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title: "成實論 · 129 疑品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 疑品第一百二十九

> 疑品 第百二十九

論者言：疑名於實法中心不決定，謂有解脫耶、無解脫耶？有善不善耶、無耶？有三寶耶、無耶？是名為疑。

> 論者が言うには、「疑」とは、実在のものごとについて心が定まらず、「解脱はあるのか、ないのか。善や不善はあるのか、ないのか。三宝はあるのか、ないのか」と迷うことをいう。これを「疑」と名づける。

問曰：若於樹杌生疑，杌耶人耶？於土塊生疑，塊耶鴿耶？於蜂生疑，蜂耶閻浮果耶？於蛇生疑，蛇耶繩耶？於野馬生疑，光耶水耶？如是等疑，因眼識生。於聲生疑，孔雀聲耶、為人作耶？於香生疑，憂鉢香耶、為和香耶？於味生疑，為肉味耶、似肉味耶？於觸生疑，為生繒耶、為熟繒耶？意識則種種生疑，如疑是法有陀羅驃耶、但求那耶？有神耶、無神耶？如是等，是疑不耶？答曰：若杌人等中，疑則非煩惱，此不能為後身因緣，以漏盡人亦起此故。

> 問う：もし木の切り株について疑いを生じるならば、切り株か、それとも人か？土の塊について疑いを生じるならば、塊か、それとも鳩か？蜂について疑いを生じるならば、蜂か、それとも閻浮果か？蛇について疑いを生じるならば、蛇か、それとも縄か？野馬について疑いを生じるならば、光か、それとも水か？このような疑いは、眼識によって生じる。音声について疑いを生じるならば、孔雀の声か、それとも人の作ったものか？香りについて疑いを生じるならば、優鉢華の香りか、それとも調合された香りか？味について疑いを生じるならば、肉の味か、それとも肉に似た味か？触れについて疑いを生じるならば、生絹か、それとも熟絹か？意識は様々な疑いを生じる。例えば、この法には実体（陀羅驃）があるのか、ただ属性（求那）だけがあるのか？神があるのか、神がないのか？このようなものは、疑いではないのか？ 答える：もし切り株や人などの間で生じる疑いは、煩悩ではない。これは来世の因縁とはならない。なぜなら、煩悩を尽くした者（漏尽人）もこのような疑いを起こすからである。

問曰：是疑云何生？答曰：若見聞知二種法故疑生。所以者何？先見二種立物，一杌、二人，於後遙見與人等物則生疑，杌耶人耶？土等亦爾。二種聞者，若聞說有罪福後世，亦聞說無，是故生疑。二種知者，如天大雨而溝渠漫溢，若堰水時渠亦漫溢。如天欲雨蟻子運卵，若人發掘亦移卵去。如孔雀鳴，人亦能作，實事可見。如瓶不實，事亦可見。如旋火輪，實事不可見。如樹根地下水，非實事亦不可見。如第二頭、第三手，如是等二種見聞知法故生疑。又不審見故疑生，如遠等八因緣。又二信故疑生，如有人言有後世、有人言無，俱信二人是故疑生。又於此可疑事中乃至不見異相是故疑生，若見異相此疑則無。

> 問う：この疑いはどうして生じるのか。答える：見ること・聞くこと・知ることの二種類の方法によって疑いが生じる。なぜなら、まず二種類の立てられた物を見る——一つは切り株、一つは人。その後、遠くから人と同じような物を見ると疑いが生じる——「切り株だろうか、人だろうか」と。土なども同様である。二種類の聞くこととは、罪や福、来世があると聞くこともあれば、ないと聞くこともある。それゆえ疑いが生じる。二種類の知ることとは、例えば大雨が降って溝や水路が溢れ、水をせき止めるときも水路が溢れるようなもの。また、天が雨を降らせようとするとき蟻が卵を運ぶが、人が掘り返しても卵を移すこともある。例えば孔雀が鳴くことを、人も真似てできる。実際の事柄が見えることもある。例えば瓶が実在しないことも、事柄として見える。例えば火を回したときにできる輪は、実際の事柄としては見えない。例えば木の根の下の地下水のように、実際の事柄ではないものも見えない。例えば第二の頭、第三の手のようなもの。このように、二種類の見ること・聞くこと・知ることの法によって疑いが生じる。さらに、はっきりと見極めないことによって疑いが生じる。例えば遠くにあるなどの八つの因縁による。また、二つの信仰によって疑いが生じる。例えば「来世はある」と言う人もいれば、「来世はない」と言う人もいる。二人とも信じるから疑いが生じるのである。また、この疑うべき事柄について、異なる相が見えないから疑いが生じる。もし異なる相を見れば、この疑いは消えるのである。

問曰：云何名見異相？答曰：見聞知決定故則無有疑。於佛法中隨以身證法實相時，畢竟無疑。如菩薩坐道場時說精進，婆羅門得深法現前見知諸緣盡，疑網即斷滅。又若得有道理慧此疑則斷，如智者聞行因緣識，即決定知生死無始如是等。

> Q: なぜ「異なる相を見る」と言うのですか？ A: 見ること・聞くこと・知ることが確かであれば、疑いは生じません。仏法において、身をもって法の真理を実証する時、ついには疑いがなくなります。例えば、菩薩が道場に坐して精進を説く時、婆羅門が深い法を目の当たりにし、すべての縁が尽きるのを知れば、疑いの網はたちまち断ち切られます。また、道理にかなった智慧を得れば、この疑いは断たれます。例えば、賢者が行・因・縁・識について聞けば、生と死に始まりがないことを確かに知るのと同じです。

問曰：疑有何過？答曰：若多疑者，一切世間出世間事皆不能成。所以者何？疑人不能起發事業，若發則劣故不能成。又經中說：疑是心之栽󰋲，猶如荒田多栽󰋲。故異草尚不得生，況稻穀等。心亦如是，為疑根所壞，於邪事中尚不能定，況能正定。又佛說：疑名闇聚，闇聚三種，過去闇聚、未來闇聚、現在闇聚。此闇聚是諸我見生處。又此人設得定心則是邪定，若離佛法則無能為說正定者。又多眾生懷疑至死，如說阿咤伽等五通仙人亦抱疑而死。又此疑者，若為施等福德，或無果報或少得報。所以者何？是諸福業皆從心起，是人心常為疑所濁，故無善福。又經中說：疑心布施，於邊地受報。所以者何？是多疑者不能一心隨時手與、不能種種生恭敬心，故於邊地受少果報，如波耶綏等小王。

> 問うていう：疑いにはどのような過失があるのか。答え：もし疑いが多いならば、一切の世間・出世間の事柄はすべて成し遂げられない。なぜなら、疑う人は事業を起こすことができず、たとえ起こしても劣っているので成就しないからである。また経典にはこう説かれている。「疑いは心の中の棘である。荒れ果てた田に多くの棘が生えるようなもので、雑草さえも生えず、ましてや稲や穀物はなおさらである」と。心もまた同じで、疑いの根に壊され、誤った事柄についてさえも定めることができず、ましてや正しく定めることなどできない。また仏は説かれた。「疑いは闇の集まりと名づけられる。この闇の集まりには三種ある。過去の闇の集まり、未来の闇の集まり、現在の闇の集まりである。この闇の集まりこそが、あらゆる我見が生じる場所である」と。またこの人はたとえ心を定め得たとしても、それは邪定である。仏法を離れては、正定を説くことができる者はいないからである。また多くの衆生は、疑いを抱いたまま死んでいく。例えば、阿咤伽などの五通仙人もまた疑いを抱いたまま死んだと説かれている。またこの疑いは、もし布施などの福徳を行っても、果報がなかったり、あるいはわずかな報いしか得られなかったりする。なぜなら、これらの福業はすべて心から生じるが、その心が常に疑いによって濁らされているので、善い福がないからである。また経典にはこう説かれている。「疑いの心で布施すれば、辺地で報いを受ける」と。なぜなら、疑いの多い人は一心に時機に適って手ずから施すことができず、様々な恭敬の心を生じることができないので、辺地でわずかな果報を受けるのである。例えば、波耶綏のような小王たちのように。

問曰：無此疑也。所以者何？疑名心數法，諸心數法念念生滅，若是非疑、若非亦非疑，一心不得有是有非，故知無也。答曰：我不說念念中有疑，不決定心相續名疑。爾時心不決了是杌是人，是相續心以不信故濁，亦以邪見故不信，疑時或有或無。是不信二種，一從疑生、二從邪見生，從疑生則輕，從邪見生則重。信亦二種，一從正見生、二從聞生，從正見生信則堅固，從聞生者不能如是。

> 問い：この疑いについては、そうしたことはありません。なぜなら、疑いとは心の中の働き（心数法）の一つであり、心の働きは一瞬一瞬に生まれては消えていくからです。もしそれが疑いであるならば、それは本当の疑いではなく、もし疑いでないならば、それもまた疑いではありません。一つの心の中に、同時に「これである」と「これでない」という両方が存在することはできないので、疑いなど存在しないと知るべきです。 答え：私は、一瞬一瞬の心の中に疑いがあるとは言っていません。心が定まらず、その状態が続くことを「疑い」と呼ぶのです。その時、心はこれが「切り株」なのか「人」なのかを判断できず、迷った状態が続きます。この迷いの心は、信じないために濁っており、また誤った見解のために信じないのです。疑っている時にも、「ある」と見えたり「ない」と見えたりします。この「信じない」ことには二種類あります。一つは疑いから生じるもの、もう一つは誤った見解から生じるものです。疑いから生じる信じなさは軽く、誤った見解から生じる信じなさは重いものです。 また、「信じる」ことにも二種類あります。一つは正しい見解から生じるもの、もう一つは聞くことから生じるものです。正しい見解から生じる信は堅固であり、聞くことから生じる信はそのようにはなりません。