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title: "成實論 · 135 不善根品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 不善根品第一百三十五

> 不善根品 第135

三不善根，謂貪、恚、癡。

> 三つの不善の根源とは、貪り、怒り、愚かさのことです。

問曰：憍慢等亦應是不善根，何故但說三耶？答曰：一切煩惱皆是三種煩惱分，慢等是癡分，故不別說。又三種煩惱多在眾生心中，慢等不爾。又一切未離欲者乃至蚊蟻，是三煩惱皆在心中，憍慢等不如是。又貪是瞋不善根，違失所貪則隨生瞋。癡為二本。所以者何？若人無癡，則不貪瞋。又經中說：十不善業有三種，從貪瞋癡生。不說從慢等生。又有三種受，更無第四。是三受中三煩惱使，若別有慢等，於何受中使？是事實不可說，當知此三是諸煩惱本。

> 問う：慢（思い上がり）なども不善根（不善の根本）となるべきではないか。なぜ三つだけを挙げるのか。 答える：あらゆる煩悩は、すべてこの三つの煩悩の一部分に過ぎない。慢などは愚かさ（無明・癡）の一部であるから、特に別に挙げないのである。 また、この三つの煩悩は、多くの衆生の心に広く存在するが、慢などはそうではない。 また、欲を離れていないすべての者、たとえ蚊や蟻に至るまで、この三つの煩悩は皆その心にある。しかし慢などは必ずしもそうではない。 また、貪り（むさぼり）は、怒り（瞋）の不善根である。貪りの対象を失ったり、それに背かれたりすると、そこから怒りが生じるからである。そして愚かさ（癡）は、この両者の根本である。なぜなら、もし愚かさがなければ、貪りも怒りも生じないからである。 また経典にはこう説かれている。「十不善業には三つの種類がある。それは貪り・怒り・愚かさから生じる」と。慢などから生じるとは説かれていない。 また、感受（受）には三種類あり、第四のものはない。この三つの感受の中で、三つの煩悩が作用する。もし慢などが別に存在するならば、どの感受の中で作用するというのか。このことは実際には説明できない。 したがって、この三つこそが、あらゆる煩悩の根本であると知るべきである。

問曰：何故樂受中貪使？對曰：現見此中生故。如經中說：人得樂觸生喜、苦觸則不喜，是人於諸受中集滅味過出不如實知故。不苦不樂受中無明使使。所以者何？是人於無色界繫諸陰相續不如實知故，則於是中生寂滅想、若解脫想、若不苦不樂想、若我想，是故說不苦不樂中癡生。

> 問う：なぜ楽受の中に貪欲の煩悩が働くのか。 答え：現に見られるように、楽受の中から貪欲が生じるからである。経典に説くように、人は楽しい触れ合いを得れば喜びを生じ、苦しい触れ合いを得れば喜ばない。この人は諸々の受について、集まり・消滅・味わい・過失・出離を如実に知らないがゆえに、楽受に執着するのである。 苦受と楽受ではない不苦不楽受の中には、無明の煩悩が働く。なぜか。この人は無色界に繫がれた諸々の蘊が相続することを如実に知らないがゆえに、その中に寂滅の想い、あるいは解脱の想い、あるいは不苦不楽の想い、あるいは我という想いを生じるからである。それゆえに、不苦不楽受の中に無明が生じると説くのである。

問曰：是諸使為法中使、眾生中使耶？答曰：因法生眾生心，隨眾生心則受諸受，隨諸受貪等煩惱使，故知因法生使而使眾生。何以知之？若眾生未斷此使則此使使，若斷則不復使。若法中使，法常有故，使應常使，常不應斷。又非眾生數亦應有使，若然者，若以人使故壁等有使，以人識故，壁等亦應有識，是事實無。然則無阿羅漢，餘人使故有使。

> 問う：これらの煩悩は、法の中にある煩悩なのでしょうか、それとも衆生の中にある煩悩なのでしょうか。 答え：法によって衆生の心が生じ、衆生の心に従って様々な感覚を受け、その感覚に従って貪りなどの煩悩が働きます。だから、法によって煩悩が生じ、それが衆生を悩ますのだと分かります。どうしてそう言えるのでしょうか。もし衆生がこの煩悩を断ち切っていなければ、この煩悩は働きますが、断ち切れば、もはや働きません。もし法の中に煩悩があるのなら、法は常に存在するので、煩悩も常に働き続け、決して断ち切られることはないはずです。また、衆生でないものにも煩悩があるはずですが、もしそうなら、人が煩悩を持つから壁などにも煩悩があると言うなら、人が意識を持つから壁などにも意識があると言わなければなりませんが、実際にはそうではありません。それなら、阿羅漢だけが煩悩がなく、他の人は煩悩があるから悩まされるのです。

問曰：是使未斷則使，斷則不使。答曰：二種使使，一緣使、二相應使。是使若斷若不斷，即是緣及相應，何故說斷則不使？若爾，更應說第三使相，以不可說故當知無也。又使能緣異地而不使，故知但眾生中使，非法中也。

> 問い：煩悩がまだ断たれていないならば、それは衆生を悩ませるものとなる。断たれたならば、もはや悩ませることはない。 答え：煩悩には二種類の働きがある。第一に「縁（対象）」に基づいて悩ませるもの、第二に「相応（心と共に生じる）」によって悩ませるものである。この煩悩が断たれようと断たれまいと、その働きは対象と心に付きまとう。それなのに、なぜ「断たれたら悩ませない」と言うのか。もしそうならば、第三の煩悩の相を説くべきだが、それは言葉で表せないから、存在しないと知るべきである。 また、煩悩は別の境地に縁りて働くこともあるが、それでも悩ませることはない。したがって、煩悩はただ衆生の中にのみ働くものであり、法（現象そのもの）の中には存在しないと知るべきである。

問曰：二種使使，一緣使、二相應使。是眾生諸使非緣非相應，云何當使？答曰：是事先答，諸使因法生而使眾生，如阿毘曇身中說欲界眾生幾使使等。若不使眾生，云何有如是問？

> 問うて曰く、「二種の使が衆生を使う。一是縁使、二是相応使である。この衆生の諸使は、縁にも相応にもあらず、どうして使うことがあろうか。」答えて曰く、「この事は先に答えた通りである。諸使は法によって生じ、衆生を使うのである。阿毘曇の身の中に説くが如く、『欲界の衆生は幾つの使に使わるるや』等と。もし衆生を使うことがなければ、どうしてこのような問いがあろうか。」

問曰：若使使眾生，經中說樂受中貪使，此則相違。答曰：是不盡語，應言樂受中生貪而使眾生。

> 問い：もし衆生を悩ませる煩悩があるならば、経典では「楽受の中に貪りが働き、それが衆生を悩ませる」と説かれている。これは矛盾しているのではないか。 答え：それは完全な言い方ではない。正しくは「楽受の中に貪りが生じ、それが衆生を悩ませる」と説くべきである。

問曰：是貪亦因色等生，此中何故但說因樂受生？答曰：以憶想分別歡喜等故貪生，非但從色等生。

> 問う：この貪りもまた色などから生じるのに、なぜここではただ楽の受から生じるとだけ説くのか。 答える：憶想・分別・歓喜などによって貪りが生じるのであって、単に色などから生じるのではないからである。

問曰：因苦受亦生貪，如說樂者不求、苦者多求。何故但說從樂受生？答曰：不以苦受故貪生，是人為苦所惱，故於樂受中生貪。

> 問う：苦しい感覚からも貪りは生じるのではないか。例えば、楽しい者は求めることがなく、苦しい者は多く求めるといわれる。なぜ楽しい感覚からのみ貪りが生じると説くのか。 答える：苦しい感覚そのものによって貪りが生じるのではない。その人は苦しみに悩まされているがゆえに、楽しい感覚に対して貪りを起こすのである。

問曰：不苦不樂受中亦貪使使，何故但說樂受中耶？答曰：是人以不苦不樂受為樂故貪生，故說樂受中貪使。以此三受中三煩惱使，故但說三。

> 問う：不苦不楽の受の中にもまた貪りの煩悩が働いているのに、なぜ楽の受についてだけ説くのですか。 答え：その人は不苦不楽の受を楽と感じて貪りが生じるから、楽の受における貪りの煩悩を説くのです。この三つの受の中に三つの煩悩が働いているから、ただ三つと説くのです。