分別是我，得何等利？又諸塵中無有一塵六識所識，汝所說我可六識識，則非六塵。又十二入不攝則非諸入，四諦不攝則非諸諦，是故若謂有我，即為妄語。又汝法中說，可知法者謂五法藏，過去、未來、現在、無為及不可說法。我在第五法中則異於四法，汝欲令異於四法而非第五，是則不可。若言有我，則有此等過，何用妄想分別我耶？是故汝先說外道離五陰已別計有我，我等不爾，是事不然。又汝先言我但假名應深思者，是事不然。所以者何？是佛法中說世諦事，不應深思。又汝說妄語見倒，亦復如是。又汝言不應說經中實義者，是事應說，令知第一義故。又汝言世間所說盡應隨者，若說從自在天生萬物等，是不可受；若有利益、不違實義，是則應受，是故無咎。若世諦中能生功德、能有利益，如是應受，後當廣說。又汝言殺泥牛等無殺罪者，今當答此。若於有識諸陰相續行中有業業報，泥牛等中無如此事，是故當知五陰和合假名為我，非實有也。

> 問い：燃えるものと燃やすものは、一つと言えず、異なるとも言えない。私もまた、そのようなものである。 答え：これも同じ疑問である。何が燃えるもので、何が燃やすものなのか。もし火の種が燃えるものであり、他の種が燃やすものであるなら、燃えるものと燃やすものは異なることになる。もし火の種がそのまま燃やすものであるなら、どうして一つでないと言えるのか。もし燃やすものがそのまま火の種であるなら、火の種を離れて燃やすものもまた存在しない。だから同じ疑問があると言うのである。 もし燃やすことに燃えることがあるなら、私に色があるのと同じで、身見に堕ちる。また、私が多くなるであろう。薪の火と牛糞の火が異なるように、私もまたそのようなものである。人の五陰の私と天の五陰の私は異なる。これがすなわち私が多くなることである。 また、燃えるものと燃やすものが三世的に存在するように、私と五陰もまた三世的に存在するはずである。燃えるものと燃やすものが有為であるから、私と五陰も有為であるはずである。 また、あなたは燃えるものと燃やすものが一つでなく異ならないと言うが、しかし肉眼で見る限り異なる相がある。私と五陰もまた異なるはずである。 また、五陰が失われても私は失われない。この世から去ってあの世に生まれるとき、二つの喜びがあるからである。もし五陰に従って失われ生まれるなら、五陰と同じであり、二つの喜びとは言えない。 あなたは妄想で分別して私を作っているが、何の利益があるのか。また、諸々の塵の中に、六識が認識する一つの塵など存在しない。あなたが言う私が六識で認識されるなら、それは六塵ではない。また、十二入に含まれないなら、諸々の入ではない。四諦に含まれないなら、諸々の諦ではない。だから私があると言うなら、それは妄語である。 また、あなたの教えでは、知られるべき法とは五法蔵、すなわち過去・未来・現在・無為・不可説法であると言う。私が第五の法にあるなら、四つの法と異なる。あなたは四つの法と異なっていながら第五の法ではないとしたいが、それは不可能である。 もし私があると言うなら、このような過ちがある。どうして妄想で私を分別するのか。だからあなたが先に言った「外道は五陰を離れて別に私があると計るが、我々はそうではない」というのは、そうではない。 また、あなたが先に言った「私はただ仮の名であると深く考えるべきである」というのは、そうではない。なぜなら、この仏法の中で世諦の事柄は、深く考えるべきではないからである。 また、あなたが言う妄語や見倒についても、また同じである。 また、あなたが「経典の中の実義を説くべきではない」と言うのは、それは説くべきである。第一義を知らせるためである。 また、あなたが「世間の言葉はすべて従うべきである」と言うが、もし自在天から万物が生まれると言うなら、それは受け入れるべきではない。もし利益があり、実義に反しないなら、それは受け入れるべきである。だから過ちはない。もし世諦の中で功徳を生み、利益があるなら、そのように受け入れるべきである。後で詳しく説くであろう。 また、あなたが「泥の牛を殺しても殺生の罪はない」と言うことについて、今これに答える。もし識のある五陰の相続の行の中に業と業報があるなら、泥の牛などにはこのような事がない。だから知るべきである。五陰の和合が仮に私と名づけられるのであって、実にあるのではないと。