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  1. 成実論 (成實論)
  2. 第十一
  3. 集諦聚
  4. 煩惱論
  5. 140 明因品
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成実論 (成實論)


明因品第一百四十

明因品 第百四十

問曰:煩惱為身因緣,是事應明。所以者何?有諸外道不信此事,或言是身無因無緣,猶如草木自然而生。或言萬物是大自在等諸天所生。或言萬物從世性生。或言微塵和合故生。說如是等,是故應明。答曰:從業有身是事先成,是業從煩惱生,故以煩惱為身因緣。

問い:煩悩が身体の因縁であるという、この事は明らかにされるべきです。なぜでしょうか。ある外道たちはこの事を信じず、あるいは「この身体には因も縁もなく、草木が自然に生じるようなものである」と言い、あるいは「万物は大自在天などの諸天によって生じたものである」と言い、あるいは「万物は世性から生じる」と言い、あるいは「微塵が和合するゆえに生じる」と言います。このような諸説を説く者たちがいますので、それゆえ明らかにされるべきです。答え:業から身体が生じるということは、これがまず成立しています。その業は煩悩から生じます。それゆえ、煩悩を身体の因縁とするのです。

問曰:云何知因煩惱有業?答曰:隨假名心名為無明,假名心者能集諸業,故知煩惱因緣有業。又阿羅漢諸業不集不成,故知諸業由煩惱成。如經中佛說:若人得明、捨離無明,是人能起福業、罪業、無動業不?不也。世尊!又無無漏業,故知但隨假名者能起諸業,無漏心不隨假名故不起業。又學人無行,如經說:學人還而不行、滅而不作。作相是行,行名為業。又無漏心非行相故,無無漏業。是故一切諸受身業,皆因煩惱生。又斷煩惱者不復受生,故知有身皆因煩惱。

問:どうして煩悩が原因となって業があると知ることができるのでしょうか。答:仮名の心に従うものを無明と呼びます。仮名の心は諸々の業を集めることができます。それゆえ、煩悩を因縁として業があると知られます。また、阿羅漢には諸々の業が集まらず成り立たないので、諸々の業は煩悩によって成り立つと知られます。経の中で仏が説かれた通りです。もし人が明を得て、無明を捨て離れたなら、その人は福業・罪業・無動業を起こすことができるでしょうか。いいえ、世尊。また、無漏の業はないので、ただ仮名に従うものだけが諸々の業を起こすことができると知られます。無漏の心は仮名に従わないので、業を起こしません。また、学人は行がないと、経で説かれています。学人は還って行わず、滅して作さないのです。作るという相が行であり、行は業と呼ばれます。また、無漏の心は行の相ではないので、無漏の業はありません。それゆえ、すべての受身の業は、みな煩悩によって生じます。また、煩悩を断った者は再び受生しないので、身を受けることにはみな煩悩が原因であると知られます。

問曰:一切眾生皆以無煩惱生,後時乃起,如人生時無齒其後乃生。答曰:不然。有煩惱者隨所有相,謂啼哭等生時現有,故知皆與煩惱共生。又現見眾生多生廁等中,不生槃石等中,當知貪著香味等故於是中生,故知由煩惱生。

問い:すべての衆生は煩悩なしに生まれ、後になってから煩悩が起こるのでしょうか。たとえば人が生まれるときには歯がなく、その後で生えてくるようなものでしょうか。答え:そうではありません。煩悩を持つ者には、それに伴う相があり、泣き叫ぶことなどが生まれたときすでに現れています。ですから、すべての者は煩悩とともに生まれることがわかります。また、現に多くの衆生が便所などの中に生まれ、盤石などの上には生まれないのが見られます。貪りや香りなどに執着するがゆえにそのような所に生まれるのだと知られます。ですから、煩悩によって生まれるのだとわかります。

問曰:地獄等中不應得生。所以者何?無人貪樂地獄等故。答曰:眾生以癡力故於顛倒心生,將命終時遙見地獄謂是華池,以貪著故則於中生。如經中說:若人迮閙中死,欲得寬處,於鳥中生。若渴死者,生為水虫。若凍死者,生熱地獄中。熱渴死者,生寒氷地獄中。若貪著婬欲,生鳥雀中。若貪飲食,則生為死屍中虫。又因所貪著故造諸惡,諸惡因緣強受果報。又貪著身故諸業能生果報。所以者何?貪著己身愚癡力故,憍慢等諸煩惱生,從此能集成業,以業力故生諸道中。

問:地獄などに生まれるはずはないのではないでしょうか。なぜなら、地獄などを貪り楽しむ人はいないからです。答:衆生は愚かさの力によって、逆さまな心を起こします。命が終わろうとする時、はるか遠くに地獄を見て、それを花の池だと思い、貪り執着するために、そこに生まれるのです。経典に説かれているとおりです。もし人が狭苦しい所で死に、広い場所を求めるなら、鳥の中に生まれます。もし渇き死にするなら、水の虫に生まれます。もし凍え死にするなら、熱い地獄の中に生まれます。熱さと渇きで死ぬなら、寒い氷の地獄の中に生まれます。もし淫欲を貪り執着するなら、鳥や雀の中に生まれます。もし飲食を貪るなら、死屍の中の虫に生まれます。また、貪り執着するがゆえに、もろもろの悪を行い、もろもろの悪の因縁によって、強くその果報を受けます。また、身体を貪り執着するがゆえに、もろもろの業が果報を生むことができます。なぜなら、自分の身体を貪り執着する愚かさの力によって、憍慢などのもろもろの煩悩が生じ、そこから業を積み集めることができ、業の力によってもろもろの道の中に生まれるのです。

問曰:若以煩惱因緣有身,斷煩惱者五陰不應復得相續。答曰:是身本由煩惱故生,煩惱雖盡,以勢力故身猶不斷,如以杖轉輪,雖暫廢杖輪猶不止。

問い:もし煩悩を因縁として身体があるのなら、煩悩を断った者は五陰が再び相続することはないはずです。

答え:この身体はもともと煩悩によって生じたものであり、煩悩が尽きても、その勢力によって身体はなお断たれません。ちょうど杖で輪を回すとき、しばらく杖を止めても輪はなお止まらないようなものです。

問曰:若以先業煩惱勢故有身,斷煩惱者以先業煩惱勢故亦應受身。答曰:要以取相故識能住。是人先業勢盡,今善修無相解脫門,故不受後身。又如熱石上諸種不生,如是以智慧火熱諸識處,則識種不生、後相續斷。又諸行因緣不具足,故不復相續。如經中佛說:識為種子、業行為田、貪愛為水、無明覆蔽,以此因緣則受後身。阿羅漢是緣不具,故無後身。當知煩惱因緣受生。又無煩惱者,有知苦等心,今受生者不見有此等心,故知無煩惱者不能受生。

問い:もし前世の業と煩悩の力によって身体があるのなら、煩悩を断った人も前世の業と煩悩の力によって身体を受けるはずではないでしょうか。

答え:識がとどまることができるのは、取相があるからです。この人は前世の業の力が尽きており、今は無相解脱門をよく修めているので、後の身体を受けません。また、熱い石の上には種が生じないように、智慧の火で諸々の識の処を熱すれば、識の種は生じず、後の相続は断たれます。また、諸行の因縁が具わらないので、もはや相続しません。経の中で仏が説かれた通りです。識は種子であり、業行は田であり、貪愛は水であり、無明が覆い隠しており、この因縁によって後の身体を受けます。阿羅漢はこの縁が具わらないので、後の身体がありません。煩悩の因縁によって生を受けることを知るべきです。また、煩悩のない人には苦を知るなどの心がありますが、今、生を受ける人にはこれらの心が見られません。ですから、煩悩のない人は生を受けることができないと知られます。

問曰:須陀洹等有苦等心,而生時亦不見有。答曰:諸阿羅漢智慧力強,一切煩惱不能勝,故將命終時能障受生。須陀洹等智力不爾,故不應為喻。又汝說如齒後漸漸生,煩惱亦爾,是事不然。所以者何?阿羅漢無漏智慧燒煩惱故不應復生,如焦種子不能復生。又現見今世從煩惱生身,如從貪欲身色變異,瞋恚亦爾,故知後世五陰亦從煩惱生。

問:須陀洹などにも苦などの心があり、それが生じる時にもまた見られないのでしょうか。答:もろもろの阿羅漢は智慧の力が強く、一切の煩悩に打ち負かされることがありません。そのため命終の時には、受生を妨げることができます。須陀洹などは智慧の力がそのようではありませんから、これを喩えとすべきではありません。また、あなたは歯が後から徐々に生じるように煩悩もまたそのようであると説きましたが、そのことはそうではありません。なぜでしょうか。阿羅漢は無漏の智慧が煩悩を焼き尽くしているので、再び生じるはずがありません。焦げた種子が再び生じないのと同じです。また、現にこの世で煩悩から身体が生じるのを見ることができます。貪欲から身体や色が変異するように、瞋恚もまたそのとおりです。ですから、後世の五陰もまた煩悩から生じると知るのです。

問曰:亦見從飲食等因緣有五陰生,而不名飲食為受身因緣。答曰:飲食假心能生色等,煩惱不爾,更無所假而生色等,故知煩惱為身因緣。又現見鳥雀等多欲、毒蛇等多瞋、猪等多癡,當知此諸眾生必當修集,此婬欲等諸煩惱故於是中生。

問い:飲食などの因縁によって五陰が生じるのを見ることもありますが、それでも飲食を受身の因縁とは名づけません。答え:飲食は心を借りて色などを生じますが、煩悩はそうではなく、他に借りるものもなく色などを生じます。それゆえ煩悩が身の因縁であると知られます。また、鳥や雀などは欲が多く、毒蛇などは瞋りが多く、猪などは愚かさが多いことが現に見られます。このような諸々の衆生は必ず婬欲などの諸々の煩悩を修め集めることによって、それらの中に生まれるのであると知るべきです。

問曰:生處法爾,非先修集煩惱因緣。答曰:若爾,則婬欲等無因,是事不可,當知從先修集因緣故有。又貪恚等煩惱熾盛,則為殺等諸罪,以此罪故現受鞭杖繫縛等苦。煩惱若薄則得持戒修善等利,因此戒善現得名聞利養等樂。如現世衰利皆因煩惱,故知來世亦當如是。

問い:生まれるところは法爾であって、あらかじめ煩悩の因縁を修め集めることによるのではない。

答え:もしそうならば、淫欲などには因がないことになりますが、それはありえないことです。ですから、あらかじめ修め集めた因縁によってあるのだと知るべきです。また、貪りや怒りなどの煩悩が盛んになれば、殺すなどのさまざまな罪を犯し、その罪によって、現に鞭打たれ、縛られるなどの苦しみを受けます。煩悩が薄ければ、戒を守り善を修めるなどの利益を得て、その戒と善によって、現に名声や利養などの楽しみを得ます。このように、現世の衰えと利益がみな煩悩によるものであるならば、来世もまた同じようであると知られます。

問曰:若因煩惱有身,則斷生死往來。所以者何?以煩惱盛故墮惡道中,既受罪身,煩惱更增永無脫因,如是不應得生善處。若受福身,為福轉增,則亦不應復生惡處,如是則無生死往來。答曰:是人雖墮惡處,或得善心;雖生善處,或起惡心,是故生死往來不斷。又隨貪等煩惱減少,隨生好處;隨貪等多,隨生惡處,如猪犬等。隨減煩惱生善處者,如以煩惱薄故能行布施、持戒等福生六欲天,斷婬欲故得勝禪樂,斷色染故得勝定樂,一切結盡則得無比泥洹樂,故知此身因煩惱有。又現見眾生樂弊國土及諸惡人弊止住處,皆由貪著,故知生死中眾生所住亦由貪著,如蛾貪明色故為燈所焚。是貪著不從智生。所以者何?此蛾不知火是苦觸故投其中。如是眾生墜後身苦,皆以無明因緣貪愛故生,如魚吞鉤麞鹿逐聲,皆以貪著故致死。又如人以貪著故,遠到異方而不能返,當知皆以煩惱故生。又如樹根不拔其樹猶生,如是貪根不拔苦樹常在。如佛說:樹根不拔雖斷猶生,貪使不拔數數受苦。又是身不淨無常苦空無我,自非無明,何有智者貪受此苦?猶如盲人可以垢衣誑為寶飾。如是為無明所盲,則能受多過患不淨五陰。又以我心故受身,雖苦而不能捨,若無我心則能遠離,如舍利弗說:清淨持戒得道者死時歡喜,猶破毒器。故知煩惱因緣有身。又有以無智故貪著此身,如以畫篋盛滿不淨,隨未開時則可愛樂,開則臭穢。又如毒蛇滿闇室中,燈未照時即生樂著,見則捨離。眾生亦爾,墮有無明則樂世間,若生明時心則厭離。如是貪愛為身根本。所以者何?以貪愛故求。求有二種,欲求、有求。求現在諸欲是名欲求,更求後身是名有求。故知貪愛是身之本。又若著五陰則生身見,謂言是我名我語取,因此取故生餘三取,取因緣有,有因緣生,當知煩惱是身根本。又是身皆苦,於此苦身生樂想倒,以此樂倒則生倒愛,以此倒愛能受後身,故知貪愛因緣有身。又此身以食因緣故住,著揣食故不過欲界。如業品中說,貪香味故廁等中生,以著觸故胞胎中生,著溫涼觸故卵生濕生,俱不過欲界。因三種觸生三種受,故說觸因緣受,意思食亦如是。發後身願我當作此,無見知識為貪愛本,能致後身,如是四食皆由貪愛。一切眾生皆以食存,故知愛因緣生。又四生,卵生、胎生、濕生、化生,以愛婬欲故卵生、胎生,貪香味等故受濕生,隨其所愛故起殷重業則受化生,故知四生差別皆由貪愛。又四種受身,有能自殺他不能殺,如是等四皆以貪愛差別故有,故知貪愛因緣有身。又四識處隨色識住依色緣色以喜為潤,受想行亦如是,而不說識是識處,以識時無煩惱故,故知煩惱因緣有身。又十二因緣皆由無明。所以者何?隨假名心名為無明,因此無明起福行、罪行及不動行。欲安樂眾生是名福行,苦惱眾生是名罪行,攝心慈悲等名為不動行。隨此諸業識住後身,依識生名色、六入、觸、受,此四是先世業煩惱果報,復因此受生愛、取、有,是業煩惱能生後世生老死等。如是十二有分相續皆以無明為本,故知煩惱因緣有身。又生死無始。何以知之?經中說:從業因緣有眼等根,因愛有業、因無明有愛、無明因邪憶念、邪憶念還因眼緣色從癡故生。故知生死輪轉無始。若說因自在天等,則非無始,是事不可,故知煩惱因緣有身。又滅盡煩惱則得解脫。又眾生身種種雜類,若因自在等則不應雜,以煩惱業有多種故身亦不一。又二十二根因六根生六識,是中有男女根,是諸法相續不斷故名為命。是命以何為根?所謂業也。是業因於煩惱,煩惱依受故以五受為根,如是展轉生死相續,依信等根能斷相續。如是二十二根往來生死,故知皆以煩惱有身。又求解脫者,生戒、定、慧、解脫、解脫知見品。此何所用?皆為滅諸煩惱。智者見其利故依此諸品,故知煩惱因緣有身。又諸煩惱次第滅盡,斷三結得須陀洹果,貪欲等薄得斯陀含果,欲界結盡得阿那含果,諸禪定中亦如是,次第一切都盡得阿羅漢果。如是隨諸煩惱次第滅故身亦漸滅,若因自在天等則不應漸滅,故知煩惱因緣有身。又貪等煩惱諸善人皆求斷滅,必當見貪等因緣今世後世得衰惱事是故求斷,若不爾則不求斷;若人說身因自在等,是人亦求斷貪欲等,故知貪欲等因緣有身。又智者知以智慧而得解脫,可知以無智故縛,故知煩惱因緣有身。又佛處處經中說,貪喜盡故得正解脫。所以者何?眼色等不名為縛,貪喜為縛,破貪喜故心得正解脫,正解脫心能入泥洹,故知煩惱因緣有身。又以空無相無作而得解脫,故知煩惱因緣有身。所以者何?觀諸法空即無相可得,以滅相故不願後身,是故以空名解脫門;相違則縛。以此等故由煩惱有身,是事已明。集諦聚竟。

問い:もし煩悩によって身体があるのなら、生死の往来は断たれるはずです。なぜでしょうか。煩悩が盛んなために悪道に堕ち、罪の身体を受けると、煩悩はさらに増して永遠に脱れる原因がなくなります。このようにしては善い所に生まれることはできないはずです。もし福の身体を受ければ、福がますます増して、再び悪い所に生まれることもないはずです。そうなると生死の往来はなくなるはずです。

答え:この人は悪い所に堕ちても、あるいは善い心を起こすことがあります。善い所に生まれても、あるいは悪い心を起こすことがあります。ですから生死の往来は絶えません。また、貪りなどの煩悩が減れば、それにしたがって良い所に生まれます。貪りなどが多ければ、それにしたがって悪い所に生まれます。豚や犬などのようにです。煩悩が減るのにしたがって善い所に生まれるとは、煩悩が薄いために布施や持戒などの福を行い、六欲天に生まれることです。婬欲を断ったために勝れた禅の楽しみを得、色への染まりを断ったために勝れた定の楽しみを得、一切の結縛が尽きれば、比べるもののない泥洹の楽しみを得ます。ですから、この身体は煩悩によってあることがわかります。

また、現に衆生が悪い国土やもろもろの悪人のいる悪い住処を楽しむのは、みな貪り執着によるものです。ですから生死の中で衆生が住む所もまた貪り執着によることがわかります。蛾が明るい色を貪るために灯に焼かれるようなものです。この貪り執着は智慧から生じたものではありません。なぜでしょうか。この蛾は火が苦しい触れ合いであることを知らないで、その中に飛び込むのです。このように衆生が後の身体の苦しみに堕ちるのは、みな無明を因縁として貪愛によって生じます。魚が鉤を呑み、鹿が声を追うように、みな貪り執着のために死に至るのです。また、人が貪り執着のために遠く異国まで行って帰れなくなるように、みな煩悩によって生まれることがわかります。また、木の根を抜かなければその木はなお生えるように、貪りの根を抜かなければ苦しみの木は常にあります。仏が説かれたように、木の根を抜かずに切ってもなお生え、貪りの使を抜かなければ度々苦しみを受けます。

また、この身体は不浄であり、無常であり、苦であり、空であり、無我です。無明でなければ、どうして智慧のある者がこの苦しみを貪り受けるでしょうか。ちょうど目の見えない人が汚れた衣を宝の飾りと偽って惑わされるようなものです。このように無明に目を覆われているために、多くの過ちと不浄な五陰を受けるのです。また、我という心によって身体を受けるため、苦しくても捨てられません。もし我という心がなければ遠く離れることができます。舎利弗が説いたように、清らかに戒を保ち道を得た者は死ぬときに歓喜します。毒の器を壊すようなものです。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。

また、無智のためにこの身体を貪り執着します。絵を描いた箱に不浄を満たしたようなもので、まだ開かないうちは愛楽できますが、開ければ臭く穢れています。また、毒蛇が暗い部屋に満ちているようなもので、灯が照らさないうちは楽しみ執着を生じますが、見れば捨て離れます。衆生も同じです。無明の中に堕ちていれば世間を楽しみますが、明が生じれば心は厭い離れます。このように貪愛は身体の根本です。なぜでしょうか。貪愛によって求めるからです。求には二種あります。欲求と有求です。現在のもろもろの欲望を求めることを欲求といい、さらに後の身体を求めることを有求といいます。ですから貪愛が身体の根本であることがわかります。

また、五陰に執着すれば身見を生じ、これを我、我語取と名づけます。この取のために他の三つの取を生じ、取を因縁として有があり、有を因縁として生があります。ですから煩悩が身体の根本であることがわかります。また、この身体はみな苦です。この苦の身体に楽という想いの顛倒を生じ、この楽の顛倒によって顛倒した愛を生じ、この顛倒した愛によって後の身体を受けます。ですから貪愛を因縁として身体があることがわかります。

また、この身体は食を因縁として存続します。揣食に執着するために欲界を超えません。業品で説かれたように、香りや味を貪るために便所などに生まれ、触れ合いに執着するために胎や胞に生まれ、温かさや涼しさの触れ合いに執着するために卵生や湿生となり、いずれも欲界を超えません。三種の触によって三種の受が生じるので、触を因縁として受があると説きます。意思食も同じです。後の身体の願いを起こし、我はこれになろうとします。無見や無知が貪愛の根本となり、後の身体をもたらします。このように四食はみな貪愛によります。一切の衆生はみな食によって存続します。ですから愛を因縁として生があることがわかります。

また、四生とは卵生・胎生・湿生・化生です。婬欲を愛するために卵生・胎生となり、香りや味などを貪るために湿生を受け、その愛するものにしたがって重い業を起こせば化生を受けます。ですから四生の区別はみな貪愛によることがわかります。また、四種の身体を受けます。自ら殺すことはできるが他に殺されないもの、などこの四種はみな貪愛の区別によってあるのです。ですから貪愛を因縁として身体があることがわかります。

また、四識処は色にしたがって識が住み、色に依り色を縁とし、喜びによって潤います。受・想・行も同じです。しかし識を識処とは説きません。識の時には煩悩がないからです。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。

また、十二因縁はみな無明によります。なぜでしょうか。仮名の心にしたがって無明と名づけます。この無明によって福行・罪行・不動行を起こします。衆生を安楽にすることを福行といい、衆生を苦悩させることを罪行といい、心を摂めて慈悲などを行うことを不動行といいます。これらのもろもろの業にしたがって識が後の身体に住み、識に依って名色・六入・触・受が生じます。この四つは前世の業と煩悩の果報です。さらにこの受によって愛・取・有が生じ、この業と煩悩が後世の生・老・死などを生みます。このように十二の有分の相続はみな無明を根本とします。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。

また、生死には始まりがありません。どうして知られるでしょうか。経の中で説かれています。業を因縁として眼などの根があり、愛によって業があり、無明によって愛があり、無明は邪憶念により、邪憶念はまた眼が色を縁とすることにより、痴から生じます。ですから生死の輪転に始まりがないことがわかります。もし自在天などが原因だと説けば、始まりがないことにはなりません。このことは成り立ちません。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。

また、煩悩を滅し尽くせば解脱が得られます。また、衆生の身体は種々雑多です。もし自在天などが原因ならば雑多であるはずがありません。煩悩と業に多くの種類があるために身体も一つではないのです。また、二十二根は六根から六識を生じます。この中に男女の根があります。これらの法が相続して絶えないので命と名づけます。この命は何を根とするでしょうか。いわゆる業です。この業は煩悩に因り、煩悩は受に依るので五受を根とします。このように展転して生死が相続し、信などの根に依って相続を断つことができます。このように二十二根が生死を往来します。ですからみな煩悩によって身体があることがわかります。

また、解脱を求める者は戒・定・慧・解脱・解脱知見品を生じます。これは何のためでしょうか。みなもろもろの煩悩を滅するためです。智慧のある者はその利益を見るためにこれらの品に依ります。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。

また、もろもろの煩悩が次第に滅し尽くされ、三結を断てば須陀洹果を得、貪欲などが薄くなれば斯陀含果を得、欲界の結が尽きれば阿那含果を得、もろもろの禅定の中でも同じように、次第に一切が尽きれば阿羅漢果を得ます。このようにもろもろの煩悩が次第に滅するのにしたがって身体もまた漸く滅します。もし自在天などが原因ならば漸く滅するはずがありません。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。

また、貪りなどの煩悩を、もろもろの善人はみな断滅を求めます。必ず貪りなどが因縁で現世・後世に衰え悩む事があると見るので断を求めるのです。もしそうでなければ断を求めないでしょう。もし人が身体は自在天などが原因だと説いても、その人はまた貪欲などの断を求めます。ですから貪欲などを因縁として身体があることがわかります。

また、智慧のある者は智慧によって解脱を得ると知ります。無智によって縛られることがわかります。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。また、仏は到る所の経の中で説かれています。貪りの喜びが尽きたために正しい解脱を得ます。なぜでしょうか。眼や色などは縛とは名づけません。貪りの喜びが縛です。貪りの喜びを破るために心は正しい解脱を得、正しく解脱した心は泥洹に入ることができます。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。

また、空・無相・無作によって解脱を得ます。ですから煩悩を因縁として身体があることがわかります。なぜでしょうか。もろもろの法を空と観じれば、すなわち無相が得られます。滅の相のために後の身体を願いません。ですから空を解脱門と名づけます。これに相違すれば縛です。これらのことから、煩悩によって身体があるということはすでに明らかです。集諦の集まりはこれで終わります。


139 斷過品
滅諦聚

CBETA コード: T1646

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