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title: "成實論 · 127 無明品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 無明品第一百二十七

> 第百二十七章 無明

論者言：隨逐假名名為無明。如說凡夫隨我音聲，是中實無我無我所，但諸法和合假名為人；凡夫不能分別故生我心，我心生即是無明。

> 論者は言う。仮名（けみょう）に従い追い求めることを、無明という。たとえば、凡夫が「我」という音声に従うようなものである。この中には、実際には我も我所も存在しない。ただ諸々の法が和合して、仮に「人」と名づけられているにすぎない。凡夫はこれを分別することができないがゆえに、「我」という心を生じる。この「我」の心が生じることこそが、すなわち無明なのである。

問曰：經中佛說不知過去世等名為無明，何故但說我心是耶？答曰：是過去等中，多人錯謬故，說是中不知名為無明。又經中解明名義，謂有所知故名為明。知何等法？謂色陰無常如實知無常，受想行識陰無常如實知無常。與明相違，名為無明。然則不明如實，故名無明。

> 問い：経典の中で仏は「過去世などを知らないことを無明という」と説かれている。なぜここではただ「我という心」だけを無明とするのか。 答え：過去世などについては、多くの人が誤りを起こすからである。そこで、それらを知らないことを無明と説くのである。また、経典では「明」の意味を次のように解いている。すなわち、知るべきことがあるから「明」と名づける。何を知るのか。色陰が無常であることを、ありのままに知り、受・想・行・識の陰が無常であることを、ありのままに知るのである。この「明」と相反するものを「無明」と名づける。つまり、ありのままに知らないこと、それが無明なのである。

問曰：若不明如實名無明者，木石等法應名無明，以不明如實故。答曰：不然。木石無心不能分別過去世等，無明能分別，故不同木石。

> 問う：もし「如実を明らかにしないことを無明と名付ける」ならば、木や石などの物も無明と呼ぶべきではないか。それらも如実を明らかにしないからである。 答える：それは違う。木や石には心がなく、過去世などを分別することができない。しかし無明には分別する働きがある。だから木や石とは異なるのである。

問曰：無明名無法，如人目不見色，無不見法，是故但明無故名為無明，無別法也。答曰：不然。若無無明於五陰中妄計有人，及瓦石中生金想者，名為何等？故知邪分別性名無明，非明無故名無明也。又從無明因緣，有諸行等相續生，若無法者云何能生？

> 問い：無明とは「存在しないもの」を指すのでしょうか。例えば、人が目で色を見ない場合、見えないということがあるだけで、別に「見えないという法（もの）」が存在するわけではありません。ですから、「明（智慧）がない」という意味だけで無明と呼ぶのであって、無明という別の実体があるわけではないのです。 答え：そうではありません。もし無明というものが存在しないならば、五陰（五つの集まり）の中に「我（自分）」があると誤って考えたり、瓦や石の中に金があると妄想したりするのは、何と呼ぶべきでしょうか。このことから、誤った分別（邪分別）をする性質こそが無明なのであって、「明がない」という単なる欠如の意味で無明と呼ぶのではないのです。 また、無明を因縁として、行（心の働き）などの様々なものが次々と生じます。もし無明というものが存在しないのならば、どうしてそれから何かが生じるということがあり得るでしょうか。

問曰：若非明名無明者，今但除明，一切諸法盡是無明，是故不以一法名為無明。答曰：是無明自相中說，不說餘法。如言不善，即說不善體，不說無記；無明亦爾。又雖稟人形，無人行故說名非人。如是此明雖有分別，不能實知，故說無明；木石不爾。

> 問う：もし「明」でないものを「無明」と呼ぶなら、今ただ「明」を取り除けば、すべての諸法はすべて無明となってしまう。それゆえ、一つの法をもって「無明」と名付けることはできないのではないか。 答え：「無明」は、それ自身の性質（自相）について説かれたものであって、他の法について説いたものではない。たとえば「不善」と言えば、不善そのものの体を指すのであり、「無記」を指すのではない。無明も同じである。また、たとえ人の姿をしていても、人の行いをしないなら「非人」と呼ばれる。これと同じように、この「明」（分別の智）は分別する働きを持っていても、実際に真実を正しく知ることができない。そのため「無明」と言うのである。木や石はこれとは違う（分別すら持たないので、無明とは呼ばれない）。

問曰：若說無色無對無漏無為皆是餘說，無明何故不如是耶？答曰：或有此理，不善等中則不如是。

> 問い：もし「色がない」「対になるものがない」「漏れがない」「つくられない」といったことが、すべて他の教えの中に説かれているのなら、なぜ「無明」についても同じように説かないのですか？ 答え：それには道理があります。不善などの法の中では、このようには説かれないのです。

問曰：有人言，但以明無故名無明，如室無光明則名為闇。答曰：世間有二種語，或明無故說名無明、或邪明故說名無明。明無故說無明者，如世間言盲不見色、聾不聞聲。邪明故說無明者，如夜見杌樹生人想、見人生杌樹想。又若人不能實知是事，故名不知。又邪心名煩惱是諸行因緣，阿羅漢斷故，無有無明因緣諸行。若非明名無明者，今阿羅漢無佛法中明，應名無明；若有無明，非阿羅漢。當知別有無明體性，邪心是也。是邪是無明分為一切煩惱。所以者何？一切煩惱皆邪行故。又一切煩惱覆蔽人心皆為盲冥，如說貪欲不見法、貪欲不見福，能受此貪者，皆名為盲冥；恚癡亦如是。又從一切煩惱生諸行，而經中說從無明生行，故知一切煩惱皆名無明。又不見空者常有無明，但垢無明是諸行因緣。又邪明故說無明，未見空者常是邪明，故知無明分為一切煩惱。

> 問い：ある人はこう言います。「ただ『明』（智慧）がないから『無明』と呼ぶのだ。例えば、部屋に光がなければ、それを『暗闇』と呼ぶのと同じである」と。 答え：世の中には二種類の言い方がある。①「明がない」という意味で「無明」と呼ぶ場合と、②「邪な明（誤った認識）」という意味で「無明」と呼ぶ場合である。 ①「明がない」という意味で「無明」と呼ぶ例としては、世間で「盲人は色が見えない」「聾者は音が聞こえない」と言うのと同じである。 ②「邪な明」という意味で「無明」と呼ぶ例としては、夜に切り株を見て「人がいる」と思い込んだり、人を見て「切り株だ」と誤認したりするような場合である。 また、もし人が物事を真実の通りに正しく知ることができなければ、それを「知らない」と言う。 さらに、誤った心を「煩悩」と呼び、それが様々な行為（行）の原因となる。阿羅漢はこの煩悩を断ち切っているので、無明を原因とする行為は存在しない。 もし「明がないこと」を無明と呼ぶのなら、阿羅漢には仏法における世俗の「明」がないのだから、無明と呼ばれるべきことになる。しかしもし無明があるなら、それは阿羅漢ではない。したがって、無明には別に固有の本質があり、それは「誤った心」であると知るべきである。 この「誤り」は無明の一部であり、すべての煩悩に及んでいる。なぜなら、すべての煩悩は誤った働きをするからである。また、すべての煩悩は人の心を覆い隠し、盲人や暗闇のような状態にする。例えば、貪欲は真理を見えなくし、善い報いを見えなくする。この貪欲にとらわれる者はみな「盲人」「暗闇」と呼ばれる。怒りや愚かさも同じである。 さらに、すべての煩悩から行為が生じる。ところが経典には「無明から行為が生じる」と説かれている。したがって、すべての煩悩は無明と呼ばれると知るべきである。 また、「空」を観じない者は常に無明を抱えている。ただし、煩悩という汚れが行為の原因となる無明なのである。 そして「邪な明」という意味で無明と呼ぶのは、空を観じていない者は常に誤った認識を持っているからである。したがって、無明はすべての煩悩に及んでいると知るべきである。

問曰：無明云何生？答曰：若聞思邪因則無明生，如有陀羅驃、有有分者、有精神、諸法不念念滅無、有後身、音聲及神是常、草木等有心，欲成如是等邪執則無明生。或從邪因故無明生，謂親近惡友、聽聞邪法、邪念、邪行，是四邪因故無明生。又生餘煩惱因緣，皆是生無明因。又從無明因故無明生，如從麥生麥、從稻生稻，如是隨計眾生則無明生。又經中說：從邪念因緣則無明生。邪念即是無明別名，謂見有人先生人念，後明了故名為無明，是二先後相助相生，如從樹生果、從果生樹。

> 問い：無明はどうして生じるのか？ 答え：もし間違った原因を聞いたり考えたりすれば、無明が生じる。例えば、「陀羅驃（物質的実体）がある」「部分を持つもの（自我）がある」「精神がある」「諸法は刹那ごとに滅しない」「来世がある」「音声と神は常住である」「草木にも心がある」などと主張し、そのような誤った執着を成就させようとすれば、無明が生じる。また、間違った原因によって無明が生じることもある。すなわち、悪い友に親しみ、間違った教えを聞き、間違った思いを抱き、間違った行いをすることである。この四つの間違った原因によって無明が生じる。さらに、他の煩悩を生じさせる因縁も、すべて無明を生じさせる因となる。また、無明自身の因によって無明が生じることもある。例えば、麦から麦が生じ、稲から稲が生じるように、そのように衆生を執着して計り知れば、無明が生じる。また、経典にはこう説かれている。「間違った思いという因縁によって無明が生じる」と。間違った思いは、すなわち無明の別名である。つまり、人がまず「人」という思いを起こし、後にそれが明らかになることを見て、これを無明と名づけるのである。この二つは互いに先立ち、互いに助け合って生じる。例えば、木から果実が生じ、果実から木が生じるようなものである。

問曰：無明有何等過？答曰：一切衰惱皆由無明。所以者何？從無明生貪等煩惱，從煩惱起不善業，從業受身，受身因緣得種種衰惱。如經中說：謂無明所覆、愛結所繫，受諸有身。又《師子吼經》中說：諸取皆以無明為本。又偈說：所有諸惡處，若今世後世，皆無明為本，故從貪欲起；一切煩惱過，皆由無明有，以從無明生，一切煩惱故。凡夫以無明故，受五陰不淨無常苦空無我，何有智者受此諸苦？又正思惟故能捨五陰，如經中說：若知我心，是邪顛倒則不復生。故知以無明因緣故縛，明因緣故解。又世間眾生以無明力故，貪求少味不見多過，如蛾投火、如魚吞鉤。眾生亦爾，現貪少味不顧多過。又外道經典所生邪見，說無罪福等皆是無明。又諸惡道皆因不善，不善皆是無明。又邪見起業多墮地獄，邪見皆由無明故生。又佛為世尊一切智人三界大師，真淨行者及聖弟子等，諸外道輩不能別知，如真寶珠盲者棄之，此皆無明過也。又一切眾生所有衰惱敗壞等事皆由無明，一切利益成就增長皆由於明，若增長無明究竟必墮阿鼻地獄。如劫初人不知味是虛妄，而生貪著，故失色力壽命等事，當知皆由無明忘失諸利。又此無明但真智斷，貪等不爾。又貪心中無恚，恚心中無貪，無明在一切心中。及不修慧人無明常在心中。又諸煩惱中無明最強，如經中說：無明罪重亦難除解。又無明是十二因緣根本，若無無明則諸業不集不成。何以知之？諸阿羅漢無眾生相、無無明故諸業不能集成，業不集故識等諸分不能復生，故知無明是諸苦本。又現見貪著此不淨身，亦於無常中生常想，猶若空捲以誑小兒，亦如幻師能現前誑人令見土為金。又俗言，愚人現以罪加而可以言誑，世間亦爾，眼見不淨而為其所誑。又諸心法念念盡滅，取相故生，色滅盡已癡故取相，於聲等中亦復如是，是故難解。此皆無明之過。

> 問うて曰く、無明にどのような過ちがあるのか。答えて曰く、あらゆる衰えや苦しみは、すべて無明によるものである。なぜか。無明から貪りなどの煩悩が生じ、煩悩から不善の業が起こり、業から身を受ける。身を受ける因縁によって、さまざまな衰えや苦しみを得るのである。経典に説かれる通り、「無明に覆われ、愛の結び目に縛られて、さまざまな有の身を受ける」と。また『師子吼経』には、「すべての執着は無明を根本とする」と説かれている。また偈にもある。「すべての悪い場所、現在も未来も、すべて無明を根本とし、貪欲から起こる。すべての煩悩の過ちは、無明によって存在する。無明からすべての煩悩が生じるからである」。凡夫は無明のゆえに、五陰が清らかでなく、無常であり、苦であり、空であり、無我であることを受け入れない。智慧ある者で、誰がこれらの苦しみを受けるだろうか。また正しく思惟するゆえに、五陰を捨てることができる。経典に説く通り、「もし我が心が邪見の顛倒であると知れば、もはや生じることはない」。ゆえに無明の因縁によって束縛され、明の因縁によって解脱することが分かる。また世間の衆生は、無明の力のゆえに、わずかな味わいを貪り求め、多くの過ちを見ない。ちょうど蛾が火に飛び込むように、魚が釣り針を飲み込むように。衆生もまた同じで、目の前のわずかな味を貪り、多くの過ちを顧みない。また外道の経典に生じる邪見は、罪や福がないなどと説くが、これらはすべて無明である。また諸々の悪道はすべて不善に因り、不善はすべて無明である。また邪見によって業を起こし、地獄に堕ちることが多い。邪見はすべて無明によって生じるからである。また仏は世尊であり、一切智の人であり、三界の大いなる師である。真に清らかな行いをする者や聖なる弟子たちを、外道たちは識別することができない。ちょうど真実の宝珠を盲人が捨てるようなものである。これらはすべて無明の過ちである。またすべての衆生の衰え、苦しみ、敗れ、壊れる事柄はすべて無明によるものであり、すべての利益、成就、成長はすべて明によるものである。もし無明を増長させれば、ついには必ず阿鼻地獄に堕ちる。ちょうど劫の初めの人々が、味が虚妄であることを知らずに貪着を生じ、そのために色力や寿命などを失ったように。これらはすべて無明によって諸々の利益を忘れ失うことによるものと知るべきである。またこの無明は、真の智慧によってのみ断たれるものであり、貪りなどはそうではない。また貪りの心には瞋りはなく、瞋りの心には貪りはないが、無明はすべての心の中に存在する。また智慧を修めない人には、無明が常に心の中にある。また諸々の煩悩の中で、無明が最も強い。経典に説く通り、「無明は罪が重く、また断ち除き難い」と。また無明は十二因縁の根本である。もし無明がなければ、諸々の業は集まらず、成り立たない。どうしてこれを知るのか。諸々の阿羅漢には衆生の相がなく、無明がないゆえに、諸々の業は集まり成ることができない。業が集まらないゆえに、識などの諸々の部分は再び生じることができない。ゆえに無明が諸々の苦しみの根本であると知るべきである。また現に見えるところでは、この清らかでない身に貪着し、また無常の中に常という想いを生じる。あたかも空拳で子供を騙すようなもの。また幻師が目前で人を騙して、土を金と見せることができるようなもの。また俗に言うには、愚かな人は、現に罪が加えられていても、言葉で騙されることがある。世間もまた同じで、目の前に清らかでないものを見ながら、それに騙されるのである。また諸々の心法は、念念に尽き滅しても、相を取るゆえに生じる。色が滅し尽きた後も、愚かさのゆえに相を取る。声などにおいても、またこの通りである。ゆえに理解し難い。これらがすべて無明の過ちである。

問曰：多無明人有何等相？答曰：是人於畏處不畏、憙處不憙，憎惡善人、愛樂惡人，倒取人意常憙反戾堅執邪事，少於慚愧不顧嫌疑，不能悅彼亦自難悅，不能親附亦難親近，愚騃無識，好弊垢衣、樂處黑闇及不淨處，自大自貴憙輕蔑人，不以道理自顯功德，過不知過、利不識利，不好淨潔亦無威儀，拙於語言常憙恚恨，僻取他教而深貪著，學誦難得、既得易失，設有所得不能解義，設有所解則復邪僻。如是等相皆由無明，故知無明有無量過，是故應斷。

> 問います：無明（むみょう）の多い人には、どのような特徴があるのでしょうか。答え：そのような人は、恐れるべきところで恐れず、喜ぶべきところで喜ばない。善人を嫌い、悪人を好む。人の意図をねじ曲げて受け取り、常に逆らいたがり、間違ったことに固執する。恥じる心が少なく、疑われることを気にしない。人を喜ばせることもできず、自分も喜ぶことができない。人に近づくこともできず、近づかれることも難しい。愚かで分別がなく、汚れた衣服を好み、暗い場所や不潔な場所にいることを好む。自分を偉いと思い上がり、他人を軽蔑する。道理に従わずに自分の手柄を誇る。過ちを知らず、利益も理解できない。清潔を好まず、威厳もない。言葉が下手で、常に怒りを好む。他人の教えをゆがめて受け取り、深く執着する。学び覚えることは難しく、覚えてもすぐに忘れる。たとえ得るところがあっても、その意味を理解できない。たとえ理解するところがあっても、また邪な方向に偏る。これらの特徴はすべて無明によるものである。したがって、無明には数え切れないほどの過失があると知るべきであり、それゆえに断ち切るべきである。

問曰：當云何斷？答曰：善修真智則無明斷。

> 問うていわく、いかにして断ずべきか。答うていわく、真の智慧をよく修すれば、無明は断ぜらる。

問曰：知陰界等亦名真智，經中何故說無明藥者若因緣若因緣觀？答曰：諸外道輩多於因、物中謬，因中謬故說自在天等為世間，因物中謬故說有陀羅驃、有有分等。觀因緣法，此二則斷。

> 問う：五陰・十八界などを知ることもまた真の智慧という。それならば、経典の中でなぜ「無明の病を治すには、因縁そのものか、因縁を観察することによる」と説くのか。 答える：外道たちは、多くが「因」と「物（実体）」について誤りを犯す。「因」について誤るから、自在天（シヴァ神）などを世間の創造主だと言う。また「物」について誤るから、ドゥラヴィヤ（実体）や有分（部分を持つ者）などが存在すると言う。しかし因縁の法を観察すれば、この二つの誤りは断ち切られるのである。

問曰：因緣名無明藥，何故二種說耶？答曰：欲攝餘智故。若觀陰界入等亦破無明，但重無明名邪見，邪見以因緣斷，故二種說；貪恚亦如是。又世間多於瓶等名字中謬，如聞瓶名則心生疑，為色等是瓶、為離色更有瓶耶？如是為五陰是人、為離五陰更有人耶？若心決定則墮二邊，所謂斷、常。身即是神、異身異神亦如是。若人知瓶從眾緣生、因色香味觸成，如是色等諸陰為人，能如是知則能捨離從名生癡。是名字能覆諸法實義，如《天問經》說：名勝一切法，更無能過者，是名字一法諸法皆隨。又說：見世間集則滅無見，見世間滅則滅有見。又說：諸行相續故，說五陰生死。此皆無明過患，觀因緣則滅。又經中說：若人見因緣，是人即見法，若見法即見佛。如是若人能斷從名生癡，是人則實見佛，不隨他教。是故以正智故則無明盡，正知因緣法故能得正智。又略說八萬四千法藏中，所有智慧皆除無明，以無明是一切煩惱根本，亦助一切煩惱故。如是因緣，則無明斷。

> 問う：因縁を無明の薬と名付けるならば、なぜ二種に説くのか。答う：他の智慧をも摂めようとするからである。もし蘊・界・入を観察するならば、それもまた無明を破することができる。しかし、無明を特に重んじて邪見と名付け、邪見は因縁によって断たれる。ゆえに二種と説くのである。貪りや怒りもまた同じである。また、世間の人々は瓶などの名前に誤りが多い。例えば、瓶の名を聞けば心に疑いが生じ、色などが瓶であるのか、色を離れて別に瓶があるのかと考える。このように、五蘊が人であるのか、五蘊を離れて別に人があるのかと考えるのである。もし心が定まれば、断と常の二辺に堕ちる。身すなわち神であるとか、身と神が別であるとかも、また同じである。もし人が瓶が衆縁から生じ、色・香・味・触によって成ることを知るならば、このように色などの諸蘊が人であることを知るならば、能くこのように知るならば、名前から生じる愚かさを捨て離れることができる。この名前は諸法の真実の義を覆い隠すことができる。『天問経』に説くよう、名は一切の法に勝り、これを過ぎるものは更にない。この名前という一法に諸法はすべて随うのである。また説く、世間の集まりを見れば無見は滅し、世間の滅びを見れば有見は滅すと。また説く、諸行が相続するがゆえに、五陰の生死を説くと。これらはすべて無明の過患であり、因縁を観れば滅するのである。また経典に説く、もし人が因縁を見るならば、この人はすなわち法を見る。もし法を見るならば、すなわち仏を見る。このように、もし人が名前から生じる愚かさを断つことができるならば、この人は実に仏を見るのであり、他者の教えに従わないのである。ゆえに正智をもってすれば無明は尽きる。因縁の法を正しく知るからこそ、正智を得ることができるのである。また略して八万四千の法蔵の中に、すべての智慧は無明を除く。無明は一切の煩悩の根本であり、またすべての煩悩を助けるからである。このような因縁によって、すなわち無明は断たれるのである。

## 成實論卷第九

> 『成実論』巻第九