ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 成実論 (成實論)
  2. 第八 (第八)
  3. 集諦聚
  4. 業論
  5. 105 三受報業品 (105 三受報業品)
←と→
矢印キーでページをめくれます

成実論 (成實論)


三受報業品第一百五

三受報業品 第百五

問曰:經中佛說三種業,樂報、苦報、不苦不樂報業。何者是耶?答曰:善業得樂報,不善業得苦報,不動業得不苦不樂報,此業不必定受,若受則受樂報,非苦等;餘二亦爾。

問い:経典の中で仏は三種の業を説かれています。楽報の業、苦報の業、不苦不楽報の業です。どれがそれにあたるのでしょうか。

答え:善業は楽報を得、不善業は苦報を得、不動業は不苦不楽報を得ます。この業は必ずしも定まって受けるものではなく、もし受けるならば楽報を受け、苦などではありません。残りの二つも同様です。

問曰:是諸業亦得色報,何故但說受耶?答曰:於諸報中受為最勝,受是實報,色等為具。又於緣中說受,如說火苦火樂。或有因中說果,如人施食名施五利,亦如言食錢等。

問い:これらのもろもろの業は色の報いも得るはずなのに、なぜただ受(じゅ)だけを説くのでしょうか。

答え:もろもろの報いの中では受が最も勝れているからです。受こそが本当の報いであり、色などは付随するものにすぎません。また、縁について受を説くこともあり、たとえば「火が苦だ、火が楽だ」と言うようなものです。あるいは因の中に果を説くこともあり、たとえば人が食べ物を施すことを「五つの利益を施す」と名づけたり、「お金を食べる」などと言うようなものです。

問曰:從欲界至三禪中,得受不苦不樂報耶?答曰:得受。

問い:欲界から第三禅までの中で、不苦不楽の報いを受けることはできるでしょうか。答え:受けることができます。

問曰:是何業報?答曰:是下善業報,上善業則受樂報。

問い:これは何の業報でしょうか。答え:これは下善の業報です。上善の業であれば、楽の報いを受けます。

問曰:若爾,何故第四禪及無色定中說耶?答曰:彼是自地。所以者何?彼中但有是報更無異受,以寂滅故。

問:それならば、なぜ第四禅および無色定の中で説かれるのでしょうか。答:それは自地だからです。なぜなら、そこにはただこの報いがあるだけで、他に別の受はなく、寂滅であるからです。

問曰:有人言,憂非業報。是事云何?答曰:何故無耶?

問い:ある人は言います。「憂いは業の報いではない」と。このことはどうなのでしょうか。

答え:なぜ無いと言えるのでしょうか。

問曰:憂但從想分別生,業報不應是想分別故。又若憂是業報,業報則輕,故非報也。又此憂離欲時斷,業報不爾,離欲時不斷,是故憂非業報。答曰:汝言憂從想分別生故非報者,樂亦是業報,是樂二種,一樂、二喜。喜亦從想分別生,不應名報。汝言業報則輕,是憂重過於苦。所以者何?憂是愚人,所有智者則無,是故難除,亦能深生熱惱。又四百觀中說:小人身苦,君子心憂。又此憂要以智斷,身苦樂亦能除。又憂能生三世中惱,所謂我先有苦、今苦、當苦。又憂是諸煩惱住處,如經中為煩惱處故說十八意行,以五識中不生煩惱故。又經中說以憂為二箭,以受苦重故。如人一處重被二箭,則受苦倍增。如是癡人為苦所逼,更增憂患以惱身心,故甚於苦也。又愚者常憂。所以者何?是人恩愛乖離、怨憎合會、所求不得等故常憂惱。又此憂從二因生,一從喜生、二從憂生。若失所愛物是從喜生,如經中說,佛問波斯匿王:汝愛迦尸憍薩羅國耶?又說:諸天樂色貪色,是色若壞則生憂惱。是名從喜生。從憂生者,從所憎事生,亦從嫉妬等生。未離欲者嫉妬等結常惱其心,如說天人多慳嫉結。又多眾生憂惱他人,故得憂惱報,如說隨種生果。故知憂是業報。汝言離欲時斷故非報者,是事不然,須陀洹未離欲亦斷地獄等報,可以地獄等報為非報耶?故不可以離欲時斷便名非報。

問い:憂はただ想分別から生じるのであり、業報は想分別によるものではないはずです。また、もし憂が業報であるなら、業報は軽いものであるはずだから、憂は報ではありません。さらに、この憂は離欲のときに断たれますが、業報はそうではなく、離欲のときにも断たれません。したがって憂は業報ではありません。

答え:あなたが「憂は想分別から生じるから報ではない」と言うのなら、楽しみもまた業報です。この楽しみには二種類あり、一つは楽、二つは喜です。喜もまた想分別から生じるので、報と呼ぶべきではないことになります。あなたが「業報は軽い」と言うのに対し、この憂は苦よりも重いのです。なぜでしょうか。憂は愚かな人にはありますが、智慧ある人にはありません。それゆえ除くことが難しく、また深く熱悩を生じさせるのです。また四百観の中にも説かれています。小人は身に苦を受け、君子は心に憂を受けます。またこの憂は智慧によってこそ断たれますが、身の苦と楽は除くこともできます。また憂は三世にわたる悩みを生じさせます。すなわち、私は以前に苦があった、今苦がある、将来も苦がある、というものです。また憂はあらゆる煩悩の住処です。経の中でも煩悩の処として十八意行が説かれているとおりです。五識の中には煩悩が生じないからです。また経の中では、憂を二本の矢にたとえて説いています。苦を受けることが重いからです。たとえば人が一つのところに二本の矢を重ねて射られれば、受ける苦は倍増します。同じように愚かな人は苦に逼られて、さらに憂いを増し、身心を悩ませるのです。それゆえ苦よりもはなはだしいのです。また愚かな人は常に憂います。なぜでしょうか。その人は恩愛に乖離し、怨憎に合会し、求めるものが得られないなどのために、常に憂い悩むのです。またこの憂は二つの因から生じます。一つは喜から生じ、二つは憂から生じます。もし愛する物を失うなら、それは喜から生じたものです。経の中でも、仏が波斯匿王に問われたとおりです。あなたは迦尸・憍薩羅国を愛していますか、と。また、諸天は色を楽しみ色を貪り、この色が壊れると憂い悩む、とも説かれています。これが喜から生じるということです。憂から生じるものは、憎む事柄から生じ、また嫉妬などからも生じます。未離欲の者は嫉妬などの結に常に心を悩まされます。天人は慳や嫉の結が多いと説かれているとおりです。また多くの衆生は他人を憂い悩ませるので、憂い悩む報いを得ます。種に随って果が生じると説かれているとおりです。したがって憂は業報であると知られます。あなたが「離欲のときに断たれるから報ではない」と言うのは、この事はそうではありません。須陀洹はまだ離欲していなくても、地獄などの報を断ちます。それでは地獄などの報を非報とできるでしょうか。したがって、離欲のときに断たれるからといって、ただちに非報と名づけることはできないのです。

問曰:不苦不樂報業名不動,此業是善應受樂報,何故受不苦不樂報耶?答曰:是受不動故實樂,以寂滅故名不苦不樂。又經中說樂受中貪使,彼中貪於彼受中使,故知是樂。

問い:苦でも楽でもない報いを与える業を「不動」と呼びますが、この業は善であり、楽の報いを受けるはずです。なぜ苦でも楽でもない報いを受けるのでしょうか。 答え:この受は動じないものであるため、実に楽です。しかし寂滅であるため、苦でも楽でもないと呼ぶのです。また経の中では、「楽の受には貪の使が働く」と説かれています。その中で貪はその受において働くのですから、これが楽であると知られます。


104 三報業品
106 三障品

CBETA コード: T1646

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません