觀一異門第六
一異を観ずる門 第六
問:上已破通別、隱顯、體標、諸相竟,何故復有此門?答:有二種義。一者外人不受上二門破,明我自有相可相一義、自有相可相異義,云何言無相可相耶?今破彼一異義,故說此門。二者論主前二門破之雖窮,今蹤有之,重開一異以破外也。問:何故重開一異?答:一異之破是諸破中顯,欲令觀心易悟,故就一異破。二者一異是十四難本、六十二見根,今欲窮其根本就一異門破。一異門破者,通問上二門標體兩相與所相為一為異?故名一異門破。然此一異非但破相可相、真俗惑解人法萬義,但寄相可相一事以例諸法也。問:此門為從能破立名、所破立名?答:具二義。外直立相可相,論主開一異二門責之,則從能破立名;望下救義立於一異,今破彼一異,從所破立名。若一異是所破,還用對、就二假,如上明之。問:何故不題觀相可相一異門,直稱觀一異?答:一為存略、二欲遍觀一切法一異不可得,故不別題相可相一異也。又上有相無相門從別立名,今從通受稱,互舉也。
問:先ほど、通別、隠顕、体標、諸相についての論破を終えたばかりですが、なぜまたこの一異の門があるのですか。
答:二つの理由があります。第一に、相手方が先の二つの門による論破を受け入れず、「自分には相と可相が同一であるという理も、相と可相が異なるという理もある。どうして相と可相がないなどと言えるのか」と主張するからです。そこで、その同一・異なるという理を論破するために、この門を説くのです。第二に、論主が先の二つの門で論破し尽くしたとしても、相手方がなおも執着を残す場合、改めて同一・異なるという観点を開示し、相手方を論破するためです。
問:なぜ改めて同一・異なるという観点を開示するのですか。
答:同一・異なるという観点による論破は、諸々の論破の中でも特に明らかであり、観想する心が容易に悟りを得られるようにするため、同一・異なるという観点から論破するのです。また、同一・異なるという問題は十四難の根本であり、六十二見の根源です。今、その根本を究めようとするため、同一・異なるという門から論破するのです。
「一異門破」とは、先の二つの門で示された体標の両相と、それによって表される所相との関係が、同一なのか異なるのかを広く問うことを指します。それゆえに一異門破と呼ばれます。ただし、この同一・異なるという論破は、単に相と可相だけに限らず、真諦と俗諦、迷いと悟り、人と法など、あらゆる事柄に通じます。ただ、相と可相という一つの事柄を借りて、すべての法を例示しているに過ぎません。
問:この門の名称は、能破(論破する側)に基づいて立てられたものですか、それとも所破(論破される対象)に基づいて立てられたものですか。
答:両方の意味を含みます。相手方がまっすぐに相と可相を立てるのに対し、論主が同一・異なるという二つの門を開いて問い詰めるなら、それは能破に基づく名称です。一方、相手方が後の弁明で同一・異なるという立場を立てるのを、今ここで論破するのであれば、それは所破に基づく名称です。もし同一・異なることが所破であるなら、それに対しては、前に対仮・就仮の二つの仮説を用いたのと同様に論破します。
問:なぜ「観相可相一異門」とは題せず、単に「観一異」と称するのですか。
答:第一に、言葉を簡略にするためです。第二に、一切の法が同一でも異なるでもないことを広く観じるため、わざわざ相と可相に限定した題を付けないのです。また、先には「相無相門」という別の名称から立てましたが、ここでは通じる名称を用い、互いに挙げて示しているのです。
品亦三:初長行發起。
品もまた三つに分かれる。まずは長行による発起。
偈為二:上半牒相可相一異、求之無蹤。下半結破、明一異無故相可相。
偈は二つに分かれます。前半は「相」と「可相」が異なるかどうかを問い、その実体を探しても見つからないことを示します。後半はその結論を述べ、「相」と「可相」が一でも異でもないゆえに、それらは存在しないと明らかにします。
長行為四:一釋偈本、二救、三破救、四總結。釋偈本為二:初正釋、次例破一切法。初又二:前釋上半、次釋下半,文處易知。
長い説明は四つの部分に分かれます:一に偈の根本を解釈し、二に救済を説き、三に救済の誤りを破り、四に全体をまとめます。偈の根本の解釈はさらに二つに分かれます:初めに正しく解釈し、次にすべての法を例として破ります。最初の部分もまた二つに分かれます:前半を解釈し、次に後半を解釈しますが、その内容は容易に理解できるものです。
「問曰」下,第二。又開三別:初總立義呵論主、第二別立義釋成己宗、三結成義宗呵論主。初二句,前總立、總呵。「相可相常」,成此總立也。「何故不成」,總呵也。「汝說相可相」下,別牒論主一異。「今當別說」,許答一異。「凡物」下,第二章別立義釋成己宗。又二:前別立三章;「如識相」下,釋三章門。初章舉識受二法證相可相一,此二種是心法也。只分別是識相、只識能分別,故相可相一也。「如佛說」下,次舉二事證相可相異。初舉涅槃相可相異,以愛為能相、涅槃是所相,則舉果也。「如信者」下,釋次信者相可相異,此舉因。以三事為相,信為可相。「如正見」下,第三舉二事釋第三章門。道具八事,正見為道小分,此舉別法也。生住滅是有為家小分,故名小分是能相、多分是所相,此舉總法。故此六事有於三雙:初心法一雙、次因果、後總別。「是故」下,第三總結義宗以呵論主。「答曰」下,第三破救,為二:前別破三事、次總結破。別破三事,即三。破相可相一,又三:第一明相可相一,不應云因相知可相,此則是相相,如自觸指。「復次」下,第二明相可相一,不應分別是相可相。然法體既不可分別,亦無能分別智。第三明相因可相是果,理不應一。「汝說相異可相」,第二次破異。又三:一破、二救、三破救。初又二:第一破其所引二事、第二作無窮難。初破二事即二,破初事中又開二別:初得異墮非相破、次得相墮不異破。初得異墮非相破者,若愛與涅槃異者,而愛非涅槃相,故名得異墮非相破。又此是謬引佛經破,源佛正說滅愛為涅槃體相,今乃謂所滅之愛為涅槃相,故名謬引佛經破也。「若說愛是涅槃相」下,第二得相墮無異破。若言滅愛是涅槃體相者,此得體相義。而滅愛即是涅槃,不得言異,故名得相墮無異破。「又汝說信者有三相」,破其第二事也。然水之與火理不相關,可稱為異。此三相由信而有,是因緣相成之法,云何言異?「若無信即無三事」者,釋無異義。由信故有三,故三不得異信。又由信有三,則信為能相、三為可相,則相可相無定,汝云何言三定是能相、信為可相?「又相可相異者」,第二縱異作無窮破。可相異相而可相謂相者,相異可相相復謂相。又同《百論》,若以相可相成,何故一而不二?「問曰」下,第二救。上有三破,今但救第三。救意云:物用燈照,如可相須相;燈能自照,故相不須相,則無無窮過也。「答曰」下,第三破救,為二:初指前無燈可引破。「又自違前說」下,第二縱有燈,違異宗破。汝上言相可相異,亦應有能照所照異,則墮二燈。今遂言燈自照,只是一照;相自能相,只是一相,即違異義宗。又汝墮亦一亦異。燈為能照、瓶是所照,則相可相異;燈能自照,則墮相可相一。「又汝說可相」下,破其第三。少分是相、餘為可相,此義不定,或墮一中或墮異中。若正見與道一,則墮一中;若正見與道異,則墮異中。三相亦然。若如毘曇及毘婆闍婆提義,相與體異,則墮異中;若即法沙門、成實等即墮一中。一異既除,此義亦破。
「如是種種因緣」下,第四總結破。
「是故相可相俱空」下,大段第三總結一切法空。