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title: "成實論 · 128 憍慢品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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## 成實論卷第十

> 『成実論』巻第十

訶梨跋摩造

> 訶梨跋摩造

姚秦三藏鳩摩羅什譯

> 姚秦三蔵法師鳩摩羅什訳

### 憍慢品第一百二十八

> 慢心の章 第百二十八

問曰：已說三煩惱是生死根本，為更有不？答曰：有，名為慢。

> 問う：すでに三つの煩悩が生死の根本であると説きましたが、他にもあるのでしょうか？ 答え：あります。それを「慢」といいます。

問曰：云何為慢？答曰：以邪心自高名慢。是慢多種，若於卑自高名慢，於等計等亦名為慢，以此中有取相我心過故。於等自高名為大慢，於勝自高是名慢慢，於五陰中取我相名為我慢。我慢二種，示相、不示相。示相是凡夫我慢，謂見色是我、見有色是我、見我中色、見色中我，乃至識亦如是。示是二十分，故名示相。不示相是學人我慢，如長老差摩伽說：不說色是我、不說受想行識是我，但五陰中有我慢、我欲、我使未斷未盡，是名我慢。若未得須陀洹等諸果功德，自謂為得，名增上慢。

> 問うて曰く、何をもって慢（まん）とするや。答えて曰く、邪（よこしま）な心をもって自らを高くすることを慢という。この慢には多くの種類がある。もし劣った者に対して自らを高くするのを慢といい、等しい者に対して等しいと計（かぞ）えなすのもまた慢という。なぜなら、そこには自己に執着する心の過ちがあるからである。等しい者に対して自らを高くするのを大慢といい、勝れた者に対して自らを高くするのを慢慢という。五陰の中に我（が）の相を取るのを我慢という。我慢には二種あり、相を示すものと相を示さないものである。相を示すものは凡夫の我慢であり、すなわち色を見て我とし、色あるを見て我とし、我の中に色ありと見、色の中に我ありと見る。乃至、識もまたかくのごとし。このように二十の部分を示すがゆえに、相を示すと名づける。相を示さないものは学人（がくにん）の我慢であり、長老の差摩伽（しゃまか）が説くところのごとし。色を我とは説かず、受・想・行・識を我とは説かないが、ただ五陰の中に我慢・我欲・我使（がし）が未だ断たれず尽きていない、これを我慢と名づける。もし未だ須陀洹（しゅだおん）等の諸果の功徳を得ていないのに、自ら得たりと思うを、増上慢（ぞうじょうまん）という。

問曰：若未得，何故生得心耶？答曰：於習禪中得少味故，能遮結使不行於心中，故生此慢。又聞思慧力，常近善師、樂遠離行，少知五陰相，故生須陀洹等果想，名增上慢。

> 問う：もし未だ得ていないのなら、どうして「得た」という心が生じるのか。 答える：坐禅の修行の中でわずかな味わいを得ることで、煩悩が心の中で働かなくなるのを抑えられるため、そこからこの慢心が生まれる。また、聞くこと・考えることの智慧の力によって、常に善き師に親しみ、遠離の行を好み、五陰の形相を少し知ることで、「須陀洹などの果を得た」という思いを生じる。これを増上慢という。

問曰：增上慢有何等咎？答曰：後當憂惱。如經中說：若比丘言我斷疑得道，即應現前說甚深因緣出世間法。若是比丘實不得道，聞是法時則生悔惱，故應勤斷此增上慢。又增上慢人，諸佛世尊有大慈悲，猶尚捨遠不為說法，是故應斷。又增上慢人住邪法故，無實功德，猶如賈客深入大海而貪偽珠。是人亦爾，入佛法海得少禪悅，謂為真道而生貪著。又增上慢人，後老死時不任受道，故當勤求真實智慧。又增上慢人，自失己利亦增益愚癡，以實未得想謂得故。是故不應自誑其身，當速棄捨。若於大勝人謂少不如，名不如慢。是人自高亦自下身，若人無德自高名為邪慢，又以惡法自高亦名邪慢。若於善人及所尊中不肯禮敬，名為傲慢。如是等名為憍慢相。

> 問う：增上慢にはどのような過ちがあるのか。答え：後になって憂い悩むことになる。例えば経典に説かれる通り、もし比丘が「私は疑いを断ち切り、道を得た」と言うならば、その場で深遠な因緣と出世間の法を説くべきである。もしその比丘が実際には道を得ていないならば、この法を聞いた時に悔いと悩みを生じる。ゆえにこの增上慢を努めて断ち切るべきである。また、增上慢の者は、諸仏世尊が大いなる慈悲を持っていても、なお遠く離れて法を説かれない。ゆえに断つべきである。また、增上慢の者は邪法に留まるがゆえに、真実の功徳がない。ちょうど商人が大海に深く入りながら偽りの宝を貪るようなものである。この者もまた同じで、仏法の海に入って少しの禅定の喜びを得ただけで、それを真の道と思い込んで貪り執着するのである。また、增上慢の者は、後に老い死ぬ時に道を受けることができない。ゆえに真実の智慧を努めて求めるべきである。また、增上慢の者は、自らの利益を失うだけでなく、愚かさを増す。実際には得ていないのに得たと思い込むからである。ゆえに自らを欺いてはならず、速やかに捨て去るべきである。もし大いなる勝れた人に対して「少し劣るだけだ」と思うことを、不如慢という。この者は自分を高く見ると同時に低く見るのである。もし徳がないのに自らを高く見ることを邪慢という。また、悪い法によって自らを高く見ることも邪慢という。もし善人や敬うべき人に対して礼拝や尊敬を拒むことを傲慢という。これらが驕慢の相である。

問曰：慢云何生？答曰：不知諸陰實相則憍慢生。如經中說：若人以無常色自念是上是中是下，是人正以不知如實相故，乃至識亦如是。若知陰相則無憍慢，又善修身念則無憍慢。如牛恃角則為暴慢，若去其角則不能也。身為不淨九孔流惡，何有智者恃此自高？以如是等念身因緣則無憍慢。又智者知一切眾生，若貧若富若貴若賤，皆以骨肉筋脈五臟糞穢合而成身，俱有生老病死憂悲苦惱，亦有貪恚等諸煩惱罪福等諸業，及地獄等諸惡道分，云何當起憍慢？又見內外心從因緣生，知念念滅，則無憍慢。又善修空心則無憍慢。所以者何？隨逐相故則憍慢生，若無相者何處起慢？又智慧者，若實有戒等功德則不生慢。所以者何？戒等功德皆為盡此諸煩惱故。若無功德，何有智者於無事中而起憍慢？又觀無常等相則滅憍慢，何有智者以無常苦不淨之物而為憍慢？

> 問う：慢（慢心）はどのように生じるのか。答え：諸々の陰（五蘊）の実相を知らなければ、驕り慢心が生じる。経典にこうある。「人が無常なる色を捉えて、これは上だ、これは中だ、これは下だと思うならば、その人はまさに如実の相を知らないがゆえにそう思うのだ。識に至るまでまた同じである。」もし陰の相を知れば、驕り慢心はない。また、身念（身体への気づき）をよく修めれば、驕り慢心はない。牛が角を恃んで暴れ慢るように、もしその角を除けば、暴れることもできない。身体は不浄であり、九つの孔から悪いものが漏れ出ている。智慧ある者がどうしてこれに恃んで自分を高く見ることがあろうか。このように身体への念を縁として、驕り慢心はない。 また、智者は一切の衆生を知る。貧しくても富んでいても、貴くても賤しくても、皆、骨・肉・筋・脈・五臓・糞穢が合わさって身体を成している。皆、生・老・病・死・憂い・悲しみ・苦しみ・悩みがあり、また貪欲・怒りなどの諸々の煩悩や、罪・福などの諸々の業、そして地獄などの諸悪道の分も有している。どうして驕り慢心を起こすことがあろうか。 また、内外の心が因縁から生じるのを見て、刹那ごとに滅することを知れば、驕り慢心はない。また、空の心をよく修めれば、驕り慢心はない。なぜなら、相に随い捉われるからこそ慢心が生じるのであり、もし相がなければ、どこに慢心を起こす場所があろうか。 また、智慧ある者は、もし実に戒などの功徳があっても、慢心を生じない。なぜなら、戒などの功徳は、すべてこれら諸々の煩悩を尽くすためのものだからである。もし功徳がなければ、智慧ある者がどうして何もない事柄のうちに驕り慢心を起こすことがあろうか。 また、無常などの相を観ずれば、驕り慢心は滅する。智慧ある者がどうして無常・苦・不浄なるものを以て驕り慢心を起こすことがあろうか。

問曰：憍慢有何等過？答曰：從慢有身，從身生一切苦。如經中佛說：若我弟子不能如實知慢相者，我與受記當生某處，以有餘慢不斷故。又一切煩惱皆隨取相，我是相中之大，故知從慢有身。又此憍慢即是癡分。所以者何？以眼見色，謂我能見。又此憍慢生不以道理。所以者何？一切世間皆無常苦無我，云何以此而生憍慢？是故於貪恚癡最無道理。又從慢起業亦利亦重，以貪著深故，從貪起業不能如是。又憍慢力故貪等熾盛，即此貪得種姓等慢則增長熾盛。又我慢因緣生卑賤家，亦於師子虎狼中生，從此因緣則墮地獄。憍慢有如是等無量過咎。

> 問い：慢（おごり・高ぶり）には、どのような過ちがあるのですか。 答え：慢があるから「我」という想いが生まれ、「我」という想いからあらゆる苦しみが生まれます。経典の中で仏がこう説かれています。「もし私の弟子が、慢の本質をあるがままに知ることができなければ、私は彼に『来世はこういう所に生まれるであろう』と記別（未来の予言）を与えるだろう。なぜなら、慢が残っていて断たれていないからである。」また、あらゆる煩悩はすべて「捉え（取相）」に従って起こります。「我」という想いは、その捉えの中でも最も大きなものです。それゆえ、慢から「我」という想いが生まれると知るべきです。 また、この慢は、まさに無知（癡）の一部です。なぜなら、目で色を見て「私が見た」と思い込むからです。さらに、この慢は道理に基づいて生じるものではありません。なぜなら、この世のすべては無常であり、苦であり、我がないものであるのに、どうしてこれによって慢を生じさせることができようか。それゆえ、貪り・怒り・無知（癡）の中で、最も道理に反しているのが慢なのです。 また、慢から引き起こされる業は、鋭く、そして重いものです。なぜなら、深く執着するからです。貪りから生じる業は、そのようにはなりません。また、慢の力によって貪りなどが激しく燃え盛ります。この貪りが、家柄などによって生じる慢を得ると、さらに増長し燃え盛るのです。 また、我慢（自分を高く見る心）の因縁によって、賤しい家に生まれたり、獅子や虎などの野生の獣の中に生まれたりします。この因縁から、さらに地獄に堕ちることもあります。 慢には、このように数えきれないほどの過ちがあるのです。

問曰：云何名多憍慢相？答曰：是人所執堅固、難可與語，無恭敬心、少於怖畏、喜自在行，自大難教、所有薄少自以為多、喜輕蔑人。此過難除，故有智者所不應行。此慢為破一切功德故生。

> 問う：どのような状態を「多憍慢相（おごり高ぶりの相）」と呼ぶのか。 答え：そのような人は、自分の考えを固く守り、話し合いが難しい。敬う心がなく、恐れることが少なく、思いのままに行動することを好み、自分を偉いと思い込み、教えを受け入れようとしない。持っているものがわずかでも、自分では多くを持っていると思い込み、人を軽く見ることを好む。 この過ちは取り除くのが難しいため、賢い人は行うべきではない。この慢心は、すべての善い行いの功徳を壊してしまう原因となるのである。