九業品第一百一十五
九業品 第百十五
九種業,欲界繫業三種,作、無作、非作非無作,色界繫業亦如是,無色界二種及無漏業。身口所造業名作,因作所集罪福常隨。是心不相應法名為無作。亦有無作但從心生。非作非無作者即是意,意即是思,思名為業。是故若意求後身,此亦名意業亦名為思,思念後身故名為業。
九種の業があります。欲界に属する業には三種があり、作と、無作と、非作非無作です。色界に属する業も同様です。無色界には二種があり、また無漏の業があります。身と口によって造られる業を作といい、作によって集められた罪福は常にそれに随伴します。この心不相応法を無作といいます。また、ただ心から生じるだけの無作もあります。非作非無作とはすなわち意であり、意とはすなわち思であり、思を業といいます。したがって、もし意によって後の身を求めるならば、これも意業といい、また思ともいいます。後の身を思いつつ念じるので、業というのです。
問曰:若爾,則無無漏思。答曰:若以此為思,則無無漏也。
問い:もしそうなら、無漏の思は存在しないことになります。答え:もしこれを思と見なすなら、無漏の思は存在しないことになります。
問曰:是無作雖從身生,當有多少差別不?答曰:若一切身分皆起作業,因此則集多無作得大果報。
問い:この無作は身から生じるといっても、どのくらいの違いがあるのでしょうか。
答え:もし身体のすべての部分が行為を起こすなら、それによって多くの無作が集まり、大きな果報を得ることになります。
問曰:是無作在何處?答曰:業道體定集,無作或有或無,餘則待心,若強心則有、軟心則無。又此無作亦從願生,若人發願:我要當布施,若起塔寺。是人定得無作。
問います。この無作はどこにありますか。答えます。業道の体は定まった集まりであり、無作にはある場合もあればない場合もあります。その他は心に待つものであり、強い心であれば存在し、弱い心であれば存在しません。また、この無作は願からも生じます。人が願を起こして「私は必ず布施をしよう」と思い、あるいは塔寺を建てるならば、その人は必ず無作を得ます。
問曰:是無作幾時得幾時失?答曰:隨所作事在。若起園林塔寺等施,隨施物不壞,爾時常隨。又隨心不息,如人發心:我應常作此事,若會同若衣施。如是等事在心不息,爾時常得。又隨命未盡,如人受出家戒,爾時常得。
問曰:有人言,但欲界中從作生無作,色界中無。是事云何?答曰:應在二界。所以者何?色界諸天亦應能說法、禮佛及僧。如是人等,云何不從作業生無作耶?又有人言,隱沒無記無無作。是事不然,隱沒無記是重煩惱,是煩惱集則名為使。但不隱沒無記無無作。所以者何?是心下軟不能起集,如華能熏麻非草木等。有人言,過梵世上無有能起作業心。所以者何?覺觀能起口業,彼無覺觀,但用梵世心能起口業。是事不然,眾生隨業受身,若上地生不應用梵世中報,故知以自地心能起口業。又汝說彼無覺觀,後當說有。
問曰:聖人斷結未盡,能起作業不?答曰:聖人不能起實罪業。
問曰:狗等眾生音聲是口業不?答曰:雖無言辭差別,從心起故亦名為業。又若現相、若號令、若簫竹等音皆名口業。是身口業要由意識能起,非餘識也。是故人有自見身業、自聞口業,以意識所起業相續不斷故自見聞。