三障品第一百六
三障品 第百六
問曰:經中說三障,業障、煩惱障、報障。何者是耶?答曰:若諸業煩惱及報,能障解脫道,故名曰障。
問います:経典には三障、すなわち業障・煩悩障・報障が説かれています。それらは何を指すのでしょうか。答えます:諸々の業と煩悩およびその報いが、解脱の道を妨げるから、障と名づけるのです。
問曰:何者能障?答曰:施戒修善迴向三有,此能障道。又定受報業是亦為障,如經中說:若此人必定集受報業,則不入正位。是名業障。又若人煩惱厚利增上常在心中,是煩惱障。又若人煩惱不可除遣,如不能男等欲,亦名煩惱障。又若地獄等罪惡生處,及隨所生處不能修道,皆名報障。
問:何が障りとなるのでしょうか。答:施しや戒めを修め、善行を三有(さんぬ)へと振り向けること、これが道を妨げます。また、定めて果報を受ける定業もまた障りとなります。経典に説かれているとおりです。「もしこの人が必ず集めて果報を受ける定業を持つならば、正しい位に入ることはできない」と。これを業障(ごっしょう)と名づけます。また、もし人の煩悩が厚く鋭く増大して常に心の中にあるならば、これを煩悩障(ぼんのうしょう)とします。また、もし人の煩悩が取り除きがたいものであるならば、たとえば不能男などの欲望のように、これもまた煩悩障と名づけます。また、地獄などの罪悪の生まれる場所や、生まれた場所に応じて修行できないこと、これらは皆、報障(ほうしょう)と名づけます。
問曰:有人不先明悉前人,不知其善則不布施,謂彼人若由我施得造諸惡,我則有分,如梵志等諸出家人,故出家人不應布施,以新業繫障解脫故。答曰:不然。他作罪福於我無分。所以者何?罪福因緣中有多過咎。何者?如眾生是殺因緣,若無眾生何所殺耶?然則死者應當有罪。又如富者是盜因緣,美色是邪婬因緣,他人是妄語等因緣,偽稱等是欺誑因緣,買者亦應有罪。又受者為施者因緣,亦應得福。若人造井池等用者皆應得福,然則不應自為福德,而實不然,是故因緣中不應有罪福。又受者福分應當消盡,則人不應從他受施。所以者何?以福德分貿飲食故。又施者應罪多而福少。所以者何?詎有幾所婆羅門能為善者?多以三毒濁心深著五欲不勤修善,是故施者應罪多福少。又梵志等自稱善人修行法者,是人不能正觀諸法禪定攝心,若離禪定心難調伏,是故施者施未離欲人應得罪多。又人供養父母、供給妻子親屬知識皆應得罪,則無有人得福分者,而實不然,是故罪福不在因緣中。又持戒等法亦利益他,是人不殺生故施一切命,則持戒者得大罪分,以不殺故前人得壽。所作眾惡盡,應是持戒者分,故求福者便當殺生不應持戒。又人說法令他修福,修福因緣後得富貴,富貴則憍逸,憍逸則造諸惡,此諸惡說法者皆應有分。又施因緣令他人富,以富因緣所作諸罪,亦應是施者分。然則梵志不應受施亦不應與,而今梵志但受不與,故知此為邪道。又如諸王如法治民亦應有罪。又若子為罪而父母有分,則應不生子。又良醫療疾亦應得罪,以其得命為諸罪故。又天降時雨生長五穀,天應得罪,以多濟育惡眾生故。又施食者亦應得罪,受者或食不消乃令至死,亦未離欲人以著味故施者應罪。然則施者常應令受者自立誓言:今食汝食要不為惡,然後當與。若不如是,則施者兩失。
問い:ある人が、まず相手をよく知らず、その人が善人であると知らなければ布施をしない、と言います。もしその人が私の施しによって諸々の悪を造るなら、私にもその分がある、と考えるからです。梵志などの出家者たちがそうであり、それゆえ出家者は布施をすべきではない、新しい業に縛られて解脱を妨げるからです。
答え:そうではありません。他人が罪や福を造ることは、私には分がありません。なぜでしょうか。罪や福の因縁の中には多くの過ちがあるからです。どのようなものでしょうか。たとえば、殺しの因縁には衆生が関わります。もし衆生がいなければ、何を殺すのでしょうか。すると殺される者こそ罪を持つべきことになります。また、富む者は盗みの因縁であり、美しい色は邪淫の因縁であり、他人は妄語などの因縁であり、偽って称することなどは欺誑の因縁であり、買う者もまた罪を持つべきことになります。また、受ける者は施す者の因縁であり、その者も福を得るべきことになります。もし人が井戸や池などを造り、それを使う者も皆福を得るなら、自分自身の福德のためにする必要はないことになり、しかし実際はそうではありません。それゆえ因縁の中に罪や福があるべきではありません。
また、受ける者の福の分は消え尽きるべきであり、そうなれば人は他人から施しを受けるべきではありません。なぜなら、福德の分を飲食と交換するからです。また、施す者は罪が多く福が少ないべきです。なぜなら、いったいどれほどの婆羅門が善を行えるでしょうか。多くは三毒に濁った心で深く五欲に執着し、善を勤めて修めません。それゆえ施す者は罪が多く福が少ないべきです。
また梵志たちは自ら善人であり法を修行する者と称しますが、この人は諸法を正しく観察し、禅定によって心を摂めることができません。もし禅定を離れれば、心は調伏し難いものです。それゆえ施す者が、未だ欲を離れていない人に施すなら、罪を多く得るべきです。また、人が父母を供養し、妻子や親族、知識に供給するなら、皆罪を得るべきであり、そうなれば福の分を得る人は一人もいないことになります。しかし実際はそうではありません。それゆえ罪や福は因縁の中にはありません。
また、持戒などの法も他を利益します。この人は殺生をしないゆえに一切の命に施すことになり、そうなれば持戒者は大きな罪の分を得ることになります。殺さないゆえに他の人が寿命を得るからです。行ったもろもろの悪が尽きるなら、それは持戒者の分であるべきです。それゆえ福を求める者は殺生をして戒を持たないべきです。また、人が説法して他に福を修めさせ、福を修める因縁によって後に富貴を得て、富貴になれば驕り高ぶり、驕り高ぶれば諸々の悪を造り、これらの悪は説法者に皆その分があるべきです。また、施しの因縁は他人を富ませ、富の因縁によって造る諸々の罪も、また施す者の分であるべきです。すると梵志は施しを受けるべきではなく、また与えるべきでもありません。しかし今、梵志はただ受けるだけで与えません。それゆえこれは邪道であると知るべきです。
また、諸王が法のままに民を治めることも罪があるべきです。また、もし子が罪を犯して父母に分があるなら、子を生むべきではありません。また、良医が病を治すことも罪を得るべきです。命を得させたことが諸々の罪のためになるからです。また、天が時雨を降らせて五穀を生長させるなら、天も罪を得るべきです。多くの悪い衆生を済育するからです。また、施食する者も罪を得るべきです。受ける者が食物を消化できずに死に至らせることもあり、また未だ欲を離れていない人は味に執着するゆえに、施す者は罪があるべきです。それなら施す者は常に受ける者に自ら誓わせるべきです。今、あなたの食を食べるので必ず悪を行いません、それから与えよう、と。もしそうでなければ、施す者は二つとも失うことになります。
問曰:經中亦言,若比丘食檀越食、著檀越衣入無量定,以是因緣故此檀越得無量福。若以是因緣而得福者,云何不得罪耶?答曰:若是比丘食檀越食、著檀越衣入無量定,檀越施福自得增長,不得定福。如田良故所收必多,薄則收少。如是福田良故施報則大,薄則福少,不以受者為福為罪而施者得分,是故不以罪福因緣而得罪福。彼雖為因緣,而罪福要由自起三業。
問い:経典の中にも、もし比丘が檀越の食事を食べ、檀越の衣を着て、無量の定に入れば、この因縁によって、この檀越は無量の福を得る、と言われています。もしこの因縁によって福を得るのなら、どうして罪を得ないことがありましょうか。
答え:もし比丘が檀越の食事を食べ、檀越の衣を着て、無量の定に入れば、檀越は施しの福を自ら得て増長し、定の福は得ません。ちょうど田んぼが良いから収穫が必ず多いように、やせていれば収穫は少ないのです。このように福田が良いから施しの報いも大きく、やせていれば福も少ないのです。受ける者が福となるか罪となるかによって、施す者が分け前を得るのではありません。ですから、罪や福の因縁によって罪や福を得るのではありません。それが因縁となっても、罪や福は結局、自らが起こす三業によるのです。
問曰:未離欲人心不自在必貪著有,故出家人不應行施。答曰:若爾,則出家人持戒等皆有福德,是亦應捨,而實不可,是故布施亦不應捨,但勿迴向三有,當為泥洹。又但應遠離煩惱諸不善業。所以者何?是諸業,因時可防、果時無可如何。是故諸佛常於因時教化說法,不如閻王於果時方化訶責。
問い:未だ欲を離れない人の心は自在でなく、必ず貪りに執着しているから、出家した人は布施を行うべきではない、と。
答え:もしそうなら、出家した人が持戒などによって積む福德もすべて捨てるべきだということになりますが、実際にはそれは捨てることはできません。ですから布施もまた捨てるべきではありません。ただし、三有に振り向けることなく、涅槃のために行うべきです。また、ただ煩悩とさまざまな不善の業から遠ざかるべきです。なぜでしょうか。これらの業は、因の時には防ぐことができますが、果の時にはどうすることもできません。ですから諸仏は、常に因の時に教化して説法されます。閻王のように、果の時になって初めて叱責して教化されるのとは違います。
問曰:是三業障中何障最重?答曰:有人言,報障最重,以不可化故。有人言,以隨人故一切皆重。
問:この三業障の中で、どの障りが最も重いのでしょうか。答:ある人は言います、報障が最も重い、なぜなら教化できないからです。ある人は言います、人に応じるので、すべてが等しく重いのです。
問曰:何者可轉?答曰:皆可令滅,若可轉者不名為障也。
問い:何が転じることができるのでしょうか。答え:すべては滅することができるようにされています。もし転じることができるのなら、それは障りとは言いません。